はてなキーワード: 告別式とは
何かと思えばニュースになってたんやね。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151004-00000022-sph-soci
分裂が決定的となったのは、山岸氏の告別式が執り行われた4月8日だった。田内川氏らによると、焼香を終えると、雨が降る中、葬儀が終わるまで外で待たされ、火葬場の場所も知らされなかったという。「せめてマスターと最後のお別れがしたい」と火葬場を探し、たどり着いたが「身内だけしか入れない」と、古参を含め約20人の弟子は門前払いを受けた。
飯野氏は味が素晴らしいのかもしれないが、人格が最低ってことでおk?
一方、山岸さんの下で修業した後、「のれん会」には所属せず、現在、人気ラーメン店を営む男性店主は「うわさは聞いていたけど、自分には関係ないこと。『あっ、そうですか』という感じ」と冷ややかな反応。「(旧本店で)マスターが、鍋の前に立たなくなった2002年ごろから大勝軒は終わっていると思う」と話した。
http://d.hatena.ne.jp/higayasuo/20150827/1440647815
Seasarの名前を語って、Seasarとは全く無関係なことを、ひがやすをはこんなに攻めてますってカンファレンスで宣伝するの?本当ダサい。
どうせこのダンスもそのうち放り出して、また適当に何か始めて、ひがやすをはこんなに攻めてますとか言うんでしょ?
少しでも期待してた俺がバカだったわ。
本当がっかりだよ。
今回のSeasarカンファレンスは、Seasarのカンファレンスどころか、同窓会ですらなくて、Seasarはこれで名実ともにお終いですってのを知らせるための会じゃねーか。
たまさん死去
たまさん(たま=和歌山電鉄社長代理、常務執行役員)22日夜、急性心不全のため和歌山県岩出市内の病院で死去、16歳。紀の川市出身。自宅は和歌山県紀の川市貴志川町神戸803番地の貴志駅構内。葬儀・告別式は近親者のみで済ませた。社葬は28日午後0時半から、貴志駅で営まれる。喪主は、たまの飼い主の住友利子さん。葬儀委員長は同電鉄社長の小嶋光信氏。
2007年1月5日に和歌山電鉄から貴志駅長に正式に任命され、日本初のネコ駅長となった。就任後、たまさん目当ての観光客が増加し、08年には課長職に相当するスーパー駅長へ昇格し、県から和歌山県勲功爵を叙勲された。さらに10年には執行役員へ昇格し、貴志駅もたま駅長をモチーフとしたものへ改築された。翌11年には常務執行役員へ昇格し、県知事より和歌山県観光招き大明神の称号が与えられた。13年には社長代理に就任したが、近年は高齢のため部下であるネコに実務を任せ名誉職として時折、利用者への挨拶をするにとどめていた。先月、動物病院で定期検診を受けたところ鼻炎であることが判明したため19日から療養し、入退院を繰り返していたという。
はてブで上がってたこのページを見て、俺も最近爺さんが亡くなった時に葬儀のお手伝いをしたので忘備録がてら書いてみる。
親(私にとっては祖父)のコネで大企業に入り、転勤なんのその勤め上げ、退職後資産運用に失敗、アル中から脳梗塞痴呆で5年間寝たきりだった父が死んだ。
家庭を顧みない父だったが気の小さな優しい人だった。本社で祖父に見張られるを嫌がり、地方を転々として、私達も10数回の引越しについていった。
祖父が死んでから、東京に戻り祖母が同居することになった。気位の高い人で、私達家族を見下げていた。当時高校生の私を筆頭に家庭は荒んでいき高校を卒業する子供達はと次々家を出た。
祖母が死んだ後、妹達に財産放棄させた父は浪費のあげく騙されて資産を失い、うつからアルコール依存症になった。
たまに孫の顔を見せにいくと飲んでいるかこれから飲むか、飲みすぎて寝ているかだった。
母や私達の言うことを聞くはずもない。隠れて飲み、断酒会も続かず、強制入院を考え始めた矢先、脳梗塞で倒れた。
母は専業主婦だったがパートで稼ぎ、自分のへそくりから返済した。
二回目に脳梗塞の発作が起きて、母は父を病院に連れて行き、発作がおさまった後、自宅に連れ帰ることを拒否した。
父は精神病院に入り、三ヵ月後完全に廃人となり、要介護で施設に入った。
あれから二年経ち、先日ようやくお迎えが来た。
遺体の口に酒を注ぐと、笑っているように見えた。
親が転落していく時、子は無力だ。
私は、父を助けられたはずである母を恨んでいる。私は長女で、父が好きだった。小学生のころ、父は母のものだと理解して以来、母恨んでいたような気がする。
大好きだった父や祖父と同じ墓に入れないと言われた時に、母を憎いと思った気がする。
私は長女で、祖父の家で生まれて(弟たち里帰り出産だった)、立派な門のあるあの家に毎年預けられていたのだ。
あの家の嫁としての勤めを果たせず、身代を食いつぶした母を私は許せない。
今まで迷ったことはあったけど、それは複数の選択肢でどれにするのかという悩みであって、今とは違う。
今はどう生きればいいのかわからない
あまりに突然で、朝見送ったときはつわりはあったけれども、元気だったのに、死んだ。
薄目を開いてこっちを見ている。
泣き叫ぶことしかできなかった。
本当に、何もかも信じられなかった。
妻が死んだことも、自分がなんでここで泣いているのかもわからなかった。
嘘であって欲しかった。
本当に嘘であって欲しかった。
妻は子供が生まれるのを心底楽しみにしていた。
ありがちなのかもしれないけれども、生まれる前から男の子でも女の子でもいいように二つ名前を考えた。
あと、男の子だったら春馬は?
と妻。
でも春馬はちょっとなー。
なんかいまどきっぽいし。
伊織は?
と俺。
伊織なんて変な名前なんて言ってたくせに、翌日には男の子だったら伊織ねなんて言ってくるから、こっちはたまったもんじゃない。
ベビーカーもいるよね、アプリコットってメーカーがいいらしいよ、あと他にもベビーベッドとかいろいろ買わなきゃね。
あんたに似たらキツネみたいになりそうだから嫌やわーとクスクス笑いながら言った。
そのあとのお通夜と告別式の準備も、非日常すぎて全く現実感がわかなった。
多くの人たちが来てくれた。
妻の友人や会社の同僚、上司、俺の友達が泣いているのを見て、やっぱり現実なんだと自分も泣いた。
なによりもそんなみんなを前にして、何も反応しない妻は、生きているみたいなのに、やっぱり死んでいた。
いつもみたいに、半目を開けた間抜けな顔だった。
一週間、仕事を休み、事故の時に居合わせた医師の方にお礼を言いにいき、少しでも事故の内容を詳しく知るために警察に行った。
でも、ただただ、つらい現実を知るだけだった。
妻が死んでから、仕事が忙しくて、こんな時に何やってんだろうと思いながら、働いて、とりあえず、今日一段落したからこれを書いている。
ただ、そこにいてくれることが、どれだけ自分のことを支えてくれいてだろうと、今さらながら思う。
とびきり美人でもない。
帰ってきても横になりながらテレビ見てる。
口を開いたら憎まれ口ばっかりだし、自分勝手なところもあった。
でも、普段は当たり前すぎてわからないその存在が、いてくれるだけなのに、その存在は間違いなく俺に生きる意味を与えてくれていた。
俺が世の中にいていいということを、家族以外で唯一肯定してくれていた人だと、今はそう思う。
当たり前の存在だった妻は、そこにいない。
もう、どうやって生きていけばいいのかわからない。
私は祖父が嫌いだった。
祖父は他人のいうことを聞かず、自分の意見を通すような人だった。
良く言えば自分の信念を貫く人なのだが、悪く言えばわがまま、傍若無人。
祖父は自宅で死ぬことを望んだ。
しかし、介護認定される前、というかその診断された次の日に祖父は勝手に退院してしまった。
つまり、家で介護する人間は私の他におらず、当時同居していた私が介護をするしかなかった。
アルバイトであったが、それなりに楽しく続けていた仕事であった。
なので、初めは拒否した。
しかし、祖父は
と言われ、10年続けたアルバイトをその日で辞めることになった。
祖父の電話1本で。
まともにやったことのない、しかも嫌いな祖父の介護をすることになった。
非常に憤ったし、他の家族にも相談したが、私が介護せざるを得なかった。
祖父が亡くなる1週間前まで、私は介護をした。
なんとか介護ベッドを取り付け、尿をとったり、洗濯したり、料理を作ったり、床擦れにならないよう体位を変えたりした。
しかし、私には介護の専門知識はなかったし、非常に苦痛であった。
祖父が恥ずかしがるあまりに尿をこぼしてしまったり、料理はほぼ食べなかったし、体位交換は重いし、
肉体的にも精神的にも疲れていた。
そんなある日、祖父は風邪をひいた。
私はお医者さんに診察することを祖父に勧めたが、祖父は病院に入院させられると勘違いしたのか、激しく拒絶した。
それでも私は祖父に対し、丁寧に説明したが、わかってもらえず、言い争いに発展した。
「お前はおれを見捨てるのか!お前なんか家族じゃない!」
と私は激昂された。私はすでに泣いていたが、もうどうしようもないと思った。
祖父は在宅診療されることになったが、日が進むにつれ風邪は酷くなり、結局、救急車で病院に運ばれてった。
祖父の再入院が決まったその日、私は熱を出した。
インフルエンザだった。
死に目に会うことは出来なかったどころか、病院で入院手続きをした時に熱が出たのでお見舞いに行くことも出来なかった。
告別式のとき、悲しいなと思ったが、そこまで深く考えなかった。
祖父が死んでから2ヶ月たった今、ある配信で配信者のご家族が亡くなったことが知らされ、
そういえば、祖父が死んでから2ヶ月たったのだなと振り返ることとなった。
しかし、今、猛烈に後悔している。
仲直りしたかったなんて全く思ってない。
清々した。
だが、この激しい後悔はいったいなんなんだ?
