はてなキーワード: 稲穂とは
目上の他人に家族のことを話す時もさん付けする人?単純に公的な場で身内に対する尊敬表現はNGということでしょ。個人主義の時代だし、自己以外への謙譲表現を全て廃止せよという主張であれば賛同も得られるかもね。
b:id:yulalila 電話口で「増田さんですか?今かわりますー」とか言ってないよね?プレゼンの時に「弊社の増田さんから説明しますー」とか言ってないよね?
こういうのを考えずに慣習に従うだけの能無しって言うんだろうな。
b:id:fraction 増田の解釈は身勝手というか、ネトウヨ用語を用いれば、増田は日本人じゃないんだろうね。
私は日本人だがそいう部分は大嫌いなので結論には賛成するが。分かった上でキモい風習を批判すべき、cf pinkyblue氏。
b:id:hanyA なんでわかってるくせに”なんで”なんて聞くの?
社内さん付け問題についての考えはわからなくはないけど、自分が嫌だからって正当化して他人まで巻き込もうとする態度は不快。自分で理由付けて勝手にやりなよ。
悪しき慣習は滅びるべきで、考えずに従うノータリン共に対して一石を投じた元増田に何いってんだコイツ。
b:id:blueboy 「へりくだる」ということができないんだね。それに抵抗感があるのは、増田が若くて未熟だから。未熟な人間ほど、威張りたがる。成熟するほど、謙虚になる。実るほど頭を垂れる稲穂かな。 丁寧でなく、謙虚になれ。
へりくだるって「他人をうやまって自分については控えめな態度をとる。」ことだぞ。会社は自分ではないだろ。先輩や他の社員も「自分」じゃないだろ。アホか?
他人使ってへりくだんなや。
b:id:sakuragaoka99sakuragaoka99 別にどっちでもいいけど、これは全く意味のない風習だとは思わない。直接は関係ないけど、社外より上司に気を使ってるなと分かる対応は非常に印象が悪い。
何故社内の人を「さん付け」しただけで「社外より上司(社員)に気を遣ってる」になるのか。
どっちにも気を遣ってるかもしれないのに勝手に妄想しちゃう奴?
hisa_ino 敬語の内と外の違いはあくまで相対的なもの。
で、理由は?wwwwwwwwwwww
これだから考えなしの能無しは……
b:id:lluvias そんなこと言いだしたらなんで他人を「さん付け」しなきゃダメなの?ってのも通ってしまうだろ
b:id:deep_one 『社外の人に、社内の人を「さん付け」で呼ぶなって言われる』それは普通だ。重要な条件は「社外の人に対して社内の人間の名前を伝えるとき」。「社外の人がいる状況で社内の人間に呼びかけるとき」はまた別。
もう飽きた
本気でかっこいいとおもってやりました。実在の人物や作品に関係はありません。
・死屍の綾なす四ツ辻の、獅子も恐れる行く人の、知らぬは読者ばかりなり、綾辻行人ッ!
[中範囲に防御無視のダメージ(ダメージ量は詠唱者のHP残量に反比例)+範囲内の味方のDEFアップ]
・我が産みし死靈は天上天下に及ぶものなし! 開け、聞け、探偵三道宝階ッ! 麻耶雄嵩ッ!
[フィールドの天候がランダムに変化+各敵キャラの装備をランダムでひとつ破壊(防具や魔法による回避不可)]
・私の城は美しいお城、私の頭文字は完全なる円にして王の証ッ、死ぬまで踊れっ、舞城王太郎ッ!
・実るほど頭を垂れる稲穂かな。不燃にして不稔に非ず、エリシャの奇跡の裔と知れッ! 米澤穂信ッ!
・円心に居して惑うことなし、今宵ささめくあなたの挽歌、参ります、円居挽ッ!
・連なる城は堅固にして絢爛、三度否まず三界を紀(おさ)むッ! 連城三紀彦ッ!
・その桜の木は一本でした。桜の木は満開でした。咲いて撃ち抜けッ! 桜庭一樹ッ!
[敵全体にチキン]
・清涼のうちに流水は苔むさず、命育みメフィストフェレスの女媧とならん! 清涼 in 流水ッ!
・月光の遊戯、双頭の悪魔。国名を端から君に聞かせよう…… 英明なる都は祝福に満ちている。今出(いまいず)る川より通るがいい――アリスト(高貴なる)アリス、有栖川有栖!
