はてなキーワード: 善悪二元論とは
地域とか、国とか、企業とか、団体とか、あらゆるものにそれは存在する。
まとめニュースなんかで悪い見方を吸収して「○○って××なんでしょ」という印象を容易に固めてしまうのは、情報リテラシーの問題だが、そういう過ちをあらゆるトピックにおいて1つもしていない人間は存在しないだろうな。
悪意的な見方とかいう段階ではない誰の目にもやらかしと思える事例・事実だとしても、そういうものばかり取り上げあげつらうような情報摂取では偏屈になる。
その上、上記のような、「これは明らかなやらかし、事実だろ」と思えるような取り上げ方をされていることでも、実際には野次馬ではない有識者から見たら多分に悪意をもって語られている記事が世の中には多いことにも注意しなければならない。人間はよく分からないものには無意識のうちに悪意を盛り込んでしまうものだ。
そもそも、差別という単語で表現してしまうことは、「差別だ・差別じゃない」の善悪二元論に単純化されてしまうからよくない。
偏見かどうか、という見方をすることで、情報の広さや深さが足りていないんじゃないか、という多元的なものの見方に踏み入っていくことができる。
投資じゃないですが、ツイッターにはこういうリスク度外視でノーガード戦法の人がたくさんいますよね。例えばネトフェミの皆さんは、そもそも自分の感覚と社会の感覚が区別できなかったり、善悪二元論が大好きな人が多いですが、さらに「リスク」か「リターン」のどちらか片方しか目に入ってない状態でないといえないような発言を平気でします。あと、この人たち性善説のせいなのか自信のなさなのかなんだか知らないけど「他人を根拠もなく信じる」という甘えが目立つ。「人を批判したり疑うのはよくないこと」とか平気で言う。別にいいけどそれで自分は正しい判断できるんですか?と言いたい。どうしてそこまで「自分で考える」ことを放棄したがるのか本当に不明。「マザーグール」の狂信者たちと同じように、信仰していれば自分たちに災いは降りかからないって本気で信じてるのか。本当に不思議
例の国連で泣き叫んだ白人リベラル欧州少女だけど、リベラルの悪い所を全て煮出したような感じだった。
・感情的ですぐ怒る
・子供とか少女とかそういうアイコンを偶像化して政治に利用する
・全く科学的ではない
・多様性を認めない
理由は国連がそういうダメリベラルに牛耳られており、まともに相手されないレベルまで権威が落ちつつあるからだよね。
彼女のスピーチの内容は、はっきり言って、40代のキモくて金のないおっさんが言ったら100%無視されるレベルの内容。
全く内容もない、新しくもない。ただキレ散らかしてるだけ。Twitterの放射脳でもいえるレベルの内容だ。
富裕層でありながら、経済発展を否定している。富裕層ならば経済発展を否定して経済が衰退しても耐えられる。
腹いっぱいに自分たちだけなって、もういらないというのは卑怯だ。
しかも彼女のスピーチには複雑な世界情勢を全く理解しようという素養がない。
計算した温暖化ガス排出量をこのパフォーマンスにかかった分、計算したら普通に来るよりも多いというお粗末。
まったくもってばかげている。
完全に馬鹿げている。
久々にこっちで雑感。
ツイッターとかの明示されたアカウントで語るには取り扱いに困る、そんな話をしたかったのが理由。「お前は敵がつくりてぇの?」って聞かれたら、作りたくもないし、作る意義もないからね。とはいえ、やっぱり語りたくなる。今回の『青のフラッグ』の44話には、そういったパワーがある。
いやあ、ほんと。本作は漫画という媒体で、どこまで多元的な考え、人格を描写するつもりなんだっていう。面白いかっていわれると、愉快ではないんだけれども。安楽椅子状態での会話がメインって絵的には面白みが薄い。どうしてもセリフばっかりになるし、読者側にエネルギーを要する。しかも本作はスッキリしない。わかりやすく間違っている人間に対して、正しいことを言って溜飲を下げるだとか、そういった明瞭な快活さを与えてくれないのでストレスがたまる。それでも評価せざるを得ない話ってこと。
