はてなキーワード: 抜け道とは
以前〇ッグと関わった際に非常に不快な思いをした。数年が経過した今でもその記憶は忘れる事なく店舗の看板を見かけるたびに不快な気持ちになっていた。
今回の騒動を見てやっぱりなと思ったので私も書こうと思う。
5年ほど前に車を手放そうとしたときの話だが、
周囲に相談したところ大手は買い叩こうと必死だから直接店舗に行くと交渉が面倒臭いぞ言われ、見積もりサイトを使ってみることにした。
ググって適当なサイトに車種と個人情報を入力して送信すると、1分程で電話が鳴り始めメールも山のよう受信しはじめた。(見積もりサイトは暇な時にしか使ってはいけない)
コールセンターばりに鳴り続ける電話の対応に必死なのだが、業者さんも慣れており大体どこも似たようなフォーマットで簡潔なやりとりをしてくれるため、こちらもすぐに慣れてくる。
業者さんとのやりとりは車種と走行距離や傷など、フォームに入力した内容に間違いがないかの簡単な確認と、いつ車を見に行けるのかのスケジュール調整のため大体数分で終わる。
中には通話の段階で概算見積もりを提示されて、これ以上の金額が希望の場合は出せないので現車確認は難しいなどはっきり伝えてくれる会社もあった。
スケジュール調整については、他社が来る時間を伝えると「ではその時間帯に伺います」となり集団見積もり回のようになった。
残念ながら通話中にかかってきて出られなかった業者さんも数社あった。
その場合はメールで連絡をくれるのだが電話で5社ほどアポが決まった段階でこちらも疲れてしまい、それ以降の電話は出なくなるし当然メールの返信はしなかった。
一括見積もりにおいては電話でアポが取れなかった会社が成約することは厳しいのかもしれない。
この電話でのやりとり中に〇ッグも含まれていたが、他社とは少し違う内容だった。
まず電話に出た際の車種等の確認をするフォーマットは同じだったのだが、唯一この会社だけ「査定(整備だったかも)担当の者からも挨拶させてほしい」と言われ頑張ります等の意気込みを含め丁寧な挨拶をされた。
特に悪い印象を持っていなかったのだが、通話も終盤になった所で「出張査定はできないので車は店舗まで持ってきて欲しい」と言い出した。効率化で査定金額を上げていきたいためなどの言い分だった。
こちらとしては丁寧な対応に感じていたため、他の会社が見に来るので終わったら行きますねと伝えた。特に粘られる事も他社に触れることなく通話が終わった。
その後、時間通り業者さんが集まりはじめた所で、車を売るのは初めてだと伝えると、
「本気で値段つけるので一番高かった所に売却する意思を表明してほしい、納得いかない場合にやっぱやめただと頑張れません」的な事を伝えられた。
談合的に買い叩く雰囲気でもなかったので必ず売りますよ。と伝えた。
査定に来たの人達は大体顔見知りのようで、他の業者さんが査定している間は私も混ざり雑談していた。
この後、〇ッグに行くって言っちゃったんですよね。と話すと、「ああ、〇ッグさんは必ずそう言いますね。持ってきてって言いますね」と言っていた。地域柄なのかもしれない。
ちなみに査定結果の開示は、各社査定が終わった段階で名刺の裏に金額を書いて、同時にオープンして高い所が勝ちというルールで行われた。
実は開示前になんとなく金額の探り合いがあり、「うちは厳しいかも」と言って帰られた方も居た。
結果は意外とバラつきもあり、最高額を出した業者さん以外はあっさり去っていた。
その流れで契約書にサインすると、数日後に振り込みますとのことで業者さんは私の車に乗って帰っていった。
余談だが想定していた金額より随分高く値付けしてもらった。
という訳で話は逸れたが車も無くなったので、この後行くと言ってしまった以上は〇ッグに伝えなければと思い電話を掛けた。
他社に決まったので伺えませんと伝えると、「えっ!なんとかなりませんか?」と言われた。