[敵全体にストップ]
・朝明に白む山よッ! 一なる愛を識る永遠よッ! 枕木に憂う士(さむらい)よッ! 三位を全一なる二文字に集えッ! 乙一ッ!
・投之於冰上
鳥何燠之
何馮弓挾矢
殊能将之ッ!
・楽園の死神、その胸中に二心あり。右はくろがね、左はからかね。楽園の死神、その掌中に二刀あり。左は剔(そ)るもの、右は樵(こ)るもの。いのち捧げよッ! 汀こるものッ!
[敵全体にレベル3デス]
・占うッ、亜細亜の星を――島々の星は荘と出たッ! 島田荘司ッ!
・いちかはじめか、はじめかいちか。どんととびでて折るか祈るか、心は螺旋、折原一ッ!
[敵味方全体のうちランダムで一人にデス+ランダムで一人にレイズ(気絶キャラが存在する場合のみ)]
[敵全体に特攻大ダメージ。詠唱者は戦闘から除外(死亡ではない)]
・その本は本にして本に非ず、立体にして三次元に非ず、凶器にして狂気に非ず、どすこいどすこい京極夏彦ッ!
[中範囲の敵に大ダメージ+確率でスタン+三マス後方へノック]
須田慎一郎氏の講演会があって聞いてきたんだけど、いやあすごかったわ。プロはやっぱりすごい。
ツイートはするな言われたけど(もちろん冗談だと思うが)増田ならいいよね?国会にも出てるし。そこでプロはすごいと思った2点を話す。
自分も政治経済にはそれなりに興味をもって接しているから、いろいろな経済の動向を知っているつもりでキーワードは抑えていたんだけど、ぼんやり認識していた部分をここまで分かりやすく端的に表すのは流石プロだわ。年間100本こなすらしいから、当然といえば当然だが。
納得したところ
と言うことであった。
正直、アベノミクスが第二弾になって、そういえば失敗失敗と言われている「トリクルダウン」が確かになくなった。その後、経済対策はばらまき系になった、と認識していたのだが、須田氏の見立てでは、新しいアベノミクスの本質は、一般に、と言うか、少なくとも自分がは福祉政策だと考えていた一億総活躍社会の方にあると言う。
一人当たりの給与は伸びない。トリクルダウンが起きないのなら、そういった「質」の向上よりも「量」として、世帯収入を伸ばそうとしていると言う。
なるほどな、と思った。これは安倍首相が再三唱えてきた「イエ」を重視する姿勢にも沿っているし、なるほど分かりやすく腑に落ちる分析に思う。
今までぼんやりと考えていたことが、ひとまとめに繋がって腑に落ちた感じで、流石政経の専門家だと思った。
これが政策として良いかというと色々と議論は有り、突っ込みどころとしては
などがあるが、これはこの日記の本質じゃないのでとりあえず置いておきます。
ヤクザの専門家じゃないんですね(途中でご本人もネタにしてたので)
年間100件以上の後援会をこなすという須田氏なのだが、一番最初に掴みからはいって、枕の「やわらかい」話から始まる。
そこで、楽屋裏のような話や、親友と言う他のジャーナリストの方、さらにはこの金がなさそうな講演会のギャラまでネタにして、上手いこと話を混ぜていく。さらに受講者の年齢層や、反応などを見ながら話を組み立てて言っているらしい。
落語のつかみみたいな。
一応原稿っぽい話が入ったクリアファイルを持っているのだが、それを広げた形跡がない。パワーポイントなども使わない。ただ、前に立って喋るだけ。これは講談師や落語家に通じるモノがある。トリクルダウンの説明をするときにちょっとだけ水を飲んで見せた以外、途中で水分の補給もせず、90分喋りっぱなし。
眠くなって眠っちゃうひとがでる、と言う講演会あるあるや、会場の人たちをちょっとずついじる姿なども、漫談家というか私はちょっと綾小路きみまろ氏みたいなプロ司会を思い浮かべた。
もちろん、内容は先ほど書き出してみて気づいたのだが、結構堅い話なのだ。きちんとガチの経済の話。それを引き込ませて、満足度の高い内容をやるというのは流石プロという感じである。
また立ち振る舞いもなれたもの。100件もやってりゃそりゃもう、と言えばその通りなのだが、実った稲穂ほど頭を垂れるとはよくいったっもので、きちんと周りに配慮をしており、いすを引いてくれた係の一にちょっと挨拶をしたり、公演の最後には深々と頭を下げて回る様子なども、印象に残る。
そして講演が終わったら、のこって妙なことにならないようにさっと退くなども見事だった。
