はてなキーワード: 告別式とは
献体について詳しくは以下の財団法人日本篤志献体協会で調べられる。
献体の申込には本人のサインが必要。本人の体力が残されている間に行おう。
本人の希望であってもサインにはかなりの意志力が必要。ギリギリの状況だと本人にも周りの人間にも余裕が無いので修羅場になる。
今回はもう意識の回復が難しいのではないかという瀬戸際だったのでかなりやばかった。
できれば元気なうちに済ませておきたい。
献体登録には肉親者の同意が必要。5名分の署名と印鑑が必要なのでこれも前もって準備しましょう。
本人の親(今回だったら祖母)、兄弟などできるだけ反対しそうな可能性のある人のサインを集めます。
心が折れそうになったら「本人の希望、本人の希望」とぶつぶつ唱えましょう。
今回は郵送が間に合わず申込書の段階で遺体引渡しとなったが、書面がそろっていれば受け入れてもらえます。
最期を看取り、通夜や告別式の段取りが決まったら指定された連絡先に連絡。遺体引渡し方法などを打ち合わせ。
一般の火葬と違い、棺桶に入れたものは引き取り先で処分となりますので、極力いれないようにします。
あとは告別式後、一般の霊柩車と同じように迎えに来てくれます。
喪主挨拶など山場が続きますが、泣いてる母など見ていると逆に冷静になったりもします。
病院から出された死亡診断書を元に、区役所等で火葬許可証を作成します。
あとは郵送で火葬許可証を引き取り先に送れば手続きは完了です。
遺体はおよそ2年ほど、医療研究や解剖実習などに提供され2年ほどあとにお骨となって戻ってきます。
親父、ありがとう。最後のお勤めから戻ってくるのを待ってるよ。
先日、取引先のAさんという人の奥さんが突然倒れ
そのまま亡くなってしまったというので
亡くなった奥さんはまだ40歳。一人息子がいて今年17歳だとか。
息子は今時の茶髪の若者で、遺影の奥さんによく似た顔立ちだった。
喪主をつとめたAさんは突然のことに抜け殻のようになっていた。
3日に1度くらいしか家に帰れないという話は前にも聞いていた。
葬儀場からあふれんばかりの弔問客が訪れていた。
それだけ人がくればいろいろな話が耳に入ってくる。
もともと体が丈夫でなかった奥さん。持病もあったらしい。
体が丈夫な17歳の息子は、高校へも仕事へも行かずニート暮らしを満喫。
最近は半分引きこもっていたらしく、それをとがめた
奥さんに殴りかかったとAさんがこぼしていたこともあるという。
こわばったままの17歳の少年の顔が忘れられない。
これからも引きこもれるだけの経済的余裕があるのかどうかはわからない、
しかし、それまでAさん以上に彼の細々とした生活の面倒を
みてくれていたであろう人は、もういないのだ。
殴りかかりたくても、その相手は
巨漢(中学時代に相撲部屋からスカウトがきたことがある)のAさんだけだ。
彼は、これからどうするんだろう。
母ちゃんからメールが来る。
「ばあちゃんが なくなった」
79歳・・・。突然だった。ほんとに突然だった。
つい一週間前の正月にひ孫連れて会いに行った時は、普通に元気にしてた。
それまでも1??2ヶ月に1回は会ってたんだけど、その時はなぜだかいつもよりたくさん会話した。
「13日は孫(オレから見たら従妹)の結婚式があるね。
寒かけん、風邪ひかんよーに気をつけんばよ??。」
そんな事を言って、その時は帰った。
・・・まさか、それが最後になるとは思ってもなかった。
2年半前には、じちゃんが亡くなった。
じいちゃんは長い間病気で、いつ死んでもおかしくない状態だったから、それなりの覚悟はできていた。
じいちゃんが居なくなったら、ばあちゃんも弱ってもしかしたら・・・。
っていう周りの心配をよそに、ちょっとボケが進んだくらいで、元気だった。
補助なしの二輪自転車に乗って買い物に行くし、広い家で一人、ご飯作ってお風呂入って、生活してた。
老人ホームや周りの人間からの世話を嫌がっていたので、1日に1回くらいで誰かが様子を見たりしていた。
オレが親にも会わせた事のない彼女を連れて行った時、