死は誰にでも必ず訪れる。
死んだ人間とは二度と会うことはない。
そして、死んだ人間を憎しんでも何も変わらないのだ。
・ただごとじゃなさそうだったので救急車を呼んだ。
・救急車到着、即行病院搬送かと思いきや、「普段服用している薬は?」「持病は?」「保険証は?」とか色々訊かれた。それが死の原因ではないけど、かなり焦ったしイライラした。
・服用薬のリストを作って、保険証と一緒にわかるところに置いておくといいかもと思った。特にある程度の年齢になったら。
2.死んだとき
・今まで特別病気とかしたことのない人だったので、ただただ急過ぎて意味が分からなかった。
・死因は大動脈瘤破裂。これと心筋梗塞と脳梗塞とくも膜下出血あたりが突然死四天王みたい。
・死んでからすぐに「どこの葬儀屋に頼むか決めてくれ、ここで」と言われた。マジか。
・結局農協へ依頼。
・シンプル火葬とかのサービスもあるけど、その辺を利用する決断をこの場で下すのは難しい気がした。故人が生前からシンプル火葬希望の旨を周知徹底しておくとかでもない限りは。葬儀業界は市場原理とかあんま無いみたいで、地場に根付いているかがほぼ全て。
・逝ったのは月曜だけど、最寄りの斎場が混んでるらしく通夜告別式は次の土日に行うことに。冬の方が他の季節より死ぬ人が多いみたい。
・「今くらいの寒い時期なら、ドライアイス敷いとけば一週間近くは平気でしょ」とのこと。そんなわけで我が家に仏が5泊。
・その日の内に葬式の見積もりとか色々もらう。誰が花をいくつ贈るかとかそんなのに気を遣う。本当はそんなことより泣きたい。
・実際、すぐ焼かないで何日か一緒にいられたのはラッキーだったのかもしれない。
・納棺した仏に顔を近づけ過ぎると、ドライアイスから放たれた二酸化炭素をめっちゃ吸い込むので注意。
・戒名たけーよ。1文字3万円くらいよ。いっそ戒名ジェネレータとかあればいいのに。
・どこの誰なのか正直よくわからない人達が何人も来る。でも、ありがたい。
・離れて住んでる親戚とかって、盆と正月と身内が死んだときくらいしか会わないね。
・アサヒスーパードライがめっちゃ届く。エビスとかプレモルは何となくダメで、こういう場だとスーパードライなのかね。ウエットな場なのにね。
・坊さんが地味めの袈裟で登場。何を言ってるのかよくわからない。
・式の司会担当のおばちゃんがやけに抑揚をつけた声で「天国から見守っていることでしょうーー」とか話す。三文芝居みたいで興ざめ、でも、泣く。このおばちゃんに3万円。
・寿司やらを皆で食べる。会場には瓶を下げてくれたりするおばちゃんが3人。このおばちゃん達に一人当たり1万円。
・嫌味なくらいに気持ちのよい朝。
・昨日よりもかなり高級そうな袈裟を纏い、坊さん満を持して登場。相変わらず何を言っているのかは不明。
・式が終わり、皆で棺に色々詰める。もう焼かれてしまう。仏をよく触る。泣く。
・「1時間程度で火葬が終了しますから」と、待っている間にまたプチ宴会。酒を飲むも、酔えない。
・「ご遺族の代表の方は、遺骨の確認をお願いします」のアナウンスを受け、席を立つ。
・頭蓋骨とか大腿骨とか、丈夫な骨はちゃんと形を保っているものだと思っていたが、かなり強い火力で焼くらしく、全部ばらばら。自分の時は、ミディアムレアくらいがいいな。
・確認とか言われても、こうなっちゃ誰のを出されてもわからんわ。
・その後みんなで骨を拾い、壷に入れて帰宅。
6.帰宅後のこと
・帰って早々に諸々の清算。いっそ前払いでクレジット決済とかにして欲しいわ。
※今ここ
学校から家に帰るとオヤジに投げ飛ばされ失神し倒れていた時もあった。
俺は二人とも好きだっただけに辛かった。
多くの思い出は夫婦喧嘩ばかり。近所に住んでいたおばちゃん(母の姉)に「すぐきて~っ!」て呼びに行ったことは数えきれない。
原因は親戚関係にあった。
誰かに病気や不幸があれば「仏壇の管理が悪い」とイチャモンと付けに来る。
オヤジにではない。母さんにだ。
そんな親戚を私は今も恨んでいる。
そして母を守らなかったオヤジも恨んでいる。
母の母、ばあちゃんがボケてからというもの、良くある話が頻発。
「誰々の家ではご飯を食べさせてくれない」
「誰々が誰々の文句を言ってる」
ウチはオヤジの仕事の都合で転勤があってばあちゃんを引き取ることができなかった。
短い間ではあったが面倒を見ていた母の兄の転勤を機に病院へ入れることに。
ばあちゃんは「・・・・(母さん)と一緒に住みたい」と言ったらしい。
しかしそれはできなかった。
なぜかは分からないが母は兄弟姉妹に入院するまでそれを言わなかった。
おばちゃんにだけ伝えていた。
母は袋叩き。母対一番下の妹との取っ組み合いの喧嘩も見せつけられた。
私が小学2年の頃。40過ぎた今もはっきり情景が焼き付いている。
母の手術後もだれも見舞いにすら来ない。
回復後も同じ。
オヤジ方もそう。
おばちゃんだけが拠り所。
それを気遣ってか、親もおばちゃんも1万円くれる。
だから毎年2万円。まあ友人たちよりは少なかったが不満はなかった。
私が小学6年の時、母の癌が再発する。
後から聞いた話だが、オヤジには医者から余命2年と告げられていたらしい。
でも私もある程度悟っていた。
入退院を繰り返す。
その度に痩せていく。
私がギターが欲しいと言ったら母の同級生からギターをもらってきてくれた。
中学2年の頃、思い切って、エレキギターが欲しい、と言うと「いいよ、上手くなったもんね」。
当時は高価だったエレキギターとギターアンプを買ってもらった。
おばちゃんに「私は反対だな」と言われたとき、冗談で「何かあるのかな?最近全然反対しないんだよ」といったらおばちゃんの血相が変わった。
明らかに動揺していた。多分おばちゃんも悟っていたのだろう。
「ま、まああんたは勉強も部活も頑張ってるからじゃないの・・」とだけ言われた。
入退院を繰り返す。
入院のきっかけは呼吸困難。私はたまたま直面しなかったが、姉が2度救急車を呼んだ。
そして2,3週間で退院。
もう確定だ。母さんの体は小さくなり、顔や肩にこぶができ始めていた。
ご飯は自分で。洗濯も自分で。家の掃除は気が付いた人がやる、という暗黙のルールができていた。
