はてなキーワード: 良妻賢母とは
藤崎詩織の好みはPERFECT HUMANだけど、PERFECT HUMANに釣り合う女ってのは夫の3歩後ろをついていくような良妻賢母で、藤崎詩織もまたPERFECT HUMANだから主導権を譲らないとPERFECT HUMANの男と喧嘩になると思う。
大変だと思う。
30代半ば。
ITで3年ほど女性管理職やってる。そこそこ大手で体育会系の会社。
なかなかの激務だ。
家庭ありの子持ちだか、夫が理解がある人なのでどうにかなってる。(良妻賢母ではない)
元々管理職に任命されたタイミングで、2、3年かなぁとは思っていた。
管理職になって、正直評価は高いほうだ。年収も多少上がっている。
好きに仕事させてもらってるし、部下も頼ってくれている。次の部長は私との噂だ。
会社の制度や福利厚生は大手様々だし、人間関係も1人しか問題がない。
本当に好きに仕事をさせてもらっている。家からも近いし、おしゃれなオフィスだ。本当に良い会社だと思う。
辞めたい理由
・いつか大きく体調(心も体も)を崩すのだろうなと不安に思う
・上司が糞(効率化とか知らないし、すぐ切れる。円滑に物事を進めるための根回しとかご機嫌とり疲れた)
・案件成功のプレッシャー(自分がうまくやらないとみんな稼働高くなるわけだから)
・部下とのコミュニケーション難しい(嫌われたくないし、無理もさせたくないけど成長してほしいし、一人前にしてあげたい)
・リーダーしんどい(性格とか相性とか見極めながらまわすのしんどいし、仕事できない人を使うのしんどい)
・過剰な責任感(部下やメンバーの人生を背負ってると思ってしまう。お客さんの会社の命運を背負ってる気になる。)
上司を除けば不満は全てわたしの心の問題で、利点であり欠点である。
役割よりも好きな服ー昭恵夫人のドレスが非難された理由(米澤泉) - Y!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/byline/yonezawaizumi/20191024-00148108/
ファーストレディに品格は求めても良妻賢母とかいう古びた女性像の押しつけは時代遅れなのでNG 令和だぞ令和
それはそれとして、この件で昭恵夫人も和服を着ればよかったって言う書き込みを見たけど、
本当に和服がこの式典に100%ふさわしかったかは疑問が残る。なぜなら万歳三唱があったから。
あのドレスの裾だと万歳で腕を高く上げた時に中が見えてしまうんだよね。和服も同じ。
和服を着ていた方は控えめに腕を上げられていた。
"万歳"という大きな動きはスーツや袖のあるドレス以外では意外とハードルが高い。特に和服は着崩れる可能性があるし。
万歳そのものは明治以降のものだから、遥か昔から存在する儀式との雰囲気や動作としてはちぐはぐにもなるよね。
まあそんなこと言ったら空砲は?とかきりがないんですけども。
私だったらあの場では和服を着たいけど、そうなると万歳は真っ先に着崩れを考慮してやりたくないだろうなぁ。
こんなに厳かな式でみっともなく着崩れしたらそれこそいかんやつ。
そうそう
読んでないなら黙っとけよと思うわな
予防線色々張りつつ何か一言申さずにはいられないのは何故なのか
正直、キャラクター造形では少年漫画の恋愛ものの方が「家事得意な男(家庭的な男)」「家事下手な女(家庭的でない女)」ってパターンがフォーマットのひとつとして定着してる
それで男が女を見下すなら問題だけど、家事下手は家事下手で受け入れてたりもする
最近の少年漫画は女読者の目線を意識してる分、いまだに少女しか対象にしてない少女漫画よりも偏ってないんだろう
コナンはあゆみにしろ毛利蘭にしろ良妻賢母系の危うさはあるが、毛利蘭を霊長類最強女子にすることで危ういバランスを保ってるようにも思う
育児役の一人の24時間365日=人生を20年間拘束する事業。
これがなんで専業主婦だのおばあちゃんだのでなりたってたかっていうと、
多産ならなんでOKかっていうといくつか要素があって
・1人が人生を捨てて3~5人が育つなら社会全体でみれば収支はプラス。
・上の子が下の子を面倒見る。下の子も上の子が叱られてることはやらないようになる。(同じ子供が叱られているのが一番学びになる)
・愛情が兄弟間で公平に分割されている(ほしいだけもらえる性質のものではない)ことが子供心に理解できるので、その分成人してからいつまでも母親を尊敬する機運がある。
