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はてなキーワード: 喪主とは

2024-09-27

anond:20240926215301

吉儀(ガッ・イー)とは何?

一般的喪主香典袋(不祝儀袋)もしくは、供花(献花)をいただくのですが、その喪主からのお返しとして参列された方には吉儀(ガッ・イー)が渡されます日本でいう所謂お香典返しです。吉儀(ガッ・イー)は基本的に涙を拭くためにティッシュ1枚と悲しく苦い状態から少し甘味を与えてくれる飴ちゃん1つ、そして昔ならば、バスMTRの片道にちょうど良い1ドル(この場に戻ってこないような意味で)が入ってます。今ではその1ドル寄付することが多いです。

葬儀の参列者は、故人の(八字バッ・ジー)所謂四柱推命での命式が合わない人は参列しないほうが良いとされています。例えば、午(うま)年の人は、子(ねずみ)年のお葬式に出ない方がいいという考えです。

葬儀が終わったら、遺族に対して【再見ジョイ・ギン】と言わないように。

再見ジョイ・ギン】日本に訳すとさよならという意味もあり、もっと掘り下げると「またね!」や「また会いましょう!」という意味なので、縁起が悪いです。

2024-09-20

anond:20240919160500

自分喪主になるのって自分が長子の場合の両親だけでしょ

義両親はまぁ配偶者が長子なら配偶者喪主になるから増田も大変かもしれんけど。伯父伯母は関係ないし、祖父母は両親が喪主

からまぁ自分配偶者の両親の時以外は喪主的な振る舞いは求められないし出席して哀悼の意を示すだけ。準備とか坊さんとのやりとりとかむしろ喪主以外が口出すとか失礼すぎるわ

2024-09-19

これから葬儀関係が増えていく将来を考えると鬱

今年、義理親族葬儀に出席した

その後、49日→初盆にもそれぞれ出席したのだが…

正直めちゃくちゃめんどくさかったし、喪主がやってることはこれの数百倍めんどくさいのが

見ててよくわかった

おまけに金もそれなりにかかってる

  

今後、自分親族だけで考えると両祖父母、両親、叔父叔母だけで6回は同様のプロセスを経るのが確定している

それらにかかる労力、金額を考えるだけで今から

しかもこれに義実家側の葬儀が加わると考えると…

  

結婚式ならまだいい、金払ってその日だけ出席しとけば終わるから

でも葬儀ってなると時間の無い中でいろいろ手配しないといけないし、

そもそも三親等以上の親族の連絡先とか知らないし、葬儀屋に高い金払わないといけないしで

ホントめんどくさいんだよなぁ~~~~あぁ~~~~~~

  

今まで親族に世話になってきたのは重々承知してるし、彼らの助けが無ければここまで来ることは出来なかったとわかってはいるけどめんどくさい!

こういうやつのことを人でなしだとか言うんだろう

でも、できれば天災とかで親族全員一気に亡くなって面倒をひと手間で片付けられないか夢想してしま

  

49日とか一周忌とか三周忌とか定期的に金を巻き上げるシステム作ったやつ、

マジで死んでほしいわ~~~死んでるだろうけどな!!

2024-09-10

お葬式が終わっても人生は続く

一昨年に母、今年に父を亡くして、ついに喪主をやることになってしまった。

親が亡くなるってことは想像できていなかったけど、終わってみるとあっけないね

まだまだ相続とか実家の整理や処分とかやらないといけないことはたくさんあるのだけどね。

親が死んだら俺が喪主だけどもう何十年も葬式出てないからやり方わかんねえや

最後に出たのって10歳の時だったか

まあその辺は業者さんが上手いこと取り計らってくれんのかな。でも葬式結構かかるって聞いたな。正直、死んだ人間の一回きりの式に豪華さはいらないって思うんだけど(その分、生きてる人間のために使ったりお供え物を豪華にしたりしたい)、葬式挙げる時のメンタリティなんて平常時とは違うだろうしなぁ。俺もカモられんのかね

2024-08-25

anond:20240825002921

少し前に親が亡くなって喪主になったんですが、式の進め方や呼ぶ人など右も左もわからない中、「喪主になった話と」の配信を聞いて、増田も読んで、少し心のゆとりを持って葬儀に臨めました。

そのお蔭もあって、完璧ではないものの無事に葬儀が終って、確実に一人の人間が助かりました。有難う。

2024-08-15

航空機事故遺族だった

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/dailyportalz.jp/kiji/Mayday-study

このエントリブコメ見て初めてはっきり認識したんだけど、自分って航空機事故遺族なんだよなあ

なんか、あ、そうだったなって

言葉にするとそうなんだ、そこに入ってるんだって

今初めて腑に落ちた感じになってる

当時小学校低学年だったからはっきり覚えてなくてすべてが大人の伝聞で、事故の連絡が来てから大人たちの慌ただしさと情報のなさと、夜中にきょうだいと二人で家で待ちながら不安になったことと、「重体」ってだってまだ生きてるってことだから助かる可能性あるんでしょ?って一人だけ勘違いしてて楽観的で場違いなことを言っちゃったことと、たびたび、ついこの間もかっこいい車でマックに連れて行ってくれた人が死ぬのかもしれないという不思議さとどこか詰め所に移動してからやっぱりきょうだいと身を寄せ合って読んだ「燃える!お兄さん」がこんなときでも面白くて二人で同じとこで噴き出しちゃって気まずくなったこととか、そんなことだけ覚えている

