はてなキーワード: 心霊現象とは
後日、俺はマンションで起きた怪奇現象を、大家に包み隠さず話す。
大家は疑うわけでもなく、あっさりと話を信じた。
そして、確認のために俺の部屋である104号室を見に行くことになった。
「まあ、同意の上でとはいえ、仕事を紹介したことに負い目はあったからな」
その場には、証人としてタケモトさんと弟も来ていた。
「じゃあ、104号室。入りますね」
大家が104号室の扉をあけようとした、その時ーー
「その前に、103号室を見てもいいですか?」
「え、そっちは空き家ですよ」
だが、驚きはしない。
「ええ、でもそこから内線がかかってきたのが気がかりなので、確認のために」
「はあ、分かりました。でも何もないと思いますけどねえ」
「ほら、何もないでしょ」
当然、そんなことは承知の上だ。
「俺は心霊現象だとか、そういうのを信じないタイプなんですよね。でも案外そうじゃなかった」
俺は唐突にそう語り始める。
「はあ、そうなんですか」
「心のどこかではまだそういうのを信じていたから、そういう考えになってしまった。そんなものに気を取られず、もっと冷静に考えればいいだけだったのに」
勿体つけるように、迂遠な言い回しをしながら室内をグルグルと回る。
「えーと、つまり何が言いたいので?」
「とどのつまり“前提”なんですよ。今まで起きた出来事を“どういう前提”で考えるかが重要なんです。これまでの出来事は“心霊現象という前提”などではなく、“初めから人為的なものによって起きたという前提”で考えるべきだった」
俺がそう言った時、大家の顔が一瞬だけ引きつった。
「例えば、エレベーターの窓から人が見え続けていたのは、そういう形をした、裏表で絵柄の違うステッカーなどを貼っていたからでしょう。その後は見かけなかったので、すぐに剥がされたのでしょうけど」
「103号室から来た内線は何てことはありません。実際にここ103号室からかけてきただけです。この部屋に堂々と入ってね」
その他、俺の身に起きた心霊体験も全て否定することは可能だが、長くなるのでこの辺で本題に入ろう。
揺さぶるなら今だ。
「そんなことが出来る人間、そんなことをしても咎められない立場の人間……そうなると答えは自然と導かれます」
俺は大家の方を強く睨みつける。
「な、何を……なぜわたしがそんなことをしないといけないんですか」
「それはこっちが聞きたい」
「そんな推測で疑われても困りますよ。わたしがここに入った証拠もないのに」
「証拠ならありますよ。この部屋にあった青い布の切れ端。あなたが今着ているのと同じだ。つまり、あなたは最近ここに入ったということ」
「ち、違う! それは自分のじゃない。昨日だって赤い服で……あっ!」
当然、これはブラフだ。
俺が長々と喋っている間に、弟にこっそりと服を切らせた。
「語るに落ちたな」
相手が自白してくれるよう他にも証拠をたくさん作っておいたのに、まさかここまで早く落ちるとは。
こんな間抜けなヤツに今まで踊らされていたかと思うと、我ながら情けない。
「まあ、とりあえず……社会的な制裁は勘弁してやるから、俺の個人的な制裁に付き合ってもらおう」
こうして俺の一人暮らしのバイトは夏休みの終わりと共に終結した。
夏休みボケを治す一環のバイトとしてはビミョーだったが、上等だと思い込もう。
後にタケモトさんから聞いたことだが、どうやら俺の住んでいた部屋はかなり状態が悪かったらしい。
大家はリフォーム代をケチりたかったが、このままだと誰も借りてくれない。
案外そういうところに住みたがる物好きがいるらしい。
その自作自演に、俺は付き合わされたってわけだ。
「このテのパターンだと、怪奇現象の中の一つは本当の幽霊の仕業だったとかいうオチが鉄板だけど、ことごとく大家の仕業だったなあ」
「いや、そのパターンにしても今回のはくだらなさすぎるだろ」
とはいえ、怪奇現象、心霊現象なんて冷静に見れば大体くだらないものなのかもしれない。
「あ、ひょっとして、よくよく考えてみたら怖い話ってパターン?」
「お前は一体なにを期待しているんだ」
俺は部屋の中を注視する。
根拠のない直感をアテにするものではないが、気のせいなら気のせいで構わない。
今の精神状態では安眠が難しい以上、確認しなければ気が収まらない。
