はてなキーワード: 矮小とは
エンジニアということもあってあってさほど苦労もなく年収が1000万円を超えた。
1万円以上するお店は何店も行って確かに美味しいのだが、ファミレスでも十分美味しい。
価格は高い料理は価格が高い味がして、美味しいのだが、一つの属性という感じ。
スーパーでは食べたいものや健康を優先して買う。値段もカロリーもあまり見ない。
飲食店でも同様。値段は基本的に気にしない。しかし金があるからと言って
毎回チャーシュー麺を頼むわけではなく、選ぶメニューは変わらない。
年収が600万とかのさほど高年収でない時は物事がわかっているようでわかっていなかった。
例えば「スキー板に10万?それは高すぎる」などのように思っていた。
しかしぼったくりや悪意あるごく一部のケースを除き、ほとんどのケースでは価格というものは
概ね正しい値付けがされていることがわかった。
モノの値段の背景がわかってくると、株式市場でも勝てるようになった。
そこそこの値段(一人7000円〜10000円前後)のお店に連れてご馳走してると
否が応でも「懐に余裕のある人」と伝わる。その余裕感がモテにつながっていると思う。
つまり直接的な金ではなく、金があることによって得られる自信や器の大きさが
そういうこともあって割といつでもセックスに応じてくれる女性は複数人いる。
なお風俗は不潔なので興味ない。
知人女性にご飯をご馳走したりホテル代を払う余裕は十分あるが、
知り合いに起業家なども増えて来るので、そういう人から見たらまだまだ自分なんて矮小だと感じる。
自分もこんなところでくすぶっていたらダメだ、という思いが日々募る。
例えばプログラミングの技術を得れば、月50万円の収入を得ることは容易い。
業界が異なる人でもプログラミングの勉強をして副業に精を出せば月10万円の収入も難しくはない。
そう考えると、何もしないで月給20万円で不満を言ってたり、生活保護で生活している人は
「なんでそういうことをするの?」という印象が強くなる。
ほんの少し頭を働かせれば稼げるのに、それをしないで社会や政府に文句を言うのはおかしい。
ほとんどの場合は多少の努力で金を稼げば不幸を撃退できるのに、それをしないのだから、自己責任では、と思う。
それは君が世の中を作った訳ではないからです
そして、君が世の中を作ったとしてもやっぱり君は世の中に納得出来なくてクソと呼ぶのです
神が作ったとしても神の作った世の中は完璧とはいえないし、完璧であるかどうかを矮小な人間風情が理解できるはずもないので、やはり矮小な人間は超人たる神が作り出した世の中というものをクソだと認定するのです。
例えそこに無宗教だという愚か者が入ってきたとしてもです、それが先頭を走っていようと最終的にもっと傍若無人な存在がチンパンジーがタイプライターでシェイクスピアの作劇を描くような確率で世の中をまともらしくしたらしめても
やはり、世の中はクソと思うものなのです
大体、クソというものを下に置きすぎなのです
人間はなまじコンクリートや鉄を使いこなせた他人がいたばかりにクソとかいうものが不潔で不要なものだと断じてしまうのです
ですが、クソというのは人間に必要なものです。生物に必要なものです。
肥料もなければ野菜は育たず、異臭がしたりクソの形がわからなければ体調の良し悪しもわかりはしないのです。
そして、仮にクソとかいうものがなくなっても、我々は目ヤニや耳垢、身体から出る垢、瘡蓋に至るまで不要な存在だと認定するのです。
血を封じていたりするから瘡蓋はまだ有用性を認識しやすいのですが、垢に至ってはその新陳代謝が産んでいるものを理解できなければ体から出てくるベタつき、または粉です。
その点、クソというのは捻り出すもので、その苦労の結果出てくるのがあの現代社会での利用価値が汚染にしか無いと思わしき異臭を伴った粘着性の物体です。
それ故にクソというものは不要なもの、目の上のタンコブ、障害、侮蔑の表現として嗜まれているのです
ですが、そうして世の中に対してクソだと言っているとするなら
やっぱり世の中はクソだという言葉は正確ではあるのです
神が齎したもうた異臭を伴う粘着性の汚染物質は、その観点を変えれば利用価値のあるものなのだから
だから、世の中はクソなのです。
そう、世の中というクソはある観測者にとってはとても利用価値のある存在で、もう一方の観測者にとっては現状で手に余る有害な存在なのです。