結局亡くなったあとのお葬式で、その人のお母さんがほら目を開けた!開けた!って棺の中の人に縋りついて泣いててお葬式って本当にこうなんだなって思った 

しかしこれらの記憶ももう正確かどうかわからいくらいの時間が経った

自分喪主になった人の家族でその苦しんだ人も突然の病で数年前に看取って、あのときのことを話したり泣いたりはっきり覚えている人もだんだんこの世に少なくなってきた

遺族同士で連絡を取り合うでもない、誰かに実は自分家族は…と積極的に話したいことでもない

みんな多分意識的に黙っていたのだ

しか航空事故なので詳細な事故調報告も裁判記録も今でもネット上にはっきりこと細かに残っている

数年前初めて意識して検索してそれを見つけたとき、やっとなにがあったのか初めてわかった気がした

本当に大変な事故だったんだよな、その後のことも

その後あの人もあの人もあの人も自分も本当によく生きてきたもの

こんなの大人になってからしかからないよ本当には、そして大人だって決して体験したくなかったに違いない、という類の重たいもの自分体験意識的に上書きされた

かつての実際上の体験としては風化しているものテキストではつまびらかに入ってきてあのときより生々しく感じられた

それでも自分が遺族って気分じゃなかったけど、なんか昨日なぜかストンと納得した

嫌だなあという気持ちも悲しいなという気持ちもない、他人ごとではないけど、ただそうなんだったなって把握があった

あくま自分にとってはだけど、こういう体験ってごく個人的ものになってしまっているということだろう

もちろん個別のその事故面白おかしく扱われれば腹も立ったり困惑したりもするのだろうけど

なんていうか、遺族って結構そこらじゅうにいて珍しくない人たちだと思う

自分はてブにいたみたいに

不謹慎かそうでないか論戦もきっと茫洋としながら黙って見ているだけだ

なんとなくそのことだけわかっていてはほしいとは思った


追記

ごめん、あまり詳しくは書けない

書きたかたことは最後の何行かの部分で事故の詳細そのものじゃないか

かなりぼんやりさせたつもりだけど、このお葬式や詰め所の書き方でもその場にいた人や自分きょうだいが覚えていればあああの事故だな、書いたのはあの子かなってわかってしまうと思う

(自分にとっては書いておく必要があった)個人の雑感だとしてもこうして書き残すことを快く思わない関係者の人もいるだろうし、そういう人たちに悲しい思いをさせたいわけじゃない

なら書くなって話だけどさ……

anond:20240608114733

頑張った結婚式が思い通りにならなかったのは残念だが、元々他人自分の思い通りに動かすことはできないもの

貴女は義兄の上司でもなんでもない、お願いして来てもらっているのだから

自分コントロールできないことに怒るのは無駄

親戚が都合いい人ばかりとは限らんし、また、そういうあらっぽいのが役に立つ局面もあるかもよ

そうやって夫と夫の親族に一生言える貸しが1つできたと思えばええやん

次に結婚式やるときは義兄は出禁アルコール禁止

まあ、どうしても許せなければ、義兄が喪主の義父母の葬式自分が酒乱で暴れてめちゃくちゃにしてやるとか……

2024-08-13

から喫煙者は……

とある暑い日の葬儀での話

喪主意向で、喪服で参列するのもキツいだろうということで、外部には伝えず家族葬で行うことに

実家田舎とはいえ住宅密集地。斎場は離れているので電話連絡だけで当日集合することに

そこで近しい親族、ということで遠方からとある親族がやってきた。実家に泊まりたいという

急な話だしホテルも用意できないので受け入れたのだが、この親族喫煙者だった

実家には喫煙者はいない。実家では吸わんでくれよ、と喪主は言ったのだが

通夜の直前、実家玄関先で、喪服状態喫煙して、近所バレ

翌日の告別式には町内の参列者が多数来てしまいましたとさ

2024-07-04

父が亡くなった

どこに書いていいのかわからんので増田に書いておこうと思う。

今朝父が亡くなった。朝8時過ぎぐらいに病院から電話がきて、母と弟を連れて病院に着いたのは9時過ぎぐらい。その時点で既に心臓が止まっていた。

蘇生処置は行わないとしていたため、私たちの到着後すぐに死亡確認となった。眠っているような顔で、それでも体は少し冷たくなりかけていた。

昨日お見舞いに行った際にはこちらの声や周りの音は聞こえている様子だったが、喋ることはできず時折うめいているような状況だった。ここ数日は痛み止めの薬がかなりキマっており、夢と現実の間を反復横跳びしているように見えた。私たちがお見舞いに行ったときには、白目を剥きかけながら現実に戻ってこようと頑張ってくれていたように思う。

父の病状は基本的には容赦なく悪化して行ったが、その進行にはある程度の時間がかかったと言うのが唯一慈悲深かったところだと思う。3年近くの時間を稼ぐことができた。私も最後半年は父と過ごすことができた。父にとっては苦しみがいたずらに長く続いただけだったのかもしれないが。亡くなる数日前に食べたいものはあるか、何か買ってくるものはあるか、と母が父に尋ねたところ、父は「命を買うてきてくれえ」と言っていたらしい。父ももっと長く生きたかったと今際の際まで思っていたのだと信じたい。

父が入院する前、夕食後に毎回ハグしていた。最近はずっと管がついててできなかったか今日は久しぶりにハグできた。もうできなくなってしまうと思うと本当に悲しい。

私はたくさん泣いたけど、ひとつも泣かなかった弟は大丈夫なんだろうか。いつもと同じ調子で虚空を見つめていたけど、泣いていないことで後々辛くなったりしないのかな。個人的には泣くと涙と一緒に悲しい気持ちとか記憶を流せるような気がする。

