はてなキーワード: 筋違いとは
なお野生のお子様ではないものの一時的ギャン泣き獣状態をおさめないクソ親とする
ルノワール 本当に無理
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この分け方でいくとつるとんたんは無理で丸亀製麺は当然OKとなる
結果自分が払ってる金額に「叫び声鳴き声泣き声でウッってなる瞬間などを減らし極力落ち着いて快適に過ごせるか」込みで納得してるかどうかってことかなと思った
そう考えると300円ちょいでお子様の声に文句言うのは筋違いなのかもしれない。でも自分もスタバに徘徊・咆哮・号泣の人(障害の人を含む)がいたらちょっと顔を顰めちゃうかもしれない。静かなお子様なら乳幼児でも全然気にしないけどそれはみんなそうだと思う。
「子連れは申し訳なさそうに利用しなきゃいけないのか」みたいなコメントが元増田にあった気がするけど「申し訳なさそうな態度」が大事なんじゃなくて「騒ぐ珍獣を宥めようとしているかどうか」が大事なのにそこが分かってないクソ親っているんだなって思った。宥めようとかその場から離れようとしているのに幼児が全然おさまらない場合もあるってのは仕方ないって分かってるので。
話を戻すと、その状態になっていて「子供はそれが仕事なので〜」ってツラで何もしないのが腹立つ金額の店かどうかってのが人によって違うんだろうなと思った。
「生きづらい私は発達障碍者でした」というタイトルでツイッターで掲載された漫画がある。名指こそされていないが、この漫画を痛烈に批判したはてな匿名ダイアリーの投稿がここ数日、バズっている。
私はこの投稿を見て、元の漫画を知った。この漫画はもちろん描写は拙いし、よく書かれているわけではない。しかし、私は作者に書きたい内容があり、そこにはある程度の普遍性があり、結果としてエンタメになりうると思った。この漫画を自分なりに読み解いてみたい。作品と、それに対する酷評へのリンクは一番下に載せてあるので、背景を知りたい方は先に見てみてほしい。
この作品は以下の流れで進行していく
1. 若い頃、仕事がどうしてもできない。努力をしてもうまくいかず、職を転々とする。
2. 結婚し、仕事を辞める。子どもが生まれる。子どもが成長し、発達障害と診断される。
3. そこから自分が発達障害かもしれないと思い、自分もそう診断される。
4. これまでの自分の生きづらさは自分の怠慢のせいではなく、発達障害のせいなのだと知り、気持ちが楽になる。
5. 自分の人生はやり直せないが、せめて子どもを同じ発達障害を持つ身として親身になって支えてやれるかもしれない、という前向きな気持ちになる。
まずはっきりさせておきたいのは、この漫画では主観的に(もちろん客観的にも)発達障害を克服する(した)描写はない、ということだ。ライフハックを駆使して職場でのパフォーマンスを改善したとか、婚活してなんとかいい男を捕まえて、家事だけして楽に生きられるようになった、という話は書かれていない。批判にあるような(王道漫画における)主人公の奮起・成長・挑戦・勝利などはこの作品に全く関係はない。そもそも作者自身が発達障害を克服できていると思っていないのだから。
またこの作品に、理解のある彼くん、という要素を見出すのは筋違いだ。そもそも結婚して子供が生まれた、というだけで、果たして夫が発達障害に理解があるかすら書かれていない。伴侶ができたから人生が楽になった、という話にはなっていないのは明らかだと思う。
この作品において作者は自分は発達障害を克服することはできず、また辛かった過去をやり直すことも出来ないが、発達障害を認め、前向きな意味(同じ発達障害を持つ子どもを理解してあげられる)を見出す。これは受容の物語として読むべきだと思う。
ある意味で焦点がはっきりしている(必要な要素しか書かれていない)のでこの物語を克服者・成功者の語りとして読む人は理解できない。以下においてはこの話を受容の物語として読み、その普遍性について語っていきたいと思う。