オレの元嫁と間違えないように一生懸命名前を覚えようとしてくれていた。
たまにボケてて、完全に間違えてる時もあったけど、ばあちゃんの優しさに応えるため、
ばあちゃんの笑顔を曇らせないため、オレ達は気付かない振りしてた。
じいちゃんが亡くなった時、一番残念だったのは、ひ孫に一人も会わせられなかった事だった。
あと4ヶ月待てば、オレの次に結婚した従妹が初めてのひ孫を産んだのに・・・。
でも、ばあちゃんには一人だけだけど、ひ孫に合わせることができた。
「会いたい、会いたい。」って言うからヒマさえあれば連れて行って一緒に遊んでもらってた。
ひ孫もすぐになついて「ひーばーたん、ひーばーたん。」と言ってた。
ばあちゃんの喜ぶ顔を見て、周りも安心していた。
「まだまだ、いっぱい遊んでやらんばね!」
そんな矢先の突然の不幸。。。
死因は「急性心臓死」。
少しだけ心臓が弱かったばあちゃんは、9日の朝6時頃、一人でご飯を食べている時に倒れた。
最初に発見されたのは、10時過ぎに長男が様子を見に行った時・・・。倒れてから4時間も経っていた。
その時には既に息はなく、救急車が来ても応急処置をすることなく「死亡」の通告。
一人だった事から、事件の可能性もあるとして、警察官やら検察官やらが来て、調査する。
その間、1時間以上ばあちゃんはその場に倒れたまま。
結局事件性はなく、急性心臓死と診断される。
その日の夜。
仕事を終えたオレはばあちゃん家に向かった。
家族や親戚はもう帰った後らしく、オレの親だけが残っていた。
「みんな驚いていたよ。」
そりゃあそうだろう。オレも驚いている。
というか、未だに信じられない。実感がない。
布団の上にいつものように横になっているばあちゃんの顔には白い布が被せられている。
けど、それを見ても実感できない。
ゆっくり布をめくってみる・・・。
既に死化粧された顔は、白く綺麗だった。
手で頬に触れてみると冷たい。雪のようだ。
けど、それでもまだ実感できない。
ただ寝ているようにしか見えないくて、涙もでてこない。
10日が友引だという事で、10日がお通夜、11日が告別式になった。
翌日10日。
どうしても仕事を休めなかったオレはいつも通りに出社。
なんとか定時に終わらせてお通夜に向かう。
お通夜とか葬式をする時には、遺族の悲しみも薄れて単なる行事ごとの一つになったりするもので、
今回も例外ではなかった。
遺族や参列者の中で、心から悔やんでくれているのは何人いるだろうか?
遺族への挨拶や、お焼香も、礼儀・作法を守る事が第一のように見えてきてバカらしくなってくる。
そこではあたかも宴会でも開かれているような雰囲気。
・・・・・。
あなた達にとってお通夜って何ですか?
あなた達に、そこに居るばあちゃんの姿は映ってますか?
いつも通りの風景に、いつも通りに納得のいかないままオレはばあちゃんに線香をあげる。
ひとしきり喋って飲んで食べた人たちが、家に帰ったりその場で眠ったりし始めた。
オレは一人、ばあちゃんの前で線香をあげながら明日孫代表で読む事になった弔辞を考える。
・・・なんでかな?
哀しいはずなのにまだ一回も泣いてない。
オレもやる事が多くて、単なる行事ごとになってしまったのかな。。。
翌日11日。
弔辞の打ち合わせ。
葬儀場の人
「もし弔辞をお考えになられていないのであれば、
こちらで用意したものを少しアレンジしてお読みいただく事も可能ですが?」
オレ
「・・・・・(なんだよ、それ)・・・・・。
いえ、自分で考えたものを読みます。」
釈然としないまま、オレは弔辞を読む。
ばあちゃんとの想い出、ばあちゃんへの感謝の気持ち、お別れの言葉を読み上げていく。
・・・すると親族や参列者から泣き声が聞こえてきた。
オレの弔辞で泣いてるのか、葬式の雰囲気に泣いてるのか分からないけど、それでもオレは泣かなかった。
後から言われたんだけど、
「ともくん、弔辞良かったよ。感動した。」
・・・なんだそれ。
あなた達を感動させる為に読んだんじゃないよ。。。
なんだろう。オレの方がおかしいのかな?
