はてなキーワード: 人形とは
先日、とある方とゲームの話になった。その方は二児の母であられるのだが、お子さんがゲームばかりしている、という話からである。僕は小さい頃は親が厳しくてなかなか思う存分にゲームをさせてもらえなかった反動か、今でも年甲斐もなく貪るようにゲームばかりしていると笑いあった。
その時も話したのだか、ゲームに打ち込む姿勢は決して悪いものではないように思う。
コンピュータプログラムは決して裏切らない。ゲームの中でキャラクターが死んでしまったら、必ず自分の操作なり攻略法なりが(例え理不尽な理論でも)間違えているのだ。その間違いや経験不足をただし、反省し、攻略に向けて違うアプローチを探したり、腕を磨こうとする姿勢はとても善良で正しいと言えると思う。高校以下の学校教育の教科書から学ぶことでこの方法で解決できない問題はないように思う。
だが世の中に出てみれば、バグやチートで溢れていて、決してクリアできるゲームだけではないのも事実だ。
これについては今のゲームだけでは学べないと思う。
ところで、散々議論されていることだが、残虐性の強いゲームの教育における有害性であるが、これについては正直僕はわからない。どちらでもあると言える。
腕がもげる、血が飛び散る、女性が犯される、それらの表現の残虐性について理解していない子供に繰り返しそういう映像を見せることが精神に影響を及ばさないのかと言われたらそれはそうかもしれない。
せめてこれは悪い行為だ、これは残虐な行為だと理屈でいいからわかるようになってから遊んで欲しい。
勧善懲悪で帰結するストーリーならまだ救いはあるかもしれないが、そういうものばかりではない。
逆説になっていないが、だからといって、そういうフィクションを取り上げれば良い子に育つかというと当然そうではないし、実のところ僕はそういう映画やゲームが人間がもつ残虐性の受け皿になるという考え方には賛成だ。
僕は変わった少年で、ガンケシやキンケシと言われるゴムの人形の頭をもいだり、爪楊枝で串刺しにして並べているような子供だったらしい。らしいというのら本人は記憶に無いからだ。平たく言うと異常だった。
知人のA氏は、幼稚園の頃から好きな子をエレベーターに閉じ込めていて、こっぴどく怒られたことがあるらしい。笑い話であるが、笑い話ではない。
攻撃性、残虐性、独占欲、性欲。
スポーツで汗を流して忘れさせるか、ゲームや映画で一時的に発散するか、どちらが良いのかはわからないが、必ずそれは存在するところにはするし、一つ言えることは、無いことには出来ない。
教育というと、なにか良い光を当てることだけを連想するが、負の感情や悪の意味を教えることも立派な教育だと思う。
人が殺されるシーンや、女性が犯されることに興奮する人間はいたって平凡な悪人である。不思議でもなんでもない。残虐な行為に興奮できるのは、その人間が事の残虐性を理解しているからであると言える。
また、血や、死体に美を見出すような人物もまだ幾分かは理解できる。ただ美的感覚が一般人と違うだけである。
最も異常だと思うのは、最も恐ろしい人間は、なんの感情も持たない人間である。
食事をするように他人を殺し、髪をかき上げるように異性、同性を犯すことができる人間がいたら、それは異常だと思う。
理性でも、本能でも良い。そのどちらでも残虐性を理解していない人間がいたらそれは恐ろしい。
そして、そういう人物とゲームの関係性は、今のところ無いように見受けられる。
これに尽きると思う。
http://d.hatena.ne.jp/islecape/20110801/yome
上の2つのエントリーなどで、有名ブログ「中国嫁日記」が差別的かどうかという話題が妙な盛り上がりを見せているようで。とはいえ、この手の議論の常として、互いに感情論を飛ばしあうだけの、ぐだぐだな結末になっているようですが。
少なくとも今回の議論に限り、ここまでぐだぐだになった原因は問題提起側、すなわち「嫁などという性差別的な言葉を使うとは何事か!」と言い出した側にあります。なにしろ、嫁という言葉を再三再四あげつらっておきながら、なぜ「嫁」という文字の使用に問題があるのか一度も説明していないのですから。
たったこれだけの「自分の感覚」をよりどころに、あれだけの長文を書き上げ挙句社会まで語ってしまうと言うのは、その壮大な構成力に賞賛を贈らせて頂くより他にありません。その果て、このブログ主さんは
しかしそれにしても、前述のTogetterの ものの役に立たなさはどうしたことでしょうか。「これが差別なんて、なにを考えているのか」という自身の感覚の披瀝や、「こういう人は他人を差別するために機先を制して自分が差別と言っているだけ」という主張に熱心な人が多いのですが、 …(途中略)… だいたい未来にむけて記録すべき思考の痕跡とも思えません。「当時」の大衆の程度を知る材料にはなりますかね。
と嘆いておられるのですが、そりゃ「嫁なんて言葉はけしからん!」という「自身の感覚の披瀝」に過ぎないtwitterに対して、客観的かつ論理的な反論を要求するのは無茶というものでしょう。自分が見えていない人間とはよくよく怖いもの無しのようです。
しかし折角なので、ここではその無茶への挑戦をしてみたいと思います。上のエントリーの中国嫁けしからん!嫁は差別!精神が疲れる!という切なる悲鳴に対して、どこまで客観的な「反論」をなし得るのでしょうか。単純化のために、ここでは内容については一切議論せず、「中国嫁日記」というネーミングの是非だけを考えましょう。
さて、客観的と言うからには、ここで「俺は嫁って別に差別的じゃないと思うけど」と張り合ってみても意味がないのは明らかです。ここで必要なのは中立的な第三者の視点であり、そして私の手元にはこれ以上は望み得ないくらいに客観的な視点があります。広辞苑と新漢語林。要するに辞書です。
