はてなキーワード: イコールとは
ネット上の知り合いなんて、相手によってそれぞれ違う自分の中の20%を、
まるで80%であるかのように見せて付き合うくらいが一番ちょうどよく楽しいと思っていた。
ホーム画面に蓄積されていく、Aさんに対する自分、Bさんに対する自分、Cさんに対する自分……
その複合体が、ぴったり「イコールの自分」になるように振る舞うのって、なんだか息苦しい。
そういうのはネットに求めていないのだ。
けれど、そうしないと、Aさんが、Bさんが、Cさんが私のホーム画面を見たときに
きっと「あれっ?」って思ってしまう。
そしてそれで腹を立てたり、切なくなったり、呆れたりする。
やがて「あれっ?」は「おいっ!」になって帰ってくる。
そういうのに、なんだか疲れてしまった。
100%好きになれる人も、100%見せたい人も、100%見せて欲しい人も、なかなかいないものだ。
だから現実で「もしかして?」という人に出会ったとき、「運命の人に出会った」とか言うのだろう。
けれどツイッターのホーム画面というのは、そういうのがぐちゃぐちゃ全て蓄積されて
なんだかちぐはぐな「仮の100%」がどんどん作られていって
それが全て相手に「これが私の100%ですよ」と公開されてしまう。
そのうえ、自分がそういうことをしているのにも関わらず
他人のホーム画面を見ていると、それがあたかもその人の本当の100%であるかのように錯覚してしまうのだ。
そして自分に見せてくれていた「その人」と、ホーム画面の「仮の100%」の違いに、無性に寂しくなってしまう。
こういうのも辛くなってしまった。
つまりは向いていなかったのだ。
土着の卑怯な暴力(悪知恵)を握るのと、世界の勢力を握るという2つの選択肢だけが、日本では淘汰されずに生き延びる。むろん後者が正しい。しかし、後者の暴力を得るには相当な努力と怒りが必要だ。そんな支配者がいい人間であるはずがない。
正確に言おう。日本では自分は汚くなければ生成されない。いい日本人は自分を獲得する間もなく意味として身体として淘汰される。あくまで生き残り、意味として身体として自分を獲得するには汚い人間ではあるがその中でも綺麗な人間である。
ゆえに真の支配者がその辺で怒鳴り散らしていても何ら不思議ではない。なぜなら、日本では、意味があるとは、そのこととイコールだからである。
ここまで市民権を得るために相当な苦労があったんだ。
あの企画を持ち込んだのは直前にもヒット商品を誕生させたチームで、炭酸飲料の市民権再起が期待される一大企画だったんだ。
あの頃コンビニのドリンク棚から炭酸飲料がどんどんと消えていったろ?
健康食ブームは当然ドリンクコーナーの品揃えにも強く影響していたんだ。
炭酸飲料の市民権獲得、それはつまりこれからの炭酸飲料市場を牛耳ることとイコールとも考えられていたんだ。
炭酸飲料のジャンクなイメージを払拭するためには中途半端な戦略では絶対に成し得ないと皆が感じていた。
そうして選んだ手段は、全く新しいブランドを生み出すのではなく、海外ですでに成功しているブランドを高いライセンス料を払ってでも持ち込もうというもので、そうしてこのプロジェクトはまさに炭酸飲料の未来に社運をかける一大プロジェクトへと拡大していったんだ。
そのために多額のプロモーション費用をかけてメディア戦略を展開し、セールス開始と同時にすでに流行しているというイメージを植え付けようとしたんだ。
連日テレビではCMが流れ、様々なタイアップキャンペーンを実施、コンビニに高めのロイヤリティを設定することで店頭では常に目立つ位置をキープすることができた。
この頃は、まさにオランジーナを目にしない日なんてなかったんだ。
しかし発売当時は5%から8%への消費増税が叫ばれるまっただ中。
高いライセンス料をそのまま価格に反映させることは難しかった。
