先週母方の祖母が亡くなった。
小さい頃は家が近かったこともあり、祖母には頻繁に面倒見てもらってたし、
遠方に引っ越してからも盆正月は会いに行って一緒にご飯食べて話して、縁遠かったという事はない。
そして先日、そんな親しい人が亡くなった。
26歳にして初めて初めて親しい人を亡くした。
訃報については亡くなる数日前の時点で「そろそろ覚悟決めて」って親からメール来てたから、さほど驚かなかった。
訃報聞いてからすぐに飛行機で祖母宅にいって通夜、翌日に告別式やって帰ってきた。
危篤の連絡時点で覚悟を決めるために、祖母が死んだらどう思うか考えたし、
実際に対面したときから遺骨を拾うときまでの想像とのズレも確認した。
驚いたことに、一貫してそんなに悲しくなかったのである。
この考えを放置することは、社会生活を営む存在が幸福を享受することを目的とすれば、非常に「良くない」。
原因は特定して公開するべきであり、可能なら思考を変更し、最低でも自分の中で落とし所を作る必要がある。
そんなわけでこの数日間で思いつく限り可能性を出した。
自身の中で腑に落ちた原因を以下に記載する。
真っ先に思いついて胸糞が悪くなった。
ただ一件唾棄するべき原因に見えるが、そればかり考えて他の事に手がつかなくなる事はより悪い。
本能的に感情の配分を調整しておめでたい心になっている可能性は否定出来ない。
数年前から入退院を繰り返し、何度か危篤状態になっていたこともあり、
逆にこれまで持っていたことを幸運だとする考え方もできる。
ただ解釈によっては「死ぬことが予定調和になっている」「生きている人を死人扱いしている」にもなる。
世の中に積極的に関わらないこと、フィクションの摂取のしすぎが原因で、目の前の事実が
ガラス1枚隔てて見えたり、モニタの向こう側に存在している感覚に囚われることがある。
世の中に参加することが好きでないなら、自身の心と身体を安全な状態にして世の中を見れるので居心地の良い考え方である。
一方でこのスタンスで生きていると他者から観察されるとき、檻の中のサルを見る目で見られる。
葬儀の参列者も、臨時で席を相当数追加する程度に多かった。
ここまで数があると悲しむ気持ちに「働かないアリに意義がある」の理屈が通る。
人気者は放っておいても誰かが救済するため、参加する意義を見出せない。
葬式中に周りを観察していたら、良く泣く人はいわゆる「リア充」だった。
昔テレビのバラエティとかドキュメンタリーとか、なんであんな簡単に人が泣くかが理解できなかった。
理屈をもう少し若い頃に理解しておきたかった事項ではあるが、人前に出るのが好きな人間は演出家だった。
内面で生まれた感情を外に向ける際に、ごついアンプを通している。
そこまでで事態が完結すれば大したことはないが、人は悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなるらしい。
模倣を通じて本物に至る概念が感情にも該当するとは思っていなかった。
1とリンクした原因でもある。
祖母の死顔を初めて見た時に、悲しい感情よりも怖い感情が強く出た。
骨あげ時に特に感情が動かなかったことから、顔の造形に対する違和感、不気味の谷が原因である可能性が高い。
また今回親しい人の初めて葬式ということで、事をうまくやろうとして調べごとしたり周りを観察することに注力していた。
意図してかせずか、別のことを思ったり考えていたために悲しまなかった可能性はある。
とりあえず6つ原因を挙げた。
この原因からどう思考を持っていくか何も考えてなかった。
とりあえずこの6つから自分自身がどんな人間か読み取ってみる。
・オタク
・根暗
・消極的
・世間慣れしていない
自分自身に対して碌な形容が出て来なかったがしかし、こんな奴は現代社会だと掃いて捨てるほどいるだろう。
ということはみんな外に出さないだけで同じ考えを持つ人間が多くいる可能性は高い。
と、ここまで結果を想定せずにダラダラと文章を綴っていたが、ゴールが見えてきた。
気にしなければいいのである。
まわりからもそう見えるし、自分の内面にそう言い聞かせて納得させることもできる。
そういう意味では葬式自体がそもそも悲しくない人間も内包するようにできている。
つまり昔からそんな人間がいるということだ。何一つ精神的不具者ではない。
昔どこかのテレビ番組だったかで、 たぶんビートたけしだったかそんな感じの人が、 葬式で泣くのは、後悔があるからだ。 ってことを言っていたことがあって、 私も昨年大切な人...
そういう風に色々考えてしまった挙句に増田に書いちゃうぐらいには感慨深かったのでしょうよ。