たまたま友達が腎炎になり数か月入院していたので見舞いがてら学校帰りに病院に遊びに行っていたようなものだ。
それでも母は喜んだ。友人も母といろいろ話せるようになっていた。
しかしこの頃から急激に体が弱り始め、会話もやっとの状態になった。
4月に入り、急に疎遠だった親戚連中がやってくるようになる。
「ごめんね、ごめんね」と泣きながら話しかける奴ら。私にも「久しぶりね、元気だった?大きくなったね」
鳥肌が立つ。なんだこいつら。
同時に母の死期が近いことが分かった。母を見て明らかだ。そして個室へ移された。これは常識的に「最後」であることを意味する。
姉と冷静に話す。
「そうかもね・・・」
その3日後、早朝に電話が鳴る。
「来たな」
「来たね」
病院に着くと呼吸困難の発作が出ていた。
ほとんど口をきけなかった母が叫ぶ。聞いたことのない大声で叫んでいる。
そう叫びながら処置してくれている先生の白衣をぐいぐい引っ張っている。
先生も大声で「大丈夫!大丈夫だから!ちゃんとやってるからちょっと離して!注射打てないでしょ!」
ヤバかった。見ていられなかった。計器の音と叫び声だけが響き渡る病室。
小一時間ほどで状態が落ち着く。その日は日曜だったが私の部活の催しがあった。
オヤジに「落ち着いたようだから行って来るわ」と言い残し、家に行って道具を持って体育館へ。
着替えていると体育館の職員さんが大声で呼びに来る。
「親戚の人が来ているよ!急いで!」
事情を聴いたんだな。それよりも「あちゃ~来たか」という感じだった。
仲間に聞かれても「いや、そのうち分かるから」と言い残して病院へ急ぐ。
到着したとき、母さんは亡くなっていた。
タイミングよく集まった親戚中が泣いている。
この時初めてオヤジの涙も見た。
でも私は不思議と涙が出なかった。「やっと楽になれたね」という気持ちが強かった。久しぶりに見る母の安らかな顔。
人とは不思議なもので、毎日痛みに襲われ続けると表情や顔のカタチすら変わってしまうものなのだ。
手を握るとまだ温かい。
私は一言、「お疲れ!」。
周りは煽る。私を泣かせようと煽る。なぜ泣かないのか、悲しくないのか、とまで突っ込んでくる。
いい加減、ついに私がキレる。
「おめぇらに何が分かる?!うるせぇんだよ」
病室の外でも言い合いが。
オヤジと私を迎えにきた親戚だ。
「なぜ(私を)行かせた?!誰が許した!」
「俺だ!何か文句あるか!」
胸ぐら掴みあってる。
私が割って入る。
「アンタに何が分かる?俺は見ていられないから行ったんだよ!ドラマみたいな場面作られても満足するのはオマエらだけだろうが!母さんは分かってくれてんだよ!」
で、全員に
「つうか、てめえら急に兄弟ぶりやがって何様だおらぁ!」と壁パンチ一撃。看護婦さんに止められる。
中学3年のガキとはいえすでに身長は180cm、体格は大人、しかもヤンキーときた。誰も止められない。
シーンとする。
「アンタのムスコ、やっぱり立派になったよ。いい子だねぇ。育て方間違ってなかったよ。あれだけ辛い思いさせても大丈夫だったんだよ」
「お母さんね、いつも私に言ってたんだよ。教育上良くない場面を何度も見せてきた、母親らしいこと何もできなかった、一番母親が必要な時までいてやれるかな?って」
兄弟姉妹たちはぐうの音も出ないで押し黙る。私はその一言で涙腺崩壊した。
通夜には大勢の人が訪れた。クラス全員、姉のクラスも。そしてオヤジは金融機関勤めだったのでその関係者。豪勢な式になった。
遺族席でいるとひときわ号泣して要る奴がいる。あの母と同時期に入院していたアイツだ。
聞くと、私がいない時も母の病室に行き、母と話をしたことがあったらしい。
その時に「あの子をよろしくね。これ内緒でね」と毎回言われていたそうだ。そいつの退院が決まった時も車椅子で声を掛けに来てくれたという。
そいつもそんな人前で涙を流すような奴じゃない。この話を後から聞いた時の方が参った。アイツも参ったらしいが。
親戚は帰るときも「これからはちょくちょく連絡取ろうね」と言い残したが、
おばちゃんから伝え聞いた話によるとその後も親戚関係はぐちゃぐちゃだったらしい。
母と取っ組み合いの喧嘩をした妹は旦那が会社の金を横領、その穴埋めができずに旦那が夜逃げ。
家を取られまいと抵当権を外すために兄弟じゅうに借金。子供の学費の工面で借金。
もう何年も前に話なのに誰にも一銭も返していないことでいまだにモメているという。
誰でもどこの家庭でも何かしらの問題は持っている。
しかしウチの親戚連中は結構ひどいな。みんな仕事は立派なのだが。
今はおばちゃんも亡くなり、長兄も亡くなり、オヤジ方を含めみんな年老いた。
生きていても、離婚した人、精神病院に入ってしまった人、奥さんが自殺した人もいる。
某携帯キャリアの開発部門で立派にやっている人もいるし、教員も多い。みんないろいろなんだ。
親族間のつながりの希薄化が言われているが、悪いことばかりじゃない。
遠くの肉親より近くの友人。
的を得ている。
でも親族が円満な人たちがうらやましくなる時もある。
母さん、おばちゃん、俺はこの生き方でいいのかな?
事あるごとにどちらに進むべきか聞いてきたけど、言う通りにしてきたぜ?
自分なりに全力も尽くしてきた。
母さんに言われた通り「どんなことがあっても女性に手を上げてはいけない」も厳格に守ってる。もちろんムスコにも同じように伝えてる。
最近いろいろ考えるんだ。
今、心を病む寸前かも知れない。声が出にくくなってきた。震える。人と会うのが怖い時が多くなった。
でも無理矢理「これでいいのだ」と言い聞かせている。
これでいいのかな?
やりたいことはたくさんあるんだけどな。
上手く行かないことばかりでさ。
そうなったら俺一人になるな。
一人でやって行けるかな?
なあ、どうして最近出てきてくれないんだ?
間違ってるなら間違ってるって言ってくれよ。
あの頃あったはずの自信がないんだ。
知り合いが死んだ。
その人は大学時代のオタ系サークルの1年先輩で、その後もOB集団の
いろいろあって、我慢できなくなって、その集団からは決別した。
理由はここに書いた。
(↑実際にADHDの診断を受けたら、俺はシロだったんだけどね。
そこは、まあ、話を盛った。
なんで、とっとと決別しなかったのかって?
