はてなキーワード: 仏教とは
今日平成28年3月15日は、id:xevra先生がブッタになられた日。
「苦」の人生をいかに生きるか。
五戒とは
不殺生戒(ふせっしょうかい) 生き物をみだりに殺してはならない。
不偸盗戒(ふちゅうとうかい) 盗みを犯してはならない。
不邪淫戒(ふじゃいんかい) 道ならぬ邪淫を犯してはならない。
の五つですが、これらを生活の中で習慣化して実践することが大事だという具体的な戒律です。
またブッダは精神を統一して雑念を払い、禅定の境地に入ることを説き、さらに日常生活の中で身につけていく智慧の重要性を説いています。
この戒律と精神統一と智慧を仏教では「戒・定・慧の三学」と呼んでいるようですが、修行によってこの三つを身につけることで人間は「諸々の汚れから完全に解脱する」ということになります。
違うよ。端的にいうと先進世界の暮らしに定着した価値基準のままでは
もう男女は出会えないし子孫は残せないし育てられないし、
ようやく産んでも病は増えるし少子化とともに労働人口は急減するしで、
全体的に生きていかれないだろうとおもうっていう話。
なあ、
http://kabumatome.doorblog.jp/archives/65856412.html これよんだか。
今はまだ皿洗い出来て幸せです!!とか漁師がいい!!農業最高!!食えるなら兵士傭兵お手の物!!鉱山素敵!
っていう後進国がすこしだけのさばるけど
そっちも1ー2世代したら同じことだろーな。
マトリックスまでもたどり着けないと思う。
たぶんギリシャあたりが「完全に破綻ですありがとうございました」でプゲラされてるくせに
一番進んだ姿なのかな。
キリスト教どころか仏教でさえ女には解決を用意しようとしなかったしできなかったんだけど。
今から全員女になれ、育児してリッパな子を残す、親を見取るだけがお前の仕事だっていわれたらどうなるのかなーって。
女が多めに抱えてきた育児の苦しみ、子が苦しむのを見る苦しみ、親が豹変していくのを見守る苦しみ、
システムの奴隷になる苦しみって今までは単なる派生問題でしかなかったし、
まともにとりあってこなかったから、「しばらく耐えろ(そのうち楽に死ねる)」しか答えはなかったんだよね。
女の方が個性が殺せず、文化がないといきていけない存在だったんだが、
「女子供は文化なんておもちゃをほしがってしょうがねえな」って男からはあつかわれてた。
「男も文化なんておもちゃをほしがってしょうがねえな」ってコンピュータからあつかわれるようになる。
パチンコとかスマホのガチャ石、退会できないウェブサービスとかで何度も騒動が起こってるけどあれが全生活分野に広まる。
もうひとより少しでもよい生活のための努力なんていらないのに。
コンピューターになだめすかされたくないと思う人間はまた体力か生殖力しかいらなくなる。
もうコンピューターでマッチングしてもらわないと恋愛もできない。
おそらく先進国では同じ発達障害を持つモノ同士が婚姻をして分化を強めていくんだ。
中庸の人間なんて居なくなるのに精神科医は「発達障害を原因とした鬱病のためのSSRI」を売り続ける。
これからどうするのかね、
ハイパーレクシアとか自閉症スペクトラム(空気読めない)とかゆがんだものとされるものが
東大のある程度をしめちゃってるし
かつて奴隷だったものたちは奴隷じゃない立場を手に入れたら絶対に手ばなさないし
心の問題なのに仏教だってどんな宗教だって無欲で争いのない世界に生じる問題なんて予測してなかった。
今の日本に求められているのって「諦め」だよね
「諦めろ」って言ってくれる人を待ってる作業ように思える
それが正しいことに違いないと思うから、物事の諦め方がわからない
正確に言えば、正しい諦め方がわかりにくい
何かを諦めたからといって、他の全てを諦めなければいけないわけじゃない
でも、多くの人が何か一つを諦めると、自分自身に対する諦めが芽生えるせいか