また、正直それほど大きな影響力のある寄り合いでは無かったし、おそらくギャラなどはネタになるぐらい安い(と言うか、半公的機関みたいな団体なのでめっちゃ安いはず。はてなで話題になったら総叩きになるぐらい安いはず)のに、きちんと最後の交流会まで出席していくのである。
いやあ、そもそも顔が怖いひとだから、ひとよりきちんと丁寧に礼節を尽くしてこないと誤解される感じだったのかなとか余計な事まで思った。俺もそう言う感じなので見習いたいと思う。
プロってしゅごい。
実は予習で須田氏の本を買って読んだのだが、おそらく客層で変えてきたのでずいぶん印象が違い、「需要に応える講演」って自称されていたけど流石だと思った。
惜しむべくは、自分はすでに電子書籍派であったため、買った本は裁断して自炊してリサイクルしてしまっており、サインをもらい損ねたことだ。つうか交流会出るとか思わなかった。こういうひとさっさと帰るイメージがあったのに。こんなことなら2冊買ってサインもらえばよかった。
ずいぶん昔から、本のブームやら映画化やらのニュースを見聞きしてきたが、
どうも日本では大人の商売事情ばかり見え隠れしていて、肝心の子供が置き去りにされている印象すらある。
例を挙げよう。私の地元は『ズッコケ三人組』シリーズの舞台、稲穂県ミドリ市の元ネタとして有名だが、
そこに熱狂的な外人がやってきて、「ここがアカツキ書店の元になった本屋か!」とか言ってたらどうだろう。
一応その場は適当にごまかすかもしれないが、内心ものすごくドン引きである。
これが子供向けアニメや特撮だったらどうか。確かに、いい歳こいてはまる大人というのは山ほどいる。
しかし、それがどちらかといえば恥ずかしい趣味だという自覚は彼らにもあるだろうし、
何より、あくまでメインのお客は子供たちである、という原則は守られていると思う。
リア充サイドの人らが、堂々と吹聴して回る趣味になりかねない勢いだ。
おそらくJKかそこらの女の子が、USJのCMで恥ずかしげもなくメテオロジックスとかやっているのを見ると、
やっぱりどこか違和感がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%87%E6%BA%90%E3%81%AE%E5%91%AA%E3%81%84
簡単に説明すると
資源があることで甘えが出てほかの産業への投資が怠る事や、資源があることで紛争や汚職がはびこる原因になることです。
資源がある国の多くが途上国であることからそう言われるようになりました。
資源は恩恵をもたらすものではなく、甘えや政治腐敗、紛争を引き起こすものであるという発想。
私はこの面白い考えが、今回のVWのディーゼルエンジン問題にも言えるのではないかと思いました。
日米貿易摩擦の時、ジャパンバッシングで日本車をひっくり返すパフォーマンスなどをやっていた時代
関税など、ビッグ3を守るためにあれこれ政治的に日本企業を妨害していましたよね。
しかし結果的にビッグ3がどうなったかみるとわかりますよね。政治力って本当に企業のためになるんでしょうか。
国際的な日本企業は、自国の国際政治の立場の弱さを知っているため、国を当てにしていません。
トヨタなどはそれこそ日本の政治家や官僚以上にアメリカ政治に対して神経とがらせています。
おなじくらい気を使っているのは、確かな技術です。技術は誰の目から見ても公平に評価ができる分野です。
なので私は、日本企業がまじめに技術と向き合っているのは、かなしいかな政治力のなさによって起こったものではないかなと思うのです。
なのでそういった理由からなのか日本企業の多くは国際的には技術押しで紳士に対応しますが、内政だととたんに横暴な態度とったりしますよね。
政治力が使える相手なら政治で楽に対応する。そんなイメージがあります。
かつてのドイツもそうだったのではないかと思うんです。
運よく政治力がなかったと。
歴史的にドイツが技術力で他国を圧倒するようになるのは第一次大戦以降ではないかと思っています。
大航海時代に出遅れたために植民地もてなかったドイツが、産業革命に出遅れたドイツが、第一次大戦に負けたドイツが、
その結果のヨーロッパでの政治的立場の弱さを、技術の習得に注力したのではないかと思います。
そして、そういったドイツの稲穂の垂れるような態度を作り上げた外的要因が、ことごとくEUの誕生、そしてユーロの誕生でなくなったと思います。
アメリカロシアに対抗するために誕生したスイミー作戦EUによってドイツは宗主国的立場になりました。
