はてなキーワード: 唯一神とは
格ゲー史上最大、なんならeスポーツ史上最大の炎上になったかもしれない。
そこで謎なのが、たぬかなの配信を切り抜いて動画にした人物だ。
ただでさえ人の少ないミルダムという配信サイトで、お世辞にもリスナーが多いとは言えないたぬかなだ。
ごく少数の濃いリスナーを相手に配信してたのに、言ってしまえば裏切り者が潜んでいたことになる。
一つの疑いとして、ウメハラのリスナーがたまたま来ていたという説。
炎上の直前にウメハラが配信で「たぬかなが一番口が悪い。唯一神」と評価した。
どんだけ口が悪いんだと気になったリスナーが足を運び、たまたま爆弾発言を聞いて動画にしたのか?
いや、下手したらウメハラのせいに聞こえてしまうが、そういう事を言いたいのではなく、
ただただ事の経緯が謎なのだ。
で、次に謎なのがアップロード先だ。
ミルダムには配信をクリップできる機能があるが、あまり機能しておらず、人気配信者でなければ基本クリップされない。
となると、第一発見者が配信を録画して、それをなんJ辺りに流したのか?
自分が初めてたぬかなの件を知ったのは、はてなブックマークのホットエントリからだ。
その時は「またはてな民がしょーもない形でeスポーツに注目してんのか」と思い、
その後は格ゲーブログ「チゲ速」を見に行って、低俗な話題で燃えてんな、どうせチゲ速でコメントが伸びる程度だろと過小評価していた。
おそらくチゲ速の筆者も過小評価していただろう。「一部の人が騒いでるようです」みたいな書き方だったし。
炎上を取り上げたJ-CASTニュースは、どこの炎上を取り上げていたのか?
昨今の炎上はTwitterが中心地だとして、どのアカウントが震源地だったのか。
「until:2022-02-16 "たぬかな" min_faves:100」で検索した所、
https://twitter.com/netwatcher8/status/1493573729129230336
その後の拡散の仕方については、後日改めて調べようと思う。
場末のライブ配信にしては、燃え広がった範囲が異常すぎて、コロナウイルスの発生源が気になった時の感覚になっている。
とりあえず、はてなブックマークの連中に関しては、この件がなぜ刺さったのか聞いてみたいもんだ。
それは本人の資質に関係なく、タイミング次第で炎上するって所だ。
たぬかなの口の悪さは格ゲー業界では有名であり、炎上直前にウメハラが「口の悪さは唯一神」と評価していたほど。
本人の資質に問題があるってなら、もっと前から問題があったわけ。
それでも女性で格ゲーが強いのは希少だし、スポンサードする価値があるのは確かだ。
所属チームのCAGも、スポンサーのレッドブルも、その価値を理解した上で好き勝手やらせてるんだろう。
と思ったら速攻で所属チームが謝罪して、スポンサーも撤退した形跡がある。
問題発言が問題なのではなく、問題発言がバズったから処分かよ、と。
本人の資質を見て評価するのではなく、世間の反応を見て手のひら返すチームとスポンサーに「くだらねー」だ。
100人規模の配信を切り抜いて、100万人に失言を広めるネット民も「くだらねー」だ。
かつて趣味で小説を十年近く書いていた者だ。俺も理系だが、理系は歴史を学ぶ上で決して弱みではない。むしろ、物事を大局的に眺め、出来事の意味や結果をロジカルに考えるうえでは助けになるし、論理的な文章も得意だろう。なので、自信をもって執筆に向かってほしい。
とはいえ、いきなり中世ヨーロッパを舞台にした小説を書くのは難しい。農民であれ騎士であれ、生活の細部を思い描こうとするだけで筆が止まってしまう。朝起きて顔を洗い、用を足して食事をする、その半時間のことなのに細部がさっぱりわからず、筆が進まない。ありがちな悩みだが、深刻な悩みでもある。
仮に十年前の日本を舞台にした小説を書こうとしても、「当時はスマホが既にあったか」「はやっていた音楽は何だったか」「あの事件はもう起きていたか」など、俺たちの記憶は甚だ頼りなく、資料に頼らざるを得なくなる。ましてや、生まれる前の出来事など仮定に仮定を重ねた蜃気楼のようで、資料なしでは立ちすくんでしまう。よくわかる。なので、俺が読んで面白かった本を共有したい。
ところで、増田は世界史を勉強したいと述べているが、どうも「小説を書くための中世ヨーロッパの知識が欲しい」と「知識欲から漠然と世界史について学びたい」が混在しているようだ。ブクマやレスを見ると、その両方に対する回答がある。俺は、ひとまず前者について答えたく思う。後者については、中央公論社の「世界の歴史」シリーズか、講談社の「興亡の世界史」を読んで、そこから気になったキーワードからどんどん広げていくといいと思う。なお、俺は前者しか通読していない。
さて、過去の世界を生々しく想像するためには、俺は四つの視点が必要だと考えている。数理的視点、物質的視点、非物質的視点、それからエピソード的視点だ。以下、それぞれについて述べる。各々の視点に応じて、手に取るべき書籍は異なってくる。
