はてなキーワード: 表現者とは
芸術はそういうもんだっていう言い訳をする連中がたくさんいたからな。今も居るけど。
そうしないとガチの感動を励起できないというのが連中の言い分。
「感動させる」という意図を含んだヒトの営為そのものがすでに作り物まがい物なのだが、
彼らにとっては極限まで追い込んで引き出した反応なら「純粋なホンモノ」になるらしい。
別増田で予言されていたことが、1月も経たないうちに実際に始まってるんだなあと思う。
https://anond.hatelabo.jp/20230322093005
「消費の自由」が欲しいからこそ、建前上は「表現の自由」と「表現者の権利」を守ろうとしてきた表自クラスタ主流派は、これからどこに向かっていくのだろうか。生成系AIの洗練によって「消費の自由」と「表現者の権利」がますます鋭く対立するようになる時代に、彼らはこれまでのように「表現者の権利」を守ろうとするだろうか。それとも、人間の表現者がいなくても(短期的には)享受できるようになった自分たちの「消費の自由」を、とめどなく拡張しようとするのだろうか。
いい加減生き甲斐を決めたい。
生きるとはなんぞやと言う事を思春期の頃にずっと考えていた。勉強より遊びより人付き合いより、何より大事な問題だった。
50周ほどして結局生きる意味などない、自分で作らねばならないという結論に至った。
納得だ。「納得」は全てに優先するぜッ
人は理屈で喜び、理屈で苦しみを感じる訳ではない。いつだって感情が先だ。感情が論理に先立つ事はない。
いつかは人の頭が解き開かれ、全ての規範は記述に塗り潰されるかもしれない。でもそれは今じゃない。「今」は今考えられる事が全てだ。
何を拠り所にするのか。他者からの承認か、存在も確かめられない神様を信じるのか。
どれも腹落ちしない。内から発せられる心の底からの確信、納得でなければ。
どれだけ強固に思えた確信でも揺らがないとは限らない。年老いるごとに考えが変わってしまった、今までの人生とは何だったのかとこぼす者も少なくない。肩肘張ったって幸せになどなれない、気楽に生きようと言う人もいる。
私の軟弱な心とて、価値ある人生を追い求める疲れに耐え切る保証などどこにもない。結局私も同じ結論に至れば、車輪の再発明だと笑われるかもしれない。
しかし彼らの結論は彼ら自身の経験を踏まえてのものだ。彼らには納得を与えても、私にはそうでない。私の人生の当事者は私だけだ。
こんな事を真面目な顔で人に語れば、ナイーブすぎるんじゃないと引き気味に諭されるだろう。それはきっと間違いない。だからどうしたというのだ。
価値ある人生などという幻想を捨て、凡庸な人生しか送れない事を受け入れる。諦める。それを、折り合いをつけ大人になった事だと言い聞かせる。
それはきっと賢い生き方だ。
しかしその口ぶりはまるで、禁煙した人間がタバコを執拗に非難するかのようではないか。
生き甲斐などという考えは毒なんだろう。少量の毒が薬になるだとか、そんなレトリックはいらない。心の蓋を抑え続けた方が楽に生きられるだろう。
しかしそこから溢れ出続ける一抹の迷いから目を背けて、納得ある生き方をできるだろうか。
今際の際に、生きていて良かったと思えるだろうか。
ニヒリズムなど拗らせるものではないという反省は、人生を使った経験で納得を得るまで何の実感も伴わない。そんな考えは後回しにすればよい。