もう契約書にサインしてしまったと伝えたると、「それ破棄できませんか?」と耳を疑う発言が飛び出た。
契約書なので厳しいですし、既に車も引き取ってもらってますと言った所で「そうですか。わかりましたー」とガチャ切りされた。
先程の丁寧な電話からの豹変振りに驚いたのだが、ここで自分が大きな勘違いしていた事に気が付いた。
他社に売却しましたというやりとりなど慣れっこの買取業者がこんな事で怒るはずはない。猫を被っていたのではないか。
思い返せば〇ッグと最初に電話した際に担当者から挨拶したかったのではなく、他社からの通話をできるだけ遮断するために通話を長引かせていたのではないだろうか、と。
これらの行為は違法ではないのかもしれないが、他社の妨害や契約の破棄を平気で迫る姿勢の延長線が問題になっているような出来事に繋がっているのだと思う。
他の増田の記事も見たが内容からして恐らく違う店舗だと思う。とすれば店舗や担当者の問題ではなく企業体質の問題なのだろう。
非上場企業役員の報酬の返上など、いくらでも抜け道がありそうな下らないパフォーマンスなどうでもよいので警察や司法に動いてもらい体質を改善してほしい。
たくさん読んでくれて嬉しい。元は友人とのTwitterDMが下書きになっていて雑な文章だから申し訳ない。なので以下、こちらの意図が伝わってないコメントに返す。
・この物語の各パーツ・キャラを現状のジブリのメタファとする解釈はこの児童文学作品を矮小化していると思う。あまり好きではない
→全く同意見で、書いた通り普段はテクスト的に解釈するのが好きです。矮小化されてしまってるのもそうなので、これだけが「正解」だとは微塵も思ってないし書いた通り自信はない。今回は宮崎駿の最後の作品、って思いが自分に強すぎて作家周辺の解釈がまず出たのだと自己分析している。作品そのものの解釈は海燕さん他書いているのがよかった。
→お前みたいなやつがいちばんダメ。観ろ。観ずになるほどすんな。
・一般向けではないというけど、次世代へのバトンや家族の話って極めて普遍的で、ジブリや宮崎駿のことを知らなくとも皆それぞれ自分の物語を重ね合わせて見ることができる作品だと思うよ
→この辺りは宮崎駿は自己言及と普遍的テーマを重ねて両輪でやっている気はする。
・あの作品の登場人物を実在のジブリ周りの人物に置き換える読み方はわかるけど非常に下品だと思っているので、する人を否定はしないけど、それが正解だと言って押しつけたりする風潮にならなきゃいいなと思っている。
→おおむね同意見で、自分もホッテントリに上がったことが押し付け風潮の一助になるのは避けたい。作家論は作家論でしかないし、それは基本的に狭い解釈になってしまうから、「正解」ではない。ただ言葉遣いとして、この人が作家論を「下品」としているのは、なんというか令和だなぁと思った。
前半はまぁ、とりあえず置いておいた撒き餌みたいな稚拙な解釈なので、「正解」ではありません。(一貫性の形成願望をとりあえず満たしておくために書いた、と思って欲しい)
むしろ、この作品は唯一解を求めたがることも含めた後知恵的な意味よりも、もっとプリミティブな意味を伝えようとする作品だと思います。だから自分の感想の本質は後半です。そこのところ言葉足らずだったみたい。
追記ここまで
初日に見に行って、いろいろ考えつつ見たが、たぶんほとんどの人が「意味わからん(けどジブリっぽくて面白い!)」ってなるやつだと思ったので、自分なりの考えを書いてみる。ちなみに全然自信はない(その理由は最後に書く)
見た人の多くは、ラストにかけてのメインストーリーラインがよくわかんねえとなると思うけど、同時に物語にいくつもの象徴や比喩が込められていることも、なんとなく察すると思う。
個人的な結論を先に書く。(自分は普段はテクスト論的に物語を読むのが好きなのだが、作家論としてこの作品が見えた。)
