はてなキーワード: 将来有望とは
「MIRAIには未来はない」理由を、理系のはてなーにわかるように書く の続きで、バス・トラックのFCV化の可能性について書こうとしたんだけど、そこからだんだん水素社会自体について考え始めてしまったのでダダ漏れで書きます。
前増田のブコメで「バス・トラック分野についてはEVよりFCVのほうが優位なのでは?」という指摘を何件かもらった。技術的には概ねその通りだと思う。前増田で挙げたFCVの諸課題は、(2代目MIRAIが実際にそうしたように)車全体のサイズを大きくするほど希釈・軽減されていく性質がある。一方でEVのほうは、車が大型化し、求められる航続距離と出力が大きくなるほど必要な電気容量も増え、それに伴ってバッテリセル部の大型化・重量増・充電時間の長時間化という問題が重くのしかかってくる。
だから、FCVを自家用車のスケールに展開しようとすると技術的に無理が生じてくるし(たとえば、軽自動車サイズで実用的な航続距離を持つFCVを作るのはあまり現実的でない)、逆にEVを大型商用車のスケールに展開しようとすると実用性の面で問題が生じてくる(高価格・高重量で給電にも時間がかかる)。言い換えれば、EVとFCVは、その特性が活かせるスイートスポットが違っている。EVは二輪車〜自家用車レベルに向いていて、それより上へのスケールアップには課題がある。FCVは大型商用車用途なら一定の強みを発揮できる可能性があるけど、自家用車以下へのスケールダウンには向いていない。だから「乗用/大型商用で線を引いて棲み分けする」という選択肢は確かにありうると思うし、当のトラックメーカー側も、日野・いすゞ・ダイムラー・ボルボあたりは現状はEVとFCVの両ベット戦略で進んでて、しかもFCVのほうが将来有望だと考えているように見える。
※大型商用車のEV化については、バス・トラックのバッテリセル部がモジュール化されて、トラック向けの幹線ガソリンスタンドのような「バッテリ換装ステーション」でメーカーや車種を問わずに換装・課金される仕組みが整う可能性もあるんだけど(外付け換装型の商用EV自体は日本では川崎市のゴミ収集車などで、中国では大型トラックで導入されている)、かなり大規模なインフラ変革になるので、バス・トラック業界全体が早急にこの方向でまとまるとは考えにくい。
一方で、実際に大型商用車がEVとFCVのどちらに寄っていくかは、単純に技術的・コスト的な優位性だけでなく、社会や行政がモビリティの分野で「EVベースの電気社会」と「FCVベースの水素社会」のどちらがリアルな選択肢と考えるかによって大きく左右されるかもしれない。個人的には、大型商用FCVは技術的にはEVに対して現状優位にあるけれど、この「社会的なリアリティ」という点から見ると、だんだん厳しいことになっていくような気もする。国と資エネ庁は、モビリティ分野に留まらず我々の社会全体に水素というエネルギー源が浸透する「水素社会」という壮大な絵図を描いて、自家用FCVをその中核的存在と位置づけてきたわけだけど、自家用FCVの将来が怪しくなってきた今、「水素社会」というエコシステム全体にも、それが翻って大型商用FCVの未来にも、陰が差し始めているんじゃないかと。
資エネ庁の水素社会の見取図には、実現しつつある「水素社会」の具体例として、
が掲げられている。このうち①②は、ガス網を経由して送られた天然ガスを改質して水素を作り、さらにそこから電力と熱を取り出す技術だ。この反応過程に水素が介在していることで、「水素社会」の尖兵みたいな扱われ方をしてるけど、改質段階で結局CO2を排出してるので、実は全然カーボンニュートラルではない。天然ガスの持つ反応ポテンシャルを余すことなく高効率に使ってるだけ。
