はてなキーワード: 大義名分とは
女の周囲の見えないところにリア充が待ち伏せしてるし落とし穴もクレイモアもある
んでも男を奇襲するパターンは男の側が拳銃を持っていても何も防御できていないのは富山県の陸自鋼板襲撃事件で証明されてる
リア充は弱いKKOを多勢に無勢で寄ってたかってリンチするのが得意なだけで
自分が真珠湾攻撃を食らうパターンになるとKKOと何も変わりはしない
新幹線でアスペに殺された185cmの東大卒も集団で先制をいじめてたhagexxもそうだ
だから女を攻撃しろとあおってやってきたKKOを袋叩きにしようと女をたたかせて反撃名目でKKOを殺そうとするんだろ
そうはいかん
女をたたいた汚名をKKOにかぶせて大義名分をもって集団でKKOを殴り殺すわけだ
そうはいかn
だって本来残業なんて嫌なら帰ればいいし。おつかれさ~んって言って。
彼らは好きでやってるんだよ。人の命が大切だという大義名分を自分の存在意義の拠り所として己の力を最大限発揮してる。だって医者だぜ?やりがいが半端ない。お前らのゴミみたいな職の奴隷と同じ土俵に乗せていい人たちじゃないんだよ。
だいたい強制的に労働させられてると言うならストライキでも何でもするはずだよ。彼らはお前ら凡人の何倍も頭いいんだからそれくらいの論理的判断はできるはず。でもしない。なぜならそれが彼らにとってのIKIGAIだから。彼らは自分の人生を謳歌してる。それに対し外野がとやかくいうことじゃない。
いや、残業避けたい人はちゃんといて、その人達はちゃんと避けらてれんだよ。ただ「残業つらいわ〜でも俺じゃねえと患者さんを放って置けねえからなッ」って自分の存在意義確認の為に言ってるミサワなIKIGAI医師がいて、そいつらの戯言を真に受けてるだけなんだよ、お前らは。そんな言葉を真に受けてなんかいい出した外野のゴミだよお前ら。IKIGAI医師たちは内心「(えっなに真に受けてんの…?くっそウザ…)」って思ってるよ。
学校が無駄じゃね?って感じてる人って主に高校で習う学習内容についてそう考えているんじゃないかなって思います。
「これからを生きていく上で二度と使わないようなことを教え込まれてもどうせ使わないし、こんなの必死に暗記してどうすんの?どうもしないでしょ?大学受験終わったらみんな忘れるんでしょ?結局無駄じゃん。」と思う人もいると思います。
例えば古文漢文 現代を生きている自分が古文を使いますか? 使いませんよね?
因数分解や三角関数なんか知らなくても問題なく生活が送れますよね?
学校でやる内容や科目なんて、受験のためにあるようなものといってもいいんじゃないですか?そこで学んだことって受験以外で本当に役に立つんでしょうか?
学校では他に教えるべきこと大切なことがが山ほどあります。本来なら学校で教えられるべきはずで、生きていく上で自分を助けてくれることってもっともっとあるはずです。
逆に言うと僕たちは日本に住んでいるのに日本の法律をろくに知らないで生活しているんですよ。
教育現場で法律が教えられないことに疑問を感じるのは僕だけでしょうか?