そうして調べること数十秒、意外にも早く変化に気づけた。
これは俺にとって珍しいことだった。
連絡する際はもっぱらケータイで、それだって基本はメールとかSNSだからだ。
身内や知り合いもそれを分かっているため通話は滅多にしてこない。
というより、この家の電話番号は誰にも言ってないしな。
そう、つまり珍しい以前に、そもそも電話がかかってくること自体おかしいんだ。
それに気づいた時、更に緊張感が高まった。
103……そんな気はしたが、知らない番号だ。
知り合いの番号を全て正確に記憶しているわけではないが、これは桁が明らかに少ないので違いはすぐに分かる。
なるほど、マンションの内線か。
それなら納得がいく。
内線の番号は、そのまま部屋の番号となっている。
新しく住み始めた俺への挨拶か、或いは何らかのクレームだろうか。
こちらには覚えがないので、もしクレームだったら隣人はかなり厄介な奴ってことになる。
「……」
だが録音内容は無言であり、周りの雑音が拾われているだけ。
まあ、だからといって、自分から進んでトラブルに首を突っ込むつもりはない。
いずれにしろ、どうせあと数日の隣人関係なのだから不干渉に限る。
隣の……そういえば名前すら知らないな。
最低限、それくらいは覚えておくべきだろうか。
俺は部屋から出ると、隣の表札を見に行くことにした。
そうして扉前まで来たはいいが、度肝を抜かれた。
表札がないんだ。
なのに、隣からかかってきた内線。
つまり……。
「いやいや……いやいや、ねーわ」
しかし、ここまでくると俺の中で浮上した“可能性”は、そう簡単に沈んでくれなかった。
その可能性を後押しするかのように、それからもマンション内で奇妙な体験を何度もした。
まあ、いくつかは俺の自意識過剰もあったと思うが、どちらでもいいことだ。
俺のやることは変わらない。
最初の内は得体の知れなさから恐れを感じることもあったが、しばらくするとほぼ慣れてしまった。
本当に心霊現象だったとして、俺が気にしなければいい程度の問題。
それに一応は仕事だし、金はやっぱり欲しいしな。
「いや、兄貴。何を馴染んでんだよ」
遊びに来ていた弟が、そう言うのも無理はない。
確かに、この時の俺はかなり抜けていた。
「よしんば心霊現象だとかがあったとしてさあ。それに遭遇する確率はどれくらいなのさ。兄貴よくバスや電車に乗ってるけど、大きな事故に遭ったのは一回だけだろ。それより低い確率が、今ここで何度も起きてるっておかしくない?」
「うーん……俺もにわかには信じがたいが、そういうのが起きやすい場所なんだろう。俺の利用するバスや電車は運行が基本ちゃんとしているからであって、もし運転手とかが酔っ払いだったら事故は置きやすくなるだろうし」
「兄貴、意味不明な例えを出すなよ。このマンションが酔っ払いの運転手と同じだと思ってるわけ?」
心霊現象だったら怖いですね(ないけど)
金縛りにあうと近くに何かがいる様な幻覚?夢?を見るけど、今どき金縛りが心霊現象だとは思ってない。
オカルトかどうかの話はどうでもよろしい。
それより今年の夏に金縛りにあった時に例に漏れず枕元に白っぽい人が立っていた。白装束だとかなり怖いだろうけど僧侶っぽい人だった。
たぶんうちの壁の色が白いからその印象が幻覚の形に現れたんだろう。
当時の自分は精神状態があまり良くなかったのか、すがれるなら幻覚でもお化けでも何でもいいとその白い人に掴みかかった。
白い人の服を掴んだ所までしか覚えていないけど、相手が何であっても側に誰かがいてほっとした。
幽霊を信じているかアンケートを取ると、どこも偏りはあるものの、おおよそ5:5になるようだ。
つまり、二人に一人は信じていると言ってもいい。
でも、俺はそのアンケートを信じてない。幽霊を本気で信じているやつなんていないって思ってる。
なぜなら、そのアンケートに信じる、って答えたやつは本気で信じてないからだ。
なぜかというと、幽霊なんていう超便利でなんでもできる存在があるのに、何か問題が発生しても、絶対に幽霊のせいにはしないからだ。
例えば、朝起きたらスマホの電源が入らなくなったとしよう。普通の人なら、なんか壊れた、と思う。電子機器を修理に出したことのある人なら、基盤が壊れたのかなーとか考えるだろう。
でも、やばい、これは幽霊の仕業だ!と考える人はいないのではないだろうか?
