はてなキーワード: 反駁とは
医療の現場を1ミリも知らないような素人がここ最近、「なぜ、提供医療の品質も下げず、医療費も膨らまない形で、医師が男女平等に人間らしく働ける環境が作れないのですか?かんたんな事でしょう?」と行ったような主旨のブコメを盛んに垂れ流している。
挙句の果てには「医者の数を増やすと医療費が上がるなら、もっと安い報酬で働いてもらえばいいんじゃないですか?」というコメントまで飛び出していた。
それらの論に反駁はしない。
だから、やってみてくれよ。
早出も残業も当直もしなくていいから、その代わり他の同僚と同水準の医療を、勤務時間の中だけでいいから提供してくれ。
10年間、音を上げずにやってみてくれ。
それができる様を見せてくれたら、納得するわ。
1への反駁で
「拒否する自由はある」「ただし『差別』に当てはまると人権侵害」ってのが現実に両立していて、じゃあ『差別』がどこで定義されるかは難しいよなあと思いました。
性別だとか人種だとかLGBTで入店拒否したらアウトらしいが、定義としては曖昧すぎる。宗教で断ったらセーフか?不細工だから断ったらセーフか?逆にイケメンを断ったら?酔っ払いは入店拒否していいのか?相撲に女性が参加できないのは性差別か?黒人がいるだけで不快感が生じる人がいたら?食欲も失せるような見た目をしている障がい者がいたら?障碍によって悪臭が抑えられない人は飲食店に入っていいのか?どこに線引きをするか?
現実的な線引きとしては「求められる機能性に関係ない拒否はアウト」くらいか。断るなら飲食店の機能としての明確な理由はあるべきだ。
この理屈でいくと、特に営業妨害になる理由がない今回の案件は断れなくなる。「飲食店」と「差別主義」に関連性はない。(ここでは「集客への影響」は無視する。悪評の多い彼を入店させることによって10割の既存客が消えたとしても彼を入店させることは正当なものだし守られなくてはならない。)
この理屈は一例としても、差別主義者は入店拒否と、そこに線引きを置く明確な理由はあってしかるべきじゃないか?そこを説明できるのか?
今更ながら、#Metoo問題はクッソ気持ち悪かった。周りにもそう感じている人が一定数いたように思う。
#Metooという運動論に仮託したエゴが(絶妙にチラリと)見え隠れする例がかなり多かったのではないか。というか、そのようなエゴに基づいて設計された発信(コンテンツ)の方が拡散力や波及力に優れているので、そのような事例(人物)が運動の主体のように感じられてしまいがちだった。また、一般にこの種の「隠匿されたエゴ」というのは、人間関係において看破されやすいのではないかと思う。
社会規範を旗印に自分の存在を主張する人間は腐る程いる。「自分も同じ経験があるのだけど、〜〜。」という語りは、その種の経験や属性を持たない人間による反駁を封殺することが目的化されている。本当に社会に何かを訴えかけたい、つまりは、自分の心の奥底にあるトラウマやコンプレックスを開示する仕方で、同様の悲劇に見舞われる人を減らしたい(あるいは自身が救済されたい)という祈りに似た何かを持つ人間の言葉は、その純度(或いは悲痛さと呼んでもいいだろう)において、読み手に与える心象がまるで異なる。#Metooしかり、この種の運動や社会潮流に乗る人間の言葉に対峙するに当たっては、その言葉が目的化されているものが何かを同定することが肝要だろう。
特定個人を糾弾したい、ある時点での自身を事後的に正当化したい、衆目を集めたい、社会規範の代弁者たりたい(無論、これもエゴだろう)、という思惑には、そのような目的に結実し得る導線が、(感得されにくい程に小さくとも)作為的に忍ばされている。そんな連中のエゴに回収されてこの種の運動論そのものの純度・信頼性が損なわれることで、狭義の当事者が発信に窮したり、古傷を抉られたり、そこまででなくともそういった連中を不快感を強制させられたりする状況は、許せないという言葉は嫌いなので吐かないが(あなたが神か)、相当いびつだと思うし、めちゃくちゃ気持ち悪いと思う。
社会的弱者・困難者を代弁する体で、社会的弱者・困難者に不利益を与えてくれている自称インフルエンサーの皆さんへ。
少なくない人が、言語化や構造化ができているかどうかは別として、皆さんのエゴと、それを何らかに仮託する卑劣な手口に気が付いています。あなた方のような人たちが然るべき形で弾劾される社会であることを、また、そのような弾劾が上記した構造を強化しない形で織り成されることを、一個人として強く望んでいます。
末筆になりますが、自分は本稿で、性別も、自分が面した過去の経験も、開示していません。そんな中で、書き手の性別や経験、その他属性を措定していたとしたならば、その点について読み手たる貴方も再考されるとよいかもしれません(これは、自分の個人としても望みではなく、いわば一般論のつもりです。)。