まず、内容で感じたのはセルフオマージュの多さ。「紅の豚」の死出の飛行機葬列が海の船になったり、ハウルの泥の人形が殺生できない住人になったり。老人の描き方はジブリの各種キャラを思わせたり。
オマージュ元には特にトトロが印象に残るように思って、抜け道や森から出た暗がりの風とか、ワラワラとか、宮崎駿はトトロ気に入ってたんやなと思わせた。まあワラワラは鈴木敏夫の入れ知恵な気もするし、観客へのサービスって感じかな。
そしてここから感じたのは、宮崎駿の人生が細かく千切られ散りばめられてるということ。
ていうことで、物語の根幹と宮崎駿の人生に準えてラストで明かされる物語の根幹をよんでみる。やっぱりラストについては大事だよな。
結論から書けば、空から降ってきた大岩は宮崎駿の才能、ギフト。宮崎駿は大叔父でありあの世界は宮崎駿によって作られた作品の集合でジブリそのもの。その血を引く主人公は宮崎吾朗や孫だと思われる。ただし、内面は宮崎駿が投影されていて二重のモデルがいる主人公になっている。駿はジブリを継いで欲しかったが、吾郎は拒否した。ジブリは駿の引退宣言とともに崩壊して、皆それぞれの暮らしにもどった。端的に言えば、それら経緯への駿の内面の告白、なんだと思う。つまり、スタジオジブリ(と駿)のために作られた物語なんだと思っている。
昔。降って湧いた才能に取り込まれた駿は、作品の世界から出なくなった(家庭を顧みなかったりしたんだろう)。そして世界の創造に励み、海や森の美しいファンタジー世界と、ユーモラスで残酷な鳥に代表される多くの愛すべきキャラクターを生み出した。
時々挟まれた、大岩が怒ってるとか。あれは才能から来る作品へのこだわり、そこから発される憤怒なんだろうな。時々駿キレてたし。
ただ、老いてきた。積み木を重ねられなくなった。積み木を安定させることも苦労するようになった。だからこの世界・ジブリの後継者を探して、館に主人公ら血族を引き寄せ始めた。(この辺りの傍迷惑さについての自覚が、人生を総括し始めた老境の駿らしい感じがする)
関係ないけど、インコの王は唯一宮崎駿に謁見できて最後に世界ぶっ壊したし、たぶん鈴木敏夫なんだろうなと思う笑
そして物語のラストで吾郎はジブリを継ぐのを拒否し、焦ってしゃしゃり出た鈴木敏夫がぶっ壊してジブリは崩壊した。でもそれを受け入れて?(この表現は適切じゃないかも。ただ眺めて?)老兵は去る、ってことを、ラストで宮崎駿は表したかったのだと思う。
総じて、人生全体を眺めて、ある程度中立的に感情も整理しながら、比喩的な物語と人物に落とし込んだ。そして達人のアニメーションで、それが分からなくとも万人が楽しめる2時間にした。
主人公が、みずから頭を傷つけて、それを最後の最後に告白し、汚れているから自分は継げないとジブリ世襲を拒否するシーン。
あれはなんかほんとに個人的な事件が、駿や吾郎にあるんかなて感じもするけど。いずれにせよ、今まで子どもをイノセントに描いた宮崎駿が、この主人公にはドロドロしたものを罪悪感と共に植え付けているのは、自身や自分の子どもみたいな、客観的に見られないし理想化もできない存在としてマヒトを描いているんだと思う。そしてそれが「真の人」って名前なのが、正直な曝け出しなのかなって感じさせる。
でもここは、ちょっと未整理。
まあたぶんに一義的な狭苦しい解釈なんやけど、とりあえずここまでは言語化できた。
ただ、ここまでこうして書いた考察について、正直自信がないというか、こうして作品が言語化されることを拒否している作品である、ということことを、作品を見ている最中からずっと感じてきていた。
子供のころからジブリ作品を見て、宮崎駿のひねくれた人物像も知ってるから、この作品は明らかに異質だとわかる。観客へのサービス(配慮)が欠けている。