広辞苑によると、嫁は
(1) 息子の妻
(3) 結婚の相手としての女。嫁した女。妻。
(4) 「嫁が君」(ネズミ)の略
とあります。二番目の意味から、まず中国嫁日記の嫁の使用法が間違ってはいないことが分かります。まだ新婚さんみたいですから。さらに漢語林を引くと、
とあります。恐らく、嫁という字が一部の人たちから忌み嫌われる理由の一部がここにあります。家の従属物的な意味合いを感じ取って、それが性差別であるという論法のようです。とりあえず事の是非は置いておいて、代替語についても調べておきましょう。
妻: かんざしに手をやり、髪を整え飾る女性のさまから、つまの意味を表す。
奥: 貴人の妻の称。貴人の居室。大切にすること。など多数の意味を持つ。室も同義。
婦: 女+帚。帚はほうきの意味。ほうきを持つ女性、家事に服する人の意味を表す。転じて、一家の主婦。一家の切り盛りをする女性。または子の妻。
細君: 細は小さい、かぼそいことを示す字。愚妻などと同じ謙譲表現。ただし、最近は細にこまやかという意味もあるせいか、他人の妻をいう語に用いられることが多い。
他にも連れ合いとか家内とかありますが、もう十分でしょう。妻というのはなかなかに色っぽい文字で、言葉自体には結婚関係を表す意味合いがないのが嫁との違いです。ちなみに、夫も大人が冠を付けている様をしめすだけの文字なので、夫妻という言葉は男女という言葉と解字上はあまり差がありません。一方で生活感が溢れまくっているのが婦の字で、家政婦や助産婦など、女性が多く働く職業にこの文字が使われるのも、事の是非はさておき自然と言えるでしょう。
奥・室は、元々家の神を祀る場所を意味したこともあって実にエレガントな言葉で、自分の配偶者を「奥さん」と呼称する人もいるようです。しかし、元は貴人の妻を表す表現である以上、日本語表現としては非常に据わりが悪い。そもそも、定義から言えば自分が貴人と言うことになってしまいます。配偶者は実に中立的ですが、3文字を費やした挙句に性別も分からないというのは、法律用語としては便利でも本のタイトルとしては問題外です。
こうしてみると、本のタイトルとして使い物になりそうなのは嫁か妻かの2択と言うことになりそうです。この2つの文字が決定的に違うのは、嫁には「移動する」という概念が強く存在する点です。生家から夫の家へと。だからこそ、嫁に来る、嫁に行く、という表現はあっても、妻に来る、という表現はあり得ません。責任転嫁に嫁の字を当てるのも同じ理由からでしょう。中国嫁日記というのは、中国からやってきた奥さんが異文化の日本で楽しんだり悪戦苦闘したり、旦那さんと新婚生活をエンジョイするのを描く日記です。ならば、単純に中国人の配偶者であることしか意味しない中国妻よりも、「中国から来た嫁の日記」とするほうが遥かに適切でしょう。
もちろん、このように語を連ねずとも、常識的な日本語感覚を持つ人にとっては、中国嫁日記の方が据わりが良いというのは直感的に明らかなのですけれども。
さて、問題の差別性の有無についてですが、今回の騒動でひとつ明らかとなったのは、「嫁という言葉は差別的である」と思う人とそうでない人が両方存在すると言うことです。どちらかといえば、差別的と感じない人の方が多いようにも見えます。ここからは私個人の主観になりますが、嫁が嫁ぐ「家」の概念が過去数十年で大きく変わったためであるように思います。昔は女性の嫁ぐ先は夫の実家であり、夫の親兄弟との同居を意味しました。ここでの家は正に「夫の家」であり、「妻の家」にはなりえません。ついでに、義理の親兄弟の世話まで任されることも多かったわけで、妻にとってはなかなかにストレスのたまる環境であったことでしょう。この状況下で「嫁」という言葉にネガティブな意味合いが生まれるのは無理からぬ事かも知れません。
しかし、核家族化の定着すると、花嫁が嫁ぐ「家」には夫と妻の二人しかいません。この「家」を夫の家、と考えるのには無理があります - この「家」はふたりだけのものなのですから。多くの日本人にとって、この「家」に嫁として嫁ぐこと自体は、特にネガティブな意味を持たなくなって来ているように思います。もちろん、女性であるが故のディスアドバンテージがこれで消えたわけではないでしょう。しかし、それはもはや「嫁」であることのディスアドバンテージではなくなってしまったのです。
こう考えると、嫁にやたらと苦痛やら疲労やらを感じてしまう人たちは、非常に古い「家」の概念の持ち主なのかも知れません。運悪く嫁がこき使われる大家族に生まれてしまったとか、時代遅れのフェミニズムの教科書(そんなものがあるのかは知りませんが)にかぶれてしまったとか、そもそも核家族化が進む前に生まれたお年寄りであるとか。どちらにせよ、嫁の字を見ただけで辛い思いをするというのは、同情に値する境遇であることは間違いありません。嫁でこれなのですから、女に帚の婦を見た日には心臓発作でも起こしかねない。全国津々浦々の結婚式場で「新婦入場です」のアナウンスがかかるたびに、その言葉の差別性をこんこんと説き起こし説伏する。その果てにしか彼らの心の平穏はあり得ないのです。彼らフェミニストの想像を絶する試練の日々を、私は涙と共に見守りたいと思います。
ギャンブル全般(ゲーセンとかのパチンコは見てて楽しそうだけど)
ネットゲーム(ハマるとリアルをないがしろにすると聞くので怖い)
アイドル(全く興味が持てないので一緒に楽しめそうにない)
低年齢アイドル(同上)
お酒(飲めない)
オーディオ(今のところ興味がもてそうにない)
テーブルゲーム
旅
凌辱系アダルトゲーム(凌辱ゲー最高)
萌え・エロフィギュア(エロ系は子どもができたら隠してほしいけど、人形は好き。作ってみたい)
萌えライトノベル・アニメ(とあるって萌え系に入る? 上条さんかっこいい!)
