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はてなキーワード: 社会生活とは

2012-04-24

http://anond.hatelabo.jp/20120423233150

突っ込みどころ多すぎという以前に普段からそんな話し方してるの?

社会生活が問題なくできているのか心配するよ。

2012-04-18

失礼承知で聞きます

恋人友達がいたり結婚してたり、タクシーで運転手と雑談できたり人付き合いがある程度できるのに

欝で悩む人がいるけどよくわからん。僕の欝などの知識の不足のせいかもしれないけど、周りに支えてくれてる

人がいるのに悩むことはあるのかな。

僕は人付き合いが苦手で人との会話も殆どできず、仕事にも支障が出るほど。頻繁に嫌な気分になり

昔の嫌なことを思い出し、顔を伏せて「ぎょええええぐあああああ」と叫びたくなることがある。

人と接する事ができず、動物とも触れるのも嫌で独りで生きたいけどそれはもっと辛い。本を読んだり

映画を観るのも続かず、なにも長続きしない。

だれかこんな僕でもそばに居てくれて理解してくれる人がいたら変わるんだろうが、そんな人が現れる

気配もないし、いたとしても自ら遠ざけてしまう。「お前なんで近づいて来るんだよ。何企んでるんだ」という感じで。

 

から、ちゃんと社会生活が出来たりオフ会に頻繁に参加したりする人が、精神科病院通いや自殺未遂するのがよくわからん

なんでそんなに周囲から愛されてるのに辛いんだろう。その気にかけてくれるのが負担なのかな?

2012-04-12

DQNネームはなぜ許されないのか

  • 可読性が低い(深刻度:微)

可読性が低いのは苗字だって同じ。これは単に読めないのを他人のせいにしてるだけ。

  • 俗っぽい(深刻度:弱)

「こういう年代でこういう名前流行った」というのは面白い情報提供してくれるけど、その年代をまたがって社会生活を送っている以上、新規な名前は過当に軽んじられるというのはあり得る。親の頭が悪いとか、その影響でろくな知識を備えていないとか、「何処の馬の骨」とか見做されるかもしれない。

結局上記2つの理由が交絡してめんどくさく感じるだけなのではないかと思うのだが、どうだろう。

2012-04-11

オウム真理教ナウい教化法”を実践した広瀬死刑囚手紙 vol.2

【vol.1「カルトに係わる契機」】はこちら。

宗教経験

 カルトの「超越的世界観」によって、現実世界においては解決の困難な問題が解決することと述べました。他方、この類の世界観は非現実であるために、受容が困難なのも事実です。ところが、「神秘体験」、「超越体験」などと呼ばれる幻想的な宗教経験は、その受容を著しく促進します。

 オウムにおいても、教義の妥当性の根拠は、その種の宗教経験でした。つまり、多くの信徒は教義の世界を幻覚的に経験しており、その世界現実として認識していたのです。地下鉄サリン事件への関与は誠に愚かであり、心から後悔しておりますが、この事件についても、宗教経験から、私は教義上の「救済」と認識して行いました。

 このように、宗教経験は、「殺人」を肯定する非現実的な教義さえ受容させる原因となります。したがって、宗教経験を根拠とする思想やこれを起こす技術の使用には注意すべきです。

 以下、宗教経験検討のために、私の経験を述べさせていただきたく思います

 前述のように、高校三年生ときに、私は、「生きる意味」の問題を意識するようになりました。しかし、その後、私は目を引いた本を読んだり、簡単な瞑想指導する団体に入会したものの、その問題は棚上げ状態でした。大学で学ぶことが将来の職業に直結するので、学業や学費のためにアルバイト忙殺されていたのです。

 そのようなとき、偶然、私は書店で麻原の著書を見かけたのです。昭和六十三年二月ごろ、大学院一年ときでした。その後、関連書を何冊か読みましたが、彼の説く解脱悟りが気になりました。

 最終的な解脱悟りは、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の境地であり、本来、私たちはその状態に安住していたにもかかわらず、煩悩にとらわれたために、輪廻して苦界をさまよい続けているとされていました。ここで、絶対自由とは、カルマ(業。転生する原因)から解放され、どの世界に転生するのも、最終解脱の状態に安住するのも自由という意味でした。絶対幸福とは、金、名誉など自分以外の外的存在を必要としない幸福という意味でした。絶対歓喜とは、自己存在しているだけで歓喜状態にあるという意味でした。

 不明な点が多いものの、何らかの絶対的に幸福な境地の存在事実であれば、その追求は「生きる意味」に値するのではないかと思いました。

 また、麻原は修行を完成させて最終解脱の境地にあり、弟子指導して彼らをも解脱させているとのことでした。麻原や弟子たちの体験談を読むと、解脱への確かな道が存在しているように思えました。彼らの体験には普遍性が感じられたからです。さらに、麻原は自身の体験の妥当性を、ダライ・ラマ十四世をはじめとするチベット仏教インドの聖者たちと交流して確認したとのことでした。

 前述の解脱のような教義の話だけならフィクションを読んでいるようなものでしたが、このような実証的な姿勢は理解できることでした。この点は、私がそれまでに接した斯界のものとは違っていると思いました。

 しかし、事はそう簡単に運びませんでした。麻原が主宰するのは、宗教団体オウム真理教」だったのです。(なお、当時、オウムほとんど無名の団体でした。)

 私は新宗教に対して拒絶反応が起こるのを禁じ得ませんでした。「輸血拒否事件」、「霊感商法」…新宗教に関するマスコミ報道は、決まって言いようのない不快感を催すものでした。とりわけ、「輸血拒否事件」は、高校三年生ときに話を聞いた団体のことだったので、新宗教に対する問題意識が高まりました。

 この事件の報道では、事故に遭った子供が「生きたい」と言っていたのにかかわらず、両親が教義に従い、輸血を拒否したとされていました。この団体の聖書解釈が正しいという保証はないのだから―私にはほかの解釈も可能に思えました―、そのような不確実なことに基づいて命を犠牲にすることが信じられませんでした。ですから、この事件で、私の新宗教に対する不信は決定的なものになっていました。

 このようなわけで、私は本を読む以上にオウムに近づけなかったのです。

 ところが、本を読み始めた一週間後くらいから、不可解なことが起こりました。修行もしていないのに、本に書かれていた、修行過程で起こる体験が、私の身体に現れたのです。そして、約一ヶ月後の、昭和六十三年三月八日深夜のことでした。

 眠りの静寂を破り、突然、私の内部で爆発音が鳴り響きました。それは、幼いころに山奥で聞いたことのある、発破のような音でした。音は体の内部で生じた感覚があったものの、はるか遠くで鳴ったような、奇妙な立体感がありました。

クンダリニー覚醒―」

 意識を戻した私は、直ちに事態を理解しました。爆発音と共にクンダリニー覚醒した―読んでいたオウムの本の記述が脳裏に閃いたからです。クンダリニーとは、ヨガで「生命エネルギー」などとも呼ばれるもので、解脱するためにはこれを覚醒させる、つまり活動する状態にさせることが不可欠とされていました。

 続いて、粘性のある温かい液体のようなものが尾底骨から溶け出してきました。本によると、クンダリニーは尾底骨から生じる熱いエネルギーのことでした。そして、それはゆっくり背骨に沿って体を上昇してきました。腰の位置までくると、体の前面の腹部にパッと広がりました。経験したことのない、この世のものとは思えない感覚でした。

 「クンダリニーの動きが正しくないと、くも膜下出血を起こす」、「指導者なしの覚醒危険だ」―オウムの本の記述別世界の話でしたが、今や、我が身に起こりつつある現実でした。私はクンダリニーの動きを止めようと試みました。しかし、意志に反して、クンダリニーは上昇を続けました。