はっきり言って、一般向けではない。大衆、子供に映画を作ってきた宮崎駿やジブリは、今までこんな映画を作ったことがない。上記のような一応に意味の通る解釈を自力でできる人間はとりあえずいいが、そういうことをしない人が圧倒的多数で、それが大衆なのだ。だから、今回のような、作品の展開の速さや密度、抽象度の高い映画は、一般向けとは言えない。自分が見た初日夕方の回は平日なのにほぼ満員で、しかし上映終了後のほぼ全員がタヌキに化かされたような顔をみんなしていたぞ。(正直自分もそんな気持ちだったので笑えた)
しかし、ここでそれを鑑みても面白いのが、この作品の「面白さ」は皆が感じているらしいということだ。
そして、これと同時に、自分のような批評する目線で映画を見る者は、それはそれで大衆客と別な側面で拒まれている気がした。何か見る者の賢しい批評を拒んでいるように感じた。
以下に、その理由を書く。自分の感想としての本質はむしろこっちだ。言語化しづらいのだが、見た人にはなんとか伝わるように書くと
となる。
例えば、食事のほおばり方。たとえば、黙ってうつむく表情。たとえば、真人がうそをつくときの顔。みんな圧倒的に生き物らしい。生命力を感じる。みんないびつで、あいくるしい。(カワンゴがお説教されたアレとは本当に真逆な、きわめて何か、生命に対する賛美を感じます)
これらすべてが、芝居をしている。客に直接的な理解を与える。この人物の感情や、物語における人物の立ち位置(正しい方向かどうか)など。あらゆる情報を、言語での理解を超越して、身体的・ダイレクトに観客へ伝わる。
作劇のうまさや間の取り方、ちょっとした身のこなしや振る舞いの描き方。それらすべてがアニメーションなのに自然で、本当にほれぼれする。達人のアニメーションは今でも健在だし、それはスタジオポロックみたいなのにもマネできてない駿の達人技だと思う。
で、それらの生理的な表現が今作で上げる最大の効果は「生理的な感覚として、見る者に言語の範囲外で意味を伝える」ことだと思う。
(自分は新海誠の映画が昔から好きなのだが、新海誠が「星を追う子ども」でやりたがって、でも全然できなかったようなことを、中盤くらいまでで軽々と全部やり尽くして、更に塗り替えていったような印象が途中した。)
はっきり言って、中盤以降は物語のテンポが速すぎて情報量も多すぎて、物語が何を表現しているのかまったくわからないし考える余裕もなく、何もかもを押し付けられていくだけのように感じるのだが、いち観客として言えば、作劇がうますぎてずっと楽しくて画面にずっと惹き寄せられたままで、一ミリの退屈もなく最後まで面白かった。作品が何を言いたいのか理解できねぇのにコレなのまじ意味わかんねぇ。ユーモアと人物の芝居とテンポと心地よさとその他あらゆる作劇でずっと作品世界へ惹き寄せ続けるの、冷静に考えてすごすぎる。
理解として言えば、言語の範囲外で生理的に伝わってこようとする情報が、最速で理解できる。だから理性で作品に好悪を判断つけたくても、生理的な理解が先に面白さを伝えていて、判断を保留し、物語が表す「意味」が分からない気持ち悪さをいったんわきに置く(打ち消す、わけではないのもポイント)
たまたま映画見る前に考えてたのが、美輪明宏のモロの演技や紅白のヨイトマケの唄なんだけど、あれもなんか、生理的に分からされる凄みがあるよな。あれと同質の、生理に訴えかけてくる理解が、この作品の全体にあった。
だから意味深がセリフが物語上の「意味」として理解できなくても、なんとなくわかっちゃうわけ。ああ、「そういうふうに」感じてるんだなぁ、って。
自分が書いたものも含め、なんか色々考察とか出てくると思うんだけど、この作品に関して自分はもうそんなのに大した意味を感じていない。いや言葉で説明することは俺も試みたと思うんだけど、そういった理解や「意味」は後からやってくるものであって、それより先にあるこの一次的な身体的感触の強さが、現在進行する映画鑑賞の今、圧倒的な作品だった。肌感覚で腹の底から湧き上がる力強さは、言語的理解を拒否して圧倒する。そんなプリミティブさ。
