はてなキーワード: 検索とは
具体例を挙げろと言われると多すぎて困るんだけど、とりあえずシングルマザー支援とか職場の女性差別とかをいろんな言語で検索するとかが生活に直結してて分かりやすいかね
そこまで書いたんなら、京都市の条例も調べろよ。といっても君に調べる能がなさそうだから、私がわざわざ調べてやったぞ。京都市の公式Webより、京都市建築基準条例第3条【道路の角にある敷地内の建築制限】の解釈についてPDFファイルのリンクを以下に示してやるよ。
https://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/cmsfiles/contents/0000282/282178/shitsumontokaitou.pdf
すみ切り - 京都市
https://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/cmsfiles/contents/0000282/282178/sumikiri.pdf
さらに丁寧なことに、上記「すみ切り」のPDFファイルから「すみ切りの目的」という文章を引用してやるよ。
※ すみ切りの目的
すみ切りは、道路の通行の安全を図る趣旨で設けられたものであり、通行上支障のある工作物の類の築造や建築物の突出が禁止される。通行は道路部分に限られるため、すみ切り部分の通行は考慮する必要はないが、反対道路の歩行者又は車両の存在を確認するため、見通しを妨げることのないようにする必要がある。
「工作物の類」とは、令138条に規定する工作物より広い概念であり、工作物以外にも見通しを妨げる物件若しくは施設又は樹木等が考えられる。
上記の文章から、いけず石は工作物・物件・施設・樹木のいずれにも該当していないし見通しを妨げる物でもないから問題ないだろ。一方で君の認識はどうか?
隅切り部分に塀ではなく石を置くことが違法かどうか?具体的には各都市の条例にもよるだろうが、法律の意図を考えればどう考えてもそこには石を置くべきではない。
「具体的には各都市の条例にもよる」って書いておきながら、ろくに調べることもせずに「石を置くべきではない」と決めつけるなんてあまりにも独善的だろ。ブクマカの文章をわざわざ引用してさらし上げをするくらいなら、もっと調べろよ。ちなみに、君がリンクを張ったすみ切りについてのまとめには京都府建築基準条例のリンクが張ってあるけど、京都市域において適用されるのは京都市建築基準条例だから関係ないぞ。このことから、君がリンクを張っただけでリンク先の文章を読み込んでいないことは明らかだね。どうせ「建築基準法 すみ切り」で検索して上位に出たページをろくに調べずにリンクを張っただけだろ? 専門外のことを調べようと努力したことは認めるが、もっと精進したまえ。
と言う性質がある。
取次も新規出店支援をちゃんとやっていて、こう言う当たり前の戦略をとっているんだけど、書店というのは個性豊かで、文化の拠点で、生き残り戦略は作者を招いてイベントを開いて、と言うキラキラな人たちには受けが悪い。
久しぶりに見たくなってmissav検索してもうたやん
https://anond.hatelabo.jp/search?word=%22%E5%A4%A7%E4%BD%93%E7%9A%84%22&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2
なんとなくモバイル版はてブの設定見てたんだけどさ、外部サービス連携設定のとこで「Twitter」が「Tiwtter」になってるという地味なような派手なような誤字を見つけたので記念に皆様にご報告したい
はてブや増田で検索してみたがまだ誰も気付いてなかったっぽい、やったぜ
現在のところ「煮詰まる」という言葉は、「議論や交渉がまとまって結論が出る」という用法が正しいとされ、「議論が進まなくなって行き詰まる」という用法は誤用であるとされている。「煮詰まる」という言葉がどのように用いられてきたのかに興味を持ったので、その変遷を辿っていこうと思う。ソースはだいたい国会図書館デジタルコレクションである。
注意として、ここでは「煮詰まる」と「煮詰める」を区別して、「煮詰まる」の用例のみを追っていくこととする。現在においても「煮詰める」のほうには「行き詰まる」という用法はなさそうだからである。
