はてなキーワード: プリントとは
お嫁さんの顔を、プリントしてお面にしよう。
医学部の試験がどういう難易度でどういう問題なのかは知らないけど、誰かが作った過去問の回答とか授業や課題で出た問題とかまとめプリントから露骨に出そうな問題とかないの?
親が医者というわけではないのだが、子供のころから病気オタクだった。愛読書は家庭の医学だった。7歳ぐらいの頃は本で読んだとある病気の発作の真似をしてよく親に怒られた。
大して頭がいいわけでも勉強ができるわけでもないのだが、テストになると奇跡的な勘が冴えて、特になんということもなく医学部に入った。
しかし入学後に躓いて、1年目から追試に次ぐ追試、追試地獄に陥っている。全然テストで点数が取れない。テストのときに奇跡的な勘を働かせても、まだ足りない。
というより黙ってぺたっと椅子に座ることができない。みんなに図書館で勉強した方がいいと言われているが、図書館で勉強していると腰が痛くなる。次に背中が痛くなる。最後に頭が痛くなる。仕方がないから図書館の中をプラプラ歩いていると、面白そうな本を見つけて読んでしまう。
図書館での勉強を諦めて、最近は自室のこたつの中でぬくぬく勉強している。この方がまだマシだが疲れるとすぐに寝っ転がって眠りに落ちてしまう。
筋力が足りないのかな?と思って、数日前からプランクを始めた。
座ることは何とかできたとしても、その後教科書・レジュメを読むことができない。
予め断っておくが私はどちらかというと読書が好きでおそらく年間70冊ぐらいは本を読んでいるので、読字障害ということはないと思う。
教科書・レジュメを読もうとしても、どう読めばいいのか分からず、ただ漫然と眺めているだけになってしまう。特に図の多いものは最悪である。
図に惑わされずに文章の部分だけ読もうとしてもどこが重要でどのように覚えればいいのか分からず、ただ字面を追っているだけのような気がする。案の定何も身についていない。
おまけに変なところに固執して同じところを何度も読んでしまい全然進まない。いつも試験範囲の10分の1ぐらいしか読まずに試験を迎えてしまう。そして落ちる。
試験対策委員がまとめプリントのようなものを作ってくれているのだが、それすらも量が多すぎてどう読めばいいのか分からない。
仕方がないから、過去問を解こうと思っても、教科書やレジュメを読んでいないとほとんど分からず、もはやどこから覚えればいいのか分からず、途方に暮れて頭がぼんやりしてしまう。
昔から、どうすれば教科書や参考書を読んで物事を覚えられるのか分からなかった。実のところ人生において今まで教科書や参考書をまともに読めたことがほとんどない。化学の参考書も倫理・政治経済の参考書も生物の参考書も全て挫折した。しかし何かの悪運によって大学受験までは何とかなってしまった。しかし医学部では何とかならないようである。
仲のいい学年トップクラスの友人に勉強の仕方を訊いてみた。ざっくりいいうと教科書を読んで、まずまとめを作る。その後に過去問を解く。というようなものだった。
真似しようとしたものの、教科書が読めないうえに、まとめを作ろうにもどこが重要なのか分からないので、真似できなかった。
その同級生とは同じように現役で入って入学時の成績も同じぐらいだったのに、今となっては差は歴然である。少し悔しい。
おまけに、私はロングスリーパーである。1日8時間ぐらいは寝ている気がする。テスト前もなかなか夜中まで起きているということが難しい。朝早く起きるということはもっと難しい。
どうすれば全教科それなりの成績がとれるだろうか。
「書く/消す」を広範囲で「低コスト/簡便/安定」で行えるツールとして黒板は優秀。また、あのサイズにすることで、動作を交えて「指示する」働きもある。40人程度の人間に授業を行うツールとしては群を抜いて優れている。
