はてなキーワード: 16世紀とは
アジア人の肌はいつから「黄色」になったのか─16世紀は「白人」だった
16世紀に東洋人と西洋人が交流し始めたころ、西洋からの旅行者や宣教師、大使らは、東洋人に言及する際、たいてい「白人」と言っている。19世紀まで肌色は人種の特徴としてそれほど認知されていなかったので言及自体がめったになかったが、東洋人については幾度となく、「私たち(西洋人)と同じくらい白い」と表現されていた。
「黄色」という言葉は18世紀末に使われ始め、19世紀になると西洋人たちのイメージの中に浸透していった。ところが17世紀までに中国人と日本人がヨーロッパの貿易システム、宗教、国際関係に加わろうとしないことが明らかになっていくにつれて、彼らの肌の色は文献の中でかつての白さを失い「濃くなっていった」。
言いかえれば、アジア人が白人と呼ばれていたのは見た目や肌色が理由ではなく、文明・文化・知識・従順さ──特に、彼らがキリスト教化される場合──の度合いが根拠となっていた。
最初はアジア人は「白人の一種」だったのが「キリスト教という正しい文化を受け入れないので人間じゃない」ということになり「人間じゃないので色が違う、あいつらの肌の色は何色だ」ということで新たに「黄色人種」ができたらしい
16世紀半ばの戦国時代の末期にマカオからポルトガル船が九州各地に来航していわゆる南蛮貿易が始まると、おそらくは中国産の砂糖が安定的に供給されるようになる。最近のポルトガル船の積み荷の研究によれば、年間150キロ前後の砂糖が輸入されていたという。
江戸時代に入ると17世紀から18世紀初期にかけて福建省から琉球・奄美に黒砂糖の製法が伝えられ生産が始まった。しかし白砂糖や氷砂糖は、18世紀末の寛政年間に国産白砂糖が上方市場に登場するまで、長崎に来航する唐船(中国本土や東南アジアからの来航船)とオランダ船(東南アジアから来航するオランダ東インド会社の船)による輸入に依存していた。
長崎貿易により輸入された砂糖は、国内商人に落札された後、船で大坂道修町の薬種問屋へ運ばれ、さらに堺筋町の砂糖仲買によって江戸をはじめとする全国に運ばれていたという。
宮廷道化師は王を楽しませるエンターティナーであり、また愚かであるが故に王に直言できる存在であった。
スタンチクも、実際には政治に通じた賢人であり、しばしば気の利いた風刺を発した。
彼は三代の王に仕えたが、この時代のポーランドは、外ではモスクワ大公国やドイツ騎士団、オスマン帝国などと戦い続け、
内ではシュラフタ(貴族)が力をつけて王権を脅かすなど苦難に晒されており、
スタンチクがそれらを憂慮する逸話やその場面を描いた絵画が多く残されている。
狩りのために檻から出した熊が王たちを襲った事件を、プロイセンの臣従にたとえて王を嘲笑したという逸話が特に有名である。
いまの喫煙は歪んでいる。もともと喫煙というものは、パイプや葉巻など、火をつけてゆったりと煙をふかし、その味と香りを楽しむ、非常にスローな趣味、嗜好品であった。元来タバコの煙は肺に入れず、口の中で転がし、その奥深い香りや旨みを味わうものであった。
「タバコ」と聞いてまず誰もが連想する、コンビニに置いてある馴染みの紙巻きタバコ、とりわけライトたばこ。あれは煙を味わうものではない。ニコチンを摂取するためだけの非常に短絡的な嗜好品だ。
1mgだの3mgだのとまるで煙の味もしないようなフィルター越しにスパスパと煙を肺に入れて吐き出し、はい終わり。
馬鹿げている。
この楽しみ方は長く続いた煙草文化から見れば非常に異質な、歪んだ楽しみ方であるとさえ言える。当然肺では味を感じることなど出来ないし、肺から摂取されたニコチンは血液に急激に取り込まれ依存性をはるかに増す。
パイプ喫煙や葉巻、日本で主流だったキセルでの喫煙などで主に用いられる口腔喫煙(ヤンキーやニコ中が『ふかし』『金魚』とバカにするもの)では、粘膜からゆっくりと取り込まれるニコチンが心地よいリラックス作用を与えてくれるのだ。しかも依存性も低い。パイプスモーカーは「タバコを吸わないと集中できない」とイライラしてしょっちゅうデスクを立つ、などということをしないのだ。
はっきり述べるが(述べる必要すらないと思われるが)、街中や喫煙禁止区域で歩きながらタバコを吸っている人間、すべてクソである。あとIQOSとかgloなら歩きながら吸ってもいいと思ってるリーマン多すぎる。勘弁してくれ。このご時世においてただでさえ狭い喫煙者の肩身をさらに狭くして何がしたいんだ、と思うが、これもひとえに彼らが肺喫煙でバカスカタバコを吸って悲しいニコチン中毒者に成り下がった故のものである。
