幼少の頃、おばけが死を考えることよりも怖かった。
人並み以上には心霊体験もしたし、怖しい夢に眠りを奪われるのはざらだった。
人の言うところの霊感とはこのことなのかと喉の奥においやり、心霊スポットには目を伏せ神仏氏神様に足を向けることもなかった。
ところがしばらく忙しさに時を忘れていると、いつのまにか過剰なまでの恐怖心が身体に残されていないことに気付いた。
それまではどれだけ子供だましだろうとも、心霊という情報が脳に入り込むだけで、呼び起こされる記憶によって一瞬にして背筋から緊張が走り出てしまっていた。
それなのに、今は子供だましを子供だましと落ち着いて見られるようになっていたのだ。
多感な頃に比べれば確かに心霊現象がわたしを恐怖させるようなこと稀になった。
相変わらず悪夢が時折わたしを現実へとはじき出すことはあるが、それを目覚めて尚心身が恐怖するようなことはなくなった。
なぜだろう。
世の中がわたしを恐怖させようとする度、それに屈しない自分をしばらくの間不思議に考えていた。
そうして辿り着いた結論は2つだった。
多感なころは欲求に突き動かされるままに数多くの必要悪と生活をともにしていた。
目的のために傷つく人がいることは摂理と考えていたし、生物の運命を掌握できることは人間の権利だと信じていた。
それがそうでないということと、そうしなくても生きられるだけの知識や経験が身についたことで、知らぬ間に必要悪に頼る必要のない生活を送っていた。
そしてもう一つの理由は、心霊なんかよりももっと、背筋から熱を奪う存在が身近に寄り添っていることに気がついたことだろう。
時を忘れるほどの忙しさは、同時に我をも忘れさせていた。
一体何年の間、光の差さない下水の中を行き先もわからないまま手探りで這い進むような生活を続けてきたのだろうか。
人間らしからぬ生活はわたしの精神から人間らしい部分を削り落とし、人間らしからぬ精神はわたしの身体から人間としての営みに必要な部分を奪い去ろうとしていた。