プリントは「提示する」ことしかできなくて、「消す」「指示する」ができない。それに印刷機が使えないと途端に詰む。
タブレットはそもそも低コストではないし、エラートラブル、機器・電気代を考えると簡易性、安定性で黒板には遙かに劣る。また、地味に響くのは「同じものをみんなが見ている」という状況を担保できないことだ。タブレットはそもそも個人的なツールなのである。
ホワイトボードは悪くはないし白地に黒で視認性もよいが、マーカーが地味に高コストである。
黒地に白の黒板は、同程度の視認性を担保でき、共同性をもち、低コスト/簡便/安定なツールとして、やはり替わる者がない。「黒板自体は安くない」という声もあるかもしれないが、耐用年数はかるく30年に及ぶ。
また、万一黒板のない状況に陥ったら、極論地べたを「黒板」として使用してもいいわけだ。つまり黒板を用いた授業スキルを身に付ければ、おおむねいかなる状況でも授業ができる。たとえば大震災直後とかであっても。
ただし、黒板には以下の課題もある。
・「書く」という時間が掛かる。
・粉が飛び散る(少し良いチョークを買えばかなりマシではある)
・運用コストとして黒板消し、黒板消しクリーナー(及び電力)が必要。ただし、黒板消しをパンパンしてよければ、クリーナーは不要。
・「黒板を消す」「黒板消しを綺麗にする」など、運用上、生徒という無償の労働力を使うことが前提となっている。
以上を踏まえて、今後は、黒板の利点を生かしつつ、他の道具も適切に活用することが求められるだろう。(たとえばプリントと同じように「提示」にしか使用しない、大量のデータや内容を示す必要がある、といった場合はプリントを使用する。大量のデータを記録させ後で見返してレポート制作をさせる、といった場合はタブレットに資料配付する、など。)
セブンユーザーだった私は富士ゼロックスの複合機を愛用していたわけだが、ここ最近ローソンやファミマの複合機を愛用している。この2店舗の複合機はシャープ製だ。富士ゼロックス……、君ってやつは硬派な複合機だったぜ。私はお前が大好きだ。だがしかし、シャープお前はいくらなんでもシャープすぎるぞ。
ローソンやファミマでシャープ製の複合機を使ったことのある増田諸氏ならご存知だろうが、この複合機はプリント待ちしている間、液晶に間違い探しの絵が表示される。こいつがとんでもない曲者だ。間違い探しイラスト1問目が出てしばらくすると答え合わせが始まる。答え合わせが終わると2問目スタート。だいたいここで終わるのだ。ちょっちょっ待てよ。2問目の答えは!!まだ出てねぇだろ!これを幾度となく繰り返している。
はじまりはいつも、シャープから。それはわかった。いくらでもはじまっていい。でも、答えを出してくれ。小出しに始まった謎解きの答えは次回へ持ち越し。に、そもそもならないからな。次にコピーしようと作業した時のガッカリ感、わかるかシャープよ。さっきの間違い探しの絵を出してくれないんかーい!ってなったがな。
終わらないのはシャープのエターニティーってか?シャープの終わりなき旅。バカやろ。謎解きについては答えを出してくれよ、シャープ。あのニンジン持ったウサギとかボーダーのロンT着た猫が煽っているように感じるレベルだ。
この記事は29歳独身男性が正月に帰省して、家族とのやりとりから自分の生き方の癖の原点と、自分の慢性的な渇望を自覚した話を淡々と描くものです。過度な期待はしないでください。あと、部屋は明るくして、ディスプレイから3メートルは離れて読みやがってください。
もちろんフィクションですので実際の人物団体とは関係ありませんし一部フェイクいれてます。
今回帰省で1日目は母方の祖母の、2日目は父方の祖父を訪ねる日程だった。実家と祖母、祖父が住んでいる家はすべて関東圏内で、車で1時間程度の距離である。