幽霊はタクシーの後部座席をびしょ濡れにするほどの水の使い手である。スマホの基盤に水滴を発生させることなど訳ないだろう。
それでも、幽霊を信じる人たちでさえ、幽霊がスマホの故障の原因になるとは信じないと思う。
仮に、修理に出した際に、この故障は幽霊による故障なので保証は使えませんとか言われたら、ふざけんな!幽霊なんているわけ無いだろうが!って言うんじゃないだろうか。
同じように、国がミサイル防衛のために神風大社を10億円で建てますとか言ったら、心霊現象を信じてるやつでも反対すると思う。
ポルターガイストのように心霊現象が物体に力を加えられることを心の底から信じるならば、反対はしないと思うんだ。
だから、本気で、本当に心の底から本気では、信じられてないと思うんだ。そういう怪しいモノって。
だから、もう幽霊を信じるとか馬鹿なこと言うのはやめてください。パワースポットに行かないでください。どうせ本気では信じてないんだから。
2014-07-17「中学生の頃、女神坂で女神をしていた」を拝見して
2017-07-30「女神と神の人の子供の生み方」を拝見しました。
「女神と神の、人の、子供の生み方」によると、インターネットで、女神を探したら、女神のような女性を女神と表現したり、女神が神話で登場したりする。タイトル「中学生の頃、女神坂で女神をしていた」はてな匿名ダイアリーを見つけました。中学生の頃、女神していたそうです。また他で神話の解説によると、処女の事が創造者とあります。
人間のマリア(聖母)が処女で妊娠したそうです。性交、試験管ベビー、を科学的出産方法とすると、神聖だから例えて表現してるのではなく実際にあった事実として、霊的な出産方法でイエスは生まれたと私は理解しています。
アメリカ合衆国では、警察の捜査に霊媒師が実際に殺人事件被害者の霊魂と交信し合う交霊現象によって事件を解決、犯人を見つけ出しており、交霊現象(心霊現象)による事件解決は偶然ではない確率で統計学で意味のある数字として科学的に事件捜査解決方法として認められており、霊魂の詳細は未知の部分がありますが、心霊現象の一つ交霊現象の犯人割出しは科学的に実証される捜査方法と同じ信憑性でDNA鑑定も昔は確率が的中率が今よりも低かったです。
今、私は女神を探しています。思う女神とは、誰にも見つからない、神隠しの様に身を隠せて二人だけの時間は自由に出来れば異次元空間に実現して、神ですから全知全能です。何の事件に巻き込まれる可能性もありません。永遠な幸せの暮らしは神レベルの結婚が実現する事だと思います。子供をつくって家庭を持つのも安心できる時空にしか可能性がないと思います。その証拠に少子化問題で、最近は恋愛段階でさえ人々は避けています。
俺の誕生日は1995年の3月20日。地下鉄サリン事件の日だ。
実家は上九一色村に隣接する市町村にある(今は平成の大合併で同じ市町村になってしまった)。
そういう生い立ちがあるので中学生くらいの頃からオウム真理教について興味があって、オウムについてよく調べていた。
俺の世代は、上九一色村の隣だからって特別オウムに詳しい人なんて居なかった。オウムについて調べていたのなんて俺くらいだ。別に信仰に興味があるわけではない。起こした事件や活動について興味があるのだ。
こう言うと不謹慎かもしれないが、オウム真理教にロマンを感じてしまう。麻原彰晃の不気味な感じとか、バイオテロ・化学テロをそこらじゅうで起こしていたこととか、宗教団体なのにパソコン屋や飲食店を経営していたこととか、隣の村に不気味な施設を建てていたこととか、薄暗くて、どことなく惹かれるところがある。ほかの人が心霊現象とか超常現象に惹かれるのと似たようなもので、俺はオウム真理教にロマンを感じる。
オウム真理教が経営してるパソコンショップがそこらじゅうにあっていつでも行けた時代。ビートたけしと麻原彰晃がテレビで対談していた時代。隣の村にサリン工場があった時代。テレビでアーナンダが水中クンバカをしていた時代。エリートが胡散臭い宗教を大真面目に信仰していた時代。あの歪んだ平成一桁を、俺はもう経験することが出来ない。1日でいいからあの時代の空気を経験してみたかった。
幼少の頃、おばけが死を考えることよりも怖かった。
人並み以上には心霊体験もしたし、怖しい夢に眠りを奪われるのはざらだった。
人の言うところの霊感とはこのことなのかと喉の奥においやり、心霊スポットには目を伏せ神仏氏神様に足を向けることもなかった。
ところがしばらく忙しさに時を忘れていると、いつのまにか過剰なまでの恐怖心が身体に残されていないことに気付いた。
それまではどれだけ子供だましだろうとも、心霊という情報が脳に入り込むだけで、呼び起こされる記憶によって一瞬にして背筋から緊張が走り出てしまっていた。