 クンダリニーは、胸まで上昇すると、胸いっぱいに広がりました。ヨガでいうチャクラ(体内の霊的器官とされる)の位置にくると広がるようでした。クンダリニーが喉の下まで達すると、熱の上昇を感じなくなりました。代わりに、熱くない気体のようなものが上昇しました。これが頭頂まで達すると圧迫感が生じ、頭蓋がククッときしむ音がしました。それでも、私は身体を硬くして耐えるしかなす術がありませんでした。

 突然の出来事に、どうなることかと思いましたが、それをピークに一連の現象は収束しました。どうやら、無事に済んだようでした。

オウム真実だ」

 オウム宗教世界観が、一挙にリアリティを帯びて感じられました。麻原をグル修行指導する師)として、解脱悟りを目指すことが私の「生きる意味である確信しました。麻原の著書を読み始めて以来相次いだ体験に、彼に強い「縁」を感じていたからです。クンダリニー自然覚醒したのは、前世グルの著書を読んだために、修行者だった私の前世記憶が甦ったからだと思いました。

 このように、急激に宗教観念を受容して、思考体系が一変する心理現象は、「突然の宗教的回心」と呼ばれています。これと漸進的な宗教観念の受容との違いについて、研究論文には次のように述べられています

 突然の回心は、被験者のものが全く変えられるように思われる経験として定義した。つまり、その変化は、被験者が生じさせるのではなく、彼にもたらされるように思われた。また、その変化は、被験者の生活様式、道徳的特性を形成する態度におけるものだった。

 漸進的な宗教的発達は、上で説明したような回心経験がないという特徴のもので、そして被験者が自身を無信仰と識別したことがないものである

 すべての回心者は、疑いの余地なく、無信仰の状態から信仰深い状態になった。

 二つの集団の特色をかなりよく示す、二つの自伝を下に引用する。一人の突然の回心者は、彼の経験を次のように記述した。

 この経験は、私が一四歳の秋に起きた。私は畑を耕して働いていた。突然、嵐が近づいたように思われ、そしてあたかも私の周りの全てが止まったようだった―私は神の存在を感じた。馬たちは完全に止まった状態になった。真っ黒な空がとどろいたので、私は祈った。嵐はすぐに通り過ぎたが、この瞬間だった、―私は祈りながら―主が望むならば、クリスチャンになり、主に仕える決心をしたのは。

 漸進的な宗教的発達をした集団の一員は、彼の経験を次のように記述した。

 私が信仰深いと自覚したときを説明するのは難しい。それに対し、何年か前に私は十ポンドで生まれ、そして現在はそれよりかなり重いという事実を説明するのは、全く簡単だろう。この成長には、出来事の印象がないわけではない。しかし、少なくとも回想では、そのプロセスはあまりに完全に連続したように霞んでいる。だから、私が自身の認識に現れた時点を思い出せる以上に、私は“信心深く”なった時点を分離できない。私はその二つの出来事はほとんど同時に違いないと思う。

引用英語で分からず。)

 このような宗教的回心は、人が葛藤状態にあるときに、幻覚的な超越体験と共に起こることがあり、このとき葛藤が解決するとされています。また、突然の宗教的回心においては、常識から非常に逸脱したビリーフ・システム(思考体系)が受容される場合があるとされています。そして、「カリスマグループの一つの注目せざるを得ない特徴は、入会の特徴がしばしば劇的な回心の経験であることだ」といわれています

引用英語で分からず。)

 私の場合、「生きる意味」に係わる葛藤のために、回心が起き、オウムの教義体系が受容されました。このように、非現実的な世界観が突然現実として感じられ、それが受容されることがあるので、超越体験に基づく世界観には要注意でしょう。後述のように、それが日常生活との間に摩擦を生じる場合は問題が起こるからです。

 オウム宗教世界観現実となった私に、入信以外の選択はありませんでした。また、新宗教うんぬんといっていられる状況ではありませんでした。クンダリニー覚醒した以上、指導者は不可欠だったからです。私はクンダリニーコントロールできず、頭蓋がきしんでも、なす術がなかったのです。この状況について、ある共犯者は「広瀬君は、本を読んだだけでクンダリニー覚醒して、困って教団に相談に行ったと言っていた。ある種の困惑広瀬から感じた。」と法廷証言しています

 こうして、オウム真理教在家信徒としての生活が始まりました。在家信徒は、社会生活しながら、教義の学習、守戒など教義の実践ヨガの行法、奉仕などの修行をすることが基本でした。

 オウムの教義と修行目的について、あとの話の理解のために必要な部分のみ説明致します。

 教義において、修行の究極の目的は前述の最終解脱をすること、つまり輪廻から解放されることでした。なぜ解脱しなければならなのか―それは、輪廻から解放されない限り苦が生じるからだ、と説かれていました。これは、今は幸福でも、幸福でいられる善業が尽きてしまえば、これまでに為してきた悪業が優住になり、苦しみの世界に転生するということでした。特に地獄餓鬼動物の三つの世界三悪趣と呼ばれ、信徒の最も恐れる苦界でした。

 それに対して、解脱はすべての束縛から解放された崇高な境地でした。解脱に至るには、次のように、私たちが本来の最終解脱の状態から落下していった原因を除去していくことが必要と説かれていました。

 私たちは自己存在するためだけで完全な状態にあったにもかかわらず、他の存在に対する執着が生じたために輪廻転生を始めたとされていました。それ以来、私たちは煩悩(私たちを苦しみの世界に結びつける執着)と悪業を増大させ、それに応じた世界に転生して肉体を持ち、苦しみ続けているとのことでした。たとえば、殺生や嫌悪の念は地獄、盗みや貧りの心は餓鬼快楽を求めることや真理(精神を高める教え=オウムの教義)を知らないことは動物に、それぞれ転生する原因になるとされていました。

 これらの煩悩行為過去世のものも含め、情報として私たちの内部に蓄積しているとのことでした。この蓄積された情報が「カルマ(業)」でした。そして、「悪業に応じた世界に転生する」というように、自己カルマが身の上に返ってくることを「カルマ法則」といい、これも重要な教義でした。

 カルマ法則から考えると、解脱、つまり輪廻からの開放に必要なのは、転生の原因となるカルマを消滅(浄化)することになります。ですからオウムにおいては、カルマの浄化が重視され、修行はそのためのものでした。

 [なお、前述の「殺生」は、虫を殺すことも含みます。ですから、そのほかに挙げた行為もそうですが、一般人日常的な行為ほとんどが悪業となります。したがって、信徒についても、入信前は悪業を為してきたことになり、それらを浄化しない限り苦界に転生することになります。だから信徒たちは必死修行していました。また、家族など周囲の非信徒たちは苦界への転生が避けられないことになり、それを信徒たちは案じていました。後述しますが、日常生活と相容れないこの教義のために、一般社会は苦界への転生に至らせる世界とみなされました。そのために、信徒は一般社会を離れて出家していきました。さらに、苦界へ転生する現代人を救済する目的で、殺人まで犯すことになりました。]

 また、オウムの教義において、麻原は「神」といえる存在でした。それは、最終解脱者であり、様ざまな「神通力」を有するとされていたからです。特に麻原は、人を解脱させたり、高い世界幸福世界)に転生させたりする力があると主張していました。私たちに「エネルギー」を移入して最終解脱の状態の情報を与え、代わりに、苦界に転生する原因となる悪業を引き受ける―「カルマを背負う」といっていました―と説いていたのです。カルマを浄化していないと苦界に転生するのですからカルマを背負ってくれる麻原は、まさに「救済者=神」でした。