そうして選んだ手段は、内容量を減らしつつもボトルのデザインを変えることでそうした印象を与えなくする一方で、同時に高級路線に向けたの商品訴求への舵取りだった。
ここまで徹底した商品戦略によって、商品のヒットは間違いなしと思われていた。
ところがだ、問題は肝心の味にあった。
日本でオレンジジュースといえば、なっちゃんやぽんジュースを始めとする濃厚なみかん味が主流だったんだ。
熟したみかんのように酸味が少なく甘さが際立ったような味が好まれる中で、さわやかさを押し出そうとするあまりオランジーナは薄く味気がないような、それでいて苦味ばかりが目立つできそこないの味のように感じられてしまった。
一番のセールスポイントであるオレンジリキュールを思わせるような独特な香りが日本では芳香剤のイメージとして根強かったことも災いしてしまったんだ。
一度は手に取られるもののなかなかリピートが伸びず、連日の畳み掛けるようなプロモーションに反して業績は日々低下していく一方だった。
高いライセンス料と大量の販売ノルマに挟まれたサントリーに残された選択肢は一つ。
値下げによる多売しか道は残されていなかったんだ。
販売店舗へのロイヤリティはそのままに卸価格を大幅に下げることで店頭でのプロモーションには一層の拍車がかかった。
販売価格も下げられたことで消費者も手が伸ばしやすくなり、そうして今やっと、当初描いていた市場への浸透率を実現することができたんだ。
あまりにも当然過ぎることを一同が再認識する重要なきっかけとなったオランジーナ騒動は、こうして静かに幕を閉じるかに見えた。
大きく風穴を開けたオランジーナ損失を早急に埋め合わせる必要に迫られていたんだ。
ライセンスもとと幾度なく協議を重ね、新たなオリジナル商品が産声を上げることになった。
そうして再び満を持して登場したのが「レモンジーナ」というわけだが、市場ではもっぱら「カブトムシ味」との評判が高い。
サントリーは再び試練を迎えようとしているわけだ。
ちなみにここまで全て店頭に並ぶオランジーナの境遇の変遷から勝手に想像した裏付け一切なしの個人的妄想です。
わたしは飲料関係でも小売関係でもない単なるコンビニ利用客であり、企業や商品に対する損害を目的にしているつもりも一切ありません。
http://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2015/150317/index.html
興味深く読ませてもらった。
ゲハ方面では「弱者連合乙」「任天堂オワタ」という雑音しか聞こえてこないが、今回の業務・資本提携について少し書いてみたい(長文乱文お許しを)。
まずはっきりしていることはDeNAも任天堂も、これが唯一の選択肢だったということだ。
DeNAは凄まじい利益率と成長率で一気に階段を駆け上がってきた。それはもちろん、ガチャを中心としたソーシャルゲームの稼ぎが凄まじかったからだ。そしてスマホシフトの波に乗れず低迷している。野球や陸上チームを買ってきたのを含め、怪しげなIT企業から公器へと衣替えしたいという意欲が強く、ゲームの穴を埋める新事業も衣食住やDNA解析といった「なんか格好いい」ものが多かった(もちろんマンガボックスやSHOWROOM、ハッカドールなどもあったが)。結果、ソシャゲのような抜群の利益率を叩き出せるわけもなく、V字回復など夢のまた夢、という状況。
数年前ならM&Aで有望なデベロッパを囲い込むことだってできただろう。実際に海外を中心に複数の開発会社を手中に収めているしピーター・モリニューなんかとも一緒にやっている。しかしモバゲーというプラットフォームビジネスが立ち行かなくなり、ガンホーが、コロプラが、mixiが、(gumiが、)DeNAが足元にも及ばないような大ヒットアプリを生み出し、ベンチャーでも100万DLや月数億円の収益が期待できる現状、DeNAが買えるデベロッパは出涸らしぐらいしか残されていないのだった。さらにいえば、ヒットを出した会社が次もヒットを出せるとは限らない(出せてないように見える、つまり技術力や企画・開発力ではないところでヒットが生み出されている、つまり運次第?という不透明さがある)のもM&Aが進まない理由だろう。