僕たちが知っている法律ってだいたいテレビやネットでよく見かける法律くらいで、そんなものはたかが知れています。
法律以外にも政経を必修にしてもいいかもしれませんね。日本の政治家なんて選挙公約とかいう大義名分を掲げて、当選したら何やってるかわからないような人ばっかりでしょう。国民の裏で何やってるかわかんないですしね。
日本人の政治的関心の無さからして、権力者にとって都合のいい法案を通すことだって容易いでしょう。
経済のことなんて、自分で稼いで生活するくらいの歳になればかなり有益な知識がたくさんあるはずです。
経済の回り方なんかは知ってて損はないし、経理的な知識も役立つでしょう。なんなら知識フルに活かして自分でビジネスを考えたりもできそうです。
それからお金に関する知識も必要になりますね。働き始めたら税金のこと、保険のことなど生きていく上で間違いなく必要になる知識がたくさんあります。
自分のことを自分でできなくなったら、もうそこでオシマイだ。それでも生きていて欲しいと思うから手を貸すのであって、それは介護する側の意思に委ねられるものだ。そのくせ介護を放棄したら私たちが罰せられる。この世はどこまで腐っているのか。
私たちはお前のわがままを叶えるために存在するのではない。「私の気持ちも考えて」とお前はいうが、そうやってわがままに付き合い続けるのも限界である。
対話に意味を見いだせなくなったのはもうずいぶんと前の話だ。耳が遠くちゃんと聞こえていないのに話が通じているように受け応えする。こちらのお願いはまるで通じず、自分のわがままを通そうとする。
それに対して私たちのとった行動も良くなかったのかもしれない。かわいそう、他に頼る人がいない、仕方がない。そんな理由で手を貸し続けたのが増長を産んでしまったのかもしれない。私たちはお前の奴隷ではない。
すべての段取りを自分のわがままでひっくり返す。まるで賽の河原の石積みではないか。
私たちのやりたいことを我慢して、お前のチンタラした話、のろのろとした動きにつきあわされる。お前は年金もらってるんだろうが、こっちはそんなものなにもない。働かなければ生きていけないのに、その時間すらお前は奪っていく。時間だけでなく、お前に付き合う肉体的・精神的疲労のおまけ付きだ。こんなおまけいらんぞ、ふざけるな。
自分の家がいい、そりゃそうだろうな。その家はゴミ屋敷やけどな。あれはお前の家やない、ゴキブリの家や。いやまじで。台所の食器棚の引き出し開けたらゴキブリが湧き出るような家やぞ。ようそんな状態で自分の家とか言えるな?
こちらのちょっとしたお願いすら聞かず、ただひたすら自分のわがままだけを押し付ける。一方的に私たちだけに譲歩を強要する。お前は何様なんだ。
よく言うよな、「お前だっていずれこうなるんやで」と。だから仕方ないんやぞと、だから我慢しろと。まったくもってクソみたいな大義名分だ。人間誰しも老いる。そりゃそうだ。そうやって私たちの反論を封じる、それも私たちを追い詰めているということを理解しているのか。
はじめに書いたが、自分で自分のことをできなくなったらもう死ぬしかない。その後を生かしてもらえるのは周りの善意によるものだ。
もうお前のわがままに付き合わされるのも10年近くなるぞ。いつまで我慢すればいいわけ?
もう最近ではお前の存在を感じるだけで胃が痛くなる。頭が重くなる。
介護放棄が虐待というなら、お前やその周りが私たちを追い詰めているのは虐待ではないのか?
お前が私の肉親であるならまだ違うんだろうがな。お前は単なる祖母でしかない。大体長男は他にいるのに、なぜ私たちがお前につきあわされないといけないのか。単に近くに住んでる、ただそれだけやぞ?
赤の他人である母が甲斐甲斐しくそれに付き合ってきているが、お前勘違いしてないか? うちの母はお前とは無関係の赤の他人だぞ??
私はもうお前が憎くて憎くて憎くてたまらない。かわいそうだと思っていた時期もあったがな、もう我慢の限界だ。積んでも積んでも崩される石積みなんかやってられるか。
お前を哀れに思う以上に、自分の母が疲弊していく、私たちが疲弊していくことへの憎悪が上回った。最近ではお前を殺すことばかり考える。もうお前の相手するのうんざりやわ。
殺したら殺したで私たちが世間的に死ぬわけだけど、どうしたらいいの? 求む、合法的に殺せる方法。あいつに人生狂わされるのもう嫌や。
まあ別にこんなくそみたいな世の中に未練なんかないし、むしろ自分が死ぬほうがいいのか。まあ自分が死ぬくらいなら、あいつも一緒に殺しとくけどさ。
まあ一番いいのはいますぐお前が死ぬことやけどな、まあ無理やろ。他人の生き血をすすって生きるようなやつやし。足が不自由なだけでまだまだ元気やしな。丑の刻参りとか効果あるんかな?