・不出来な子供が(増水中の川に流されたり冷蔵庫に隠れたり夜店の串で喉を突いたりして)自爆死しても、なんでADHDの診断うけさせなかった薬のませなかったといって母親をせめたりする人は誰一人いなかった。若年の鬱自殺なんかも流行したりしてた(アイドル自殺に伴う自殺の増加や有名な心中など)けど少子化じゃなかったので自爆した人のまわりだけちょっと悲しんであと社会から忘れさられてもよかった
・社会に出るのに失敗してもセーフティーネットとしての子育て業があった
今は万能人間ダヴィンチちゃんみたいな良妻賢母(調理師免許なみの食事知識)+稼げる父+医者選びをこなす医療福祉司あたりを全部こなす母親が求められているので、はい無理ぃ
本稿では、BL/やおいと比べ論じられることの少なかった「GL/百合」ジャンルの確立・歴史と、その現状について考察する。
はじめに、「百合」というマンガ・アニメにおけるジャンルを示す言葉の概要を説明する。「百合」とは主に、女性同士の恋愛と、それに満たない関係性も含めて描いた作品のジャンルを指す。川崎によれば、定説として語源はゲイ雑誌「薔薇族」に由来する。男性同性愛を指す「薔薇族」と対になるよう、女性同性愛者を「百合族」と呼称した「百合族の部屋」というコーナーが1976年から不定期連載されるようになったのが始まりであるとされる(川崎2014:44)。当時はレズビアンを指す用語だったが、徐々にサブカルチャーに輸入され女性同性愛を扱った作品群を呼称する言葉に変化していった。
まず、日本での「百合」のマンガジャンルとしての成立について述べる。そもそも、大正ごろの日本においてマンガとしての形態以外で女性同性愛をテーマにした創作物としては、性描写の過激な男性向けポルノか、少女向けの小説に二分されていた。特に女学生同士の姉妹関係「エス」をテーマにした少女小説の金字塔として、「花物語」(1925)などが代表される。しかし、大正時代に少女文化として流行した「エス」の概念は現代の「百合」概念とは違い、上田は「自覚的に女性を愛することを選択したというよりは、良妻賢母になるための安全なる予行演習という側面もあった」と述べている。(上田 2014:192)
マンガが発展し、女性同士の関係性を主題とした最も初期の連載作品は1970年代ごろから、山岸涼子「白い部屋のふたり」(1971)、池田理代子「おにいさまへ…」(1974)、「ベルサイユのばら」(1972-73)のオスカルとロザリーなどにみられはじめる。これらは、「24年組」に代表される少年愛をテーマとしたマンガと同時発生的に少女マンガ誌に掲載されたものだ。藤本は、このころの百合マンガの大きな特徴として
①対照的な二人の容姿(中性的・くっきりとした美人と可憐な少女のイメージ)
③悲劇的なストーリー(少年愛を扱う作品と対照的な同性愛による葛藤の描写)
を挙げている(藤本 2014:101)。これらの特徴は、1970年代の女性の抱えていた抑圧感を反映していたものなのではないかと考えられる。女性作家による「少年愛」が現実の抑圧からの解放として、性的に未分化な存在(少女)の何物にも縛られない感情の動きを描写したものなら、このころの「少女愛」はそれと対照的に、抑圧からの逃避としての悲劇的な結末が設定されることが多かったのではないだろうか。表現手法や舞台設定は耽美で幻想的でありながらも、当時の日本での女性のおかれる立場に忠実な閉塞感が描写されたものだと考えられる。また、この時代の百合マンガは少年愛ほどの大きなムーブメントには発展せず、作品数も多くはなかったため、自然消滅的に衰退していった。
しかし、1990年代、同人誌文化の発達に伴い、百合ジャンルも急速にその勢いを復活させる。
まず、「美少女戦士セーラームーン」(1992-97)によって、女児向けマンガにおける戦う美少女という概念がジェンダー論的な観点においての大きな転換点となる。異性愛的な要素が物語の中心に関与していたにもかかわらず、同人イベントではセーラー戦士同士のカップリングを描いた作品が爆発的なブームとなった。その理由として考えられるのは、消費される客体としてではなく主体としての戦う美少女像が確立されたことではないだろうか。これにより、百合的な描写も70年代における悲劇的な結末に向かう物語ではなく、少女が二人で主体的に幸せを獲得していく過程が重視されるようになっていったと推測できる。