ドイツを仲間にすることでヨーロッパの争いを解決するというのもあったわけですが
皮肉なことにユーロのせいでユーロ圏内では、比喩ではなく本当に宗主国状態です。
ナチスに例える人も出てくるくらいですが、けして大げさではないと思いますね。あれはもはや帝国です。
いろいろケチをつけましたが、とにかくスイミー作戦EUによってドイツは国際的影響力を持ったわけです。
メルケルもさぞかし楽しい政治ライフを送っていることでしょう。
しかし、その強い政治力が、産業に悪い影響を与えているのではないかという考えが、私のなかにうかびました。
つまりドイツはEU宗主国的立場を利用し、ディーゼルをクリーンなものだということにして、技術開発競争から目をそむけたのではないかと。
かつてのアメリカのように。アメリカ化とでもいうんでしょうかね。
政治力が必要ないとはいいません。軍事産業やインフラ分野などは政治力が必要なところもあるでしょうね
標準規格の争いも政治がものを言いますよね。アメリカEU、そして中国が立場を強めています。
日本企業が勝手に行動するとむしろ国内の識者からガラパゴスだなんだとたたかれますし。
しかし、今のところ一般の車はどこぞの団体が規格を握っているわけではないですし、
政治がかかわるにしても今回のように排気ガスの規制などくらいです。
自動車産業は自由に技術を見せられる分野でうらやましいなと思います。
私は家電屋ですが、今になって白物家電がもてはやされているのは規格に縛られずに作れるからだと思います
将来OSが重要になり自動運転などが登場したときにどうなるかわかりませんが。
今のところ、日本の自動車メーカーは大丈夫だと思いたいですね。
http://karotousen58.hatenablog.com/entry/2014/05/31/120106
こんなこと言ってるから
ってことになるんだろ。当たり前じゃん。
さて、これについて、Bについてはセンチ、という単位さえ知ってればだれでも穂が下がってることは理解できます。
だが、こいつは似非発達障害なのか知らんが、本物はその「垂れ方」がどうなってるか、も説明しないと理解できないので、
C 稲の先端10センチ程度の部分が丸く曲がり、穂の部分が3センチメートルほどが下をむくように垂れています
とでも書かねーと理解できないわ。
どこの誰でも3センチ位垂れてるねーって言えばこのバカよりもきちんと理解できる。
だが、それ以上に、「お辞儀をしている」という比喩により、「お辞儀」=「曲がって頭を下げる」ということからきちんと情強を理解できる。
このバカに3センチ垂れてるとか言う事を伝えたら、途中でくっきり折れた様な稲穂を書いたりもするだろう。
なんで、さも自分の方が賢くきちんと表現し理解できる、みたいな勘違いをするのか?
そこを未だに理解できてない当たり、本当に大変そうでどうしようもない。
またわれわれのもとから同志が去っていった。
そして新たな仲間がやって来るだろう。
山の向こうにかさを増しつつある積雲とともに。
だがかれも間もなく去るだろう。
もうすぐ冬がくる。
悲しい記憶をえぐるあのつめたい風が。
まずわれわれの同志は認識すべきだったのだ。
冒険者ガイドブックには書かれていないが、ここがおしゃれな女子の見栄が光を放つ都会でも、スポーツ万能イケメンの性欲のたぎるにぎやかな浜辺でも、ネット動画で盛りあがれるような若者でひしめいたゲームセンターでもないということを。
はてなとはムラ的である。そしてムラとははてな的である。同時に、はてなは非都会的であり、都会とは非はてな的なのだ。
ムラにおいてムラビトの関心事はつねに共有されているし、共有されるべきなのだが、それはムラが外部から侵入してくる敵に対抗するためには仕方のないことなのだ。
ムラの一体感こそが強大で理不尽ともいえる文明社会の力に立ち向かうための、ある種魔術的ともいえる結束力の源となっているのだから。
この小さな社会は閉鎖的で狂信的で、SNMN(神聖四文字(テトラグラマトン)。われわれはそれを便宜上「シナモン」と呼ぶ)を神と崇める中世的カルトによって支配されている。
驚くのも無理はない。この先進国日本においてまさかオカルティズムによって支えられるムラがいまだに存在していたなどと、誰も想像すらできなかっただろう。
だが、これはまぎれもない現実なのである。はてなというムラはここにある。そして同志よ、きみはこのムラに足を踏みいれてしまったのだ。
