先日、妻のお父さん(義父)の七回忌が終わった。
体調が悪くなり入院したのだが、急速に癌が進行していて、翌日に突然状態が急変しそのまま亡くなった。もう6年前になる。
義父が入院した時は、まだ治療が効を奏せば何とかなるという話を聞かされていたのだが、容態が急変し、医師より厳しい話を聞かされた。ちょうど妻は席を外しており、その厳しい話は、私と義母が聞く事になった。話を聞いたあと、義母は私に振り返り「助からないかもしれないね」と目に涙を溜めていたのを憶えている。私は、何も言えなかった。
義父は急変して血圧が低下し、尿が出なくなって苦しそうな呼吸をしながら、ある日の未明、亡くなった。
一年前に仕事を退職して、これから第二の人生が始まるという時期の急逝に、義母は見ていて痛いくらいに気落ちしていた。
弔問に来る人に応対し、挨拶はしているのだが、心がどこか空っぽになっていて、そのまま存在が薄くなって消えて行くような儚さがあった。それが恐くて、通夜、告別式、火葬、納骨と何かにつけて声をかけていたような気がする。
義母の姿を見て、通夜や告別式など、こうした形式的に忙しいイベントが次々と続かなければ、恐らく義母は本当に空っぽになっていたんだと思う。初七日など七日毎の供養、四十九日、一周忌。日々を忙しさで紛らわせることで、義母は現実に引き止められていたのだ。
その後、私の家には子供が増え、義母にも時々面倒を見てもらうことが多くなった。義母に感じていた空洞は少しずつ、何かで埋まって行った。
七回忌の前日、私は子供の映像を録画していたDVテープを引っ張り出し、義父が映っている僅かな場面をHDDレコーダーに録画していった。時間にして僅か15分ではあったが、在りし日の義父が長男と笑顔で遊んでくれているシーンが幾つもあった。私はそれをDVDにして、七回忌の当日、義母へ渡した。
「あら、こんなお父さん撮ってたの!?」
懐かしそうに画面に映る義父を見つめる義母のまなざしは、空っぽではない、生きているまなざしだった。
大事なものを失った人って、悲しんでいるというよりも本当に淡々してる。 http://anond.hatelabo.jp/20081226152551 時間の流れがブログ主の何かを埋めてくれるといいね。