調べてまず気付くのは武者小路実篤が「煮詰まる」を多用していたことである。そして同じく白樺派の有島武郎や長与善郎、その影響を受けたという岸田劉生・木村荘八なども「煮詰まる」を用いている。まるで実篤から伝染したようである。それらは概ね「無駄な修飾を排して凝縮されている」あるいは「態度が一つに決まっていく」というような用法であり、いずれもポジティブな意味で使っているところが共通している。いくつかの例を挙げる。
心が二元的である間は、即ち或る機縁によって煮つまって一元的にならない間は、どこまでも二元なり多元なりの生活を押し通して行くがいいと思う。
牛のよだれのようにだらだらした書きぶりがいかんのは問題にもならぬ事であるが、さればと云って何でも只無暗に簡潔に端折って書きさえすればいいと云う事を一つおぼえて、まるで電報の文句のような言葉さえつかえば煮つまったいい文章だ、と思っている人の文章は又不自然な、とらわれた感じのするものである。
もちろん白樺派以外の用例も同時期にあった。意味的にはさまざまだが、ネガティブな用法も多かったようだ。
この説明には余程可笑しな点がある、で、僕は云った。
もとは『The Scarlet Empire』というタイトルのアメリカの小説である。原文は「It looks as if religion may correctly be said to have gone to seed, in this country.」となっており、「gone to seed」は「盛りを過ぎて衰える」という意味なので、つまりそういった意味で「煮詰まる」が使われていると考えられる。「加熱しすぎて水分が飛んでしまった」ようなイメージだろうか。
私が余りに余計なことを喋舌り、私の心の中で長い間煮つまっていたことを必要もないのに述べ立てたことを、而もそれに就いては私は書いたものから読むように話すことが出来たのだ
こちらも翻訳書。英文は「I had unnecessarily described what had long been simmering in my heart」。「心の中でくすぶり続けていた」とか「ずっと感情が渦巻いていた」といったイメージか。
真夏の暑い日に遠く法華宗のお題目が聞こえてくる…という場面で、この「煮詰まった声」は「重苦しく絞り出している」ような印象を受ける。ものが煮詰まったあとのドロドロとしたイメージだろうか。
「居た堪らない」というので、世界が煮られて、そこにいられなくなるような感じだろうか。ぎゅっと狭窄するような感覚もあるかもしれない。
議論が悪い方向に盛り上がってヒートアップしているという描写。結論が出そうにないという点では現在の「誤用」のほうに近いか。
かるが故に自己の生活を安泰ならせんが為には儼然として己れが階級の城壁を固守しなくてはならない。科挙制度がそれだ。かかる試験制度を採用することは一に権力者に反抗する意志を学問の為に煮つまらせ、又一には士大夫階級思想擁護の有為なる人材を作ることになる。
この式場隆三郎も白樺派との交流があったらしいが、「作品を見ない」ということは、ここでの用法は「行き詰まる」に近いのではないか。
勿論コチコチ官僚型で煮つまって、倒さにふっても水っ気もないような人ではなく、時代に対する感受性は強く、好んで人の長所を認識する感服癖さえある。
昭和10年 ギュスターヴ・フローベール『ジョルジュ・サンドへの書簡』
では左様なら。もう遅いのです。頭がまるで煮詰まりそうです。
翻訳書。英文は「Adieu, it is late, I have an aching head.」なので、普通に頭痛がすることを言っているのか、それとも「悩んで行き詰まっている」的な意味なのかはわからない。
戦前は武者小路実篤を中心に、小説・詩歌・戯曲などの文学的文脈で使われることが多かった「煮詰まる」だが、戦後になると現在のような「議論や交渉が煮詰まる=結論が出る」といった用法が登場し、やがて支配的になっていったようだ。
それに関してわかりやすいのは「国会会議録検索」で、戦前の「帝国議会会議録検索」では「煮詰まる」はほとんどヒットしないが、国会会議録では1950年代あたりから見られるようになる。さらに用例を確認していくと1960年代から爆発的に増えていったようだ。労使交渉の文脈が多いように思われるので、そのあたりをきっかけに流行りはじめたのかもしれない。