③④は、水素を何らかのインフラ経由で地上の固定設備に輸送し、そこで電気を取り出す技術だ。カーボンニュートラルな水素には、主に「グリーン水素」(再エネの電気で水を電気分解して作る水素)と「ブルー水素」(天然ガスなどを改質して水素を取り出し、同時に発生するCO2はCCSで地下や海底に圧入貯留する方法で生産される水素)の2種類があるけど、グリーン水素で③④をやるのは「電気で製造した水素を物理的に運んで、その先で水素を使ってまた電気(と熱)を作ること」に等しい。そんなエネルギーロスを繰り返すぐらいなら最初から送電網で送った電気を使えばいいわけで、基本的に③④はブルー水素でしかやる意味がない。
ところが日本政府が「水素社会」実現時期のベンチマークとしている2050年にはブルー水素はグリーン水素よりコスト高になるとの予想も、いや2030年にはそうなるという予想もある。そうなった時点で、③④は「電気より割高なエネルギー源」を使って電気を作る、社会的に無意味なアプリケーションになってしまう。
そう考えると、実は「水素社会」のビジョンって、石油・ガスなどの化石燃料エネルギー関連産業と、その産業に紐づく重電系企業・商社・省庁が、既存の資源や技術やインフラを使い廻しつつ「我々もカーボンニュートラルできます! やります!」つって延命するために目いっぱい膨らませてみた風船なんじゃないか、という気がしてきた。
エネルギー企業はこれまで通りLNGや石油を掘り、それを改質し、ブルー水素を取り出し、CCSでCO2を地中に送り込む。商社は既存エネルギーと同じようにそのブルー水素を輸入する。重電企業は既存のLNG火発のガスタービン技術を使って、ブルー水素で発電する。ガス会社は既存の都市ガス網やプロパンガス供給網への水素混入度を高め、情勢を見つつ緩やかに水素ガス供給網に転換していく。こういう、既存の産業構造がそっくりそのまま生き残れる「ありき」の姿から逆算して「水素社会」のビジョンが立ち上げられ、そこに①②③④が繰り込まれてるんじゃなかろうか、と思ってしまった。
このパンパンに膨らんだビジョンを針でつつくと、「水素社会」の絵図の中には⑤の燃料電池自家用FCV・フォークリフト・バス・トラックだけが残る。確かに「設備と送電網を結線して、そのまま電気を利用する」ことができない分野=非結線のモビリティ(自動車・気動車・船舶・航空機など)なら、エネルギーを一旦「水素」という物体に変えて持ち運ぶ必然性が出てくるし、コストや容量の面でも「送電網から無際限に送られる電力」ではなく「有限のバッテリに蓄電される電力」と競うことになり、水素陣営から見た競争条件はだいぶマシになる。でも前増田でも書いた通り、そのモビリティ市場の核となるはずだった自家用FCVは、技術的にだんだん死に筋に入りつつある。
…と考えているうちに、自分は大型商用FCVの将来にもそれほど明るい見通しが持てなくなってきた。「水素社会」の現実的な利用分野が大型商用FCVぐらいしかないとしたら、我々の社会はそれでも「水素社会」路線を推進するんだろうか。そのとき、FCV向けの高純度水素は現実的な価格で流通するんだろうか。もしかしたら大型商用FCVはEVに対する技術的優位性を発揮して、LPG・CNGバス/トラック/タクシーみたいに(一般人には馴染みが薄いけど、社会を支える縁の下の力持ち的な存在として)地道に普及していくのかもしれない。あるいは、この分野のためだけに「水素インフラ」を全国的に整備するコストを社会が負担できず、大型商用車分野でもバッテリ換装や超急速充電などを駆使してEV化が進んでいくのかもしれない。どっちにしても、いま官民が推し進めている「水素社会」の壮大なビジョンとはだいぶかけ離れた、なんだかシケた未来像が思い浮かんでしまった。
モビリティ分野の他に、「水素社会」の普及・浸透が見込めるような「これだ!」って新分野はあるんですかね〜。水素焼肉? 速い水素乾太くん?
医療が進歩したせいで、障害児が生き残れる世の中になってしまった。
産んだら最後、障害児が死ぬまで親が世話をしなければならない。
障害児が産まれるのは、遺伝と父母の生活環境、年齢が主に関係している。
アル中夫婦の子供、発達障害夫婦の子供、激務でコンビニ飯ばかり食ってる夫婦の子供、喫煙夫婦の子供。
見事な位に障害持ちじゃねーか。
それ1人産むって事は、巻き添え喰らう定型発達、健常人間が何人何十人何百人いるとか考えた事あるか?