そこで達観してしまって、色んなことを「非現実的」といって切り捨ててしまう気がするんだ
もしかすると、仏教は正しい諦め方を勧める宗教なのかもしれない
でも、俺たちに必要なのは宗教ではなくて、もっと実践的に諦めるやり方なんじゃないだろうか
経営者やアスリートの本なんかを読むと、意外に彼らが多くを諦めて前に進んでいたことがわかる。
例えば、為末さんは本当は100m走でキャリアを積みたかったけど
五輪でメダル獲得を夢見て(決して花形とはいえない)400mハードルに転向したそうだ。
俺たちは子どもの頃に教わった通りに「諦めずに頑張る」ことを信奉してきたけど
上のまとめはフェミニズムの定義や歴史などのキレイゴトだけを並べて「現実を無視」した話だけが述べられていて
はてぶのコメント欄にはアンチフェミの優れたコメント、ツッコミが多いのでまとめてみました。
上のまとめしか見ないで、はてぶを見ないで勘違いしてしまう人が多いと困りますからね。
(それでいて「待機児童で少子化がー!」って意見には共感してるんだから頭が悪すぎて話になりません)
自分たちが害悪だと気付いてない馬鹿女ほどフェミになるんだよね
「自分の主張の正しさはフェミニズムを勉強すれば分かる」という主張が意味ないということはわかった。多様なんだから。結局本人に尋ねるしかない。あなたのいうフェミニズムってなんですか? って
つまり自浄作用は期待出来ないという事か… 当事者が総括しきれない以上、周囲が手を貸すしか無いんだろうけど、やったらやったで発狂するんだろうなーとこしあん氏周辺を見てて感じる所なの。ぬーん…
こういう分類って外から見て何の意味もないのはこれ書いてる人もわかってるはず
他の思想を軽視しておきながら、思想統一の全体主義に怯える意味が分からない。
素人考えですが、男女の完全な区別撤廃がゴールでいいんじゃないかな。区別がなければトランスセクシャルでも全然困らないし男女差別のしようもない。女子サッカーも女子校も女子トイレも終わりでどうだろう
(男女の完全な区別撤廃) そうなったら一般的に知力体力精神力で圧倒的に劣る生まれつき弱者の女という肉体を持って生まれた時点で悲惨。対等扱いなら負け組決定でイジメ対象。先日の「障害児産んでつらい」と同じ
こんなんどうでもよくて社会のためならば思想信条と表現の自由を侵す事を是とする全体主義者と科学的根拠を軽視する人文系クズとキリスト教の道徳を押し付ける宗教キチガイは死ね以外の感想はとくにないよね
>フェミニストの固有名詞が一人も出てこないところがミソ・・・同意。特に日本の有名なフェミは女尊男卑で男憎しのキチ害婆ばかりだから。定義と歴史だけをゴリ押しして自己正当化に必死な※が現実を無視してる証拠
他のフェミニストが馴れ合いで「あれはフェミニズムではなくミサンドリー」と自浄しないからだろ。オウムと仏教、ISISとイスラム教の関係に同じ
「民主主義とは」って教科書の理想・理念と同じ。現実は理想からは遠く「衆愚政治」になっている。これは多くが認めるのにフェミが「衆愚フェミ」になってる現実は絶対に認めずに批判に逆切れしてる卑怯な人が目立つ
twitterにいるクソフェミがこの分類には見当たらないのだが…。
フェミは新興宗教のようなもの。新興宗教なんて一般人からみたらどれもキチ害と同様。「偏見を持つな!」と言われてもTOP級のフェミも女尊男卑のクズばかりで説得力ゼロ。女性からもアンチフェミが激増の現実を見ろ
>理想と現実が解離しすぎ・・・これですね。「フェミは共産主義に酷似している」と言われるが妄想上の理想を追求した共産主義は旧ソ連のように失敗するだけ。現実の男女差を無視してるから現実にそぐわないのは当然
はてなに限らず、2ch小町がるちゃんどこでもそうなんだけど女脳には「人それぞれ」という言い訳が標準装備されてんの?女脳の半分は言い訳成分でできてるよな。現実が見えてない。
一人一派と社会運動としてのフェミニズムは矛盾すると思うのだけどそのへんどうなの?