さらに、この四つの視点があると、頭の中で歴史の知識を整理するのに役に立つ。少なくとも俺にとってははやりやすい。
過去の世界は偉大なようだが、人口は現代よりも少なく、都市の規模は小さく、穀物や工業製品の生産量も少ない。そういうわけで、もしもタイムスリップして中世の大都市を眺めたとしても、その小ささに俺たちは意外さを覚えるかもしれない。確かに現代にも通用する芸術作品はあるかもしれない。時代は異なるが、ピラミッドや紫禁城のような壮大な建物もあるだろう。とはいえ、庶民はそんな生活とは無縁であったはずだ。パリの城壁は今や環状線であるが、今のパリの都市圏はそれを越えて広がっている。
さて、小説を書く上ではリアリティが必要になる。それを支えるのが数の感覚だ。例えば、ある国家の人口がどれくらいで、即時に動員できる兵士がどれくらいで、都市と都市の距離がどれくらい離れており、移動速度はどれくらいか。集落の規模はどの程度か。船舶で運べる量は。モデルとする時代の数字をおおよその知っておくことで、明らかに不自然な描写は減らせるだろう。このあたりについては「銃、病原菌、鉄」や通史的に世界の人口を扱った書籍が助けになると思う。細かいことは気にしなくていい。オーダーが合っている程度で充分だ。数字を確かめるだけなら、ウィキペディアだけでもいい。これは英語版を併用することを薦める。
要するに衣食住の細部だ。先ほど騎士や農民の一日を想像するのが難しいと述べた理由はこれになる。増田が必要としているのはおそらくフランシス・ギースの出しているシリーズだ。都市や農村、城の生活が細かく書かれている。
他に、当時栽培されていた植物や動物については、「世界史を変えた50の○○」シリーズもいい。ある素材が手に入るか入らないか、あるいは知識の有無だけで国の命運が変わるというのは、たびたび起きてきたことだ。中世ではないが、例えばヒッタイトで鉄の製法が独占されたこと、柑橘類で長期航海の敵、壊血病が防げるとか、そうしたことだ。
また、具体的な書名はいちいち挙げられないが、図版の多い図解○○のようなシリーズも良い。もし、増田が視覚的にものを考えるタイプならなおのことだ。慣れていくと建築や芸術の○○様式というのが何となくわかるようになってくる。
加えて、児童書も侮っては行けない。専門家が監修した子供向けの本は、えりすぐりの内容を含んでいる。仮に含まれていないとしても、これだけは伝えておきたいという基礎知識は抑えてある。これは立花隆が言っていたことだったと記憶しているが、なじみのない分野を学ぶためには基本的な内容の本を三冊読むといいそうだ。なぜなら、本当に大事なことはその三冊すべてに書かれているからであり、結果的にその分野の基礎を身に着けることができる。
これは当時の人間が何を知っており、どんな風に考えていたかを指す。直接は物質として残らない、人の頭の中にあった知識や文化にまつわることだ。当時の科学知識、価値観、法律、迷信などもここに含めてよい。
さっき中世人の朝を想像するのが難しいと述べたが、昼以降の社会生活を想像するのはこれでさらに難しくなる。
たとえば俺は異世界ファンタジーをあまり読まないのだが、中世には叫喚追跡という風習があった。当時のイングランドの自由市民は犯罪が生じた場合には、その犯人を逮捕・処罰する義務を負っていた。隣保組織の長は角笛を吹き、大声で喚声をあげながら犯人を追跡しなければならず、また周囲の住民もその指揮に従って追跡に加わることが義務付けられていた。しかも、この協力を怠った住民に対しては制裁が課せられる。寡聞にして、こういうファンタジー小説は読んだことがない。
ここまではいかないにしても、海外文学を読むとなじみのない、ちょっとしたジェスチャーや迷信に出会うことがある。欧米だと、指を交差させることで幸運を祈るし、ロシア人は今でも扉越しに握手をすることを嫌う(宇宙ステーションでさえ)。この辺にリアリティは宿る。ジェスチャー関係なら、中世とは少しずれるが「常識の世界地図」が面白い。
法に関しては詳しくないがが、習慣や生活については先ほど述べたフランシス・ギースの本が参考になると思う。価値観では「中世の秋」がいいだろう。科学史については、増田は理系だから「磁力と重力の発見」を薦めたい。難易度はかなり高いが、知識がいかに科学になっていくかを肌で感じられる。
当時の職業に関しては、未読だが「十三世紀のハローワーク」がいいらしい。
キリスト教・宗教史に関しては、聖書のエピソードの概略や聖人伝を知っているといい。絵画が好きなら名画で学ぶ○○といったシリーズがたくさん出ている。ただし、聖書がわかったからと言ってキリスト教がわかったことにはならないので注意。
これは著名な人物の伝記に関する話だ。あるいは、当時の人々が親しんでいた物語も含めてもいい。こういう偉人の伝記や小話をたくさん知っていると、歴史好きの物知りとしてマウントを取ることができるが、その出来事が世界史上でどのような意味があったかを語れなければ、自己満足で終わり益は少ない。とはいえ、興味深いのは確かで、プロットの参考になるかもしれない。