では、私の心は何を囁くのか。具体的に何をしたらよいのか。
根拠などない。凡庸な発想だ、くりえーたーになってチヤホヤされたいというだけかもしれない。
答えは知らぬ。時間もない。そのどれもが誤りかも知れぬのだ。後悔は死んでからすればよい。
生活の気晴らしの趣味は持っている。しかしそれは、生き甲斐と呼ぶにはあまりに心許ない。
生き甲斐なくして生きる価値などない。とはいえいくら生き甲斐が全てに優先すると言っても、目の前の生活をこなさなければそれもままならない。
趣味に没頭したいが、いつもそれらが頭を過ぎって水を差してきた。いずれは結婚を焦る事もあるかもしれない。
常に先を考えろという父の教えがなければ今はもっと惨めな生活を送っていたかもしれない。しかし、生き甲斐に殉じようという確信にブレーキをかけてくる。何をするにも、こんな事をしている場合だろうか?と。
楽器をいくつかやってみた事もあった。中級者の壁を超えられるかどうかという境界を彷徨っていたが、超える事なく人生のイベントを機に中断してしまった。
小説でも書いてみようかと思ったが、これも結局最後まで形になることはなかった。
色んな映画や本に触れてきた。色んな事を思った。そうやって感情を揺らし続けるだけでも人生は満たされるかもしれない。でももう一歩、まだ何か足りない。確信と納得には届かない。
世の優れた表現者達は、きっとこんな人生論をこねくり回す暇があれば手を動かしている、動かさずにはいられないのだろう。純粋な喜び、人生の焦り、衝動、憧れ、何かの感情に突き動かされて。
たった一度限りの人生だ、何かが欲しい。しかしこれきりの人生で何かを捨てるのも嫌だ。大切にしたいからこそ、中途半端な事もしたくない。
自分の可能性を疑うのも嫌だが、しかし私はきっとダ・ヴィンチのような万能人ではない。なにか一つに人生を丸ごと捧げて、ようやく自分一人を納得させられる域に至れるかどうか。それだって分からない。
アンビバレンスに挟まれ、決断しかねて長い時間が経った。10代の頃、価値あるものだと確信できる生き方を決意し、もう10年近くの時が経っている。モラトリアムの終わりも近いが、未だ私には何もない。慰めの趣味だけだ。
絵を描くだっていい。物語を書くでも、楽器を弾くでも、曲を作るでもいい。
後世に名を残す傑作など目指さなくていい。ただ、人生これで良かったと確信できるだけの自己満足であればいい。
選ばなければ始まらないが、捨てなければ選べない。あるかも分からないちっぽけな可能性だって、私にとっては大事なものだ。
しかしいつまでも迷ってはいられない。今の時点で納得ある決断をする事は出来ない。納得できるかできないか、それは後からついてくる。決断しない事には何も始まらない。
しまいにはタイムリミットになるかもしれない。ネットに掃いて捨てるほどいる、何者にもなれかったディレッタント崩れになってしまう。既に片足を突っ込んでいるのかもしれない。
自分には何もなく、評論家を気取って批判にもなっていない難癖をネットの方々に書きこむようになってしまうかもしれない。
でないとオレは「前」に進めねえッ!「どこへ」も!「未来への道」も!探す事は出来ねえッ!!
「納得」は必要だッ!
『納得』は『誇り』なんだ!