あると思う。少なくとも私には感じ入るものがあったし、発達障害をもつ人間にとっては十分に共感できる作品だと思う。
私は(診断こそされていないが)明らかにADHDで、中学生や高校生の頃には大変苦労した。当時は発達障害という言葉が一般的ではなかったので、この作者のように、怠慢であると周囲に思われていたし、そのため自己評価が本当に低かった記憶がある。
この作品を読んで、大人になり、ADHDという言葉を知って衝撃を受けたことを思い出した。自分が宿題を出したり、授業に集中できないことは自分が悪いのではなく、あくまで発達障害というものだったのだと知ることで、自分の過去をやり直すことはできなくとも、何か気が楽になった。また、ADHDのことを知ることで、自分の将来をより良いものにしよう、という前向きな気持ちができた。
このような経験は、発達障害を持つ人間には珍しいものではないと思う。少なくとも発達障害という言葉を知らずに、自責の念に苦しんでいた人には刺さる内容なのではないか、と私は考える。
私はあると思う。どうしようもできないこと(発達障害に限らず)があって、それを克服できないまでも、そのことを前向きにとらえよう、という話は小説や映画などによくあるテーマだ。
私の好きな映画に「海よりもまだ深く」という映画(海街diaryと同じく是枝裕和監督)があるが、これもまさに上のようなテーマで書かれている。一冊だけ売れた冴えない小説家である主人公が、自分の人生を受け入れられずあがくが、裏目にでるばかり。母、別れた妻、子どもとの一夜を通じて、自分の上手くいかなさを受け入れ、前向きに背筋を伸ばして歩き出す、というのがこの映画のシナリオになる。この映画の前後で主人公の状況は何もよくなってはいない。ただそのままならない状況を受け入れ、そこから一歩踏み出そうとすることが作品における救いになっている。
この例のように、うまくいかない自分を受け入れ、前向きに歩き出す、というテーマはフィクションにおいては特に奇異ではないテーマだ。「生きづらい私は発達障碍者でした」という作品は、描写が稚拙で駆け足であるという問題点はあるにしろ、その伝えたいテーマは普遍的で、エンターテイメントとして成立しうる要素があると思う。
昨今、強い言葉で作品を斬って捨てるという批評がもてはやされる傾向にある。しかし作品を読むということはもっと地味で、注意を要するものではないか。私自身は何か批評の専門的な教育を受けたわけではないが、作者の意図を理解し、誠意をむって向き合うことをしてきたつもりだ。この文章を通じて、作品を虚心坦懐に読み、丁寧な読解を心がける人が一人でも増えればと思う。
以下に作品へのリンクと、はてな匿名ダイアリーの投稿のリンクを載せておく。
https://twitter.com/fukufuku_diary/status/1581977574023913472
https://anond.hatelabo.jp/20221020011014
またはてな匿名ダイアリーの中で一人、簡潔にいい批判をされている方がいたので、その人の投稿へのリンクもここに載せておく。自分と同じことを考えている人がいたので、少しほっとした。
USJ内での下着のみ着用しての入場に対して、USJ運営からの「お断り」についてのブコメ
表現の自由戦士たちはエロはダメと言うフェミニストには食ってかかるが、エロはダメと言う企業にはダンマリ。 企業に凸までして現状を変えていくフェミニストとはパワーが桁違いだなぁと感じる。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4726882915127762979/comment/nakanuki
これにスターがたくさんついて上位ブコメになってる意味がわからない。
まず、「表現の自由戦士」という独自用語を皆に通じる一般用語のごとく普通に使ってるが、
これは「キズナアイのNHK出演や、赤十字献血ポスターの宇崎ちゃんイラスト等に凸し中止・取下げを求めてたフェミニストのパワーに対し、批判した人たち」という趣旨でいいかな?