プリミティブな、といえばものすごく情報量が少ないように感じられるかもしれないけれど、ただそこで言う「情報量」ってつまりキロバイト的な情報の多寡でしかなくて、生理的な質感や圧倒的な情報の圧が含まれてない。この作品はそういった生理的な質感や圧、すごみをもってして最後まで観客をエンターテインする作品だった。面白さが言語の範囲外で生理的に伝わってこようとするんだよな。
「語り得ないことに関しては、沈黙せねばならない」という言葉があるけれど、宮崎駿は言語で語りえないことを語れる。対して、自分たち観客は語れないが、しかし生理的に理解している。
自分が最初の考察に意味を感じない、といったのは、考察の当たり外れよりも「こんな小賢しい考察なんぞしてんじゃねー」的なギルティ感覚がするからだ。賢しらぶってることが怒られそう。それこそ、宮崎駿に叱られるカワンゴみたいな、「意味」や思考の中だけに生きて現実に生きる生命を見ようとしていないと叱られている気が(これは完全に自分の勝手な感覚なのだが)する。強いて言えばそれが、本作のタイトルのごとく自分に突き付けられたお説教だったかもしれない。
一般には訳が分からなくてもいいし、読み解く材料も与えないし、理解されなくても面白くしなんか感覚的には伝わるでしょ?みたいな感じが、ただ壁を感じるし、見る人は選ぶと思う。ジブリ作品に壁を作ったことって今まであんまりないと思うんだけど、たぶん風立ちぬで少しやって、「あ、好きにやってもいいんだ」みたいなのを、それこそ庵野秀明とエヴァから知ったんじゃねーかwみたいな気もしていて、そして老境にさしかかりジブリの崩壊を見ながら、いろいろなことを感じ考えながら職人芸ですべて盛り込んだのが今回の作品なんだと思った。だから、一部の人の批評や感想、特に老人の走馬灯とかボケたとかみたいなのには全く賛成できない。
一見制約に見えるけど抜け道があったり、本人的には何の影響もなかったり、色々小細工してペナルティを踏み倒したりしてメリットだけ享受する展開あるじゃん
例えば能力を使うとものすごい激痛が走る制約をかけてパワーアップ!(実は痛覚が麻痺してる人間なのでノーリスク)とか
血の繋がった家族全員を生贄に捧げて能力強化!(実は家族を全く愛していないので痛くも痒くもない)とか
永続するゲームを終わらせるという無理難題な縛りで特殊な領域を構築!(実は無理難題でも何でもなく抜け道用意済み)とか
誰がパワーアップ判定出してるのか知らんけどさ
本人がリスク踏み倒す気満々の制約でパワーアップすんのおかしくない?
本人にやましい心があるなら成功しないのがあるべき姿だよね
自由度の低いスマホとくにiPhoneとかアプリストアに掲載されてるものの範囲で弄ろうとすると陳腐なアプリしかないだろ
だから情強が普段向き合うコンピュータはスマホじゃなくPCなんだよ
スマホでもroot取ったりすればシステム深部まで弄れる範囲が増えるから遮断系のアプリ(ストア外から入れるやつ)も使い勝手が向上しやすくなる
とはいえブラウザ上の広告除去だけでいいなら実はPCもスマホも大差ない
PCならuBlock Origin拡張とあと必要に応じてAAK系入れる程度、スマホならブロック内蔵されたFirefoxあたりのブラウザ使うだけで十分なんでね
だがスマホは個別のアプリ内にまで頻繁に広告が侵食してくる銭ゲバ文化になってるからそこまで排除しようとすると自由度の低さが仇となるわけよ
PCでも広告バナー入れてくるアプリ自体は昔からなかったわけじゃないが(ダウンローダー系のソフトとかあとIM系は多かった程度か)全体的には希少種で
広告ついててもググればバイナリのここ弄れば除去できますとかレジストリや設定のここ弄れば消えますとか抜け道が発見されてることも多いくらいに当然消そうとする人も多かった
