はてなキーワード: 企業戦士とは
"男は仕事、女は家庭"
人口減少による労働力不足の対策として、女性を労働市場に送り込むように政府は舵を切った。
女性の賃金労働者としての社会進出が進むことで、家庭規模では今までの「男は仕事、女の家庭」モデル、つまり「企業戦士+専業主婦」モデルが崩れた。
しかし、社会規模では「企業戦士+専業主婦」モデルは崩れなかった。
その歪みとして、企業戦士としての役割を求められる男性と、そうではない女性の間の格差と衝突が生じた。
給与や出世や採用の男女格差、家事育児の負担の男女格差、もしくは子供と過ごせる時間の男女格差……。
それは家庭内の問題であると同時に、社会によって作られた問題なのだ。
と、よく言われてますよね。
これって同性婚が認められた瞬間、男女の問題、ジェンダー問題じゃなくなると思いませんか??
同性婚を認めることは、同性愛者の方々の幸せ(気持ちの上でも、社会制度の上での受益も含めて)のみならず、1つの社会問題に風穴をあけることにも繋がると私は思います。
俺の目標は俺の好きな人たちと、彼らの好きな人たちが苦痛に苛まれることなく幸せに生きてくれるような世の中に貢献することだ。馬鹿げているだろうか?
俺は俺のこの目標を誇らしく思っているし、仕事にもある程度プライドとやりがいを感じている。
問題は、私の好きな人たちがこの仕事をあまり評価していないということなのだ。彼らは私のこの生き方を「平凡」と表現する。まぁ、いち企業戦士は才人たちの目にそういう風に映るのかも知れない。ただ、俺はこの評価を受け止めきれていないのだ。
ある者は自らの世界観を表現する仕事をし、ある者は世界を股にかけている。そんな彼らに、1人の薬屋は矮小に見えてしまうのか。そう思うと少しだけ寂しくて辛い。
確かに収入もそんなにたくさんはないし、俺と同じ仕事をする人間は決して少なくはない。俺は大金持ちの成功者でもなければ、稀有なアーティストでもない。それでも、俺は相当努力して勝ち取った仕事をしているんだ。本当は誇らしげに、鼻息を荒くして彼らに自慢したいくらいだ。それなのに、現実は厳しいものである。
俺は彼らの幸せを祈る。今日も明日も、これから先ずっと、彼らの才能が羽ばたくのを見ていたい。例え平凡と呼ばれて、「つまらない男」になっても、才能に憧れていても、彼らの幸せをどこかで支えているような、そんな男でいたいんだ。妬んだり嫉んだりは決してしないで、彼らの幸せを祈り続けて生きていたいんだ。
ワーホリのボスだって、働き続ければ文句を言われないからそうしているのかも知れない。
取引先だって、あなたにプレッシャーをかけるのは、他の誰かが怖いからかも知れない。
本当の本当にミスできない仕事なら、本番と同じ環境をもう一つ作り、専門家に外注すれば解決します。その時間やコストをかけず、3年目の子にやらせるのなら、『ミスしない』の要件は、コストより優先度が低いのです。
それを、あなたにプレッシャーをかけて、取引先さんは『仕事しているフリ』をしたのです。
カッコいい企業戦士を演じながら、みんな後ろ手に、自分可愛さを隠しているのです。
日本のIT産業は、周回遅れと言われて久しいですが、その犯人は、僕達とその上の世代です。あなたのボスや取引先、同僚のエンジニアさんもそのひとりです。
色んな可能性があるけど、「高卒の派遣を相手にしない」とか以外の可能性でありうるのとしては、
礼儀正しい社風なので取引先たる派遣社員(派遣会社が取引先)に手を出すのに慎重である、という可能性(その可能性が高いか低いかはわかりません)。
社内結婚はあるということなので、それすらないような潔癖企業戦士(?)でもないでしょうし、
そうすると、お誘いとかに発展するのにタイミングが少ないとかはあるのかもしれません。
だとすると、その数少ないきっかけに、数少ない会話での趣味の一致みたいなのはあるかもしれません。
価値観が違いすぎると、そういう一致が起きたと先方が感じにくい土壌はあるかもしれません。
特段その可能性が高いかどうか、わかりませんが、ご本人がネガティブに感じるような事情ではない可能性としてあるかないかでいえばないとは言えないパターンをちょっと
書いてみたり。