それなのに、今は子供だましを子供だましと落ち着いて見られるようになっていたのだ。
多感な頃に比べれば確かに心霊現象がわたしを恐怖させるようなこと稀になった。
相変わらず悪夢が時折わたしを現実へとはじき出すことはあるが、それを目覚めて尚心身が恐怖するようなことはなくなった。
なぜだろう。
世の中がわたしを恐怖させようとする度、それに屈しない自分をしばらくの間不思議に考えていた。
そうして辿り着いた結論は2つだった。
多感なころは欲求に突き動かされるままに数多くの必要悪と生活をともにしていた。
目的のために傷つく人がいることは摂理と考えていたし、生物の運命を掌握できることは人間の権利だと信じていた。
それがそうでないということと、そうしなくても生きられるだけの知識や経験が身についたことで、知らぬ間に必要悪に頼る必要のない生活を送っていた。
そしてもう一つの理由は、心霊なんかよりももっと、背筋から熱を奪う存在が身近に寄り添っていることに気がついたことだろう。
時を忘れるほどの忙しさは、同時に我をも忘れさせていた。
一体何年の間、光の差さない下水の中を行き先もわからないまま手探りで這い進むような生活を続けてきたのだろうか。
人間らしからぬ生活はわたしの精神から人間らしい部分を削り落とし、人間らしからぬ精神はわたしの身体から人間としての営みに必要な部分を奪い去ろうとしていた。
数年前の話。
運転中、前方の車両が交差点に進入しかけ、黄色信号に変わりかけのタイミングだった為か一時停止して、そしてまた前進して、また停止した。
車列は十分以上に渡りおよそ平均時速60km位の速さで流れていて、真後ろの車両を運転していた自分は疲れもあり、とっさの対応が遅れた。
追突を避ける為に無人の歩道に突っ込もうとしたものの間に合わず、結局は前方車両の左後方に追突。
その時はただ、相手ドライバーにも駆けつけてきた警察にもただ平謝りするばかりで、状況のおかしさにも気付かなかったのだが。
相手も無傷で、示談で済んだことにも安堵するばかりだったが。
事故後しばらくして改めて当時を振り返り、その異常性に気付いた。
警察の到着が異常に早かった事。
ドライバーの若い女性と警察官二人、両者に共通する、何かを飲み込んでいるかのような態度。
警察の不自然な、“事実よりも20メートル後方よりブレーキを踏んだ事にさせよう”推し。
まあ要するに、
前方車両が止まったり進んだり止まったりと変な挙動を繰り返していたのは、自分から見て死角にあたる左斜め前方に“アレ”がいたかららしい。
“アレの存在を感知した事が前方車両の妙な挙動を引き起こした”と理解していたから、警察も被害者もそのどちらも、事故ったことに対して納得気味だった…という事らしい。
自分ひとりがアレの存在に気付いていなかったわけだ。で、これ幸いと何も説明もせずに事故処理を進めたのだろう。
ブレーキを早めに踏んだ事にさせたのも、アレを事故原因と関連付けられる線を断ち切っておきたかったから、なのだろうか?
まあどちらにしても警察はアレについて説明する義務もないし、仮に説明されたところでこちらの過失割合が変わるわけでもない。
――と、こういう書き方をするといかにも事故原因が心霊現象か何かに思えるだろうが全然そんな事はなくて、
数ヵ月後、また同じ場所で同じアレをしていたためにようやく気付く事ができた。
S+ 常紋トンネル
S 旧旧吹上トンネル 旧善波トンネル しとどの巌 新三郷のトンネル(名称不明)
A 畑トンネル 八柱霊園(第、7、13区画、芝生霊園) 幽霊ペンション 八王子城址
B 千駄ヶ谷トンネル 伊勢神トンネル 旧野木病院 新吹上トンネル 小美玉小川脳病院
行ってはならない。入ると呪われる殺される、自殺、謎の事故死、らしい、という、話がある、耳にする・・・等。
殆どは都市伝説の域を出ないデマ。恐山や東尋坊のように元々神聖化された空間ならいざ知らず。
例えばトンネルは笹子トンネル事故でも有名な、単なる老朽化による崩落事故とか暴走族・ヤクザの住処といったありきたりな事に尾びれを付けたものが殆ど。
そもそも“出る”というのも口コミ程度でソースがはっきりしない。そんなにすごい名所なら十中八九新聞に載るものだけど、当時のニュースソースを取り上げての話がないし
あくまで噂レベルの話だったりする。
次に多い病院やホテルなどの施設類に至っては、殺人や医療ミスによる二次被害で経営破たん後耕作放棄地の如く捨てられただけ、または明治大正期の洋物ブーム~戦後の高級団地ブームなど時代ごとの流行が年月を経て廃れて廃墟化したという今でもよくある倒産事情によるもの。
島や穴は万葉集にも載ってる大陸や半島から渡ってきた技術者や伝道師が移り住んだ土地であったり、ポットホールなど地理学術的に証明された自然や人工による産物が殆ど。
それに尾びれが付いたのが、かの有名な桃太郎だったりする。