となると次に気になるのは「議論が煮詰まる」=「行き詰まる」という用法がいつごろ確立されたのかということである。どうやって調べればよいか。たとえば「煮詰まってしまった」みたいな形だとネガティブな文脈で使われていそうだ。ということで検索してみよう。
しかし日本側は表面上は「朝鮮総連を相手にせず」とその抗議を重視せず、裏では字句は修正せずとも運用面に幅をもたせるという妥協の動きに期待を寄せていた。それが、日赤が相手にせざるをえない北朝鮮赤十字から真向に攻撃を受けたのだから、問題は煮詰ってしまった。
やはり人間は災害にあってみないとなかなかわからないもので、そういったことで安堵感を持っている。しかしジワジワと危機に瀕してきているわけで、そのときの判断をあやまると、残念ながら煮詰まってしまう。
ハイ・スクールからジュニア・カレッジヘと進んだアリス達は2年間のカレッジ・ライフで煮詰まってしまい、カリフォルニアに向かったのである。
ああいう自由さが背景にあってのこの音楽じゃなくて、すごい煮詰まっちゃってて、つらいだろうなというところで出て来る音なんですね。
「でも、仕事ばっかりしていると煮詰まっちゃう」「煮詰まっちゃうってのは、息詰まる、退屈する、スランプに陥るって意味なんです。」
昭和60年 毛利子来・岡島治夫・末永蒼生『「体」発、宇宙へ』
「結論が出る」用法と比べれば圧倒的に少ない。とはいえ1970年代くらいからは、日常語として「行き詰まる」的な用法もわりと広まっていそうな感じはする。というか「結論が出る」用法は議論や交渉の文脈でしか使えず、それ以外のときは「行き詰まる」用法になることが多かった、という感じではないか。
ちなみに、この「行き詰まる」用法が誤用として問題視されるようになったのは2000年ごろらしい。実際、Google Booksで「煮詰まる 誤用」などと検索すると2000年以降の書籍しか引っかからない。
といったところか。
「煮詰まる」のコアイメージは「熱されることで水分がなくなっていき固形分だけが残る」というようなものであろう。
それをポジティブに捉えると「余分なものが削ぎ落とされて本質がはっきりする」といった意味合いになり、ネガティブに捉えると「瑞々しいものが失われて停滞する」といった意味合いになる。たとえば「議論」にポジティブなイメージを適用すると「論点が整理されて結論がはっきりする」になり、「思考」にネガティブなイメージを適用すると「新しいアイディアが生まれなくなり行き詰まる」になるわけだ。
もともとの料理としては「美味しくするために煮詰める」ことも「熱しすぎて煮詰まってしまう」こともあるわけで、どちらのイメージで使うのも自然な感覚である。当初から「煮詰まる」は多義的な比喩表現だったのだから、「これが唯一正しい用法なのだ」などとはあまり気にしなくていいのではないだろうか。
ロング丈だがノースリ まあ家で着るだけだし良い
着てみていろいろ感慨深い
自分は近年15キロダイエットで落としてるのだけど、これ買ったころにはまだサイズアップして服を買ってないんだな
そこそこ太ってたはずだが自覚は無かったのかもしれない
普段使いはできない・たまの家着にと思って実家に置いてったんだと思うが、今着てみて全然アリだ
好みが変わったのか体型もダイエットで変わったのか
そんでデザイン この花柄に既視感あるなと思って検索したら、リバティのコラボ商品だった
2016年というと8年前か
リバティ、後に好きになりあれこれと小物を集めることになるのだが、この当時はまるで興味はなかった
単に夏物ワンピとして買ってる
当時もこのワンピの赤をベースにカラフルで賑やかな花々の柄はいい感じだとは思ったが、なるほどリバティだったか
一度ハマった後の今だと、ああ確かにと思う
>|| javascript: (() => {let r = location.href;r = r.replace(/(https:\/\/www.amazon.co.jp\/).+?(dp\/..........).+?$/,'$1$2');navigator.clipboard.writeText(r);})() ||<
検索駆使して解いてね
?に入る数字は何
1、1、1、8、2、1、1、2、2、3、3、2、?、4、2、9、5、3、5、4、5、5、7、……
?に入る数字は何
5、1、4、1、4、7、1、6、?、4、1、1
のとき
で表される食べ物は?