『プーと大人になった僕』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでそういうの嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向け。
これは100点っすな。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」なので、この100点は大傑作という意味ではない(300点とかありえる)んだけど、ごちそうさまでした、わしゃぁあ満足です。という意味で良作だというのはたしか。損しません。
まあ、家族向けとかカップル向けかと言えば、実はそんなことはなくて、一人で見に行けよおい、しかも社会人がいけよ、っていうのはあるので万民向けとはいい難いんすけどね。この映画は、だって、学生にはわからなさすぎでしょ。
ざっくりいうと「おとなになって社会人となり企業戦士として毎日ブラックな労働をしているクリストファー・ロビン。仕事と家族の間で板挟み。人生の迷子になっちゃった。プーさんといっしょに正しい人生を探そう」みたいなあらすじ&テーマであって、それは予想通りだったし、そして予想を満たして十分以上な脚本完成度です。テーマや物語性(増田はここを中心として映画を見ちゃうタイプです。趣味合わない人は申し訳ない)でいえば、非常に満足でした。
がー。そのてんに関してはー。満足だったのでー、逆に満足であったがゆえにー。脇へうっちゃっておいてー。この映画のー。感想についてはー。別の部分をー。述べたいとー。おもいまーす。
映画冒頭部分では、まだ「100エーカーの森」でくまのぷーさんと遊んでいた頃のクリストファー・ロビン(ショタ)が登場するんですが、もうね、これがね、非常にこうファビュラスっていうか尊いわけですよ。華奢な白人少年が四分丈の(日本で言う半ズボンよりは少し長いけど膝上の)ズボンから、少し筋張ったくらいの細っい脚をね。伸ばしてね。みどり豊かな森の中をバスケットを持って歩く姿がね。素晴らしいわけです。
シーンはクリストファー・ロビンが寄宿学校へ向かうその直前。楽しく美しく永遠だと思われていた「森でのプーさんとの日々」が終わるちょうどその時。作中では「お別れをいう日(Day to say goodbye)」と描かれるその日なわけですよ。
クリストファー・ロビンは楽しい田舎暮らしから、厳しく抑圧的な寄宿学校へ入らなきゃいけない。それは大人への第一歩で、もう今までのように日々をただ日々として楽しく過ごせる時間は終わってしまった。それをクリストファー・ロビン本人もわかってるんですよ。もう自分はゆったり時間を過ごせない、これからは時間に追われて毎日何かをしなきゃいけない、大人になるからもう仕方ないんだって、諦観してるんですよ。
その「子供としての最後の日」。100エーカーの森で、プーさんとピグレットやティーガーたち森の仲間でパーティーをして楽しく過ごしたその後、森を見下ろす高台の丸太ベンチに座ったクリストファー・ロビンとプーさんの二人は、こてんと肩を寄せ合い夕日に向かってずっと座ってるんですよ。
そこで「ぼくのことをわすれちゃうの?」と鼻にかかった声で尋ねるプーにたいして、ショタ(大事なのでもう一度いう)美少年のクリストファー・ロビンが、優しくて、それでいて困ったような表情で「プーのおばかさん」って言うんですよ。
ほんと。
尊い。
わかるか人民どもこの尊さが? 「おばかさん」ですよ。もうね、水銀灯の牙城にいちどの跳躍で飛び込む偉大なシーンですよ。もちろん画面は映画でありフルカラーなわけですけれど、この夕暮れは追憶と郷愁の甘さを伴ってセピアにさえ見えるわけですよ。つまり何がいいたいかって言うとクリストファー・ロビンが尊い。
あっという間に幼少期、少年期、青年期を過ごしたクリストファー・ロビン。寄宿学校で父の訃報に接して、社会に出て、将来妻になるべき女性イヴリンと出会い、求愛して結婚し、子供を作り、出兵(たぶん第二次世界大戦)して、なんとかロンドンに帰ってきて、就職して仕事に打ち込む中年になってるんですよ。
大企業のカバン製造部門の責任者となったクリストファー・ロビンは、会社上層部からこの部門の効率化(予算削減)を求められていて、その要求は−20%。リストラ待ったなしの状況で、大事な部下を切り捨てるかどうかの瀬戸際の日々を送り、その結果として休日も家族との時間も奪われているわけですよ。妻からは「もう何年も笑顔を見ていない」と言われ大事な娘のマデリンからは失望されて、でも、家族を守るために部門を守るために、家族旅行への参加をキャンセルしてまで働かなきゃならんわけです。