猫オタ・犬オタ(動物大好き! 話が合うとうれしい。でも爬虫類はちょっと苦手かも)
格闘系orシューティング系ゲーム(上手い人のプレイを見るのは好き)
映画鑑賞(全然知らないけど好きな作家さんが映画好きなのでおすすめを教えてほしい)
歴史(学問知識が増えるのが好きなのでいろいろ話を聞いてみたい)
突っ込みだけ入れていくよ。
おそらく、デッサンのモチーフとして漫画に生かせないものを使っちゃっているんじゃないかと思う。
どういった漫画が書きたいかにもよるんだけど、書きたいモチーフに近いものを模写したほうが漫画に生かせる。
中世ファンタジー書きたかったら、映画のコマをキャプチャーして模写とかな。
2、人体の仕組みを理解する
動きに説得力のある絵を描きたいのであれば、
正直、人間に無い動きをさせるのでないかぎり、映像見たほうがいいかもしれない。
服とか結構な種類あるし。
これは不味い方向性。
自分がゼロから書いたほうを楽しく、頼もしく思っていかないと、ゼロから書かなくなければいけない時につらくなってくる。
完全模写なら発表しないほうがいい。
そこから判断されるのって、複写が上手いか下手かであって、絵を描くのが上手い下手って判断をしてもらえないから。
その人の絵柄で、他のポーズを取らせるとかしたものなら、その人の絵の理解度+それを絵に出来るスキルを見てもらえるし、批判は少なくなる。
その人の絵柄を覚えるまで模写するのはいいことだけど、それを他人に見せちゃ駄目だ。
あくまで他人に見せていいのは、お前さんの絵だけなんよ。
表題の通り。
夫は、機能的で丈夫で暑くも寒くもなければそれでいいというレベルの服飾感覚で
在宅の仕事だし、必要な場面があってもスーツでしのいできたので、社会的に私服センスをまともにする必要にかられたこともない。
着ているのはユニクロ・ジャスコ等で買ったありあわせのアイテム必要最小限。
しかも長持ちするものは10年以上着るのでヨタヨタになってるしサイズに統一性がない。
お気に入りのひとつにピッチピチのYシャツがあるのだけど、いつだったか「それどこで買ったの?」と聞いたら
これ中学の時母さんが買ってきたやつだから、わからない。と返されて、驚愕したことがある。
靴はスーパーで購入の運動靴、カバンは高校の時使っていた通学カバンのエナメル。
ひとことで言えば、年齢不詳。更に言えば、夜歩いてたら職質されそうな感じ。
デートは正直言って辛い。小学生くらいの幼い弟と歩いているみたいな気分になるから。
家で部屋着でいるぶんにはダサいことは気にならないからますます好きになる。
7年前に出会って告白された当初、短所はこの服装だけだと思った。
でも服装なんてたかだか布数枚の問題だし、服装を理由に交際を見送るのは残念すぎるほど、他の面は相性がよかった。
付き合っていくうちに私がうまく褒めたり小物をプレゼントしたりして長期的に誘導していけばお洒落になれるんでは?と気楽に考えていた。
昔から、いい年した男性が「服は全部女房が買ってきて用意するのを適当に着てるからわかんないんだよ~」と言うのを
なんどか見てきたので、服にこだわりがない男の人ってそういうもんだという楽観があった。
積極的にファッションの話題を振ったし、彼が負担に思わない程度のプレゼントもした。
前から思ってたけどこのパンツ似合うよね!これに合うと思ってこのシャツ買ってきたんだ、どお?