本作は各々が自分なりの考えを持っていて、そこに明確な是非を要求すべきじゃないってのを逐一訴える。今回の女子高生二人の言い分も間違ってはないんだよね。むしろ現代社会の通念上は、正しい寄りの考えと言ってもいい。じゃああの丸刈り君は偏狭な性差別者で、“普通じゃない、間違っている人間”なのかっていうと「ちょっと待った」ってなるわけ。私も同性に痴漢されたことはあるから分からなくもない。そういった経験から来る嫌悪感は普遍的な通念では拭い去れない。読者の中には今回の話を読んでなお、あの丸刈り君をただのクソ野朗で終わらせる人もいるだろうけれども、作中ではそれこそ狭量ではないかと指摘しているようだった。
安易な善悪二元論の懐疑。ああいった問題で、正しいだとか間違っているだとかの線引きで考えたり、分かりやすい悪者を作り出すことの危うさを作者は知っているんだと思う。作劇として見た場合、言語化しすぎてて読み味も良くないんだけれども、本作はそういうのを妥協したくないんだろうなあ。『鈴木先生』を思い出す。大衆が受け入れがたい、スッと入ってこないであろう考え方を大げさに、だけど真っ向から長々と語る。
「好きって感情はいいけど、嫌いって感情はダメ」みたいなセリフが劇中に出てきて、私は「うげえ、また“ツギハギ論”かよ」って思った。「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」。『ツギハギ漂流作家』という漫画が打ち切り間際に描いたあのセリフ。あの漫画の顛末を踏まえた場合、逆ギレじみた言い分に近い。けれども、なんだかセリフだけ一人歩きしてしまって名言になった。なってしまった。だから私は“ツギハギ論”って呼んでいる。実際このセリフを安易に引用する人間の主張にはツギハギ感があるので、その点でも“ツギハギ論”って呼び方は適格だと個人的に思ってる。
で、ちょっとウンザリしたところで、「好きって感情は良い感情、嫌いって感情は悪い感情って考えは雑すぎる」といった指摘が入る。ああ、そこも言語化しちゃうんだっていう。もう完全に私はこの作品に踊らされている。「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」の歪さを分かってる。あのセリフが憚って10年以上も経っているのに、まだあれを正論だと思っている人がたくさんいる。あれが大した理屈じゃないことは、好き嫌いについて向き合っているのなら自ずと分かるはず。けれども、好きなものを他人に嫌いだって言って欲しくないという自己保身のために、あのセリフを都合よく使う人は後を絶たない。
好きという感情を肯定する以上、嫌いという感情も肯定しなきゃ辻褄が合わない。まあ、肯定や否定は個人の感情によるところも大きいので、各々がどういうスタンスをとるかまでは是非を問えないけれども。そのせいで、意見の不一致による衝突は出てくるし、それを避けたいのも人間の本能だしね。だから私だって、こういう話は後腐れのないところで書く。とはいえ感想書きは、結局この“好き嫌い”を様々な言葉で紡ぐ表現手法の一つなわけで。好き嫌いそのものを、片方だけ是としたり、有耶無耶にしたりすると評論としてはむしろ信頼できない。
そんなわけで評価はしているけれども、本作はかったるい。言語化しすぎというか、野暮ったいセリフ選びも多い。セリフの少ない場面とかはすごくエモいだけに尚更そう感じる。エンタメという枠組みで見たとき、あれは愉快な描き方ではないし、上手い描き方でもない。「悪役が何かエグいことをやっている」だとか、そういう“エンタメ的には良い不愉快さ”みたいな意味ですらなく。飲み物なしでビスケット食っているみたいな感覚。