問題は理論を学んでいてもいなくてもフェミはキチガイが多い、ということ。根源が女性の感情から来てるからなのか?解決策は「人口子宮⇒女の人権の剥奪」しかない。一般女性まで薄いフェミで傲慢になりすぎ少子化
「偏見を持つな!」と言われてもTOP級のフェミも女尊男卑のクズばかりで説得力ゼロ。女性からもアンチフェミが激増の現実を見ることができない哀れなフェミ婆が多い
「私」と「全体」を切り離せるかだよなあ
>理想と現実が解離しすぎ・・・これですね。「フェミは共産主義に酷似している」と言われるが妄想上の理想を追求した共産主義は旧ソ連のように失敗するだけ。現実の男女差を無視してるから現実にそぐわないのは当然
大体あってると思う。問題はそれぞれの定義と「実際の運用と中の人のメンタル」はまた別物でアホみたいに細分化してるし本人が掲げる理屈にすら合ってない。はっきりしてるのは共闘とか言い出すだけ無駄って事
総じて『あぁ…「宗教」やなぁ…』という感じ。/まぁ、信仰するのはご自由に…としか言い様がないけど、それを普遍的な「正しさ」だとして迫ってくる場合がタチ悪い。
「不快」「実害」についてが気になるところかなあ。無視・コソコソ陰口系のいじめは目に見える「実害」はないので「気にするな」で済まされたりするよなー、とか。
日本国内における頭のおかしいキリスト教徒の文化侵略の隠れ蓑の話がない
ようは「女が不快に感じたものは攻撃されるべきだし規制されるべきである」ってことか
アフリカの何とか解放戦線もしばき隊もフェミニズムも全部「他人を支配下に置きたい」という強い欲求を持って行っている点では共通している。お題目が違っても行動が似るのは求めてる物が一緒だから
こいつらは「個人で生きろ」「自分自身を見つめろ」と言うが、そうした結果みんな何もできなくなっているのではないか。フェミニズムは男性を救わないし私はフェミニズムに協力しない。
現状のフェミニズムは自称フェニミストの自己中な願望を実現させようとするための手段でしかなくなってるのが非常に残念。
この内容に対して「オトコが悪い」のブコメ!集まる星!絶望しろ!これがはてなだ!
最近は「一人一派」と名乗ってゲリラ戦に勤しんでいるので、体系としての学問を放棄している模様
日本のフェミニズムはそのうち一般女性に矛先を向けて攻撃を始めそうな感じがある。
フェミニズムは学問ではなく左派政治運動であり、フェミニズム等の文化左翼は左翼の中でも最下層の吹きだまり。
フェミって学問としては表面上はキレイゴトで加工されてるから高学歴ブスはハマリやすいんだよね、はてな婆のようにw
問題は理論を学んでいてもいなくてもフェミはキチガイが多い、ということ。根源が女性の感情から来てるからなのか?解決策は「人口子宮⇒女の人権の剥奪」しかない。一般女性まで薄いフェミで傲慢になりすぎ少子化
日本は感情が先走るのでセックスとジェンダーを分けることができない。
フェミニストからキモオタは死ねと言われ、私はもちろんキモオタであるから激昂してクソフェミは死ねと言い返しかけて、そこでふと気がついて困惑した。…
一言で言ひ表せたが。といふ揚げ足取りはともかくコンパクトに概観をまとめてゐて好感が持てる。/ともあれ、フェミニズムは滅ぶべきと考へる次第である
落とし所はゾーニングかな「私が不快に思うからNG」じゃなくて条文に落とし込めるような共通認識と定義があれば議論は可能
こうして見ると一理あるみたいに思えるけどネットで見かける自称フェミが軒並み基地害なのはなぜなのか
http://anond.hatelabo.jp/20160229202916
この記事のコメント欄に、「こういうのは宗教が救えれば良いが日本はそのあたりが弱い」というコメントがあった。
自分は大きくこれにうなずいた。
最近の日本仏教、とりわけ江戸期の葬式仏教以来、崇高な精神を日本の仏教は失ってしまった。
同胞が殺されているのになぜ声をあげない。
世界平和を望むなどと口先ばかりで何もしない。ようはお金にならないことはしない。
ホームレスに対する炊き出しもそうだ。やっているのはキリスト教の団体ばかり。
昔の仏教説話には、弱い立場のものに仏が姿を変えて出てきて、功徳を積むよう
諭すものがたくさん出てくる。
とにかく金、金、金、そればっか
恥を知れ!