彼らは他人の健康被害など考えずにニコチンを摂取しながら生きていく、ゾンビのような生物なのだ。彼らが居なければここまでタバコの健康被害が叫ばれることもなかったのではないだろうか。「個人」の健康問題を「他人」の健康問題に発展させるのが歩きタバコゾンビなのだ。
ここまで「紙巻きタバコ憎し」で書いているように思われた読者もおられるだろうが、筆者もパイプに合わせて日に1本ほど紙巻きタバコをふかしている。そして、筆者の周りの愛煙家にはマナーを侵してまでニコチンを摂りたがる愚か者はいない。タバコを吸うときは部屋を出て、携帯灰皿に灰を落とし、毎日服を洗濯する「普通の喫煙者」だ。もちろん、筆者もそうあるよう心がけている。
タバコ文化の危機は、それらの当たり前を心がけず、ヤニ臭い服を着て、子供の目の高さに800度の炎を持ちながら街中を歩く「異常な喫煙者」によってもたらされているのだ。
7世紀のマヤ文明において、すでにタバコは嗜好品とされていた。それが日本に、世界に広がったのが16世紀末から17世紀初頭。ここまではずっと、パイプ喫煙や葉巻が「喫煙」だった。
しかし、19世紀に大きく広がった紙巻きタバコ。こんにちの喫煙者の肩身の狭さは、これを「歪んだ楽しみ方」で吸う者たちが原因であると言って過言ではない。
日本では400年以上、世界では1300年以上という長い時間の間、紫煙は人類に寄り添っていたのである。
朝鮮飴(ちょうせんあめ)は、熊本県の銘菓である。餅米と水飴と砂糖を独自の製法で捏ね合わせ、片栗粉を塗した求肥飴の一種である。
食感は餅に近い。
16世紀、園田屋の開祖、園田武衛門により作られた当初は長生飴と呼ばれていたが、文禄・慶長の役での朝鮮への出兵の際、
当時の城主・加藤清正の軍はこれを携行して篭城中の兵糧として役立てたことから、朝鮮飴と呼ぶ様になった。
江戸時代中期までこれは藩の買い上げで、製法は管理されて市販が許されていなかった。
代々の肥後藩主がこれを江戸幕府や朝廷への献上品、諸大名への贈答品として用いた。
当初は黒砂糖と玄米を使用した淡褐色の黒朝鮮飴しかなかったが、現在は白砂糖と精白米を用いた白朝鮮飴が大半を占めている。
1970年代前半には30軒以上が手がけて売上高の総計が10億円に達したが、1990年代後半には2-3億円に減少し、業者も園田屋など
数軒になっている。
バオバブ(英名:Baobab、学名:Adansonia)はアオイ目アオイ科(クロンキスト体系や新エングラー体系ではパンヤ科)バオバブ属の
総称のこと。
「バオバブ」の名は、16世紀に北アフリカを旅したイタリア人植物学者が「バ・オバブ」と著書に記したのが始まり。
もとはアラビア語のブー・フブーブ(種がたくさんあるもの)から来ているという説がある。
原生種がマダガスカルに6種、オーストラリアとアフリカに1種ずつ存在する。
アフリカの諸言語ではそれぞれ呼称が異なり、ズールー語では「ウムコーモ」、ハウサ語では「クーカ」、スワヒリ語では「ムブユ」、
フルベ語では「ボッキ」、バンバラ語では「シラー」、モシ語では「トゥエガ」などと呼ばれる。
サバンナ地帯に多く分布する。幹は徳利のような形をしており、高さは約30メートル、直径は約10メートルに及ぶ。
最大のものは南アフリカのリンポポにあり、高さ47m、直径15mである。葉は幹の上部につき、乾季に落葉する。花は白色で大きい。
果実はヘチマのように垂れ下がり、堅い。果肉は食用・調味料とされ、セネガルでは「サルのパン」と呼ばれる。
ビタミンCがオレンジより多く、カルシウムも牛乳より多いと言われる。さらに種子からは油が採集できる。
また、若葉を野菜として利用する。樹皮は煎じて解熱剤に用いられるほか、細かく裂いて編めば強靭なロープを作ることができる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%AA%E3%83%90%E3%83%96
日本のマスコミが「We are sending an armada - very powerful. 」を「「無敵艦隊を派遣した」と述べ」と訳した問題であるが、最低でも以下のことを抑える必要がある
・「無敵艦隊」は16世紀フェリペ二世時代のスペイン海軍の自称ではない。スペインでは「大艦隊」(Gran Armada)、あるいは「いとも壮大なる艦隊」(Grande y Felicísima Armada)
・スペインの艦隊を「無敵艦隊」というのは、のちにこの艦隊と戦うことになったイギリスで「半ば皮肉混じりに恐怖と賞讃の意味を込めて奉った尊称」である。
