はてなキーワード: 反駁とは
Cornellの議論は、ポルノグラフィの危害を認める一方で、ラディカル・フェミニズムの主張するような形での危害を相対化する。「さらに言えば、マッキノンによると、ポルノグラフィは男性をレイプへと駆り立てることによって産業の外においても女性への直接的な暴力を引き起こす原因になるという。これから見ていくように、私はポルノグラフィの直接的効果としてレイプを輪郭づける因果モデルの適切性を疑問視する。……私は原因―結果モデル自体に関して疑問を呈したいのである。これほどまでに複雑で多層的に象徴が刻み込まれているセクシュアリティの世界でこのようなモデルを使うことは難しい。しかし、このモデルはドゥウォーキン/マッキノンの条例案の基礎として決定的な意味を持っているのである」 。実際に、McKinnonのポルノグラフィ観は、その表象性を(意図的に)無視したものであり、その点について法による規制という強力かつ一方的な手段を用いることには強い疑問がある。「……しかし忘れてはならないのは、ポルノグラフィーは、「グラフィー」という接尾辞が示すように、何よりもまずひとつの表象、ひいては表現作品で……ある。人種差別と同列に語りうるのは性差別であってポルノグラフィーではない(性差別は様々な形をとりうる)。ところがマッキノンらにとっては、結局のところ、ポルノグラフィーと性差別は同義語なのである。彼女らが、ポルノグラフィーにおいて重要なのはそれが「する」ことであって「いう」ことではない、行為であって思想ではないと、ことさらに強調するのはそのためである。……ある表現物が「いう」ことは、なにも(一義的な)「思想」や「メッセージ」に限られるわけではない。言語というものは、自然言語であれ映像言語であれ、ある奥行きをもった立体であり、そこには多重な意味作用が畳み込まれうる……。マッキノンらの議論は、……ジョン・R・サールが「間接的言語行為」と呼んだような現象をいっさい捨象した議論である」 という批判は、言語と行為の間に明確な区別を設けずに、ポルノグラフィが性差別そのものであるという一種のイデオロギーに依存した議論に対する批判そのものである。
もちろん、McKinnonらの条例案は、ポルノグラフィという言葉を制限的に定義することによって、そうした一般的な議論ではなく、特に女性に対して酷薄なもののみを定義域に含めている。しかし、それですらなお表象の問題は不可避であり、言語と行為を限定なく同一視する立場には、疑念がある。まして、直接的効果が後年の研究によって疑問視されている状況にあって、規制の根拠は果たしてどこまでの力を持つといえるだろうか。仮に、McKinnonの主張がなされた当時においてそうした言語と行為が一致するような時代的状況が存在したということを承認したとしても、その射程は現代日本には必ずしも及ばないだろう。つまり、日本におけるポルノグラフィの製作が必然的にそうした女性虐待を表彰ではなく行為として含み、またそうして製作されたポルノグラフィの表象が必然的に(fuckerとしての)男性をレイプに至らしめ、(fuckeeとしての)女性の従属化を固定化する構造を持っているということが実証的に明らかでない限り、法による規制という手段は困難であろうと考えられる。
また、Cornellの依拠するポストモダン・フェミニズムは、立場としてのポストモダン主義を前提としており、そこでは、男性性/女性性といった二項対立的な概念整理はそれ自体批判の対象となる。McKinnonらの議論は、女性解放というフェミニズムの根底的目的に対して、一定の文化コードとしての女性性を再定義し書き込むものである、というのがCornellの分析である。そしてこれは、ポストモダニズムにコミットするか否かというメタ的な問題を抜きにしても、汲むべきところのある議論であろう。つまり、ポルノグラフィの規制根拠として、加害者/fuckerとしての男性と被害者/fuckeeとしての女性を暗黙裡に前提し、それを基盤として提示される議論は、必ずしも現代において盲目的に首肯されるべきものではないというところである。