他に同じ趣味の集団が見つからなかったのと、あとは、まあ共依存かな。
宅八郎みたいな分かりやすい気持ち悪さは無いかわりに、もっと厄介な
事があってね。
「俺のほうが精神年齢が高い」
「いやいや、俺のほうが社会の道理をわきまえてる」
っていう、「俺は幼稚じゃないぞ!」っていう防衛意識と
つばぜり合いが凄いのよ。水面下でね。
知ってる人は『究極超人あ~る』を思い出すといい。
あれは、あ~る君っていう、無条件にタフで、悪意に対して
限りなく鈍感ないじめられっ子が居ることを前提にした
で、結果として、イベント、合宿旅行、ボードゲーム、なにをしても、
ダメ出しが飛び交う飛び交う。
この人、あからさまな意地悪は(シラフのときは)しない人だったんだけど、
その代わり、「俺は自分にも厳しいが他人にも厳しい」っていう
バリバリ飛び出すダメ出しに、自分がモヤモヤとした怒りを感じてた
1人だった。
(断っておくけど、人当たりは良かったのよ。
自分が認めた人に対しては)
しかも、SFファンダムって、なぜか"酒飲みであることを自慢する"って
変な文化があってね、
それで、酒が入ると、カラミ酒、説教酒、意地悪酒のオンパレード。
俺はいまでもそう思ってるんだけど、彼らは酒が入るから攻撃性が
アップするんじゃなくて、攻撃性を丸出しにするエクスキューズ、
正当化の道具として、酒を飲んでるんだよ。
あとから、「まあ、酒の席のことだし」って無理やり話を収束させちゃうんだよね。
あるとき、その人のカラミ酒を前にして、
「あ、ダメだ。
俺が無能とかマナー知らずとか、それ以前の問題として、これ以上ここに
と思ったから、距離をおいた。
その引き金が、彼だった。
でもね、死んじゃったんだよ。
「死んじゃったら何にもならないじゃないか!」
って気持ち。
社会性の高さには一目も二目も置いていた。
連絡を断って10年近くになるけど、あのまま壮年、中年になってたとしたら、
目上からは「使える奴」、目下からは「頼りになる人」と思われてただろう。
誠実に、かつ巧みに社会で勝ち組になることに最適化された人柄で、
人もうらやむ超一流メーカーに就職して、可愛い嫁さんを学生時代に
つかまえて、子供が中学だか高校だかに行ってて、友人に恵まれて。
それが一人で海だか山だかで死亡事故だと? アホか!
この年になるまで職を転々として、いまだにボッチで独り者の俺が
死んだ方が、まだしも世界の仕組みとしてはフェアだ。
「じゃ、替わるか?」って聞かれたら、うん、断るだろうけど。
我知らず長くなったが、今の問題は、弔電一本で済ますか、それとも
旧知の人間がたむろしているところに
と顔を出すかどうかだ。
どうしよう?
先週母方の祖母が亡くなった。
小さい頃は家が近かったこともあり、祖母には頻繁に面倒見てもらってたし、
遠方に引っ越してからも盆正月は会いに行って一緒にご飯食べて話して、縁遠かったという事はない。
そして先日、そんな親しい人が亡くなった。
26歳にして初めて初めて親しい人を亡くした。
訃報については亡くなる数日前の時点で「そろそろ覚悟決めて」って親からメール来てたから、さほど驚かなかった。
訃報聞いてからすぐに飛行機で祖母宅にいって通夜、翌日に告別式やって帰ってきた。
危篤の連絡時点で覚悟を決めるために、祖母が死んだらどう思うか考えたし、
実際に対面したときから遺骨を拾うときまでの想像とのズレも確認した。
驚いたことに、一貫してそんなに悲しくなかったのである。
この考えを放置することは、社会生活を営む存在が幸福を享受することを目的とすれば、非常に「良くない」。
原因は特定して公開するべきであり、可能なら思考を変更し、最低でも自分の中で落とし所を作る必要がある。
そんなわけでこの数日間で思いつく限り可能性を出した。
自身の中で腑に落ちた原因を以下に記載する。
真っ先に思いついて胸糞が悪くなった。
ただ一件唾棄するべき原因に見えるが、そればかり考えて他の事に手がつかなくなる事はより悪い。
本能的に感情の配分を調整しておめでたい心になっている可能性は否定出来ない。
数年前から入退院を繰り返し、何度か危篤状態になっていたこともあり、
逆にこれまで持っていたことを幸運だとする考え方もできる。
ただ解釈によっては「死ぬことが予定調和になっている」「生きている人を死人扱いしている」にもなる。
世の中に積極的に関わらないこと、フィクションの摂取のしすぎが原因で、目の前の事実が
ガラス1枚隔てて見えたり、モニタの向こう側に存在している感覚に囚われることがある。
世の中に参加することが好きでないなら、自身の心と身体を安全な状態にして世の中を見れるので居心地の良い考え方である。
一方でこのスタンスで生きていると他者から観察されるとき、檻の中のサルを見る目で見られる。
葬儀の参列者も、臨時で席を相当数追加する程度に多かった。
ここまで数があると悲しむ気持ちに「働かないアリに意義がある」の理屈が通る。
人気者は放っておいても誰かが救済するため、参加する意義を見出せない。
葬式中に周りを観察していたら、良く泣く人はいわゆる「リア充」だった。
昔テレビのバラエティとかドキュメンタリーとか、なんであんな簡単に人が泣くかが理解できなかった。
理屈をもう少し若い頃に理解しておきたかった事項ではあるが、人前に出るのが好きな人間は演出家だった。
内面で生まれた感情を外に向ける際に、ごついアンプを通している。
そこまでで事態が完結すれば大したことはないが、人は悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなるらしい。
模倣を通じて本物に至る概念が感情にも該当するとは思っていなかった。
1とリンクした原因でもある。
祖母の死顔を初めて見た時に、悲しい感情よりも怖い感情が強く出た。
骨あげ時に特に感情が動かなかったことから、顔の造形に対する違和感、不気味の谷が原因である可能性が高い。
また今回親しい人の初めて葬式ということで、事をうまくやろうとして調べごとしたり周りを観察することに注力していた。
意図してかせずか、別のことを思ったり考えていたために悲しまなかった可能性はある。
とりあえず6つ原因を挙げた。
この原因からどう思考を持っていくか何も考えてなかった。
とりあえずこの6つから自分自身がどんな人間か読み取ってみる。
・オタク
・根暗
・消極的
・世間慣れしていない
自分自身に対して碌な形容が出て来なかったがしかし、こんな奴は現代社会だと掃いて捨てるほどいるだろう。
ということはみんな外に出さないだけで同じ考えを持つ人間が多くいる可能性は高い。
と、ここまで結果を想定せずにダラダラと文章を綴っていたが、ゴールが見えてきた。
気にしなければいいのである。
まわりからもそう見えるし、自分の内面にそう言い聞かせて納得させることもできる。
そういう意味では葬式自体がそもそも悲しくない人間も内包するようにできている。
つまり昔からそんな人間がいるということだ。何一つ精神的不具者ではない。
ここ5年ほどで、10人くらい知人をなくしている。
たぶん無宗教なのかだからと思うんだけど、葬式というのが理解出来ない。
結婚式はわかる。
死人のためにそんなに仰々しくいろんなことをしたってさ、なんて思う。
遺族のためなのかなと理解してる。
故人のために人が集まってくれる人が少ないよりは多いほうが嬉しいのではないのだろうかと。
とはいえ、参列者が多いことにより、単に負担が増えるだけなんじゃなかろうかとも思う。
口にださないだけで密かにみんなそう思ってたりするんじゃないかな。
葬儀は身内だけでひっそり、後で「~を偲ぶ会」みたいな集まりを開いたりするのが増えてる気がするし。
戒名の値段とか祭壇の値段とかもあんまり理解出来ないんだけど、キリスト教徒やイスラム教徒が寄付や喜捨やらチップやらでこまめに身銭をばら蒔いてるのを、日本人は結婚式と葬式で一括払いしてると思えばそんなもんかなと思う。
金は天下の回り物。
会費制なので、ちょっとした友達でも祝う気持ちさえあれば参加するし、こなかったからどーのっていうのも聞かない
気軽に参加するから、ふつーの庶民の結婚式で100~200人規模になることも珍しくないが
逆にものすごく小さく済ませてしまう人も居る
(特に港町では大きい傾向があるかも)
北海道は結婚式も葬式もかなりコンパクトに済ましてしまうので(道南では通夜と告別式を同じ日に通してやってしまうことも多い)
余計なことに気を使わなくていい、家柄や収入格差が問題にならないというメリットが大きいんですよ
そもそも道民って家がどーのとか気にしない人が殆どだけど
祖母が死んだ。
突然のことだった。
私はその日、2徹目で仕事をしていた。
元気だったのに突然だったと言うその声は少し震えていた。
告別式と葬式、焼き場、精進落とし、初七日、全部まとめてやるから
「2日も仕事しなかったら、原稿落ちちゃう」ということだった。
自分でライティングをし、デザインをし、データを突っ込むところまでやるのだ。
間が悪いことに、入稿日は祖母が焼かれる日と同じ日だった。
祖母とは20年間一緒に暮らした。
私が家を出るその日まで、母より長く一緒に過ごした人だった。
でも、でも、でも、原稿、落ちたら、落ちたら、落ちたら?