守安社長も決算発表などで度々言及しているが、FFRKでようやく月ウン億規模のアプリを手に入れることができたのは明るい兆しと言えるのかも知れない。しかし怪盗ロワイヤル以降、オリジナルタイトルの大ヒットを出せていないことからわかるように、DeNAの企業体質的に「ゲーム単体の面白さ」で勝負できないのは明白だ。
じゃあ有力IPを排他的に使えるとしたら・・・?イコール任天堂と組む理由になる。
任天堂はネットワーク、スマホ戦略で完全に出遅れた。この差は単独では取り戻せないところまできている。いや、任天堂としては決してそうでは無い、深慮遠謀の果てがこのような状況なのかも知れないが、市場はそう受け取らない。
220億でDeNAの株10%を取得できるのは任天堂にとって大きなメリットだ。低迷してるとはいえ毎年巨額の黒字を計上し、任天堂の決算にも大きく貢献するに違いない。少なくとも数年は時間稼ぎができるはずだ。今回の提携が「結果的に」うまくいかなかったとしても。
任天堂にとって問題は、やはりブランド力、ブランドイメージだ。ゲハ的な煽りは意に介さなくても良いだろうが、ガチャ・廃課金・過激な露出表現といったダーティなイメージは任天堂としても避けたいところ。もちろんDeNAが開発する任天堂IPスマホゲームからそのような要素は排除されるに違いない。そして利益もそれなりに落ち着くに違いない。
実際どうするのだろう。合弁の開発子会社を作るのだろうか。BNDeNAという名前を出さずともわかるように、基本的にはうまくいかない形だ。秋葉原あたりに拠点を構えるのだろうか。DeNAからスター開発者が、任天堂からはそこそこの開発者が、宮本氏なんかは当然関わらず、東京制作部の著名スタッフがインタビューと評価会にだけ顔を出す。クオリティに納得せず、ブランドイメージが毀損されることに過敏に反応し、いつまでたってもリリースできない、出たゲームは全然課金が捗らない。やがて子会社は一定の役割を果たしたので発展的解消。こんな風になりはしないか。
DeNA的にはFFRKよりも厳しめのレベニュー割合を甘んじて受け入れつつ、半端ないクオリティチェックをくぐり抜け、とにかく早く任天堂IPのゲームをリリースしたいところだ。会員制サービスプラットホームという話もある。これは月額課金制だろうか。安定した収益を上げたいという意味では良い施策だろう。しかし新たなゲームプラットホームになるとすれば、Yahoo!モバゲー、mixiモバゲーの二の舞ではないか。もう従来のモバゲーはぶっ壊していいということだろうか。それぐらい収益寄与が衰えているのか(任天堂と組むことでバンダイナムコ他有力IPとの関係性が変わるのも不安要素だ)。
そして、これも大切なことだがDeNA創業メンバーにとってこれは歴史的な出来事だ。もうこれでExitして良いのではないか。巨大企業を作り上げ、球団を買い、任天堂と資本提携する。日本においてソフトバンク、楽天ぐらいしか比較例が無いレベルの「成功体験」だ。あとは死ぬまで講演会と著書出版をしていればいい。さすがである。
個人的には任天堂にうまいように使われて最終的に捨てられる(吸収される)と思うんだがどうだろう。いやしかしDeNAからゲームを除いた事業だけでベイスターズを支えられるとは思えないし、任天堂がベイスターズを支える義理はないだろうし、それだけが心配だ。今年はAクラスが狙えるんだから、あまり外野で騒ぎになってほしくないなあ、と思うのだ。憂鬱だ。
凶悪犯罪の件数の推移だけ見て「犯罪減ってます、はい論破!」は無意味。
そして、私たちの実感からいえば、凶悪犯罪は間違いなく増えてる。
では、犯罪の件数自体は減っているのに、なぜ私たちはそのように感じるか?