10:00 葬儀屋地域の縁戚の中で顔役的な人に連絡した。葬儀屋病院への到着は正午ごろの予定。顔役の人は昼ご飯を食べたら自宅に来るとのこと。

10:30 私と弟は先に自宅へ戻ることになった。病院に置いてあった父の荷物もまとめて持ち帰った。お客さんに配るためのお茶を道中買った。自宅で作るって選択をしなかったのは正解。

11:00 帰って座敷に布団敷く。頭は西向きまたは北向き。来客用スリッパは出したが結局ひとつも使われなかった。四歩ぐらいやしなー。玄関に出しっぱなしの靴は一旦片付ける必要がある。来客ラッシュが予想されるためお茶を冷やし来客用のコップを洗

11:30 おうとしたところ、顔役の人が自宅にきた。昼ご飯食べたらって言うたやーん。葬儀屋病院到着予定時刻を伝えたところ、「ほな13時には着くからみんな呼ぶ時間早めるわー」と仰り各所に電話し始める。ここから怒涛の展開なので時間がよくわからない。

11:45? サブ顔役みたいな人がくる。何か式次第チャートみたいな表を何部も印刷して持ってきててビビる

12:30? 続々と縁戚の人が来訪する。

13:00? 葬儀屋さんと母と父が到着する。ドライアイス処置とか化粧をしてもらう。今の時期虫が発生しやすいので蚊取り線香とかあるといいとのこと。

13:30~14:00? 菩提寺住職さん(女性)と坊守さん(住職さんのお母さん)がきた。お経をあげてもらう。住職さんも代替わりしたばかりで、今回の父への読経デビュー戦とのこと。坊守さんが住職さんへ船場吉兆みたいな指示の仕方をしていた。

14:30~15:30? 田舎葬式は怖い。縁戚の人たちがどんどん式次第を決めていく。家族葬にして後のおかえしの負担を減らすのが父と母の意向だったが、真反対の方向に話は進んでいった。私はぬるっと喪主になった。決裁権者は母だし、そもそも私と母の頭上で色々なことが決まっていくため途中からは流れに身を任せていた。

15:30~16:30 役場に死亡届を出しに行く。様々な書類を書いた。喪主(私)と新世帯主(母)が別人でしか世帯分離してると相当めんどい火葬許可証をもらう。これ火葬場に持って行き忘れるとえらいことになるらしいよ。戸籍の変更の関係上2週間経たないとできない手続きが色々あるらしく、時間をおいてまたいらっしゃいと言われた。

16:45 役場から帰ってきたら勝手口に野菜が大量に置かれていた。顔役の人たちが家にいたけど誰が届けたのかは全然からないらしい。だれぇ……?

17:45 エアコン設置の下見を頼んでいた業者さんがくる。今日キャンセルしたらいよいよエアコン設置が今夏中に行えない可能性があるから実施できてよかった。もっと日中訪問だったら終わってた可能性ある。

17:00~18:00 家に残ってた顔役の人の自慢話を聞く。

今日はこんな感じ。ねむい。

https://youtube.com/live/kNNKxg7TO3Y

2024-05-07

ゴールデンウィークに久しぶりに親に会ってからずっと「なんでこんな最悪な気持ちになるって分かってたのに会ってしまったのか」「もう金輪際会いたくない」「死んでも喪主もしたくない」ということばかり考えていたのに、同僚と話してたら普通の人ってどうやら親と会うのがリフレッシュになるらしくて。今すごく苦しくて死にたい

2024-05-04

子供産んだのに孫の顔見れなかった女は世界で一番悲惨

子供を産み孫の顔も見れた女が最も幸せ

自らの血が後世につながっていく生物勝利に酔いながら死んでいける

次にマシなのは子を産まなかった女だ

生物として敗北する一方で、子や孫に使うはずだった金や時間を思いのままにできる

子供を産んだのに孫の顔を見れなかった女は最も不幸だ

子供を産み育てることに肉体も精神も摩耗した先で、血が絶たれる

費やした金も時間もすべて無駄

子が誰にも愛されず次代に命をつなげられなかったのは、明らかに親の教育が悪いからだ

もしくは親が健全に産めなかったことが原因だ

孫の顔を見れないことは母の産み方育て方が悪かったという厳しい評価に等しい

子供の進路、叱った時に放った言葉、父との仲、そういったものを一つ一つ思い出しては「あの時に誤った方向に行かせたのではないか」と母は繰り返し後悔する

後悔しても時は巻き戻らずに進む一方で子は老いていき婚期は遠ざかり母も老いて死が近づく

孫に看取られることも孫が葬式で泣いてくれることもなくうらぶれた独身の子供がたどたどしく喪主を務めるだろう

2024-04-29

結婚して良かったこ

明日結婚して8年になるので「結婚して良かったこと」をまとめた。

付き合って4年、同棲期間はなし。

相手結婚する気が無かったが、付き合っているうちに「この人と一生一緒にいたい!法的確約が欲しい」と思って説得して結婚した。(もちろん最後相手も納得してくれた)

毒親と絶縁できた

これまで自分に何かあったら身内は親しかいないし…と毒親ムーブをある程度受け入れていたが配偶者ができて、その心配ないと心から思えて絶縁できた。

健康になった

増田子供の頃から季節の変わり目にはいつも体調を崩していたが、配偶者生活改善を促されて言われたまま従ったら上のような体調不良が嘘のようになくなった。

意識して変えたのは「疲れたらすぐ寝る」「昼寝する」「お風呂に浸かる」「バランスよく何でも食べる」「土日は休む。無理に出掛けない」こと。

③家に帰るのが嬉しい

友達と会った後や飲み会の後に家に帰るのが憂鬱だったが、帰れば配偶者が家にいるんだと思うと足取りが軽くなる。仕事ミスしても帰って愚痴を聞いてもらえると思うと気持ちが落ち着く。