…襲いくる恐怖に私は3徹目で対応することにした。
上出来だ。でもまだ終わらない。
寝たら最後だろう。
どこかで、そんなに大変なら帰らなくていいのよといって欲しくて。
そんなわけなかった。
「そんなに近い親族なんだから、お焼香だけの周りの人とは違うでしょう!」
「声が小さくて聞こえないのよ!何を言ってるの!?あなたは!」
(3徹目の人間にハキハキした返事を求められても困る)
母のヒステリックな…姑とはいえ、身近な人間が死んだのだから当然だろうが…
電話を聞きながら、ああ、もう、どうして、どうしてこう、と
まとまりのない単語ばかりが頭の中を巡っていた。
後原稿用紙20枚ライティングをして、
そして、そして、寝たら…3徹目の頭から脱却するために寝たら…
私は祖母の死をそのときはじめて悲しめるのだろうか?
まあ前にも何度かあったしすぐよくなるだろうと思っていた。
それが今日13時までのバイトを終えて家に帰って一息ついたら母から
「ばあちゃんの容態が悪くなった。今から病院へ行く」
と電話が。
なぜかここでもまだ大丈夫だと思っていた。
そしてしばらくして父が帰ってきて自分が犬の散歩に行ったのだが
なんとなく家にいなくてはいけない気がして
犬には悪いのだかいつもの距離の半分で済まして
家に帰る途中、父がこちらに向かって歩いてきて
「急いで準備しろ。病院へ行くぞ」
と。
ここでああヤバいんだとさすがに思った。
病院に向かう車中で父の携帯に母から電話がかかってきて父が一言
「ダメだった」
昔から体が弱くよく倒れたと母が言っていた祖母。
足の骨を折って寝たきりになってからもう何年か覚えていないが
祖母の兄弟が4年と言っていたので4年だろう、
その4年の間もいろいろあったけども生きていた祖母が
そんな簡単に死ぬわけないだろうという自分の中での妙な根拠があったんだけど
そんなものはなんの意味もなかった。あっという間だった。
4年の間祖母が入院していた病院や介護施設に祖母の顔を見るために何度か足を運んだ。
母曰く孫の中で一番行っていたそうだが
別に自慢できることでもなんでもないように思えた。
でもまあいつだったか最近の気がするので今年に入ってからは確実であろう
祖母は寝たきりのせいか病気のせいか片目が不自由になっていた。
いつもどおり
「ばあちゃーん」
と声を掛けた私に返ってきた祖母の言葉は
「誰?」
だった。
軽い痴呆だったししょっちゅう通っていたわけでもないのだから
当然の反応だったのかもしれない。
でもこの言葉にショックを受けてしまった私は
祖母のところに行く機会は何度もあったにも関わらず行くのが怖くなった。
結局それから祖母の顔を見ることないまま今日を迎えてしまった。
明日が通夜で明後日が告別式、精一杯ごめんなさいして冥福を祈ろうと思う。
自blogで書くのもなーと思ったのでここで書いて気持ちの整理を少しでもつけれれば。
2年前、弟が自分のマンションの風呂場で死んだ。死亡診断書によると心筋梗塞だった。もともと心臓が弱かったらしい。
先月、父親の納骨に京都の墓にいった。弟の骨を入れた袋は、去年、納骨したばかりだったので、まだ、新しかった。
父親と弟は仲が悪かった。父親は飲んだくれで、昔、酔っぱらって自動車に轢かれたことがあった。警察から電話があってお宅の御主人が道で酔っぱらって道に倒れていますので救急車を呼んでおきましたと連絡があった。後日、近所のひとにきいたら、確かにその夜パトカーがその付近にとまっていたらしい。救急車が運んだ病院で父親は服を脱がされると、身体にはタイヤの跡がついていた。事故証明かなんかをもらおうと警察に連絡すると、その夜、だれも酔っぱらいを発見して救急車を呼んだ警官なんていないといわれた。そんなことがあれば必ず記録には残るそうだ。だれが父親を轢いたのかは謎のまま残った。
アル中気味の父親は家庭では尊敬されていなかった。妹や弟から馬鹿にされても父親は特にプライドがないのかいつも笑ってごまかしていた。
弟は難産だった。母親は医者に出産するとあなたは死ぬから子供は堕ろすようにといわれたそうだ。母親は子供を産んで死ぬのは親の本望だといって無理矢理に弟を産んだ。帝王切開だった。
どちらかは死ぬはずだった母と弟はともに生き残った。
母親が占い師にいわれたそうだが、弟の運命は僕を助けることだそうだ。
なので、ぼくはいつか弟は僕を助けてくれるんだろうとなんとなく昔から信じていた。
人付き合いが苦手な僕と違って、弟は社交的だった。中学時代から彼女はいたし、友達も多かった。
そんなにレベルの高い大学にはいけなかったが、楽しそうに生きていた。
僕は社会人になって27歳のときに勤めていた会社が倒産してヘッドハントとかされなかったのでやむなく仲間を集めて会社をつくった。
何年かして会社もなんとか軌道にのったあたりで弟が相談をしてきた。弟は大学を卒業した後、デジタルハリウッドにいってCGを勉強したらしい。友達と一緒に大阪の大手ゲーム会社の下請けの仕事をしたいんだという。ただ、仕事を貰えると決まった訳じゃなくて、まず、タダで仕事をして、能力を認められたら、きちんと発注してくれるらしいので、そしたら、弟の友達は会社をつくるという。で、弟はそこで働きたいそうだ。すごいチャンスだと思うと弟は熱心に説明した。
ちょうど、その数ヶ月前のことだが、ある別の大手ゲーム会社の重役に挨拶にいったことがある。そのときにこれからなにをしたいんだと尋ねられた。僕はネットゲームのシステム開発会社として日本一の会社になりたいと答えた。それってようするに下請けだろ、と目の前の重役にいわれた。下請けというと、つまりゴミだ、おまえはゴミになりたいのか、と重ねて尋ねられた。もっと目標を高くもて、コンテンツの世界は自分でコンテンツをつくらないと一人前じゃないと説教された。
そのことがすごく頭に残っていたので、僕も弟に同じことをいった。お前が掴もうとしているのはゴミになる大チャンスだ、と責めた。しかもゴミの一番下っ端になりたいのかと問い詰めた。
結局、弟は夢をあきらめて上京した。
何年かして僕の会社の取引先のひとつに弟は就職した。僕は縁故とかはあまり弟のためによくないと思っていたので、1年間勉強して、他の会社に移れといった。
しかし、2年たっても3年たっても弟は同じ会社にいた。
すくなくとも僕の前では、弟は仕事についてはあんまり自信がなさそうに見えた。でもプライベートでは友達も多く面倒見もよかったらしい。
ある日、弟に相談をされた。鬱病の友達がいて、頼られていて、ずっと相談にのっていた。1週間以上も家に泊まったこともあったらしい。ずっと話をきいていてあげたら、元気になったといって自宅にかえっていったんだが、すぐにその夜に、また、相談にのってほしいと電話があったので、いいかげんにしてくれと思って断ったそうだ。そうしたら、結局、友達じゃなかったんだね。これまでありがとう、恨んでないから、といわれて電話を切られたそうだ。その友達はその晩に自殺した。弟は自分のせいで友達は死んだと責任を感じているようだった。
僕はこれは笑い飛ばしたほうがいいと思って、たいしたことじゃないじゃん、しょうがないといって、あまりとりあわないことにした。
弟は不満げだったが、僕はこういうのは思い詰めるのはよくない、と思った。