今回祖父母の家を訪ねるにあたり、大学生の妹が練習のために運転して父が助手席で監督するというかたちだったのだが、運転席の後ろに座っている母が運転中に車間距離や運転速度、歩行者について大声で責めるような口調で口出しをするのがとてもいたたまれなく、つらかった。5分に1回以上のペースで「あぶない!!(どこに歩行者がいるのかなど具体性なし)」「(車間距離が)近すぎ!」「もっとスピード落とすようにしっかり指示しないと!(父に向かって)」と叫ぶのを聞くのが耐え切れなくなり、母に対しかなり強い口調で運転中に別々の人間から指示を出されるのは運転手にとってフラストレーションだし危険である、ということを伝えた。そうすると母はやや不満げにわかった、といいしばらくは黙っているのだが10分も我慢できなかったようで、またすぐに口を出すようになった。私が運転に慣れてなかった頃も同じように父に監督してもらったが、そのときも後ろに母が乗ると必ず口を出してくるためやめてほしい、と何度も伝えたのだったのが思い出された。
そこで私は、あぁ、母は本当に私や妹がどう思ってるか興味はなくて、自分の子が自分の思い描いた通りに動くかどうかに1番の関心があるんだな、と諦めがついた。この車のエピソード自体はまあ大したことではないのだけれども、私にとってコップから水があふれる最後の一滴だった。私は自分の感情や欲望というものに蓋をするのが非常に上手で、他人の顔色を伺い、自分の気持ちを表明せずに飲み込めば場がうまくいく予感がする場合、ほぼ必ず飲み込んでしまう。その原点のひとつがこの情緒不安定で話を聞き入れない母で、その対策として私の性格が形成されたんだろうな、と納得した。とても寂しいけど、とても腑に落ちる納得だった。
母は非常に心配性であるとともに、自分が正しいと思ったことは絶対に曲げない性格である。そして気分の波が激しく子供のころはそのことで随分苦しんだ。父は御三家中高→東大→大手銀行、母も御三家中高→名門私立大学首席と大変立派な学歴であり私が中学受験するのは生まれる前から決まっていた。(私が生まれる前の時点でマンションを購入するときの判断材料のひとつが御三家に私が合格した場合に通学しやすい駅であることだった、というエピソードから色々察してほしい)。3、4歳から公文を習っていて、宿題の計算プリントが終わらなくて家で泣きながらやっていたら強い腹痛を感じたため母にそのことを伝えたら嘘をつきなさい!と睨まれたのは今でも忘れない。自分のつらさを伝えても無視される無力感はいまだに生々しい。カリキュラムテストや公開模試の結果が返ってくることがとても憂鬱であったこともよく覚えている。専業主婦だった母にとって、私の中学受験、そして大学受験は一大プロジェクトだったのだろう、母のエネルギーと執着は私に注がれ続けた。
母の狂気、そして父の経済力のおかけで私は予定通り御三家に進み、国立医学部に進学、卒業し現在某県で四六時中働いている。普段はそこまで意識しないのだが、毎年年末年始はとくに情緒が不安定になる。愛し、愛されていますか?と周りから問いかけられているような被害妄想にかられてしまう。別に目の前で夕飯の具材を和気藹々と選んでいるカップルは私を追い詰めて孤独感をつのらせようとしているわけではないし、スーパーに鳴り響くクリスマスソングは今年も恋人と過ごせない私に意地悪して惨めな気持ちにするためにかかっている訳ではない。勿論そんなことはわかっている、わかっているが胸が締め付けられるし深呼吸できなくなるし、少しでも油断すると愛されない自分と、愛し合ってる幸福な関係を呪いたくなってしまう。こんなにも愛されたいのになんでこんな愛されにくい性格なのか、どうして愛されるのは私じゃなくてお前なんだ、と。