老人に搾取される世の中ってほんと糞だよな。暴走した車に惹かれて死んだ親子とか、理不尽にもほどがあるぞ? お前ら迷惑なんは存在だけにしとけよ。
社会適応能力というときにはコミュ力とか知的な部分とか色々含んでいる。バランスよく習得するのは整った環境で育てられた子どもでも難しい現代。
でもなぜ、適応できなかったとか適応しようとして失敗した子どもへの対処って、現状こんなものなのさ。少年院、自立支援施設、養護施設とか。わたしが最もひどいと思ったのは一時保護所だけれども。
子どもの権利宣言と真逆。経済的だけでなく言論の、他の自由もない。大人の言うことは聞く。反論することは禁じられてる。クソ親に育てられて反抗したのに、職員と「大人の言うことは聞きます」なんて約束させられる子どもたち。
いわゆる「ケース」になってしまうまでに散々な目にあってきてなお、こんなところで生きていく子どもたち。「社会の一員として生きる」楽しさを奪われた子どもたち。
大人の生きづらさより、子どものそれは訴えられない。というか言葉にする機会が安全を確保するとかいう大義名分のもとに奪われているからより厄介だ。
NZのテロリストがむしろ移民から攻撃されていると言っているように、たいていの攻撃者は被害者意識を持っているんだよね。
「我々が差別されているから反撃する」といって戦ったりするのはネットでもよく見られる。
戦争も「本来我らのものである土地、所有すべき資源を奴らが不当に奪っている」「我らを滅ぼすための兵器を隠し持っている」「我が国の民を殺したかの国を滅ぼすべし」から始まるわけだ。
「俺は殺すのが大好きなんだ」「人を殺すのは花を摘むのと何の違いもない」といって殺すのは一部のサイコパス・シリアルキラーだ。
普通なら何の理由もなく攻撃するのはどうしても罪悪感がつきまとうし評判もよくないが、被害者意識を持てば相手の攻撃に対する反撃になるから安心して気持ちよく攻撃することができる。
表現の自由という大義名分はこと公共空間においては綱渡り的曲芸の止揚点だと述べたつもりだが、俺の意図するところは読み取ってくれなかったのかな。
ココこそ君の論の最もバカな部分な訳だが?
綱渡りになるのは「己の快不快で他人の人権を侵害して良い人」が居るからに過ぎない。本来綱渡りであるべきでないものを綱渡りにしてる者をこそ非難すべきなわけで、表現の自由を捨てさる理由になど全くならない。
特別な話ではないが、許される話でもない。
彼奴等は「何か言う」ではなく、表現とそれで食ってるものの撲滅を計ってるのは明らか。
フェミはお気持ちに拠っているが、こっちは基本的人権に拠って立ってる。一緒にすんなよ?
「妥協しない」フェミと「妥協が許さない」基本的人権のあいだに中間点などない。少しでも譲歩したら表現の自由は死ぬ。
個人の利害が衝突するからこそ公正なルールが必要な訳で、それこそが人権。
「俺もあいつも我慢してる」んだよ。それが分からないものだけが他者の表現を許さない
まさにそこがオタの主張として弱いよねっていう話をしたつもりなんだけどな。表現の自由はあまり関係ないんよ。我々は公共空間をどうデザインするか?という問いがまず大前提。
「公共空間をデザイン」なんてのは誰がするもんでもない。それを個人の快不快で行おうとするなら、それは世界から己の見たくないもの全て消し去らないと不可能だろ。そんな要求が容れられるわけねーだろ。
皆が皆の表現の自由のままに行動した結果が公共の空間であるべきで、それを「デザイン」なんてしようと言うのは独裁者にも似た思い上がり。そんな問いを抱くことからして君も他者の表現を殺そうと言う欲望に取り憑かれてるのでは?
表現の自由という大義名分はこと公共空間においては綱渡り的曲芸の止揚点だと述べたつもりだが、俺の意図するところは読み取ってくれなかったのかな。公共空間で表現する時点でフェミに何か言われるのは特別な話でも何でもない。公共空間が個人の利害の衝突する社会そのものの縮図だと考えたらオタやフェミのお気持ちの中間を探るのが道理だと思うよ。
まさにそこがオタの主張として弱いよねっていう話をしたつもりなんだけどな。表現の自由はあまり関係ないんよ。我々は公共空間をどうデザインするか?という問いがまず大前提。
どんなひどいこと書かれてるんだろう、と思ったらいつもの婚活屋さんだった。
いや私も女子会やめた方がいいと思うよ。婚活っ子と女子会すると「この間会った男性はここが気に入らなかった」って話ずーっとしてるもん。悪いところが目に付きやすい性格なのは彼女個人の問題だけど、口に出して同意をもらって「こういう男は嫌だ」と決意を新たにする姿は本当に結婚から遠ざかっていると思う。