これは地球規模で、そして歴史的な規模で進行していることであるが、
病気で死ななくなった。事故で死ななくなった。そして、事件で死ななくなった。
私たちは、人類の歴史上、もっとも死から遠ざかった不死に近い人類なのである。
凶悪犯罪という行為は、そんな死ななくなった私たちを殺す行為なのである。
誰も死なない時代に、人の手で、残酷に誰かを嬲り殺す行為なのである。
それが、凶悪でなくてなんというか?これは、神殺しにも等しい行為だ。
誰もが簡単に死に殺す時代の凶悪犯罪というのは、凶悪ではなかった。
凡人でも、用意に出来ることだったのだ。当然、凶悪犯罪が多いという実感もない。
現代日本と古代ギリシャで奴隷を持つという行為がイコールでないように、
行為を評価するには、時代の背景や、もろもろの影響もコミコミで考えるべきなのである。
もう一度いう、若者による凶悪犯罪が増えてるという認識は100%正しい
<追記>
マスコミの影響を指摘してるコメントがいくつかあるが、因果関係が逆だぞ。
マスコミの報道によって私たちが凶悪犯罪を凶悪だと感じるようになったんじゃなく、
私たちが凶悪犯罪を凶悪だと感じるようになったから、ニュースバリューが生まれて、
で、感想をtwitterでKENSAKUしてて見つけた http://d.hatena.ne.jp/kurutto115/20150307/1425715505 を読んで、おれがこうじゃないかなーって思っている内容を雑に書いてみる。
まとまってないし妄想先行のシステム万能論で思考停止してる部分もあるけどご容赦。
とかくこの世は生きづらいと漱石が書いてからもう幾年が経ったのか、数える気にもならないから全く知らないし、単なる話の枕に過ぎないからどうでもいいんだけど、どうも今の世はもっと生きづらくなってきているようだ。
様々な問題が山積みだし、聞いたこともない問題が次々に産まれては解決されないまま消えていく。じゃあ解決しなくていいんだ、って感じでほっといてるとリーマンショックやら原発爆発なんかでツケが回ってくる。もぐらたたきはメタファーとしていつも非常に有用だ。
僕は政治家でも経済学者でもないから、それらの問題には何も言えないけど、よくネットで話題になる男性と女性という二つの性の問での生きづらさという問題には何かが言えそうな気がしてこの文章を書いている。ネットでこういった類の文章がよく書かれるのも似たような理由だ。(大体の人は男か女だから一端の口を聞ける。)
この、男性と女性の間での問題というのも、今まさに解決しないでいたツケが少子化や雇用問題という形で噴出してきているところだ。全く無関係に見えるところにまで飛び火してもいるだろう。
僕がこの問題について今まさに書いているのは、さっき言ったように僕がこの問題について何かを言えそうというのもあるが、この問題が今の日本社会の最も大きな問題で、これを解決すれば今の日本の殆どの問題は解決すると思っているからだ。
これまでの日本では、男性が女性を抑圧してきた。日本の「社会」というのは男のもので、女は付随物に過ぎなかった。だから社会的に成功した男には女がついてきたし、逆に社会的に成功してない男には殆ど女が寄り付かなかった。女は対異性的に成功していれば嫁として社会的に成功することができ、それ以外で生きる道は存在しなかった。
だからこれまでの日本での性差の問題というのは、社会的な成功をできない、もしくは興味がない男と、対異性的には成功できない、もしくは興味が無い女のものだった。彼らは「社会」から疎外されていたのだ。
しかし、女性が抑圧から解放され始めたことで問題が全体に波及する。
女が「社会」の付随物ではなくなったために、社会的に成功しているにも関わらず女を手に入れられない男が増え、反対に、対異性的には成功しているものの社会的には成功できない女も出た。