たぶんオレだけ泣いてないし、周りの人間のやる事なす事がいちいち気になるし。
もしかしたら、オレだけがひねくれてるのかな。。。?
告別式も終わりに近づく。
親族・参列者が棺桶に花やら想い出の品やらを入れていく。
オレは、一通ばあちゃん宛に書いた手紙を入れた。
ばあちゃんに言いたい事、聞きたい事、誤りたい事、お礼を言いたい事。
弔辞とは違って本当に言いたかった事、便箋3枚に書いた。
内容は誰も知らないオレとばあちゃんだけの秘密。
後でじいちゃんと一緒に読んでね。
告別式が終わり、火葬場へ向かう。
いよいよばあちゃんの姿を見るのもこれが最後になる。
2年半前、じいちゃんが火葬される直前、ばあちゃんがひと言だけつぶやいた言葉をオレは聞いた。
「今までありがとうね。」
2人で50年以上付き添って、最後の言葉がこれだった。
オレはその時、じいちゃんの死より、その言葉に感動して泣いたのを覚えている。
今度はオレから言うよ。
「ばあちゃん、今までありがとうね。」
単なるいち孫が言うのはじいちゃんに申し訳ないけど、オレからの最後の言葉はやっぱりこれにするよ。
火葬されてしまうまで1時間半。
みんなはまた思うように過ごす。
テレビを見たり、ケータイいじったり、おやつ食べたり、タバコ吸ったり、昼寝したり。
オレは少し焦げ臭い火葬場を離れて少し歩いた。
山の中腹から見下ろす風景は、ばあちゃんが79年間ずっと住み続けた土地。
田舎ではあるけど、だいぶ変わったんだろうな。
ふと、ばあちゃん家の隣に住んでた時の、藁葺き屋根の家を思い出した。
オレが小学校の頃に取り壊したけど、ばあちゃんとの想い出が一番つまってるのはあの家だったなぁ。
薄暗い土間の奥にあるお風呂。
怖がって一人で行けなかったオレを連れて行ってくれた。
縁側と庭でいろいろ遊びを教えてくれた。
ばあちゃん、オレは男の子だよ!
そういや悪ふざけでばあちゃんを川に突き落とした事もあったなぁ。。。
親に怒られてるオレに、ばあちゃんは笑いかけてくれた。
オレがどこからか盗んできた梅の実を漬けて、梅干しとか梅酒を作っていっぱいくれたね。
梅の美味しさを知らなかったオレは、梅が嫌いになって今でもあんまり食べられません。
そうそう、オレはばあちゃん家の中庭が大好きだった。
鯉が泳いでいて、アメンボとかカエルとかいたからしょちゅう見に行ってた。
あんなに広く感じたばあちゃん家。
でかくなったオレは今では背中曲げないと歩けない。
走り回ってた廊下も数歩で歩けるようになってるよ。
・・・あぁ。やっと少しずつ実感が沸いてきた。
ばあちゃん、いなくなったんだなぁ。。。
ばあちゃんが死んで2日以上たって、初めて涙が出た。
もう、あの優しい笑顔に会う事はできないだね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
火葬場の人から呼び出しがかかる。
そろそろばあちゃんの骨を拾ってあげる時間だ。
(・・・よし!)