ほとんどの親は考えてないだろう。
できないなら産むな。
障害児産むと、鮮度良い人間達がフォローに疲弊して腐っていく。
だから、障害児である我が子と、そんなゴミ産んだ私は死にたい。
我が子は、ただ生かされてるだけのゴミであり、将来有望でもなんでもない。
なんの役にも立たない。
生き地獄。
結局、今オリンピック推進しようとしてる偉い人を正当に非難するには、実際に悲劇が起きるしかない。けど、自分とか日本が犠牲になるのはいやなので、こういう形でおわらんかなー、と割とマジで思ってる。オリンピック選手には犠牲になってもらおう。
いや、民事再生申立前に全従業員は解雇されたので、「私が勤務していた」とするのが正しい表記なのだろう。
これまで何度も転職を経験しているが、勤務先が経営破たんしたのは今回が初めてだ。
一時は時価総額が1000億円近くまで増え、将来有望なスタートアップ企業として注目されていた会社の終わりは非常に呆気の無いものだった。
その日私は自宅から日本橋へ向かい、もう立ち入ることが出来ない本社オフィスビルをじっと見つめた。
大学を出てから、ずっと金融業界に身を置いてきた私が畑違いの当社に入社したのは何年か前の4月だった。
きっかけは知人からの紹介だったが、「IT化が進んでいない電力業界に革命を起こす」という社長の夢に惹かれ入社を決めた。
当時の新電力は雨後の筍のように異業種からの新規参入が続いていたが、参入業者は大まかに2パターンに分類出来た。
1つはガス・通信・石油元売など既存顧客基盤に対する電力販売を狙うインフラ系企業と、そしてもう1つは太陽光やバイオマス発電など自家発電設備を保有する新興系の企業。
当社はそのどちらのパターンにも当てはまらず、「AIによる電力需要の予測」という独自のやり方を売りにしていた。
通常の場合、電力需要の予測は過去のデータや気象データ等を元に行うので、かなりのマンパワーが必要となる。
それを当社はAIで行うため、運用コストが大幅に削減出来て、しかも予測精度が高いので電力の過不足もほぼ発生しない。
今にして思えば、当社はここで「旧一電へのプラットフォーム提供」という事業に特化すべきだったのだろうと思う。
そうすることで自社で多大なリスクを負わず、旧一電とも共存共栄の関係でいられたはずだ。
ところが当社は旧一電にプラットフォームを提供する一方で、事業拡大と自社AIの性能を誇示するため電力小売事業の拡大も進めてしまった。
パートナーとして旧一電と手を組みながら、その一方で自治体案件等を安値で落札し旧一電と敵対する。
電力の市場価格が安定している間はそれでも問題は無かった。ところがLNG価格の急騰により状況は一変した。
これまでは1kwh5~10円で推移していたJEPXのスポット価格が暴騰し、最安値で50円、最高値だと250円というとんでもない相場となってしまったのだ。
これについては色々な要因があるのだが、JEPXが歪んだ市場、欠陥を抱えた市場であることが最大の理由だろう。
JEPXにおいて電力の売り手は、ほぼ旧一電で占められている。つまり市場への供給量を容易にコントロール出来る立場にあるわけだ。
一方で買い手である新電力側はJEPX以外で調達する手段が無く、どれだけ高値をつけようが電力を買わざるを得ない立場にある。
もし仮に新電力会社が調達しなければならない電力量100のうち、50しか調達出来なかった場合どうなるのか。
新電力の契約者である法人個人に電気が行き渡らず停電となる、などということはなくて、各地の旧一電から調達することとなる。
この場合、自社での調達義務を果たせなかったというペナルティで、市場価格に更にインバランス料金を付加された額で電気を買い取ることとなる。
これが何を意味するか、新電力側はインバランス料金の支払いを回避するため、どれだけ暴騰しようが買い注文をいれなければならない。
一方で売り手の旧一電は「原発稼動しねーし、LNG高いし電力供給するのつれーわ、もうこれ以上市場にだせねーわ」と電力を出し渋った方がインバランス料金が付加されるので儲かる仕組みとなっているのだ。