そもそも、ポルノグラフィは、男性のみによって消費されるものではない。これは、少なくとも現代日本においては議論に際して念頭に置かれてよいことであるように思われる。レディースコミックと言われるジャンルは、1980~90年代ごろから、女性向けの(広義での )ポルノグラフィとして書店に並ぶこととなった。また、同人誌として、いわゆる「やおい本」や「BL」というジャンルもこの頃から一定の勢力として存在していた。これらは全く女性が使用し、消費することを前提に(そしてその多くは女性たちの手によって)制作されたものである。ここでは、ポルノグラフィの概念として当然に前提されていた男性消費者ということさえもが相対化されている。それは、女性の性的欲望、セクシュアリティがfuckeeとして規定されていたことからの解放であるとも評価できるのではないだろうか。そこでは、主体として性的願望を抱く女性が前提されている。ここでは、主体-男性/客体-女性というメタな二項対立の接続が否定されている。これは、ポルノグラフィ危害論において、根底を掘り崩す事実であるのではないか、と考える。これに対して、メインストリームは男性が製作し、男性が消費するポルノグラフィであるという反論はまた、十分に考えられる。しかし、仮にメインストリームは男性向けであって、女性向けがサブストリームであるという主張を容れたとしても、なおポルノグラフィが必然的に男女を社会的に構造化し、差別を直接的効果として助長し、あるいは引き起こすものであるという根本主張は、強く相対化されたものとしてとらえられなくてはならなくなるということは言ってよいように思われる。
4. 結び
前章において、ポルノグラフィの及ぼす危害について、その直接性が少なくとも現代日本においては相対化されるべきであることを示し、また、McKinnonやDworkinの議論それ自体に潜む女性性のコード化はフェミニズムの本義からしてなお批判可能性を有するものであるというポストモダン的フェミニズムの見解を紹介した。そのうえで、表現の自由という価値原理はポルノグラフィに対していかに向き合うべきかということを簡単に整理する。
日本において、表現の自由の価値は高く見積もられる 一方で、定義づけ衡量のもとでポルノグラフィを含む一定の表現について規制を肯定する。そして、ことポルノグラフィにおいてはそれが善良なる性風俗や最低限の社会道徳の維持という目的のもとに正当化されてきた歴史を判例上有する。McKinnonらの議論において革新的であったのは、ポルノグラフィの規制は道徳的な問題と訣別し、女性に対する危害の面から規制を検討されるべきである、ということであった。この指摘は、法と道徳を可能な限り切り分けようとする立場をとるならば高い妥当性を持つものであり、その危害が現実的に認められる限りにおいて表現の自由に対する制約は当然に許されるものとして考えられる。しかし、この危害に関しても、「(リューベン・)オジアンの著作[ポルノグラフィーを考える(2003):筆者註]は、ポルノグラフィーに対する道徳哲学の立場からのアプローチであるという点で注目に値する。彼は、ジョン・ステュアート・ミルの「危害原理harm principle」……の流れを汲む自身の「最小倫理éthique minimale」に基づいて、ポルノ規制を正当化する議論……に反駁している。ポルノグラフィーがもたらすとされる「危害」について、オジアンが反ポルノ派フェミニストとは大きく見解を異にしていることは容易に想像できるだろう。興味ぶかいのは、オジアン同様「善」ではなく「正義」の問題として……ポルノグラフィーをとらえたはずのフェミニストの議論すらじつはある「善」概念を暗黙裡に前提していると彼が指摘している点である」 という指摘がある。つまり、特定の善概念に基づいた特殊的な危害が主張されているに過ぎないのではないか、ということである。例えば、守旧派的なキリスト教における「善」の概念が同性愛を悪と断じたことを考えれば、一定の善が前提されたうえで主張される危害は、相対化してとらえられるべきであろう。
こうした危害についての理解は、法規制についてネガティヴである。さらにMcKinnonらの主張には逆行することとなるが、むしろその主張における「道徳から危害へ」の転換は現在の規制すら過剰なものであるという結論への親和性を有している。もちろんこれは、女性に対してポルノグラフィ制作現場において発生する暴力や虐待を許容せよということを決して意味しない。むしろ、そうした事態が発生した場合に、適切に法が救済を与えることは、考えるまでもなく必要なことである。そのためにいかなる手段が妥当であるかが問われるべきではないだろうか。