死霊術師としてのすべては、今は亡き祖母から伝習した。大学では文学部に進学した。これはもともと歴史学に興味があったことと、死霊術師としていつか遭遇するかも知ない事態に備えるためだった。
大学3年生の終わりころ、死霊術師としていよいよその事態を迎えることになった。
ある日テレビを見ていると、旅番組のようなものがやっていて、滋賀県の西部の山林地帯をいつも見る芸能人が歩いていた。何の変哲もない番組だった。しかし、テレビを介しても充分過ぎるほどに、死者が放つ霊の波動が伝わってきた。もちろん、普段生活していてもその種の死者の波動を感じることはある。霊波は一般に、腐ったり火葬したりして身体が失われると弱まる。またたとえ身体があっても、時間経過によっても霊の波動は弱まる。人間やその他の生き物は、その場にとどまろうという意志を長くはもちえないのだ。恨みだとか、一般に強そうと言われる意志ですらそうだ。こういうのは仏教的に言うと成仏していくってことなんだろう。魂は残らない。めったには。
テレビで知った、滋賀県の霊波は別次元と言えるほど古く、そして強力だった。おそらく、亡骸がある程度そのままの、古い死体があるのだろう。そして、強靭な意志を21世紀でも保っている。
死体と強い意志。これが重要だ。死者蘇生の用件を満たしている。そしてかなり古い。
腕試しにはちょうどいい。見つけてしまったらもう止められない。死霊術の行使者として、その興味関心を止めることはできない。
祖母から習った作法で、霊波の質から霊が生きた(死んだ?)時代のおおよその年代を感じとった。520年+-30年前くらい? 手元の『日本史辞典』を紐解く。室町後期? 手が震える。研究室で『国史大辞典』にかぶりついた。
その頃の近江は一般に長享・延徳の乱と呼ばれる動乱期にあった。守護の六角氏討伐のために将軍足利義尚が長く近江に陣を設けていた。どうやら死体はこの時期のものらしい。
私は大学の研究室の院生の先輩に聴いてその時期の文献を学んだ。また隣りの言語学研究室と国文学研究室に行って、室町時代の言語やその発音について質問した。かなり難しい。筆談の方がいいかもしれない、と祖母のアドバイスを実感をもって思い出した。まさか室町期の死体に会えるなんて。せいぜい行って天保期くらいだと思っていた。古い死体なんてものは時代を遡るにつれて加速度的に少なくなる。祖母は明治4年に死んだ男の死体を蘇生したことがあると言う。これでもだいぶん古い方だ。室町期の死体なんて、祖母からもきいたことがない。後で聞けば、先輩方は私が卒論で室町時代後期を扱うから一生懸命調べていると勘違いしていたそうだ。
春休みに近江に旅した。大きなスーツケースを持って。蓬莱なんてお誂えむけの地名だ。山の方に入っていく。山は静かだった。ほどなくして現場に到着した。霊波は強い耳鳴りのような形で私の身体に具現する。こんな古くて強い霊波、他の死霊術師が気付かなかったのはちょっと不思議だ。まぁ波長が合う、合わない、はかなり厳密だから。私にもってこいのチャンスなのだ。私は女ながらオリエンテーリング部で体を鍛えていたから山歩きは結構得意なのだ。オリエンテーリングなんて全然興味が無かったんだけど、新人歓迎コンパで迎えてくれた先輩方の雰囲気がすごく良かった。サークルでは、大学生なりだけど、人との付き合い方、間の取り方を学べたと思う。高校生の時にはあまり意識できなかった、人間(じんかん)の距離感や発話。
山道から沢に下りる。死体が残った理由が、何となくわかった。日本では死体はすぐ腐って亡くなってしまう。しかし沢下にはぽっかりと、知られざる洞窟が顔をのぞかせていた。多分ここに死体がある。相違ないだろう。もしかしたら近年はずっと埋まっていて、最近になって地震などで再び穴が地表に現れたのかもしれない。だから今まで波動に誰も気づかなかったのかも? 洞窟は沢が近く低温が保たれ死体が保存されたのかも。あるいは永久凍土なんかがあって風穴で涼しいのかも。ま、これを考えても詮無い。とにかく、死体があるのは明らかなのだから。