 麻原の指示が絶対だったのも、そのような「救済」の能力を有するためでした。オウム世界観においては、苦界への転生の防止が最優先であるところ、麻原の指示の目的は、苦界へ転生する人類の救済とされていたのです。

 回心による教義の受容の後、入信後は、私の身の上に個々の教義の体験が現われ、教義の世界観に対するリアリティがますますまりました。たとえば、入信の一週間後に、麻原の「エネルギー」を込めたとされる石に触れたところ、気体のようなものが私の身体に入ってきました。そして、胸いっぱいに広がり、倒れそうになったのです。そのときは、ハッカを吸ったような感覚がして、私は自身の悪業が浄化されたと思いました。

 その後も様ざまな形でこのような体験を重ねたので、私にとって、麻原が「カルマを背負う」能力を有することは現実でした。そのために、麻原は「神」であり、その指示は絶対だったのです。

 なお、現在は、この種の経験は暗示の機制による幻覚と理解しています。つまり、以前に接していた「エネルギーを移入してカルマを浄化する」という教義(二十一頁)が暗示になり、「エネルギーを込めた」とされる石に触れたところ、教義どおりの幻覚が現れたものと思います。(このように、回心後は幻覚的経験が極めて起きやすい状態になっていました。)

 なぜあの男が―麻原の地位が教団内で絶対だったことに対する疑問の声をよく聞きます。その理由の一つは、私と同様に、信徒にとっては麻原を「神」とする教義の世界観現実だったことでしょう。ヨガの行法によって、多くの信徒が教義どおりの宗教経験をしていたのです。

 現役の信徒は、今も、麻原の力でカルマが浄化されると感じる経験をしているようです。だから、麻原が法廷でどんなに見るに堪えない振る舞いをしても、彼は「神」であり続けているのです。私もそうでしたが、信徒帰依しているのは生身の麻原ではなく、宗教経験によって知覚した麻原です。「現実」よりも「宗教経験」のほうがリアリティがあるのです。

 このような宗教経験作用について、文献には次のように述べられています

 アメリカで(そしてしばしば国際的に)現在見られる多くのカルト様のビリーフ・システム概観することは、臨床医が特定のセクトを正しく評価するにあたり役に立つ。ビリーフ・システムは、一般に部外者を困惑させるもので、多くは超越体験や神秘体験に基づいている。あるものは、なじみのない東洋伝統から得ている。あるものは、教義を再構築する程度にまで、既存宗教を粉飾する。

 超越体験あるいは神秘体験は、回心のプロセスにおいてしばしば重要だが、このことはジェイムズフロイトが注目した。葛藤の解決における超越体験は、非精神病者精神病者の両方に急性の幻覚的エピソードが起こる程だが、この重要性も強調されてきた。これらの経験はまた、カリスマセクトの多くの全員にとって、グループの全員をを続けされる総体である。これらの出来事は、類似した現象を経験したことのある他の人たちとの友好関係を、最高潮に高める強力な感情的経験になる。

 宗教経験コンテクストにおける精神病様超越現象が生じることを説明できるモデルは、まだ開発されていない。しかし、注目すべきなのは、かなり注意を引く知覚現象を、これらのセクトの全員が普通に報告することである。たとえば、一つのグループの百十九人の全員のうちの三十パーセントが、瞑想中に幻覚様経験を報告した。明らかに、このような現象は、心理学者が正常な精神プロセスのみならず病的プロセスを理解するのにもかなりの影響があるはずだ。それらはたぶん、精神病といわれる人に幻覚状態を起こすあるコンテクストの性質を、心理学的に理解する助けになるだろう。

(前出 引用英語で分からず。)

 (A教団は)夢さえも「お父様(教祖)の夢を見ますよ」などと暗示を与えて教祖の夢を見やすいように誘導したりする。それらのプライミングの結果、信者は身辺でおきる現象がすべて神やサタンといった心霊現象ととらえることになっていると思われる。さらに、こうした経験西田のいう個人的現実性を高める。つまり体験や推論が教義と整合しているという認知を与え、ビリーフは強化される。

西田公昭 一九九五年 ビリーフの形成と変化の機制についての研究(4) 社会心理学研究、一一、一八-二九

プライミング―特定の情報に接触させることによって、人間情報処理一定の方向に誘導すること)

 瞑想のより高い段階は多くの経験を含む。これは、伝統的な文献によく載っており、明るい光のヴィジョン、身心の喜びに満ちた陶酔感、静けさ、明晰な知覚、および愛や献身感情を様ざまに含む。“超意識”、“超越体験”、“神秘体験”、あるいは“クンダリニー覚醒”と名付けられており、これらの状態は、人を引き込む影響を及ぼす。この影響は、瞑想伝統によれば、非常に深刻になるものだ。

引用英語で分からず。)

 また、宗教経験が起こる状態においては、世俗的なことに対する関心が薄れるという報告があります

引用英語で分からず。)

 以上のように、宗教経験およびそれが起こる状態は、非現実的な教義の受容や日常生活から離脱を促進するようです。


※「輸血拒否事件」1985年6月神奈川県川崎市高津区で起こった事件。ダンプカーにひかれた当時小学5年生の男の子が、両親の輸血拒否にあい、約5時間後に死亡。「大ちゃん事件」とも。

【vol.3「宗教的経験(後半)」】へ続く。

2012-04-02

http://anond.hatelabo.jp/20120402164957

そういう重キチは見かけたことないからなんともいえないなあ。

現代社会社会人に要求されるハードルが高くなりすぎて、本来社会生活できるレベルの軽キチでも

隔離枠(障がい者ひきこもりニート)に入れてしまっている気がします。

2012-03-15

寛容さという不寛容

ある時は「究極的には、本人が満足するかどうかだけが唯一の目標だ」と許容する

ある時は「人は自らの欲求を抑圧し、社会的存在になるべきである」と拒絶する

ある時は「必要最低限の社会生活さえ営めれば、後は自由にすべきだ」と仲介する

論理的な整合性を求めるばかりに、より大きな非論理性を得る

人は正しさの奴隷であるべきか、自由の信奉者であるべきか、快楽の探求者であるべきか

「全てに対して寛容であるべきである」という不寛容をどう解決しろというのか

2012-03-10

http://anond.hatelabo.jp/20120310030713

一応言っておくが、俺は横レスで、大麻解禁派の人じゃないぞ?

「「(過度に)常用したら社会生活がおくれなくなる」、ってのはどんなドラッグも一緒」

と考えてるんで「大麻が禁止できるんだからアルコールなんかのソフトドラッグもさっさと規制しろ」派だ。

http://anond.hatelabo.jp/20120310001357

いやいや大麻を他のドラッグと一緒にしちゃ駄目。

「(過度に)常用したら社会生活がおくれなくなる」、ってのはどんなドラッグも一緒だけど、

アルコール辺りよりよっぽどその可能性が低い(ニコチンアルコールなんかよりよほど習慣性が低い上、

タールのような健康への害もほとんどない)から、解禁論がくすぶるんだけど。

大麻が禁止な最大の理由は、理屈や害の問題じゃなくて

「他のドラッグと一緒に思われてること」=他の薬物習慣への呼び水になる危険性がある

だと思うぞ?