私は他者に従順で、他者の顔色を伺うのがうまく、自己主張は激しくない。他の人が面倒がってやらない仕事もするため上の先生受けは悪くない(はず)し、患者や病棟スタッフからは優しい先生だとどこの病院に勤めても言われる。病院を移るときに泣いて感謝されて別れを惜しまれたことも数回ある。それは大変、大変ありがたいし私の数少ない生きる支えになっている。本当に感謝している。単に便利な駒と思われてるだけかもしれないけど、それでも身が粉になるまで働くね。が、一方で私の利他的な言動の根幹に自己嫌悪と人間不信が深く深く根付いていることに最近気づいた。
人を信じていないため、相手の利益になることをしないと自分に価値はないからすぐに捨てられるだろうという確信、強迫観念がある。素の自分に価値はないから勉強すべきだし、素の自分に価値はないから他の人がやりたがらないことをやるべきだし、素の自分に価値はないから他人のために生きるべきしそのために自分の感情や欲望に蓋をするのは当然だ、と。見せかけの自分を偽装することが年々上手くなり、幸か不幸かその評判が職場では悪くなく、ただ自分の気持ちに厳重に蓋をして他人軸で生きているため満たされなさ、慢性的な空虚感、欠乏感がある。正直今なにかの拍子に即死したらお、ラッキーじゃん?と思う気がする。この欠乏感はどういうときになくなるか自分の気持ちを必死で感じてみると、心を許せる人と時間を過ごしているときだけはこの胸の裏をカリカリ引っ掻かれるような気持ちがなくなることに気づいた。ただ一人に誰よりも愛されたい、受け入れてほしい、という普遍的な、しかし切実な気持ちである。
私はとにかく異性に縁がなく、人生唯一の交際していた期間は24歳のときの1年間で、それ以外は凪である。そのときの相手には今でも深く深く心から感謝していて、あの未熟でどうしようもなかった当時の私をいっときでも受け入れてくれたことは生涯忘れない。幸せにしてあげられなくてごめんね、幸せになってほしいといつだって祈ってるよ。その後職場や婚活で何人かに好意を示したが、私の空虚がバレるのか交際まで至ったことはない。みなさん大変見る目がある。おそらく私にとっては2人の時間のおかげで心が安定するが、相手にとってはそうではなかったのだろう。包容力、余裕のなさよ。私は貯金もあるし料理もするし水回りの掃除は好きで家事機能付きATMとしてはそれなりに機能するのだがそれを差し引いてもお断りされるのだから笑ってしまう。私がなぜ愛への羨望、渇望があるのかと考えると、無条件に愛されているという実感を感じたことがなかったからではないかと思い至った。父も母も私を愛し育ててくれたが、それは条件付きの愛ではなかったか。従順で手のかからない優等生"だから"愛していたのではないか。だからこそ勉強をやめようとするとじゃあ中卒でいいんだな、今すぐ家を出ていけと言われたのではないか。患者やスタッフから好意的に受け入れてもらえてるだけで本来は幸せであるべきなのにそれでは全く足りず穴が空いたバケツに水を入れるような状態になっているのではないか。
私の魂の深いところに自己嫌悪と人間不信があり、他人軸な生き方をしてきている。そのため満たされなさ、空虚さがあるがいままで自分の気持ちに蓋をしすぎて、自分の気持ちの詳細がわからなくなっている。様々なひとが私にうっすら好意的だが、私を誰よりも深く愛してくれる人はこの世界に1人もいない。親は私を愛してくれてはいるが、それは条件付きである。愛への強い渇望感があるが、渇望感があるため愛されない。
このデッドロックを言葉にできただけでもこの正月に意味はあったはずである。いくつかの本(※)を読むと愛されるのを目指すのではなく愛せ、自分を愛せない人は他人を愛せない、と書いてあった。さすがに交際している人全員が交際前から自愛できているとは思えないのでそうであったほうがより幸せだよね、と解釈しているが… …突破点として自愛が鍵になりそうな予感はある。自分を愛せるようになるにはまず自分の気持ちや欲望を言語化すること、自分の身体感覚を取り戻し快不快を自覚することだろうと信じてこの記事を書いた。書いている最中はやや気が滅入っていたが、書き終わった今、かなりすっきりした気持ちでいる。