予定されてた旅行にイヴリンとマデリンの妻子を送り出して、週末も缶詰で仕事しなきゃと追い詰められたロンドンのアパルトメントのクリストファー・ロビンのもとになぜかプーさんが現れて助けを求める、というのがこの映画の第二の開幕です。
懐かしい友プーに出会ったクリストファー・ロビンは彼の頼み(行方不明になってしまった仲間たちを探してほしい)を叶えるために(どっちかっていうと大都会ロンドンにおいては厄介なお荷物のプーさんを森に帰すために)、郊外の美しい故郷に戻ろうとします。そこでプーさんとクリストファー・ロビンは一緒に旅をするわけですけれど、相変わらずふわふわ夢みたいなことを言う(まあぬいぐるみなので当たり前だけど)プーさんの脳天気っぷりに、時間が黄金よりも貴重になってしまったブラックカンパニーソルジャーマシーンのクリストファー・ロビンはいらつくわけですよ。プーさんがベタベタのはちみつで汚してしまった廊下を掃除している間にも、刻一刻とリストラのタイム期限が迫ってるわけで。「なにもしないをすればいい」とか「ゆっくりすればいい」とかいうプーさんの言動が癪に障るのは、まあ、仕方ないです。
送り届けた「100エーカーの森」で、とうとうクリストファー・ロビンは切れちゃうわけっすね。
「ぼくはもう昔のぼくとは違う」とプーに突きつけてしまう。その時の表情がね、もうね、良い。
良いよね。
良い。
失意のぷーさんは「従業員を捨てなきゃならない(リストラ)」というクリストファー・ロビンに「もしかしてぼくも捨てたの?」と聞いちゃうわけです。
それに対してクリストファー・ロビンは「捨てたんだよ」と答える。
この時の表情も、良いのです。
「ソレ」をいっちゃったら相手が傷つく以上に自分も傷ついちゃうのを自覚していて、それでも言ってしまったクリストファー・ロビンの、ナイーヴな表情が尊いわけです。おっさんのくせに。イケオジつぇえな。
この時クリストファー・ロビンは「いいやプーは特別な友達だから捨てるわけないじゃないか」と適当に言うこともできたわけです。でも、それは事実じゃないわけですよ。現実として30年以上プーさんを忘れていたわけだし、放置していたし、それは客観的にって捨てたと言われても当然なわけですよ。そういう現実を糊塗して「捨てるわけない」とクリストファー・ロビンは言えなかった。特別な友達だからこそ、そこで嘘はつけず、自分も相手も傷つけるのなんてわかっていたけれど、「捨てたんだよ」と答えるしかなかったわけですよ。
40代になったクリストファー・ロビンはもうおっさんなわけですけれど、ロンドン紳士然としたイケオジなんですね。その彼がいろんな現実や言葉を飲み込んで、意地っ張りにも露悪的な「捨てたんだ」って告げるそれが、もうね。
ほんと。
尊い。
わかるか人民どもこの尊さが? 「捨てたんだ」ですよ。そんでもってさらに終盤になってね、途方に暮れて懺悔をするようにつぶやく「ぼく迷子になっちゃった」ですよ。いつも迷子になったプーさんを探しては連れ帰る、森の英雄だったショタロビンが、社会人になって人生の迷子になっちゃったわけです。大事で大事で何よりも大事な娘を守るために頑張ってるはずなのに当の娘にがっかりさせて心配させて、もう何が正しいんだかよくわからなくなっちゃったわけですよ。大人になったクリストファー・ロビンにこそぬいぐるみのプーは必要なわけです。
つまり何がいいたいかって言うとクリストファー・ロビンが尊い。
元々激務で訴訟リスク高くて避けられてて、男だと「意識の高い人」くらいしか選ばない科、だったからね。
大野病院事件はそれにとどめを刺したに過ぎない。
つーか一般学生間でも会社に人生捧げるような生き方が社畜と言われて避けられるようになってるんだから
医学生間でも病院に人生捧げる生き方が避けられるようになるのは当たり前。
😥なっ...
😐この絶対合金IT企業戦士ドカタリオンは、以下の点でおもちゃの王道を踏襲していると言える。
1.合体及び分解ができる
この点でそもそも幼稚園児である私がほしがることはあたりまえでこの欲求はごく自然。わがままであっても、合理的な欲求なのだ
😥...