駅については、飛び降り自殺や酔っ払うなどして誤って落ちて死んだ事故や事件に尾びれが付いただけ。実際事故や事件の記事が出ても心霊スポットになってるというのは噂程度にしかない。
慰霊の森や霊園は戦没者を埋葬してるのでむやみに騒ぎ立ててはいけない。樹海も同様。なぜならあそこには生身のおくりびとがいるから。
冷やかしで入って行方不明になったり死んだりするのはそこを守っている守人、つまり狂信的な団体・組織の人に殺されただけ。何も不思議はない。
心霊スポットっていうのは人間の思い込みが原因で作り出された虚構。幽霊がいない事はマスコミが心霊現象に懐疑的になってきた事も証明してる。何を隠そう心霊スポットの出所は全部マスコミなのだから。嘘を嘘で塗り固めると傍目に見ても通常は嘘と見抜けないように、誰かが付いた嘘に別の誰かが賛同したらあたかも事実であるように誤認する。
人間の悲しい性よ。
宗教的経験
カルトの「超越的世界観」によって、現実世界においては解決の困難な問題が解決することと述べました。他方、この類の世界観は非現実的であるために、受容が困難なのも事実です。ところが、「神秘体験」、「超越体験」などと呼ばれる幻想的な宗教経験は、その受容を著しく促進します。
オウムにおいても、教義の妥当性の根拠は、その種の宗教的経験でした。つまり、多くの信徒は教義の世界を幻覚的に経験しており、その世界を現実として認識していたのです。地下鉄サリン事件への関与は誠に愚かであり、心から後悔しておりますが、この事件についても、宗教的経験から、私は教義上の「救済」と認識して行いました。
このように、宗教的経験は、「殺人」を肯定する非現実的な教義さえ受容させる原因となります。したがって、宗教的経験を根拠とする思想やこれを起こす技術の使用には注意すべきです。
以下、宗教的経験の検討のために、私の経験を述べさせていただきたく思います。
前述のように、高校三年生のときに、私は、「生きる意味」の問題を意識するようになりました。しかし、その後、私は目を引いた本を読んだり、簡単な瞑想を指導する団体に入会したものの、その問題は棚上げ状態でした。大学で学ぶことが将来の職業に直結するので、学業や学費のためにアルバイトに忙殺されていたのです。
そのようなとき、偶然、私は書店で麻原の著書を見かけたのです。昭和六十三年二月ごろ、大学院一年のときでした。その後、関連書を何冊か読みましたが、彼の説く解脱。悟りが気になりました。
最終的な解脱・悟りは、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の境地であり、本来、私たちはその状態に安住していたにもかかわらず、煩悩にとらわれたために、輪廻して苦界をさまよい続けているとされていました。ここで、絶対自由とは、カルマ(業。転生する原因)から解放され、どの世界に転生するのも、最終解脱の状態に安住するのも自由という意味でした。絶対幸福とは、金、名誉など自分以外の外的存在を必要としない幸福という意味でした。絶対歓喜とは、自己が存在しているだけで歓喜状態にあるという意味でした。
不明な点が多いものの、何らかの絶対的に幸福な境地の存在が事実であれば、その追求は「生きる意味」に値するのではないかと思いました。
また、麻原は修行を完成させて最終解脱の境地にあり、弟子を指導して彼らをも解脱させているとのことでした。麻原や弟子たちの体験談を読むと、解脱への確かな道が存在しているように思えました。彼らの体験には普遍性が感じられたからです。さらに、麻原は自身の体験の妥当性を、ダライ・ラマ十四世をはじめとするチベット仏教やインドの聖者たちと交流して確認したとのことでした。
前述の解脱のような教義の話だけならフィクションを読んでいるようなものでしたが、このような実証的な姿勢は理解できることでした。この点は、私がそれまでに接した斯界のものとは違っていると思いました。
しかし、事はそう簡単に運びませんでした。麻原が主宰するのは、宗教団体「オウム真理教」だったのです。(なお、当時、オウムはほとんど無名の団体でした。)
私は新宗教に対して拒絶反応が起こるのを禁じ得ませんでした。「輸血拒否事件」、「霊感商法」…新宗教に関するマスコミ報道は、決まって言いようのない不快感を催すものでした。とりわけ、「輸血拒否事件」は、高校三年生のときに話を聞いた団体のことだったので、新宗教に対する問題意識が高まりました。
この事件の報道では、事故に遭った子供が「生きたい」と言っていたのにかかわらず、両親が教義に従い、輸血を拒否したとされていました。この団体の聖書の解釈が正しいという保証はないのだから―私にはほかの解釈も可能に思えました―、そのような不確実なことに基づいて命を犠牲にすることが信じられませんでした。ですから、この事件で、私の新宗教に対する不信は決定的なものになっていました。