この程度でエンジニア名乗るな?やだよーんw
俺みたいな底辺でお前ら誇り高きエンジニアの積み重ねたものをぶっ壊してやる。お前の会社も、プロダクトも、SNSも、検索結果も、底辺ITワナビの💩まみれにしてやる。モラルのかけらもないユーザーで埋め尽くしてやる。ポリコレとかツイフェミみたいな話通じないクソカスで埋め尽くしてやる。
草
うちも派遣でプログラマー的な人をお願いすることあるけど、本当に使い物にならない人が来ることがままある。
自分達でやればできるんだけど手が足りないからなるべく簡単な部分だけ抽象して丁寧に説明してこれでできそうですかと事前に聞いてできると言うからお願いしたのに全然できなくて酷い目にあったことがある。
夜中にふとシコりたくなったときに「そういえばオナホは裂けて捨てているんだったな」と思い出してドラッグストアやコンビニに言ってもTENGAしか売ってない。
TENGA、なぜあんなものがこんなに高い知名度を持っているのかが理解できない。
台所スポンジを空の2Lペットボトルに挟み込んだような小学生の自作オナホールレベルのクオリティ。
使い心地もVINNYやカタクリXと大差がなく、何よりも使い捨てというのが良くない。
オナホールの最大の楽しみは使う度に変化することだ。
最初の1回は感動的に気持ちよかったものが段々と退屈になることもあれば、何度も使いこんだある日突然に吸い付きが昨日までと全く変わる瞬間もある。
その変化もまたオナホールの楽しみだ。
使った後の洗う時間も俺は大切にしている。
賢者タイムのどこか陰鬱とした気分の中、自分のチンコや玉袋だけをシャワーで流していると明日へ向かう活力まで排水溝へ吸い込まれていくように錯覚しないか?
だがオナホを洗うという動作が加わるとそれが大いに紛れるのだ。
オナホを作ってくれた人や目の前のオナホ、このようなジョークグッズがいつの間にか人間社会に生まれ落ちたことへの感謝を胸に優しく石鹸で汚れを落としてやる。
精液というものは下手に残れば強烈な臭いを発するものだし、何よりそこで繁殖した雑菌が次に挿入した時チンコに何をしでかすか分かったものじゃない。
ひっくり返してしっかりとヒダヒダの隙間に入った汁を取り除いてやり、優しくタオルで水気を切ったのを確認してから、もう一度ひっくり返して食器乾燥機にでも置いてやる。
大事なのはひっくり返したままで放置しないこと。挿入する方をしっかり乾燥できるから衛生的ではあるのだが、オナホが裂けやすくなる。しっかり水気を取ったら本来の向きに戻してやるのが肝要だ。
そのイメージを逆手に取るかのように社会に滑り込んでいったTENGAの商業的展開能力は素晴らしい。
だがTENGA自体のクオリティは、オナホの中では下の下に属する。
どこの馬の骨とも知れんエロ漫画とコラボしたよく分からんオナホの方がよっぽど気持ちがいい。
アニメキャラクターの無許可パロディがパッケージに書かれた裏社会のシノギではないかと思わせるような粗製乱造オナホでさえTENGAに劣るものはほとんどない。
だが街にはTENGAばかりが溢れている。
秋葉原にあるような本格的アダルトグッズショップを除けば、古本屋やドン・キホーテの18禁コーナーの暖簾の奥にほんのわずかにまともなオナホールがあるだけ。
日本で消費されるオナホールの9割はネットショップでの購入だろう。
だが、草木も眠る丑三つ時にふらりと燃え上がった性欲をぶつけるのに次の次の日の出を待つのでは遅すぎる。
性教育にもいいだろうな。
手で乱暴に擦っているのかやたらと黒ずんだ陰茎をぶら下げているもの、右や左に大きく曲がったもの、TENGAしか知らない身体で風俗に行き本物の女体に溺れ人生を持ち崩すもの。
若いうちからちゃんとしたオナホールを使ってオナニーをする習慣をつけていれば防げた悲しみがこの世界には多すぎる
「じゃあお前のおすすめオナホールはなんなんだ」というコメントがいくつかついていたので蛇足ながら答えさせてもらう。
「ドーナツ型クッションの穴にオナホールを差し込んで使うと、小型のオナホでも半尻型のオナホールのように使えて捗るぞ」だ。
具体的にどのクッションがいいのかは、アマゾンやグーグルで「穴あきクッション オナホール」とでも入れて検索すれば分かるだろう。
テーブルなんかに固定して腰を打ち付けられるようになるだけでなく、ドーナツクッションの穴がオナホの締め付けを増やしてくれるというメリットもあるので、オナホ体験が大きく変わる。
普段はそのままクッションとして使えば痔の予防にもなるし、持っていて損はないだろう。
欠点があるとすれば、オナホールを入れて使う目的で購入されていないであろうドーナツクッションを見た時にさえオナホの影がちらつくことぐらいかな。