(こういう「表現の自由戦士」「表自戦士」みたいに自分や仲間内の狭い範囲でしか通じない独自用語(他にも「パヨク」「ゴリホーモ」「日本軍・反日軍」「ギフハブ」等)を作り出し、皆に通じるかのごとく前置きなく使うのを「造語症」と言って、頭のおかしい人たちによく見られる症状だと言われてるね)
本題だが、今回の事例は「私有地内・私有施設内での行為について、その持ち主である施設管理者が○○は禁止と決めた」という事であり、
フェミニストたちがやっていた「そのコンテンツの持ち主(権利者)や、コンテンツ権利者と契約して正当に利用している組織に対し、なんの権利も持たない外野が辞めさせようと口を出してきた」事例とは全く違う。というか180度逆でしょこれ。
無理に今回のを過去の事例に当てはめるなら
『権利者であるUSJが園内で下着姿でいていいよと表明したのに対し、フェミニスト達が「子供もいる場所で過度の露出は害がある、やめろ」「下着女はTPOわきまえろ」「園内で下着姿を認めるUSJは女性への性的消費を許してる!現代の価値観に合ってない!」と訴えて禁止させようとしたのに、”表現の自由戦士”がダンマリ決め込んでる』
という状態になるだろう。それで上記のようなブコメがつくならまだわかる。
ウマ娘でもディズニーでも、エロい二次創作はダメよと決めてる例はあり、そういう権利者が決めたことに対しては”表現の自由戦士”は何も言ってない。
自らの権利物のエロ表現を発表したり、逆にエロ表現は禁止と決めるのも、どちらも自由の行使。だから何も言わない。
権利を持つものが正当な権利行使として表現したことに対し、権利をもたない外野が圧力かけてその表現を撤廃させようとしたときだけ批判してる。
今回の事例とは全く違うの。
こんな的外れ筋違いピンボケの揶揄にすらなってないブコメに対してスターが集まるってことは、はてブには思考能力が欠如した感情一直線 脊椎反射の低能フェミニストが一定数いるということで、恐ろしいことだと思いますよホント。
はてブのフェミニストどもには、言っても無駄だろうけど「ええかげんにせえよ」と言いたい。
☆追記
「統合失調症と特定の思想を結びつけたり、統合失調症を罵倒語のように使うのはやめてください。」
笑かすな。ネットの一部フェミニストが作り出して仲間内のみで使ってる単語なのに「ネットスラング」って、これネット中で皆が使ってて知ってる単語だと思い込んでるの?
というか前置きにすぎない造語症の部分にだけ言及して批判してるブクマが複数見受けられるけど、
これって本題部分には反論できないから反論できる前置きだけ取り上げてます、という本題部分への消極的賛同、白旗として見ていいのかな。
どうもっす。
自分は「自分みたいな子どもが産まれてきたら育てきる自信がないっす」「パートナーに連れ添ってもらえるだけの甲斐性が自分にあるように思えないしパートナーを不幸にするだけっす」みたいな理由で結婚はたぶんできないし、子持ちにもたぶんなれない人間っす。
そんな人間の戯れ言として聞いて貰えれば幸いっす。
「子持ち様」って遠回しにバカにする奴がいるんすか?それは許せないっす。
でも安心して欲しいっす。根拠は全くないっすけど、たぶん日本に住んでる大多数の人はそんなこと思ってないっす。極端なこと言ってる人たちの集まってるところを通りすがったらたまたまそういう場面に出くわしたっすねー事故事故☆と思って綺麗さっぱり忘れることっす。
「子を産み育てている真っ当な責務を果たしてる人達に失礼」ってのも本当にそうっす。日本に生きる人間とかそれ以前に生き物としてその責務は真っ当で、果たすのが当然っす。
でも、たぶん。
たぶんっすよ?
その主張を「軽率に自己都合だけ述べてる人」に対してするのは、たぶん、筋違いというか、不毛っす。
えっと、「独身税や養子も育てていない子なし世帯に税を課す事に賛成」してるんすよね?