http://anond.hatelabo.jp/20120310000709

悪とか以前に中毒症状になった時の「取り返しのつかなさ」が酒や煙草の比じゃないだろ。

酒を毎日浴びるように飲んでも肝硬変で死ぬには数十年を要するが、大麻は数年も常用したらまともな社会生活送れなくなる。

2012-03-03

一年間、家事手伝いニートをしてわかったこと。

一年間だけ、家の家事をやりながらニートをしていた。

共働きの両親と社会人の兄姉の五人家族だ。

朝は一番始めに家を出る兄の時間に合わせて5時30分に朝食を取れるようにする。

全員の朝食が済んだら平行して洗濯、部屋の掃除をする。

終わったら夕飯の買い出しに行き夕飯を作る。

全員外に出てるため、慣れれば楽である

しかし辛いものは辛い。

専業主婦が辛いのは、肉体的な辛さではなく、精神的なものであると知った。

浪人生のような成果を認められない、行き場のない虚無感。

浪人大学合格とともに終止符を打つが、専業主婦はこれが一生続くのである

ニートは楽だと思っていたし、社会生活から逃れて休息期間が欲しかった私には死ぬほどうらやましい職業だったが、

あの一年間では働くことの喜びや、社会と関われることの嬉しさを知れた。

今は社会人になり、夜間学校にも通い、忙しい日々を送っている。

逆にカレンダーにくうはくがあるのが怖くなってしまった。

もうだめかもわからん

2012-02-20

幼き相手への自覚なき洗脳

思いだして欲しい、あなたは小さい時に誰かに頼まれたりしてとお願いされてした事で怒られた事はないだろうか

しかしたら嫌だったけれど断れなかったのかもしれないし、単に怒られるような事だとは想像もつかなかったのかもしれない

そしてこんな風に怒られる「○○君にそうしろって言われたら何でもするの?先生死ねって言ったら死ぬの?」

誰も死にたくはない、むしろこれは死にたくなかったからこそ他人の指示に対し自分で考える事なく従ったという側面も

あるのではないだろうか、幼い子供にとって親の存在は計り知れない程巨大だ、親にとっては大したことのない一言

酷く子の精神に影響を与えもする、例えばこんな光景を見た事がないだろうか

「もうそんな子は知りません、置いていくからね」

と、誰しも一度や二度、いやそれ以上このような事を言われ泣き叫び許しを請う子供の姿を見た事はあるだろう

子供にとって親は絶対だ、従わなければどうなるのか、産まれてきたばかりの幼子は、親から見放されるという事が

即ち死を意味する事を本能的に理解できていて、必死でしがみつき傍に置いておいてもらおうと懇願する

そして、恐怖から逃れるために、従う事を覚え、親の言う事に対し判断する事や疑う事、自分の頭で考えて

本当に従うべきなのかどうなのかを考える事をしないようにする、なぜならそんな複雑な思考をまだ大した経験もない

小さな子供が行っても時間がかかるし、そもそも簡単には答えはでないし、判断の元となる経験がない

そんな思考をしている余裕があったら、怒られないようにするにはどうしたらいいか、そして“そのまま従う”事で

恐怖という問題から自分を守る、そもそもそうするのはよく聞くように“まだ分別のつかない子供”だからである

そしてその分別のつかない子供が“他者に従う事”を自分の判断で答えがでない事に対して適用しはじめる

それが、前述した「○○君にしろと言われたら何でもするの?」の答えだろう

決して何でもするわけじゃなく、自分の知識と経験で判断できない事だから従ったまでであり

死は生命本能として理解できるからこそ自分が死ぬような依頼に対しては拒絶できるのだと思う

そして悲しきかな、幼児児童はこういった思考に基づいていたとしてもそれを説明できるという事は稀であろう

それでは、親の立場になりもしかしたらしてしまっているかもしれない虐待洗脳について考えてみよう

もしあなた子供がいるならその我が子に対し何かを強制したことはないだろうか?