あと以前親からは酷く嫌がられたので諦めていたが、内緒ではてブで有名な某結婚相談所に申し込んだ。万が一出会ってしまったら何卒よろしくお願いします。
いつかこの記事を笑って読み返せる日がくることを願って、そして自分だけじゃなく他の誰かの心の整理の一助になれたら。
※「愛する意味」上田紀行、「生きる技法」安冨歩、「アダルトチャイルドが人生を変えていく本」アスク・ヒューマンケア相談室 など。どれもよい本でした。
もうすっかり年末年始間ジワジワと迫り来る感じで
お友だちからメッセージでメリークリスマスと中国語できて何の意味だろう?と思って翻訳してみたら
私は忙しいから会えないんだけど、
とりあえず年賀状の準備もしなくちゃいけないのも確かだけど
なんだか周りでは年賀状辞めます宣言をしてる人もいるってニュースあったじゃない。
私も辞めたいんだけど、
とりあえず辞めてみたけど暑中見舞いは出しているという、
お正月に書くか夏に書くかってだけなのよね。
ハガキタイプに年賀切手を貼るタイプの年賀状なのでなおさらよね。
逆に申し訳ないし、
もう今の時期郵便局の窓口まえで年賀状書いてる人とかを見ると、
そこで書くのかよ!って思ってしまうわ。
なんかお家で書きなさいよお家でって思うけど、
そうも言ってられない事情があるのかも知れないわね。
この時期の風物詩と言うより、
またそこで年賀状書く人がいるってワケなのかも知れないわ。
私も同罪で年賀状だけを書くために毎年年に一度起動するパソコンがあって、
この時期家電量販店から自転車に乗ってそのカゴには買ってきたプリンタを載せたお父さんをみると、
ああ私もそのパソコンをレッツスターティングしたくなるわけで、
もう随分古いとうの昔のマイクロのソフトもサポート手放したパソコンなんだけど、
ぜんぜん減らないのよね。
古いプリンタなので、
なかなかお店の店頭では置いてなくて、
もうこれはアマゾルしかないと思ってポチっても届くのは年明けだというヘテペロ案件だったりすること濃厚だわ。
今のうちにプリンタを起動してインクのチェッキングをしておかなくちゃって思うし、
これで年2回ぐらいは起動出来そう!って
いい加減パソコンも起動しなくなったらどうしようといい加減住所データをエクスポートしたいけどネッツに繋がってないから、
これもどうにもならないのよね。
正に箱だね!って田村正和さんばりに言いたいところだけど、
うふふ。
ハムカツロールとハムカツとたまに行きたいリンガーハット系列の浜勝を思い出すわ。
丁寧にペットボトルに急須でいれたら良いってもんじゃないのよね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
当然仮名だけど、話したいポイントは押さえてあるので今回はこれで行く。
自分は名前を間違えられやすい。この酷い不快感と生まれてこの方付き合い続けている。
というのも「瑞紀」という名前が、よりメジャーな同音の「瑞希」に誤植されがちなのだ。
また「瑞希」になっている名前の表示を見てはぁまたか……といつも酷く落ち込んでしまう。
「みずき」なんていう名前はキラキラネームという訳でもなし、漢字も別に当て字ではない。
キラキラで間違えられるのなら両親を恨んでも良いかもしれないが、そういう訳でもない。
そもそも自分の考えとして、人の名前を間違えるなんて最低だという価値観もある。
難読で読めないという事はある程度しょうがないが、書き間違えはただの不注意でしかない。
齋藤の齋の字のような画数が多く普段書く機会のないような難しい漢字を少し間違える事はあるかもしれないが、「紀」に間違える要素はない。