好きな人の新しい一面が見れる

寝言が多い、足で床に落ちているものを取る、嬉しい時に謎のダンスを踊る。4年付き合って結婚したけど、交際中は知らなかった姿だ。

デートに気軽に誘える

「今から帰る」とお互いに毎日連絡し合っているので、こちらの仕事が早く終わったときなど「〇〇駅で落ち合ってご飯一緒に食べない?」とか言いやすい。

⑥法的に関係が認められているという安心感

今の配偶者と付き合うとき「誰とも一生結婚しないと思ってるんだけどそれでもいい?」と聞かれた。増田結婚願望があるわけではなかったので気にならなかったが、ただ付き合っている状態結婚全然違うことが今はっきりとわかる。配偶者が手術を受ける時は同意書が書けるし、職場の緊急連絡先もお互いだし、万一の際は喪主になるんだと思うと安心する。

同性婚できない今の制度は、当事者の人は本当に辛いと思う。

毎日楽しい

良いこと、悪いことがあればすぐに話せるし、一緒にいるだけで楽しい

結婚前の生活には絶対戻りたくない。

だいたいこんな感じ。ネットには結婚デメリットばかり書かれてるけど、結婚して幸せな人もそれと同じくらいいると思う。ただ、幸せな人は楽しい生活を送るのに忙しいので書き込まないだけだと思う。

増田結婚して8年経つまでこんなこと書かなかったし。

他に結婚して良かったことがある人いる?ぜひ教えて欲しい。

2024-04-22

とある同族企業の弊社の話

社長長男が後を継ぐかと思ったら、常務まで行ったところであまり無能だったので平取締役に降格

かわりに次男が跡継ぎになった

そして前社長が亡くなった今、喪主はさすがに長男の元常務が務めるんだけど

社葬はどうするんだろう、平取に主催させるわけにもいかないので社長かなあ

なお三男は空気

2024-04-01

用法・語法や用例を調べもせずにすぐに間違いだと騒ぐ人々

https://twitter.com/taozikw/status/1774344519770849306

JR東日本の駅でこのポスターをみるたびに、この方は、我が子の出産ではなくて、妻の出産か我が子の誕生に駆けつけようとしているんでないの?と不思議なのですが・・・もしかしておじいさんになるところ?

このツイートリプライ引用を見ると、「我が子の出産」と言えば「(話者の)子が(話者の)孫を産む」以外にあり得ないとする人々が多く見受けられる

しかし、以下の用例はおそらくごく自然に読める者が大多数であろう

長男出産には立ち会えたが、次男ときには……」

男が子を産むことは2024年現在はあり得ないので、日本語話者は即座に「長男が産まれとき」の意味選択して理解できる

 

「我が父の出棺」といえば、大抵は父が喪主になって祖父や母を出棺する話ではなく父の遺体が出棺される話であろう

これと同様に、「〇〇の出産」も、文脈上明らかであれば〇〇が産まれることを指す場合は往々にしてある

 

「母の出産ときにはこうだったが、私の出産ときには……」

というと、

解釈する人はそれぞれそれなりにいると思われるし、話者男性であれば間違いなく後者解釈されるであろう

 

多義的であるので「我が子の出産」はコピーとして悪文ではあるかもしれないが、

文法・語法において「我が子が産まれる」という意味で使うのは間違いではない

しゅっ‐さん【出産】 の解説

[名](スル)

子が生まれること。また、子を産むこと。「男子を—する」

産物ができること。産物をつくること。産出。「—地」

2024-02-18

anond:20240218132449

お前と結婚してお前の子供産んでお前と生涯添い遂げて先に死んだお前の葬式喪主を務める女とかハードモードだろ

2024-02-11

祖父お葬式無双した

おじいちゃんが亡くなって、もうすぐ2年なので二重の意味で供養する

.

私はどこに出しても恥ずかしい陰キャオタク

更には、大金かけて入学させてもらった私立大を中退して実家に帰ってくる親不孝でもあった。

5歳下の弟は国立大入学後、大学院へ、卒業後は隣の県で、地元の有名企業新卒採用された。

私はというと、実家から通える職場に何とか腰をすえて、朝から夜遅くまで働く毎日

.

絵に描いたような出来損ないの姉と優秀な弟だが、おじいちゃんとおばあちゃんからみれば、どちらもかわいい孫だったようで、平等にかわいがってもらっていた。

あと、他にも孫は5人ほどいて、同じ歳の従姉妹たちは20代赤ちゃん生んで若いママとなり、従兄弟たちは実家事業継いだり、東京仕事したり、そんな感じ

親戚の集まりでも、叔父さんたちから、アネちゃんは…とりあえずいい人見つけて、早く赤ちゃん生まなきゃね…😅みたいに言われて、しんどかった。

.

そんな鬱屈した30代を過ごす私のもとに、祖父訃報が届いた。

深夜、両親は先に実家へ、私は夜が明けてから会社に忌引の連絡と荷物をとりに行き、車で向かった。

夜のうちに看護師さんたちが、着替えさせてくれたそうで、いつものシャツニットベストを身に付けたおじいちゃんが布団に横たわっていた。

すごく綺麗な姿をしていた。

れいなのだ

おばあちゃん「これもう、目も口も閉じないのかね」

.