一部のフェミニストが主張するように、ポルノ出演や売春を含めたセックスワーカーである女性が、法規制の対象となるのではなく、むしろ一つの「職業」そのものであり、合法であるという社会的及び法的な認知が必要となるのではないだろうか、と考える。それが社会的に正業であると認知されることは、その「職場」におけるハラスメントや虐待を看過しないことにつながりうる。問題が発生した場合に、自らの「クリーン・ハンド」において司法の救済を要求することが可能となる。そして、そうした「解放」は男女(あるいは性的少数者性)を問わずに自らのセクシュアリティに対して真剣に向き合うことを要求する。それによって、直接的は生じないものの、間接的にあるいは無意識的に発生しうる「危害」は社会的に相対化されうるのではないだろうか。
以上のポルノグラフィ規制緩和論が、法が向き合うべき一つの筋道ではないだろうかという主張をもって、本レポートの結びとする。
参考文献
・キャサリン・マッキノン,アンドレア・ドウォーキン著 中里見博,森田成也訳「ポルノグラフィと性差別」(青木書店, 2002)
・ドゥルシラ・コーネル著 仲正昌樹監訳「イマジナリーな領域」(御茶の水書房, 2006)
・大浦康介編「共同研究 ポルノグラフィー」(平凡社, 2011)
・キャサリン・マッキノン著 森田成也ら訳「女の生、男の法」(岩波書店, 2011)
@misssfc2019_no7さん(ραοさん)と@54nano_fairyさん(なのさん)のTwitter上での会話を見て、漠然とジェンダー論に興味があったものの何も勉強してこなかったので少し勉強し、考えたことをまとめようと試みています。ややραοさんの発言を多く引用します。これは僕の感覚がなのさんに近く、ραοさんの発言の主張に納得しづらい部分があったため、それを解釈したいと考えたからです。
納得行くところまで整理出来ていないので、「その主張は◯◯の部分が誤りである」「せめて◯◯は読んでから出直せ」などの指摘をいただけると僕が嬉しいです。
あとアホほど長いので暇な人だけ読むと良いと思います。
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男性がフェミニストに対して「真のフェミニストかエセフェミか」と自分がジャッジできると思い上がってる時点で君はフェミニズムのことを何もわかってないのだねという感想しかないわ
というツイートに対して、なのさんが
これこそセクシズムなんじゃないですか?
と問うたところです。
このツイートから、任意の男性は、フェミニズムを理解しているならば(フェミニズム性を有しているならば)、あるフェミニストに対して「真のフェミニストかエセフェミか」ジャッジ出来ると考えない、とραοさんが考えていると僕は読み取りました。
これに対し、この主張には「男性が」ジャッジすることに非フェミニズム性がある、というような非対称性があるように見える、となのさんが疑義を唱えたように僕は読み取りました。
その後の議論でραοさんは
と述べられています。これはフェミニズムの話に限った際、女性がジャッジすることにも非フェミニズム性があるという主張と同値かは僕の目には明らかではないです(おかしなこと、というのがどのようなおかしくなさに違反しているのか自明でなくないですか?)。僕は議論の流れから、ραοさんは男性がジャッジする際の非フェミニズム性とはやや異なる「おかしなこと」と考えているのではないかとお見受けしました。
これは、なのさんの
「マイノリティの中でも一方的なジャッジをはおかしなことである」というのならば、なぜ最初の発言でわざわざ「男性が」「性的マジョリティが」と強調したのでしょうか?
という質問に対するραοさんの
マイノリティの中での話とはまた違う構造があるからですよ。これを同じと言ってはいけないと思います。マイノリティ同士のコミュニケーションにおいて生じる問題と、マジョリティがマイノリティに対し行う言動に生じる問題は異なります。
ραοさんの発言は、マジョリティである男性がジャッジすることはマイノリティである女性に対する圧力となるため非フェミニズム性があり、マイノリティである女性がジャッジすることは(圧力があるにせよ)非フェミニズム性とは異なるおかしさ(例えば他人の内面を決めつけることの失礼さ?)があるという意味ではないですか?男性と女性が非対称な権利を有している現在の規範を改めようとするフェミニズムに対し、マジョリティである男性が一定のフェミニストの主張は非フェミニズムであり新たな規範として認めるべきではないと主張するのは、女性に対する圧力として働くものであり、非フェミニズム性があると。