これまでは男は社会的に、女は対異性的に成功していればよかったのだが、両性ともに社会的にも対異性的にも成功を果たさなければならなくなったのだ。
それによって負担が増えたように感じる、対異性的に成功していない男は女性解放を訴える女達に怨嗟の声を上げ、社会的に成功していない女は社会的な成功を約束しなくなったふがいない男達に対して罵りの声を浴びせる。
現状、男性も女性も、どう生きていても非難を避ける事は出来ない。
たとえ対異性的に成功しようと社会的な成功をしていない男はクズだし、両方で成功を果たしていてもリア充と言って叩かれる。
たとえ対異性的に成功しようと社会的な成功をしていない女はビッチだし、両方で成功を果たしていてもリア充と言って叩かれる。
勿論そうではない。
かつてアメリカで黒人が解放の声を上げた時最も人種間の争いが激しくなったように、今は過渡期に居るだけだ。
将来、女性が完全に解放された時、本当にそんな時が来るのかはわからないが、その時は性別の間の争いはなくなるだろう。誰もそれを意識しないからだ。
仮にその時が来ず、人種差別のように、女性差別が社会を通奏低音のように流れ続けたとしても、解放が進めば進むほど事態はよくなる。
対異性的に認められることと社会的な成功がイコールになる時代になるからだ。
今主夫が認められつつ有るように、女性の解放というのは、男性の中の女性性の解放でもあるのだ。
漱石の小説もこの問題について書いている。彼の小説は日本のエリートが西欧で流行っている恋愛というものをしてみんとしたものの集積だ。社会的にはエリートなんだけど恋愛的、対女性的には坊っちゃんで、結局それは上手くいかないまま終わった。村上春樹がその後を継いで成功しようとしている、とか言われてる。
サービスを提供し貢献しようとする場合、奉仕する事は、イコール、感謝される事に繋がる。
しかし逆に、(物質的にも精神的にも)貧困層に、何かを支援しようとする場合、
その事を考えて貧困層を支援する側は、支援しなくてはならないんだなと思う…。
何かをして上げる事が憎まれることに繋がるなんて、普通の頭では全く持って理解できない。
時間とお金と労力を割いて支援し、ボランティアをして、わざわざ逆恨みをされに行くのだから…。
しかし、このままでは貧困層の輪廻は断ち切れないと思う善良な人が貧困層を支援する。
助ける。→恨まれる。それでも何とかして助ける。→そして恨まれる。
出来るところまで踏み込んでいく。
貧困層を支援するということはそういうことなんだと理解する必要がある…。
感謝の心が少しでもあれば、貧困層から脱出できる余地はあるけど、
そうした人を支援するということは、こういうこと↓
「助ける。→恨まれる。それでも何とかして助ける。→そして恨まれる。→限界を感じたら処でやめる→休憩する、→再開してまた助ける→恨まれる→繰り返し」
なんだなと。
あの話を見てイジメとは全く感じなかった
私はアイマスに何の思い入れもない人間だし、さらりとエンタメのひとつとして見てる立場
みおちゃんは確かに他人から見るとライブ規模を勘違いしていて、
それはつまり自分の立ち位置などが若さ故にあまり分かっていなくて
突っ走っちゃったんだな〜って感じで
周りは誰も悪くないし、もちろんみおちゃんだって悪くない。
誰にでもあるような些細な勘違いを、イコール醜態であると感じる人は
同じような経験があるのか、
若いのか、
(例えば現実でそういう些細な勘違いを嘲笑された、揶揄された等)
と思ってしまうのかなーと思った
なぜそう思ったかというとまさに自分自身そういう面があったから
「授業中、先生からの質問意図を勘違いして、おかしな返答をして笑われた」程度の軽い勘違い
