はてなキーワード: 文章題とは
アラフォーの文系。転職活動対策のため、SPI的な参考書を買って練習をしているのだが、計算問題が明らかにできなくなってしまったことに気付いた。
計算のたびに一息ついてしまう。面倒くさそうな計算になると躊躇してしまう。2桁~3桁の割り算がでると嫌になる。すっきり割り切れないと途中間違っている気がして戸惑ってしまう。暗算の速度低下、明らかな移項ミス、書き写し間違え、字が汚いなどなど…
これを1問数分で解けとか、できる気がしなくて絶望している。
もともと数学は得意では無いのだけど、それにしても学生のころはもっとがむしゃらに解けていた気がする。
そして、この手の筆記試験はうまくいった試しがない。それは俺の能力不足だと言ってしまえばそれまで何だが…
反対に文章題のようなやつは学生のころより得意になったが、それは中年皆同じだろう。
こういう計算問題が昔から得意な人はいると思うんだけど、どうやっているんだろうか。
『どうやったら、人の話が分かるようになるのか?』
悩むねー。分かるわ。
普通の人ならねー。大卒や一般向けだと、野矢茂樹さんの論理トレーニング。戸田山先生の論文の教室。新井紀子先生のRSTテスト。ってので、ブラッシュアップされるかもなんだろうけれど。。難しいね。
人間によって頭脳の作りが異なっているので、言語機能から攻めるよりは、図解にすると理解しやすいとかあるし。基本的な三段論法とか起承転結みたいなのも、要点を四角□で囲って、を三つか四つ並べて矢印で結んで文の繋がりを考えてみるってことだよなあ。これは、冒頭で例を出した『野矢茂樹さん「論理トレーニング」』って本にもあるので。
コンサルなんかの本での例(安宅和人さんのイシューからはじめよ)だと、雲、雨、傘っていう『雲が出てきた(状況)』ので『雨が降りそう(判断・予測)』だと思い『傘を持って出かける(実行)』って流れを理解するって言うけど。
もう、ホントこれをやれば伸びるってのは分からないので、教えて欲しいところではあるよね。。
偏差値50前後で、知識が足りないとかなら。地道にやるには、漢字検定3級の問題集、小学生向けのコグトレ本(国語・算数)からでもいいかもって思ってる。僕も、たまにやってる。僕も、中学の国語の問題やってもつづかたかったな。
就活で使うような公務員試験やSPIの問題でも、方角と距離を文章から読み取らせる文章題、あるでしょ。ああいう単純なのから始めるとイイかもね。
心理カウンセリングを受けるにも、なんか、話せないとダメ出しされるから凹むしねぇ。WAISやらは、専門の医師やカウンセラーがいるメンタルクリニックへ行けばってやってもらえるはず。
Twitterやブログをうろうろしていろんな素人の書いた文章を読むのが趣味で、コメント欄もちらっと見たりするんだけどその度に読解力ない人間って一定数いるな…と痛感する。小中に通ってしっかり卒業して義務教育終えてるはずなのにこれ?と思う人間がゴロゴロいるので、教育を子供に受けさせる義務が定められていなかった時代はもっと格差が酷かったんだろうと思わざるを得ない。教育制度を整えた昔の人すごい。
「A+BはCです!」という内容のツイートやブログに「Cってなんですか?」「A+Bはどうなるんですか?」とリプコメントがついてるのを初めて見た時はその場にへなへなと崩れ落ちたい気分になった。
何回読み返しても〇〇に繋がることなんて1ミリも書いてないはずなのに「なんで〇〇になるんだ?おかしくないか?」とコメントがついてるのを見た瞬間、瞬きの回数が3倍ぐらいに増えた。
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(追記)
深夜のノリでバーッと書いたということもあり、「最低限の教育」という括りは乱暴だったなと感じた。
ここでいう「教育」とは、国語や道徳の授業に限るものではないと私は考えているので、長文追記をしてみる。蛇足なので読まなくてもいいです。
たとえばジョージワシントンの桜の木の逸話がある文章に引用されたとして、求められている感想、想定されている感想は「ワシントンの正直さとその偉大さをこの話と引用者は伝えたいんだな」もしくは「正直に過ちを認めることの素晴らしさについての話だな」のような内容だと思う。このようなことをテストや宿題でだけではなく、日常生活においても行う能力こそが学校教育を通して培われるべきものであると私は考えている。強引に言い換えるならば、日常生活への応用力である。(「ワシントンすごい!えらい!」は、方向性は間違いではないだろうがもう少し踏み込んで考えたい)