人間の子供はとても弱い、また弱く生まれる事で社会能力を吸収する期間を設けたともいえよう

そんな大事な吸収期間に強制を強いられた子供は何を身につけるだろうか

例えば、泣き叫ぶ我が子を無視したり、他の事を優先し後回しにし放置し待つ事を強制した後に面倒だなと感じながらあやしたり

例えば、親の都合、親の価値観で、託児機関に預け父母との別れの悲痛な悲しみを与え強制的に他人の下に預けたり

例えば、断乳、親の都合で設定した期間、個々の子供の成長速度を無視し周囲に合わせた機関妥当だろうか

例えば、食事の強制、貴方の栄養管理妥当だろうか、子供の舌は添加物などに敏感なのかもしれない

     本当に必要な物を不味いと感じるだろうか、また逆に美味しいといって食べ過ぎる事から予想される弊害もある

例えば、教育の強制、お習字そろばんダンス水泳など、本当に行きたくて行っているだろうか、塾に行かせる理由とはなんだろうか

     悲しい事だが、一緒に居る時間を減らす目的教室や塾に行かせる親も居る

     本当に子供のためになると思っての強制だろうか、また嫌々やった事でその子の身に付くのだろうか

例えば、子供あなた主観で選んだ玩具をすぐ飽きるかもしれないし、子供自分で選んで買った玩具もすぐ飽きるかもしれない

     飽きてはいけないのだろうか、飽きてなお面白くもない玩具で遊ばなければならないのだろうか

     飽きるという事はその玩具の性質を理解したからじゃないだろうか、いつまでも何十年も飽きなかったらどう思うだろうか

     また、もっとその玩具で遊びたいのに正当な理由なく時間規制を設けてそれを強制していないだろうか

     子供は幼少期に満たされない満たされる事がないと判断した欲求を覚えると、成人後自分の自由でその欲求を満たそうとしても

     満たせない可能性がある。テレビゲーム等の遊ぶ時間に厳しい規制があった人ほど、一生飽きることのないゲーマーになるのでは

     ないだろうか

例えば、お手伝い、将来できないと困るという理由で本当は自分が楽したいという思いを達成していないだろうか

     なぜ、皿を洗う必要がある、なぜ掃除をする必要がある、なぜ他人を助ける

     自分のため、他人のためにそうしてあげたいという気持ちがあったからこそ生まれた人間の行動ではないだろうか

     頼まれたからしなければならないのでもないし、命令されたからやらなければならないのでもない

     それらの行動が自分また誰かの為になると思ったからこそする行為であり、人が人であるなら自然に発生する気持ちである

     それらの気持ちが自然に発生するのを期待し待つ事をせずに、押し付けられ精神の発生過程にまで指令を下されたら

     そうしてあげたいという気持ちが出て来難くなるのではないだろうか

     してあげようと思っていたのに、言われてしまうとやる気がなくなるという気持ちはだいたいの人に経験があるだろう

     その貴方の中に自然に発生した“言われるとやる気がなくなる”という気持ちが確かなものなら、きっと貴方の子供も

     同じように思うはずだ、たとえ、たとえ自分言葉自分の文章構成能力でそれら意思を明確に親に伝える事が叶わなくても

世の中には様々な強制がある、どうして我が子にだけは怒りや不満の感情や、身体的痛みを与えたり想像させる事で強制してよいのだろうか

確かに子供は見境なくあっちへそっちへ勝手に行ってしまうかもしれない、親が安全管理した危険の無い空間に留める目的で、子供を移動したり

柵を設ける事とは意味が違う、それらをしなければもっと危険な状況に陥りかねないからだ

では、果たして自分より強制力のある存在保育園では保母や保育師、幼稚園教諭学校なら先生クラブなら監督コーチ、塾なら講師

社会に出れば、上司や先輩、それらの自分よりも支配力のある人間に従う事、命令通りに行動する事が全て正しいのだろうか

自分の判断は介さないようにした方が自身の為になるのだろうか、確かに、判断材料に欠けたり判断の時間がなく言われた通りにしなければ

ならない事をあるだろう、しかし本来の目的と違っていたり、当初の約束とは違う事を貴方は支配者から要求されるかもしれない。

 貴方は“貴方自身”を大事にしているだろうか

例えば、約束に反し無賃金労働を行ったり

例えば、お使いや使いっ走りを貴方の意思を問うことなく頼まれたり命令されたり

例えば、何か他の誰かに迷惑になるような行為を業務上させられたり

例えば、人格を否定されたり

確かに、自分で考えることなく上からの指示や強制、命令を疑う事なく実行する能力は、奴隷として非常に優秀かもしれないし

統率者の倫理感、目的達成能力社会正義に適っていて、貴方の想像を超えて貴方自身にとっての幸福にもなるのなら良いのかもしれない

しかし、どうだろう

筆者の主観かもしれないが、言える所で本当の気持ちを言ったり、不満ばかりがたまっていないだろうか

貴方は貴方の本当の気持ちを大事にしたいからこそ、そういった本音や不満がでるんじゃないだろうか

何かが間違っている、そう何か漠然とした思いがあるんじゃないだろうか

共感、他者を感じる事、他社の気持ちを自分のことのように感じる事

他人の喜びや楽しみを自分のことのように喜び楽しみ、他人の悲しみ、苦しみを自分の事のように悲しみ苦しむ

そんな人として大事感覚をなぜかあまり使わないように使わないようにする親子関係が非常に多いのではないだろうか

子供はなぜだろう、一般的に子供は正直で素直だという

社会生活は複雑で多重に絡みあっている

何かの社会的生活様式や行動を子供に理解させるのは非常に難しいので

本来の順序説明が面倒になり端折って、簡単な怒りや痛みから守る事を動機にした

行動の理由説明をした方が楽なのかもしれない

ただ、もっと楽な方法があったらどうだろう?

貴方は怒る時、怒る感情の理由や前提として

 気持ちの奥底に“悲しみ”がないだろうか?

例えば、子供がそんあ方向に行ったら大事子供が怪我をするかもしれない

例えば、そんなマナーでは将来子供が恥じをかくかもしれない

例えば、そんな計算能力や文字の汚さでは将来誰かの為に何かしたいと思った時にそれをできないかもしれない

例えば、食の偏りが身体の健全な発達を阻害して、不健康等の元となり病気などで苦しむかもしれない

きっと、それらの起こりうる未来想像自分も悲しくなるし、子供にそんな思いをさせたくないと思うから

親として教育しなければならないと思っているはずだ

子供自分が素直で正直である以上に、親である貴方にも素直で正直であることを望んでいる

大人になると他人の前で悲しんだり涙を見せるのは、恥ずかしい事かもしれない

でも子供の前ではどうか素直になってほしい、正直になって欲しい

たとえ貴方の説明が難しくて理解できなくても、表情や態度から何かもっともな理由があるのだろうと理解するだろうし

そういった経験がいずれ本当の理由を理解する時の助けになるはずだ

まず、親である貴方自身が自らの“悲しみ”“苦しみ”に素直になって、そう思うからこそ

である貴方にもそんな思いはさせたくないと、させたくないからこそそうして欲しいんだと伝えてあげて欲しい

そして、これを読まれている貴方は、既にそんな時期はもう過ぎた、子育てはもうしてしまった終わったよと思う方もいるかもしれない

そうならば、貴方の娘や息子も貴方と同じ苦しみを将来の子育ての中で感じるかもしれないし、子育て最中であるなら

今まさにそういった思いを感じているかもしれない

人はコミュニケーションを取る動物だ、その能力だけで今の社会を築きその恩恵に預かっていると言えなくもない

是非、素直な気持ちで過去を振り返り、その思いを子や娘と共有して欲しい

ここまで読んだ貴方にはその勇気がある、過去を振り返り、もし乗り越えて成長したいという思いがなければ

こんな駄文をここまで読む事はなかっただろう、人はいくつになっても成長できる

よりよい自分想像し、また過去を振り返り思いを共有すべきだと考えるから

そう考えるからこそ他人の書いた文章を読み、自分経験と照らし合わせ、そして何かを得ようとしているじゃないか

僕は貴方が本当にしたい事をすべきだと思うし

みんながそうあるべきだと思う

どこかで何かが少し噛み合わなかった事で、自分で考え、自分で判断し、自分の思いを成す事を

阻害してしまいっている要因があるのなら、それは自分の手で取り除く事ができる

とても勇気の入る事だ、自分自身を振り返るただそれだけでも既に多くの勇気を振り絞っただろう

メール手紙チャット電報FAX、また人から人へと間に人を介して伝えたり

人は様々なコミュニケーション手段を持っている

貴方が貴方の思いを誰かに伝えるだけでも、貴方は成長できるだろう

それは今日かもしれないし明日かもしれない何ヶ月後、何年後かもしれない

私が私らしく貴方が貴方らしくあるべきであるように、皆がそうあるべきだ

自分に正直に、自分に素直に、そして周りの人間にも素直に正直に

そういう世界を創っていこう。

@awaikumo

2012-02-01

心の抵抗力

下がっている気がする

いつもなら刺さらないはずの言葉が刺さる

刺しているのは、いつだってほとんどが自分だけれど

思うに、心の病気は全てが免疫力とか抵抗力にも作用するよね

身体的な意味で、風邪とかだって一時的には抵抗力を下げるけどさ

でも、長くはないでしょ

けど、心の病気場合は違うんだよ

抵抗力を下げて

免疫力を下げるか自己に向けさせようとする

AIDSとか膠原病の類だと感じられる

そして、不治の病であって寛解もしない

直接の致死性はないが、間接的にはあらゆるルートで死に至らしめ、それぞれのルートに大きな影響力を持つ

社会生活を送る事に対しては特に大きな影響を与えるだろう

2012-01-16

http://anond.hatelabo.jp/20120116200539

そもそも「愚痴が醜いのは当然」とする増田立脚点を疑ってみたら?

愚痴社会生活を営んでいれば当然出てくる。

生活に於ける句読点みたいなものだ。

2012-01-13

自分一人では多分まともな社会生活ができない状況

2011-12-27

出勤前に弟や友人や恋人とそして日本について思ったこと

最近日本ってやっぱり狂っていると思った。

なんとなくその原因もわかる気がして、それは綱渡り競争で勝者にならなければならない義務感が全面化していることなのではないかということだ。

 

職場はもちろん、親、兄弟姉妹配偶者恋人、友人、あらゆる人間関係安心できる場所が少ない。

もちろん、子供でもない限り「無条件に自分自身を受け入れてくれる場所」なんていうものが誰にでも用意されているわけではないのは当り前だけど、

今の日本社会って「失敗できない」という感覚が強過ぎやしないだろうか?

 

仕事でつまづくと職場の関係は悪化する。

あいつは使えない。使えないやつとはつるまない方がいい。いつ自分の評判に響くかわからない」。

実際、中学生あたりの年頃に、いじめる側にまわるかいじめられる側になるのか戦々恐々とする構造とあまり変わらない。

裏で働いているのは利害関係論理で、この利害の理屈があらゆるところに顔を出している。

でも、個人的な関係まで悪化するかはともかくとして、ビジネスの場ではある程度それは仕方の無いのことだ。

しかし、恋愛関係が損得勘定なのは珍しくないとしても、親兄弟や利害が無いはずの友人関係までもが損得で勘定されかねない今の状況はどうなんだろうか。

いけてるやつとつき合いのあるいけてる自分、いけてないやつとつき合っているいけてない自分

そして、自分自分の友人や親兄弟恋人から見て、いけてるのかいけてないのか?

あるいは実際はそういうわけでもないのかもしれない。

兄弟・友人同士の関係における損得勘定感覚、利害の論理はもしかするとそれほど前面化しているわけではないのかもしれない。

だけど、ここで重要なのは「そう感じられる」ということだ。不信の種にはそれだけで十分だ。

 

社会生活を送るにあたって「失敗できない」という緊張を延々と強いられたらどうなるだろう?