そんな相談されたことも忘れたある日、僕は弟が勤めている会社の取締役と話をしていた。弟は結構会社では戦力として活躍しているそうだった。ただ、勘違いをする癖があって、ある時、社内で弟が、僕は一番重要な取引先の代表取締役の弟なんだから、それを生かして自分にしかできない調整をやるのが自分の使命だ、とか言い出したことがあるらしい。そのときは勘違いするな、生意気なことをいうな、と散々説教したそうだ。しばらくそんなことはいわなかったらしいが、おととい、また、飲み会のときに、ぼくがいなくなったら、みんな困りますよね、とか言い出したらしい。最近、仕事ができるようになったからといって、また、生意気なことをいいはじめたと、みんなでよってたかって虐めたそうだ。一人前になったのなら、最初の予定どおりに独立するなり、別の会社に転職すればいい。
おとといは遅くまでのみすぎたせいか、昨日から、弟は連絡もなしに会社を休んでいた。今日もきていないらしい。
弟は父親は嫌いだったが、母親は大好きでしょっちゅう母親とは会っていたし、頻繁に連絡をとっていた。
その夜、母親が弟といっこうに連絡がつかないことを怪しんで騒ぎはじめた。弟のマンションは僕のマンションのすぐ近くだったが、いったことがなかった。夜中だったので、どのマンションかどうしてもわからず管理人のひともいなかったので、その夜は諦めた。
ふてくされて部屋にひきこもっているんだったら、明日でも一緒だし、そうじゃなかったら、たぶん、もう…、おそい、となんとなく予感した。
翌日、会社の会議にでていたら、弟の自宅にいった母親から携帯に電話があった。会議中だったが、電話にでた。携帯電話からは、僕の名前を絶叫する母親の声がきこえた。
弟のマンションの部屋には鍵がかかっていなかった。見つけて欲しかったのだろう。弟の死体は母親が浴室で発見した。
弟の死因は死亡診断書によると心筋梗塞だ。もともと心臓が弱かったから寿命だったに違いない。
弟とはほとんど話をしたことがなかった。僕は弟のプライベートはまったくしらない。部屋には僕の知らない弟の趣味のものがあふれていた。母親はいろいろ知っているようだった。
母親も弟から友達の自殺の話を何度も相談されていたらしい。不幸にはなりたくない、でも幸せになるのもいやだ。弟はそういっていたそうだ。
台所に楽天の箱があり、中身を見ると練炭だった。期日指定配達で、ちょうど弟が死んだ3日前に届けられていた。
調べてはいないが、一年前に死んだ友達の命日なんだろうと思う。
弟が死んだ夜は東京に台風がきていて記録的な暴風雨がふきあれていた。その日の昼間には、権利者団体との和解後、暴騰をつづけていた僕の会社の株価が、その月に三度目となるストップ高を記録していた。
弟は服を着たままiPodだけもって浴室にはいった。窓とドアに目張りして明かりを消した浴室の中で、弟はなにを考えながら死を待っていたのか。コブクロからはじまっていた最後のプレイリストは、いったいどの曲まで聴いたところで、弟は息絶えたのか。
葬式は身内だけでやるつもりで、まわりに連絡はしなかったが、弟の勤務先にはそうもいかず、ぼくの素性をしった葬儀屋の薦める最低限の告別式は、ずいぶんと派手になった。弟は来週から出向する予定だった会社の副社長が通夜にも告別式にもきてくれた。嬉しかった。
弟の死で僕の家族の生活は一変した。結束は強くなったと思う。父親ははじめて酒をやめた。そのつぎの正月とゴールデンウィークにもひさびさに家族が集まって海外旅行にいった。
父親と母親は弟の死を弔うために四国八十八寺のお遍路参りをはじめた。乗り物は使わずに歩いてまわった。さすがに一度にまわるのは老人の足には無理で、2泊3日の旅をなんども繰り返した。徳島県からはじめて高知県の最後の難所の足摺岬をまわったところで、父親は何をおもったのか、帰りに高野山によった。
あとでわかったが、お遍路を全部まわったら、高野山に報告にいくものらしい。徳島、高知を終わったわけだから、ちょうど半分のところで最後のゴールにいってしまったことになる。母親はせっかちな父親らしいと笑っていた。
足に疲労がたまったのだろう、東京にもどってきた母親が駅で転倒して、足首を骨折した。
母親が入院したので、父親は僕が両親用に買った高層マンションの最上階の部屋でひとりで生活することになった。父親は入院している母親にぐちをこぼしていたらしい。早く退院してほしい、あの家はひとりだと広すぎるんや、弟の幽霊が現れて、こわいんや。
父親はやめていた酒をまた飲み始めていた。
ある日、母親から携帯に電話があって、父親が連絡つかないから家を見にいってほしいといわれた。またかと思った。
家の扉に鍵はかかっておらず、家中を探すと、父親は浴室で溺れていた。鼻まで水に浸かっていたので生きていないことはすぐにわかった。
父親は酔っぱらって溺れたのだろう。ちょっとだけ苦しそうな表情をしていたが、幸せそうな顔だ、と母親に告げたが、けっして遺体をみようとはしなかった。
きっと弟の死を発見したときの光景が目に焼き付いていて、そんな思い出を増やしたくないのだろう。僕も父親の死体を見つけたときの記憶はあまりにも強烈で、きっと死ぬまで忘れることはできないと思う。
父親が死んだのを発見した翌日には、JCBホールで会社の大きな発表会があった。父親の葬儀はその翌日になったので、やることもそんなにはなかったから発表会の現場には行った。葬儀屋も一年前と同じで、僕も葬儀屋も慣れていた。
葬儀が終わってから、僕はいつものさぼり癖が出てきて、会社へはほとんどいかなくなり、ずっと母親と一緒に暮らした。
なんのために会社をつくってがんばってきたんだろうと僕は思う。
会社をつくるときの資本金は親が出した。僕は貯金は1円もなかったからだ。後で聴くと、それは妹の結婚資金だった。米国の親会社が倒産したときには、倒産した親会社の持ち分を減らして独立した日本の会社にするために増資をした。僕が買い増した株の代金は、父親の退職金だった。父親は某大手スーパーの子会社で経理をやっていて、定年まであと2年あったが、父親の退職金が必要だったので辞めてもらった。僕の会社には経理の経験者もいなかったので経理もやってほしかったというのもある。
父親が30年以上勤務して、最後に得た退職金は、僕の会社の3ヶ月分の運転資金となって消えた。
僕の人生の中で後悔している最悪の決断は会社をつくったことだ。僕は人生最大のギャンブルを家族と両親の人生そのものに等しいお金を賭けて勝負した。本当は賭けていいようなお金ではなかった。本当はやっていけないギャンブルだった。
結局のところ、僕の会社は数年後に上場を果たしたから、賭けには勝ったことになるのだろう。だからといって卑怯なギャンブルの罪が消えるわけではない。起業した時に、結果的に成功するまでの道筋は、僕にはまったく読めていなかった。
会社をつくってまもなく僕は自分の判断の間違いに気づいた。生まれてこのかた好きなことしかやらず、努力なんてしなかった僕は、なにかを成し遂げるためではなく、会社をつぶさないためだけに睡眠時間も削って働いた。
自分ひとりのことだったら、どこかで投げ出して逃げていたと思う。でも、僕が失敗したあとの両親の悲惨な老後を考えるとできなかった。会社をつくったときに万が一失敗したときにだれにも迷惑がかからないように相棒と一緒に生命保険を掛けた。最初、1億円で翌年は2億円に増やした。日本では会社が大きくなればなるほど、借金やリスクも増えていく仕組みになっている。勝負に勝っても、そのままダブルアップで賭けつづけることを強制されているギャンブルのようなものだ。2億円あっても全然、会社を整理するには全然足らない規模に成長したため、上場できるか、できなければ、いずれ一家で破滅するか、そういうゲームになった。