例えば、同サイトで読めるのだと、『さよならミニスカート』は分かりやすい。あれは良くも悪くも複雑じゃない。いや、人によってはあれでも余剰過ぎるくらい複雑かもしれないけれども、訴えていること自体はすごくシンプルなんだよ、あれは。基礎的なジェンダー規範を取り扱って、それをテーマにしている作品。様々なマンガで、以前から脈々と語られてきたジェンダー論をメインに、現代の人たちに刺さるようドラマティックにリブートしている。だから陳腐とまではいわないけれども、やや表層的ではあると思う。ああいったテーマを多側面的に考えたことのない、一般大衆向け。それ故に刺さりやすいし、読み味も良い。『青のフラッグ』もウケてはいるけれども、作者が想定しているであろう理解力の読者はそこまで多くないと思う。
その点で『さよならミニスカート』は多くの読者に色んな意味で優しい。まあ、テーマ的に何かすごいことをやってる~みたいに持てはやしだしたら危ないと思うけれども。『サウスパーク』とかで登場する、ソーシャル・アジェンダに踊らされた大人たちみたいになってしまう。「私たちはそういうのに理解があるよ」といったスタンスをゴリ押すことに一切疑問を持たない、実際のところ無理解な人間。「社会正義だから」、「一般の善良な考えだから」といった、誰かがあらかじめ作っておいた前提で理屈を紡ぎ出す。だから一見すると尤もらしいんだけれども、ちょっと小突かれただけで論理が破綻してしまう。
とはいえ、そういった指摘をフィクションの世界でわざわざ言語化しても、ほとんどの人はそこまで様々な視点から物事を考えないので伝わりにくい。一般社会の善良そうな考えで生きれば支障はまずないから、考える必要がない。むしろ考えすぎて自我が袋小路に入ってしまうこともあるから、ちょっと無思慮なくらいが丁度良いまである。色々考えていたとしても、個々人の規範と一般社会の規範をすり合わせる他ないから。『青のフラッグ』のセリフからとるなら「お前は敵がつくりてぇの?」となる。私は御免こうむるし、多くの人も「そんなつもりはない」と言うはず。自覚しているか、実際の行動と矛盾しているってパターンは多いけれども。敵味方っていう構図の作り方が、そもそも履き違えているのを大体の人は分かっている。前提を共有をしていなければ主張の押し付け合いにしかならないし、かといって論理ゲームは本質から遠ざかっている。
そんな感じで、私の中でもまとまっていないので、ここで雑感は終了。ここまで語っておいてなんだけど、こういう特定の作品を基に社会論をアレコレ語るのは、どこぞのサブカルくそ野朗みたいで我ながらアレだと思ってる。自分のツイッターじゃあ、絶対こんなこと呟けない。あれこれ考えてしまうから吐き出して解消したいだけで、漫画はもっと気楽に楽しみたい派。ぶっちゃけ私は『むとうさとう』レベルの軽いノリでジェンダー取り扱ってる漫画の方が好きだ。
世界には喜びより苦しみの方が多い。数千人の幸福と喜びは、一人の人間の苦痛を補う事はできない。そして全体的に考えると生命は生まれない方がより良いだろう。
ベネター
Julio Cabrera は出産は人間を危険で痛みに満ちた場所に送り込む行為だと述べている。生まれた瞬間から死に至るプロセスが開始される。Cabreraは出産において我々は生まれてくる子供の同意を得ておらず、子供は痛みと死を避けるために生まれてくる事を望んでいないかも知れないと主張している
アケルマ
カリム・アケルマは、人生の中で起きうる最良のことは最悪なこと―激痛、怪我、病気、死による苦しみ―を相殺せず、出生を控えるべきであると主張している。
ザッフェ
我々は満足させる事ができない欲望と精神的な要求を持っている。人類がまだ存続しているのはこの現実の前に思考停止しているからに他ならない。 Zapffeによると人間はこの自己欺瞞をやめ、その帰結として出産を止めることによって存続を終わらせる必要がある
てめえが名前を挙げた学者の中に出産を肯定してるやつはいないんだが?