このようなわけで、私は本を読む以上にオウムに近づけなかったのです。
ところが、本を読み始めた一週間後くらいから、不可解なことが起こりました。修行もしていないのに、本に書かれていた、修行の過程で起こる体験が、私の身体に現れたのです。そして、約一ヶ月後の、昭和六十三年三月八日深夜のことでした。
眠りの静寂を破り、突然、私の内部で爆発音が鳴り響きました。それは、幼いころに山奥で聞いたことのある、発破のような音でした。音は体の内部で生じた感覚があったものの、はるか遠くで鳴ったような、奇妙な立体感がありました。
意識を戻した私は、直ちに事態を理解しました。爆発音と共にクンダリニーが覚醒した―読んでいたオウムの本の記述が脳裏に閃いたからです。クンダリニーとは、ヨガで「生命エネルギー」などとも呼ばれるもので、解脱するためにはこれを覚醒させる、つまり活動する状態にさせることが不可欠とされていました。
続いて、粘性のある温かい液体のようなものが尾底骨から溶け出してきました。本によると、クンダリニーは尾底骨から生じる熱いエネルギーのことでした。そして、それはゆっくりと背骨に沿って体を上昇してきました。腰の位置までくると、体の前面の腹部にパッと広がりました。経験したことのない、この世のものとは思えない感覚でした。
「クンダリニーの動きが正しくないと、くも膜下出血を起こす」、「指導者なしの覚醒は危険だ」―オウムの本の記述は別世界の話でしたが、今や、我が身に起こりつつある現実でした。私はクンダリニーの動きを止めようと試みました。しかし、意志に反して、クンダリニーは上昇を続けました。
クンダリニーは、胸まで上昇すると、胸いっぱいに広がりました。ヨガでいうチャクラ(体内の霊的器官とされる)の位置にくると広がるようでした。クンダリニーが喉の下まで達すると、熱の上昇を感じなくなりました。代わりに、熱くない気体のようなものが上昇しました。これが頭頂まで達すると圧迫感が生じ、頭蓋がククッときしむ音がしました。それでも、私は身体を硬くして耐えるしかなす術がありませんでした。
突然の出来事に、どうなることかと思いましたが、それをピークに一連の現象は収束しました。どうやら、無事に済んだようでした。
オウムの宗教的世界観が、一挙にリアリティを帯びて感じられました。麻原をグル(修行と指導する師)として、解脱・悟りを目指すことが私の「生きる意味」であると確信しました。麻原の著書を読み始めて以来相次いだ体験に、彼に強い「縁」を感じていたからです。クンダリニーが自然に覚醒したのは、前世のグルの著書を読んだために、修行者だった私の前世の記憶が甦ったからだと思いました。
このように、急激に宗教観念を受容して、思考体系が一変する心理現象は、「突然の宗教的回心」と呼ばれています。これと漸進的な宗教観念の受容との違いについて、研究論文には次のように述べられています。
突然の回心は、被験者そのものが全く変えられるように思われる経験として定義した。つまり、その変化は、被験者が生じさせるのではなく、彼にもたらされるように思われた。また、その変化は、被験者の生活様式、道徳的特性を形成する態度におけるものだった。
漸進的な宗教的発達は、上で説明したような回心経験がないという特徴のもので、そして被験者が自身を無信仰と識別したことがないものである。
すべての回心者は、疑いの余地なく、無信仰の状態から信仰深い状態になった。
二つの集団の特色をかなりよく示す、二つの自伝を下に引用する。一人の突然の回心者は、彼の経験を次のように記述した。
この経験は、私が一四歳の秋に起きた。私は畑を耕して働いていた。突然、嵐が近づいたように思われ、そしてあたかも私の周りの全てが止まったようだった―私は神の存在を感じた。馬たちは完全に止まった状態になった。真っ黒な空がとどろいたので、私は祈った。嵐はすぐに通り過ぎたが、この瞬間だった、―私は祈りながら―主が望むならば、クリスチャンになり、主に仕える決心をしたのは。
漸進的な宗教的発達をした集団の一員は、彼の経験を次のように記述した。
私が信仰深いと自覚したときを説明するのは難しい。それに対し、何年か前に私は十ポンドで生まれ、そして現在はそれよりかなり重いという事実を説明するのは、全く簡単だろう。この成長には、出来事の印象がないわけではない。しかし、少なくとも回想では、そのプロセスはあまりに完全に連続したように霞んでいる。だから、私が自身の認識に現れた時点を思い出せる以上に、私は“信心深く”なった時点を分離できない。私はその二つの出来事はほとんど同時に違いないと思う。