はてブの人気コメントがひどい。いやサービス当初からひどいけど、最近は読むに耐えない内容のものが多すぎる。
2012年くらいまではまだよかったと思う。支持政党や思想に偏る事なく(ないとは言わないが)、記事に対して要旨をまとめていたりきちんとした反駁をしているものが人気コメントに上がってきていた。
はてなブックマーク - 「ルーピー」鳩山に怒り心頭だったオバマ大統領 アジア政策を支えた側近の回顧で明らかに (2012/03/21)
http://b.hatena.ne.jp/entry/jbpress.ismedia.jp/articles/-/34803
当時不人気であった鳩山首相の記事なのでさぞ同意コメントが、と思いきや「この記事はおかしい」「筆者がおかしい」「記事を読んでの意見」とかもきちんと上がってきている。
こういう状態だと、それぞれの立場からの意見があり公平な視点で読むことがしやすい。
(賛成、反対の意見があった上で自分はどちらなのかまた第三の意見なのかという発想ができる)
はてなブックマーク - 麻生財務相「セクハラ罪という罪はない、殺人とは違う」:朝日新聞デジタル (2018年5月4日)
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASL547FDDL54ULFA00P.html
麻生氏はメディアブーストも相まっての失言メーカーである事は昔から知られているし、こういう意見も出るのは納得できる。
(メディアで発言しない方がいい人なんだけど、マイクを向けられちゃうんだろうな)
しかし、
こういうコメントは最近上がってこない。(「全てのコメント」から探してみるとある)
上記の 2 ページを見比べてもらえれば分かりますが、2012年当時と今ではブコメ数もスター数もかなり増加しています。
昨今の Twitter、Facebook などの SNS の影響により気軽にスターをつけたりコメントを書いたりする敷居が下がったのかなと思います。(スマホでリアクションする人も当時と比べると相当に増えたんだろうな)
人が多ければ集まるリアクションもコメントも多いし大衆化するのは仕方がない事ではあるのですが、もう少しどうにか、はてブのシステム的な解決でもよいですし、スターやコメントをつける方々に良識を持ってアクションしてもらいたいなと思います。
(ex. スターやコメントをつけるその文章を、口に出して家族友人や学友同僚に言える意見なのかどうか。)
知性なきスターやコメントはあなたの知性をも下げかねないんじゃないかなと思います。お気をつけください。
また、自分が平常であるかどうかも気にした方が良いと思います。2012年当時の自身のネトウヨ活動を自省した記事がありましたので引用しておきます。
[雑記]かつてネトウヨであった「私」から、今ネトウヨである「あなた」への手紙 (2012-05-26)
https://megalodon.jp/2012-0608-0033-45/d.hatena.ne.jp/akio71/20120526/p1
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/akio71/20120526/p1
自分の家族でもなければ、隣人でもない人間を、一方的に侮蔑し、罵倒し、悪いことが起きれば彼等のせいにし、良い人間は「彼等ではない、自分達の同胞」であるとする。
「日本人」「親日」という、広すぎるくくりで、成果をあげた人間を褒め称え、自分達はなにも努力をせずに、自尊心を満たせること。
いっけん、まっとうに見えるニュースの裏を陰謀論で読み解き、「一足はやく真実に気付いた私達」同士で、悦にいること。
1999年も、2000年も何事もなく過ごしたくせをして、「いずれ来る、反日勢力による危機」という未来に楽しく怯え、「選ばれた私達の手によって、その危機は回避できるのだ」「選ばれた私達だけが、その危機に備えられるのだ」と誇ること。
ネトウヨとは、なんとも楽しく、誇らしく、胸のすく、「溜飲の下がる」遊びでした。
これは、私の、ごく個人的な事情ですが、ネトウヨだった頃の私は、職場で大きなストレスを抱えていました。
ストレスの源をどうにかする方法は「会社を辞める」か「家を出る」しか、当時の私には思いつかず、ネトウヨとして誰か、自分とは縁もゆかりもないがゆえに、完全に自分が正義の側に立てる相手を、あげつらい、笑い、糾弾し、いずれ彼等は滅びるのだと信じ、実際には自分の味方などしてもくれないような相手を「日本人」で「愛国」で「親日」だから信頼できるとすがり、どうにもできない自分の状況のかわりに、わかりやすい異国の弱者を助けたいと、思い上がっていました。
単純にこれは、男性女性の問題でなく作品の解釈の取違いというだけでないだろうかというのが私の主張である。
いやアナ雪見てないんだけどさ。