上場の準備を進める中で、父親は仕事を外された。創業者の近親者が経理をやっているのはまずいと証券会社に指摘されたからだ。定年間際まで勤めた会社を辞めて息子の会社を手伝い資金まで提供した父親は息子の会社で居場所を失った。父親が勤めていた某大手スーパーは、いくつかの同族企業が合併してできた企業で派閥争いが絶えなかった。どこの派閥にも属さない父親はずいぶんと嫌な思いをたくさんしてきたようだ。ずっと傍流で冷や飯ぐらいだったサラリーマン人生の最後で、父親はやっと息子の会社で念願だったろう主流派の一員に加わることができた。それも長くはつづかなかったわけだ。
後ろ盾のいないサラリーマン人生で父親はきっと言い訳ばっかりさせられていたのだと思う。父親の話には論理的に一貫しておらず何を説明しているのか要領を得ないところがあった。能力的にもいまの会社にはふさわしくないと僕は判断し、父親を切ることに同意した。
父親はよっぽど仕事をしたかったのだと思う。やるべき仕事がなくなっても、一所懸命、自分でデータを集めてつくった会社の資金繰り表や損益計算書を僕のところにもってきては、会社の問題点を指摘しようとした。
僕は、もうそんなことはしなくていいと、父親がつくった資料もろくろく見ないで突き返した。
1年、2年たつと諦めて、会社にもあまりこなくなった。暇をつくるのが怖いのかのように隙間無くカレンダーを母親との旅行の予定で埋めた。
会社にあまりこなくなってからも母親には仕事への未練を話していたらしい。息子のために自分は会社に必要だから、また仕事をしようと思うと定期的に言い出す父親を、そのたびに母親は、もうやめなさい、と諫めていたそうだ。
お金の心配はせんでようなったけど、あんまり幸せにはなれんなあと、ことあるごとに父親は愚痴をこぼしていたらしい。
弟と父が死んで、母親と暮らすようになって、そういう話を何度も僕はきいた。
僕は両親の人生を担保にしてゲームをして、そして勝った。勝利の証しとして得た報酬はそういう現実だったらしい。
何のために生きているのか、何のために頑張って仕事をしているのか、自分自身のことだけでいえば、死ぬまでのたんなる暇つぶしだ。別になにか世の中を変えようとか、大きなことをしたいという使命感なんてない。ただ、僕のまわりにいる好きなひとたちが、僕を必要としてくれているから、自分ができる芸を精一杯見せているにすぎない。
僕の望みは、まわりにいるひとたちの幸せのなかで生きたいということだけだ。
でも、僕の一番の身内のふたりは死んだ。あまり幸福にはできないまま死んでしまった。
僕には他人を観察してすぐに値踏みしたがる癖がある。子供の頃から父親や弟と自分がどっちが優れているかを何度も値踏みした。最終的には大差ないという結論をだした。僕もだらしない父親が嫌いだったが、同じ部分は僕にもあり、父親と同じ人生を生きていたらやはり同じようになっただろう。弟も同じで頭の回転も似たようなもんだった。弟も「自分と兄は得意なものが違う。勉強は兄よりもできないがプライベートでは自分のほうが上だ」と高校の時ぐらいからいっていた。僕もそのとおりだと思う。そもそも人間なんて環境がつくるものだ。本来の素質に意味ある優劣なんてさほどない。
でも、現実の世界では、僕は弟の相談は上から目線で笑い飛ばし、父親の仕事は奪った。
弟のことはあまりにも知らなすぎた。何を考えて、何が好きだったのか、何をしたかったのか。
本当に死ぬしかなかったのか。たとえ時計の針をもどせても、なにをすればよかったのかまったく想像はつかない。
人付き合いは弟のほうがよっぽどうまかった。死を選んだ人間が最後の相談相手として選んだほど弟は信頼されていた。過去にもどれたとしても僕が弟に与えてやれるとしたら、仕事のアドバイスとお金だけだ。弟はブランド品が好きだったし、きっと僕なんかよりも贅沢なお金の使い方はしっていただろう。人間がダメになると母親は僕が弟や妹にお金を渡すことは許さなかったが、金まみれにしてダメ人間になっても生きていてくれるのならそのほうがよかった。そんな貧しい後悔しか僕には思いつかない。
母親は命をかけて弟を産んだ。占い師は、将来、兄を助けるのが弟の運命だと予言した。弟の存在は僕にとってなんだったのか。補佐してくれるんじゃなかったのか。
弟が死によって、僕を助けるのであったとしたら、そして、僕の仕事が世の中にとって意味があるものだとしたら、きっと僕は弟の死に触発されてなにかをしないといけないのだろうと思う。
父や弟には幸せな居場所を与えることはできなかったが、僕の仕事でたとえ赤の他人であっても、よりどころになる居場所をつくることができるなら、多少は心が救われる。
弟が死んだとき、親戚は、このことはあまり話さない方がいいと助言してくれた。話すべきことじゃないといわれた。
でも、たんなる感傷にすぎないのかもしれないが、僕のことをしっていてくれたり、僕の仕事を評価してくれているひとには父と弟のことを話したいと思った。そうして、このエントリをいま書いている。
死なんてものは世の中にありふれている。僕にとって特別なふたつの死も他人には関係のないはなしだ。
父と弟の話を書いても、ネットの中に埋もれて、僕のまわりのひとすら見つけられないのはさみしい。そう思って2ヶ月ほど前にブログをはじめた。僕に少しでも関心をもってもらえそうな話なんて、あたりまえだが仕事しかない。そもそも仕事の話以外に自分にはとりえもなければ、価値もない。弟のいうとうりだ。父親の納骨で区切りをつけてこのエントリをあげるつもりだったが、ブログに予定外の反響があったことや、僕自身のためらいもあって、それから1ヶ月以上たってしまった。
結局、いろいろ手垢のついてしまったブログに書くのも違うと思って増田にしました。
僕の仕事に興味があってブログを見に来ていたみなさん、最後にこんな文章を読ませてしまってすみません。でも、これが僕が聞いてもらいたかった話です。
最後まで読んでいただいて本当にありがとうございました。
義姉と同居している。いや、正確にはしていた。
夫は16歳年上で、義姉はさらに12歳年上なんで、私から見たら28歳も上。日本の古き良き伝統に従って、「年長者」として、それなりに丁重にもてなしてきた。「留守番も掃除もしない。私が家事やるならお金もらうわよ」と言うので、家事の負担は何もさせず、義姉宛の荷物を部屋まで届け、お客を取り次ぎ、町内会の付き合いやら、ゴミ置き場の掃除当番やら、黙ってやってきた。
だけど、義姉から返ってきたのは、嫌みと嫌がらせ。子供が泣いていれば寄ってきて「泣いてやんの、バーカ」とののしる。家庭菜園を作っていれば「虫が沸いてるじゃないの」と収穫期の小松菜に殺虫剤をかける。水音に驚いて飛び起きてみれば、夫が下から窓にホースで水を当て、義姉が窓ガラスを拭いていた。場所は夫婦の寝室だ。そのときばかりは「夫婦の寝室に勝手に入り込んで何やってるんですかっ」と怒鳴りつけてやった。反省するかと思えば、その後、寝室の写真を撮って雑誌に送っていたことが判明した。義姉は「猫がベッドに乗っている写真だ」と言ってわるびれもしない。
実は、夫は二度目の結婚である。前の結婚のときの話を先妻さんに聞いたのだが、休みたびに「義姉のところに行く」といって夫が出かけていくのが嫌だったそうだ。そりゃ、新婚早々休みたびに夫がいなくなったら、誰だって寂しがるだろう。夫の父親は夫が15歳のときに、夫の母親は夫が29歳の時に亡くなっている。それから、夫と義姉はたった2人の兄弟として都会の片隅で助け合ってきたのだ。義姉と夫の結託が強いのはしかたない。本当に本当に嫌な奴だけど義姉も込みで夫と付き合おうと、義姉の仕打ちに我慢してきた。