このような宗教的回心は、人が葛藤状態にあるときに、幻覚的な超越体験と共に起こることがあり、このとき葛藤が解決するとされています。また、突然の宗教的回心においては、常識から非常に逸脱したビリーフ・システム(思考体系)が受容される場合があるとされています。そして、「カリスマグループの一つの注目せざるを得ない特徴は、入会の特徴がしばしば劇的な回心の経験であることだ」といわれています。
私の場合、「生きる意味」に係わる葛藤のために、回心が起き、オウムの教義体系が受容されました。このように、非現実的な世界観が突然現実として感じられ、それが受容されることがあるので、超越体験に基づく世界観には要注意でしょう。後述のように、それが日常生活との間に摩擦を生じる場合は問題が起こるからです。
オウムの宗教的世界観が現実となった私に、入信以外の選択はありませんでした。また、新宗教うんぬんといっていられる状況ではありませんでした。クンダリニーが覚醒した以上、指導者は不可欠だったからです。私はクンダリニーをコントロールできず、頭蓋がきしんでも、なす術がなかったのです。この状況について、ある共犯者は「広瀬君は、本を読んだだけでクンダリニーが覚醒して、困って教団に相談に行ったと言っていた。ある種の困惑を広瀬君から感じた。」と法廷証言しています。
こうして、オウム真理教の在家信徒としての生活が始まりました。在家信徒は、社会生活しながら、教義の学習、守戒など教義の実践、ヨガの行法、奉仕などの修行をすることが基本でした。
オウムの教義と修行の目的について、あとの話の理解のために必要な部分のみ説明致します。
教義において、修行の究極の目的は前述の最終解脱をすること、つまり、輪廻から解放されることでした。なぜ解脱しなければならなのか―それは、輪廻から解放されない限り苦が生じるからだ、と説かれていました。これは、今は幸福でも、幸福でいられる善業が尽きてしまえば、これまでに為してきた悪業が優住になり、苦しみの世界に転生するということでした。特に、地獄・餓鬼・動物の三つの世界は三悪趣と呼ばれ、信徒の最も恐れる苦界でした。
それに対して、解脱はすべての束縛から解放された崇高な境地でした。解脱に至るには、次のように、私たちが本来の最終解脱の状態から落下していった原因を除去していくことが必要と説かれていました。
私たちは自己が存在するためだけで完全な状態にあったにもかかわらず、他の存在に対する執着が生じたために輪廻転生を始めたとされていました。それ以来、私たちは煩悩(私たちを苦しみの世界に結びつける執着)と悪業を増大させ、それに応じた世界に転生して肉体を持ち、苦しみ続けているとのことでした。たとえば、殺生や嫌悪の念は地獄、盗みや貧りの心は餓鬼、快楽を求めることや真理(精神を高める教え=オウムの教義)を知らないことは動物に、それぞれ転生する原因になるとされていました。
これらの煩悩と行為は過去世のものも含め、情報として私たちの内部に蓄積しているとのことでした。この蓄積された情報が「カルマ(業)」でした。そして、「悪業に応じた世界に転生する」というように、自己のカルマが身の上に返ってくることを「カルマの法則」といい、これも重要な教義でした。
カルマの法則から考えると、解脱、つまり輪廻からの開放に必要なのは、転生の原因となるカルマを消滅(浄化)することになります。ですから、オウムにおいては、カルマの浄化が重視され、修行はそのためのものでした。
[なお、前述の「殺生」は、虫を殺すことも含みます。ですから、そのほかに挙げた行為もそうですが、一般人の日常的な行為はほとんどが悪業となります。したがって、信徒についても、入信前は悪業を為してきたことになり、それらを浄化しない限り苦界に転生することになります。だから信徒たちは必死に修行していました。また、家族など周囲の非信徒たちは苦界への転生が避けられないことになり、それを信徒たちは案じていました。後述しますが、日常生活と相容れないこの教義のために、一般社会は苦界への転生に至らせる世界とみなされました。そのために、信徒は一般社会を離れて出家していきました。さらに、苦界へ転生する現代人を救済する目的で、殺人まで犯すことになりました。]
また、オウムの教義において、麻原は「神」といえる存在でした。それは、最終解脱者であり、様ざまな「神通力」を有するとされていたからです。特に麻原は、人を解脱させたり、高い世界(幸福な世界)に転生させたりする力があると主張していました。私たちに「エネルギー」を移入して最終解脱の状態の情報を与え、代わりに、苦界に転生する原因となる悪業を引き受ける―「カルマを背負う」といっていました―と説いていたのです。カルマを浄化していないと苦界に転生するのですから、カルマを背負ってくれる麻原は、まさに「救済者=神」でした。
麻原の指示が絶対だったのも、そのような「救済」の能力を有するためでした。オウムの世界観においては、苦界への転生の防止が最優先であるところ、麻原の指示の目的は、苦界へ転生する人類の救済とされていたのです。