しかしクソコメントクソリプ(乱暴な言い方でごめんなさい)をしてしまう人間は、義務教育を終えているのにも関わらず「ワシントンって誰?」「なんで桜の木を切ったの?切ったらダメなのに」「何が言いたいのかさっぱりわからない」というような感想を抱くのではと予想する。彼達はそもそも話の本質を理解できていないので、その考えがどれだけ的外れなのかも理解できない。だから恥という感情を覚えることなく平気でコメントやリプ欄に書き込んで送信ボタンを押してしまう。
学校の勉強ができてもクソリプマンになる人間はいるし、逆に勉強が苦手でもすぐ話の本質(話し手の意図)を理解できる人間もいる。
それから「その桜の木の話はデマだろwwwそんなことも知らねーのかmg(^O^)プギャー」で頭がいっぱいになる層、それを実際にコメントしてしまう層も一定数はいると思うのだが(この駄文を読んでくれた人の中にも一人二人はいるような気がする)、そちらはどちらかというと精神年齢や人格の問題なのでは…と思う。まあ、そういうリプがついてるのを見たら私は「クソリプだな…元ツイの人も大変だ」と感じるであろうことは間違いない。
小学校算数で簡単な四則演算の勉強をしたあと、文章題や発展問題という形で「八百屋でリンゴを三つ、モモを二つ買いました。リンゴは〇円、モモは●円です。全部で何円払えばいいですか」というような問題をやらされたと思う。
社会でも、フィールドワークを通して地元の文化や歴史について調べた経験があると思う。
理科でも何かしら実験などで日常生活との関わりを意識させられたことがあるはずだ。
小中学校は義務教育ということだけあって、教科書内の事柄や法則を現実の日常生活と対応させることを最終目標としている節がある。知識を経験に結びつけさせることで、日常生活への応用力を高めさせたいのだと思う。残念なことに、大学を出ていても、教科書と現実の生活をくっきりはっきり分けてしまっている人間は一定数いるのだ。
これが明確に間違いで、正しくは「問題文と質問に対する回答から答えを導くゲーム」。
だから質問しない限り答えに辿り着かない方がむしろいい問題とされる。
これは上の勘違いに基づくもので、問題文と「質問」があれば唯一の答えが定まる。
というより唯一の答えに定まるまで質問をすることができる。
つまり質問権も問題文の一部であるのがウミガメのスープである。
これも最初の勘違いに基づく。確かに、同じ問題文から別の解を作ることをよくやったりするゲームではある。(一番多いのが「ウミガメのスープ」)
しかし、出題者が用意した最終解答が違う問題は、明確に異なる問題であって、別解とは言わない。
なぜなら最終解答が異なると、質問に対する回答が変わってくるからだ。全ての質問に対して同じ回答をして、なおかつ最終解答が違うのなら別解といえるが。
確かに出題者の用意した解答を当てるゲームではある。しかしこの言い回しは違うと言わざるを得ない。
そう思ってしまうのは質問が足りないからだ。ウミガメのスープは「問題文を読み進めるために質問が必要な文章題」だ。
そして文章題が完全に全部読めたその時には、誰でも解答にいたることが可能な、ちゃんと論理的なゲームである。
そういう問題も多いが、必ずしもそうではない。
順序を入れなければならない理由:
主張 | 反論 | 反論への反論 | 再反論 | 再反論への反論 | |
内因性 | 文章題で出てきた数字をただ順番に並べただけでも点が取れてしまう方式では、本当に子供が理解しているかが見えづらい。また、定められた手順で問題を解くことの練習にもなる。 | 子供と話すなどの方法でも理解度は確かめられる。テストで掛け算の順序を間違えることではじめて子供が理解できていないことに気づくとすれば、そのような教師は無能であると言わざるを得ない。また、定められた手順で解くのではなく、自ら考えて問題を解けるようにするのが教育の目的のはず | 掛け算の順序だけで理解を測るものでは当然ないが、理解を測りやすくする仕組みは当然必要。教師はエスパーではない。思考力は当然必要だが、手順通り問題を解く能力もそれはそれで必要 | 理解度を測るための手段としては不十分であることが分かった。子供が自ら考えて出した式が、授業で教えた順序ではないからとバツされるのでは、思考力を削ぐことになりかねない | その方法だけでは測れないと言っているだけで、不十分との決めつけは一方的。また、文章の意味をよく考えて正しい順序を導くことは思考力アップにもつながる |
重要性 | 文章を読み取って計算を行う力が重要であることは言うまでもない | (反論なし) | |||