そして増田は傷付いた友人のため、という責任転嫁先(大義名分)があれば名誉毀損も営業妨害も、つまり違法行為も辞さないという性格なので、それに対してはちょっとよく考えた方がいいと思う。
あと言い分というか思考形態が、痴漢被害を訴えた記事読んで「痴漢しねーよ!」ってキレてる男と同じなんだけど。自分をカテゴライズした上でそのカテゴリがちょっとでも非難されるとキレるっていう。こっちに関しても落ち着いて冷静になって欲しい。
こんなやつらに権利()なんて保証する必要たしかにねーわなと思う
男はどうだかしらんが、女のセクシャルマイノリティなんて
寄生して暮らすためなら歴代のどの彼女より心が動かない男に中出しされることを
あっさり幸せ♡とか言い出せる程度の「どうにもならなさ」だよ、少なくとも半分はな
だいたい30にバタバタと嘘つきファッションレズの正体が判明する
それまでは男となんとなく付き合ってたけど30あたりにビアンだと確信して女と一生添い遂げる決意をした女は、ゼロ
ていうかゼロって。うける。そんな都合のいい性別、信じてもらえるわけ無いじゃんね。
そのかわり、「本物」は多少遡って保証を取り戻せるようにしてくれないかなー
(まあ自分でいってて意味不明だし、絶対に無理なのわかってるけど)
先天性で、女しか恋愛対象にみれず、性的興奮もできない、という人間なのです。
という最も要の大義名分がま~ん()のせいで濁るのが本当に許せない。
刀の映画を見に行った。
2回目。
1回目からずっと感じてたけど、あんまり口にすることでも文章にすることでもないかなと思って蓋をしてたけど、どうにもしんどいので吐き出してしまうことにする。
書いてスッキリしたいだけ。
なんだけど、誰かに知ってほしい気持ちもあるらしくて匿名ツールを引っ張り出してきた。
映画を見た人間のぼやきなので映画鑑賞済みであることを想定して書きます。
***
自分に正直に言うと、
「正しい歴史のために正しく死なねばならない」
と言われた信長のことを、少し羨ましいと思った。
まだまだ完結するまで死ねないと思っている作品も多いしオタクとして生きてて今が楽しくないわけでもない。
楽しいと感じている時、発している時、私は確かにその瞬間「楽しい」と心の底から思っている。
なんだけど、それに反するように、死にたいと、心のどこかでずっと感じている。
「生きることで発生する日々の煩わしさ」と、「死ぬ瞬間に生じる種々の煩わしさ」を天秤にかけて、ただ「現状維持」だけを選択しているような感じ。
変わることが面倒くさい。
だけど生きていることも面倒くさい。
なんなら今、「歴史のために」と言う大義名分を掲げてこの命を終わりにしたい。
「正しい歴史のために」
「正しく死なねばならない」
人の生死に正誤などあるのかと感じもするが、私の命が正しい歴史のために摘み取られるのであれば私は喜んでこの命を差し出したい。
彼の死には意味があった。
それ以上に、彼はそこで歩みを止めることを許された。
私も許されたい。
「生きる」ことを「辞める」ことを許されたい。
生きた時代が違うから、信長のその選択は私が望むそれとは全く別のものなんだけれど。
信長は歩みを止める気なんてなかったと思うんだけど。
それでも、今生きていることが間違いだと言われて、あぁそうなんだ、やっぱり生きてることは間違いだったんだ、って、私は納得できる。
別に誰に何を言われたわけではないけれど。ただの現実逃避だってだけかもしれないけど。
それでも、羨ましいと感じてしまった。
ソシャゲーは人の金を奪う.
この糞煮込み鍋の如きソフトウェアどもはプレイするためにあらゆる手段でリアルマネーを使わせる.基本無料だから云々という文句は受け付けない.なぜならこいつらが行っているのは実質第一種価格差別であり,それは最も効率よく企業が金を吸い上げるシステムであるからだ.
要するに500円で売り切れば500円以上出してもいいと思う人だけがきっちり500円払うのに対して,基本無料で無限に課金させるようにしておけば,100円くらいなら払ってもいいかなという人が0円ではなく100円払ってくれ,5000兆円課金して全部の絵柄が欲しいとぬかす豚は500円でなくちゃんと5000兆円払ってくれるのだ.500円の価値のものに5000兆円.そういうことだ.
おれはゲームが大好きだ.これまでの人生の少なくとも1割はゲームをしている時間だと思う.それくらいに好きだ.
ゲームのプラットフォームは時代とともに移り変わってきた.昔と比べればPCでゲームをするという行為も日本に馴染んできたと思う.しかしそれ以上に,スマートフォンでゲームをするという文化は日本の奥深くまで浸透している.
おれはスマホゲーを批判したいわけじゃあない.スマートフォンの携帯性や利便性とちょっとしたミニゲームの相性は抜群だし,指一本でプレイできる戦略性の高いゲームもたくさんある.