オレは泣くのを止めて、火葬場に戻る。
ばあちゃんには最後まで涙を見せないでお別れしよう。
人が焼ける独特の匂いの中で骨を拾ってあげる。
昔はオレを軽々おんぶしてくれたばあちゃんが、今はこんなに小さな骨になっている。
普通は骨壷に全部入りきれないものなんだけど、ばあちゃんは全部入れてあげる事ができた。
お寺への納骨まで終わって、やっと全ての「行事」が終了。
みんなはそれぞれの家へ帰っていく。
オレはいつまでも暗い気持ちでいたくなかったので、友だちと遊びに行った。
そして翌日12日は仕事に行った。
オレはこの時くらいから、ある事に少しずつ気付き始めていた。
さらに翌日13日は従妹の結婚式。
先月には従妹のお婆さん(オレからは遠縁になる)が亡くなり、4日前にはばあちゃんが亡くなり、
結婚式を挙げるかどうか悩んでいたみたいだけど、両ばあちゃんに見せてあげたいから、と決行。
両ばあちゃんも喜んでくれただろうね。
翌日14日はみんなの都合に合わせた結果、初七日をするようにした。
もうみんなほとんど悲しみは癒えたみたいで、昨日の結婚式の話しとか明るい話題も増えていた。
明日からはみんな通常通りの生活。オレも仕事。
ばあちゃんに線香をあげて、家に帰ろうとしたその時。
ばあちゃんの遺品を整理してたら出てきたと言われて一つの封筒を受け取った。
どうやらオレに関係があるものらしい。
その場で見る勇気がなかったので、家に帰って開けてみる事にした。
封筒から出てきたのは1枚の写真。
ただ・・・元嫁の親族側ははさみで切り取られていた・・・。
オレが離婚した時、親の次に気をかけてくれたのがばあちゃんだった。
「どんな風になっても(離婚しても)、ともくんの幸せが一番大切よ。」
と言ってくれた。
その時も泣いたけど、思い出して今日もまた泣いた。
いっぱい心配してくれたんだなぁ。と思うと同時にいっぱい心配かけさせたんだなぁ。と悔やんだ。
ふと、写真の裏を見たら、ばあちゃんが書いたと思われる文字がいくつかあった。
「××ちゃん」
と書かれたとこには取り消し線が引いてあり、その下に
「○○ちゃん」
と10回書かれていた。
そう。
元嫁の名前を消して、何回か連れて行った彼女の名前を書いて覚えようとしてくれていたのだ。
それを知ったオレは涙が溢れ出た。
最後までばあちゃんの優しさに触れる事ができた。
そして、ばあちゃんが死んで5日。
受け入れる事を止めていた自分にはっきり気付いた。
「行事」や「他人」のせいにして、受け入れないようにしていた。
そして仕事したり友達と会ったりして、できるだけ一人になる時間を作らないようにしていた。
一人になると当然ばあちゃんの事を考えてしまうから、受け入れてしまうのが怖かった。
でも、もう、受け入れよう。
ばあちゃんはいないのだ。いなくなったのだ。
そう思ったら、今まで我慢していたのか、ずっと、ずっと、泣いていた。
淡々と書いた弔辞も手紙も、今思い出したら涙なしには書けない。
そして、さようならだね。
出来ることならもう1回ちゃんと結婚して、
ひ孫を見せたかったなぁ。
告別式には主役は参列しない。
そもそも出席する理由は参列者自身が納得するためだから、
海に叫ぶなり、故人を偲んで一人で酒を飲むなりすればそれでおkだろう。
その方法の規定なんてのはないんだからな。
お世話になったひとの告別式に出ようとおもって寝過ごした俺とどっちが最低か。
徹夜の時間潰しに生まれてからの四半世紀を覚えている範囲で振り返ってみました。
一部あんまり意味の無い記述とかありますがあんま突っ込まないでくれれば幸いです。
1981年生まれの25歳。
■保育園時代
今考えるとこの時から周り(他の園児)と馴染めず一人遊びが多かった。
■小学校低学年
外で遊ぶ事が多かった。
ただ、同級生らと遊んでる最中に気が付くと置いてけぼり食らって一人だったとか。
何かに気が行くと周りが見えなくなるタイプだったという事か?