そして、物語の中の関係性から百合の文脈を汲み取っていた時代から、前提として百合そのものを主題においた作品も増加していく。代表的なものとして、「少女革命ウテナ」(1996-98)がある。この作品は、古典的な少女マンガのシンデレラストーリーを基盤に「王子様」と「お姫様」を少女同士に置き換えてなぞりつつ、70年代の百合作品に見られた演劇的なモチーフや学園モノ、男装の美少女といった設定を取り入れ、また絵柄としても耽美で繊細なものであったが、これらは意図して行われたパロディ化された演出だった。ストーリーの結末も、最終的には二人が離れ離れになる点は悲劇的にも取れるが、その後ヒロインたちの再会が示唆されている。アライによると、「王子様」と「お姫様」が結ばれてハッピーエンド、という構造を少女同士で反復するだけではなく、最終的にヒロインたちは「王子様」と「お姫様」構造を破壊し、自身を覚醒させ歩き出すことで、社会的な女性規範を打ち砕くことができるのだ。(アライ 2015:57)それこそが「世界を革命する力」であり、この結末によって投げかけられたのは、異性愛規範や家父長制へのアンチテーゼと、黒人女性の解放運動や日本女性のウーマンリブ運動などの背景を踏まえた社会的なメッセージだった。
これらの2作品によって、社会的な動きと呼応した百合マンガの潮流が形作られはじめる。「セーラームーン」も「ウテナ」も少女マンガ誌に掲載されており、本来のターゲット層は10代の少女を対象にしていたと考えられるが、ここでのプラトニックな少女たちの絆がオタク層にも受け入れられ、恋愛的な文脈に解釈した成年層による二次創作が爆発的に流行する。これと同時に一次創作のオリジナル同人誌においても、「百合」という概念が定着しはじめ、少女同士の恋愛を主題にした作品がみられるようになる。
そして2000年代に入ると、マンガジャンルとしての百合を専門に掲載した「百合姉妹」(2003-2005)が発刊される。その後、「コミック百合姫」(2005-)に統合され、現在も刊行中。専門誌の発刊は大きなジャンルの発達の手掛かりとなり、この雑誌に連載されていた作品のアニメ化や二次創作の流行によって、「百合」というジャンルがはっきりと定義されはじめ、広く認知されるようになっていく。しかし、その定義に関して「男性が主要人物として登場し、恋愛関係に介入する」「性的関係が生じた場合、百合ではなくポルノ」などといったさまざまな議論が巻き起こったのもこの時期である。
また同時期に、「神無月の巫女」(2004-05)や「舞-HIME-」(2004-05)などの少年誌で連載される百合作品が登場する。これらの作品は、少女マンガ作品よりも直接的な同性間の恋愛としての描写や性的な表現が強く押し出されていた。ここから、現代の男性向けと女性向けの要素を同時に内包した現代の百合マンガの形態が確立しはじめたといえる。2007年には、前述した「コミック百合姫」の姉妹紙として一迅社から「コミック百合姫S」と「コミック百合姫Wildrose」が発刊。「S」は本誌よりソフトで繊細な関係性の百合を扱い、なもり「ゆるゆり」(2008-)が代表するような「日常系百合」の流れを作った。一方「Wildrose」は、それまで成人向けポルノとしての過度な性描写は忌避されがちだった(厳密な定義での「百合」ではないとされる議論があった)当時の風潮の中、直接的な性描写を掲載した作品を扱う専門誌として独立した挑戦的な試みだった。
ここで、2008年に行われた「コミック百合姫」の読者アンケートを参照してみる。2008年7月号時点の『コミック百合姫』読者の男女比は男性27%、女性73%であるのに対し、『コミック百合姫S』の方は男性62%、女性38%となっている。つまり、現在統合された「コミック百合姫」の購買層は、この男女比を単純に平均すると男女差はほぼ半々で、やや女性読者のほうが多いということになる。ここでは百合マンガの購読層を性別と消費の形態に4つに分類して考察した。
女性購読層において基本的には、社会的な比率を前提にすると異性愛女性のほうが多いと考えられる。彼女たちは少女同士の関係性に、「現実における異性愛、ジェンダーロールによる苦痛」から隔絶された「非現実的な同性間による越境の快楽」を心の拠り所として愛好するのではないだろうか。なおこれについては、やおい/BL ジャンルを愛好する女性においてもほぼ同じ理論が適用できる層が存在すると思われる。