誰に対しても「へまをすれば自分は徹底的に見捨てられる。だから決してミスをしてはいけない。この綱を踏み外してはいけない」

という強迫観念を持って日々を生きなければならないとしたらどうなるだろう?

そして、失敗してしまった人間が「自分はへまをしてしまった。綱から落ちてしまった。だから自分は見捨てられても仕方ない存在だ」

と感じているとしたらしたらどうだろうか?

恐れる人間は当然のようにその恐れの原因である自分物差しを、そのまま他人を評価する物差しとして使う。

この場合「へまをしないようにそこに精力を傾けて努力している私は、へまをした人間を切り捨ててもいいのだ」という感覚だ。

こうして実感された全方向における関係性の「綱渡り感」は社会的現実になり、再生産され、綱から落ちた者への容赦ない冷笑・蔑視・罵倒正当化される。

とにかく明るく元気で前向きにいることが義務づけられているこの空気の中、

少しでも気鬱な表情を見せれば途端に敗者の匂いが漂い、それだけであらゆる場面で敬遠の対象になってしまう。

 

今までの日本社会ならば、失敗したとしても、明るく元気で前向きにいることが可能だった。

社会全体が経済的な繁栄を享受する中で一度二度つまづいたとしても、もう一度立ち上がってライフコースを再構築するくらい日本社会の路は太く安定していたからだ。

「なあになんとかなるさ。死ぬわけじゃあるまい。人が人でなくなるわけがあるまい」が現実だったのだ。

だけど、今や日本社会の路は一本の綱になってしまった。誰かがどこかで失敗することは避けられない。

そんな社会で私たちは「一度躓いたら徹底的に孤立する」という「綱渡り感」から逃げられない

「みんながやっている綱渡りなんだ。敗者が孤立するのは当然だ」という声があらゆるところから聞こえる。

でも果たして本当にそうなんだろうか?本当に失敗した人間孤立しなければならないんだろうか?

目の前の路は、落ちたらまっさかさまに孤立へと落ちる、一本の綱なんだろうか?

実は、目の前の路を「綱渡り」にしているのは僕たち自身なのではないだろうか?

 

僕の弟は今大学4年生で、本命ではないけれども、某企業から内定を頂いている。だけど本人はひどく落ち込んでいるようだ。

大企業就職する者が多いという周りの友人に比べた時、弟は、既に失敗している、綱から落ちてしまった、という思いがするのだそうだ。

驚いたことに、留年してもう一度本命企業(某広告代理店)に挑戦したいと言い出す始末。正気の沙汰とは思えない。

挙句の果てに、弟は僕に対しても卑屈な態度をとるようになってしまった。

僕の会社は弟の内定先よりもはるかに知名度の低い会社だというのに、だ。そんな弟を見るのは軽くショックだった。

 

だけど、自分の周りを見てみても、もしかしたらそういう感覚は、この日本社会ではもう当り前なのかもしれないと思うようになった。

共に氷河期就職戦線を生き残った大学時代の友人が、弟とまったく同じ卑屈な態度をしていたからだ。

失業きっかけに鬱になってしまった彼の元を彼の妻は去っていった。幸か不幸か彼らには子供はいなかった。

そして友人は変わった。ひどく自分を卑下し、まるで「まともな人達」と同じ場所で生きていること自体が申し訳ないことかのように振る舞うようになった。

彼の失業離婚に心を痛める人間世界で彼ひとりしかおらず、他の誰一人として彼の心痛を共有できるものはいいかのような物言いをするようになってしまった。

 

氷河期世代の割に比較的のんきに生きてきた僕は、今とても恐ろしくなっている。

今まで考えたこともなかったけれども、もし僕が会社から解雇を告げられたら、あの卑屈な表情を僕に向けてきた弟や友人は僕を嘲るだろうか。

僕の恋人負け犬を見る様な目で僕を見て、そして僕から離れていくだろうか。何より僕はそんな態度をとり始めた周りの人間を恨まずにいられるだろうか。

人生の苦しい状況で、支え合うことよりも、蜘蛛の糸を奪い合った亡者達と同じように蹴落とし合うことを選び、

ひたすら損得と利害だけで行動するような餓鬼の如きなにかに成り果ててしまうのだろうか。

 

綱の下に広がる網は、綱の上を歩いている時にははっきりと見えるけれど、一度綱から足を踏み外した瞬間に消えてしまうのかもしれない。

なんという恐ろしさ。徹底的に孤立するからから足を踏み外せない、でも誰かは足を踏み外さなければならない。

ならば蹴落とす、自分が落ちない為に。落ちたやつには目もくれない。

こんな緊張があらゆる人間関係で全面化してしまったら、そりゃ狂うわ。

綱をうまく渡れている時でも生きている心地がしないもの

 

今日、二度目の就職活動を始めたという弟にメール使用と思う。

「もし、お前の一番の希望が通らなかったとしても、その時は僕がどこかにコネをつけてやるから。そのくらいはなんとかなるから。だから後悔の無い様に思いっきって挑戦してください」と。

そして、友人にはこうメールする。「元気?お前が暇なうちに久しぶりにまたオールナイトでも見に行こうぜ」。

彼女にもメールを送る。「お仕事おつかれさん。今度、温泉でも行っておいしいごはんでも食べて一日中ぼーっとしてゆっくりしよう」。

多分、会社の同僚にも送るだろう。今はもうあんまり顔を合わせなくなった大学時代の友人や高校時代の友人にも。父と母にも送ろう。

 

少なくとも、僕にできる部分だけでも常に網を張っておこうと思う。

きっと今は、そういうひとりを思いつめさせないように気遣う努力がひとりひとりにとって必要な時代なんだと思う。

そうじゃなきゃ、みんな悲惨な気分を内に秘めて、そして隠しきれずに卑屈な顔をしながら生きていかなければならなくなってしまう。

いいことがあれば共に喜び、わるいことがあったら共に悲しみ、そしてまた再スタートを切ることをお互いに後押しし合わなければダメなんだと思う。

これだけ厳しい時代なんだから経済的な意味でも、人間的な意味でも、そのくらいのことができなければ、僕たちは人間でなくなってしまう。

 

あーしかし、週末も出社かと思うと会社行きたくないなー

http://anond.hatelabo.jp/20101119051301

「出勤前に弟や友人や恋人とそして日本について思ったこと」

2011-12-14

http://anond.hatelabo.jp/20111214180411

そうなんですよ!困ってます

ミクシイつながりで仲良くなれた人って多くて、今まで活用させてもらっていたのですが。

学生時代社会生活でろくに友人ができなかった私には、コミュ日記足跡などの機能はすごくありがたかったです

フェイスブックツイッターも、もっと友人がたくさんいる人には楽しいツールなんだろうなぁ。。結局ネット現実が充実している人が楽しめるツールなんだろうなぁ。

と悲しい気持ちです

前のミクシイみたいな使い方ができるツールって今あるのでしょうか?(グリーとかモバゲーとか、ああいうのでなく、はてな理屈っぽい長文を書いてくれるような人がいるような場所理想です