誰やねんと思って調べたら、
森泉:全く考えてなかったですね。ていうか思いつかなかった。就職して社会人になって25歳の時、初めて実家を出て友人と中野で2人暮らしを始めたんです。そこで交流する人達を見て、世の中には自由な人がたくさんいるんだなと思って。その頃「子どもの時お絵描き教室で絵を描くのが好きだったなあ」って思い出して、絵をもう一度描き始めたんです。それが楽しくて楽しくて。絵で食べていけたらいいなと考えて勢いで10年勤めた会社を辞めたんですけど、そこからもちろん仕事なんてなくて、ふらふらしながら漫画を描いたり、大林宣彦監督の事務所にしばらく勤めたりしていたんですよね。大林監督からは大切なことをたくさん学びました。とくに監督が見せてくださった表現者としてのあるべき姿勢、態度は、僕の創作者としての背骨になっています。
テキトーにフラフラやって有名な(?)映画監督の娘と結婚して勢いで会社辞めて嫁の親父のコネでバイトとかしてたら何となく上手く行きましたって感じの人間っぽいな。
そんな奴の言うことに期待する方がおかしいと思う。
俺は「声」ってのもちょっと違うと思うな。単純化しすぎというか。
ある意味で声優自身がそのキャラのプロデューサーとも言える感じがある。もちろん実際には音響監督とかと話して表現を調整していくわけだけど、声優個人も表現者として追うに値する存在なんだよ。そして声優としての力量もそこに現れる。
だからファンになる人は、ただの「声」のような素材としての意味以上に、声優の表現に深みを見出してるわけ。その表現の幅に人間性すら幻視するくらいには。
もちろん単純に素材としての「声」が持つフォルマント特性的なものに対し、個人的ツボに来る癒やしを感じたりするかどうかの要素もあるけどさ。
音や絵を言葉で語るのって無粋な気がして、芸術を体系化するということに忌避感を抱く。言葉では描き出せないものを頭から取り出したいからこそ、そういった媒体に乗せてるんだと思うから。
もちろん芸術表現にも方法論といったものはあって、全ての表現者はその巨人の肩に乗っているのだろうけど。
でも受け取る側にしたら、プリミティブな感性でガツンと衝撃を受けるような作品の存在にどこかで期待している。作品の舞台裏を覗いて、こんな事があったのか、と驚嘆するのではなく。
美術館の絵を観て、これ凄いのかな……?凄いん……だよね……?と顔を見合わせる。音声ガイドの解説を聞き、なるほどこの絵はここが凄いのかと知って絵を再び見た時の気持ちは、果たして感動なのか。名作の名作たる所以を知る答え合わせの快感なのか。
素朴な感覚として芸術は感性に訴える営みだと思っているけれど、どこかでかくあるべしと決められた素晴らしさを感覚が後追いしている節も少なからずあるんじゃないかって思う。
AIが出てこようが出てこなかろうが表現の自由には何の影響もない。
「AIに絵柄をパクられたから絵を投稿する気がなくなっちゃったんですぅ」「AIに仕事取られて絵が金にならなくなったんですぅ」なんていうのは絵師側の都合であってAI絵師が絵師の表現の検閲をして作品を世に出すことを妨害したわけでも何でもない。
だから表現の自由戦士としては絵師さんには素直にこう言うよ「自分の信じる絵を表現しなさい。私たちはそれを応援しますよ」と。それはそれとしてAI絵師にも「自分が信じる絵を表現しなさい。私たちはそれを応援しますよ」と言う。
そしてAI絵師に法的には問題がない状態で「そんな絵を表現するな!」という、人間には「それは違うよ!(碇シンジ)」と伝えざるを得ない。だって表現の自由ってそういうもんだからさ。
なんで表現の自由戦士は表現者をリスペクトしてるんじゃないのか!?なんて思いこんでるのかわからん。
個々人で表現者をリスペクトしてる奴もいるだろうが、表現の自由戦士としてはそこは本論じゃない。
対AIに挑むのに握るべきなのは表現の自由棒じゃなくて著作権法の解釈棒だろ。
見当違いな方向を向いて喧嘩しようとするな。
もとから、表現の自由を標榜していたら、表現者の「権利」(お前は権利ってワードを「生活・収入」の意味で使ってるが、厳密には間違いだ。まあ一般的な間違いだしここではお前に用法をあわす)を守ろうとなんてしてないぞ。
ジャンプ打ち切られて漫画家でなくなったやつの職業と収入を保護しようとかいう表自、今いるか?