<岩根圀和『物語スペインの歴史』2002 中公新書 p.211>
英語圏でこの16世紀のスペイン海軍を指す言葉として「the Armada」「Spanish Armada」があるが、これも別に「無敵」を自動的に含意してはいない。16世紀のスペイン艦隊をやたら無敵艦隊というのは日本ぐらいなものだろう。
でさ、
チョコレート売り場見てごらんなさいよ。
たくさんあるのよ。
大人だからって80%の買って食べるとNIGAAAAAAってレヴェルなのよね。
チョコっと後悔。
ほんと、苦い苦いって思いしながら食べなくっちゃいけないの。
でね、
私がお気に入りのは、
すっかり無くなってしまったわ。
70%前後なのが甘いしビターだし、
このくらいがいいわね。
昔社会で習ったと思うんだけど、
東インド会社って
あれ、
全くのウソだけどね。
まあ、
いろいろなものを試してみたいわね。
うふふ。
ちょっと控えめにしたいので、
チョコ食べすぎって訳じゃないのよっ!
やっぱり、
お手軽ね。
ビタミンCと水分はしっかり摂ってね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
「世界の辺境とハードボイルド室町時代」という本の「未来に向かってバックせよ」という章に、勝俣鎮夫さんの説が記載されてます。元々は、空間概念で、前をサキ、後ろをアト、と表現していたそうです。時間概念として使う場合に、古代や中世の日本人は、未来は未だ来ずという意識で見えないもの、「アト」と表現し、過去は過ぎ去った景色として見えるもの、「サキ」と表現したそうです。ところが、経験と技術の進歩で、16世紀頃に未来が予測できる、コントロールできるもの、目の前に広がっているものという認識が生まれて、全く正反対の時間概念の表現も混在するようになったそうです。おもしろい説だと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20160609124904
色々な答え方があると思う。
戦前の軍隊では「故郷では食べられなかった白米を食べられて嬉しい」という兵隊が多くいた。
稗、粟、黍などを主食とする地域、白米を主食とする地域など、日本の農業は多様性に富んでいる。一地域内での多様性という意味でも同じ。
比較史的にみて日本の人口変動がかなり安定的に推移しているのは、そのことと無関係ではないだろう。
日本においてジャガイモは「飢饉対策」として導入されており、要するに「主食の変更」というより「農業多様性の増加」を目的としていたように思われる。
ちなみに最近は「主食」という概念自体があまり普遍的ではない(特定の地域でしか通用しない)概念であるという指摘もされているのだが、ややこしいので略。
2.税と米
こうした多様性にも関わらず、米が「主食」とみなされていることの一因は、いわゆる「年貢」の存在に求められるだろう。
白米が貨幣的な性格を持ち得たのはなぜなのか、「私鋳銭や破欠銭などの悪銭が一般に流通し、貨幣の価値が安定していなかったから」と言われている。
16世紀ごろから戦国大名が年貢を銭納から穀納に切り替えるので、そのころに画期があったのだろうと思われる。
要するに、ジャガイモが伝来した16世紀以降においても、米は作らざるを得ないものだったのである。
「税の徴収」という観点から江戸幕府が農業政策の中心を米においていたとして、
「農民・商人による自発的な変化」としてジャガイモ中心の食文化が生まれる可能性はなかったのか、という疑問は当然生じるだろう。
結論としては、「可能性がなかったことを否定するのは悪魔の証明に等しく、困難」だが、17世紀以降、国家の干渉によらずして自発的に食文化が大きく変化したという事例は極めて稀であり、日本においてもまずなかった、ということになるだろう。
不安定な生活を送る農民にとって主要作物を変化させることは大きな博打である。プロイセン、ロシア、(イギリス支配下の)アイルランド。ジャガイモで知られるこれらの地域は、いずれも専制君主や植民地政府の苛烈な支配のもと、ジャガイモの普及を進めていった(中公新書『ジャガイモの世界史』を参照)。日本においても明治以降、北海道や、満州においてジャガイモの作付が奨励されている。その意味では、日本では明治以降にこそ「ジャガイモの主食化」の可能性があったということになるのかもしれないが、一方では「日本食」という観念が広がりを見せ、他方では食の多様性が増大しつつあったのだから、ジャガイモが「唯一の主食」の地位を占める可能性はもはやなかった。