😐もちろん母は私を育ててくれている。生計も生活も文字通りおんぶに抱っこだ。しかし私も訳の分からない要求をしているのではない。正義の味方と同じことをしたいという自己顕示欲、友達と同じものを持ちたいという同化欲。これが合わさった、社会性を持ち始めた幼稚園児年長としては妥当な欲求なのだ。なので買ってくれないか?
😥えっとイヤです...
😢びエエェェぇぇええぇええええええええええエエェェぇぇええぇぇええええええんんんん
ギャアギャアウワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアウアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア
😡さぁ話は終わり?帰るわよ!
この出来事をきっかけに彼は正しい論理を追求できる弁護士を志すことになったのだった
😐完😐
現在日本が抱える様々な問題は、国民を50歳で強制的に安楽死させることでその多くが解決されることに気づいた。
50歳強制安楽死制度下での日本国民の一生は大体以下のようになる。
まだ若い両親の寵愛を受けて育つ。
後述の通り両親はまだ学生であるため時間も体力もあり、全面的な愛を受けて育てられる。
小学生。
現行の小学校とほぼ同様だが、来るべき中学生時代に備え恋愛やセックスに関する踏み込んだ性教育を実施する。
中学生。
男女ともに中学校にて婚約相手を見つけて婚約。第一子をもうける。
妊娠中は女子生徒は学校に通えなくなるので、e-larningや家庭教師などで国が全面的に学習をサポートする。
高校生。
大学生。
学生であるため長時間残業で子供と接する時間が取れないなどということもない。
後述するが両親はすでに退職間近であるため、子供の面倒を全面的に委託することができる。
子供の面倒に気を奪われることなく、全身全霊を仕事に注ぎ込むことができる。
退職。
40歳以上の人間は仕事のパフォーマンスが下がるため社会には不要。早々にリタイアする。
孫(概ね10歳前後)とも仕事を気にすることなく存分に触れ合うことができる。
社会人時代は身を粉にして働いたため、遊びに使う貯金も十分にある。
第二の青春と言って良いだろう。
安楽死。
「初恋をしたのは中学生の頃だった」という人も多いのではないだろうか。
この制度下では中学生時代に結婚するため、現在のような30歳を過ぎて男女ともに打算で行う醜悪な結婚とは異なり、若い純粋な恋情をそのまま婚姻という形で実らせることができる。
今日、恋愛の自由主義化はますます加速している。それに伴い男女ともに恋愛・結婚から取り残される人間が多く出現するようになった。特に男性の高齢童貞が社会に対して抱いている怨念は凄まじく、その存在自体が人々や社会に迷惑を与え、中には直接人々に危害を加える人間まで出現する有様である。
この制度下ではかつて共同体や企業が果たしていた「お見合い」の機能を中学校が代替する。これにより恋愛やセックス、結婚から漏れ落ちる人間がいなくなり、それは即ち高齢童貞の消滅を意味し、治安においても精神衛生の面においてもこの国が安定することに繋がる。
40歳以上になると体力も低下し思考も硬直化するため、労働力としての価値は低下する。
この制度下では40歳で退職となるため、20~30歳の働き盛りを労働力の中心に据えることができる。
女性は生物学的宿命により、妊娠出産のために最低でも1年近くは前線から離れることとなってしまう。一方グローバル社会での企業間の競争は日に日に激しくなり、どの企業も産休・育休による社員の前線からの離脱を容認できる体力がなくなっている。女性の社会進出の意義を企業は理解していても、どうしてもこの事情があるために女性社員の雇用や重役に任命することに二の足を踏んでしまうのだ。
この制度下では新卒入社時点ですでに女性は2~3人の出産を終えており、また祖父母による育児サポートを得ることができるため、産休・育休による戦線離脱がない。これにより企業も安心して第一線の企業戦士として女性を雇用することができる。
「24時間働けますか」とはバブル時代を象徴する栄養剤のCMのキャッチコピーであるが、この言葉通り資源のない日本は粉骨砕身の労働によって世界トップの経済大国に躍り出た。企業間の競争の苛烈さは日を追うごとに増すばかりだが、それに反するように労働者の育児に関する休職・早退の問題も増してきている。この制度下では前述の通り現役労働世代が育児の問題に悩まされることはない。気を惑わされることなく自分の取り組むべき仕事に100%のエネルギーを注ぎ込むことができる。これにより日本の競争力は高まり、グローバル経済戦争の覇者となるだろう。