ひんやりした洞窟に足を踏み入れる。かなり急だ。いよいよだ。震えるほどだ。周囲には驚かれるけれど、死霊術の技術は、実は私にとってはとても簡単なものだ。血も継いでいるし、祖母と言う佳き師もあったから。祖母もいっていたことだが、基本的に死霊術師は技術的な部分はそんなに問題にならない。むしろ重要なのは、死者と会い、契約する時の対話の仕方だ。死者が生きた時代の言語や常識を、こちらが把握してしっかり対話せねばならない。そうしないと蘇生に応じないこともあるだろうし、蘇生したい旨すら伝えられないこともあるだろう。死霊を怒らせてしまっては、あるいは成仏させてしまっては元も子もない。死霊術師の実力はここで決まる。このことを上手くやるために、私は大学では文学部へ行ったのだ。もし死霊術師に生まれなかったら、稲の光合成の研究をしに理学部か農学部へ行きたかった。
洞窟の奥にややひらけた場所があり、その壁によりかかるように木製の箱型の人工物が見える。…ああ、かなり古い牛車だ。小八葉の牛車? 公家が移動手段として用いていたもの。八葉の大きさ、小さい? 大きい? これで身分が大体分かるのだが…肝腎の大きさが、大きいのか小さいのかわからない。そんなの文献に載ってない。牛車なんて初めて見るんだ。そもそも近江に牛車。やや不可解? 足利義尚の近江出陣の際には公家も近江まで出向いたというから牛車できてたのか? それにしたって牛車で近江まで行くの? なにもかも自信が無くなってくる。
これではだめだ。祖母の言によれば、まずはその人をそのまま、そのままに感じるのだ。先入主観は退けるのだ。牛車の文様が大八葉だろうが小八葉だろうが、なかに居る主こそを見るべきなのだ。
精神を澄ませる。霊とは頭の中で会話する。結局、『太平記』のテキストをメインに準備を進めていた。『太平記』は南北朝時代を描いた軍記物で、室町後期には往来物として身分を問わず人々に広まっていた。死体の教養がいかほどであっても『太平記』の語調なら大丈夫ではないか、と考えた。とうぜんテキスト変わっているんだろうけど…。
「私はあなたよりも後世を生きる人間で、その間に人間が語る言葉も変わってしまった。この言葉があなたにどの程度通じるか私にはわからないが、どうか話を聞いてほしい」。ここまでテンプレ。国文学研究室の富田先輩ありがとう。
…牛車がガタガタと動く。御簾が超自然的な動きを示し、内の暗闇をあらわにする。お化けが怖い人はびっくりするんだろうけどもちろん私はそんなことはない。打掛の裾が見える。小袖が二重? そして茶色く干からびた手のひらが…暗くてよく見えない…が、死者に話しかけた段階で幽界との淡いが生起し、この世ならざる強烈なイメージが五感以外から五感を経由し認知される。死体は髪の長い公家の女性が見える。平安時代のオカメで十二単のイメージがあるけど、それより軽装だ。でも相当めかしこんでいる。この時代の人間は小さいしガリガリだな。さぁ、いよいよだ。頑張って蘇生の素体になってくれるよう語りかけよう。
「…私の寂滅からどれくらいの時間が経過しましたか?」むむ、なんとかこれくらいなら聴き取れる。うほっ、「太平記読み」専攻の坂田先輩ありがとう! 高校の非常勤やりながら大変でしょうけど博論頑張ってください。
「五百有余年でございます。『太平記』を読んであなたの時代の言葉を学びました」「…私も『源氏物語』で古の言葉の遣いに触れました。」「実は、…今日はあなたにお話しがあって武蔵国から参ったのです」いよいよ本題だ。
「あなたは強い心をお持ちで五百有余年をお過ごしになられました。そして幸いにしてお体も崩れず残されております。私はあなたの精神と身体とを結び付かせ、再び現し世に復することができます。再び洞窟の外に出て暮らしてみるのはいかがでしょうか」
「たしかに私はまだ黄泉の食物を口にしておりませんね」さすが公家の娘だけある。当意即妙にこたえねば。「私なら黄泉比良坂をあなたを連れて戻ることができます。」「どうして私を選ぶのです」「あなたのように長らく意識と身体とを保つ例はめったにないことなのです。」実はこれはあまり理由になっていない。死霊術師の衝動を説明するには、私には言葉が足りない。彼女が尋ねる。