そうして考えてみるなら、世の中というもの自体は多数の観測者によって成り立ってるものだから、それがクソで無益なものになったり、それがクソで植えた野菜の栄養となったり、それがクソでイカれた武士の傷を塞ぐ存在となることもあるのです。
そうして世の中がクソだと気付けた人はイカれた武士道プレイヤー達が自分達のポジティブライフにクソを塗りたくってる様子を見て発狂するのです
俺はこんなクソを塗りたくるような真似はしないぜ!と言いながら目の前に置かれたクソを前に罵詈雑言を述べることしか出来ないのです
そうしてクソに対して猛弁を奮って唾を飛ばすことでクソを臭くて冷えたビチャビチャにさせるのです
クソを目の前にしてクソだクソだと言うだけで一生を終えるのです。
私はなるべくのこと、このクソを肥料にするか、メタンガスが誘爆を引き起こすまでになんとか利用するかを考えてはいるのですが
まぁ最近では自分のケツに付いたクソを拭くことすらままならなかったりするので、トイレットペーパーに付いたロールシャッハテストを眺めながら
えんがちょと呟くのでした
なるべく文句を言われずにウマ娘の大変えっちなやつとか大変グロいやつとかをつくる方法を考えてたんだ
キャラクターならびにモチーフとなる競走馬のイメージを著しく損なう表現は行わないようご配慮いただけますと幸いです。
本作品には実在する競走馬をモチーフとしたキャラクターが登場しており、許諾をいただいて馬名をお借りしている馬主のみなさまを含め、たくさんの方の協力により実現している作品です。
モチーフとなる競走馬のファンの皆さまや、馬主さまおよび関係者の方々が不快に思われる表現、ならびに競走馬またはキャラクターのイメージを著しく損なう表現は行わないようご配慮くださいますようお願いいたします。
馬主苦情→サイゲ著作権行使部隊全力稼働→訴訟、が割とみんな危惧するところなので、いわゆるプレイヤーキャラは種付けおじさんに種付けされていたり、殺人鬼にバラバラにされたり、キメセク乱交したり、幼稚園を襲撃してかたっぱしから蹴り殺したり、は避けないといけない。何ならちょっと怪我しただけでも馬は死がとても近く連想されてしまうので危ない。また、未登場でも既存馬だと類似のことが起きる可能性が高いと思われる
ということはひどい目にあうのはモブか既存馬と名前がかぶらないウマ娘でないといけない。競走馬の命名ルールから逸脱した名前にすれば後者は簡単にクリアできるが、ゲーム内のレースに出てくるモブ名称ウマは「勝ち目はないけど訴訟はできる」を行使できそうなんだよなあ
直接ひどい目に合う担当は名無しか新規名称を付けたウマになるということだ。
あとトレセン学園の制服、勝負服も出ているだけで頑張れば訴訟はできるレベルではいけそうなので、そのわずかなリスク気にするなら体操服にゼッケンの服装じゃないといかん。
それウマ娘同人か?といわれるとまあなんだ、厳しいかもしれん。ドキュメント引退後ウマ娘:インペリアルタリスAVデビュー、みたいな話をかきたい人みたい人がどのぐらいいるのかは怪しいな。
まあただ直接ひどい目に合うのではなくて見る、通報する、救済するなどの役割で出すなら何とでもなりそうではある。
たとえば競争ウマ娘が公道で守らなければならないルールについて免許試験場で講習を受けるとたいへんにグロ怖いビデオ資料が出てきて泣き叫ぶダート適正Aウマ娘、なんかはイメージは損なわず書けたりするのではないか。
たとえば某ナマモノおたくウマ娘が落としたナマモノ同人誌をサイボーグか頭でっかちが拾って詳細に音読してしまう何なら校内放送して落とした奴は来いと宣言する、なんかも書けそうだ。
何事も工夫次第だなあ。
ゲームとかアニメとか、いくつかやったんだけど、多分若い子が想像してるような仕事とは違う。
アニメや漫画やゲーム大好き!俺の考えた最強の〇〇!みたいなのは割と早めに挫折するかこだわり強すぎて商業向いてなかったりする。
もちろんこだわりやひらめきってすごく大切なんだけど、それを世に出すには色々ねじ曲げたり金の稼げるようにシフトしていかなきゃならない。
あと、自分が思ってるより自分だけの発想ってつまらないし偏ってる。
一部の天才は、天性のひらめきと膨大な知識のとり入れでなんとかなってるし成功してるけど、ほんの一部だけ。
むしろ大体の人間は自分の「好き」と折り合いが付けられなかったり、金の匂いに鈍感だったりして消えていってる気がする。
大勢の大人達が、自分の利益出さないといけないと思って行動してるから最初に構想してたものとは違ってたりなんてまぁよくある。
自分も若い時分はリビドーだけでやってたけど、キャラやコンテンツを殺してる内に(人気出なくてオワコン化する)なんつーか、姿勢とか考え方がすっかり変わってしまった。