あくまで考えるだけっすから、細かい数字とかはこの際置いとくっす。
対象の世帯にどれくらいの税金を課すかにもよると思うんすけど、たぶん、当人たちの望まない結婚だとか、出産だとか、養子縁組が増えるっす。
ここで「当人たち」っていうのは、当然子供たちのことも含まれるっす。
で、それが一番の問題っす。
「軽率に自己都合だけ述べてる人」の性格だとか思想みたいなものを変えるのはたぶん、容易ではないっす。現に自分がそうっすから。
「軽率な人たち」はその軽率さゆえに、そういう課税がされるとなったら、真っ先に一斉に、その課税を回避しようと行動すると思うんす。
すると、「思ったほど税収は増えないし、不幸な子供たちも減らないっす、困ったっすー」ってならないっすか?
「軽率な人たち」を思うがままに制御するんであれば、「軽率な人たちは易きに流れるっす」っていうのを前提に政策を考えるのが必要だと自分は思うっす。
この連ツイについて
https://twitter.com/tamakiyuichiro/status/1575075345631682561
同様の記事は確か産経にもあった気がするが、なんか内容にモヤモヤしたので書き殴る。
大前提として、内閣府設置法は行政組織法である。行政法は行政機関と国民の法的関係を規定する行政作用法と行政機関の所掌事務や構造を定めた行政組織法に大別される。内閣府設置法はその名の通り内閣府を設置し、どういった事務を担うかを規定しているので後者に該当するわけだ。
さて、連ツイではそんな内閣府設置法の逐条に国の儀式の例示として吉田氏の国葬があったため、それを法的根拠と主張している。しかし、先述の通り内閣府設置法は一行政組織法に過ぎず、「国葬を実施するなら内閣府の所掌」という話であり、その前段階「国葬が実施できるか否か」には踏み込んでいない。これをもって法的根拠と主張するには力不足だ。
所掌することを想定しているのならば、それから逆算的に考えて法的根拠があると言えるのではと考える人もいるだろう。しかし、逐条では国葬一般ではなくわざわざ吉田茂に限定した例示を行っている。先程はざっくり書いたが、より逐条を考えるならば「吉田氏の国葬を今の組織に当てはめるなら内閣府の所掌」といったところで、やはり今後国葬ができるかどうかまでは汲み取れない。
①国葬できるか否か
の②の部分を規定しているのが内閣府設置法であり、①についてはノータッチなのである。
つまるところ、法的根拠がある理由として内閣府設置法を挙げるのはその法律の性質上筋違いなのだ。玉木代表は国会や党首討論で内閣府設置法が法的根拠になり得ると政府に説明を期待しているようだが、政府が応じないのはその理屈の粗を承知しているのも一因だろう。結局①については閣議決定を理由にせざるを得ず、法的根拠と強いていうならばそのあたりの規定に求めざるを得ないだろう。その点では、閣議決定の基準如何という玉木代表の同意するところもあるが、それはそうとして、連ツイの全体としてはやはり疑問符がつくのだった。
ところで、なんかこの人ネット民に野党の良心扱いされて謎に持て囃されていて気味が悪い。この人与野党対立のガス抜き的に美味しいところどりして狡猾だし、主張も割かし雑よ。
さまざまな意見があるが、mimic擁護派の言い分がひどいのでここに反論を書いておく。
つまり反対派はmimic運営と同じ主張「絵師本人が自作の絵をAIに模倣させる用途だけが許される」を述べており、厳密にいえば反対派ではない。
懸念を表明した大勢の絵師の要望を受け、mimic運営は充分な悪用防止策の実装されるまでサービスを停止するとした。
みんなリスク許容度と想定する運用期間がまったくバラバラ、かつお互いの立場を受け入れて話す気がないから。
https://anond.hatelabo.jp/20220825233050
◯リスク許容度
総じてリスクを取れる人がリスクを取りたくない人を情弱扱いし、逆がそれをギャンブル扱いする構図