というかヤバミ漂う3人を「男」としてとらえた記事を書いておきながら、女性専用車両等のジェンダー問題において述べられる男性性が「男」のすべてを述べているわけでない、というのはちょっとどうなのか。つーか、規範化だとかそういうの、ちょっと男性に適用されないのかなとか思っちゃう。被害性がそうであるように加害性も規範化されうるものだと思うけど。
ちなみに、男性には加害性が含まれるという前提で書かれた記事やブコメは存在する。ググれば出てくるでしょ?実は嫌われ者のはてこがそれに反駁する記事を書いていたりするのを私は知っているんだ、ググったから。
さてまあ、記事中の重箱の隅をつつくのはマナー違反として、そこにさらに他人の解釈にケチをつけるという逸脱を重ねるのもあれだが、私なりのアナ雪の解釈を述べたいと思う。いや、見ていないんだけど。
アナ雪の特徴として、前半で提示された聞こえのいいことが、どんどんと覆され、結局、前提とされていたコアな部分。つまり、例えば女性が女性を肯定し、女性性を肯定する関係性についてや、好きなものに従事するということが肯定されるという仕組みを持っている。
例えば、えーっとハンスだっけ?あれは悪者なんでしょ、あいつが。それで、アナだよね?茶髪のほう。あれと共通点を歌う曲があるわけだけど、あれは、恋愛工学者だったりナンパ野郎だったりが使う手法だよね。聞こえはいいんだ。歌詞を考えると、うわー胡散臭いってなるけど、それを補う程度に曲が明るくていいんだ。そして同時に、でも、やっぱり胡散臭いよねってわかるような塩梅になっている。
この曲は構成上、ありのままの奴よりも先に流れるんだと思うんだけど、なぜかっていうと、ありのままのの曲も同じように『聞こえがいい曲』だからだ。
ありのままのをうたったエルザは、その時点において問題役を引き受けている。それは、エルザが最初に引きこもっていたときと同じ。問題役というのが自分の本質ならば、ありのままでいようというのがあの歌の内容であり、これは作品世界で常に否定され続ける考え方である。
しかしながら、なぜかこの映画は、その“ありのまま”という部分だけが評価され続けていて、それってつまり、ディズニーが用意した聞こえの良い胡散臭い歌に対して共鳴し、その先について考えないという態度に思えてくるのだが、これに文句を言い続けてもしかたがない。
そして、くだんの問題である。この映画は何を悪とし、何を問題とし、何を解決法とするか。
よくある、というか件の3人と元増田はそうと解釈しているのだが、悪はハンスのような態度であり、問題はエルザを閉じ込める機構であり、解決法はそのドアを開けることである、というものである。これは間違っている。
また、ハンスのような人物が否定されるのを今更議論するのもどうなのよ、と思ってしまう。それって美女と野獣で語られたことじゃない?というかディズニーには定期的にそういった悪役が登場する。つまりマッチョイムズ全開の男で悪役で、しかし、根っからの悪役とは言えない奴のこと。それは男女に依存しない。実のところ、そうやって物語を重層的にするのは、一般的な脚本の手法であるのだが、この映画はどうも“ディズニー映画の中でも特にフェミニズム”を意識した映画なので、彼は悪役である、という、まあそうだろうな、というところばかりに着目される。
そうなると、この映画の問題点とされている部分が浮かび上がってくる。それはつまり、否定されたハンスに対してクリストフは肯定されていないんじゃないか。これが、くだんの3人の胡散臭いゴミが語った内容と思われる。読んでないけど。で、元増田もそういった役割は終わりと書いている。前半しか読んでないけど。
ここにすれ違いがある。そもそも、この映画はフェミニズム的な要素があるものの、それは経済的な事情により付随したものであり、この映画が語ったのは別の問題なのではないだろうか。
加害性といわれるような力を持つ存在が、その力の使い方が下手だったりわからなかったり、あるいは、そういう加害性こそが素晴らしいという世界に育った人間の力の使い方についてこそが問題というのが私の解釈だ。ハンスもエルザも悪役や、問題にとらわれた存在でなく、彼らの力の使い道が問題なのだ。問題の持ち主が、悪役、というわけでないのに死ぬ映画は、割とよくある。純粋悪であることがすがすがしいといわれるほどありふれたテーマだ。にも拘わらず、この映画については特別にハンスのような態度が悪であると曲解される。それは結局のところ男性性は悪である。性に奔放であったり、あるいは、性を利用して利益を得ようとすることは悪であるという聞こえの良い言葉に騙されているからにすぎない。この映画でハンスが死んだのは紛れもない、私たちは女性をエンカレッジするという意思表明でしかなく。実際の映画の内容としては、女性と男性、問題と解決、というマトリクスに適用された結果なのだ。ちなみにハンスが死んでなかった場合は劇中にて改心して去ったか、あるいは改心することなく物語を終えるの2パターン考えることができるが、結局のところ死んだも同じなので議論しない。