なので、女性に対する圧力の存在の暴露とその解消を目指す文脈で、(その活動における)障害の存在を批判する際に男性によるジャッジが強調されるのは非対称だが筋は通る(一貫した主張である)かなと思いました。(なのさんがのちに運動のための理論であるように感じて好きではないと言われていたのもこの辺りのことが引っかかってかなと思いました。)
この後ραοさんとなのさんの主張は最初の議論とはやや異なる内容の議論(女性がマイノリティであるということの意味、議論の進め方等)と共に一定の解決を見ずに終わったようで燻ったような状態に落ち着いたように見えます。他の内容についてはここでは触れません。
フェミニズムの議論はたびたび大きな話題になりますが、話題になるフェミニズムは(筋の通る通らないの程度によらず)やや論理的に整理されてない主張が目立つように僕は感じていました。今回の件でもいくつか整理が不十分だと感じる点はあり、例えばραοさんの最初のツイートの下で述べられる
これって普通に男女以外でも考えてみてほしい。マジョリティであるシスジェンダー異性愛者がセクシャルマイノリティに「この人は真のセクシャルマイノリティか、エセか」とか言うのめちゃくちゃおこがましくないですか?障害者に対して「真の障害者か、エセか」とか。何様なんだろうって私なら思うよ。
は圧力という考え方があまり見受けられないので良い例示ではないように見えます。これは他者の内面(あるいは属性、アイデンティティ)を決めつけることはおこがましい、自然な感情として(普遍的に)おかしなことであると主張する話になっており、「男性が」ジャッジすることの非フェミニズム性の話にはそぐわないように思います。何様なんだろうと思う、という自然な感情に端を発する主張のように記さず、セクシャルマイノリティや障害者の方に対する強い圧力として働く考え方である、というように記す方が合致するように思われます。
整理が不十分であること自体はよくて議論とともに整理していけば良いと思うのですが、その後ραοさんはやや早計になのさん(及びなのさんに同調する人々)のことをミソジニストと決めつけてしまったように見えます。早計というのは、議論が一定の解決を見ないまま、ραοさんに「つっかかってくる」人をミソジニストと認定しているように見えるからです。実際には一定の論理によりミソジニストと認定しておられるでしょうが、ここまで他者をジャッジすることのおかしさについて議論していたので、ダブルスタンダードに見えてしまいます。ダブルスタンダード自体は主張の正しさを変えるものではありませんが、信頼できる議論の相手かどうかという他者からの評価には影響するので。実際これのせいで感情に寄りすぎている(論理的に整理されていない点を整理しないまま自分の意見の正当性を主張しようとしている)とみなされてしまっているということがあるのではないでしょうか?
僕は最初追っている時はなのさんの議論の方が身に馴染み、かつ筋が通っており、ραοさんの議論はやや筋が通らないように感じていました。しかしそれはフェミニズムを全く知らないためである可能性も十分高く、少し調べてから判断しようと思いました。現状では、今ある規範の問題点を指摘し新たな規範を構築する際、新たな規範の正当性をどのように確立すればよいのか分からなくなり、整理がついていません。
舟場 保之(2007)「ジェンダーは哲学の問題とはなりえないのか」『哲学』58 号 pp. 61-78(https://doi.org/10.11439/philosophy1952.2007.61)に、次のような話が載っていました(p. 65)。
アイデンティティ・ポリティクスの主張は、その真理性なり正当性なりの論拠を最終的には当該のアイデンティティにおく。アーレントは、アイデンティティ・ポリティクスに反対していたにもかかわらず、レッシング賞受賞講演において「ひとは攻撃されている事柄によってのみ、抵抗することができる」と論じている。このとき、「抵抗」のひとつの形として「現行の法」に対する異議申し立てが行われるとすれば、その異議申し立ての論拠は「攻撃されている事柄」におかれることになるだろう。ある「抵抗」の異議申し立てに対して、、「あなたはなぜそのように主張するのですか」と問えば、最終的には「わたしは○○に関して攻撃されているから」と答えられることになる。しかし論拠がこのようなものであるとしたら、この言い分に納得できるのは同じように〇〇に関して攻撃されている者だけであり、異議申し立ては〇〇に関して攻撃されている者にしか説得力をもたないことになる。