その通り。あなたはこの問題の根幹をよくわかっていると思う。著作権もわいせつ表現規制も表現の自由に対する制約。でも、今までの表自派の圧倒的多数は、そこを制約することについては割と妥協的・肯定的だった。法律なんだから仕方ない、著作権者を守る(ひいては自分たちの消費権を守る)ためには仕方がない、などなど。
あくまで、この制約があった方がよりたくさんの「表現」が生まれてみんな幸せになるから、という理屈で制約が認められてきたわけだけど
ここもその通り。「模倣元となる人間の「表現」がマストでなくなる」かどうかは、現時点では我々にはわからない。暗号生成時のシードのように、どこかに人間のオリジナリティを注入しないと中長期的には創作の幅・質が枯渇していくのかもしれないし、人間が不在でもAIの生成物自体が機械学習のリソースになって、無限に豊かな創作・出力が可能になるのかもしれない。
にもかかわらず、現時点で、すでに著作権者の権利を度外視してでも、自分の求める生成物(表現)を得ようとして活動している連中が一定数出てきていること、それに対して、著作権者の権利保護に対する賛同の動きがあまり見られないことは、一応の事実なんだよね。
問題は、その一群は「表現の自由」クラスタの中でどれぐらいの勢力になるのか。〈表自〉から排除されるのか、むしろそれこそがラディカルな〈表自〉と見られるようになるのか。そもそも「表現」という概念自体が今と同じままでいられるのか。
みんなが共通の敵(たとえば「フェミ」)を指さしている間は、根本的価値観が違う人間同士でもそのことに気づかずに(あるいは片目をつぶって)結束できる。これからは、議論の焦点はそこではなくなってくる。これまで表自を自認していた人々の間にもともとあった根本的な価値観の違いが炙り出され、袂を分かつ時代が来た。という話。
いささか話がずれるけど、この手の話題のなかの「表現の自由」って、ほんと表現の自由と関係ないよね
AIが何しようが、クリエーター側が表現すること自体には何の制約もかかるわけではないし
あくまで、この制約があった方がよりたくさんの「表現」が生まれてみんな幸せになるから、という理屈で制約が認められてきたわけだけど
いや、試練じゃない? だって、この技術進歩によって「表自を標榜してたけど、実際は『表現の自由+表現者の権利』そのものを尊重してるわけじゃなかった」人達がどんぐらいいるかが可視化されるわけでしょ。
赤松議員や山田太郎議員がクリエイター側の権利保護に走ったら、彼らを「消費の自由の敵」と考える人達も出てくるだろうけど、それがどれぐらいいるのか、ってことだよね。この増田へのコメントの傾向見てると、結構いそうだな。
だからね、表自クラスタに属するメンバーひとりひとりが、「お前は『AIにお願いすれば自分の思い通りの表現者のタッチで自分の思い通りの絵や物語がゲットできる世界』と『自分たちがリスペクトしてきた表現者の権利を守るために、そうしたAIの無際限な活用に制限をかける世界』のどっちを望むのか」を選ぶという試練にさらされてる、生成AIが本当に自分が求めているものを露わにする踏み絵になってる、っちゅーことだよ。読解力やべーな。
ネットにいる表現の自由擁護派(特にツイフェミとの抗争で表自を自称するようになった連中)には、「表現の自由」のことを「俺好みのイラストやコミックやその他のコンテンツを制約なく供給してもらえる権利」と思っている層が一定数含まれている。そいつらの動向を見ていると、画像生成AIが、ネット上やオフラインの著作権者のマテリアルを「学習」することで、その著作権者が築き上げてきたスタイルを模倣した表現を無限に生成して出力することも、「表現の自由」の範囲にあると考えている連中が予想外に多い。