ただ単に、「瑞希」というより知名度や一発変換に恵まれた同音の名前があるだけだ。
要するにただの不注意でしかなく、人の名前をぞんざいに扱われていると感じ、腹立たしくてたまらないのだ
重要度の高い書類や何かの登録において名前が間違っていたら、それは指摘しなければいけない。
そこで指摘を渋ると発行が二度手間になったり、無効になってしまったり、かえってややこしい話になる。
しかし、日常のちょっとした間違いにおいていちいち指摘するのは逆に面倒な人になってしまいそうで、なかなか言い出せない。
一番多いのは郵便物だ。
毎年年賀状の宛名を「瑞希」にして送ってくる人がいる。多分もう登録データベースに間違えて登録してしまっているのだろう。
今更なかなか「本当は瑞紀なんだけど」とは言いだせないものだ。
メルカリで物を買った時も「瑞希」宛に届いた。「届いたからいいけど郵送事故の可能性あるから気を付けてね」とコメントしようか半日迷った。
ダイレクトメールは一番クソである。くっだらないDMを名前を間違えて送ってきやがったと憤慨する。この会社の商品は買わない。
でも郵便屋さんは親切なので、ちょっと漢字が違うだけならいつも届いてしまう。しかし受け取る方はいちいち不愉快だ。
そろそろ「瑞希なんて人はこの家に住んでないから届けないで」と申請して一斉にシャットアウトできないものだろうか。
新卒で入社した会社の歓迎会に呼ばれた時、ネームプレートの漢字がやはり間違っていた。
しょっぱな間違えて覚えられたらマズいのでその時は自己紹介をしながら「本当は希望じゃなくて紀元前の紀なんですけど~」と述べる事にしたが。
今社会人の習い事をしているが、そこで渡されるプリントに記載されているのもやはり「瑞希」だ。指摘する機会も無く、毎週瑞希を眺めて過ごしている。
たった一文字間違えられているだけで何故こんなに腹立たしいのだろう。
自分は「瑞紀」であって「瑞希」などという人間ではない。増田瑞希さんなんて日本のどこかにいるだろうし、それは自分ではなく他人を指す単語だ。
初めて何かしらのコミュニティに属する時、殆ど必ず間違えられてきた。
最初は「こんな事もあるのか」という感じだったが、こうも続くとイライラしてくる。
本当は自分がこんな事でイライラしないように変わるのが最も手っ取り早いのは分かってる。
間違えられやすいっていうのはこの先も変わらないし、この先何度もまた間違えられるはずだからだ。
ただとりあえず今一番知りたいのは、誤植をさり気なく指摘する良い感じの方法である。
以前社外に少し滞在する期間があり、そこで登録を行った時「もう既にあらかた済んでるので(ドヤァ)」みたいな顔をされながら見せられたのがやはり「瑞希」だった。
さらにその時はフリガナが「ミズキ」ではなく「ミヅキ」になっている誤植祭りだった。
登録間違えたら何かあったときややこしいので、「名前が間違っているので直してもらえませんか」とその時は頼んだ。
漢字を直してほしかっただけで、別に必要以上に空気を悪くさせたい訳でも、怒りをぶつけたい訳では無い。
が、漢字を直してくれと言うとこの気まずい空気はほぼ避けられない。
なんとかして空気を保ちながら漢字を直してもらう方法はないか、今それが一番の悩みだ。
それとも不可避なのだろうか。これは。
あと重要度が低く、別に間違えられていても手続き的な支障はない私的なもので間違えられた場合も指摘していいものだろうか。
【追記】
元増田です。気付いたら沢山のトラバやブコメがついていて驚きました。
まずは沢山の参考になるご意見ありがとうございます。
同様の方の体験もありがとうございます。
書き忘れていた事を思い出したので、後出し情報で恐縮なんですが、自分には幼少期から「瑞希」という友達がいました。