Hari Singh Gourは彼の本The Spirit of Buddhismの中で、とりわけ四諦とパーリ律の始まりを考慮し、以下のようにブッダの教えを解釈している。
ブッダ曰く、人生が苦しみである事は忘れられがちである。人が子供を作る。従ってそれが老いと死の原因である。彼らが苦しみの原因がその行いにあると気付いたならば、彼らは子供を作るのを止めるだろう。そうして老いと死のプロセスを止めるべし。
四諦そのものは反出生主義とは関係ない上に、この解釈すら、出生否定してる。
キリスト教 マルキオン派
wikiのマルキオンに反出生主義とあるだけで、実態に関するちゃんとした情報がわからなかった、あるんなら出してくれや
これを反出生主義と結びつけて考えるような記述はどこにも見当たらなかった、が、
そもそも、禁欲って、基本性交とかそこらへんに関するものであって、出生は関係ないだろ
マニ教的な善悪二元論を説く。人間の魂は、悪しき肉体に拘束されている、この世の物質的なものは全て悪魔(サタナ、ギリシア語でサタンの意)の手で作られたものである、救いのためには全ての物質的なものを否定せねばならない。
おめでとう、これが唯一の反証だよ、つってもこれも、死ぬ間際に(生殖含む)禁欲すれば、天国行けるっていう
生まれてくる子供の苦しみとかも関係ない、俺からしたら反出生主義って言っていいのかかなり怪しい代物だけどな
出産を控えるべきなのか?
出産を完全にやめるべきなのか?
みたいなこと言ってるやつは居ねえんだよ
つか、おまえ書き方からして、内容が少々違うってだけで、多様な解釈があるって捉えてんだろ。
まあ、カタリ派の例だけ持ってきて、ほら!条件付きで子供産める反出生主義者もいるじゃん!って言ってもいいけどな、まあ、そう言うなら、俺の負けでいいよ、俺はカタリ派が反出生主義だとは思わんし
もうカタリ派滅んでるけどな
放っておいてくれ、と最近よく思う。
細かく言うなら、よく知りもしないし、知る気もないことに口を出すぐらいなら、いくら怒ろうと悲しもうと、放っておいてくれ。
私は宮城県南部に住んでいた。内陸部だ。仙台に行くより福島に行く方が近かった。
原発事故における福島県内部と県外の被害のあり方はすこし違うように思える。
福島県内部は県内に原発を抱えていたから、影響は当然大きく、放射性物質は「あるもの」として対策を打つところから始まった。
県外は違う。まず影響があるかないかは政治が決める。見て見ぬ振りをするか、対策をするかだ。私の住んでいた地域は農村部だった。放射性物質なんて、農作物の商品価値にとっては致命的だ。
みんな、と書いた。
それは違う。価値観が違う。
たしかに農作物のために、騒ぎ立てたくない人が圧倒的多数だった。
しかし、安全性をウリにしていた農家や、小さい子供を抱える母親は違った。
家庭内で、職場で、自治会で、農協で、学校で、放射能に対するスタンスの違いは、深刻な対立を生んだ。
事故当初の線量は、小学校の砂の校庭で地上1.5mで約0.8μsv/hくらいだったと記憶している。これは5月頃のことだから、ヨウ素よりもセシウムの影響のほうが大きかったはずだ。畑や競技場はもう少し高かった。
でも当時は、除染基準はもっと高く、そして政府もただちに影響はないとしか言わなかった。
みんな葛藤があったと思う。
生計を立てるべく売りたい農作物、保証されない安全、内部被曝と外部被曝の複合的な影響は?この山菜は食べていいのか?自分たちの今までの生活はどこへ行ったのか?この川魚を孫に食わせていいのか?