回心による教義の受容の後、入信後は、私の身の上に個々の教義の体験が現われ、教義の世界観に対するリアリティがますます深まりました。たとえば、入信の一週間後に、麻原の「エネルギー」を込めたとされる石に触れたところ、気体のようなものが私の身体に入ってきました。そして、胸いっぱいに広がり、倒れそうになったのです。そのときは、ハッカを吸ったような感覚がして、私は自身の悪業が浄化されたと思いました。
その後も様ざまな形でこのような体験を重ねたので、私にとって、麻原が「カルマを背負う」能力を有することは現実でした。そのために、麻原は「神」であり、その指示は絶対だったのです。
なお、現在は、この種の経験は暗示の機制による幻覚と理解しています。つまり、以前に接していた「エネルギーを移入してカルマを浄化する」という教義(二十一頁)が暗示になり、「エネルギーを込めた」とされる石に触れたところ、教義どおりの幻覚が現れたものと思います。(このように、回心後は幻覚的経験が極めて起きやすい状態になっていました。)
なぜあの男が―麻原の地位が教団内で絶対だったことに対する疑問の声をよく聞きます。その理由の一つは、私と同様に、信徒にとっては麻原を「神」とする教義の世界観が現実だったことでしょう。ヨガの行法によって、多くの信徒が教義どおりの宗教的経験をしていたのです。
現役の信徒は、今も、麻原の力でカルマが浄化されると感じる経験をしているようです。だから、麻原が法廷でどんなに見るに堪えない振る舞いをしても、彼は「神」であり続けているのです。私もそうでしたが、信徒が帰依しているのは生身の麻原ではなく、宗教的経験によって知覚した麻原です。「現実」よりも「宗教的経験」のほうがリアリティがあるのです。
このような宗教的経験の作用について、文献には次のように述べられています。
アメリカで(そしてしばしば国際的に)現在見られる多くのカルト様のビリーフ・システムを概観することは、臨床医が特定のセクトを正しく評価するにあたり役に立つ。ビリーフ・システムは、一般に部外者を困惑させるもので、多くは超越体験や神秘体験に基づいている。あるものは、なじみのない東洋の伝統から得ている。あるものは、教義を再構築する程度にまで、既存の宗教を粉飾する。
超越体験あるいは神秘体験は、回心のプロセスにおいてしばしば重要だが、このことはジェイムズとフロイトが注目した。葛藤の解決における超越体験は、非精神病者と精神病者の両方に急性の幻覚的エピソードが起こる程だが、この重要性も強調されてきた。これらの経験はまた、カリスマセクトの多くの全員にとって、グループの全員をを続けされる総体である。これらの出来事は、類似した現象を経験したことのある他の人たちとの友好関係を、最高潮に高める強力な感情的経験になる。
宗教的経験のコンテクストにおける精神病様超越現象が生じることを説明できるモデルは、まだ開発されていない。しかし、注目すべきなのは、かなり注意を引く知覚現象を、これらのセクトの全員が普通に報告することである。たとえば、一つのグループの百十九人の全員のうちの三十パーセントが、瞑想中に幻覚様経験を報告した。明らかに、このような現象は、心理学者が正常な精神的プロセスのみならず病的プロセスを理解するのにもかなりの影響があるはずだ。それらはたぶん、精神病といわれる人に幻覚状態を起こすあるコンテクストの性質を、心理学的に理解する助けになるだろう。
(A教団は)夢さえも「お父様(教祖)の夢を見ますよ」などと暗示を与えて教祖の夢を見やすいように誘導したりする。それらのプライミングの結果、信者は身辺でおきる現象がすべて神やサタンといった心霊現象ととらえることになっていると思われる。さらに、こうした経験が西田のいう個人的現実性を高める。つまり体験や推論が教義と整合しているという認知を与え、ビリーフは強化される。
(西田公昭 一九九五年 ビリーフの形成と変化の機制についての研究(4) 社会心理学研究、一一、一八-二九)
(プライミング―特定の情報に接触させることによって、人間の情報処理を一定の方向に誘導すること)
瞑想のより高い段階は多くの経験を含む。これは、伝統的な文献によく載っており、明るい光のヴィジョン、身心の喜びに満ちた陶酔感、静けさ、明晰な知覚、および愛や献身の感情を様ざまに含む。“超意識”、“超越体験”、“神秘体験”、あるいは“クンダリニーの覚醒”と名付けられており、これらの状態は、人を引き込む影響を及ぼす。この影響は、瞑想の伝統によれば、非常に深刻になるものだ。
※「輸血拒否事件」1985年6月に神奈川県川崎市高津区で起こった事件。ダンプカーにひかれた当時小学5年生の男の子が、両親の輸血拒否にあい、約5時間後に死亡。「大ちゃん事件」とも。