夢中になって読んだ漫画も、徹夜して観たアニメも、面白いには面白いんだけど、常に「売れるための分析」みたいな思考が入り込んでくるようになった。
これってピュアな「好き」ではもう無いんだろうなーとか長らく感じてる。
他の人がどう思ってるかなんて知らんよ。
少なくとも自分はこう思ってる。
よく好きなことを仕事にできるのは幸せだねなんて他人に言われるけど、仕事は辛いことやしんどいことがやけに多いから、実は好きを仕事にするって悪手だったんじゃないかとも思ってる。
そりゃ小さい頃憧れだった声優さんが自分のディレクションで、自分の作ったキャラに声あててたり、テレビで放映されたりはめっちゃ感動するけど、最近はそういうのも無くなってきた。
今日もしんどくて、嫌で仕方なくて、心臓に痛みが走って過呼吸おこしかけて、本当にこの道でよかったのかななんて思った。
今、好きを仕事にしたくて、自分の仕事を「やりたい」とか「憧れだ」とか行ってくれる若い子達に全部ぶちまけてしまいたいなとか考えてる。
いや、楽しいことだけじゃなくて辛いことも多いとは口酸っぱくして言ってるけどさ。
自分より強いメンタルやよい脳みそ持ってる可能性が十二分にあるひとに、矮小な自分の苦しみなんて言うことではないしね。
なんか冒頭えらそうなこと言ったが、単に自分が向いてなかっただけじゃね?って気付いた。
あー胃がいてえ
つまり、人間を性別で二分化した時、本来は「女性側」に属する存在でありながら「男性側」の立場に付いて男性を守り女性を攻撃する裏切り者の女性なので、名誉男性と言うのだろう。
小学生の頃、クラスで男子と女子が喧嘩した時に女子の側に付いた男子を「お前それでも男かよー!本当は女子なんじゃねーのー?」と男子が揶揄うのと似たような物だと考えて良いと思う。
名誉〇〇はアウシュビッツでユダヤ人に看守をやらせたり、日帝軍で半島出身者に捕虜収容所の看守を押し付けていたようなものだ
マジョリティによって分断のために作られたものでないなら名誉〇〇とは言わない
それこそ名誉白人を思い出せばわかることだ
私は非常に気分を損ねていた。
帰りついた自宅の駐車場に車を停めて、運転席の背もたれをうんと倒し、不貞腐れて仰向けに寝転がっていた。
朝、私は今日を素晴らしい日にしてやろうと息巻いていた。
喫茶店でサンドイッチを食べ、たっぷりのコーヒーをちびちびと舐めながら、窓際で日向ぼっこをしよう。その為にもお気に入りの目玉焼き柄シャツを着て、人に会う予定もないのに化粧をして、車通りの少ない道をゆっくり走っていこう……。そうやって幸せの逆算をしながら、あらゆる準備を嬉々として行っていた。
目当てだった喫茶店は混んでいたので諦めたが、いくらか離れた元酒屋のそこは空いていた。カフェスペースに先客はおらず、そっと床板を軋ませるのは、なんとも言えない優越感があった。注文が届いてからマスクを外す。なんともいい匂いだ。ピザトーストは分厚くもっちりとして、確かな食べごたえでもって私を満足させた。
ナイフとフォークを用いてピザトーストを切り分けている間、三人連れの女性客が入ってきた。やや離れた席に座った彼女たちは主婦友達らしく、子どもの話やなんかで盛り上がっている。店内のラジオと合さって、程よい午後の気だるさを演出していた。
デザートとコーヒーが運ばれてくると、プリンは直径10cmほどのボウルにたっぷりと入っていて驚いた。甘くざらついて飴がけになったそれもまた、なかなか気に入った。
半分ほど残したコーヒーを冷める前に飲んでしまうべきか、時間をかけて舐めているべきかで悩んでいると、今度は三人連れの若い男性客が入ってきた。灰皿はないかと店員に声をかけて、禁煙だから外でどうぞ、マスクは飲食が始まるまで外さないようになんて言われている。
彼らは私の隣の席に座ってお喋りを始め、もう向こうの主婦の声も、ラジオの音も聞こえなかった。許容できない距離に人間が増えたのが不快で、私はマスクをつけた。こうなってはのんびりとコーヒーを啜っているより、さっさと飲みきって、それから自分の世界に閉じこもってしまうのがいい。そう思って一度つけたマスクをずらし、コーヒーを飲み切る。マスクを戻して背もたれに体重をかけた。
「一口飲む間だけマスクをずらして、すぐに戻す人はこの辺りじゃ初めて見た」
私は眉を寄せ、それから絶望した。なんだこの躾のできていない男は。こんな人間のたった一言で、素晴らしくなるはずだった私の一日は台無しにされなければならないのか!