おじいちゃんの死に顔は半目で口も半開きだったのだ

伯父伯母たちは「もう死後硬直してるから無理でしょ」と諦め

葬儀屋さんは「半眼半口(はんがんはんぐ)といって仏様と同じ成仏の相で、ありがたいお顔なんですよ」とかなんとか、祖母をなだめてくれている。

私は車から仕事道具を持ち込みながら言った

.

「じゃあ目と口閉じるね。ピンセット使うから、危ないから頭元から離れて見守っていてね」

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葬儀屋さんによって、故人の死化粧とか納棺師さんがいるところもあるんだろうけど、おじいちゃん葬儀を依頼した葬儀屋さんにはいなかったようだ

専門の道具を持ってきた私をみる目が、完全に変わるのを感じた

私の勤め先は、隣町の老舗葬儀社で、何だかんだ8年ほど勤めている

親や親族が取り囲んで見つめる中、15分程でおじいちゃんのまぶたは閉じ、口元は含み綿で自然に閉じることができた

半目半口の考え方も、もちろん知っているが、喪主が閉じてほしいといってるのなら、私ならできるだけ善処する。

とりあえずおばあちゃんが喜んでくれたので、よかった。

気がつくと、他の親戚たちから目線

どうやら私が葬儀社に勤めていることは、あんまり知られてなかったようだ。

…うちの親は、親戚間では基本弟の自慢で、私の話してないだろうからね。

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その後も、率先して納棺させてもらったり、式場の御供えの順番を、おばあちゃん相談受けながら決めたりしてお通夜を迎えた。

直前に伯父さんから、遺族代表挨拶を考えてほしいと言われた時は、さすがに焦ったけど、それっぽい文面作って渡したら、大層感謝してもらえたよ。

そして、本当にそれをそのまま読み上げてて、内心、それでいいんかい、とツッコミを入れてしまった。

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翌日、伯父が今度は、告別式で7人の孫を代表して、誰か弔辞を読めと言い出した。

この時点でだいぶ嫌な予感はしていたが、まあ皆、人前で話したくないわ、文章考えたくないわで、押し付け合いになるに決まっている。

そして、想像通り、私が孫代表となった。うん、知ってた。

代表になったことを母に話すと「初孫でもないし、祖父といっしょに住んでたわけでもない、孫代表あんたじゃないでしょ」と否定的

そうは言っても他の孫たちはやりたがらないし、母にとっては、いらん恥かかされたらたまったもんじゃない心境だったんだろう。

.

そんなこんなで、本番。

お経が終わって、孫代表弔辞

名前を呼ばれてマイクスタンドまで歩き、読み始める。

読んでいる途中、あちこちからすすり泣きが聞こえはじめる。

今まで、仕事でみてきた何百という葬儀の、いろんな感動的な弔辞や孫から言葉を、いい感じに繋ぎ合わせて読んでいるだけだが、なかなかどうしてサマになっているらしい。

最後に、自分たち孫のことだけでなく、親族一同をあげるようなことを入れれば、完璧

振り向いたとき揶揄ではなくまじで式場にいる全員が泣いていた。

葬儀屋さんも泣いていた。

私はまるで、世界一おじいちゃん想いの孫で、傷心の中想いを込めて言葉を送った、そんな空気だった。

.

葬儀後、会う人会う人とにかく褒められまくった。

あんなに素晴らしい弔辞いたことない、こんなに素敵なお孫さんがいておばあちゃんは鼻が高い。

まあ、素直にうれしいよな。褒められたらさ。

否定的だった母も、周りの評価で手のひらクルっとなり、親から手放しでこんなに褒められたの初めてなんじゃないかレベルで褒められたよ。

どんな仕事でも、活躍の場があるということ。

なんだか、ありがたい経験だった。

からは「こういう時にしか輝けない仕事」と言われたが、この先「こういう時」が増えてくるんだから大人しく、お葬式は姉に任せなさいね

.

そして、おじいちゃんありがとう

三回忌法要、お参りにいくから

2023-11-29

終わらせたい家

父方の実家が嫌いだ。

最近ようやくその縁が切れる目処が立ってきたのだが、いざというとき決心が鈍らないようにどんなに嫌いか書き起こしておくことにした。



父の実家田舎だ。

緩やかな坂の上に建つ家は大きく、貧乏だった祖父会社を興し一代で築いた。隣の家に行くのに坂を下り道路を渡っていかなければいけない。

いずれは父の家庭(つまり私たち)を呼び寄せ二世帯で暮らすことも考えていた、と後から聞いた。

その割には電気関係があまりに貧弱で頻繁にブレーカーが落ちていたので、どのみち無理だったと思う。


家の前は杉林でそのまま山へと続く。夏はアブが、冬はカメムシ大量発生する。

敷地は広く、車が三台収まるコンクリート造りの車庫に加えて大型の農機具が複数収まる小屋や鶏小屋、2つのビニールハウスを備えてなお広がる畑もある。

畑の先にはそれなりの大きさの池があり、祖父がそこに鯉を放し飼いにしており夕方には餌をやりに行っていた。

その池を回ろうと祖父が小型の舟を買ったことがあったが私は一度も乗った記憶はなく、舟は池の側で逆さで放置されていた。

祖父は昔からそうだ。思いつきで使いもしないもの大金はたいて買い、あとはゴミになる。成金のものだ。

ワープロパソコンピアノ


祖父は六人兄弟長男で下はみんな妹。

正月や盆にはその親族大勢この家に集まって、仕出し料理なんかをとって宴会をする。映画サマーウォーズのような風景だ(なお、このために私は本作が嫌いである)