CivitAi(https://civitai.com/)やHugging Face(https://huggingface.co/)には、すでに特定の作家や絵師のスタイルを(もちろん当事者に無断で)集中的に学習させたモデルが続々と公開されていて、作家にとっては直接の脅威になりつつある。以下は、自分の画風をモロパクされ、しかも「○○(絵師名) style」と銘打って公開されている絵師さんの悲鳴。これは、長年の修練を経て自己の作風を確立してきた「表現者の権利」に対する冒涜・挑戦だと言ってもいいだろう。
https://twitter.com/pottsness/status/1637930835746910208
そういう傾向があまりに加速している結果、今度は対抗手段として、画像コンテンツに、AIの機械学習を阻害・撹乱するノイズをウォーターマーク的に埋め込む「Glaze」 というソリューションが登場した。Glazeの開発コミュニティは「AI IS THEFT」(AIは盗人行為)、#supporthumanartist(人間のアーティストを支えよ)という標語を謳っているが、目下の所、日本語圏で鋭敏に支持・歓迎しているのは権利侵害への防衛策を模索していたクリエイター側ばかりで、非クリエイター側の「表現の自由」派だと思われる層からの反応は鈍い。
画像生成AIプロテクター「Glaze」の意義と使い方まとめ(https://note.com/freena_illust/n/n3aa65e414d08)
さらに「表現の自由」派の中には、自分好みの出力(絵)に対して、その生成に使われた具体的なプロンプトの公開を執拗に要求する一団が生まれつつある。いま画像生成AIに食わせるプロンプトは、精度向上を目指すにつれて、ますます長大な、生成者自身の個性・経験・ノウハウなどを反映したテキスト(≒著作物)になっているが、ネット上にはプロンプトの著作性すら認めず、「その俺好みのコンテンツを作るためのプロンプトを、公共の資源として俺に自由に使わせろ」と考える連中が増えている。
https://twitter.com/knshtyk/status/1638015041885868032
こういう連中にとっては、「表現の自由」とは、とどのつまりは「俺好みのコンテンツを制約なく供給してもらえる権利」=「消費の自由」だった。そして、自分がそれを消費するためには、人間のクリエイターがそれを「表現」し、さらに社会においてその「流通」が許される必要があったからこそ、彼らは「表現の自由」と「表現者の権利」を擁護していたのである。
「表現者の権利」と「表現の自由」が対立するような局面でも、彼らは最終的には「消費の自由」が確保されるかどうかを意識して、自分たちの立ち位置を決めていた。たとえば同人表現に対して著作権者が課す自主規制要望は、一般的な意味での「表現の自由」を一部侵害しているが、(それで著作権者がぶんむくれて同人活動に対して法的攻撃を加えるようになったら、そのコンテンツが継続的に供給されなくなって俺たちが困る、という意味で)二次創作の「消費の自由」にダメージを与えるから、「やむをえない」ことだったのだ。
だが、いまや彼らは、人間のクリエイターなしでも「自分が求めるコンテンツを消費する自由」を享受できるようになりつつある。自分好みのクリエイターの画風・作風をパクったモデルに、自分の性癖に刺さるような(他人からパクった)プロンプトを食わせれば、その時に自分が求めているコンテンツを、無償で、容易に得ることができるようになる。今は彼らの消費欲を満足できるレベルの出力が得られるのは、せいぜい二次絵・三次絵・テキストのストーリーだけだろうが、遠くないうちに、そうした水準に達する対象範囲はボイス・コミック・アニメなど、より複雑で高度な表現手法にも広がっていくだろう(左の3つはどれも実際に研究が進んでいるし、不気味の谷を越えるうえでの技術的課題は特にない)。