男性客たちをひと睨みするが、気にした様子もない。うんざりして頭を抱える。ほんの一分、もしかしたら十五秒、忘れようと目を瞑ったがとても無理だった。不機嫌なまま立ち上がり、ごつんごつんと踵を響かせてカフェスペースを出る。会計をしたが、そのまま店を出ていくのは悔しかった。
酒屋と雑貨屋の合わさったようになったスペースをぐるりと回って、何かいいものがないか探し出す。地下にワイン蔵があるのは知っていたが、ワインはあまり飲まないので降りていくのはやめた。ウイスキーと迷ったが、冷蔵ケースに珍しいビールが並んでいたので、二種類選んで買った。今日ではないがそのうち、餃子をつまみにこれで晩酌をしようと決めた。その瞬間ばかりは心が晴れたが、すぐに曇ってしまった。
予定よりも早く店を出て、帰路を辿る。本当なら服屋にも寄りたかったが、もうすっかり気持ちが萎えてしまって向かう気になれなかった。
いつまでも腹が立って、悔しかった。全く不躾な男だ。あんなやつは新型の病気とは言わないから、インフルエンザにでもかかって一ヶ月ばかり寝込んでしまえ。そして金輪際喫茶店になんて近寄らず、自宅で駄菓子をつまみに発泡酒でも飲んでいればいい(私は普段そうやって酒を飲むことが多いので、別にそれが粗悪だなんて思ってはいないが)。なぜ笑われなければならないのだ。なぜあんなしょうのないことが気になって仕方ないのだ。どうしてこんなに打ちのめされなければならないのだ!
どこか公園にでも寄ろうかと思ったがやはり気が向かず、結局帰ってきてしまった。家に入る気にもなれずに、車の中に寝転がる。この空間には私一人だけだ。私をおびやかすものは何もない。本当はそういう安心感を、どこか外の世界で味わいたかった。孤独や悲しさが溢れて流れていった。
このままで今日を終えるなんてとてもできない私は、日記を書くことにした。この自分勝手で、被害妄想的で、矮小で、傷ついた気持ちを、どこか遠くに追いやりたかった。それはそう、どこか私小説と呼ばれる物に似ている気がした。
日記を書き終えると、ずいぶん心が穏やかになっていた。今日という日が私の頭を離れて、このたかだか二千字足らずに収まっている。この出来事はもう、私から切り離された私以外の何かで、私の興味を引くに値しないものだった。
しかし、ここまで真面目に書いたら誰かに見てもらいたい。閲覧数がいくらかついたら報われるし、私を擁護してくれる人がいるかもなんてスケベ心も湧いてくる。くだらないと言われれば古より伝わる「嫌なら見るな」のアスキー・アートを心の中に貼り付けよう。そう考えて、私は投稿ボタンを押した。
近頃、アニメを見なくなった。
深夜アニメに熱中していた当時、中学生の頃はよくオタク仲間たちとアニメを語りあった。
休み時間を迎えると空き教室に集まって昨晩のアニメの話題で盛り上がり、放課後が訪れるとオタクグッズ
を物色するためにアニメショップに足を運んだりもしていた。
翌年にはアニメ好きの部活の後輩とも親しくなり、オタクの輪は次第に広がっていった。
しかし、高校進学を機に彼らとはそれっきり会うことはなかった。
以降、アニメを見る機会は徐々に減少していった。
もしかすると自分にとってアニメとはただのコミュニケーションツールであって、趣味と呼べるものではなかったのかもしれない。
人間関係で頭を悩ませていた高校生の頃、自分の心の拠り所となっていた。
赤の他人である声優を愛称で呼び、リスナーであるオタクたちは「○○ネーム」といって同じ名前を名乗り共通項を得ていた。
そんなふわふわした関係に喜びを見出して、コミュニティに属していた気分になっていた。
彼女のためと思い、ファンクラブに入会してイベントに足を運ぶことも少なくはなかった。
今振り返ると、なんて滑稽だろうと笑いを通り越して悲しみと陰鬱な気持ちが自分を襲う。
近頃、女性への興味を失った。
何者にもなれずオタクであるというくだらないアイデンティも失った自分は空虚な日々を過ごしていた。