これはもうマーケットと呼べるシロモノではない。豊富な資金量に支えられたインフラ系新電力は生き残ることが出来たが、財務基盤の弱い新興の新電力は資金繰りに行き詰った。
そしてこの局面で当社のもうひとつの弱点であった「取引金融機関とのリレーションの弱さ」が露呈してしまった。
本来なら取引行のまとめ役を引き受けるべき役目のメインバンクが支援に消極的姿勢を示したため、各行の足並みが揃わなかったのだ。
そして当社策定の再生計画についても全行同意を得ることが出来ず、取引行のうち一行が外資系の投資ファンドへ債権譲渡を行ってしまった。
一度崩れだしたバンクフォーメーションは非常に脆い。投資ファンドへの債権譲渡を行う銀行が次々と出てきてしまったのである。
ここで債権譲渡について簡単に説明しておく。債権譲渡には2種類あり、1つは銀行が1社との取引集中を避けるために行うもの。
代表例としてはみずほ銀行がソフトバンクへの超大口融資案件を一旦自社で引き受けたのち、国内の各銀行へ譲渡した案件で、この場合の譲渡はほぼ額面価格で行われる。
もう1つはいわゆる「バルクセール」と呼ばれるもので、回収見込の低い複数の不良債権をひとまとめにして投げ売りするもので、当社のケースは後者にあたる。
ただ通常のバルクセールと異なり、本件ではファンドは明確な意図をもって当社債権の買い集めに動いていた。
過去でいえば、過払い金訴訟に耐えかねて金融再生ADRを申請した消費者金融向けの債権を外資ファンドが買い集め、多大な利益を上げた事例もある。
当社のケースではなぜ外資ファンドが債権を買い集めているのか。ここからは推測となるが、ファンドの狙いは当社と首都電力との共同JV株式であったと思う。
当社は国内最大手の首都電力とJVを設立しており、この事業は好調に推移していた。
ただ、前にも言った通り、一方で手を組みながら一方で敵に回るというやり方を首都電力が良しとするわけがない。
首都電力は当社から役員や従業員を引き抜き、ソフトウェアについても無断で複製するなどして当社のノウハウをそのまま奪い取ってしまったのだ。
この件について当社と首都電力とは裁判で係争中であり、今後も協業は見込めない。
そこに目をつけた外資ファンドの手口は恐らくこうだ。まず当社債権を銀行から買い集める。通常のバルクセールなら相場は額面の1%なので、5%で提示すれば銀行側は喜んで譲渡するはずだ。
そして大口債権者となって発言力を高めたうえで、当社に対し裁判の早期和解を要求する。裁判の長期化は両者にとって望むところではない。
首都電力サイドにしても裁判で争った先にJVの株式を保有されたままではまずい。「JV株式の適正価格での買い取りを条件として早期和解を」と提示されれば恐らく呑むだろう。
ファンドがJV株式の価値をどの程度に見積もったのかは分からないが、事業規模や資産背景から考えると20億円は下るまい。
JVの出資割合は首都電力60%、当社が40%なので当社保有分の価値は8億円。当社の負債総額60億円に対して株式売却額を全額配当した場合の配当率は約13%になる。
ファンドが債権を簿価の5%で買い集めたとすれば差額の8%がファンドの利益となる。彼らは全体の3分の1、20億円程度買い集めていたので20億円の8%を利益として抜く計算だった。
結果として彼らの目算は、当社の民事再生申立によって完全に狂った。管財人がJV株式をどう評価するか分からないが、当初の見立て額には到底及ばないだろう。
私は日本橋の本社オフィスをあとにすると、そのまま東京駅まで歩き山手線へと乗り込んだ。
今日はどうせ何の予定もない、こういう日は憂さ晴らしに限ると決めると、鶯谷で電車を降りた。
適当に飛び込んだ店は平日の昼間ということもあって空いており、「この子たちなら待ち時間無しでいけますよ」と店員がパネル写真を数枚見せてきた。