なにかおすすめがあったら知りたいです

2011-12-04

一応、遺書は書いて持ってるよ。

どこでもすぐクビになって結果まともな社会生活は不可能でホームレスになるしかありませんでした。死にます、って。

2011-12-03

http://anond.hatelabo.jp/20111203225400

やっぱそういうの、意図しなくてもでちゃうんでしょうね・・・

残り少ない日々は「コミュ充」を観察して、次のための勉強に当てたいと思います

相手してくださった皆さんありがとうございました。

自分を省みてもどうしても「わからない」ので苦しんでいますが、自分性格を変えないとどうしようもないので

人のせいにするのはやめますすみませんでした。

どうしても経済的・社会的にまともな社会生活を営むのがダメそうなら自殺も考えます

2011-11-19

いわゆる「女叩き」に合うのも覚悟の上で、どうにもまとまらないもやもや増田に吐き出したいと思う。

最近Facebook中学・高校時代の友人たちとの旧交がみるみるうちに復活しつつある。

田舎なので同級生のほとんどは大学進学と同時に都会に出て行き、そのままそこで暮らしている。

残っている友人たちは、地方公務員になったとか、あるいは親の仕事を継いだとか、そういう人たちだ。

わたしは少し前にうつ病を患い、真っ当な社会生活を営めるようになるまでに相当の時間を要した。

今も万全ではなく、回復過程にいる。

最近ようやく、休みの日に外を出歩いて気分転換できるだけの気力と体力を取り戻したところだ。

それに伴い、地元に残っている旧い友達、あるいは社会人になってから新しくできた友達と、週末に食事をしたりしている。

その延長線上で、男からセックスを求められることの多さに、本当に辟易している。

真正面から攻められたこともあるし、「あわよくば」的に滑稽なまでに必死な姿を見せつけられて悲しくなったこともある。

食事をおごられてるわけでもなく、好色をアピールしているわけでもなく、ただ、他愛のない話をしているだけのはずだ。

わたしのことが好きなのか、という意味の探りを入れると、彼らはすっと身を引く。

まり、わたしは彼らにとって「セックスできるかもしれない女」のひとりでしかなかったということで、その事実に大変に傷つく。

男女の友情とか固く信じているわけではないが、もう少し、「セックスするかさもなくば他人」みたいな両極に振れずにすむような、余裕のある付き合いはできないものなのか、と思う。

先日、弟の結婚式で上京した。

せっかくの機会なので東京在住の友人たちとも久々に会ったのだが、彼らはそのような下品ながっつき方はしておらず、それでいて楽しく和やかな時間を過ごすことができた。

これが普通だろうに、地元組は、どうしてこれができないのだろうか、と思う。

旧い友人を、風俗の代わりにしかできないような、そんな人生楽しいか?

と、人生観すら否定したくなる。

そのくらい、わたしはわたしにセックスを求めたがる男友達嫌悪している。

学生時代に性に奔放だったとかそういうわけでもない。

友達は男女ともにたくさんいたが、彼氏がいる時期は少なかった。

誰か教えてほしい。

彼らは、なんでこんなに下品な大人になってしまったの?

もう、レズになりそう。

冗談抜きで。

トラバブコメを受けての続き


住んでる場所によって根本的な人間性がさほど違うとは思ってない。

言われている通り、表現の仕方が違うだけのことだと思う。

でもその違いってわりと大事だ。

奥底で思ってるぶんには別にいいんだよ。そういうもんだと思うからさ。

それを露骨押し付けてくるなよー節操ないなあ、って話です

というわけで、男がせっくすせっくす!な生き物なのはもちろん知ってるさ。

ただ大人になったらもうちょっと節度を持って行動しましょうね、って話なんだけど、自分の友人に意外とそれができない人が多いって事実に落胆してる。

ブルータスお前もか、的ながっかり感。

女友達ももちろん会ってるよ。

同じ頻度で会う男友達がことごとくこんなんばっかりで、あれれ~?この人たち前からこんなんだったっけ???と当惑しておるわけです

2011-11-15

http://anond.hatelabo.jp/20111115203807

一般に作業する場所だが、特に福祉作業所を指す場合がある。

作業所とは - はてなキーワード

武蔵野福祉作業所は、知的障害などにより地域で生活することに何らかの困難さを伴いながらも、働くことを社会参加への生活姿勢としている方に、多様な作業種や就労の機会を提供し、その方の社会生活上の成長に有効である環境を用意し、主体的に充実した喜びのある生活を営むことを応援します。

社会福祉法人武蔵野

へえ、こういう施設内の人間関係でもいっちょ前にいろいろあるんだね

キモいなぁ

不惑を目前にわかってきたこと


ブログを書かなくなって久しいが、復活にむけリハビリがわりに増田に書いてみる。

もっとも、大学教員である私が学生指導を通じて感じた知性について今日は書きます

知性と体力

知性が低いと思われている人の中には、単純に広義の体力がないケースが多い。病気がちであったり、何らかの事情により物事に集中出来なかったりするために、知性を獲得する上で必要な思考が妨げられているケースが多い。

案外、中等教育期間中に体力づくりのための運動をすることは頭を良くするためにも大変理にかなっていると思う。また、特にチームスポーツであればリーダーシップを学べるので良いと思う。自分の子供にはそうさせてやりたい。

とくに運動が苦手な人を中心に、大学生になると定期的に運動する習慣を失う人が多いが、案外知性の獲得に向けてよろしくないような気がする。

基本的な知性

本能感情抑制するのがまずもって社会生活を送る上で求められる基本的な知性である。そして、それらの基本的な知性の多寡は生まれつきの要素が強いが、しつけによるものもあるだろう。

もっとも、知性ある親はしっかりしつけるし、知性が獲得させた様々な社会的資源を活用して子育てするから、親は選べないということは本当に不公平なことであると思う。

人間感情が優先される動物なので、都合の悪い(=悪い感情を引き起こす)現実直視したがらない。そのため、基本的な知性が乏しい(=コントロールできる感情の水準が低い)と、自分にとって不都合な真実を理解しようとしないために、理解できる法則限界がある。結果として応用的な知性(職業的に求められる能力など)も獲得されにくい。

良い人と稼ぐ人

もっとも、感情的にならず、冷静に周囲と調和できる人、いわゆる「良い人」が社会的成功するとは限らない。全体的にみて、その様な人は所詮当たり障りのないことをしようとするから、つまらないことになる。

社会的成功する人、特に経済的に成功する人の中には、性格的にユニークな人が多い。やはり、人並み外れた目立ちたがりだったり、強い欲望を元に事業を成功させるような人は強烈なエネルギーを持ち回りを引っ張ったりする。その人が良い人である場合もあるが、その様な強烈な感情は何らかのコンプレックスであることも多く、「良い人」でないこともままある。

というより、日本的な文化の中で、冷静に周囲と調和して生きるよう指導されているのは、社会が安定を求めるがゆえに、大半の貧民・庶民に隷属を強要することの裏返しかもしれないとすら思う。一方、親が金持ちだったり、社会的ポジションを有するようなケースでは、根拠の無い自信を持っているような奴もいて、比較的楽にリーダーシップを握ったりするなど、成功に近づく。社会階層が最生産される精神構造がそこにはある。

知性と見た目

一定の素養がある人が習熟すると、だいたいの見た目や立ち振る舞いだけで、その人の知性の水準がわかってくるようになる。もっとも、その能力を獲得するためには、直感的に人を見る目を養わなければならない(少しシビアな)環境にいたかどうかが重要である。おそらく、過去の生活の結果に基づいて顔の形や立ち振る舞いと知性や性格との関係に関するデータベースができていて、それを無意識のうちに当てはめることでその推論が成立しているように思える。その構造を理解すると、第一印象に気を配ることは重要であることにも気づくだろう。

だいたいにおいて、賢い人は見た目も良い。もっとも、私は「見た目」に二種類あると考えている。一つは持って生まれた「造作」の良し悪しであり、もう一つは後天的に獲得した、あるいは経験した感情によって作られる「面構え」のようなものだ。前者はいかんともしがたいは物理必然であるが、後者自分の心持ちによってある程度コントロールすることが可能である。(もっとも、そのそれを改善するような心持ちを持てるかどうかも基本的な知性によるのだが。)