私は普段はそこから車で一時間弱の県庁所在地暮らしているが、長期休みや時には土日ともなればすぐさま連れて行かれ父の実家に預けられて過ごした。(これは祖父母の意向であり、母は嫌々だったと聞いている)

家の周りは田んぼと山で、歩いていける範囲にあるのは駄菓子屋のみ。

その頃にはすでに人口過疎化が進んでおり同年代の子供は一人しかいなかったし、あまり気も合わなかったのでその子とはあまり遊ばなかった。

長期休みの始めから終わりまでを、家から持ち込んだ自由帳に絵を描いたり、擦り切れるほどに読んだ漫画をまた読み返したり、近所の家のお兄さんのお下がりファミコンソフト数本でしのぐのだ。いつも学校で一緒の友達はみんな64で遊んでいる時代にも関わらず。


家業建築業であったが農業も営んでおり、物心ついた頃から田植え稲刈りに連れて行かれるのが普通だった。

当然ヒマだったし、それなりに成長してから仕事が振られるがそれも嫌だった。

小学生の頃は春に運動会、秋に学芸会があったがちょうど田植え稲刈りの時期と重なっており、父や父方の祖父母がそれを観に来た覚えはない。母と母方の祖母がいつも来ていた。

仲の良かった子たちの親はみんな会社勤めや公務員だったりして、行事ときには父母揃っている姿をよく見た。

羨ましいと思った記憶はないが、うちは何か違うんだなぁということは感じた。

一番嫌だったのは、運動会の後にはそのまま車で父実家連行されて田植えに駆り出されることだった。最初から体操着を着ているので都合がよかったのだ。

運動会頑張ったか今日レストランに晩ごはん食べに行こう、と話すどこかの家族ドラマ世界のようだった。


田舎自然環境農業中心の暮らしよりも嫌だったのは、親戚付き合いや近所付き合いだった。

道を歩いているだけでどこの家の人間かわかってしまう。他に子供がいる家がないからだ。

そして田舎特有距離感で、なまりの強い言葉でやたらと話しかけてくる。こっちはお前が誰だかも知らないのに。

私は三姉妹の真ん中だが、みんなだいたい私を姉と思って話しかけてきた。

姉とはけっこう歳が離れているので普通なら間違わない。実際、地元の知り合いに私と姉を間違う人はいなかった。

しか田舎の人たちは子供を見慣れていないので子供の年齢からくる体格の違いなんてわからないのだ。子供子供、と一括りにされている。


そもそも私たちがいくつになるかなんて知らないし興味もなかっただろう。なら放っておけばいいのに何故か近寄ってくる。

妹とは歳が近かったし見た目も似ていたので当然間違えられた。最初から最後まで間違えたまま帰る人もいた。

中間子は影が薄いなんて言われることもあるが、姉と妹の名前は覚えているのに私の名前だけ出てこないなんてこともザラにあった。


母(というか女性)は親戚集まりの際には台所であれやこれやと仕事をしていなければならなく、それは子供である私達も同じだった。

ただ飲んで騒ぐだけの男たちにやれ酒を持ってこいだのあれが足りないだのと次から次に言い付けられても愛想のいい姉はちゃん対応していたし、妹は人見知りがひどかったので常に台所で母にくっついて手伝いをしていた。

私も妹と同じく人見知りだったが母は妹に取られている、かといってよく知りもしない親戚連中のおばさんたちに指示を仰ぐこともできない。

人見知りなのだから愛想がいいわけもなく、私が「もっともだめなやつ」になるのは当然だった。

そのうち人前に出ることも手伝いをすることも拒否するようになって、親戚集まりの際には空き部屋に引きこもるようになるとますます評価は下がった。

「姉も妹もよく働くのに、どうしてあなたは」とわざわざ嫌味を言いに来るおばさん(祖父の妹の一人)もいたが無視していた。

上記のおばさんには奇しくも私と生年月日を同じくする孫(私からすると再従兄弟になる)がおり、彼はいわゆる優等生だった。勉強ができ、親の言うことをよく聞く子だった。(数年後に爆発して親と険悪、音信不通になったが)

姉妹の中だけではなくそこでも比べられた。

更に私は高校受験に失敗するし入った学校は結局辞めるし定時制高校に入り直すもバイトに明け暮れて学業を疎かにして卒業が危うくなるしで株を落とし続けた。

親戚中からの「あいつはどうしようもないやつだな」みたいな空気は幼い頃から親戚集まりがあるたびに感じていたのに、後半はもう完全に腫れ物でいないものかのような扱いだった。その頃にはもうその方が居心地がよいほどに親戚が嫌いだったが。


高校に入ってすぐに父母が離婚して、当然私は母方の籍に入った。というか三人全員そうした。

父方の親戚たちは離婚時にまで首を突っ込んできた。(中でも嫌味おばさんはすごかった)

なんで夫婦問題祖父母どころか親戚が絡んでくるのか謎だったし、そういうのが当たり前な気質気持ち悪かった。

元々苦手だった祖父母のことも、このときに嫌いだとハッキリ自覚したと思う。

それまでは幼い頃にそれなりに一緒に過ごした情があったというか「家族(親戚は別)を嫌うのは悪いこと」という固定観念があったので「自分祖父母が嫌い」ということから目をそらしていたのだと思う。