でももし要らなかったら兄にあげるから、気にしないで。とか言って。
「なんかお洒落な感じがするから気恥ずかしくて嫌だ、いらない、ごめん」と返された。
他人から、あ、コイツお洒落な服を着てお洒落しようとしているな、と思われるのが果てしなく苦痛らしい。
わたしの当初の目論見は甘かったと思い知った。
もしファッションになんのこだわりもない無風人間なら、妻の促すままに着せ替え人形になってくれただろうけど
夫にはお洒落でありたくないというマイナス方向の強いこだわりがある以上、彼の服装を矯正することは誰にもできない。
今はもうそういうことは全て諦めて、夫が服を買わない分、金が浮いていいやと思うことにしている。
夫自身も、俺は服にお金は使わないから、そのぶん君がおしゃれしていいよ、と言ってくれるし。
良い夫だ。
藤村『さっきビルの隙間の結界くぐったでしょう。ここらはもう魔女のテリトリーなんですよ~。』
鈴井『そこらじゅうにちっこい化け物がいるね。』
鈴井『ほら前見て。開けた場所に出てきたよ。』
大泉『おいおい、これはもうなんだい、お菓子だらけじゃないの。隅っこにあるずんだ餅なんてのは大好物でしょうミスター。ほら、さっさと食べなさいよ。』
藤村『あそこのながーい椅子に座っている飴ちゃんみたいな頭の人形が、魔女…のはずです。』
大泉『はずってなんだい君。調べてないの?』
鈴井『さっき車で確認したよね。』
大泉『君が言うことはね、いちいち当てにならないんだよ。わかった、じゃあみんなで倒そう。ほら、嬉野君、早く変身して。』
大泉『当たり前でしょ~。僕はアカプルコに行くんだと思って海パンしかもってないんだよ。戦うんだったらもっとちゃんとした服買ってくれよ。』
藤村『じゃじゃじゃあ、わかったわかった、まずはね、嬉野先生にビシっと突撃してもらって、そのあとビシッと大泉さんに契約してもらって、ビシッと魔女を倒しましょうか。』
藤村『そんなもんみりゃわかるでしょ、ミスター。あんたは壁につっかかってるアップルクーヘン食べてなさいよ。』
藤村『あんたテレビなんだからちょっとは発言は慎みなさいよ。』
鈴井『やばいって。近づいてるって。口開いたって。』
嬉野『あぁぁぁ。』
大泉『君は想定外ばっかりじゃないか。想定内のことなんて一度でもあったかい?』
藤村『大泉さん、早くしないと。ほら、ここに契約して。ビシッと魔女倒しなさいよ。』
大泉『藤村君、君はね、出会ったそばから、契約しなさいよ、早く契約しなさいよ、
すぐ契約しなさいよ、って僕をこの魔法少女にすることしか頭にないだろう?』
大泉『いやに決まってるでしょ。魔法少女なんて、なってみないとどんな武器持つかわからないんだよ。弓とかだったらいいけど、旧石器時代の斧みたいな、こう敵を叩く度にね、縄がボロンとはずれる出来損ないの武器しかもたせてもらえなかったらね、魔女狩りどころじゃないんだよ。』
鈴井『まずいよ、こっち来てるよ、早く逃げないと!』
藤村『うるさいよミスター。あんたはそこのあんこ入りのおやき食べてなさいよ。』
あんこ入りのおやきを食べているミスターをよそに、遅れてやってきたOnちゃんにより、無事魔女は倒された。
終わり。
こいつらが何を言い争ってるのか把握したのでまとめた
まずkurahitoが執拗にFrancesco3にセクハラを続けている
「Francesco3とはファックしたくないファックファック」と狂ったように騒ぐkurahito
''kurahito" 因みに実母とファックしたいと思った事はありますが、F子みたいなのが母親だったら
ファックしたいとは思わない。客観的にw親密に見えたとしても。 2010/12/15
"kurahito" 私がファックしたいと思う基準は親密性もさることながら責任能力。
F子みたいに電波な母親とファックしたら後々面倒に決ってるので桑原という感じ。教員もしかり。 2010/12/15
ひとりはてブタワーをのぼりながらファックの話を続けるkurahito
みんな遠巻きにしている誰も止められない
ここでNATSU2007登場
"NATSU2007" あーはいはい 貴方の発想って一事が万事「女が俺に欲望されないから嫉妬してる」
しかないんだね。だから「ファックしたくない・お前には欲望しない」と見当違いに吠える。
珍しい心性じゃないが。むしろ何度目だナウシカ。 2011/03/21
"kurahito" これは一般論だが「夫がロリエロ/近親姦漫画を隠してました。おぞましいです」は嫉妬だと思うが。 2011/03/22
嫉妬脳の恐怖wwwwwww
なぜか女から欲望されている事を疑わないのは
キモヲタ全般に共通するが
こいつらの自意識過剰の理由を誰か説明してくれwwwwwwwwww
"NATSU2007" それら全て「欲望されない女の嫉妬」と定義するならゲイ男性も当然忌避される筈だが
逆に好かれてる位だ。さーどうする理屈に合わないな。「ホモが嫌いな女子はいません」が
二次に限るとしても「おこげ」も存在する。 2011/03/23
"kurahito" 浅っ。腐女子やオコゲは「ヘテ男に欲望されねばならない」という心的負担のない
安全圏からゲイ男性を視姦してるだけでしょう。 2011/03/23
"NATSU2007" メタブ え、小児性愛者や人形愛者は「ヘテ男」で括られるわけ?幼少年しか欲望しないペドは?