なので「瑞希」という名前が自分のものではないという感情が非常に強く植え付けられていました。
「希望の方」と「紀元前の方」と呼び分けられたこともありますし、同じ読み方の友達だからこそ、一字の違いが本当にアイデンティティだったのです。
本文の通り「名前を間違えるなんて失礼」というのもあるのですが、それは自分ではない!という反応が極めて強いのは、この辺りにも由来があると思います。
本文中に書いた通り、本当は自分が気にしない境地に達するのがもっとも手っ取り早いとは思っていますが、それまではなんとか回避しながら立ち回らなければいけないなと思います。
彼女は高校の後輩だった。とはいえ母校はマンモス校だったから、俺と彼女の接点などなかった。俺は理数科とは名ばかりのアホクラス、彼女は特別進学科。俺が彼女のことを知ったのは、弁論大会の全校放送だった。みんなが世界平和とか戦争がどうこうとか、そんなテーマで話してる中、彼女は人生観?みたいな話をしていた。こう書くとすごくやる気のある人っぽいが、抑揚もなくてつまんなそうに話してるだけ。でも、断トツに内容がうまかった。彼女は1年生で、それも結構な衝撃だった。特進のやつらって1年からめっちゃ頭いいんだなー、って友達と話したくらい。教師たちは2,3年生のうち、世界平和とかのありきたりなテーマを書いた生徒を選ぼうとしたんだろうけど、当然のように彼女が代表になった。
理数科と特進科の接点なんてなかったから、彼女と話をする機会はなかった。でも、俺は彼女のつまんなそうな話し方と内容のギャップがずっと忘れられなくて、卒業式の時にアドレスを聞いた。彼女はちょっとびっくりした顔をして、でも教えてくれた。勇気がなかったせいで、彼女と連絡をとれたのは誕生日の日と、正月くらいだった。彼女が3年生のときの冬、受験頑張れってメールを送った時、ちょっと話が盛り上がって社交辞令っぽくはあるが受験が終わったらご飯に行こうと誘うことができた。その春彼女は滑り止めだという大学に進学して、本当に食事に行くことになった。俺がなんとか潜り込んだ大学とは比べ物にならない学校で落ち込んだりもしたが…。彼女にはそのうち彼氏ができていた。大学デビューとは言わないまでも、校則が厳しいせいでいつも結んでいた髪をほどいて、ちょっと化粧するだけでかなり綺麗になってたから、当然のことだった。俺は相変わらずたまにメールを送るくらいで、何もできていなかったし。
転機があったのは、俺が社会人になってからだ。彼女は就活のあれこれで、彼氏と別れたみたいだった。俺はもうこれ以上チャンスはないだろうと踏んで、彼女を食事に誘いまくった。電話をかけて、まれに彼女から連絡があればすぐに飛んで行った。タイミングが良かったのだろう、彼女の就職が決まった頃、彼女と付き合うことができた。付き合ってから、驚いたことがある。
それが、彼女が何事においても努力を嫌う人だったということだ。
彼女は文章を書くのがうまい。高校の時も俺が知っている1年の間だけでも弁論大会以外に作文や詩とかで賞をとっていた(学校のプリントに彼女の名前が載ってると、必ず大事にとっておいていた。気持ち悪いけど…)。聞いたら、大学の時は学生向けの小説でも賞をとったことがあるそうだ。だから、俺は初めて彼女を知った時のことを思うに、やる気がなさそうに見えたのは話すのが好きじゃなかっただけで、文章を書くのは好きなんだと思っていた。小説なんか、相当好きじゃないと書かないと思ってたから。でも、それは全くの勘違いだった。彼女は就職すると、ぱたっと物を書くのをやめてしまった。俺は彼女の文章が読みたかったし、それに彼女が書かなくなってしまうのはすごくもったいないように思えて、もう詩とか小説とかは書かないの?と聞いた。彼女は「書く意味がない」と言った。彼女の話を総合すると、文章を書いていたのはそれが課題だったり、進学やらの評価に直結するものだったりしたからで、自分で書きたい物はないということだった。すごく上手なのに、というと、私より上手い人がいるから私が書く意味はない、といった。子供みたいな屁理屈だけど、俺はプロの小説家でも彼女より下手な人はたくさんいるじゃないかといった。すると、彼女は「もし私より下手なプロがいるとしても、その人は私より書くのが好きだから」というのだ。