そもそも両親の離婚の根っこにも祖父母の干渉があった。

幼い頃から父とあまり関わってこなかったせいか特に離婚のものダメージはなかったし、なんなら父とはその後不仲になる一方だった。

離婚後に実家に戻ったことで、父に元々あった、私の嫌いな「〇〇家(父実家)の人間っぽいところ」が顕著になったために父に対する嫌悪感が強くなってしまったのだと思う。

(親権は母が持ったが、みんなそれなりの年齢だったので私たちが父や父実家に関わるかは本人に任せるスタンスだった。そのため離婚後もときどき父実家に行ったりなどがあった)

離婚から十年近く経ってから、父が亡くなった。持病を持っていたし年々痩せていたので長生きはしないと思っていたがまだ五十代で予想よりもずっと早かった。

父とは、死の半年前に病院から退院する父を迎えに行ったとき最後だった。

もっと会えばよかった、みたいな後悔は別になかった。

私よりも父と過ごした時間が長かった姉や就職と同時に県外に出ていた妹は訃報を聞いて泣いていたが、私は一度も泣かなかった。飼っていたペットが死んだときの方がずっと悲しかったし泣いた。

その頃には父のことが嫌いとまではいかなかったが決して好きとは言えない、という程度で、なんなら二人が行くなら私は葬式に行かなくてもいいか?と姉妹に聞くくらいだった。葬式の日に舞台チケットを取っていたのだ。私にとっては本当にそのくらいの関係性になっていた。

流石にそれは、と二人になだめられて舞台は諦めて葬式に出た。

父の葬式ときにも父実家は最低だった。

誰が喪主をやるかで揉めて、しまいにはすでに嫁に出て別姓を名乗っている姉に押し付けようとするために姉が泣く始末になった。

私は当然怒って姉を庇ったが普段ロクに喋らないので、おそらく親戚たちが聞いた最初最後の私の怒声だっただろう。

嫌味おばさんが人生終了レベルトラブルに見舞われたり(自業自得)親戚の中でも故人が増えたりしながら数年経った。

父の死後は、介護とまではいかないが姉に協力するという形で祖父母の様子を見に行ったり通院の付き添いをするようになっていた。

姉は祖父母を見捨てきれなかったが姉一人であの家に関わったら姉が潰れてしまうと思ったので協力することにしたのだ。

数年間そんな生活をしていたが、少し前に祖父が持ち前のクズを発揮して優しい姉に絶縁宣言をされた末に施設へ入った。

姉が縁を切るなら私ももう関わる義理はないので、自分が請け負っていた祖母病院関係を整理したりして縁切りの準備をしている。

最低限の下準備はしてあげているので今後は自力でなんとかするだろう。というかするしかないけど。


姉と妹は結婚しているが子供はおらず、私に至っては結婚願望どころか恋愛願望すらない。

自分にもあの一族の血が混ざっていることが嫌だし、自分もああなってしま可能性があるかと思うとボケときなんかが恐ろしくてたまらない。

なるべく迷惑をかけずに一人で生き、静かに死にたい

別に葬式もいらないし、火葬だけは法的にしないといけないので最低限のお金を遺して身元保証会社かにお願いしておくから適当無縁仏かに放り込んでおいてほしい。

最近はそういうことを考える。

子供は欲しくない」「あの家の遺伝子はここで絶ったほうがいい」が三人の共通認識なので、家庭環境って大切だなと思う。

2023-11-20

anond:20231120224735

裏の仕切りは女率もあるかも分からんが男が喪主になるってのが全てだわな

岸田は義理父親葬儀を切り上げて葬儀済みの池田大作を弔問した

首相動静(11月18日)

(略)

 19日午前0時13分、米サンフランシスコでのAPEC首脳会議出席などを終え、政府専用機羽田空港着。同30分、同空港発。

 午前0時53分公邸着。

 午前1時25分現在公邸。来客なし。

首相動静(11月19日)

 午前7時46分、公邸発。同8時9分、羽田空港着。

 午前8時33分全日空673便で同空港発。

 午前9時37分、広島空港着。同46分、同空港発。

 午前11時4分、広島県三次市斎場「平安祭典 三次会館」着。裕子夫人の父・故和田二郎氏の葬儀に参列。

 午後1時39分、同所発。同2時5分、同市の火葬場「三次市斎場悠久の森」着。

 午後3時28分、同所発。

 午後4時36分、広島空港着。

 午後5時18分、全日空682便で同空港発。

 午後6時41分、羽田空港着。同7時1分、同空港発。

 午後7時28分、東京信濃町創価学会本部別館着。同30分から同45分まで、同会の故池田大作名誉会長の弔問。原田稔会長池田博主任副会長と面会。

 午後7時49分、同所発。同58分、公邸着。

 午後10時現在公邸。来客なし。

和田二郎さん(わだ・くにじろう岸田文雄首相の義父)11日死去、94歳。通夜は18日午後7時、葬儀は19日正午から広島県三次市十日市西6の8の1の平安祭典三次会館で。喪主長男成一郎さん。

創価学会名誉会長SGI創価学会インタナショナル会長池田大作先生が15日夜半、老衰のため、東京新宿区内の居宅で霊山へ旅立たれた。95歳のご生涯であった。葬儀17日、近親者のみで家族葬として執り行われた。