ところが、夫が不治の病におかされた。余命6カ月だという。入院したら主治医の先生が病状について説明してくれるという。もちろん、義姉を誘った。さぞや、弟の心配をしているだろうと思った。返事は「ガンなんでしょ? 父も母もガンだったから、わかってるからいいわ。嫌なこと聞きたくないの」と言い放って来なかった。「それより、海外旅行の予約があるのよ。キャンセル料もったいないから行くわ」と言う。「あの、半年と言われて入院して、3日で亡くなった人もいるんですよ? ご旅行にいかれてる間に亡くなることもありますよ」「旅行先に連絡されても、どうせ告別式に間に合うようには帰って来られないから、旅行が終わるまで死んでも知らせないでね」「死んで、葬式して、お骨になってしまってていいんですか」「いいわよ」というわけで、義姉は旅行に出発した。まあ、その後もいろいろあったのだけど。キリがないので。
夫は結局4カ月入院した。私は夫の側を離れる気になれず、出来るだけ側にいた。義姉は1時間ほどのお見舞いを7回していった。
夫が亡くなってから、しみじみ義姉と同居なんかするんじゃなかったと思った。出て行けと言ったのだが話し合いに応じないというので、弁護士を雇って家庭裁判所に持ち込んでもらった。さすがに裁判所の呼び出しには応じたし、他人が入るとあまり無茶なことも言わないので、そのまま話を進め、元々玄関と廊下だけ共有の2世帯住宅だったのを、完全分離してもらうということで双方合意となった。
ところが、どうも義姉は「完全分離」の意味がわかっていないようだ。あと5日で工事が終了し分離するというのに、まだ、こちらのスペースに義姉の物が転がっている。今まで義姉は何か気にいらないことがあると嫌がらせをしてきた。コンポスターのふたを隠したり、猫をいじめたり。義姉に文句を言えば、今度は夫にお鉢が回り「おまえ、ちょっと我慢してくれ」という話になるのが嫌で、嫌がらせに対しては目をつぶってきた。どうも、義姉は私が文句を言わない理由を勘違いしているらしい。嫌がらせをされるのが嫌だから、仕返ししないのではない。お鉢を回される夫が気の毒だったからだ。もう、夫はいない。いくらでも仕返しできる。
先日、一周忌をやった。義姉も呼んだ。おだやかにイベントが終わろうとしたとき、私のいとこが夫の病状について質問してきた。亡くなったばかりのときは、こちらもいろいろと緊張していて、あまりしっとりとした話はしなかったので、詳しく説明しようとした。その瞬間、義姉が口を挟んできた「私の主治医に弟の病状話したところ、○○という病気だって。いっぺんでわかってくれましたよ」と。
あんた、病状の説明、聞きに来なかったじゃないか。弟の病気に関心持たなかったじゃないか。私にとって大事なものをどれだけ踏みにじれば気が済むんだ。
いや、わかってる。あんたはキレイなことがしたいだけだ。「主治医の先生に病状を聞きに行く」という「嫌なこと」はしないけど、遺族として「親戚に病状の説明をする」という「楽しいこと」はしたいんだよね。
だけど、義姉がこういう態度を取るたびに、豆腐の角で頭ぶつけて死んでーーと思う。
このおちゃらけ女に、私の大事な物を踏みつけさせない手段はないだろうか? やはり、豆腐の角……。
先日、妻のお父さん(義父)の七回忌が終わった。
体調が悪くなり入院したのだが、急速に癌が進行していて、翌日に突然状態が急変しそのまま亡くなった。もう6年前になる。
義父が入院した時は、まだ治療が効を奏せば何とかなるという話を聞かされていたのだが、容態が急変し、医師より厳しい話を聞かされた。ちょうど妻は席を外しており、その厳しい話は、私と義母が聞く事になった。話を聞いたあと、義母は私に振り返り「助からないかもしれないね」と目に涙を溜めていたのを憶えている。私は、何も言えなかった。
義父は急変して血圧が低下し、尿が出なくなって苦しそうな呼吸をしながら、ある日の未明、亡くなった。
一年前に仕事を退職して、これから第二の人生が始まるという時期の急逝に、義母は見ていて痛いくらいに気落ちしていた。
弔問に来る人に応対し、挨拶はしているのだが、心がどこか空っぽになっていて、そのまま存在が薄くなって消えて行くような儚さがあった。それが恐くて、通夜、告別式、火葬、納骨と何かにつけて声をかけていたような気がする。
義母の姿を見て、通夜や告別式など、こうした形式的に忙しいイベントが次々と続かなければ、恐らく義母は本当に空っぽになっていたんだと思う。初七日など七日毎の供養、四十九日、一周忌。日々を忙しさで紛らわせることで、義母は現実に引き止められていたのだ。
その後、私の家には子供が増え、義母にも時々面倒を見てもらうことが多くなった。義母に感じていた空洞は少しずつ、何かで埋まって行った。
七回忌の前日、私は子供の映像を録画していたDVテープを引っ張り出し、義父が映っている僅かな場面をHDDレコーダーに録画していった。時間にして僅か15分ではあったが、在りし日の義父が長男と笑顔で遊んでくれているシーンが幾つもあった。私はそれをDVDにして、七回忌の当日、義母へ渡した。
「あら、こんなお父さん撮ってたの!?」
懐かしそうに画面に映る義父を見つめる義母のまなざしは、空っぽではない、生きているまなざしだった。
今、26歳。
自殺だった。
親友と呼べるほど仲が良かったわけではないが、中学で同じクラスだった時は、一緒につるんだりする程度の仲ではあった。
当たり前のように通夜に行った。
当時の同級生が、沢山集まっていた。
おそらく、故人の高校の時の同級生であろう、知らない奴も沢山いた。
皆帰りづらいのか、通夜振る舞いが終わるまでほとんどの連中が残ってた。
いや、通夜のマナーなんてのを、みんな知らなかったのかもしれない。
俺も、長居は禁物とは知っていたが、とてもじゃないが一人で帰る気にはなれなかった。
悲しいのももちろんだが、無性に腹が立った。死んでんじゃねぇよ。
見ろよこんなにみんな集まってるんだぜ。お前だけ死んでて来られないのざまぁwww 悔しかったらなんか言えよ、今すぐ来いよって気持でいっぱいだった。
結局、最後までいた友人たちと、その後飲み屋に行き、妙なテンションで飲んでから、ようやく帰った。
通夜に行った上に最後まで残っていて迷惑かけたのだから、仕事もあるし告別式は遠慮しようかと思っていた。
だが、職場の人も気を使ってくれて、告別式に出られることになった。
迷いつつも行った。出棺まで見送ったら帰るつもりだった。
遺族が泣いたりしているのを見たら、自分まで泣けてきた。昨日十分泣いたのに。
いざ出棺となって、バスに皆が乗り込んでいく。
気づいたら自分も一緒に乗っていた。
火葬場へ着く途中、俺はひどく場違いな気がしていた。
故人の親友と呼べるような連中は乗っていたが、果たして俺はどうだろう。俺は、友達ではあっても、親友と思ってもらえる程の仲だっただろうか。
火葬が終わり、遺族から順に納骨し、自分も骨を拾った。
自分が悲しみに酔ってる偽善者で、ひどく醜い存在のように感じられた。
悲しいのも、悔しいのも本当だけれど、それは今ここにいる資格足り得るだけの物なのだろうか。
同級生というだけで、ここまで付いてきて、遺族は迷惑だったのではないだろうか。正直、遺族の方は俺を見ても誰だかわからなかっただろう。その程度の付き合いだ。
結局その後、火葬が終わり、再びバスで戻って来て精進落としを……という段階になって、喪主の方に挨拶して、帰った。
もうこれ以上は居られなかった。
手をつけられず残ってしまう料理のことを考えると、「俺が最初から行かなければ、あるいはバスに乗らなければ、無駄にならなかったのに」とさらに後悔した。
http://anond.hatelabo.jp/20081114090156
これを読んで、ひょっとして自分はとても迷惑がられていて、失礼なことをしてしまったのではないかと、今更不安になった。