第一に、ムラビトは新参者の排除が好きだ。もしも新参がおしゃれなフェラーリに乗ってやってきたら、つるはしを持ったムラビトによって、その紅き果実は一夜のうちに無惨な血だまりと化すであろう。「ふぇらだかへらだかなんだかしらねえが、おらのムラで調子に乗ってんじゃねえ!」耄碌した老人のたわごとにきみは付きあうべきか。
第二に、ムラビトは新参を待ち望んでいる。ムラビトは新参が現われなければムラビト同士で殺し合ってしまうのである。ムラの平和は新参の流入によって生じるあの排除への一体感によってかろうじて保たれている。愚劣な新参の流入を嘆きつつ、同時に過疎化を心配する声もあるというわけだ。きみはムラビトに言うべきだろう。「お前らの命はオレが握っているッ! どちらが上か勘違いしてくれるなッ!」と。
第三に、ムラビトは誤読が好きだ。ムラビトには都会の常識、論理、科学が通用しない。このムラは迷信や魔術によって支配されているのだ。その解釈はつねに飛躍し、高レベルのムラビト=ラビならば、否定は肯定となり、間接話法は犯罪告白となり、人間は六本足になるだろう。「え? おれが誤読したって? 誤読するような書き方をするお前が悪いだろうが!」ムラビトとコミュニケーションすることはそもそも不可能なのだ。きみのせいではない。
第四に、ムラビトはお役立ち情報が好きだ。たとえばおすすめ小説を並べたアフィブログはかならずムラビトを吸い寄せるが、彼らはお役立ち情報が好きなだけで、そのお役立ち情報を活かそうとは思っていない。お役立ち情報に触れた見つけたというお得感だけでお腹いっぱいなのである。むかし「あとで読む」という貼り紙が村のそこら中の電信柱に貼られていたころがあったが、もちろんあとで読んだムラビトなどいないのである。ムラビトとはその程度のアホである。きみはアホの戯言を気にするのか。
第五に、ムラビトは高学歴ぶるのが好きだ。ムラに大学院などないのになぜかムラビトは全員が識者面をしている。わけもわからずに社会情勢を嘆いてみせるが、じつはムラには日本社会との接点はほとんど残っていないのであまり意味がないのだ。だがそのことにムラビトはまだ気づいていない。それは幸福だろうか不幸だろうか。ムラビトの空想癖にせいぜいきみは苦笑するだけで済むだろう。
われわれはふたつの提案をする。
第一に、何が起ころうと、それを風に揺れる稲穂のざわめきや蝉の鳴き声あるいは馬のいななきのようなものだと思ってしまうということである。ムラにはムラのやり方がある。それはムラにとっては極めて自然なことなのだ。ムラにおいて排除とは自然現象であり消化作用である。きみは批判されているのではない、大自然に包まれているだけなのだ。われわれ都会人は疲れた精神のうちに自然の癒しを欲しているが、ムラビトをそのようなものだと思ってみてはどうだろうか。
第二に、コメント欄を閉じ、ブックマークコメントを非表示にするという技術的な解決策がある。われわれはこの方法をすすめている。レベルの低い冒険者はまずムラのなかに要塞を作って引きこもり防御をかためるべきなのだ。初心者にありがちなことだが、初期装備のままムラの深部を、ムラビトのこころの闇を探ろうとしてはいけない。危険だ。命の保証はない。そうやってわれわれの同志は倒れていったのだ。扉を開けなければ嵐はやがて去っていく。大荒れの海を見に海岸へ行ってはいけないのだ。
ムラビトの世迷いごとをまともに受けとってはいけない。かれらは異世界とテレパシーで会話しているのだ。われわれ文明社会に生きる人間とはその語も文法もアクセントも思考様式も異なっている。かれらは秘境に生きる最後の魔術師たちなのである。
稲穂が揺れている。
乾いた大気の下で、まるで海のように揺れる稲群の中に少女は佇んで、僕のことを――稲穂の背に隠れてしまうくらい小さな僕のことを――見つけてくれている。僕が彼女の足元にまで近寄っていくと、稲穂がぱきぱきと倒れる音を立て、そしてざわりとその房が揺らいだ。彼女が、金色になった穂をかき分けながらに僕の方へとやってきて、そしてちょうど上から覗きこむ形で僕を発見した。それから微笑んだ。
少女はすぐに踵を返して歩き出していた。
彼女の栗色をした長い髪が、その動きを追って流れるように揺れる。
僕は、その彼女が歩いていく方へと、すぐに続いて歩いて行った。
稲の海の真ん中で、そして暗褐色の乾いた土壌の上で、僕たちは彷徨っていた。
