2011-08-22

ゲーム教育について

先日、とある方とゲームの話になった。その方は二児の母であられるのだが、お子さんがゲームばかりしている、という話からである。僕は小さい頃は親が厳しくてなかなか思う存分にゲームをさせてもらえなかった反動か、今でも年甲斐もなく貪るようにゲームばかりしていると笑いあった。

その時も話したのだか、ゲームに打ち込む姿勢は決して悪いものではないように思う。

コンピュータプログラムは決して裏切らない。ゲームの中でキャラクターが死んでしまったら、必ず自分操作なり攻略法なりが(例え理不尽理論でも)間違えているのだ。その間違いや経験不足をただし、反省し、攻略に向けて違うアプローチを探したり、腕を磨こうとする姿勢はとても善良で正しいと言えると思う。高校以下の学校教育教科書から学ぶことでこの方法で解決できない問題はないように思う。

だが世の中に出てみれば、バグチートで溢れていて、決してクリアできるゲームだけではないのも事実だ。

これについては今のゲームだけでは学べないと思う。


ところで、散々議論されていることだが、残虐性の強いゲーム教育における有害であるが、これについては正直僕はわからない。どちらでもあると言える。

そもそも、残虐な行為という概念は、社会性ある大人の尺度だ。

腕がもげる、血が飛び散る、女性が犯される、それらの表現の残虐性について理解していない子供に繰り返しそういう映像を見せることが精神に影響を及ばさないのかと言われたらそれはそうかもしれない。

せめてこれは悪い行為だ、これは残虐な行為だと理屈でいいからわかるようになってから遊んで欲しい。

勧善懲悪で帰結するストーリーならまだ救いはあるかもしれないが、そういうものばかりではない。


逆説になっていないが、だからといって、そういうフィクションを取り上げれば良い子に育つかというと当然そうではないし、実のところ僕はそういう映画ゲーム人間がもつ残虐性の受け皿になるという考え方には賛成だ。

僕は変わった少年で、ガンケシやキンケシと言われるゴム人形の頭をもいだり、爪楊枝で串刺しにして並べているような子供だったらしい。らしいというのら本人は記憶に無いからだ。平たく言うと異常だった。

知人のA氏は、幼稚園の頃からきな子エレベーターに閉じ込めていて、こっぴどく怒られたことがあるらしい。笑い話であるが、笑い話ではない。

攻撃性、残虐性、独占欲、性欲。

スポーツで汗を流して忘れさせるか、ゲーム映画で一時的に発散するか、どちらが良いのかはわからないが、必ずそれは存在するところにはするし、一つ言えることは、無いことには出来ない。

教育というと、なにか良い光を当てることだけを連想するが、負の感情や悪の意味を教えることも立派な教育だと思う。

人が殺されるシーンや、女性が犯されることに興奮する人間はいたって平凡な悪人である不思議でもなんでもない。残虐な行為に興奮できるのは、その人間が事の残虐性を理解しているかであると言える。

また、血や、死体に美を見出すような人物もまだ幾分かは理解できる。ただ美的感覚一般人と違うだけである

最も異常だと思うのは、最も恐ろしい人間は、なんの感情も持たない人間である

食事をするように他人を殺し、髪をかき上げるように異性、同性を犯すことができる人間がいたら、それは異常だと思う。

理性でも、本能でも良い。そのどちらでも残虐性を理解していない人間がいたらそれは恐ろしい。

そして、そういう人物とゲームの関係性は、今のところ無いように見受けられる。


そして、最も思うことは、子供子供扱いしないこと。

これに尽きると思う。

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