だからこそ、このような異議申し立てに無理解な者に対しては、「あなたは○○に関して攻撃されていないからわからないのだ」という言い方が(きわめてよく)なされるのだろう。アイデンティティ・ポリティクスの主張は、アイデンティティに論拠がおかれるかぎり、アイデンティティが同一の者には説得力をもつがそうでない者には説得力をもたないのである。しかも、論拠とされるアイデンティティが「反論の余地のない事実」であるなら、論拠を問題化することがまったく不可能になってしまうので、アイデンティティ・ポリティクスの主張は反駁される可能性を原理的にもたない絶対的なものとなってしまう。
例えば宇崎ちゃんポスターの話題などでも「普通に訴えてもお気持ち扱いされる」みたいな話を見かけました。これはまさに上記引用で触れられている、アイデンティティ・ポリティクスの主張がアイデンティティを論拠とするために反論を許さず、そのためにアイデンティティが同一でないものに対しては説得力を持たないものとなる(反論が不可能なものについては議論が出来ないので?)、という構造と同じものだと思います。
宇崎ちゃんポスターの例では「性別Aの者を性別Bに属するものがあげつらったり、その性を利用したりすることは正しくない」というような公理のもと、それがA=女性、B=男性として宇崎ちゃんポスターにおいて行われていると判断され、問題のあるポスターとして指摘されたと僕は認識しています。これに対し「この程度は性についてあげつらうほどのものではない」「これをあげつらいと考えるのはお気持ちである」という形で「お気持ち扱い」をされているのかなという印象です。
このとき、仮にアイデンティティ・ポリティクスに反対する姿勢を取っていたとして、宇崎ちゃんポスターの問題においてどのように主張の正当性を確立するべきなのでしょうか?究極的にはお気持ちにならざるを得ないのでしょうか……?僕には分かりません。何かうまく論理を構築する方法論が知られているのでしょうか。
またραοさんとなのさんの議論の中で、上記引用で典型的発言として挙げられる「あなたは○○に関して攻撃されていないからわからないのだ」と似た発言がなされていました。
男性がフェミニストに対して「真のフェミニストかエセフェミか」と自分がジャッジできると思い上がってる時点で君はフェミニズムのことを何もわかってないのだねという感想しかないわ
という発言もややアイデンティティ(あるいはポジショナリティ)を論拠にしているように見えます。これによりραοさんは、なのさんや一部の方から自分の正当性を疑わない人とみなされてしまったように見受けられます。
しかし、特に規範のようなものを考えるにあたり、アイデンティティやポジショナリティから自由になることは可能なんでしょうか?ραοさんはそれが不可能だと考えているか、相当に困難だと考えておられるのではないでしょうか?
自分は中立だと思いこむのとか、立場や偏見を取り除いて客観的なジャッジの目線で議論ができると思いこんでるのはなるべく高等教育過程に入った方には既に卒業しててほしいな…。こんなの哲学の初歩の初歩でしょ…。
自然科学の研究をしている身としては、実験だったり理論だったりの正当性の検証は容易ではないが常には原理的に不可能ではないので、メタ的立場から正当性の議論が出来る(なのさんの言葉を借りれば「パワーバランスに基づく議論はあくまで論理/倫理的な「正しさ」とは独立であるべき」)と考える方が身になじむものがあります。なのでアイデンティティ・ポリティクスに反対する姿勢もしっくりくるところがあるのですが、実際問題としてそれを回避することは可能でしょうか?自分がある程度アイデンティティ(あるいはポジショナリティ)を論拠としている部分がある、と自覚した上で正当性の議論を行うという所が限界なのでしょうか?今の僕には分かりません。
上に書いた話も、自分の感覚と整合性が取れるように論展開を進めようと思ったのですが、僕の「お気持ち」が何となく納得していない感じがあり、十分整理できてないなと感じています。
自分の研究が落ち着いた時に、時間をとってもう少し勉強して整理したいと思っているので、重ねてですが「◯◯の主張は筋が通っていない」「◯◯ぐらいは読め」みたいな指摘がいただけると幸いです。
最初は別に嫌いじゃなかったし、苦手とも思わなかったんですよ。
初めまして。トマレモです。
名前は、ちょうど目の前にあった、カゴメのトマト&レモネードドリンクから。
甘酸っぱくて美味しかったよ!