職場で使われていたりすると「なぜこの人は職場にオナホ用クッションを持ってきているんだろう?」なんて考えてしまうことさえあるが、まあ口にさえ出さなければ何の問題もなかろう。
謝らせて欲しい。俺は人に特定のオナホールを薦めようという気にはならない。
いろんな会社のオナホールを試して自分にあうのを探して欲しい。
何故こんなことを言うかと言えば、俺の体には一本のチンコしか生えていないからだ。
チンコが一本以上生えている人間の割合には詳しくないのだが、世の中の男性の大部分は一本しか生えていないなはずだ。
俺が自分の体に生えたたった一本のチンコとの相性を持って、「このオナホこそ至高なり!」と語って見せた所で、それが自分以外の男性に生えたたった一本のチンコとも相性がいいのかという不安が勝るのだ。
ただ、個人的な体験から言わせてもらえば、オナホというものは何度か使ってチンコに馴染んでから(いわゆる覚醒してから)が本番だと考えている。
つまり、何度も使うことを想定しないタイプのオナホはよほどの特殊性(たとえば処女膜を再現してるみたいなもの)がない限りは、洗って繰り返し使うことを前提にしたオナホに劣っているというのが俺の考えだ。
あえてオススメをいうなら、「繰り返し使えるオナホを使おう」となるのだろうか。
実用性の話ではなく単に俺の個人的なオナホ体験談か聞きたくて「今までで一番感動したオナホールはなにか」が聞かれているのだとすれば、「初めて使ったVINNY」がその答えだ。
(今更になるが、VINNYとはビニール製の自作オナホールだ。作り方は「VINNY オナホール」でググッて欲しい)
手淫しか知らなかった俺にとって、それが初めてのオナホだった。
当時はまだオナホもそれほど世の中の主流ではなく、わざわざそんなものを買うという行為に対する抵抗が強かったが、それでもなおオナホに対する興味は日に日に増していった。
自分の家でコッソリ作ればいいだけのVINNYならば購入履歴が残るわけでもないから恥ずかしくもないと思って、俺はVINNYを作ったわけだ。
挿入直後のゾクゾクと来る未知の体験は今でも忘れられない。
そもそもVINNY自体がビニール製のジョリジョリボディと強い圧迫力を持つハード系なわけだからして、初めてのオナホールにするには刺激が強すぎたのではと今は思う。
まさに電気が走ったよ。
数万円した電動オナホールに手を出したこともあったが、値段の割にはどうってことはなかったよ。
結局、オナホールの感想は個体差だけでなく使う人間のコンディションや経験値にも左右されるってことだ。
つまりだ。初めてのオナホールであれば、きっとそれがTENGAであっても使用者に強烈なインパクトを与えうるということだ。
そんな美味しいゲートウェイオナホールとしての立ち位置を独占するかのようなあの売り方、本当に上手いと思うよ。商売としては本当にな。
俺みたいな底辺でお前ら誇り高きエンジニアの積み重ねたものをぶっ壊してやる。お前の会社も、プロダクトも、SNSも、検索結果も、底辺ITワナビの💩まみれにしてやる。モラルのかけらもないユーザーで埋め尽くしてやる。ポリコレとかツイフェミみたいな話通じないクソカスで埋め尽くしてやる。
これは明らかな社会へのテロ宣言、はてな匿名ダイアリーの通報先ってどこだっけ?
壊れたエアコンは何年も直せてないからこのクソ暑いのにクーラー無しで生活してるし、キッチンの蛍光灯も壊れてるけど修理に3万もかかるからって放置してる
自営業の経営が上手くいってないんだと思うけど、もう両親も歳いってるから転職もそうそうできない
兄も働いてるけど給料安くて実家から出れてないし同居の祖母も国民年金しかもらってない
兄が実家で生活するにあたって、生活費を月にいくらか収めていて、
兄が就職したてだった数年前、親は「このお金は貯めておいて兄が結婚する時に渡してあげるんだ」と言っていた
あのお金いくら貯まったの?と昨日聞いたら「もう全部ないよ、使っちゃった」とのこと
数年前よりやっぱり財政状況悪化してるんだー、と思ってすごい不安になっちゃった
私は小さい頃から貧乏が嫌だったから勉強して学費免除で国立大の院までいって大企業入ってそこそこの給料もらえてる
これでもう金への不安はないなと思ってたけど全然そんなことなかった
知恵袋でたくさん投稿して露出度増やして知名度上げても、外部の人に知られるようにはならないと書いている人がいた。
知恵袋でいくら有名になってもTwitterやInstagramにいるようなインフルエンサーや有名ユーチュバーほどの影響力は持ち得ないのだと。
なぜそう言えるのだろう?