百合というジャンルの性質上、他の恋愛形態をメインとしたジャンルよりもレズビアンやバイセクシャルを自認する女性が購読層に多い傾向にあることは考慮するべきである。彼女たちは、異性愛女性が「少女マンガにおけるロマンティックラブ」を夢見るのと同じように、自身の性的指向に一致した自己投影先として「百合マンガにおけるロマンティックラブ」を享受していると考えられる。
百合を自分の投影先の存在しないストーリーを消費するものとして受け取っている購買層。①「傍観」型女性とほぼ同じ論拠が適用できると考えられる。
百合マンガの登場人物に自己投影する男性は、ジェンダーロールからの解放と、女性との恋愛の疑似体験を同時に達成できる。この購読層の性的指向に関しては、社会的比率として異性愛男性が多いと思われるが、異性愛コンテンツ(NL)ではなく百合(GL)を愛好する彼らに関しては、③「傍観」型男性よりさらに複雑な感情にルーツを持っていると考えられる。また、TS願望を持つ男性(MtFとは区別する)や、同性愛男性が共感を持って少女同士の関係性を愛好する例も、この枠にひとまず収めることとする。
特に男性向けの性的描写の含まれる百合マンガ等においては、その世界の中に没入し登場人物の中に「混ざりたい」という観点で消費する層も存在する。これは上記の4つの例と異なり、少女同士の関係性ではなく「(男を知らない、穢れのない存在として描写される)レズビアンである少女を自らの男性性によって屈服させたい」というマウンティングによる性的な欲望や、男性主人公やその代わりとなる女性キャラクターの存在しない「ハーレムもの」といった受け止め方に由来するものと思われる。ただし、これらの男性は百合ジャンルのファンからは忌避される傾向にあり、特に近年の百合を主題とした作品においては減少している。
これらのファンがそれぞれ百合というジャンルの定義について議論を重ね、各需要を満たすような創作物を制作していったことにより、百合ジャンルが発展していった時期だった。
次に、2010年代の百合文化を振り返る。このころに代表的な作品として挙げられるのはテレビアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」(2011)だろう。この作品は、「セーラームーン」にルーツをもつ戦闘美少女の系譜を受け継ぎながら、現代調に前提として百合を意識して構成された作品のひとつで、魔法少女同士のカップリングを扱う二次創作が爆発的に流行した。
また、少女マンガ誌において百合を扱った作品が満を持して再び登場する。70年代以降、異性間のラブストーリー(NL)に偏っていた少女誌において約30年ぶりに百合が復活した形で、「野ばらの森の乙女たち」(2011)や「ブルーフレンド」(2010―2011)が連載された。これらの作品は、少女漫画特有の筆致でありながらも明確な少女同士の恋愛関係としての描写があり、また両作品とも70年代のような悲劇的なラストを迎えることはない。少女向けの要素として、学園設定や疑似姉妹などの設定は残されているものの、これらは批判的なパロディというよりも前時代の少女誌における百合作品に対する敬意からくるオマージュと解釈するほうがふさわしいだろう。これは近年において少年誌よりもジェンダーロールの強固だった少女誌界隈に百合ジャンルブームの波及がみられた、極めて注目すべき例である。
日本の男は昔から「男はバカで弱くていつまでも幼稚などうしようもない生き物なんだ」と自分から自虐してるからね。
「そうそう男ってそういうもんだよなー」と、男同士で同意し合ってる。
更に「そんなどうしようもない生き物である男を、女は優しく支えて守って真っ当な方向に導く義務がある」
「男が上手く生きていけなくなったり、何か悪い事をやらかしたら周囲の女の責任である」と言う風潮がある。
反面女は「良妻賢母」である事を求められ、「バカで弱くて幼稚」な女は全否定される。
だから息子が20過ぎようが30過ぎようが犯罪者になると母親が叩かれるし、
有名人なら謝罪会見を開いたりするのが外国人に驚かれたりする。
「女は強い」「女は賢い」とやたら持ち上げたがるが、それは「だから男を支えろよ」と言う期待が暗に込められている。