ある日、そんな自分を街中ですれ違う女性があざ笑っているかなような妄想に陥ってしまった。
ひとたび女性を前にすると、自分が矮小な存在に感じてとにかく女性が怖くなった。
近頃、生きる気力を失った。
中には著名な芸能人までもが名前を連ねており、心底驚愕している。
そんな暗いニュースを耳にするたび、厭世的な気持ちが増していって自分までも人生を諦めたくなってしまう。
こんなことで頭を悩まして、今夜も眠りにつけないであろう。
『サン・ジュニペロ』はネットフリックスにあるブラックミラーっていうSF連作ドラマの一編なんだけど、終わり方というかラストシーンがマジですごい。
以下巨大ネタバレ
主人公はシャイな女の子ヨーキーと陽気な女の子ケリーの2人組。ディスコで出会った2人は(同性)恋愛関係になるが、価値観の相違からすれ違いが…っていうようなストーリーが展開するんだけど、中盤で舞台がデジタルの世界だったことが判明する。
シャイなヨーキーは自動車事故で植物状態になった婆さんで、陽気なケリーは夫と死別して終末ケアの老人ホームで過ごす婆さん。
どうせ植物状態だし、もう死んで肉体を捨ててバーチャル世界に移住するぞ!と思ってるヨーキーVSバーチャルな「天国」に行くことなく死んだ娘と夫に殉じてオールドスタイルの死を望むケリーっていう対立軸で、2人の感情のぶつかりあいでストーリーは最高潮を迎え……ないんですよね。
なんでかっていうとラストシーンがそれまでの話のドラマ性を1万倍とかにしたものをワンカットでぶち込んでくるからだ。
エンドロールでは、結局夫や娘に(すぐに)殉じることはせずバーチャルな天国に行くことを選択したケリーがヨーキーと一緒にサン・ジュニペロの享楽的な街ではしゃぎ回る様子が映し出される。バックに流れるテーマソングは"The Heaven is a Place on Earth”、「天国は地上にある」ってのはなかなか内容とあった選曲ですね、と思ってるところで、サン・ジュニペロ、地上の天国を提供しているテック企業の様子が突然出てくる。
豆粒くらいの大きさの、表面が明滅するチップを機械が運んでいる。このチップこそがバーチャル世界への移住の要で、これをこめかみにつけた状態で死ぬことで意識がチップに移動するという寸法。運ばれているのは他ならぬケリーとヨーキーのチップだ。
ロボットアームが2人のチップを”San Junipero”と書かれたラックにはめ込む。チップの表面で明滅する光は、電子の天国ではしゃいでいる2人の表情にも重なって見える。
指先くらいの大きさの電子機器に閉じ込められて、偽物の「天国」で暮らすのか、ゾッとしないけどまあそれも幸せなのかな?というような思考が渦巻く。
そこでカメラがグッと引くんですよ!
そしたらね、もうバカみてえな数のチップがあんの。1万とか2万とか、そういう数この部屋にあって、たぶん他所にもっともっとあるんだろうと思わされる。そして全部チカチカ光っててさ、もうどれがケリーとヨーキーかなんか分かんねえわけ。
そこで"The Heaven is a Place on Earth”ですよ。サンジュニペロは天国みたい、ええとこよ〜ってくらいの温度感で受け止めてた歌が、ここで一気にまた違う意味に聞こえてくるわけだ。
人類はテクノロジーを使って天国をこの世に築いてやったぞ、ここが俺たちの天国だ、文句あっか!そういう、生命賛歌であり人類賛歌であり、不気味とかいう矮小な感想は瞬間的に吹き飛ばされる。
サーバールームの点滅なんていう無機質なものの代表みたいなものが、これまでのエピソードによって圧倒的な生命賛歌に見えちゃうわけですよ。
俺は生命賛歌なんて嫌いなんだけど、あのワンカットを見たときはちょっと涙ぐんでしまった。そういうパワーがあるんだよな。
1のドラマを60分くらいにわたって見せた後、ラストのワンカットでハイ×10000でーす!お前らがここまで観てきたものと同じものが何万とここにありまーす!っていうのをぶっ込んで終わる。そんなんアリか?
マジで凄いと思うんですよね。