ゲイ男性と同じ立場の筈だが幼女を欲望するペドと同じように"おぞましがられている"と思うんだけど。 2011/03/24
"NATSU2007" メタブ あとこれ"kurahito氏自身"が「ヘテ女に欲望されねばならない」
痛い所を刺されkurahito泣きながら逃亡wwww
"kurahito" ↓「異性愛⊃人形愛、近親姦、小児性愛」なんだが。私のことを知りもしない癖に
知ったような書方するし、知ってほしいとも思わないし、他者に敬意を払えない
自称ライターさんもウザイからこれ以上レスしません。 2011/03/24
"NATSU2007" メタブ, 性 これじゃ父息子・兄弟の近親姦や少年性愛者も「ヘテロ」となる。
「ヘテ男に欲望されたい女の嫉妬」メソッドではそれらが忌避される説明がつかない。
どこまでもヘテロ目線だから破綻するんだよ。底が浅いのはどっちよ 2011/03/25
(私も散々ナツと呼び捨てにされ失礼な事書かれた)、
知りもしない他人の事を知った様に書いてきたのは貴方じゃないの。
ついでに
知りもしないFrancesco3のことを知ったように論評するkurahitoと
それをブーメラン返しで自覚させるNATSU2007
"kurahito" 私が見聞きした限りではF子は娘に対して異常に他人行儀な気がするんですよね。
異常に距離感が掴めてないというか。「親子は他人の始り」をどこかで認識し損ねたかのような。 2011/03/10
"NATSU2007" メタブ, 転移 私が見聞きした限りkurahito氏は母親への恨みを母の表象の
以上
堪忍バッグの緒がきれたNATSU2007がバッサリ斬った構図だが
イメージ操作したがっているid:kanoseやそのお仲間の遣り口の薄汚さには
ノドにスッパい物がこみ上げてくるのを抑えきれねえ。まるwwwwwwwww
アメリカでは、母が転落死した子供が、人形でその様子を再現した。
子どもたちはときに、大人が考えつかないほど残酷な行動をとる。
だがけっして、子どもたちがおかしくなったとだけは思ってはいけない。
非言語的なコミュニケーションを中心としたプレイセラピー(遊戯療法)やアートセラピー(芸術療法)では、人形遊び・粘土細工・絵画・ゲームを用いた創作行為(表現活動)によってカタルシス(感情浄化)の効果を引き出し、虐待状況を遊びの中で再現することによって自己洞察(アウェアネス)を深めていきます。トラウマの問題を解決する為に実施される遊戯療法(プレイセラピー)を、「トラウマを受けた後に適用する遊戯療法」という意味でポストトラウマティック・プレイセラピーと呼ぶこともあります。その場合には、室内の安全性と玩具の選択が十分に配慮されたプレイルームで遊戯療法を実施し、子どもの内面的な感情や虐待的な家族関係を『遊びの内容』で象徴的に表現させるように工夫します。
どちらの事例も照らし合わせると、奇妙でおぞましい遊びではなく、子供たちが、トラウマを克服しようとしていることがわかる。
肉親を失う、たくさんの人が死んでいく、そういった過酷な状況は、大人ですら平静でいられない。
精神の平衡を乱し、一時はふさぎこむだろうし、そのまま立ち直れない可能性もある。
子どもなら、なおのことだろう。
同じトラウマに対し、ある人は泣き叫び、ある人は怒り狂い、ある人はふさぎこむ、というように、人は実に多様な関係を築く。
今回の地震では、多くの人の日常が、命が、はかなくも崩れ去った。
受け止め方は、さまざまある。
被災地にほど近いわたしの家には、被災者である姉家族が滞在している。
幸い怪我もなかったが、勤めていた会社もなくなり、住んでいる場所は避難区域らしく、義兄は不安がり、姉は心底おびえているようだった。
初めて会った姪は、口数が少なく、怖がっているのかと思いきや、普段通りと姉夫婦はいった。
父はそんな姪を、肝が据わっている、さすが俺の孫、などとほめていた。
わたしは姪と触れあうため、気のいいふりして部屋に連れて行き(なにしろ茶の間は辛気臭い)、人形やぬいぐるみを見せたり、お絵かきしてみたり、食べ物で釣ったりと、意思疎通を試みたのだが、いい反応を示してくれなかった。
姉にも相談してみたが、感情の起伏があまりないの、とどうしようもない答えもいただいた。
そしてわたしの困った様子が伝わったのか、部屋から逃げられてしまった。
姪だって、大人は仕事や連絡を取り合ったりして忙しいのに、かまってもらえそうにないだろう。
けど、もっと一緒に遊ぼうよ、なんて逃げられた上での会話は、そこまで言いよるコミュ力は……
地震怖い、放射能怖い、そもそもインドア、の三拍子そろったのんきな学生である私は当然外出するわけもなく、忙しい大人とは反対に、とりあえずテレビを見つつネットサーフィンしつつ呆けていることにした。
そして、姪に振られてから時間も過ぎ、相変わらず地震怖い放射能怖いと思っていたころ、姪がいきなり部屋に入ってきた。
飾ってあったぬいぐるみの一つを床に置き、次に本を何冊かひっぱりだし、ぬいぐるみの上に重ねた。
「いたい、いたい、たすけて」と、本の下敷きになったぬいぐるみを小刻みに動かした。
動けなかった。
けど、否定はしていけないと思った。
たぶん、なにかを伝えようとしている。
姪は相変わらず「いたい、つらい」と言ってはいるのだが、次第に静かになっていって、なんだか妙にリアルだった。
やっと動けたわたしは
「もう大丈夫だよ」
なるべくやさしく、姉みたいな口調で。
「ちがうの!」
間髪いれず、姪はわたしの持っていたぬいぐるみを奪う。
「おわってないの! こわいの!」
と言って、姪はついに、涙を溜めた。
それでも、姪は声をあげて泣かなかった。
わたしをにらみつけているようにも思えた。
つらくなかったわけじゃない。
もちろん、強いわけじゃない。
当たり前だ、大人ですら耐えられない。
しゃべらないのは、平気ってことじゃないのに。
なんでわかってあげられなかったんだろう。