これは某グランドでオーダーな運命の二次創作で且つ、BLにも関する話なので、苦手な人、地雷な人、嫌悪感を覚える人は見ないでね。
そういう人で目に入っちゃった人は、速やかにバックして記憶をDELETEして下さい。
そして、私の言う「よく」は、大概、私のTwitterのタイムラインでのこと。
では、よろしくどーぞ。
えーと。うん、苦手じゃなかったんだよなぁ。帝都が来たあと、以龍か龍以か迷うくらいには。
でも、その後に、違う龍馬右のcpに轢かれて、そっちにどハマリしてから、ジリジリと苦手感が出てきた。
「なぁんかなあ……」
ってくらい。
これは、Twitterでフォロワーさんが、私の心境にドンピシャな呟きをしてたのを見て、「あーーー!!それーーー!!わかるーーー!!ありがとうございます!!」となったから、言語化しやすい部分。
ギャグにする人もたくさんいた、偶然誘われ忘れてしまった岡田以蔵。その立場を、私のタイムラインでは主に龍以の人が、かわいそかわいそしてお涙頂戴のネタにしてたのを見て、『あ、私はこれ、駄目だ合わない』と思った。
うん、ある時点では、それは間違いではないんだろう。龍馬は土佐を出た。以蔵は残った。
でもその後、史実ネタになるけれど、龍馬は以蔵に会って話をしてる。
龍以の人も以龍の人もこの辺ネタにするの好きだよね。「一緒に行こうよ」と手を差し伸べる龍馬。先生に義理立てしてか、その手を取らない以蔵。何回も色々なパターンを見た。泣いたこともあるよ。いい話は刺さるものだもん。
でも、ここで思う。
岡田以蔵よ、お前、どこが置いて行かれてんの?
先に出ていった。うん。でもその後に一生会えなかったわけじゃないだろ。
会いにきてくれて、何くれとなく、同じ未来を見ないかって話をきっとしただろうよ。
EXP先生の幕末むかしばなしでも、「土佐に戻ってこいよ」って言ってるコマあったじゃん。お前、望んで土佐に居たんだろう。望んで、武市に付き従ったんだろう。
自分で仕える相手を選び、単純バカ扱いに反駁せず、更には思考を放棄して、かと言って忠を貫き通せもせず。
それで、最後には原因は全部坂本龍馬で、おまんがわしを置いていったのが悪い???
どこの悲劇のヒロイン様だよ、勝手過ぎるだろうよ、その言い分。
そんでもって。
坂本龍馬は、抑止の守護者って立場で、記憶を保ってる。というのがよくある見解だよね。マイルームボイスでも明らかに、帝都のことを覚えてる感、ある。
帝都で、最後の最後で、かつての頃のように大切な幼なじみと笑いあえた。
それは、長く長く抑止力として過ごしてきたであろう龍馬にとって、どれだけぶりの、嬉しくて温かい記憶になったんだろう。
その記憶を持って、カルデアに来て、その近々の愛しい記憶を持たない、別人の同じ幼なじみに切り掛かられる。その別人とこれから仲間として戦っていく。
ねえ。どっちがしんどいよ、これ。
それで、イベントやらなんやら、基本突っかかって来るのは以蔵の方じゃん。
くっそ甘えてるよね。何かあれば「りょおまああああ!!」って叫んでさ。それで龍馬は、はいはいって来てくれる。
うん、以蔵スキーな方々は「素直になれないよね」と言ってるのをよく見る。
あれだけ、あれだけのことやらかしておいて(少なくとも、龍馬は手を出したりしてない。何か以蔵へきついことを言った訳でもない)、以蔵は自分勝手に頼るんだよ、龍馬を。
まあ、私は左右で言えば、右の立場に思い入れしやすい傾向がある。単純にキャラの好みとしても、龍馬の方が好きだ。
それにしたって、英霊の成り立ちやらエピソードやらがあるにしたって、横暴じゃない?