解決性 | 順序を正しく書けていない子供を注意深く指導することで、文章を読み取れていない子供に対するケアができる。子供自身、順序を間違えないよう注意深く文章を読み、手順通りに問題を解くようになる | そもそも掛け算が順序通りかどうかで理解度を測れると考えるのが乱暴。「単位があっている方が先」などとパターン化して覚えるだけなので無意味 | それでも、ただ出てきた順に数字を並べるよりは、よく文章を読めていることになる | 結局パターン化して問題を解くようでは、理解度を見るという目的には何ら寄与しない | 「何ら寄与しない」は言い過ぎ。ひとつひとつの試みを「効果が少ない」と言って切り捨てていては、何一つ有効な試みなど存在しないであろう |
主張 | 反論 | 反論への反論 | 再反論 | 再反論への反論 | |
発生過程 | 本来は自然数の掛け算には順序がないのに、嘘を教えているということになる。順序がないものをあると覚えてしまうことは問題だし、また、正しいはずの式を書いてもバツされてしまっては、子供のモチベーションも下がりかねない | まず、誤解があるので解いておくと、自然数の掛け算に順序があるのではなく、文章題を式にする過程で生み出される式に順序がある。その順序は教科書に書かれており、授業で教えている。モチベーションについては、順序を正しく書けるようになった子供を褒めるなどの方法で保つことはできる | 残念ながら、そのような認識をしておらず自然数の掛け算に順序があると考えている教師も多数いる。また、仮にそうであるとしても、文章題を式にする過程は一通りに定まったものではなく、生み出される式も、順序がどちらのものも存在するはずである。合っていても教科書通りでないと認められないというのか。また、掛け算に順序がないことを知っている子供がバツを喰らって、「正しい順序」とされるものにすることで褒められたとしても、バカバカしいとしか思わないであろう。モチベーション低下は避けられない | 算数は数学につながるものであるから、定義を大切にするのは当然である。数学であっても、定義から外れたものを証明なしに使うことはできないはず。賢い子供にこそ、それを理解してほしい | 文章題を式にする過程は形式的なアルゴリズムとしては与えられておらず、式にする手段は単なる一例であるはずである。それを「定義」と言い換えることでローカルルールを押し付けるべきではない。賢い子供は、そのような嘘を簡単に見抜くであろう |
深刻性 | 嘘を教えること、モチベーションが下がることが問題であるのは言うまでもない | 嘘でないことは上に述べた通りであるが。あなたはニュートン力学を教えている先生に「嘘を教えている。相対論と量子論を教えろ」と迫るのだろうか? 教育上の過程として、より限定的なものから、一般的なものへと広げていくことは何ら問題はない | 力学の例は極論である。相対論や量子論で議論するよりもニュートン力学で議論した方が有益な問題は多数あるが、掛け算に順序があると考えた方が有益な問題は一つでもあろうか? そもそも、自然数の掛け算に順序がないことは、小学生でも知っているべきことである | ニュートン力学は、単なる利便性のためだけでなく、教育的な意味もある。順を追って、少しずつ概念を拡張して教えていく。それを「嘘」と呼ぶのは大袈裟。また、自然数の積に順序があると主張しているわけではなく「嘘」ではないことは上に述べた通り | 教科書の記述を「定義」として扱うことへの疑問は上に述べた通り。順を追って最初は式には順番がある、と教えることの教育的な意味自体が怪しい場合には、単なる嘘である。それを見抜いた子供のモチベーション低下は避けられない |
固有性 | そもそも掛け算に順序を入れなければ、このような問題は起きないのは明らか | (反論なし) |
みんなもやってみてね
が、そこに至るまでの結論はわりと複雑で、単純に論じられる問題ではない。
いちおう言っておくと、自分は旧帝大の数学科出身で、代数学・計算機科学的な議論はひととおりできるし、教育にも携わったことがある。
まず第一の論点として、少し厳密性に欠ける話なのだが、掛け算の左右は本質的には同じものではない。
つまり、(結果として交換可能かどうかではなく)意味的に交換可能か、というと、これは交換不可能である。
すなわち「掛け算の右と左は全く異なる意味を持つ」ということができると思う。
そもそも掛け算というのは、●を▲回足す、といった素朴な定義からスタートしている(現代的な数学基礎論の立場でもこのように掛け算を定義していると言ってよい)。
●を▲回足すことと、▲を●回足すことは、結果の同一性は置いておいて、少なくとも意味としては異なる話であろう。
実際、たとえば●を▲回掛けることと▲を●回掛けることを比べると、これは結果すら異なってくるわけだから、素朴に交換してよい、という話にはならない。