福島第一原発側の報告と、官邸の報告とをつき合わせていると、12日午前3:00の時点で、一号炉の圧力を抜く予定だったのが、翌朝の菅首相の視察が終わるまで放射性物質を撒き散らすなと命令が下り、翌朝7:11に菅首相が現地に到着し、視察が終わるまで、一号炉の圧力は上がるままに放置されていたという事になる。
視察によって放射能汚染を蒙りたくないというのは、本心であろうが、現場の判断による圧力解放を停止させるのであれば、代替手段を指示するべきで、それは、炉の廃棄であるホウ酸水注入となる。
一般に密閉容器内で圧力が高くなると、水の沸騰温度は上昇する。圧力鍋が、通常の水の沸騰温度である100度以上の高温で調理できるのと同じ理屈である。
圧力が高くなった分だけ内部は高温になり、本来ならば蒸発して水蒸気になる筈の水が液体のままで存在することになる。
原子炉は内部に熱発生装置を収めた圧力鍋のようなモノで、高温になっている圧力鍋の中にパイプを通して、二次冷却水を流し、内部の熱を取り出してタービンを回す装置である。原子炉において、一次冷却水である純水は中性子の速度を調整して核分裂反応を促進させる。通常は、温度が上昇して沸騰状態になり、水中に気泡が混じると、核分裂反応を減速させる方向に動くが、内部の圧力が高くなって水中の気泡が消失すると、核反応が促進されてしまい、より高温状態になり、加圧が進むという、正のフィードバックが発生してしまう。
圧力を抜く事で水を沸騰状態にし、気泡の存在によって原子炉の反応を抑制させるというのは、沸騰状態でバランスされてしまうし、放射性物質を含んだ蒸気を大気中に放出し続ける事になるが、この状態で冷却水を大量注入して反応を抑制できるのであれば、被害は大きいが、原子炉を再開できる手順である。
沸騰状態の圧力鍋の調圧弁を抜くと、盛大に吹き零れるし、蒸気も出てくる。通常は、鍋を流水につけて急冷して、大気圧と同じになってから蓋を開けるのだが、福島第一原発では、圧力を抜く為の調圧弁を、首相の視察が終わるまで開けるなと言われて時間を浪費し、挙句、開けても良いと上からの指示が来たので開けようとしても、圧力が上がりすぎていて開けられなかった。挙句に、高温に負けて安全弁が解放されて建屋が爆発した。
現場の判断に上が介入した時点で、現場は自立的判断を放棄し、指示どおりに動くだけの人形になってしまったという、典型的な上意下達の愚行が原発で発生していたという事である。
ルールやマニュアルを定めて管理を強化しても、事態は解決されないどころか、かえって悪化してしまう。原発管理を強化とか、人民の代表である政府が直接管理監督といった話がでているようであるが、その問題の専門家よりも、経営者や政治家といった半可通がしゃしゃり出てくる事を禁止できなければ、どんな管理体制も、事態を悪化させるだけである。
やっぱり、大人になってからも時折思い出される、幼い頃に親に対して抱いた恨みの感情とかエピソードとか、そういうものを振り返ると、自分は虐待されていたんじゃないかと思う。
そのひとつひとつは、世に言う虐待のイメージとは違うんだけどね。
別に殴る蹴るされたわけじゃない。
大事にされてたのかなって疑問だけは今も残る。
今更聞きたくもない。もう縁も切ったし。
「もうスポーツできないって、どんな気持ち?」
TVは好きな番組を3つほど録画し、アニメを少し見る程度でニュースは
ほとんど見ていない。ネットでもニュースサイトを見ることが減って
ホットエントリをちょこっと見る程度なので、今回の地震は全く気が
つかずに過ごしてしまった。
昔はネットとTVにかじりつき脳がマルチタスクに動き、色々なニュースを
読んではみんなの反応を楽しんで、自分も感想を言ってたけど、ここ数年は
もう世間で何が起きてるかわからない。
熊本の女児殺害事件も、ネットで母親には過失が無いとか騒がれてから
知ったし、実際どういう事件かも知らないし調べる気もない。
世間ではおぞましい事件や卑劣な犯罪が起こってるだろうが、もう僕には
なんにも関心がなくなった。中東の民主化革命も置いてきぼりで、かつては
株をしていたが止めてしまい、為替や日経平均株価は今現在いくらなのか
ネットで調べればワンクリックで知ることができるけど、もうどうでもいい
無気力感が先行し何もする気がない。
場所を変えたり環境を変えれば変われる、とかいう人がいるかもしれないけど
新しい環境に移動する力がない。ただ、だるい・面倒・これでいいや。。。
このままじゃいけないのはわかってるが、何も出来ないもどかしさと焦り
意欲的に趣味や仕事に走る人への小さな嫉妬と羨望。そして憧れさえ最近は
かなり薄れていき目を閉じるようになった。
このままこの状態が進むと、幸せなことが起きても何も感じない人形みたいな人間
になるんじゃないか?と根拠の無い漠然とした不安がモヤのように掛かってくる。
今は非正規雇用で収入がかなり低いので転職をしてみようと思うが、求人をみて
面接はしていない。おもしろい本を読んでも途中で何か嫌になって読むのを中断
観ていない番組やアニメは貯まる一方。最近の昼食は休憩室で食事をしないで
倉庫の隅で誰とも顔を合わせないように食べてる。
人と接するのが嫌になった、世間と接するのも嫌になった、ネットも億劫になった。
そしてそれをぼやく回数もかなり減った。いまここで自分の気持を正直に書くのが
久しぶり。そのうちこういう不満もなくなって、ただ惰性で生きていくのが怖い。
自分から行動を起こさないでただ生きて行くだけでは、生き残れないと思う。
じゃあその対策と行動をすればいいじゃん。となるが出来ないんだよね、これが。
『キッカケ』はどうすれば掴めるんだろう?目の前にたくさんあるのは見えてる
けど心も体も動かない。遊園地に一人で取り残されてるみたいで寂しい。僕一人
だけベンチに座ってみんなの遊んでる姿を見るだけ。
こういう事を社会のせいや世間のせいにしたくないし、僕個人の責任のはずだけど
なんというか、やはり誰かの助けが欲しい。溺れるものは藁をも掴む思いで誰かに
頼りたくなるけど、僕はもう溺れて水の底に沈んでしまっている。
薄暗い水の底から僕は何が出来るんだろう?