いやわかるよ、政党トップとして所属議員たちを食わせにゃならん、そのためなら池田先生のケツでも遺灰でも舐めてやるってんだろ

全く支持はしないが覚悟はわかる、ずいぶんな賭けだな、俺は立派だと思うよ

でもさ、それって義父の葬式をさっさと切り上げてまですることか?池田葬儀は2日前にとっくに終わってるんだぞ、時と場合ってもんがあるだろ

アメリカAPEC会議ついでに6カ国との首脳会談ほか行事たくさん、深夜に帰国し義父の通夜には出られず、翌朝一番広島入りして葬儀、そして信濃町創価学会本部トンボ返り

大変なスケジュールだと思うよ

からってお前、火葬滞在1時間23分間ってまともに骨拾えたのかよ

義父との別れを、妻への慰めを、喪主への労いを、広島滞在7時間でまっとうできたと言えるのかよ

それらを投げ打って既に葬儀の済んだ創価学会本部に馳せ参じてまで票が欲しいか

政治家岸田文雄は立派かもしれないが、俺は今、人間岸田文雄軽蔑しようとしている

https://www.jiji.com/amp/article?k=2023111800255&g=pol

https://www.jiji.com/amp/article?k=2023111900133&g=pol

https://www.asahi.com/sp/articles/DA3S15791659.html

https://www.seikyoonline.com/article/1105A80AC3B8C9691D68205F3E12D455

2023-11-18

知己の死に触れ、告別式に向かう。死体を見る必要特に感じなかったので受付を済ませ弔いの花と香典を渡しそのまま席に腰を下ろそうとすると、喪主が顔を見てやってくれと2度言ってきた為に顔を見に行く。(己は喪主と面識は無かったのだが花を渡したから促されたのだろうか?)

棺桶を覗き込むと生前と然程変わらぬ穏やかな死に顔を整えてあり、さもありなん(生命活動を終えた肉体がそうなっている状態として自然な様子である特に感慨はない。肉親を含み、過去2回見ている)と思ったが、悲しむのが礼儀認識はしているため、心掛けて悲しい顔をした。

焼香を済ませ、棺に蓋をする手前、仏花を全て棺に入れていく旨あり、列に並び、係員によって盆の上に盛られている花達を手に取り遺体に添えていく。

人々の泣き声を聞きながら何度かその行為を行っていると別の知己が傍にやってきて、悲しい、残念だと涙を流すので、本当に、言葉もない、残念なことだと同意して心掛けて涙を滲ませ労る為に相手の肩をさすった。

 

夏目漱石の「思い出すことなど」を読んでいると、地球という天体はそも一塊の瓦斯から発生した程度のもの宇宙歴史から見れば人の一生はほんの瞬く間、その構造鑑みる本来は生死を一喜一憂するまでもない事象といった事を述べた直後に知己の死への弔いの句を認めている為、システムとしての生死と、道義としての生死を別枠で認識している、せねばならんと能動的に意識しているのだろうと感じ、共感を抱いた。

 

他者が人の生や死に一喜一憂するのを無駄とは言わないが、己が同様にそう出来るかどうかはまた別の話である。己以外の他者も或いはそんなものかもしれないが、確認のしようはない。

 

悲しくない訳ではない。本来なら人前にそれをわざわざ出す必要を感じない、というだけの事で。他者の目があるので奇異に映らぬよう意識して外に出す努力はするが。

2023-11-05

anond:20231105110705

おまえらも親の死んだときお葬式喪主になったらやっぱり「うちの宗教」があったんだなっておもうよ

2023-09-27

激冷めな俺が父親の「死にたい」に放つ言葉

俺「やり残したこととかないの?」

父「ない。みんなよく育ってくれた。」

俺「そう。やり残したことなく死ねるなら最高じゃん。俺もそうなりたい。」

父は実家に帰るたび「死にたい」と漏らすようになった。

会社定年退職後、家にこもるようになる。

死ぬ3年ほど前から、ストゼロキングピースで昼夜自傷行為のたしなんでいた。

同居する母は父を慰め、病院への通院をすすめていた。

強く支えようとするほど希死念慮は強くなり、ゾンビのようになっていった。

アイコスやウォーキングマシンプレゼントしてみたが、実家に帰るときれいなままホコリかぶっていた。

一緒に飲んで慰めてみたが、俺の気持ちは落ち着くが、父には何の効果もなかった。

本当は生きたい事は分かっていた。

けど相手無意識を健在化させ、死にたい病を治療する術は俺にない。

ある時から父を生かそうとすることを諦めた。

会うたびに、父に感謝手紙を書いて読み上げたり、一緒に飲みに行って父との思い出話をしたり。

死んだとき自分気持ちが収まるよう父を使った。

それから1年も経たず、大動脈破裂で亡くなった。

から死んだと聞かされた時、自殺でないことに驚いた。

葬式

準備が始まったが全く悲しくなかった。

死ぬ前に感謝言葉も伝えれたし、完璧に立ち回った。

式はそつなくこなせればいい。

ただ、葬儀に来る人の事を考えた。

(みんな時間と金を使って悲しい気持ち体験しに来る。来てよかったと感じてもらいたい)

俺が泣けないのは仕方ないとして、父の死を気にしてない感じだと顧客満足度は上がらない。

せめてもの思いで、喪主挨拶でみんなが感動するような文章を書いた。

俺が幼少期のエピソード仕事が大変だったのに家族にこんな風に尽くしてくれた → 急な死で悲しいの構成

式当日、覚えるのはめんどくさいので紙に書いて胸ポケットに入れていた。

喪主挨拶の番、それを広げ、一行目。

「私がいちばん幼い時の父の記憶は、父が・・・

眼が潤ってきた。

(あれ?字読めないじゃん)

「抱っこしてくれた目の前に父の笑顔があり、タバコ臭・・・

またたく間にダム決壊して顔がぐしゃぐしゃになった。

そこから先は早口で全く何を言っていたかからなかったらしい(参列者談)

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