知恵袋は会員登録して人と交流できるというSNSの要件を満たしている。
むしろ会員登録しなくても書き込めるがSNSとされている5chよりはSNS的とも言える。
また書き込んでいった質問は回答が投稿としてアカウントに紐づけられることで、投稿がそのアカウント所有者の人となりを形成していくものとして積み重なっていくという構造も既存のツイッターやインスタといったSNSと比べても抽象的には同一構造と言える。
知恵袋自体の情報インフラとしての知名度もLINEより少し劣る程度で申し分ないだろう。TikTok知らないジジババでも知恵袋は知っている可能性が高い。
漫画でもキャラがネット検索するシーンでは大抵知恵袋のパロディが出てくる。質問しているシーンなら100%出てくる。okwaveのパロディとかは出てこない。
それだけ知恵袋は一つの情報インフラとして浸透しているわけだ。
それなら他のSNSと同じ感覚で知恵袋においても「アカウントを育てて」知名度を上げていけばインフルエンサーのような存在になるのではないか?
理由を推測してみるが、知恵袋を見る時人にはその投稿をみるときに誰が言ったことかに関心を払うほどの没入感を持たずのやっているということだろうか?(じゃあTwitterインスタやってる人はそれぐらい没入してるの?ってことになるが)
典型的なSNSは見知った人が既に参加しているか同時に参加するという状態で利用し始める場合が多く、インフルエンサーというも見知った人がリツイートなりすることで認知する。
いわば見知った人から紹介される形だから、友達の友達という感じで、その投稿アカウントが誰かということについても脳内で存在感を持ってくるということになるのだろうか。
対して知恵袋は現実の人間関係上の利用状況とは独立した動機で見るもので、どの投稿に対してもその投稿したアカウントについて見知った誰かの紹介という形を取り得ないから、たとえ知恵袋内ではどんなに露出度が高かろうが、会員登録もしてないROM専にとっては投稿主にまで関心を払う心理が形成され得ないというところなのだろうか
前野町1丁目は、前野弁当で食い過ぎた豚女とかは住んでいるし、 住んでいないと思っているときは、花火大会のときに蓮根とかを検索していたらそのときにいぶり出されているから
腐った婆で自分の事をみほと思っている50代の女が欠伸をすると、荒川河川敷に、100メーター置きに少年が立っていることになっている。
甲斐沙織40歳はこの辺のどこかに住んでいるが、刺激を与えないと出て来ないし、出て来るときは死ぬほど面倒くさそうな顔をして出て来る。
基本的にそこを歩いている人間が反応をする人間であると勘違いしているからそうなるので、 平仮名しか残っていないもどきが歩いているだけなので、反応はない。
オンライン英英辞典「Merriam-Webster」では名詞の「playback」は録音した音や画像を「reproducing=再生」とある。
国会図書館でを検索すると「playback」の説明に「再生」と出てくる最も古い書籍は『映画脚本二十講 : トーキー・サイレント』(森岩雄、1930年)だ。
プレイバック(Playback)試聴。吹込みたるものを、ワックス(「ワックス」を参照)により再生し、それを聞きて良否を定む。
ここでの「ワックス」とは蓄音機で音を記録するための蝋板もしくは蝋管のことだ。
「蝋管」はWikipedia英語版では「Phonograph cylinder」であり、その説明では「medium for recording and reproducing sound」とあり、やはりreproducing=再生」である。
推測に過ぎないが、『映画脚本二十講 : トーキー・サイレント』の「Playback」の引用元とした英語の資料でも「reproducing」が使われていて、それを上記のように「再生」と翻訳し引用たものがいつの間にか「playback=再生」と誤認され、さらに「play=再生」としても使われるようになったのではないだろうか。
よく考えたら、英英辞典でも「playback」の説明に「reproduce」を使っており、そもそも蝋を使って科学的に音を「reproduce=再生」することが元の意味ということであれば、「playback」を日本語で「再生」としても問題ないように思う。