「当時(筆者注:ここでは現在の事を指す)は死者を供養する作法は未だ仏式を用いますか?」意外な質問だ。自らの供養を望んでいるのか? 「ええ、大分形はかわっておりますが仏の教えは今でも通用しております」「ならば既に死んだ者を私なりのやり方で供養して、意味があるということですね」…あやうく意味を取り損ねるところだった。ちょっと不可解な質問だ。彼女は何を考えているのか。彼女の事を深く知った今になって考えると、これは彼女なりにかなり考え抜かれた、ある種の哲学のようなものだった。彼女の培った供養の作法。そのルールがもし現代で途絶えていたら。つまり仏教が現代に伝わらなくて、もし私たちが何か違う祈りの作法で死者を弔っていたら。きっと彼女は蘇生に応じなかっただろう。彼女の知っているルールで現代でも供養ができる。これが彼女にとって重要だったのだ。
「私は京都の六角富小路に邸宅がある公家(筆者注:ここでは「こうけ」って読んでね!)に生まれました。大乱(筆者注:ここでは応仁の乱を指す)の後の騒擾の世でありますから、私は近江を根拠にする武家の御仁に嫁ぐことになりました。いよいよ渡嫁のとき、牛車が谷に落ちて私は命を落としたのです。嫁ぐことが決まってから、武家奉公人の生活が如何様であるか、主人が如何なる稟性を持つのか。和歌は読めるのか古典は存じているのか。いつも想像していました。」死霊術師の常識から考えれば、それだけでここまで精神は保てない。私はほとんど確信をもって尋ねた。「もちろんそれだけで想いを保つことはできなかったでしょう。どうして。」
彼女はここで初めて表情を私に感じさせた。「実は洛中で一度彼の人をお見かけ申上げたことがあるのです。私の生家は上って四位の家柄ですから、ふらふらと外にでてもあまり咎められることは有りませんでした。ある日京師が物騒になり武家の人が20騎ばかり邸宅の前を過ぎりました。颯爽と武者を連れていたのが、後々判ったことですが我が主人となる方でありました」え? それだけ。うーん恋愛感情ってわからないけど、そんな単純な感情で何百年も持つのかな? 単純だからこそ長持ちする? わからんね。すると彼女が続ける。
「死んだあとはずっと新しい生活の事を考えていました。武家の生活。今まで見知った知識や噂話全てから、ひとつひとつ、未だ来ぬ時の先をずっと、ひとつひとつ限りなく。一日の起きてから寝るまで。衣服の糸先から世情に至るまで。とにかくひとつひとつ。世に現れるであろう現象をすべて想像しうる限り、ひとつひとつ。彼や周囲の人間との交わされたであろう会話をひとつひとつ。彼の人とのありうべき時と出来ごとの全てをひとつひとつ想像していたのです。そうしたら、ええと、五百有余年過ぎ去っていたというわけです。」そうして彼女は莞爾した。私は一発でこの女性を好ましいと思ってしまった。こんな偏執的で叮嚀な思考回路を持った人があるだろうか。この人なら。彼女に21世紀の平成の世の中で夫となるはずだった人の菩提を弔わせたり、あるいは彼の一族についてその後どうなったか調べさせたりすることは、彼女の心性をおそらく負に傾けることはないだろう。ひとつひとつ、彼女には想像したことの自分なりの答え合わせをしてもらえたら。私がそのお手伝いができたら。ちょっと身勝手か。とにかく、この人なら大丈夫だ。
好奇心とイマジネーションとを併せ持って、平成の世まで意識を有した五条顕子姫の死体は、その意識と共に、こうして私の赤羽のマンションにやってきた。
へえ、そうなんだ。じゃあ今の仏教ってだいぶ変質してるって事か。
それにしても本当に仏陀好きなんだねえ。日を改めてトラバしたのに、速攻でトラバ返ってきたし。印度史だったか宗教学概論だったか忘れたけど大学で講義受けた時先生もかばってたのを思い出した。小国でどうしようもなかったとか。
でも2500年前の人に興味持つのとか難しそう。何しろ知的欲求も薄れているので。
あらゆる欲望が消えた後に残るのは生物的本能だけだと思うけどなあ。
文字通り大正時代に、それ以前からあった仏教系の学校が連合して成立した大学だ。
で、この大学にはインド繋がりなのかカバディ部があって、カバディ日本代表はここの出身者が大半を占めてるんだけど、
残念ながら野球やサッカーといったメジャースポーツの代表とかと比べると、別にすごいとは思わないだろう?