この頃から家庭訪問では毎回"やればできる子"と言われる。
それが真実だったかどうかはさておき、特に何もやらずに過ごす。
ファミコンに代表される家庭用ゲーム機が本格的に普及し始めたのもこの頃。
ファミコンを親に激しくせがんだ末に買って貰ったのはメガドライブ。
当然の如く、これはファミコンじゃない!と抗議。
父親の実家から祖母がやってくる。
■小学生高学年
母親の入院が長期化。5年生の一年間を父親の実家がある沖縄で過ごす。
それまで特に何の説明も受けず、こちらからも聞こうとしなかった故に、
あまりの唐突すぎる状況に全くついていけず通夜の晩は普通に就寝。
翌日の告別式でも涙が出ない。火葬場で棺が納められた炉の扉が閉まって、
ようやく思考が現実に追いつく。泣く。父親にしがみ付いていた記憶がある。
何度か棺の中を見た記憶はあるのだが死に顔は全く思い出せない。
その後沖縄に戻る。
春になり東京に戻ることになったが、父親の横には見知らぬ女性が。
幼児までいるし。告別式の晩に泊まった、父親の部屋には誰かと一緒に生活
している気配があった為、特に大きなショックも無く。
今考えると驚くほど違和感無く打ち解ける。弟の世話もなかなか新鮮な体験だった。
将来の夢は弟の影響で保父(保育士)だったが楽器演奏が壊滅的だったので諦める。
■中学生
入学当初がピークで成績は下がりっぱなし。ただ、非行に走ったとかいうわけでもなく
周りが進んでいく中で取り残されただけだった。
集団の中での規律というかルールを守るタイプの人間でもなかったのでいじめられる事も
しばしば。とはいっても極端に酷い状況に追い詰められる事はなかった。
文芸部の活動で歌舞伎座に行った時は、東銀座にも関わらず物凄く遠くに来たような気がした。
(生活していたのは練馬区)
■高校生
この頃から、ようやく世間(外の世界)を意識するように。
ただ、将来の夢は無し。周りが就職するっていうから流されて就職。
■社会人(19??
1年目
2年目
(印刷機から製版機へ)
自分を含めサポート人員が全国で3人しか居ないという状況で出張範囲が
一気に関東から九州まで広がる。でも、営業部だから手当は雀の涙。
3年目
業務内容は変わらず名古屋に転勤。
MMORPGを憶える。
4年目
大阪に転勤。業務変わらず。
が、そこの所長とウマが合わず転勤後2ヶ月で退職。
■NEET?生活(22??
1年目
ネトゲやってるか寝てるかの生活。外出は基本的にコンビニ行くときのみ。
バイトも試みるものの長続きせず、この頃は殆ど変化のない生活だった為、あまり記憶に残っていない。
2年目
前半はネトゲ生活。部屋から物が無くなる。(お察し下さい
夏に、会社員時代の同僚からmixiのお誘いがかかる。それほど時間も経たないうちにコミュのOFF会に
出てみたりするなど生活に変化が。OFF会である人物と仲良くなる。
その頃からネトゲの幻から目が覚める。でも仕事はしたくない・・・したくないというか、やりたい仕事とは
あまりにもかけ離れていた為、やる気が出なかった。
やりたかった仕事というのは、IT系のハードウェアに近いところ。
NEET生活も3年目に挿しかかろうという頃、住所不定に転落の危機。
藁をも掴む思いで前述の人物に相談。「東京じゃなないところで生活する事になるけど行く?」と
聞かれ、即答。今の職場を紹介してもらう。
■社会復帰(24??
1年目
職場のエースと自分とのあまりの実力差に価値観というか自尊心がものの見事にぶっ壊される。
多少判るとはいっても結局のところ、自分は初心者に毛が生えた程度だと思い知らされました。
やりたい仕事ってなんだったんだっけ?といった具合に立ち位置を見失う。
この頃からOFF会で出会った人物の事を先生と呼ぶようになる。
2年目
相変わらず彷徨っていた。のだが、なんとなく自分の立ち位置(出来る事)が見えてきたような気が
してくる。同時に、この頃から自分の性格というか志向で思い悩むように。いい加減遊んでいられる
年齢でもなくなって来た焦りもある。気が付けば四半世紀。
3年目(今年
職人にはなれない事をようやく自覚。ただ、自分が社会に対して出来る事が何なのかは未だ不明。
まだまだ当分もがく事になりそうです。
#気が付けば実母との付き合いより養母との付き合いの方が長いのか・・・
#ちなみに4人兄妹(俺妹弟妹)ですが、妹たちのお話はまた別の機会にでも。(あるかどうか判らないけど。
面識がなく,ろくに話をしたこともない人の葬儀に
何故参列しなければならないのかと疑問を抱きつつ…
初めて参加して周りの大人たちは皆,同じ神妙そうな顔をしているが
故人とって一体何の関係があるんだろうと余計なことを考えていた.