「消費の自由」が欲しいからこそ、建前上は「表現の自由」と「表現者の権利」を守ろうとしてきた表自クラスタ主流派は、これからどこに向かっていくのだろうか。生成系AIの洗練によって「消費の自由」と「表現者の権利」がますます鋭く対立するようになる時代に、彼らはこれまでのように「表現者の権利」を守ろうとするだろうか。それとも、人間の表現者がいなくても(短期的には)享受できるようになった自分たちの「消費の自由」を、とめどなく拡張しようとするのだろうか。
たとえば、赤松議員が「クリエイターの権利を守るために」として、生成系AIの機械学習のデータ収集や掲示範囲に法的規制をかけるような法案を出そうとしたら、彼のサポーターたちはどんな反応をするだろうか。
表自クラスタは、試練の時を迎えている。
羽生結弦の演技がめちゃくちゃ好きなフィギュアスケートオタクです。
もう凄い分かります。めちゃくちゃ分かる。書いてあること本当にその通りという感じです。私はあのショーを見ていないけど、絶対同じ感想を持つと思う。
羽生結弦のシニアデビュー時代から引退まで見届けた私から見ても彼は凄いナルシストで、自分をどう見せたら1番カッコいいかを熟知していて、そのためなら痛いオタクみたいなこともするし、中二病みたいな立ち振る舞いをしてる(上手く行かなかった試合のインタビューとかポエミーすぎて私でも見てられない)。
ただ、そのナルシストは試合の演技力にめちゃくちゃ良い影響を与えたんだよね。何故なら自分が1番だと思ってる酔いしれた演技って本人の覇気や没入感に影響する。ただ要素をこなすスケートってマジで面白くない。どうせスケーターはアスリート兼表現者なのだから表現は突き抜けて欲しい。だから羽生結弦の演技はめちゃくちゃ好き。
私は試合中の羽生結弦が好きだった。「俺が1番になる、何なら1番なんだが?」全開で、めちゃくちゃ攻撃的でカッコいいから。だが、この方が言ってるような理由でショーは全く興味が湧かない。
何故ならショーはほぼ「自分が1番、主役」確定で、死に物狂いでトップを取りに行かなくていいから「表向きな羽生結弦」を出す余裕がある。試合の「俺が1番になるためならなんでもする」感がないんだよね。そんな表向き羽生のことを私と私の母(スケオタ)は「綺麗事羽生」と呼んでいる。試合前の「みんな殺す!」みたいな目線の方が本性に見えるから。
だから「羽生結弦の演技は好き」だけど、「羽生結弦ファン」ではない。フィギュア好き!って言うと「羽生くんとか?」って必ず聞かれるけど、上記の理由でファンにはなりたくないしファンではないと思う。
とにかく、この方の言ってることはスケオタの一部もそう思っているということを伝えたかった。ただ、試合の演技は最高な方向に働いていて、そういう意味ではトップではあったんだよということも伝えたい。
羽生結弦を庇ってるのか庇ってないのか分からんコメントになってしまったけど、とにかくすげ〜分かるし早くこれを母とシェアしながら読みてえという気持ちでいっぱい。私と母が「綺麗事羽生」の5文字で済ましていたことを言語化してくれてありがとう。
なんかヤジに見えて、すごく熱烈なラブコールに見えたので整理整頓する。
オリンピックなどの競技ではなく、アイスショーであれば演技者のファンのみを想定していると予想される(イメージとしては不特定多数の視聴者がいる紅白歌合戦と、ライブ公演のアーティストのスタンスの違い)ので、多少は驚いたりするよね
前述の通りファンしかいない。そして負けず嫌いに関してはそれが笑える点ではない
勝手に心配〜という言葉で善人を装うようで、イジろうとしている(滑稽であると演出しようとしている)が、彼の生き方自身大勢のファンが肯定しているため、空振りしている
抜粋した上記の点、こう、お笑い的にいう「イジリ」的にすることで真面目で真剣なことを「オカシイ」にしようとしてるように感じた。
「真面目に自己陶酔し、そして結果を残して演技する(そしてそれを肯定してくれるファンが多く存在する)人物が羨ましい」ような印象をうけた。
もしかしたら、羽生結弦さんに対し、ある程度考え方あるいは経験において重なる点が増田氏にはあり、今回増田氏が上記に挙げたような否定を受ける、あるいは内心で抱えていたのではないだろうか。