自分のコンピュータ上のものは自分がすべて管理できるのが当たり前って発想がPCユーザーにはあるが自由度の低い大衆向けコンピュータであるスマホのユーザーにはないからうんぬん
メンズのファッションにずっと違和感を持ちながら二十数年抜け道のようなものを探した結果、
ガウチョパンツにシンプルなシャツと帽子と女性っぽい眼鏡の組み合わせにたどり着いた。
ぱっと見メンズっぽさが無いけど完全に女装という感じでもなくて、
まあそういうファッションですと主張すれば通る程度に収まってるかなと自分では思ってるけど実際のところよくわからない。
外を出歩いていて物に映り込む自分の姿が目に入ると、わりと自分の思う可愛さになっていて結構気分が上がる。
ヒゲが見えると一気に残念になるのでマスクが外せないのだけど、いっそのことレーザー脱毛でもしてしまおうかみたいなことを考え始めてる。
正直ヒゲが生えてて良いことこれまで一度もなかったなって思う。
「どこなら抜け道で稼げるか」だの
「絵柄を再現したLoRA作って売る」
「情報商材で稼ぐ」だの…
抜け道で稼ぐというのは明示されたルールは守る意思を示してる。
外国人相手に無修正画像の画像はもちろん生成 AI による作品でしょう。写実性の薄い絵のわいせつ性は下がるのは判例でも知られてるし、モザイクをかけるのはわいせつ物等頒布罪の要件にはなっていない。投稿サイトが制限してるのは違法だからではなく自主規制にすぎない。
絵柄の再現は、それだけでは直ちに著作権違反にはならない。絵柄や画風は保護対象にはならないからだ。それに著作権は親告罪なのでまず権利者が訴えなければ権利侵害には認められない。
情報商材だって立派な商材だ。技術同人誌のように、ノウハウを売買するのは完全に合法だし盛んに行われている。
他人の褌を使うというなら、二次創作作家やゲーム実況、Vtuber にも文句を言わないとダブスタでしょう。彼・彼女らの活動は今日では広く認められていて、バッシングされてたのは10年ほど前の話だ。
その頃はゲーム実況者が企業PR案件を取ってくるたびに叩かれていた。まさに、他人の褌でカネ儲けするなとも言われていた。悪漢は現在もごくまれにいる。彼らは今ではこう呼ばれている。嫌儲(けんもう)と。
貧困女子救済を目指してホストを規制をするにあたって、ホストだけを規制して、キャバや風俗は規制されない区分け方法はあるだろうか。
風営法がかかる範囲を対象にしたらキャバや風俗も入ってしまうし
男性が接客する店だけを対象にしたら男女差別だと言われてしまう。
その前日は、プロジェクトの責任者として費用対効果が目標に至らず、詰められ、報告と対策の提案は翌週に持ち越しになった。
その日は燃えるゴミの収集日だった。虫が苦手だから、燃えるゴミの日は何が何でもゴミ出しをせねばならない。
ギリギリ近所を歩ける格好に着替え、靴を履き、ゴミ袋とスマホと鍵を持ち、すやすやと寝ている夫を背に玄関を出る。ごみ収集所に向かい、ゴミを捨て、天を仰ぐ。雲ひとつない晴天。
死ぬならこんな綺麗な日がいい。
ふと思い浮かんだその気持ちに、抗うもなく、肯定するもなく、ただ足は近くの踏切に向かって歩いていた。
永遠を誓ったはずが独身の自由さに戻るため離婚したいという夫。人の意思は自由だから。
何度も調整し言質をとり議事録にも残っていることを認めず責任を問う経営層。立場上、弱音を吐くことを他の従業員や役員に見せることはできないから。
期日を過ぎても成果物を提出してくれない取引先。他の案件も忙しいなかで大変だから。
疲弊するだけで工数ばかりがかかり成果の見合わないプロジェクトを売った営業担当。彼には達成しなければならない売上目標があるから。
人にはみな都合があり、都合のぶつかり合いで世の中は意思決定がなされていく。