笑われたことが非常に辛く、恥ずかしい記憶、駄目駄目な自分のダサさとして心の奥に根付いていて
10年以上経ってからもずっとあの時の恥ずかしさが忘れられなかった
今振り返って考えてみれば全くもって大したことではないし
そんな勘違いをしたからといって自分自身の価値が下がったわけでもないし
人間なんだから誰でもそういうことってあるよね、程度の問題なんだけど
若かった私にとってそれは重大な問題だった
みおちゃん、人間らしくていいじゃん
勘違いなんて誰にでもあるし、そのことを馬鹿みたい、赤っ恥だなんて思わない
周りの子もそのことについて別に揶揄したりしないイイコばっかりだし
みおちゃん本人は次回、自分自身のこと「あ、突っ走っちゃった、恥ずかしいな」と思うかもしれないけど
そのことは悪いことなんかじゃないと思うよ
被差別者のノーマライゼーションが進んだからといって、その過程ですぐに、主流社会(とりわけ異性愛男性システム)に対して依然として続く痛罵を「逆差別」としてやめさせようとするのは承服できない。
https://twitter.com/masayachiba/status/566265388262887424
被差別者による主流社会への武力でない文化的な復讐は避けられないと思う。健常異性愛男性社会は長く女性や少数者を排除してきた。だからあと500年?くらいは女性や少数者に痛罵され続けてもしかたないだろう。どちらも責めるなというのは500年後の話であって、我々が到達できる段階ではない。
https://twitter.com/masayachiba/status/566266466593292290
これだと「女性や少数者を排除してきた健常異性愛男性」は痛罵されることなく死に逃げて、「女性や少数者を排除していない健常異性愛男性」が痛罵される500年になると思うんだけど…?
あといま「痛罵されている健常異性愛男性」って、健常異性愛男性全員ではないよね。
男尊女卑が著しかった時代って、男性が徴兵されたり、男性が集団就職して過酷な労働条件で働かされていた時代とイコールで、
「男性だから強制的に負わされる過酷な義務」と帳尻を合わせるために「少数派や女性を侮蔑する権利」を与えられていた構造だと思う。
だから徴兵も強制労働もないのに、徴兵や強制労働があった時代と同等の「少数派や女性を侮蔑する権利」を求めたら、痛罵されるのも仕方ないというか。
ジェンダーの問題っていうよりも、「食い逃げ」や「借金の踏み倒し」に対するものに近い嫌悪感なんだよね。
「贈与」や「交換」はいいけど、「収奪」はダメだろ、っていう。
「健常異性愛男性社会」っていう言い方もよくわからない。社会って…?
例を二つあげるがこの手の記事に素直に悲しめない。
これを読んで思ったけど普通にマザコンならぬババコン乙としか思いようがない。
ばあちゃんに貰ったもの壊れたらまた新しいの買えばいいし燃えてもそれはばあちゃんのマフラーなんだから燃えカス思い出としてとっておけばいいじゃん。
ばあちゃんそんな大事なら結婚なんてしないでばあちゃん養えばいいしマフラーとばあちゃんどっちが大事なんだよとも思うし物に必要以上に感情移入するの気持ち悪いな。
そりゃその人らにばあちゃん殺されたとかだったら強い感情が沸くだろうが、ばあちゃんは先に死ぬしマフラー燃やした人そんな強い感情があったとも思えないな。
自分のおかんにはもう後何回しか一生で会えないんだよとか涙ながらに言われても気持ち悪い。
自分は社会人になったら仕事もあるから母親に合える回数が10回や一桁とか当たり前だと思っているし、そのことについてそれ以上の感情は無いし正月の帰省は普通に楽しみだ。他の友人との約束や恋人とのクリスマス蹴ってまでおかんに会いに行くとか無いな。
身内は日常じゃなくて日常を支えているバックグランドみたいなもので、背景だけじゃ飯は食えないし、繁栄もならない。