いや、存在することができない。
僕達の存在は、いずれ失われたものになるのだ、とそう思う。僕たちは存在するべきではないものなのだ。失われてしまっているのだ。
だけど僕たちは歩いて行っていた。
でも、それもやがては無くなってしまう。僕たちは、いなかったのと同じことになる。
何で僕達は、生まれながらにして、何もかもを失っていたのだろう、と思う。何故僕たちは、上手く存在することができなかったのだろう。失われているということさえもが、いずれ失われていき、何も残らないということが僕にははっきりと分かった。僕たちは、実際には存在しないものなのだ。稲穂の茎が僕の目には無数に映っていた。黒に近い茶の色をした土が、どこまでもどこまでも延々と続いていた。時折、乾いた稲の繊維が折れて、弾けて、空気中に舞っていた。僕に呼吸をすることはできなかったけれど、その空気にどんな匂いがするのかということを、しっかりと感じることができた。僕は歩いて行った。
そんな時、少女が立ち止まった。
稲の折れる音が止まった。
僕もまた足を止めて、そして小さな背丈から首を傾けて、彼女の顔がある辺りを懸命に仰いだ。そこには、考え事をしている途中で我に返ったばかり、という感じの少女の顔が、ぽっかりと稲と稲との間の空間に浮かんでいて、そして僕の方を眺めていた。
でも、またすぐに彼女は微笑んでいた。そして、僕は歩き出していた。
稲穂が揺れている。
乾いた大気の下で、まるで海のように揺れる稲群の中に少女は佇んで、僕のことを――稲穂の背に隠れてしまうくらい小さな僕のことを――見つけてくれている。僕が彼女の足元にまで近寄っていくと、稲穂がぱきぱきと倒れる音を立て、そしてざわりとその房が揺らいだ。彼女が、金色になった穂をかき分けながらに僕の方へとやってきて、そしてちょうど上から覗きこむ形で僕を発見した。それから微笑んだ。
少女はすぐに踵を返して歩き出していた。
彼女の栗色をした長い髪が、その動きを追って流れるように揺れる。
僕は、その彼女が歩いていく方へと、すぐに続いて歩いて行った。
稲の海の真ん中で、そして暗褐色の乾いた土壌の上で、僕たちは彷徨っていた。
いや、存在することができない。
僕達の存在は、いずれ失われたものになるのだ、とそう思う。僕たちは存在するべきではないものなのだ。失われてしまっているのだ。
だけど僕たちは歩いて行っていた。
でも、それもやがては無くなってしまう。僕たちは、いなかったのと同じことになる。
何で僕達は、生まれながらにして、何もかもを失っていたのだろう、と思う。何故僕たちは、上手く存在することができなかったのだろう。失われているということさえもが、いずれ失われていき、何も残らないということが僕にははっきりと分かった。僕たちは、実際には存在しないものなのだ。稲穂の茎が僕の目には無数に映っていた。黒に近い茶の色をした土が、どこまでも延々と続いていた。時折、乾いた稲の繊維が折れて、弾けて、空気中に舞っていた。僕に呼吸をすることはできなかったけれど、その空気にどんな匂いがするのかということを、しっかりと感じることができた。僕は歩いて行った。
そんな時、少女が立ち止まった。
稲の折れる音が止まった。
僕もまた足を止めて、そして小さな背丈から首を傾けて、彼女の顔がある辺りを懸命に仰いだ。そこには、考え事をしている途中で我に返ったばかり、という感じの少女の顔が、ぽっかりと稲と稲との間の空間に浮かんでいて、そして僕の方を眺めていた。
でも、またすぐに彼女は微笑んでいた。そして、僕は歩き出していた。
稲穂が揺れている
日差しは天頂に達したばかりで、その柔らかな光の元で、君は笑っている。
僕には笑うことができなくても、君は笑っていた。
笑いかけてくれていた。
勿論、それが既に失われてしまったものであることを僕は知っている。
それどころか、僕という存在それ自体、既に失われてしまっているのだ。
僕たちの存在は、言うなればその代替物であり、あるいはその可能性であるところのものに過ぎない。
それだって多分、失われていくのだろう。
僕達が今こうしてお互いの顔を見ていることさえも、いずれは失われていくのだろう。
いや、過去の一時点において失われたわけではない。存在した時にはもう既に、失われていたのだ。
そして恐らく、その不完全な存在すらも、これから失われていくのかもしれない。
君は笑っていた。
どこまでも続く稲穂の海が揺れている。