Togetter - 「francesco3氏」と「めがねおう氏」の炎上ツイートまとめ
その昔非モテというものがあり、今では二つに分かれ、ひとつは『関わってはならないサイト』に、もうひとつは非モテを名乗ることをそのものをやめた。
なぜそうなっているかと言えば、「ママのお人形」と形容される元来の資質もあるだろうし、他者に不快さを与える先天的な顔の造作の悪さもあるだろうし、今で言えば発達障害などの広汎的な不良もあるだろうが、いくつかの要因を元に、慢性的に幼児期からカジュアルに疎外されつづけた結果といえると思う。
カジュアルな疎外というのは、単にキモいといわれるようなこと、それだけである。
長年にわたり複数からキモいとか、なんでお前もいんの?とか、私の机に触らないでとか、二人組作ってーなどと言われ続ければ、塵も積もれば山になるのであって、人格の奥底に自分が自分であるが為にキモいという意識が形成されていく。
『自分が自分であるが為にキモい』というのはすなわち、自己表現してはならないということである。
自己を表現したら不快と思われるような存在否定の意識であり、自己表現をしないか、キモい自己表現のみが許される。服装は典型なオタクルック、闇に隠れるように地味さで、声は誰にも聞かれぬよう細々と小さく、趣味もキモいと思われるような一人遊び。
そのために非モテたちは、非モテとなる以前は名前のない誰かであった。分かり易く憐憫・同情されるほどのエピソードは持たず、しかし慢性的にカジュアルに疎外され、誰からも慰めて貰うことなく、その結果哀れで卑屈な人格が形成されているが、他者からみれば『努力不足』『甘え』と形容される、どこにでもいる名前のない誰かである。
ネット時代が到来し、名前のない誰か達に自己表現の春がやってきた。
彼らはいつのまにか集い、巣を作り始める。だが看板無き場に人が集うことはない。大きな前提条件として『モテない』が自然発生的に選択された。『モテない』は実に分かり易いカジュアルな疎外の経験として、大多数の『キモいひと』に共有されていたからだ。そして彼らは、喪板や非モテと言ったコミュニティを作り上げた。
カジュアルな疎外経験を自分語りすることによって、彼らははじめて互いに憐憫・同情・受容する場を得たのだ。
匿名か顕名というネット特有の大きな距離感はむしろ、疎外されることのない安心感としてうつった。
真の自己が孤独だと感じていた者が、自分以外の同じような経験に触れることは、なによりの癒しとなる。
場に癒された者は、自らも場に溶け込もうとし、その為の経験は十分に豊富で、そしてその経験も平和的に共有されていった。
自己表現の病を抱える者にとって、名前が付くことは実に安心できるもの。しかし、非モテで安心することは、失敗である。
コミュニティが形成されれば、時と共に煮詰まっていくのは仕方ないこと。
コミュニティが生まれればそのなかで更なる承認を得たいとする意識がうまれ、ばかげた内部闘争が始まるが、全くもって無意味なゴミに過ぎない。大別すれば2種類あり、一方はとにかく『モテたい』ひと達である。自己否定の表現である『モテない』と、希求の『モテたい』はおおいに違うので、自己を非モテに受け渡した人は揉めたのだろう。
そもそも欲望の大本は何だったのか・・・といえば、彼らはただ、自分を知って貰い憐憫・同情・受容されたかった。でなければ、コミュニティが形成されることもない。
『自分を知って貰い憐憫・同情・受容されたかった』という感情。
非モテの感情を規定する両輪。慢性的なカジュアルな疎外のなかで肥大化した攻撃性と、受容されたいという弱々しい自意識。具体例を挙げるなら、秋葉原加藤の理不尽に暴発した攻撃性と、被害者よりも加害者加藤の生活史に思いを馳せてしまうやさしさ。これがいまでは具象化され、非モテコミュニティに顕現している。一方はミソジニーであり、もう一方は同族に対する共感。しかし、この共感さえローカルなものであり、矯正されるべき共感とされる。
ミソジニーといえばフェミニズムに関連があるが、非モテはフェミニズムと親和性が高い。
痴漢vs痴漢冤罪に代表される主語の大きな人たちによる性別間代理戦争も親和性の高さの表れと言えば確かにそのひとつであるが、何よりも『自分が自分であるが為にキモい』から救済されたいとする意識が、『女性性からの解放』つまり自己表現を闘うフェミニストと親和的といえる。
なぜミソジニーになるのか。単に誤爆してるだけだ。抑圧移譲。弱い者達が夕暮れ、さらに弱い者を叩く。たとえ疎外されたとしても、誰かを疎外してはならない。疎外の中で肥大した攻撃性を纏って許されるのは、『性差別構造』を背にする女性か、その立場にたつ者のみである。慢性的なカジュアルな疎外は、そのカジュアルさから『敵』を固定することができない。非モテが背にするものは何も無く、敢えてあるとするなら非モテホモソーシャル程度なので、孤独に籠もることは正しい選択肢だ。