さて、問題なのはクリストフである。この映画の最大の欠点であり、もっともセクシーなキャラクターである。ちょっと想像してほしい。例えば、あなたの知り合いが、仮に自分に興味のないことだとしても、目を輝かせて熱く語ったら、それはキュンとするだろう。私はする。しかしながら、彼は劇中で、どうも評価されないようである。それは元増田や、例のno.1、no.2に続く子供言葉として使われていくであろうno.3の三人組の共通の解釈だ。これはとても、大きく間違っているし、製作者もそれくらい誤解されることを意識しとけよな、という感じ。彼は、そのままでいいという態度が終盤で評価されているわけでない。彼は作中で延々と評価され続けている。ただ勇気ある行動の称賛として―おそらく、彼の価値観のなかでうれしい出来事が起こるのだろうが―彼にうれしいことが起こるのだ。
この延々と評価され続けることこそが、何が正しいのかを不明慮にさせるという点で、あってはならないことなのだが、アナ雪では、女性をエンカレッジするために、男性がないがしろにされてしまったのだ。その点では、解釈は違えども、あのくそ雑魚3人に同意する。
つまり、女性と女性の問題解決は成立したにもかかわらず、男性と男性の問題解決は提示こそされたものの成立しなかった。こんなもん当然誤解を生むだろうに、ディズニーは気づけなかった。愚かさ若しくは経済的な理由でだ。
クリストフはとても魅力的なキャラクターで、彼にその気があればお付き合いしたいくらいだ。抱き心地もよさそうだし、なによりあったかそうだ。彼の目は車について語る硬派なヤンキー張りにキラキラしていて魅力的だ。いやーときめいちゃうよね。
だけれども、そういった輝きを作中で表現できていただろうか。おそらくできていない。彼はこの物語で元増田にさえ“脇役”としか見られていない。それは、彼がハンスを救えなかったということにつきるのではないだろうか。
この物語では、問題点こそあるものの悪そのものは存在しない。救えるという物語であるのに、彼はハンスを救えなかった。この物語の文脈上、彼は悪役か脇役にしかなれないのだ。彼の輝きは、彼を悪役でなく脇役として持ち上げる程度にしか役立たず、決して主役に持ち上げることはなかった。決定的な欠陥である。
ただし、それはクリストフを悪役に貶めようとしたわけではない、ということを最後に語りたい。例えば、パトレイバーの重さんや、ノアはオタクでそれぞれ男女であるが魅力的なキャラクターに仕上がっているし、重さんを脇役と思いこそすれ、クリストフと同じような悪役にならずに済んだ脇役と解釈するものはいないだろう。それはパトレイバーがお仕事物で、お仕事に熱中するものを肯定する前提があるからだ。なんにしてもオタクは素晴らしい。熱中は熱とともに光を発する。だから、クリストフはそう描かれ続けたことによって、制作者は“肯定した”と思い込んだし、実際、否定されているわけではないので、客観的に見ればそう解釈することは可能なのだ。
とはいえ、男目線からみれば、当然、男らしい提示された男は死に、男らしさのない自分もその陰となる男らしい自分を救えないという絶望的な内容で、アナ雪は男女に切り分けると当然残酷な物語になる。
ちなみにスコットピルグリムの漫画ではこれをかなり直接的な内容で描いていてとてもよい。
さて、まとめるとディズニーの失敗は3点で、
1.男女それぞれに、問題役と解決薬を用意した(安直な解決法による分断をしてしまった)
3.男女それぞれの問題役、解決役の最後をゆがませてしまった。
というあたりだろう。もろちん、ちゃんと観てみれば問題点をより精査できるのであろうが、観ると胃袋がもたれそうなのでこれが限界である。
ともかく、女性が女性を救うだとか、男性が男性を救う、というのは、ある程度の不都合を棚に上げ団結しやすいから、でそれ以上の意味はない。当然、女性が女性らしさを捨てるだとか、男性が男性をすてるだとかも同じようで、都合がいいだけなのだ。どうも元増田はTEDのあれのリンクをはっているが、あれだって、利益があるという、不都合を棚に上げた、聞こえの良い話だ。仕事を休みたいときに休んだり、ちょっと将来に心配な貯金額で仕事をやめ畑にいそしむものを落伍者というように、われわれは、本来の望み通りに動いているものを評価することができない。むしろ否定したりする。男性被害者のことを考えず痴漢をしない男性をも犯罪者として疑う機構の女性専用車両だってそうだ。痴漢でなくとも、例えば、優先席に座らない健常者をどう思うだろうか。普通?当たり前?当然?別に評価する必要はない?
我々はわかりやすさに支配されている。優先席に座らず立つ人間より、優先席に座っていたが譲る人間を評価する。そうであるより、そうなるほうを評価しがちだ。
ただし、私としてはそういった都合の良い傾向を否定したい、というわけではない。