(数学では、非可換環だとかベクトルの作用だとかわけわからんものが山ほどあり、そこでは乗法やそれに類する演算が交換不可能なことは日常茶飯事である)
ところがこれが交換可能になってしまうというのが、「交換法則」の主張するところである。
これは掛け算そのものがその定義の中に「自明に」有している主張ではなく、定義から証明することによって主張される、いわゆる「定理」である。
するとここで「学校教育において、未だ習っていない定理をテストの解答に使用してもよいか」という第二の論点が現れる。
これに対する解答は、「よくない」である。
例えば大学入試においてロピタルの定理を使うことは、それが問題を解くために非常に役に立つにもかかわらず、許されていない。
どうしても使用する場合は、自らそれを解答用紙中で証明したうえであれば使うことができる、というルールだ。
さらにいえば、仮に交換法則を使ってもよいとして、「交換法則を使った」ことを明記せずに最初から定理適用後の姿で立式してしまうことにも疑問点が残る。
この論点でもやはり基本的には交換不能である側の意見に理があると考える。
と、言うのも、基本的に文章題においては日本語を数式に変換するための「解釈」は解き手に委ねられているからだ。
つまり、3個ずつのリンゴを5人に配りました、という日本語から「3個を5回足すんだな」と解釈することにも、「5人を3回足せばいい」と考えることにも一定の妥当さがあり、そこには読み取りの自由がある。
これは算数や数学の問題というより、日本語としての読み取り方の部分に交換可能性が潜んでいるのである。
したがって、この文章を数式にするにあたって5×3と書いても、それは何ら減点要素ではない。
まとめると、
掛け算は意味的には交換可能ではないよ→でも交換法則があるよ→でも習ってない定理は使えないよ→でも日本語の読み取りの部分に交換可能性があるよ
ってことで、左右逆に書いても丸になるというのが結論。
小学校教員経験者としての個人的な意見です。といっても大卒後2年だけ勤務(5年生, 6年生担任)してその後転職してるので、経験は少ないし時差があります。ただ最近、というか定期的に話題にあがる、かけ算の順序問題について自分の考えを書きたいと思ったので
(2)かけ算を元にしたわり算の理解
という2つを考えつつ書きなぐります。
ここではかけ算の順序を固定するという表現を使ってみようと思います。まず現状としてかけ算の学習では
(1つぶんの数)x(いくつ分)=(ぜんぶの数)
乱暴な言い方かもしれませんが、このように固定するのは必要悪だと思っています。
かけ算の順序を固定する理由をざっくり言うと、かけ算の式において(1つぶんの数)と(いくつ分)のそれぞれを明確に式の中で表現するため、です。それに伴い、順序を固定する必要が出てくるということです。固定は副次的なものです。
例えば3 x 2という式において、(1つぶんの数)にあたる数は3なのか2なのか、(いくつ分)にあたる数は3なのか2なのか、順序が固定されない限り判断がつかず評価ができません。どっちの数がどっちだか混乱してしまいます。なので、かけられる数に(1つぶんの数)を、かける数に(いくつ分)を対応させることにより、明確に(1つぶんの数)と(いくつ分)を式の中で表明することができます。
あと、計算だけ指導するのであれば、順序の固定は不要です。実際に、意味がわからなくても計算ができる人は山ほど居ます。ただ、かけ算やわり算の意味をとらえるためには、(1つぶんの数)と(いくつ分)を区別して考えていかなければなりません。
これだけじゃわかんねーよって人は以下も参考にしてください。
授業をするからには、かならず評価をすることになります。実のところ、この順序をつけなかった場合、問題の文脈を正しく理解して立式したのかどうか、評価が難しいです。問題において提示されている事象、より厳密に言えば「現実モデル(*1)」を、正しく「数学化(*2)」して処理しているかどうかが、評価のポイントになるわけです。もちろん児童ひとりひとりにインタビューをして評価できれば良いのですが、ペーパーテスト上では、立式ができているかどうかをかけ算の順序で判断するしかありません。(もちろん、正しい順序で書けたからといって正しく数学的に理解できているかどうかはわかりません。適当に数字を選んで立式している可能性もあります。逆に、現実モデルは説明できるのに式でそれを表現できていない場合もあります。これは現在のペーパーテストによる評価の限界でもあります。)
このままだとわかりにくいので、次で具体的な例を挙げながら説明します。