だから攻撃的になってしまったのかもしれないが、それで増田氏は救われるのだろうか。
内容を理解しようとするんだけど……いや彼、結局はふわっふわな事しか喋ってなくない?要約すると「俺は偉業を成し遂げてきた」「ずっと自分自身の力で乗り越えてきた」「でも、ずっとずっと孤独だったんだぜ」「こんなオレを応援してきてくれたファンの皆さん、ありがとう」「今たった一人で孤独に苛まれているアナタにも、どうか心安げる瞬間がありますように」こんな感じ。演技と演技のつなぎでずっと羽生くん本人の映像や彼のアニメーションが流れるんだよ。
ポエムといいつつ言葉を受け止めて増田氏の言葉にちゃんと消化しつつ、長いショーを見切った。それはすごいことだし、私も見たくなった。人のポエムはたのしい。増田のポエムも楽しい。
トゲトゲした言葉は吐き出すのは簡単なんだけど、どうしてそう思ったか、吐き出したあとでいいから向き合わないといけないなあ…とも自戒になった。
なんでそうなる。んなわけないでしょ
様々なテーマで描く絵描き(勿論その他のアーティストも含め)が、「表現」の一部である「性的なもの」を取り上げられることに反対するのは当然って話をしてるんだよ
ほんで「エロばっか描きたがる人」であっても、その人に対して「そういった作品を作るな」とは言えない
ただ、あなたの言う通り「商業ベース」の場合は「作品の発表を請け負っている企業」はコンプラがあるわけだから、それに反する場合はそもそも「発表を請け負わない」ってことになるだろう
そうやって発表の場が無くなる可能性はあるけれども、最後に言った通り「違った場」を模索していくことになるだろう
模索というか、結局のところはネット上での取引となるだろう。クローズドになれば「誰の目にも容易く触れる状態」ではないから件の論議も不要になるし
NFTが導入されているんだから、その流れは加速するだろうね
「紙に刷られた作品、キャンバスに描かれた作品」が消えてしまうのは哀しいことだけれども
「トラックの荷台に車を載せて撮影(実際にその車を走らせているわけじゃない)」する場合でも「シートベルトは必要か」って話になるのよ
たとえ外国の超大作の様に大枚はたいて道作って撮影したってシートベルトはするだろうよ(つーか日本でだって撮影の為に道貸し切りしてんだから別にシートベルト要らんのよ。本来)
主眼は「おいおい、車に乗ってるのにシートベルトしてないのは道交法違反じゃあねえか」って言われたら困るから、実際に走ってない車だとしても(表現の邪魔になるにも関わらず)シートベルトをして撮影してるってことなのよ
「アニメで未成年がタバコ吸ってる場面出さない」とかも似たようなもので、誰が「承太郎は未成年だろ!タバコ吸ったらあかんやろ!」って言うんだって話だけど「配慮」してるわけじゃん
そういった配慮を「くだらん」と思うことすら許されない感じで、なんて息苦しい社会かと思うね
ただただみんなビクビクして表現を狭めている
でもそれが当たり前になる世界に変化してって誰も気にしない様になるんだろうな。今は過渡期なんだろ
増田にとっての「表現者」ってコンプラもクソもなくエロばっか描きたがる人、って意味なんだろうか
商業媒体を使うならその企業のコンプラ遵守しなきゃならんけどな
そうなんだよねー
「女性に対する配慮」よりも「子供に対する配慮」として、テレビでやるコントとかから「エロ」が消え
(ドラマとかでも裸体や濡れ場は消え去って久しい)
これからは「女性に対する配慮」として二次元からも消えていくのかもしれないし、そうならないかもしれない
まあ、いずれにせよ「実際に起っているわけでもない(想像・創造上の)表現」を「閲覧」しているだけで「準性犯罪者」扱いは差別だと思うわ
そんなことが罷り通るとしたら(前述したことにも関わるけど)、「女性の性を娯楽とした作品自体を禁止」ってことになるわね
テレビ業界は甘んじて受け入れるだろうけど、二次元作品界隈はどうかな?