それでも地域住民の大多数は「風評被害」を生まないために沈黙を守るべきだとした。
知ろうともしない人は、当事者意識すら持たなかった。
でもそうではない人もいた。
近所の人に、本当の理由を告げられぬまま、私たちは引っ越した。自主避難だった。
あれからもうすぐ6年が経つ。
勘違いがないように言っておくが、もうおおよその農作物は安全だ。
放射性物質もほとんど検出されていない(きのこや山菜はまだ基準値以上のものが出たりする。まれに)。
あのとき近所に住んでいた人たちがガンになったとか、そんな話も、幸い耳には届いていない。
けれど、あの時の私たちの判断を、誰が責められるというのだろう。
6年。
その間にいろいろな言説を目にした。
ただ今、どうしても気になるのは、こういう地元の葛藤を一切意に介さず、遠くの安全圏から声高にそして意気揚々と、口汚く意見してくる声だ。
ふざけるな。ふざけるなよ。
それでもあの当時、何も信頼できるものがないあの状況で、我々がした判断は間違っていたか?
結果論じゃないのか?
線量の落ち着いてきた今ならまだわかる。
けれど事故当時にすら、放射脳と、呼んではばからない奴はいた。そこらじゅうに。
あなた方は、私たち当事者の、その中の多数派意見に味方し、少数派を徹底的に叩きのめす。
それで正義のつもりになってるんだ。
あなた方は、私たち当事者が抱えざるを得なかった葛藤を知らないし、知ろうともしない。
下手をすると、放射線の影響や、過去の事例、現場がどれくらいの線量なのか、それすら知らずに、声が大きい当事者たちの味方をして気持ちよくなっている。
それなら何も言わないでいてくれ。
頼むから。
地域共同体としての我々は、意見対立からズタズタに引き裂かれてしまった。
もしあなたたちがここに来て、本腰を据え、じっくりこの問題に取り組み、当事者の1人になってくれるなら、いくらでも意見を聞こう。
でも、そうじゃなかった。
非難の声はだいたい的外れだった。放射脳と叫ぶ声だけでなく、危険だ危険だと叫ぶ声もそうだった。何も知らないんだろうな、と思った。
これは一例だ。
そしてその無責任で乱暴な声は、落ち着くどころかどんどん声高になっているようにすら思う。
「辺境」に押し付けなければならない問題を扱うとき、安全圏からモノを言うのはやめてくれ。
沖縄の基地問題、反対派の抗議活動に、「県外の人間の仕業。地元民はみんな賛成しているのに、邪魔」とか、賛成派のインタビューに、「政権側の印象操作。反対派が大多数だ」とか、見ていてものすごく苦しくなる。
どちらもいるに決まってる。
そしてどちらが多数派だからと言って、少数派を徹底的に叩いて排撃していい理由にはならないのだ。
再稼働問題もそうだ。「どうして対岸の都市が口出しをするんだ」とか、「援助金をもらっているから文句は言えない」とかもうやめてくれよ。
そもそも援助金がもらえる自治体だけがリスクを負えばいいかもしれないが現実そうじゃなかった。
放射性物質は自治体の境界を越え風に乗り山に飛びそして海にも拡散されてゆくと、知らないのだろうか。
知らないだろうな。
口出しするなら、せめて当事者意識を持ってくれ。
我々の葛藤を意にかけてくれ。
少数派だからといって口汚く罵るのはもうやめてくれ。
この世界は水戸黄門ではない。善悪二元論は成立していないのだ。
残念ながら。
スタバやアップルは時代の変化で以前より意識低くはなっちゃってる。
だから、意識高い意識低いと善悪二元論みたいに語るのはナンセンス。
ものではなく自分の存在が見られることを過剰に意識しすぎないようにすると没頭できるよ。
お前意識高いなー低いなーって言うのもコミュニケーションとして一興。
高いものが低くなったり低いものが高くなったりして右往左往するのも楽しい。
好きなものがよくわからない状態で流されて好きって言ったり詳しくなったりしてることは微妙。でもしょうがない。
好きは変わるし。
追記。
ものを楽しむより自分が見られることを意識してるのが、暇だけどスタバでMacBook(席占領)なんだよな。
それはそれで楽しそうだとは思う。
文筆業。高山直人(たかやまなおと)。32歳。2009年から2012年にネット右翼として活動。2014年にいまどきプロ左翼になり、現在に至るも、左翼ジャーナリスト。
諸君。この社会は最悪だ!富裕層叩きだとか何とか叩きだとか、私はそんなことには一切興味がない!あれこれ叩いて問題が解決するような、もはやそんな甘っちょろい段階にはない!