両親が仕事に忙殺されるがためにネグレクトとは行かないまでも十分に愛情を受けることができない子供も多くいる。特に専業主婦が少なくなり母親もフルタイムで働くことが多くなった今日においてはどうしても子供が両親と触れ合う時間が少なくなってしまう。
この制度下では0~7歳くらいまでは両親に、10~20歳くらいまではリタイアした祖父母と触れ合うことができるため、多くの愛情を受けて成長することができる。
この制度化では中学~高校時代になるべく多く子を産むことが奨励される。
まだ学生の身分であるから仕事を気にすることなく産休・育休を取得することができる(休暇中の学習は前述の通りe-larningや家庭教師でサポート)。
また、すでにリタイヤ済みの若い祖父母に全面的に育児のサポートを受けることができる(両親は仕事に集中しているためまだ孫の養育には参加できない)。
社会としても少子化が解消されるし、仕事に熱中するあまり出産適齢期を逃して涙を流す人も減るだろう。
卵子も精子も加齢によって痛み、男女ともに年を取るごとに妊娠能力が低下する。
この制度下では生物学的な妊娠適齢期である中~高校生の間に妊娠・出産を済ませるため、不妊問題は大きく減少するだろう。
現在の日本社会では60歳定年制度すらも無くなり、65歳あるいは70歳までも働かせようとする動きがある。
70歳でリタイアしたとして、その老体でどのような第二の人生を楽しむのか?
この制度下では40歳という若い年齢でリタイアするため、旅行やスポーツを存分に楽しむことができる。
10年という余生は短く感じられるかもしれないが、まだ若い中年時代の10年の密度は後期高齢期間の数十年に匹敵するだろう。
50歳で安楽死するため退職~死までの期間は10年しかなく、現役時代の苛烈な労働によって十分な貯蓄を行うことができるため、年金制度を廃止することができる。
ガンの終末は苦しい。
ガンに限らず年を重ねるごとに重い病気によって死ぬ確率は高まる。
そうなる前の50歳という比較的若い時点で安楽死することにより、苦しみの果てに臨終するという悲劇を可能な限り避けることができる。
歴史もののヒットの秘訣は登場人物に現代的な価値観を持たせること、と言う定説がある。
歴史ものと言えども見てる方は現代人なんだから、登場人物が現代人とかけ離れた価値観を持ってたら理解も共感も出来ないからね。
歴史再現ノンフィクションではなく、あくまでフィクションのエンターテイメントなんだからさ。
んでそこで描かれるのも時代によって当然変わる。
昔よくあった「お家と主君の為に殉じる家臣」を美化する描写を最近は見かけなくなったのは、
かつては現実で「家と会社の為に殉じる企業戦士」がかっこいいとされる価値観があったが、今はそうではなくなった事の反映。
つか
変にフェミニストっぽさを全面に出すワイルドなキャラクターとか、今の感覚を持ち込み過ぎていてリアリティをそいでいると思うんだけど。やたらと「女を守る!」みたいな事言うとかさ。
今は増田が言うような、三食きっちり作る母親の方が否定される時代。
仮にCMで三食きっちり作る母親の姿が放映されたとする(どんな内容で何を宣伝するCMだよとは思うがそこは置いといて)。
間違いなく「こんなの専業主婦でないと無理だろ」「専業なんてただの寄生虫だし時代遅れ」と思われて終わり。
今度は「この母親大変そう」「見てて辛い」「こういうのがあるから母親が追い詰められて云々」「少子化が進んで云々」となる。
大体「家族の幸せな食卓」的なCMって、外食か中食かクックドゥ的な「自炊を簡単にする商品」のものしかないでしょ。
そういうものを使わない家庭を「幸せそう」だと思う人がどんどん減ってるんだよ。だからそういう姿はCMにならない。
リゲインの「24時間戦えますか」だって、今流せば炎上間違いなしだろう。
かつて尊敬された「企業戦士」は、今は「社畜」として憐れまれる存在になってる。
同じように、増田が言うような「自分を犠牲にして家族に尽くす母親」ってのは
「家族の為にやっているのではなく、本人が料理が好きで楽しんでやっている」という事を強調するしかないと思うわ。