喧嘩して「自分、まだ怒ってるんですけど?」っていう面倒くさい奴かよ、被虐待児の試し行動かよ…どんだけ甘やかされりゃ気が済むのさ。
坂本龍馬、以蔵が本気で拒めば多分。「わかったよ」って離れてくれるよ。自分が寂しかろうと、それが大切な幼なじみの本当に願うことならね。(二次では、それを超えてくるところが尊い扱いされるやつね)
カルデアで以蔵から責められて、気をつかって、それでもぐだぐだ出身として一纏めに扱われて、その度にご挨拶代わりに何かにつけて大声で怒鳴られて文句言われて(以蔵にその意識はないだろうけど)さ。
そんなことが年がら年中起きてりゃ、そりゃあ、龍馬の方も疲れるだろうよ。偶然、思わず、誘いを忘れるくらいに。
というわけで、私の地雷蔵さんは多分、作者の同情をたっっっぷり詰め込んで「かわいそかわいそ、いぞーさんいいこいいこ、かわいいかわいい」されて造られる、ヒロイン蔵さんなんだろう、と自分の中で着地したわけだ。
スパダリ系・いっそ完全にクズ・ショタにポメなんかは、全然平気だしね。支部では今も、お世話になっておりますう。
てわけで、まあ、こんなのを読む人は居ないだろうけど、読んだ人が居たらお疲れさまでした。
ブコメについて。同程度に稼いでいる共働き家庭であっても家事負担率は女性の方が圧倒的に高いってデータが話題になっていたけど
・社会的傾向として男性は(稼いでいてもいなくても)女性より家事をしない傾向が高い
のは事実なわけで、それがゆえ「男も家事しようぜ」なムーブメントが出てきたんでしょ。
そこに「夫婦で納得して分業してるならいいじゃん」ってミクロな話を持ってきても反論にならなくね?いや世の中にそういう家庭が少数ながらも存在して、納得して分業制を取るのは大変結構なことだけど、だから?っていう。大多数の男性が不当に低い家事負担率である事実には全く反駁できてない。
マウント取られるのがヤダってのはまぁわかる。わかるが、「家事しろ家事しろ言う男ウザいよなw」みたいな相手を小馬鹿にすれば勝つる系中学生ノリもマウントの一種だろうし。
おひさしぶりです。
「非常に蓋然性の低い推定」って書いたのは、「この増田がマイノリティ男性を差別するだろうという質問の形をとった事実無根の悪質なデマであり中傷ですので、速やかに発言を取り消してください」と全否定で書こうとしたところを、ちょっとキツいかなと思って譲った表現をしていました。
せっかく話をしてくれる人だから、敬意を表して、全否定はやめようと思って。でも、隙を作っただけみたいだから、こういうのはもうやめようと思います。
のちに蓋然性の話をしてくれた別の方も、ごめんなさい。
それに、言葉尻を取って蓋然性の高さ低さというどうでもいい話に持って行くほど残念な相手だとも思っていませんでした。わかりやすい指標が入るとそちらに注視して他が読めなくなることについては気をつけてください。
そして、こともあろうに「啓発」とか。それこそ、場所もやり方も相手も違います。女性嫌悪から生じた予断を何も関係のない書き込みにぶつけて発散するのはやめましょう。何度も言いますがこの増田はマイノリティ男性差別を少なくともこの書き込みではやっていません。
もちろん、実際に自分が差別されたら、その差別的書き込みに対してはきっちりコメントしていってください。相手が男でも女でもです。流言を垂れ流すより、自分に正当性が認められることについて声を上げる方が精神にいいはずです。
理解してもらえないとは思うけど、もしあなたが生きづらさを抱えてるなら、たぶんあなたのせいじゃないし、女性のせいでもありません。
あとは、家父長制のことかな。まず家父長制の存在は認めてるんだなっていうのが意外でした。私の政治的立ち位置にどうのする義務はないとか言ってるから、別のことを言ってくるのかと思ってました。
存続に与する女性の存在を指摘していたので、家父長制が文化や制度として残存しているという前提は共有できているということですかね。(なお、あなたは女性の家父長制支持者の存在について、心理的要因があると言いましたが、そうした心理は大抵構造によって形づくられます。また、心理的要因をセックスによる生得的なものとするのは、今はやっぱりセクシズムです。あなたが今のところセクシストなのはご自分でもわかってると思うので、このあたりはあなたと私とは前提が共有できないんだなと思います。)
じゃああなた自身は家父長制の存続を望むのか、望まないのかが気になります。
質問じゃないので、答えなくていいです。
積極的な存続を望むか、どうでもいい(消極的に存続を認めている)あたりなら、マイノリティ男性への差別は維持され続けるわけで、それを望んでる、あるいは仕方ないと許容しているんだから「啓発」の書き込みはいらないということになります。
そもそもあなたは男性マイノリティへの差別を止めたいのか、止めたくないのかみたいな問題もあります。差別をやめようという人に、その人が抱えるであろう(これはあなたの予断でしかありませんが)差別の存在を「啓発」しようするってことは、差別を止めたいか、そこまでいかなくてもましにしたいんですかね?