それはカバディの競技人口が、メジャースポーツに比べると明らかに少ないからだ。
野球やサッカーだと、甲子園やプロで活躍している人がいて、まさに超人扱いされてるけど、
それは彼らが数多くのライバルと戦い、勝ち残ったごく一握りの存在だからだ。
つまり、そこまで行けなかった大多数の敗者が、甲子園のヒーローやプロ選手の価値を担保しているわけだ。
恋愛についても同じことが言える。
老いも若きも男も女も、そして増田も参加しているという建前がなくなると、競争の勝者としての価値もなくなってしまう。
増田がそれに参加して、決していい目は見られないだろうということはわかっていても、
とりあえずモブキャラとして存在してもらわないと、彼らも困るわけだ。
何も考えずウェーイしてるようで、いろいろ考えてるんだよ。角度とか。
そのイメージはどこで培ったんだ?
たしかにブッダは妻子は投げ出したけど国に戻ってるし、妻子ともども弟子にしてるし、彼の国は(ブッダが生きている間は)滅びてないし、そもそも特定の宗教に傾倒したわけでもない。実際のところ仏教を創始したわけでもない。今の言葉でいえば、哲学者、社会運動家、心理カウンセラーみたいな存在だったんだよ。輪廻とか解脱といった言葉づかいは宗教的だけど、2500年前の世の中だから、そもそも多くの語彙が宗教的な響きがある時代だ。後世の人々が尊崇の念のあまりブッダを神格化して、後に宗教になっていったんだけどな。
日本によくいるよな。宗教=危険みたいな考え方で、「(俺が考える危険な)宗教」らしきものを目の敵にして、実物を全く学ぼうとしない。学んだら信仰心が目覚めてしまうかも、とか怯えてんのかな。
ブッダは死ぬ前にこう言ってんだよ。死後、俺を頼りにするな(=神格化するな)。俺の教えを参考にして自分自身を頼りにして生きていけ、ってな。そもそも自分が宗教団体を主催してるという意識もなかったから、晩年は教団を離れて少数の弟子と放浪の旅に出てる。実際、ブッダの死後に「ブッダも死んだし俺たちの好きなようにやってこうぜ」って考えた一派が後の北伝仏教、つまり日本仏教の祖先にあたる集団だよ。彼らはオリジナルからどんどん離れていった。「菩薩」「般若心経」「空」「禅」「隻手の声」といった仏教的な思想の多くは、北伝仏教が勝手に主張し始めたものだ。
というわけで、世界三大宗教とはいえ、オリジナルの頃からイエスやムハンマドとはだいぶ趣が異なる教えだったんだよ。
ついでに言えば、よく誤解されてることだけど、ブッダは欲望を否定したわけじゃないからな。欲望をなくしたいという考えをやめたんだ。そもそも、欲望をなくしたい、ということ自体が一つの欲望だろ? じゃあ、ブッダは何を語ったのか。もし気になるなら後は自分で調べな。
なるほどね。その歴史によって瞑想に関する知見が集まっているからということね。
それはまあ理屈ではある。
その場合
仏教の瞑想をやって効果がなかったら、それは仏教の瞑想がインチキ瞑想ということになるのかな。
それとも、渡邉美樹よろしく「『無理』というのはですね、嘘吐きの言葉なんです。途中で止めてしまうから無理になるんですよ」ということになるわけ?
地球のどこかに何かがっていう話は理屈上は出来るけど意味は無いと思う。
てか、瞑想ってある種の盲信がないと出来ないの?
別に正しさや絶対的評価をもとにメソッドを採用する必要がないだろ。
「自分の主観的評価として仏教のメソッドが一番使えるけど、これが世界で一番使えるメソッドかどうかは分からない」
というのが理性的な判断だと思うし、これで充分行動は選択できるはず。
てか、瞑想ってある種の盲信がないと出来ないの?
それならそれで仕方がないような気もするけど。
その優越性、完全性についての検討とやらは、仏教社会の中でしか通用しないもんじゃないの?ってことを他増田も言っているわけで。
もちろん仏教を認めたくない人には通用しないと思うよ
取れてたら全員仏教徒になってるよ
その優越性、完全性についての検討とやらは、仏教社会の中でしか通用しないもんじゃないの?ってことを他増田も言っているわけで。
その「正しさ」は何によって規定されているわけ?
経典。