バックグランドを大事にする人はそりゃできた人間のように見えるが、つまらない人だなと思う。
家族のために恋愛もその他交際も諦めるってことだろ。同情する。
本人たちは、恋人や友人との時間よりも家族との時間を一番大切にするからそれはそれで幸せなのだろうが・・・。
親とは18年間毎日顔を合わせて暮らしてきたわけだし正直もういいかなと思っている。
家族と恋人の順序がイコールか恋人>家族くらいなら普通だしそう責められることでもないと自分は思っているが
家族と恋人やその他のバランスが明らかに家族>>>>>>みたいな人ってこういう自分のような思考の人間を冷たいだとか思ってそうで怖い。というより理解できないって思っているんだろうな。
ただ、自分はそんな人間なので勿論友人は少なく恋人ができた回数も少ない。
だが、その他人と温度差を感じるのは辛いな。
最近の韓国批判は酷いもので、ネットも書籍もとりあえず韓国を批判しときゃいいだろみたな風潮である。
そんな中ふと、このネトウヨの嫌韓はいわば宗教みないなもののように思ったので書き出してみる。
「私、K-POPが好きです。」という書き込みをネットで見かけた。しかしその後のネットの反応たるや誹謗中傷の嵐である。
「頭おかしいんですか?」
「奴らはクソだ。奴らを肯定するお前もクソだ。」
しかし日本では個々人の趣味趣向は自由のハズ。なんで好みを言っただけで、国民であることや彼女(多分女性)自身が否定されなきゃならないんだろうか。
そしてふと何かに似ているような気がした。
そうだ「イスラム国」だ。
ご存じの通りイスラム教はアッラーを唯一神とし、教えはコーランに準ずる。そしてイスラム国は自分たちの思想以外は認めない。思想が違えば「悪魔(異教徒)の手先」として殺される。十字架を持っている?悪だ。殺すべし。
ネトウヨにとっての思想・教義は「韓国は敵だ」ということだろう。それに従わない場合は容赦なく攻撃する。それが趣味や好みの範疇だろうが関係ない。教義に反したのだ。それはつまり悪であるということだ。悪なら攻撃して問題ない。キムチが好きだ?悪だ。死んだ方が良い。
宗教全般にそうだが、人生や生活への不安を神と共にあると信じることで和らげ、心の拠り所にする。
ネトウヨは韓国を批判することで、心の平穏を保つ。例え自分が将来に何の可能性を感じない底辺な存在だろうが、自分は日本国人、彼らはそれより下。そう信じることで自尊心やアイデンティティを維持する。
イスラム教では日々神に祈りを捧げることにより、神を身近に感じ、心の平安を得ている。
ネトウヨは日々韓国の悪口を書くことで、ストレスを発散し、仲間の同意を得て教義を再確認し、心の平安を得ている。
イスラム国の戦闘員たちに、いくら「神様なんていないんだ」と説明しても通じない。科学や論理など意味をなさない。彼らにとってコーランが世界の法則であり、その歪曲解釈が正義なのである。
ネトウヨにとって「韓国が敵」であることが世界の法則で、韓国の批判こそが彼らの正義。彼らは根拠のない根拠や出所不明なデータ、使い方を誤った統計データ、そして完全な主観を繰り広げ韓国を批判するが、しかしそんな内容など実はどうでもいいのだ。教義に準じていればそれで良い。客観性やソースへの批判?それは教義に反する悪だから無視して良いのだ。
イスラム教には「異教徒を殺しても良い」という教えは含まれていない。しかし過激派は教育を受けていないので本が読めず、勝手な解釈をして乱暴な手段を講ずる。
韓国政府のやり方は褒められない点も多いが、イコール韓国全体・韓国人全体の批判には結びつかないハズだ。しかしネトウヨは無知なので、嫌韓の教えを無抵抗に信じ歪曲解釈をして乱暴な手段を講じる。
そのうちどこかでテロが起きるんじゃないだろうか。