(*1)「現実モデル」...例えば「1ふくろにつきももが3こ入っていて、それが5ふくろあります」というものが現実モデルの一例です。現実にはその場にももがあるわけではないですが、その現実事象を模したものが現実モデルです。
(*2)「数学化」...ここでは文章題から立式する過程のことを指しています。問題を数学(算数)の領域で解決できるようにすることです。数学化した時点で、現実モデルの情報はそぎ落とされます。たとえば[現実]→[数学]の動きの場合、「りんごが2こと3こでぜんぶでいくつ」→「2 + 3」と容易に数学化できますが、その逆の[数学]→[現実]の動きの場合、「2 + 3 」→「 」の部分は無限に答えが考えられます。りんごじゃなくてもも2こと3こにしてもいいし、今日は1月2日です3日後は何日ですか、でもいいわけです。数学化されたものはそれだけ抽象化されていて、元の現実モデルを言い当てるのは困難ですし、現実モデルがそもそも無い場合もあります。
よくあるひっかけの文章題では、文中で(いくつ分)をわざと先に出し、(1つぶんの数)をその後に登場させるものがあります。
「6枚のお皿にりんごが3個ずつのっています。りんごは全部で何個ありますか」
文章題の順序通りに立式すると、6 x 3という式になります。固定した順序で考えると、これは(1つぶんの数)と(いくつ分)の順序が逆になっています。この場合、実際には
1皿に3個のりんごがのっていて、そのお皿が6枚分ある(式 3 x 6)
1皿に6個のりんごがのっていて、そのお皿が3枚分ある(式 6 x 3)
という現実モデルになってしまい、結果的に6 x 3という式は後者の現実モデルを元に立式したと判断することになります。
りんごのぜんぶの数はどちらも等しいですが、6 x 3という式の元の現実モデルが実際の現実モデルとは異なるため、問題にある現実モデルを正しく数学化できたとは言えず、誤答になるということです。
(1つぶんの数)を3、(いくつ分)を6
として捉えているのか、
(1つぶんの数)を6、(いくつ分)を3
として捉えているのかには大きな違いがあるわけですが、(1つぶんの数)x(いくつ分)の順序で書こうと決めておくことで、どちらで捉えているかを特定することができるようになります。
そう考えると、順序は逆にして固定しても問題はなさそうです。今の
(1つぶんの数)x(いくつ分)
という順序は、ただ言語的な順序に従っているだけだと思います。
かけ算がたし算の延長ということを思い出すと、
2 + 2 + 2 + 2 + 2
を
2 x 5
と表しているだけで、これは
2 + 2 + 2 + 2 + 2
を、2が5つ分という風に捉えて、その順番で2 x 5と順序づけているのかもしれません。5つ分の2と捉えれば、5 x 2と順序づけてもいいので、捉え方の問題なのかもしれません。個人的には前者の方が自然に感じるのですが、刷り込まれてきただけかもしれません。
(共通性のある例を考えると、2/3という分数について、日本では「3分の2」と分母から読み、記述するときも大抵の人は分母の3から書き始めると思います。「3分の2」と考えなから、分子の2から書き始めるのは違和感があるのではないでしょうか。一方で英語圏の場合、Youtubeとかで実際に確認した限り、2/3は「two third」と分子から読み、記述の際も分子の2から書き始めます。)
繰り返しになりますが、順序自体が大事なのではなく、かけ算の式において(1つぶんの数)と(いくつ分)のそれぞれを明確に式の中で表現することが大事で、そのために順序の固定が副次的に必要になるということです。
改めて考えると、この固定というのは非常に厄介でもあります。まだ学習し始めの子どもを混乱させないために条件を固定しているという意図もありますが、順序を交換しても答えは変わらないという事実と照らし合わせたとき、納得いかないのも当然です。しかもその事実自体は小2の九九の時点で学習します。
順序が問題にならないときというのは、既に数学化されたものを取り扱うときです。つまり、そもそも数学化の過程が評価の対象にもなっていないものです。算数的に言えば、文章題のような問題ではなく、既に立式されている問題です。
2 x 3
という問題であれば、
2 x 3 = 3 x 2 = 6 答え6
と計算しても間違いはひとつもなく、正答です。2 x 3が計算できなくても、順序を変えて3 x 2で計算しても良いのです。その根拠は、かけられる数とかける数の順序を逆にしても答えは変わらないからです。むしろ学習が進むにつれて、交換法則は便利に使うことができ、積極的に使えるようにしていくべきです。(教科書でもちろん学習します。)