ここからが真剣勝負だ、私は全神経を集中して写真を凝視した。この手の写真は多少修整されているので各パーツを見ても駄目、全体を・・・大局観を大事にしなければ・・・
全身写真と3サイズに違和感がある子は消し、下半身が写ってない子は腹回りが怪しいので消し、と私は脳をフル回転させ1億と3手を読む勢いで分析を続けた。
「いくらAIが進化したところで、こんな作業は人間の感と経験が一番なんだよ」と思いながら、私は一人の女の子を指名した。
店員に奥に通され、部屋の前で女の子と目が合い、そのとき私の体には電流が走った。
「いやこれ多少の修正とかそういうレベルじゃなくて、完全な別人だろ。こんなのならパネル写真見る意味ないじゃないか!」
膝から崩れ落ちそうになるところを必死に堪えながら、私はこう呟くのがやっとだった。
「・・・これ・・・・・・パネ・・・・・・要る?」
好きになったコンテンツはそのファンにも興味がわくので、当然ファンのみならずアンチたちの言ってることも見る。
5chのアンチスレもだし、Twitterやnote、増田、その他いろいろなネット上の色んな場所でのアンチやファンの発言を追って楽しんでいる。
それで気づいた傾向なのだが、
・法や倫理面で叩かれ、不誠実だ・許せん・軽蔑する・有害だなどと大義名分のある批判を言われている場合は、むしろコンテンツ全体の勢いには大して問題がない
・退屈、まんねり、しょぼい、地味、ぱっとしない、などと大義名分のないいちゃもんじみた叩きがされている方が、そのコンテンツが勢いを失う兆しとして危険
ということが言えそうである。
悪名は無名に勝ると言うが、その悪名の中にも言われてる方が将来有望な叩かれ方と、これを言われだしたらヤバいという叩かれ方があるわけだ。
そして、一見ダメージの大きそうな、理屈の通った叩かれ方のほうが将来有望の吉兆であるのが興味深いところだ。
いや、不正義こそが大成するのだからやるせないところだと言うべきかな?
コミュニティの雰囲気を思い出せるのはせいぜい5年くらいなので、それ以前はどうだったか言及を避けるが、とりあえずこの5年は色んな分野でこの流れが多かった。
言っちゃあなんだが、法的・倫理的瑕疵というのは、マジで訴訟開始されなければどうってことないのだ。
法的に明らかにダメで「訴えられたら負けるな、訴えられちまえ」と言われてても、本当に訴訟されなければ全然セーフだ。
エグくてお行儀の悪い成長戦略をとっている方が、悪評以上の速度でファンが増えるのでお得! これは娯楽分野における法則のようだ。
客層が悪くなる? それもむしろアドね。
ちょっとガラと頭の悪い客層の方が、依存してくれたり、後先考えず金を払ってくれたりするんだもん。
上等な商品をハイソな客に高値で売りつけるなんてのはごく限られたジャンルでのみ可能なことだ。
一般娯楽でちょっと客層が良くリテラシーがあるってのは、感情任せのお布施も少なけりゃ広告も踏んでくれない、必要な時にしか金を払ってくれないくせに質への要求のうるさい、面倒な客を抱えてるというマイナス要素である。
「信頼が毀損されて長い目で見れば損」なんて言いたくなるかもしれんが、えげつないやり方で一通り稼いだあとで、多少の品質向上に金を回すようになれば、消費者も他社企業も、勃興段階の悪印象なんか水に流してニッコリ握手してくれるのよ。
これはここ五年と言わず、ソシャゲの隆盛や、調子よかった時のニコニコ、著作権違反が溢れるコミケに企業が堂々とブース参加してる現状などを見れば分かることである。
お行儀が悪くても勢いのあるコンテンツ運営をした方がファンが増える。特に今後の社会を担う若い層を取り込みやすいのが大きい。
勢いがあるのでファン以外の目にも入るようになり、倫理や行儀の悪さについて正論でボコボコに叩かれまくるが、クリエイターの精神的ダメージ以外は別に問題がない。
ファンもアンチも過熱する、それこそが圧倒的成長中コンテンツである。
つまり、アンチの叩きに一理ある時ほど、それは無視してよいというわけだ。
だが、叩かれ方が、なんか退屈、なんかまんねり、しょっぱい、みたいに漠然としたつまらなさの指摘が増えてるとマズい。