10代の間の見た目はまだ前者の「造作」によるものが大きい。しかし、大学卒業するぐらいの年令になると、どのような経験により、どの程度の精神的成長を遂げたか?ということが顔に出てくる。ましてや40にもなろうとすると、それまでやってきたことの影響が思い切り顔に出てくる。結果として、大人になればなるほど、賢い人は見た目も良くなる。

性欲と知性

性欲の強さは性格や知性にある程度の関係がある。社会生活をうまくこなすためには、強すぎても、弱すぎてもダメもっとも、ここで言う性欲とはある種のバイタリティの言い換えかもしれない。

性欲がある程度強ければ、異性を誘惑するという、生存上もっと戦略性が要求される行為について自発的に考える。特に取るべきコミュニケーションの内容や、自分の振る舞いが相手に与える影響をよく考えるようになるからか、結果としてある程度の知性を獲得するのだろうと思う。

もっとも、性欲が強すぎるとそれ自身が知性の獲得に障害となることもあるので、社会生活的に見てうまくいかないケースもある。

性欲が弱そうにみえるタイプは、やっぱりコミュニケーションのとりかたに問題が出てくる。実は、就職活動をするときモテる人とモテナイ人の差は如実に出てしまう。

知性と選択

言うまでもないことだが、基本的な知性が乏しい人は、自分能力効果的に伸ばすための選択ができない。また、自分の適性もなかなか決め切れない。結果として解決すべき問題、獲得すべき能力に関して集中的に取り組むことをしないで、ばらばらで組み合わせの悪い能力を身につけたりする。あるいは単純に時間を浪費する。

もっとも、将来的にどのような組み合わせが望ましいのかわからないという言い分もよく分かるつもりで、無駄なことなどないと信じたい。ただそのような言い方は、気の毒にも無い内定で落ち込んでいる学生を目の前にしてあまりにも無力である

以上リハビリ終わり。

2011-10-27

就職した会社の社風が結構荒んでる。DQN傾向といったらいいのか。明るくお馬鹿なDQNならいいけど、モンスタークレーマーっていうのか、ねちねち嫌味な傾向があって、毎日耳を塞ぎたくなるような気持ちだ。

出身地で人を嘲笑したり、小耳に挟んだ程度のプライベートな出来事を重箱の隅をつつくように追求したり、お客さんのことを影で蔑んだり。もう耳に入れたくない。そんな話に夢中になる上司の相手をしなければならず仕事に手をつけられなくて残業するこの悪循環からも実際抜け出したい。ゴシップ持ち寄るおやつ時間かいらないから。

あいうのは逞しいと言わない。綺麗事だけ言っていては社会生活を営めないっていうのは、綺麗事を口にしたら負けだということではない。口汚く他人をこき下ろして押しのけて、自分の地位をさも上げるように振る舞って他人を威圧するのとは違う。

そういう流れに飲まれずに生きようと思う時と、どうでもいいからもうこれ以上こういう空気の中にいたくないと思う時とがまだらにやって来る。

文章にしたら少し落ち着いた。辞めるつもりだ、それまでとにかく耐えよう。修行修行

2011-10-25

http://anond.hatelabo.jp/20111022115648

感情は完全に自由だから「公正な基準」というのは存在しないよ。

からあなたの問いにそのまま答えるならば「公正な怒りの基準なんてない」となるんだけど、たぶんそれじゃあ満足しないよね。

想像するに、料理をひっくり返したことについて、誰かに何か言われたのでしょうか)

なんらかの結論的なものを欲しがっているようなので、ひとつ偉そうにヒントを言わしてもらうならば、

「怒りという感情の基準を気にするのではなく、行動の基準を気にしてはどうか?」

ということです

感情とちがって行動は、社会生活を営む限り、自由ではないよね。

法律常識などの「公正な基準」があり、その範囲内で行動することを求められる。

ここが難しいところで、人間である以上、感情と行動は1セットであるはずなのに、

かたや感情は自由、かたや行動は自由じゃない。

この感情と行動の不一致を、一般には「ストレス」とか「悩み」と呼んだりするけれども、

とにかく生活していく上でこの不一致は当然のことであり、受け入れてかなきゃいけない。

これは不一致が生じたときにひたすらガマンする、ということじゃないよ。

もちろんガマンできるならしてもよいけど、ベストは、

感情のままに行動しても、問題が生じない」

ことだよね。そして多分今回あなたは何らかの問題が生じたか増田投稿したのでしょう。

であれば、行動を変えるしかない。

正直いって、「怒った→料理ひっくり返す」というのは子供感情表現(行動)と言わざるを得ないよ。

問題が生じて当たり前。生じてないとしたら運がよいだけだよ。

「怒った→怒りを言葉で伝える」これが大人の感情表現(行動)だよね。

これなら、今回のケースに関しては読む限り妥当だと思う。

言葉や言い方も選ぶ必要があるのは言うまでもないよ)

誰かが今回のあなたについて何かうるさいことを言ったのだとしたら、

それはあなたが怒ったという感情に対してでなく、料理をひっくり返すという行動に対してなのだと思うよ。

「待たされてイライラするのも分からんではないけど、ひっくり返すこたーなくね?」

・・・というのが日本社会の「基準」ではないでしょうか。

繰り返すけど、怒ろうが怒るまいがそれはあなた勝手感情について「公正な基準」なんてないし、誰かに非難されたとしても堂々としてればいいよ。

でもその怒りの感情をどう表現するかという行動には「基準」があって、今回のあなたの行動は、大多数の基準からは外れた行動だと思うから、そこは開き直らずに反省したほうがよいよ。

2011-10-24

http://anond.hatelabo.jp/20111022115648

これ見た時、あぁなるほど、って思ったんだけど、人間、一番怒りが沸くのは自分存在とか信念を無視された時なんじゃないかなー、と。

飲食店で待たされるのは自分存在を無視された訳じゃないけど、注文を忘れられた時に怒りが沸くってのは自分を無視されたからだと思う。

自分自身の存在自分の信じている物が無視された社会で生活すると、色々と不利益を被るし、自分の直感に沿って行動する事が困難になるから、こう言った怒りのメカニズム社会生活を営む動物本能になっている気がする。

自分結構怒りっぽいけど、それを表出しても得になるシチュエーションって社会生活上は皆無だから、基本的には"何で、今自分は怒りの感情が沸いているんだろう?"って自問自答して、パターンを色々探って感情を鎮める様にしてた。

その結果、当面の結論として上記の様な結論に至った。

怒りの感情が沸く理屈が理解出来ると、解決法も見つかりやすいし。

これは他人の怒りに対しても、ある程度は通じて、相手が怒っている時に"自分の行動が相手の何を無視したんだろう?”って考えて、それに付いて謝罪する様にしている。


勿論、この理屈がボヤーっとしか当てはまらない事もあるけど、比較的汎用性が効く考えだと思うんだけどなぁ。

逆にブコメ増田も、マナーが悪いだとか病院行けとか御飯が可哀想とか本質じゃない議論に終始しているって事は、自らの怒りの感情や他者の怒りを客観的に見た事が無い人達ばっかりなんだなー、ってそっちに絶望した。

2011-09-23

http://anond.hatelabo.jp/20100624111613

服装は個人的な特性とは違ってあとからどうにでもなる。性格や嗜好も社会生活上必要なら適合すべきかもしれない。

だが、生まれつき髪が茶色がかってるというだけで染めろと迫るのはどうなんだ?

日本社会は肌や髪の色まで統一しないと円滑に回らないのか?

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