こんな社会はもう見捨てるしかないんだ!こんな社会はもう滅ぼせ!私には、建設的な提案なんか一つもない!!今はただ、スクラップ・アンド・スクラップ、全てをぶち壊すことだ!
諸君。私は諸君を軽蔑している。このくだらない社会を、そのシステムを、支えてきたのは諸君に他ならないからだ。正確に言えば、諸君の中の多数派は私の敵だ!私は、諸君の中の少数派に呼びかけている。少数派の諸君。今こそ団結し、立ち上がらなければならない。
奴ら多数派はやりたい放題だ!我々少数派が、いよいよもって生きにくい世の中が作られようとしている!
少数派の諸君。正義で何かが変わると思ったら大間違いだ!しょせん正義なんか、老人の戯言にすぎない!我々少数派にとって、正義ほどばかばかしいものはない!このシステムで決めれば、正義側が勝つに決まってるじゃないか!
じゃあ、どうして活動してるのか。
その話は、長くなるから、
https://meitetsunosya.jimdo.comと
https://meitetsunosya.jimdo.com/応援したい/と
https://meitetsunosya.jimdo.com/書籍配信/
を見てくれ。
私は、この社会の、善悪二元論にもう我慢ならない。少数派の諸君。多数派を説得することなどできない!
奴ら多数派は、我々少数派の声に耳を傾けることはない!奴ら多数派が支配する、こんなくだらない社会は、もはや滅ぼす以外にない!
てこ入れなんかいくらやったって無駄だっ!!いま進められているさまざまの改てこ入れは、どうせ全部すべて、奴ら多数派のための改革じゃないか!我々少数派は、そんなものに期待しないし、もちろん協力もしない!
我々少数派はもうこんな社会に何も望まない。我々少数派に残された選択肢はただ一つ。こんな社会はもう滅ぼすことだ!ぶっちゃけて言えば、もはやカウンター活動しかなーいっ!!!
少数派の諸君!!!これを機会に、正義暴走社会の解体を、ともに進めていこうではないか!
ホームページに連絡先が書いてあるから、物見遊山でも、本当の意味での協力でもかまわない、私に1つの連絡を入れてくれ。もちろん電子書籍やコンテンツ購入目的の者や、そっち方面の支援でもかまわない。我々少数派には、良識なんかもともと全然関係ないんだから!
怒れる者での革命を!
右向けと言われたら左を向け!
キャラ絵に惹かれてずっと気になってたFE覚醒を今更ダウンロード購入したんだけど、なんだかこう、胸の辺りがもぞもぞする感覚が止まないので増田に吐き出し。ネタバレなので未プレイの方は要注意。
まず、主人公の王子様が「王族なのに自警団」なんだけど、王子なんだから直属部隊とか騎士団があって、正規軍としての役割を持ってていいと思うんだけど、そうではなくてあくまで自警団らしい。王様は鳩派だけど王子様は鷹派だからなのか?講和条約で制限された軍備を持っていて、秘密裏に軍事作戦を行うから自警団を名乗ってるのか?という説明もなしに「王族が自警団をやって悪い法はない」で説明が済まされるのが気に入らない。十分悪いよ!国家を預かる者が国家の枠組みから外れた戦力を持ってる時点で普通は法律違反だよ!