この手の叩きには「その文句のつけ方、ただのお前の主観じゃん」と反論することが簡単だ。
しかしこのような、大義名分のないアンチの身勝手な叩き、あるいはぼやきこそが、暗い未来を予感させる。
灼熱の炎上嵐ではなく、わびしい隙間風によってコンテンツは衰えていく。
アンチや愉快犯の炎上を真に受けるのは賢くない。だが、(特にはてなーのような)良識派がやりたがる「アンチが言ってることはいっつも的外れ」と簡単すぎる理解をするのも賢くない。
娯楽コンテンツにおいては、アンチの発言に筋が通っている時ほどその叩きは気にしなくてよく、ぼんやりした退屈さや地味さをじめじめと主観的に叩かれてる時ほど危機を感じなければならない。このパラドックスを俺は提唱したい。
地域で一番の進学校(といっても、全国的には”自称進学校”レベルで旧帝大早慶合わせて10人くらい)。
旧帝大早慶レベルに行った人で、その後、エリート的な仕事に就いた人は、ほぼ全員高校時代陰キャ。
逆にスクールカースト上位だった人は、ほぼ全員エリート職には就かなかった。みんな地元に帰って公務員や教師、地元企業のサラリーマンをしている。
田舎の学校で、スクールカースト上位になるような人たちにはヤンキーぽさがある。
しかし、そのヤンキーぽさはエリート社会では受け入れられない。
一流大学は育ちの良い人あるいはアスペばっかりなので、ヤンキーぽい人は浮いてしまう。
就活でも一流企業を受けると、面接官に育ち悪いなと思われて落とされてしまう。
だから、地元に帰るしかない。地元だとそういうヤンキーぽさは肯定的に評価されるからだ。
高校時代陰キャで、大学デビューしたような元ガリ勉がエリート企業に入ったり、大学准教授になったりしている。
エリート社会になじめる素質のあるような人間は、田舎では迫害されるのだ。
高校時代、スポーツも勉強も出来て、クラスの中心にいる、そんな将来有望な人たちの将来は実は暗かった。
タイトルのオトナ帝国はご存知2001年に公開されたクレヨンしんちゃんの映画からの概念なので同世代には伝わると思うが、一応簡単に説明を入れると大人が過去を懐かしむあまり子どもたちを見捨てて自分たちの楽園を作ろうとする話である。
10年来20年来のコンテンツの再アニメ化、再連載などリバイバルブームが来ている。
中には自分たちが子どもの頃楽しんでいたものもあって喜んでしまうときもある。
でも喜んだ後に「これはオトナ帝国なのではないか…」と考え込んでしまうのだ。
今自分がリバイバルを楽しめるのは過去に大切な作品と出会えていたからだ。
しかし今の子どもたちが楽しむコンテンツの育成のための予算や人員や連載枠放送枠が大人向けのリバイバルによって奪われてないだろうか…?
今現在進行形で作られてる漫画があったとしてどんなに頑張ってもリバイバルにアニメ化枠や予算が埋められてるので評価されないとクリエイターのやる気が下がることはないだろうか…?(これについてはジャンプのような大きい雑誌よりも規模小さめの雑誌で気になる)
歴代○○大集合型の売り方をするシリーズ作品も増えてきたが○○シリーズが熱烈的に大好きで一部の将来有望な子どもではなく、なんとなくで今のシリーズが好きで見ている多くのライト層の子どもは歴代キャラの登場を楽しめているのかどうかも本音では気になる…
某少女漫画雑誌の付録も歴代レジェンド作家のイラストを使ったものになっているときがあるが連載すら読んだことない四半世紀以上前の作品の付録をもらってあれで本来の子ども読者は喜んでいるのだろうか…?(自分だったら喜ばない)
疑問符が多いがこの記事はリバイバルをdisっているのではなく(上にも書いたが自分自身喜んでしまうこともある)今の子ども達のためのリソースにオトナ帝国のエゴを押し付けてないかが気になって手離しに喜べないことを書きたかった。
小学生の時初めてオトナ帝国の逆襲を見てあの序盤の大人達のようになるのではなくしっかり未来を作っていこうと思ったはずだった。