そうやって女に甘えている割に、実際に女に金や権力は与えようとはしない。女が男に対して威張る事を許す事もない。
でも何かまずい事になったら責任は取らず女に押しつける、ってのが日本の男尊女卑。
「威張りながら甘える」ってやつだ。
男が威張りくさり金も権力も独占している代わりに、男が女に甘える事は許されず責任も男が取らされる欧米型の男尊女卑とは方向性が違う。
サラ爺の半生を興味本位で掘ってるけど、あれをリビドーと呼ぶのは違うな。あれは理想の自己の投影だ。お人形遊びの延長であり、家族そのものをSNS上に実在するかのように脚色するパターンで、ネカマとしてはありがちな古典的なケース。自分を盛るどころか、全て偽ってる。
そしてリビドーではないと言う俺の説の根拠がこれなんだが、サラ爺のブログやツイッターの記述は女性性の要素がごっそり抜け落ちてる。恐ろしいほど空虚。もっと言えば成りすまし工作がこの上なく雑。独居老人の簡素で寂しい一人前のメシ画像を嬉々としてアップして良妻賢母ぶったり(設定上、奴は大家族の肝っ玉お母さんだ)、化粧品に疎いのに無理してDHCの製品を持ち上げたり(DHCはネトウヨの大好きなメーカーだ)。セクシャルマイノリティーとして自己表現してるネカマと比較して、あまりにも女性性について興味がなさすぎる。奴の無残な家族崩壊に至る過程を読むとその理由は推測できるが、少なくともセクシャルマイノリティーではない。そしてネカマが先行しているので、ネトウヨ陰謀論の布教の為に主婦に成りすましたわけでもない。
その子はネットの影響か当時からかなり右翼脳をしていて、一般参賀に喜々としてでかけたり、靖国神社に参拝しに行ったりとかいうことをしてた人。
大学在学中から結婚願望丸出しで、「女として国を守るために男性を支えたい」とか昭和の良妻賢母に憧れるような発言をしていた。
結婚後私は大学とは違う土地に就職したのでしばらく連絡が途絶えていたが、数年後の同窓会で結婚したと聞いた。確か23か24歳だったと思う。
友人から聞いたら結婚相手の男性もたいがいだったらしく、一緒に皇居に行ったりとかそういうことは続けてたらしい。
ただお国を守るためにたくさん子供(特に男)を産みたいと言っていたのになかなか子宝に恵まれなかったそうで、数年してようやく初妊娠したという。
その時の愚痴がなんかちょっとアレで「旦那が家事をしない」「自分が立会出産しようと何度も言ったのに結局逃げた」「姑がうるさくてめんどくさい」とか。
昭和の良妻賢母はどうした?とか思ったけどまあ結婚して価値観が変わることはよくあるからそんなもんかとも思ってただ聴くだけ聞いてた。
そこで思ったんだけど右翼主婦の脳内って、自分は家庭に入って男と子供を守るとか言いつつ、家庭の活動に男性が参加しないと怒るし、稼ぎが悪くても怒るんだなってこと。
「女は家にいて家庭を守るのが仕事」とか口では言っているけど、姑にはいじめられたくないし、夫の言うことを100%きくのも嫌。でも自分は仕事したくない。
キモくて金のないオッサン(弱者男性)は、結婚できないのも妻子を持てないのも、すべてが自己責任だ。
もしも貧困に陥ったときのセーフティネットで、衣食住・医療だけが「人権」で保障される。
お前たちはそれで満足しろ、愚痴をこぼすな、と言っているのがサヨクだよ。
だったらそれと同じで、弱者女性を助けずに放置して、出産・育児を断念するように追いこむべきである。
ロスジェネ世代の女性は、実際そんな感じで棄民みたいになっているし、もうそれでよくないか?
弱者女性のために衣食住・医療費のセーフティネットを用意すれば、それで「人権」は十分なんでしょう? 結婚・出産のような幸せを望むなら、あとは各人がせいぜい自助努力でがんばってください。
↑こうなると少子化が止まらず、日本社会は衰退するだろうけど、「お国のために」という多産奨励よりマシだと思う。
そうなったら移民を入れて、いきいき働いてもらえばいい。サヨクによれば、日本は日本人だけのものではないのだから、移民に参政権を与えて、国家運営を任せればいいだけの話だ。もし日本民族の人口が激減して移民だらけの国になったとしても、「人権」的に問題ない。
しかし今日では、そのサヨクが「いきいきママを応援しろ」と言い出して、良妻賢母を増やそうという国民運動の急先鋒になっている。つまり、日本民族のための日本を守ろうと躍起になっているわけだが、いつからサヨク共はナショナリストになったのか? こんなん、草生えるわ。