文章だけではない。彼女は就職した会社で大きな仕事を任されると、いつもゲンナリしていた。仕事について会社で褒められても、決して喜ばないのだ。俺は彼女が喜ばないことについて、高校の時は特進科にいたくらいだから、完璧主義なんだろうと思っていた。しかし、彼女は「褒められても困る」という。褒められても、要求されるレベルが上がるだけで旨味がないから、期待されたくないらしい。実際に、彼女は仕事を頑張らないようにしているそうだ。確かに俺も仕事の量をセーブしたり、適当に残業を延ばしたりすることはある。でも、彼女の場合最初から全ての力を出さないようにしているように見える。
彼女は俺に、「何も頑張りたくないし頑張れないから、頑張らないことを頑張っている」というようなことを話してくれたことがある。俺にはわからない感覚だ。俺からしたら、それこそ彼女は頑張りさえすればなんでもできるように見える。小説家にだってなれるのではないか、仕事だって出世できるはずなのに、どうしてなんだろう。俺は何もできないからどうにか大学に行かなくちゃと頑張ったし、置いていかれないように勉強して就職した。仕事もたいした出世が期待できないなりに必死にやっているつもりだ。
結局、俺は才能があるはずなのに何もしないで生きようとする彼女が妬ましいのかもしれない。それに、彼女のことを好きになったきっかけの文章を失うのが寂しいんだろう。彼女を劇的に変える魔法の言葉なんてないのに、どうにかして彼女に何か頑張ってほしいと思ってしまう。他人を変えることなんてできないのに。無理だって分かっているけど、彼女の本気の文章を読んでみたい。
小学校のことだ。担任が急に学級会でプリントを配って「何か学校で嫌なことがあったら書きなさい」と言った。
当時下の学年の子たちが集団でガーっと乱暴してきてて嫌だった(流石に集団でこられたら負けるよね)し、いじめなのかと思いそれを書いた。
とみんなのプリントを集めてペラペラとめくりながら声をかけてきた。
「お前はxxxx(完全なる音読)って書いてるけど、下級生だろこれ、いじめだっていうのか?」
クラスのみんなは俺を見た。「おいおだらしねーな」と茶化す悪ガキ。
俺は答えた「本当にやなんです」恥ずかしい、心拍数が上がる、逃げ出したい。
「これ本当にいじめだと思うのか?」
俺は「、、、違うと思います」そう言わざるを得なかった。
担任は「そうだよな」とだけ言って全てのプリントに目を通した。
これが自分の悩みを担任に届けた上に晒されて同調圧力の故に自ら言ったことをねじ曲げさせられた記憶だ。だけど、嫌なもんは嫌だった、本当にやめてほしくてなにか助けてほしかった。だけど、「嫌なことを嫌じゃないことにすることの強制」を経験しただけで終わった。
先日クラスにいじめについての紙をクラスに張り出した担任がいたが、何十年も経ってるのにいまだに変わってないことに驚いた。
それ以上に驚いたのはこの時の記憶が驚くほど鮮明に蘇ったことだ。
いじめをクラスに晒す奴に言いたいが、お前がやったこと、やられた子供は何十年でも鮮明に覚えてるし、苦しむからな。
ちなみに、書いたことを全クラスメイトの前で音読されたのは俺だけだった。正直行ってあれが何だったのかよくわからない。他のクラスメートは一様に口を揃えて「問題ありません」とか書いたんだろうか。ないわけ無いだろ。ひどい苛めにあっていた女子がいたの知ってるぞ。