しかしスマートフォンというハードウェアの制約上,そこには間違いなく限界がある.全てのゲームが,スマホがスマホである範疇で快適にプレイできるわけではないのだ.少なくとも今の技術では.格ゲーやFPSをタッチパネルと指でまともに操作できるとは思えない.おまえらはどうせこの一文に対して「ボクたちはできるもん!ぷんぷん!」などと怒りを顕わにするだろうが,トッププレイヤーがスマホ対CS,スマホ対PCで同じゲームを対戦してスマホプレイヤーが勝つと本気で思っているなら病院に行った方が良い.プレイヤースキルは操作性の不自由を絶対に覆さない.
要するに,スマホでゲームを作る以上実現可能なことには限界があって,それを逸脱しようとしてもまがい物にしかならないということだ.
問題は,この国ではまがい物の方が売れてしまうということである.
ソシャゲー.他のゲームから丸パクリした取ってつけたようなゲームに,いつでも制作サイドで換装可能な絵を適当にひっつけ,あとは0.00000000001%の当たりを仕込んだゴミのような宝くじを実装した,それはもうまがい物としか言いようのない廃棄物に対して消費者が金を払うというシステムがこの国では完成している.笑えるような低コストで笑えるほどに利潤が得られるのだから,近視眼的に金を得たい企業が飛びつくのは必然である.
だがそれは逆に,真にゲームを愛し,真にクオリティの高い作品を世に送ろうとする者を殺す.苦労して作ったゲームが売れない.ふざけんじゃねぇよ.
おまえらがドブに捨てた金で本当に楽しく価値のあるゲームをプレイしようという気になっていたならば,もっとたくさんのゲームがその価値を認められていたに違いない.その機会を奪ったのはソシャゲーという巨悪であり,頭を使わず楽して金儲けをする企業であり,それに金を垂れ流すおまえらだ.
ここ数年この国では毎年E-Sports元年を迎えている.競技的にゲームをすることが毎年毎年毎年毎年ちょっとずつちょっとずつちょっとずつちょっとずつ市民権を得てきた.プロゲーマーの処遇に関してもまあ色々と問題があると思うが,それはまあ本題ではないので誰か詳しい人が語ればよい.
何がダメなのか.ソシャゲーとゲームが同値であるこの国において,ゲームの競技性が向上する余地が存在しないということである.
この存在する価値のないデジタルデブリ達は金さえ払えばゲームをクリアさせてくれる.意味が分からない.お前らは何のためにゲームをしているのか.
おれは人生において金に物を言わせショートカットをすることを批判したいんじゃあない.だがこれはゲームである.敢えて言うがたかがゲームである.たかがゲームで楽をして何が嬉しいんだ.
ゲームの目的は何だ.ゲーム体験の楽しさ,クリアによる達成感,ライバルとの切磋琢磨,プレイヤー内でのランキング,そういったものだろう.その過程にリアルマネーの入る余地があってはいけない.Pay2Winはゲームバランスを崩壊させるし,課金による近道はゲームというシステム自体を否定する.金を払うことが気持ちいいなら募金でもしてろ.
しかしながら,金を払うことでゲームをクリアするのが常識になったこの国では「自らの技を磨き,実力一本で強くなろう,人に勝とう」という意識が欠如してしまうのは必然である.
実際には,日本でも少なくない数のプレイヤーが上のようなマインドでゲームをプレイしているだろう.だがその数は,日本という国のゲーム人口や市場規模と比べると驚くほどに矮小だ.なぜなら未だに大多数が,げーむにまじになることを貶め,金の力で達成感を得ることを生業にしているからだ.これでは優秀な競技プレイヤーが一向に増えないのも当たり前だ.どれだけよい品種でも,畑が干からびているなら育つべくもない.
それでもお前らはお目当てのかわいいおんなのこのために金を貢ぎたいと言うかもしれない.だがその貢いだ金はどこに行くのか.クリエイターではない.制作会社だ.お前がかわいいおんなのこにいくら払おうが,そのかわいいおんなのこに魂を吹き込んだ偉大なるクリエイターはびた一文も儲からない.お前がこれまでに失ってきた巨額の資産は,直接クリエイターに絵を描いてもらうために使ったほうが良かったんじゃないか?
はっきり言って,ソシャゲーを根こそぎ刈り取るのは不可能と言っていい.パチンコに貧乏人どもが狂喜乱舞する国で,ソシャゲーとかいう脳を眠らせたまま金を垂れ流しているだけで快楽を得られるカスのような娯楽が流行るのは致し方ない.