さらに言えば、性別間代理戦争は、権利を勝ち取ったフェミニストに対する非モテの嫉妬でしかない。単純化すれば、なぜこちらを助けてくれないのかという叫び。何故お前らは『俺<男性>の理不尽な被害にも思いを馳せないのか』、という怒り・妬み・嫉みを、最も強く表現できる闘技場。『痴漢vs痴漢冤罪』は場として使われている。
すべての被害体験は理不尽なものだが、女性の被害はたまたま『構造的な問題』と合致していたが故に、同情され、受容される。もっと言えば、女性への同情・受容は、『男性への攻撃』を纏っている。誰からも慰めて貰うことない非モテは、受容される女性の姿に妬む。そして個人的な被害体験の記憶に、『なぜあちら側だけ』『なぜこの上殴られるのだ』というような思想的疎外感が加わり、ミソジニーは加速していく。
女性の被害意識が『構造的な問題』として処理されても、非モテには適用されない。なぜならば、非モテの被害意識はきわめて個人的な女性からのいじめや暴言を発端とするからで、男性・女性全般とは無関係なのだ。『男性の最底辺』が理不尽な被害を受けたに過ぎず、男女全般で見れば男尊女卑の構造は維持されているのだから、転嫁することは不可能である。『構造的な問題』があるならば、非モテが被害を受けたことではなく、被害の声を上げられなかった場合に限られ、これは男性性暴力被害者が女性のそれよりも過小視される問題と地続きといえる。男性は何があろうと、強く逞しくあらねばならない。
弱々しい自己を守ろうと、パワードスーツのごとく男性性<攻撃性>を身に纏うミスを犯したあわれな非モテの、女性全般やフェミニストへ向けられた言論なんてものは、単なる無知か差別意識の発露として処理され、一方で男性性防護服を脱ぎ捨てた非モテは、代わりに身を守ってくれる<他者のやさしさ>も得られないのだから、自らのために立ち上がるような力すら失い、わずかに残る白馬の王子的な空想を胸にして、世界との関わりから後退していくばかり。だいたい、未だに男尊女卑がスタンダードなので、このような非モテ男など取るに足らぬ『例外』に過ぎず、決して『マイノリティ』を形成するほどではないのだ。
一部の非モテたちは何を思ったのか、個人的な左翼趣味を土台に恋愛至上主義を打倒するなどと言う大いなる目標を掲げたが、残念なことに、こんなものは『例外』が個人的充足の希求を社会そのものに直結してしまった時点で無理筋である。結局、Twitterでゆるゆると馴れ合う以下の充足しか得られず、破滅に至った。
男性性を剥き出しのままにする自制なき非モテは、そのアクティブさから結婚なり、非モテを道具に用いて商売に転化するなりで成功し、それはまさしく健常な男性の姿。これが正答である。
一方、自制ある非モテは元あったところ『名前のない誰か』に戻っていった。攻撃性は厳しく律され、女性全般などに誤爆することなく、過去の記憶に、自らの内側に、抽象的な世界そのものに向かい、生まれてこなければ良かった、既に全ては終わっているという意識に至る。その自制の強さ故に自己表現の病から抜け出せないのなら、孤独のまま人知れず終えるしかない。
非モテは死んだ。出口など無い。あるものは残骸のみ。
他人の理解というか、反応が欲しいってところだから、まとまってなくても問題はないよ。
俺はまともな文章ってものを書いたことはないけど、もし仮に書くならこんなところには書かないよ。
ツイッターやブログもやってたけど結局増田に来てしまったのは、多分反応がもらえる確率が高いからだろうな。
俺が欲しい反応というのは俺の意見をより面白くしてくれる反応で、ネガティブなものは無視するのは当然。
ツイッターは反応してくれる人が少なすぎる。頑張って1000人はフォローしたのに、俺のつぶやきにほとんど誰も反応してくれないのはつまらない。
別に共感してくれなくてもいいけど、違うと思うなら違う理由を書いてくれるだけでいい。イラっとするから反応は返さないけど、ちゃんと読んでるんだよね。
壁に向かって話してもむなしいだけ。人形に向かってしゃべってもむなしいだけ。人間または人間のようなものからの反応が欲しくなるのは俺が人間だからだろうな。
じゃあここで書いてればまとまるかって言ったら多分まとまらない。
俺がここで書くことはずっと考え続けてる問題がほとんどだし、それでも(興奮した精神状況だったりするからかもしれないけど)まとまらないんだからね。
もっと頭で考えてからやればいいってことも言われるけど、大体書くときは勢いだからその勢いがないとひどくつまらない文章になる。たぶんそっちのほうがまとまってるように見えるかもしれない。