コンプラ最優先の世界になりつつあるけど、表現者達がこのまま黙って受け入れるわけないと思うけど
「嫌なら見るな」「見ないで済む方法」を明文化するしかない(後者についてはBL界隈で作品の前に「こういった表現があります。地雷な人は見ないでね」と一言あるので、「配慮できない」ってことは無いと証明されている)
あと、「映画」はR指定等明示することで割と自由に作っていても批難を逃れていると思うし(それこそあれは「金払ってわざわざ赴かないと見られない、ある意味秘匿された娯楽作品」だからというのもあるだろう。それでも「逃走犯が車に乗るシーンでシートベルトする」なんてのを押し付けられてるけれども)、
残念ながら、キモくて金のないオッサンこと、弱者男性は弱者ではなくなってしまった。
真の弱者を救わなければならない。
この時点で、もう現代社会において弱者ではない。ここに我々が救うべき、真の弱者の姿を提言する。
『声無き弱者は声をあげられない。なぜならば声が無いからである』
つまるところ、現代における真の弱者とは表現力が無い人間であり、プレゼン力がない人間であり、ロビイング力がない人間である。
何故ならば、現代において表現力という力が圧倒的に重視されるようになってしまったからである。
日本銀行券はただの紙だし、通帳残高なんてものはただの数字の羅列に過ぎない。
何故貨幣や土地やらの資本に価値があるかというと、他人に影響を及ぼすことができるからだ。
そして、現代において表現力ないしプレゼン力ないし、ロビイング力は、その金と全く同じ力を持ってしまったのである。
理由は簡単、SNSが発達して、他人のプレゼンを聞く機会が増えてしまったからだ。当然ながら表現力の持つ力は圧倒的になったからだ。
情報技術の発達によって、「受信者」の数が圧倒的に増えた今、表現力の持つ力が純粋に増えるのは当たり前のことである。
もっとミクロな世界で言うと、要は表現力がある人間、自分をプレゼンできる人間は他人をイジメても許される。
表現力が無い人間は、他人にイジメられても仕方がない。こういう世界になってしまった。
教室でイジメられているイジメられっ子だろうと、自分の状況を大人に上手く伝えられる人間は自分の環境を変えられるだろう。
しかし、プレゼン下手にはそれができない。これは、能力による差別だ。
差別は断絶しなければならないのだから、つまりこの表現力差別やプレゼン力差別を無くさなければならない。
最初に戻る。
これは、認知されたからだ。改善しなければならないという風潮を作り上げたからだ。つまり弱者男性には声があったということである。
私からすると、フェミニスト、ヴィーガン、障害者、これらも全て「富める者」に含まれる。
世の中をよく見てみると、先導者がいるはずである。
弱者男性しかり、フェミ、ヴィーガン、障害者、……ありとあらゆる弱者には、その旗手となる人間がいたはずだ。
平等とは、つまり資本家が下々の者に分配をしてこそ生まれるものである。
我々が戦うべきは表現者だ。
まだ気づいていない人間達が、この「表現力差別」に気がつく時代が遠からず来るだろう。
我々は彼らを守らなけらばならないはずだ。だからこそ、「表現力差別」に今、向き合わなければいけない。
自分も表現の自由を擁護する側であると前置きして書かせてもらう。
例に出して本人には申し訳ないが昨日から女性専用車両について何人かに噛み付いている表現の自由戦士の男性がいる。
彼のことは賢いと尊敬していたがここしばらくの彼の物言いは表現の自由や男女論を盾にして喧嘩をしたいだけなのではないかと少し失望しかけている。
最近、表現の自由の側に立って発言する人間に彼の他にも揉め事を起こしたいだけのように見える人間が散見される。
これでは表示戦士たちによって表現者を含めオタク文化を生業にする人間や社会的に弱い立場にある男性の立場を悪くしてしまわないか。
少しは冷静になってもらいたいものだ。