家庭構成や年齢、年収によって取れるリスクなんて人それぞれに決まってんのに。
逆にリスク取らない人がリスクを取れる人のことを腐すのも意味わからんけどね
(宇宙戦争が起こったら投資なんて無意味、はさすがに極論すぎて訳分からん)
◯想定する運用期間
同様に、20〜30年後を見据えて息長く投資したい人と、今利益を出し続けたい人では話が通じ合わない。
増田は年齢層高めだから残りの運用期間が短い人が多いのかもしれないけど。
よくいるのが長期投資の話に対して「俺は今年30%リターンがあったから積立投資はカス」みたいに筋違いに単年度の自慢をぶつけてくる人。
「それはよかったですね(別に聞いてないです)」「今後もそのリターンが続けばいいですね(実際に続けばいいとは思ってない)」って気持ちになる。
また投資にかけられる時間と心のリソースによっても最適な方法は異なるので、
独身で時間のいっぱいあって投資を趣味にできる人と、仕事育児付き合いでパンパンで極力投資のことを考えないようにしたい人では絶対に話が噛み合わないわけで。
ぶっちゃけ将来的な見込みを鑑みた上で自己判断でリスク取らないのも、なんか怖いからって避けるのも別にその人の人生なんだしいいじゃん?って感じ。
投資がギャンブル派も投資はいいぞ派も、お互いがお互いを気にせず好き勝手にやればいいのに。
人はどうして争いを繰り返してしまうのか。
安倍元総理暗殺は全くの筋違いであり許されざる凶悪犯罪であるという前提で。
彼の不幸な生い立ちには心底同情するし、多額の献金を強いられて一家破綻させられたことから教団に対する恨みを募らせて復讐に及んだ、という一点のみにおいては共感してしまう。
投資用不動産を口八丁手八丁で言いくるめられて訳もわからず強引に勧誘されて買わせられたことがある。
将来の年金対策だ節税対策だ、とても割安にしてやった、将来への投資だ、儲かる、いい話だから、などと言われて、
相場の倍近い金額で買わせられていたことに気づいたのは購入してから数年経過してからだった。
さらに絶望したのは被害を認識してからの弁護士や他の不動産業者の対応だった。
自己破産しようにも目先の返済額が少額だから「支払い不能」の条件を満たさない、
滞納してあえて期限の利益を喪失して一括返済を請求されればその条件を満たすだろうが、
破産するためにあえて滞納するなどという方法を弁護士が薦めるわけにはいかない、などと言う弁護士が何人かいた。
弁護士は依頼をなかなか受けたがらない。
私が騙されて搾取されている立場だと重々わかった上で、それでも依頼を断る弁護士もいた。
依頼を受けたくない理由を教えてもらえないことも何回かあった。
何の私怨もない誰かを敵に回して喧嘩代行を請け負うのは、よほど好きな相手でない限り、気が進まないのだろう。
あえて滞納することの手助けをするわけにいかないから依頼を受けられないなどという任意売却の業者がいたし、
困窮している状態であることを認識した上で相談料と称して法外な手数料を請求してくる業者もいた。
最終的に委任契約した消費者救済対策専門と称する弁護士も相手方の業者と融資元の銀行との関係を壊さないことばかり考えて、
最終的に残債相当で買い戻してもらったが、
弁護士に依頼したのは買戻しに向けてほぼ完全に合意形成ができた後で、実質的に弁護士は買戻しさせるための交渉事はやっていなかったが、
法律の世界では合意が何より重要で、いかに不当で不合理な契約内容であっても自分の責任で契約締結した以上、
それによって発生した義務は履行しなければならないものなのだ、ということを思い知らされた。
法律は弱者救済にはあまり役立たず、むしろ正直者や気が弱くて拒否できない者が馬鹿を見る設計になっている。
知っていてうまく使いこなせる者が善で、知らずに自分に不利な契約を結んでしまったために背負った義務や責任から逃れようとする者が、
いくらその義務や責任が不当で不合理なものであったとしても、悪だとみなされてしまう。
契約なんてしないこと、実印を作らないことが騙されないための最善の策だ。