都合を主張するのが苦手な自分は、かと言って『察しろ』と開き直ることもできず、都合と都合の調整に追われ、今日まで来てしまった。ただ疲れてしまった。
自分の都合などとうに捨てた。何がしたかったのかも分からない。
いや、正確には一つあった。夫と老人になってもただ二人で緩やかに暮らしたかった。
しかしそれは叶わぬ都合だった。では、私にはもう望むものなどないのだ。
、
シミュレーションのために1本、2本と踏切の先で通り過ぎる電車を見る。 駅の近くにあった踏切だから、電車は遅く見えた。
この速度なら、跳ね飛ばされるよりも車輪下に入り込んですり潰されかねない。それはとても痛そうだ。
電車が通過し遮断器があがった。踏切に入り、横に遠く伸びる線路を眺めた。
少し先にいくつかまた踏切が見える。あちらの方が、電車の速度が出ていそうだ。
手押しのカートをひいた白髪のおばあちゃんがよろよろ歩きながら私の後ろにいるのに気がついた。
いま踏切にとどまれば、このおばあちゃんにグロテスクなものを見せてしまうかもしれない。
そう思うと、踏切で止めるべき足は止まらず、渡りきってしまった。
次の電車を待とうと踵を返そうとしたら、線路脇の一軒家、2階ベランダで洗濯物を干している女性と目があってしまった。踏切前をふらふらしている人間なんて不審者でしかない。
居心地が悪くなり、線路から見えた一つ奥の踏切に向かおうと思い、歩き出した。
いのちの電話、かけたことあるよ。ただ、電話口で「さあ話して」と構えられても何から話していいか分からずロクに話をせずに一言謝り切ってしまったけど。救われる人もいるのだろう。
閑話休題、その踏切は道幅の割に意外と交通量が多かった。どこかの抜け道になっているのかもしれない。
人に見られると思うと憚られた。遮断器に入ってる間に緊急停止ボタンを押すかもしれないし、白昼堂々、あまりよろしくないものを見せるのは望んでない。
ここもダメだと歩き出した。首都圏ベッドタウン、連休初日の朝。
都合よく人のいない踏切や道などなく、次の踏切、次の踏切、と歩いている間にとうとう隣駅についてしまった。
ついぞ踏切で立ち止まることはできなかった。
駅前のコンビニでコーヒーを買って、ロータリーのベンチに座る。
私以外みんな幸せそうに見えたが、そんな自己憐憫に浸っている自分が恥ずかしく、思わず下を向いた。
ベンチの足元には花が咲いていた。小ぶりで白い可憐な花。
じわりと視界が歪み、涙が目に溜まり、地面に落ちた。
来た道を戻りもう一度踏切行脚をする気力も体力もなかった。
スマホに入れたSuicaで改札に入り、駅のホームに設置されたベンチから空を眺めた。
今日でなくて、明日でもいいかもしれない。いや、明日するなら今日でもいい。
今日なら、夕方でもいいか。今日ずっと考えて、明日結論を出すのはどうか。
猶予は5日間あるのだから焦らなくてもいいと結論を出すまでに2時間が経っていた。
その日はおとなしく帰宅し、ただ泥のように眠った。
次の日は曇りだった。踏切を思うことはなく、持ち帰っていた仕事を片付けるためにPCを開いた。
親としては、まさか娘がヤリチンのセフレになるなんて超弩級の愚行は犯さないだろうと思って「結婚前のお泊まりはNGだよ」と言ったんだろうけど、子供の側は恋人同士のお泊まりより遥かに悪質なことを「親に禁止を宣言されていないのでやってもいい」と解釈&実行してるのが味わい深い。
結婚前のお泊まりなんてもんより先に「避妊なしの性行為」「自分以外の恋人がいる相手や既婚者との性行為」「恋人でも伴侶でもない相手との性行為」「売買春」「性行為中の撮影」等のもっと深刻なケースを逐一明文化して禁止しておかなきゃいけなかったんだな。大変だな。
まあそんだけ禁止しても、「どうしてそれを禁止と定めたのか」ってとこまでちゃんと子供と話し合って納得をさせられなければ、結局は「親に知られなきゃOK」って抜け道を勝手にこしらえて好きにやっちゃうんだろうけどね。