ならばギャンブルに倣って規制を行ってはどうか,となるわけだが,ソシャゲーに対してそれを実行するのは非常に難しい.なぜならソシャゲーとそれ以外のゲームの線引きは非常に難しいからだ.
おれは課金制度を批判したいわけじゃあない.世の中には優良な有料DLC()が多数存在するし,それらには追加的に私財を投じる価値がある.だがそれらとソシャゲーの区別は余りに曖昧だ.個々のゲームを見て「これはソシャゲー」「これはソシャゲーではない」を論ずることはできるが,演繹的にソシャゲーの定義付けを行ったとして多数の例外が出ることはまず間違いない.結果的に課金制度そのものの規制につながりかねない.それはよくない.
そもそも一部を除いてソシャゲーは法に背いていない.お前らは自らの意思で合法的にじゃぶじゃぶ金を落としているのであって,それを理に適った大義名分で規制する術などありはしない.そしてそれらと優良なゲームの追加DLCとの間に線を引くことは,実質不可能である.
ご覧の通り,ソシャゲーはまごうことなきクソである.しかしそれと同時に,おれはそのクソをどうにかする術を何一つ提示できなかった.
結局,ソシャゲーという日本にはびこる病霜に対して,おれはほとんど無力だ.だからこうやって叫ぶしかない.
おまえらは、
今すぐ、
ソシャゲーをやめろ。
祖母の生家は広島県で曽祖父が亡くなった時に母親がぽろりと曽祖父のお姉さんは原爆で亡くなり遺体も見つかっていないと言っていた。祖母が始めて母に観たいから連れて行ってとお願いした映画は「この世界の片隅に」だった。見慣れた街の景色をとても楽しんでいたと聞いた。
小学生の頃の私は酷く内向的で人と話すより空想したり本を読むのが大好きで図書室にある本は全部読んだ。はだしのゲンが唯一置いてある漫画だったので漫画も読みたい私は全部読んだ。時間が余った総合学習の時間にサトウキビ畑の唄を全部見せてもらった。映画が好きで、あと嵐が好きだったから硫黄島からの手紙も父親たちの星条旗も見た。総合学習の時間に学内新聞を作るため私たちの班には日本軍が行なった生体実験というお題が与えられた。字を読むのが好きだし家に当時からパソコンがあったから調べまくった。
中学生の修学旅行では長崎に行き被爆地を目で見た。写真で見るのとは全く違って、建物は静かで異空間の恐怖を覚えた。それは原爆に対するものではなく長崎のそのピンポイントに対する恐怖だったと思う。
大学生になって、留学生が多い学校だったから何かの流れから戦争の話になり、アメリカ人、韓国人、日本人で話していた。韓国人が感情的に私へ怒りをぶつけてきたことを覚えている。講義で原子爆弾関係の映画をいくつか見た。一番印象的だったのは「太陽を盗んだ男」だ。パワフルさがたまらなく心に刺さった。映画を見て議論するという講義だったが、この時はあまり議論は盛り上がらなかった。それでもこの映画で描かれた9番という立場は当時の私にとって衝撃的だった。
多分私の生きてきた中に、戦争加害者としての日本が強く意識づけられている。原子爆弾を落とした蛮行は未来永劫たとえ彼の国が滅びようとも許すことはできず、曽祖父の姉を奪ったそれがとても憎い。曽祖父が爆弾の落とされた街を歩き姉を探しそうして見つかることなく生涯を終えるまで一体何を感じたのか想像することもないだろう世界は憎い。数多の人の命を一瞬に、そしてゆっくりと奪い今も苦しめ続ける原子爆弾をまた使うような未来は絶対に避けたい。
それと同じくらい、戦争をして私たちがその立場になるのが嫌だ。私は女なので戦地に行くことはないかもしれないけど女性の社会参加が都合よく叫ばれている今行かなくてはいけないかもしれない。そんなことはしたくない。見ず知らずの日本の誰かが顔も知らない世界の誰かを傷つけて欲しくはない。私に怒りをぶつけ暴言を吐いた彼女に不快な思いは偉大たがたとえ大義名分を得ようとも彼女の命を奪いたくはない。
奪いたくないし、もちろん奪われたくもない。それが保たれることはとても平和で、命に限らず生きる中で何も奪わず奪われないことは、ある視点から見たらつまらないけれどとてつもなく幸せなことだと思う。満たされているということだから。
そういうことを思う。
そして満たされないからあらゆるものを巡って争うのだなということも分かっている。切ない。欲望がもう少し小さければいいのに。