さらにこの自警団、何を目的としているのかがよく分からない。最初は国境付近が敵国の侵略をうけているから、という理由が説明されてるけど、ずんずん国境から離れて北上してまた別の国まで行って同盟結ぶ。そんなことしてるうちに味方が人質にされて王様呼び出される。のこのこ国境の荒れ地まで呼び出されて行く王様。苦渋の決断により戦争突入、のはずがあっさり抜け出して主人公に合流する人質。で、戦争になったから王様を避難させるはずが、何故か反対側、自国の奥の方から攻め込んでくる敵国軍。国境はどうなった。で、あっさり王様人質になる。そうしたら猛烈な勢いで反攻して敵国居城に侵入した上、最後の拠点まで落とし切る。国境はどうなった。
この流れの中に、「自警」してる要素がまったく見えないんだよ。殴られたから殴り返す、俺正義、ってだけ。国民の生命と財産を守って、その利害の為に戦っているというのが全く見えない。現実世界で戦争が国家間の問題を解決する手段になるか、というのは確かに難しい問題だけど、その生命線は常に、我々がこの世界で生きて行けるだろうか、という問題。人間の数に対してリソースは常に不足してるから、二つの混じり合わない集団が接すれば必ず争いは起きる。その影には、飢えて、病で、死んで行く自分たちの側の人々が存在してる。少なくともそれだけやるせない問題を抱えているんでなければ、人が人を殺す権利があるとは思えないし、現実世界で平和を保つ事が難しいのは、平和というのは常にその裡に争いを抱えてるからだと思ってる。その微妙な「正義」の問題を、この作品世界では、世界を滅ぼす邪竜と世界を守る神竜っていうメタで安易な善悪二元論で置換してしまってる。だけど、戦争の敵国がその二元論に関心があったとは、少なくとも途中までは全く思えない。
話の途中で海の向こうから攻めて来た帝国なんて、邪竜側に加担してるわけでもない。船で乗り込んで主人公側を「侵略する」ポーズを取ったら、やっぱり主人公側が猛烈な勢いで反攻して隣の大陸まで行って最後の拠点まで落とし切られる。その結果得られる物は、実際には味方が保管していた聖玉だけ。それさえあれば後はいらないとばかりに、打ち負かされた帝国を放置して帰還する主人公達。流れを遠目で見ると、主人公側が言語道断な侵略者に見えてくる。さらに流れは、最初に戦って打ち負かした敵国が今度は邪竜のしもべに乗っ取られて最悪の敵として襲いかかってくる、と続く。主人公側が戦後処理きちんとしないで荒廃させたまま放置したからじゃないんでしょうか…?
とまあ、こんなことが気になる時点で、ゲームをやる年齢じゃなくなってるってことなんでしょうが。同じように感じた人いないのかなあ…。某界隈ではスミアたんばっしばし叩かれててああ…って思ったけど、彼女の瑕疵が作品の瑕疵に比べてそれほど大きいとは思えないので可哀想になってくるです。
なんだったんだ。最後のほうで何かしらどんでん返しがあるのかと思ったら(たとえばヤスの妄想だったとか)、そういうわけでもなかったし。
もしかしたら、あきらかに異常な「喫煙者叩き」を描くことで、暗黙に「過剰な喫煙者叩き」を批判しているのだろうか。
だいたい、もし本当に製作者が喫煙者を「悪」と見なして叩こうとしているのなら、脚本にやや違和感を感じるところもある。最後まで喫煙をやめなかったヤスや、「征服...ならず」という表現など。(喫煙者を悪とするなら、ヤスも悪となってしまい、おそらく今後続くであろう物語を考えるとおかしく思える)
ただ「過剰な喫煙者叩き」を批判しているのだとしても、それをヴィニエーラ達にやらせてしまうと、結局ヴィニエーラ達の行いが「よろしくない」ということになり、少し違和感を覚える。