また、アレイ図(↓のやつ)を考える時、自分でどう括るかによって、(1つぶんの数)と(いくつ分)が決まり、どちらの順序でも考えることができます。例えば
● ● ● ● ●
● ● ● ● ●
● ● ● ● ●
上のようなアレイ図であれば、縦3個でくくれば3 x 4という式になりますが、横4個でくくれば4 x 3という式になり、かけ算の順序が逆になります。自分で現実モデルを作り出してそれを数学化しています。
わり算の考え方には2つがあります。「等分除」と「包含除」です。その違いを説明するために、虫食い算のかけ算を考えます。というのも、わり算はかけ算の拡張なので、発想として虫食いのかけ算で考えるとわかりやすいです。3 x 2 = 6と、順序を逆にした2 x 3 = 6を虫食いにして考えましょう。かけ算の順序を変えただけなので、どちらも答えは同じ6です。
・等分除
□ x 3 = 6
というかけ算をわり算では
6 ÷ 3 = □
と表します。この場合、求める□の部分は(1つぶんの数)にあたり、例のりんごと皿で考えれば、
「りんごが全部で6こある。これを3枚の皿に平等にわけると、1皿あたり何こになるか。」
という問題になります。1つぶんのりんごの数が、求める答えです。これが「等分除」です。わり算と聞いて想像しやすい、平等に分けよう、というものです。教科書でもこの等分除から学習します。
・包含除
3 x □ = 6
というかけ算をわり算では
6 ÷ 3 = □
と表します。この場合、求める□の部分は(いくつ分)にあたります。例のりんごと皿で考えれば、
「りんごが全部で6こある。1皿に3こずつりんごをのせていくと、皿は何枚必要になるか。」
という問題になります。皿の枚数が、求める答えです。これが「包含除」です。イメージ的には、6つある物を1セット3ことして何セット作れるかな、というものです。
以上のように、□ x 3 = 6と3 x □ = 6のどちらも6 ÷ 3 = □というわり算になるのですが、もともとのかけ算の式をみると、求めている□の部分が(1つぶんの数)なのか(いくつ分)なのか、という違いがあります。一見、全部わかりやすい等分除で考えればいいじゃないかともなりますが、包含除は等分除ではとらえにくい、余りのあるわり算を考えるときに非常に有用で、必要不可欠です。
この等分除と包含除の考え方は、かけ算での(1つぶんの数)と(いくつ分)を明確に区別しているからこそ理解でき、学習できることです。3回目くらいになりますが、(1つぶんの数)と(いくつ分)のそれぞれを明確に式の中で表現するために、順序を固定する必要が出てくるということが、かけ算の順序を指導する理由であり、今回書きたかった結論です。もし順序を固定しない場合、式の中でどっちがどっちなのかを示す記号を加えるなどの工夫が必要なのではないでしょうか。
単に順序を逆にしても同じ、として学習を進めると、(1つぶんの数)と(いくつ分)に区別のない世界で考えることになります。このとき、子どもにかけ算やわり算の意味をどのように指導すればよいのでしょうか。計算だけ指導するのであれば、何も問題ないのですが。
「算数的活動を通して,数量や図形についての基礎的・基本的な知識及び技能を身に付け,日常の事象について見通しをもち筋道を立てて考え,表現する能力を育てるとともに,算数的活動の楽しさや数理的な処理のよさに気付き,進んで生活や学習に活用しようとする態度を育てる。」
「算数的活動」とは「児童が目的意識をもって主体的に取り組む算数にかかわりのある様々な活動」を意味しています。先ほど考えたわり算の理解は、この算数的活動を実現しうる機会の一例そのものだと思っています。
正直、計算自体が重要なのであれば、現代では電卓やコンピュータに入力する力が求められるだけです。もっと時代が進めば、こんな等分除や包含徐を学習しなくてもなにも困らない時がくるかもしれません。もちろん、先ほどの算数科の目標は社会の移り変わりによって広義に変容するものですから、時代が変われば内容も変わるでしょう。しかしそんな中でも、根本として算数・数学を探求することが大切ということはゆるぎないと思います。
小学校の教員は基本的にほとんどの教科を一人で担当します。私は自分の算数の指導に課題を感じ、よりよい授業のために調べたり足を使って研究会・学会に参加したりしてきたのですが、正直いうとそうしてきた算数だってあまり自信が無いです。すべての教科を完璧に仕上げるのは結構な難易度だと思います。