坊主が最後の締めのつもりなのか,(語呂的に)「喝ッ」のようなことを
大声で叫んだのを聞いて,思わず噴出してしまった私.笑いを堪えるの必死な私.
その時,その坊主のただの自己満足だろうと思われる最後の締めもそうだが
故人にとって葬儀に一体なんの意味があるのだろうか?と思った.
車での帰宅中,親にその疑問をぶつけてみる.
お金を掛けて(こんな無意味そうな)葬式をする必要があるのか?と
親「お金の問題じゃないのよ.気持ちの問題なのよ」
私「気持ちの問題なら,お金掛けてやらなくてもいいんじゃないの?
心の中で亡くなった人のことを思っていれば.」
親「・・・」
--
高校の時,飼っていた犬が死んで「あっ,止まった」と思った.
可愛がってたつもりだったが,死んだことに対してではなく
そんな感情しか抱かない自分に対してショックだった.
--
そんなこんなで私も大人になり,先日,最初に書いた叔父の妻,
つまり叔母が亡くなった.子供の頃の疑問を未だに抱きつつ…
この疑問の答えを見つけようと葬儀に出席.
今回は通夜にも出席.
狭い会場を見渡してみる.(叔父・叔母夫婦は貧乏な方だったが)
当人たちが食べたこともないような高価そうな果物や
見たこともないような高価そうな花が大量に並べられている.
告別式はともかく,通夜には故人のかなり身近な人が集まるものと
思っていたが,どうやら間違いだったようだ.
悲しみを隠す為とは到底思えない酒の飲みっぷりと愚痴を言い
挙句の果てには酔い潰れていびきをかいて寝ている男.
そして告別式.
式の途中,居眠りしている坊主(木魚の棒で坊主の頭を思い切り叩きたい)
叔母とは全く面識のないはずなのに何故か現れるという不思議.
式と火葬は終了.
皆何事もなかったかのように貰う物だけ貰って帰っていく.
葬儀業者も終わった途端さっさと手際よく片づけを始める.
これらを見ていると葬式は故人の為に行われるものではなく,ただ世間体の問題.
亡くなった人の意志ではなく周囲の人の都合により行われるものである気がする.
植物状態に陥ってしまった人が,当人の意志ではなく身内の意志で生かされるように…
親に見せる為に行われるのが卒業式.でなければ練習など必要ない.
思ってもいない事を言わされ,国家と校歌を歌わされる.
当事者がこの世を去っているという点がそれとは異なるが…
本当に故人のことを思うなら,葬儀の為のお金(それ以外のでもいいが)で
生きている間にどこかへ旅行に連れて行ってあげたり,
美味しいものを食べに連れて行ってあげる等してあげた方が
亡くなった方にとってどれだけ嬉しいことだろうか.それをしないのは何故か.
自分にとってはその方が何倍も嬉しいのだが…
そもそも葬儀を行われても既に死んでいる故に嬉しいと思うこともできない.
そして墓が作られる.墓にも一体何の意味があるのか?
私の中で墓とは「生きた証」ではなく「存在した証」である.
何世紀も後に自分の子孫にあたる子にその親が
「あなたの先祖にあたる人が居て今のあなたが居るのよ」
という私の嫌いなお説教の為だけのものだ.
その遠い子孫にあたる子供にとってはたいした問題ではない.
撮った日などを書き込んで,見つかりにくい場所に丁寧にしまっておけば
何世紀か後にそれは自分になる(そうする必要性はないが)そんなものだ.
本当の「生きた証」というのは,そのような物理的・視覚的なものではなく,
その人が思ったことや考えたこと等,思索の後を残しておくことだと思っている.
「葬儀などあげてくれるな!!」「墓など作ってくれるな!!」
と遺書を残しておくべきか・・・