なら、家父長制の存在を認めながら家父長制の維持を望みはしないということになりますよね。
であれば、書き込む対象はやっぱり女性じゃ、ましてや差別発言をしていない増田じゃありません。
家父長制の存続を消極的にでも望んだままあなたの言う「啓発」も行うための論理があるとしたら、「あなたも他者への差別心を自覚して、自分たちへの差別は我慢しろ」ということかと思います。
……が、これ、増田がマイノリティ男性への差別につながる発言をしてないのでまったく意味不明ですし、この論理が通るなら、あなたも我慢して黙ってなきゃいけません(マイノリティ男性当事者や支援者なら)。
さらに、当事者や支援者以外の立場でこれをやられると、それは権利獲得を目指して活動する当事者や支援者への迷惑行為です。
自分の立場すら筋の通った形で示せないまま、他人に難癖をつけるのはやめましょう。
反駁されたらその場しのぎの適当なことを言ってごまかすのもやめましょう。
では、さようなら。
流石に「胸の割れ目」って初めて聞いたから気を使ったつもりなんだけどな
そんなに傷つくとは思わなかったよ。悪かった。謝る
日本がアメリカより自由でないという根拠が「自由の国」というスローガンが根拠になっているおかしさ
服装の制限or強制の例がアメリカのものしか挙がっていないのに、自由度は日本<アメリカとする意味不明さ
そもそも被害者叩きと服装の自由は反するものでないのに、なぜそれを根拠に日本はより自由でないと言い切るのか
これに対して俺は、法的にもお前の服装は自由だし、実際にもその自由を妨げようとする奴は稀だって言ったわけ
この両方を信じている人、多くない?
はじめに断っておく。
俺は全体としての男女間の知能差や知性差について、特段の意見は持ってない。
あるかもしれないし、ないかもしれない。
で、本題は、
と
まず、男子の方が体力的に優れているのは社会的合意事項だと前提する。
多くのスポーツ競技が男女別になっていて、かつ男子の方が大体好成績な点を鑑みればこれに異を唱える人は少ないだろう。
体力的に優れていると、当然に疲れにくい。
というか、体力(≠ 筋力)の定義自体が疲れにくさかもしれない。
で、そうすると命題1より男性は女性に比べて思考力が鈍りにくいということになる。
すると現実的な環境下で知能や知性を運用した際には、知能や知性の面で男性が女性を上回っているという結果にならないだろうか。
命題2より疲労ゼロの時に男女に知能差や知性差がないとしたら、そこからはより劣化しにくい方が現実運用下では有利ということにならないだろうか。
最後が「だろうか」となっているのは、だから男が女より頭良いと言いたいのではないから。
むしろ命題1・2をともに真ととらえていて、かつ、男女間に知能差や知性差がないと確信している人たちからの、反駁を期待してる。
どういう整理がそこにあるのだろうか。
「そのくせ質問にはこれだし。」この時点で論点捉え間違ってるから。
なんで反論者が立論者の説明を補助する必要があるんだよ。反論が新しい立論を持つ必要がないのは学校で習うレベル
反論の根拠に「〇〇だからネットミームが起きる」なんて言葉がないのに
それを質問して説明を求めるのは自分以外の立論者、立論の協力者を求めているだけで、反駁じゃない
2「グリーン で ネットミーム(エロ)になってない」(事実)
このことから君は
を導いているがそれはできない
エレンは萌え絵の属性を持ってるだけで全体でないし代表にもできないから(統計も象徴性もない)
って題を導くことにもなる。
これは「非萌え絵 で ネットミーム(エロ)が起きた」(事実)によって 4が偽なのは覆しようがない
4が偽となると、2-4をつなぐ論が否定されるから同じ論である1-3も否定されてしまう
つまりお前はグリーン先生とエレン・ベーカーのみをもってしか論拠にしないと言ってるわけだけど
そうなるとお前の最初の主張で「萌え絵」という属性で範囲拡張した論理と矛盾するんだよね
つかニーソとか雪女とか恒常的にエロ二次祭り状態、長期的に見ればそれ以上なものに関してはどう説明すんのかなw
本当にお前が反論したかったのなら、pepeとか著作人格権に抵触するもっと切実な実例を取り上げてこの大衆社会問題の本質に迫るという王道か
自論の補強として、萌え絵と非萌え絵の二次エロ祭り期待値とでも言うべきものを統計調査するという暇人かつ信頼性のない数字つくるっていう
糞みたいな逃げ道の二択だったんだよ