勤めている人はみんなそうですが、現場の教員たちも同じように膨大な業務に追われています。また、子ども・保護者のトラブルの対応も多々です。学校では毎日事件が起きているといっても過言ではありません。若い先生は特に教材を研究する時間が必要ですが、所定の勤務時間内にできる時間はほぼゼロです。朝と夜の残業時間も、授業そのものに関係しない業務が多いです。学校で子どもが過ごす大半の時間は授業時間なのに、その授業の準備が満足にできないということです。経験を積めば良いと言われても、今担任しているクラスの子どもが被害者になるだけです。あたりまえですが、その子たちは一度だけの1年を毎年過ごしているわけです。貴重で大事な時間です。
現場にもっと人が欲しい、というのが素直な感想です。算数では少人数授業やチームティーチングが増えてきていますが、根本的な問題は解決していません。算数に限らず、教員がもっと授業に関することに時間を割けるようにするべきです。毎日授業があるのに、その授業の質が低くなっては意味がないです。結局、先生たちもかけ算の順序について教えてくれる人なんて居ないのかもしれません。そんな状況で教えなくちゃいけないんです。
「経頭蓋磁気刺激法」ってトレパネーションかと思ったが、Wikipediaにも項目あるくらいではあんだな。
ざっと目を通したけど、そっちにも「コペルニクス的転回」といわしめるもんはなさそうだな。
そもそも「コペルニクス的転回」なんて「天地がひっくりかえるほどの大転換んんんん~~~~!!!!!」
正直これ、引用箇所は学術的でない「断定を避けた」極めて曖昧な文章だし、
元増田の問いについても、文章題として低質でしょ。何を問いたいのか意図がつかめん。
「日本語読めてる?」に対して歴史的に発生した事象を調べさせる目的だとしたら、元増田自体わかってねえし。
かといって「その事象」というのがどれを具体的に指しているのか区別されていない。
秋2018
・College Writing
話をしたり作品の分析をしたりは嫌いじゃないんだけどレポートを書くのが死ぬほどしんどい
好きな映画について書き始めたけど見直しすぎてこの映画嫌いになりそう
教授がユーゴスラビア出身の人なのでアクセントが聞いてて気持ちいい
・Intro to Philosophy
哲学(入門)
ソクラテスをベースにデカルトとかミルとか読んだり論法を練習したり
曖昧なことについて考えるのは好きだけど2-3年かけてみっちり勉強したいほどではないと思ったので専攻候補から除外
洞窟壁画とかから始まってピラミッドとかギリシャ彫刻とか仏像とかについて学んでる
美術は好きだけど興味があるのは絵画だから建築と彫刻ばっかりのこのクラスはあんまり面白く感じなかった
でも「アートって何だろうな」みたいなのがちょっと分かってきた気がする
・Multilingualism
この国で使われてる言語、他の言語から受けた影響、方言、文化グループ等について学んでる
正直クソ面白くて入学前には視野にも入ってなかった言語学に興味が湧いてきてる
・Applied Calculus to the Social Sciences
微積分?のクラス 応用問題としてリアルなシチュエーションの文章題とか出てくる
死ぬほどつまらないし教授何言ってっか分かんないしリタイヤしてしまった
冬2019(予定)
・Drawing 1
副専攻として美術やりたいし最近絵書いてなさすぎて画力心配だから基本的なとこから始める
春2019(予定)
・Intro to Cultural Anthropology(民俗学)
・Writing about Performance(レポートの書き方、演劇やダンスが題材)
・Color Theory(色彩理論)かPainting 1(油絵)のどっちか
他に取ろうと思ってる必修(一般教養?)
・理科応用:Data and Society (データと社会)
・数学(再挑戦):Excelかコンピューターサイエンスの入門
そろそろ一般教養を取り尽くしてしまうので専攻を決めないとまずいところだが分からん
法学とか医学とか暗記だらけのエリートルートは無理だしエンジニアリングとかコンピューターサイエンスとかのそこそこ高給安定ルートも興味が持てない
https://togetter.com/li/1289061
わざわざ順序をつけるとか、全く理解できない。
「買ってきたリンゴと元からあるリンゴは違うよね」とか「リンゴの大きさが違ったらどうなの」とか
引っかかる子供はいるし、それはとても健全なことだと思うのだけど
そこであえて、リンゴであるということと、1個1個数えられる個数を持つという
そのことだけを抜き出すことで足し算が成立する、というのを教えるのが算数なのではないかと。
属性がそろってないと3+2という式はそもそも成立しないというのに
無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄ァ!!
あのな、自律型AIが世の中に存在してないってことはアレは完全にまだ人形なんだ。
3DCGなんだ。人間が手取り足取りしないとしゃべれもしない操り人形なんだ。
vチューバーはそのために人格AI部分、動作AIの部分(将来はできるかもしれないやつ)を人間が代行している。
キズナアイはAIっぽいvチューバーだよ。「商業AI」、「自称AI」なんだよ。
あの会社の技術力でできることは画像選びとか簡単な文章の文末選び程度しかない。
「アイ」という固有名詞を「AI」表記してみんなに誤解してもらえただけの人形だ。
名古屋大学の先生が「AIに小説をかかせた」といっても、これもやってること実際にみたことあんのか?
人間が選んだ次の展開の選択肢からなんとなく良さげなのを選ぶだけ。
おなじ研究室では東大入試問題をAIに解かせようとしてるんだけど、
そこのAIはそもそも数学の文章題になるといかに厳密な文章でも
出題文をちゃんと理解できてないので中学の方程式レベルも無理。
(詳しくいうともうちょっと難しくなるんだけど、文系にはその操作の理解が無理)
AIは将来はすごいことができるかもしれないが今できるのは亀甲占い程度だ。
まだ会話なんて絶対にできない。
今地方の私立大学2年生なのだが、アルバイトとして小学3年生の子どもの家庭教師をしている。
まず、時計が読めない。
「今日何時に起きた?」や「いつも何時から学校始まる?」といった質問に答えることができない。
先の家にはアナログ時計しか無いのだが、「今何時何分かな?」と聞くと7割位の確率で答えられない。
更に「5時15分」のように答えられたとしても、5分後に聞くと「5時4分」と答えることが多い。
普通に算数の文章題が解けないのはもちろんだが、段落に対して番号をふるときに「文章の中で一文字分下がっているところが段落の始まりだよ」って教えても素っ頓狂な場所に番号を振るし「1段落の2文目」などを指し示すことができない。「1段落の1文目はここだよ」って教えてもだ。
Aくんの家庭教師を始めてから大体5ヶ月くらい経ったのだが、3ヶ月が過ぎた頃から普通に勉強を教えるだけではだめだということでいろいろなことを試している。
○×ゲーム(3x3で揃えるやつ)→リーチが掛かっている状態で手番が回っても気づかない
オセロ→俺強いよと言われ勝負するも置けない場所にコマを置く・残り8マスでどこにおけるかを見つけられない
二回手を叩いて溜め・防御・攻撃するやつ→ルールが難しくてできない
(これ以外にもたくさんやったが)こんな有様だ。自分の記憶の中では3年生位のときには上に出たようなものは強くはないにしろ大体できたし、それをやる友達がいたということはできたはずだ。
上の状況や教えている時の様子(じっとしていられない・マスに文字が収まらない・一文字書いている最中に3回位集中が切れる)を見ている限り、なんらかの障害を持っていて早めに病院行ったほうがいいと思っているのだが親御さんは全くそんな様子は見られない。
ただ、Aくんが勉強が苦手であることはわかっているようで、家庭教師先に行くたびに教材が増えており毎日学校の宿題の3倍位の分量をやらされているようだ。
それでもAくんが一人でこなせるはずなく、Aくんに聞いたところによると10秒位詰まったらすぐに親が教えてくれちゃうらしい(その様子は私が居るときにもあり今日の宿題は?とか聞くと本人が応えようとしているのに大体親が連絡帳を開いて教えてくれる)それじゃあ意味ないじゃん!
最近は私が家庭教師先に行くと泣いて勉強をしたくないと親に泣きつき親が「頑張って勉強しないとだめだぞ 頑張らないと賢くなれないぞ」となっているのを見るのがほとんどだ。
勉強させるのは親だろうに、逃げる先が親しかいなくて親に泣きついているのを見るのが痛々しい。
両親とも高学歴で子どもにも期待しているのはわかるがもう少し子どものことを見てあげてほしい。
Aくんは自分で自分ができないこととっくに気づいているし、それで学校で生きづらい思いをしていることも自覚している。
上のような遊びができないとなると友達との輪についていくのもそろそろ限界が近づいてくるはずだ。
学校で1日授業聞いてくるだけでへとへとだろうに、家に帰っても味方であるはずの親に勉強をさせられ、いっぱいやってないから勉強ができないのだという風に言われるのはどんな気持ちなのだろうか。
私からなにかいいたいのだが、こんなクソガキ雇われ先生には何も言えない。