このあたりの知識のためには、児童書も含めて伝記を読みあさることになる。または、ハプスブルク家の歴史だとか、各国史だとかを扱った新書を乱読する。絵画に興味があるなら、これも名画で見る○○のようなシリーズがおすすめだ。
当時の人々に身近だっただろう中世の騎士の物語については、ブルフィンチがアーサー王伝説、シャルルマーニュ伝説をまとめている。それとは別に「マビノギオン」も面白い。とはいえ、いきなり原典に当たる必要はなく、入門書を読めばいい。
ギリシア・ローマ神話は呉茂一の本が細かいところまで網羅しているし、ホメロスもオウィディウスも岩波文庫に入っているが、呉茂一の本は初心者には細かすぎるし、原典に当たるのは趣味の領域だから、小説を書くなら入門書で充分だと思う。同様の理由で、「史記」だとか「ローマ帝国興亡史」なども趣味に属する。当時ならではの視点は面白いが、鵜呑みにできない誤謬もあるだろう。
もちろん、単純に上記の分類にすべて本が収まるわけではない。大抵の通史・各国史はこれらを兼ね備えている。
以下、何となく面白かったものを思いついたままに書く。「中世ヨーロッパの歴史」「十二世紀ルネサンス」「ケルトの水脈」「西ヨーロッパ世界の形成」(ただしこの本は著名な王の事績がほとんどの載っておらず、当時の価値観や考え方についてのページがほとんどで、そこがアマゾンで叩かれている)。それから、隣人からの視点として「「イスラーム」から見た世界史」「アラブが見た十字軍」など。
書き洩らしているかもしれないが、今のところ思いつくのは以上だ。
他に、中世を舞台にした小説・映画もおすすめだ。難解だが読み応えのあるミステリ「薔薇の名前」、SFだが「異星人の郷」がいい。「大聖堂」は未読だ。「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」はコメディだが細部の正確さは中世映画随一であるとのこと。毒のある笑いに抵抗がなければおすすめ。
中世風の舞台を描くために中世について勉強する。素晴らしいことだ。俺は敬意を表する。それに読んでいるうちにどんどん楽しくなってくるだろう。何かを知る、これは純粋な喜びだ。
だが、小説を書く以上、ある程度は想像力で補わないといけない。ある場面を書く際に必要な情報があるとしても、そもそもその資料は存在しないかもしれない。研究者でさえわからないことは多い。俺もこれだけ読んできたが、わからないことだらけだ。むしろ、疑問が深まった感さえある。細部も忘れてしまった。増田はぜひ自分で本を買ってメモを取るなり線を引くなりしてほしい。読み飛ばさず、時間を掛ければそれだけ得るものも多いだろう。
もっとも、描写に困った場合は、該当シーンを省いてしまうのも手だ。小川哲がどこかで述べていたが、ある歴史SFを書くときに、細部を省略したシーンがあるという。ストーリーにあまり関わらない部分を省くのは、立派なテクニックだ。読者だって中世建築の細部について延々読まされても困るだろう。
もうひとつ忘れてはいけないのは、増田は研究者になろうとしているのではなく、小説を書こうとしている、ということだ。知識は目的ではなく、手段だ。これを忘れてしまうと、他人の設定の粗を探したり、中世なのに価値観が現代的なのを揶揄し始めたりする。こうなると、物語世界を素直に楽しめなくなる。
大事なのは歴史的正確さよりも、読者を喜ばせることだ。そういう意味では、演出として火薬が出てきたっていい。あるいは、読者が感情移入しやすくするように、人を殺してなんぼの武将ではなく、戦争で人を殺すことをためらう武将として、描写する必要がある(ドラマの戦国武将がやたらと戦争を嫌い、優しいのはそのためだ)。異世界ファンタジーの読者が読みたいのは中世ではなく、中世っぽいものだ。そもそも中世ヨーロッパ風なのに唯一神を信じていないファンタジーは多い。
そういう意味では、本を読んでもその知識が直接生きることは少ないかもしれない。くれぐれも、読者に向かって知識をひけらかしてはいけない。あるシーンの正確さのために資料に当たるのはいいが、その成果を延々披露しては読者のストレスになるだけだ。もちろんそういう衒学的な歴史小説もあり、固定ファンはついているが、ネット小説の読者には少ないだろうし、ネット小説の肝であるPVを稼ぐことにはならない。これはいい悪いではなく、ネットと書籍の媒体の差だと思っている。
また、レッドオーシャンの中世ヨーロッパ風ファンタジーに飛び込むのなら、正確さよりも作者の専門知を活かしたものの方が(ブクマで書いている方もいるが)読者の目に留まりそうである。そして、くどいようだが、これだけおすすめの本を書いてきたが、読者が欲しいのは正確な知識ではなく血沸き肉躍る物語である。
だが、作者にとっての最大の危険は、どんな物語よりも過去に起きた事実の方が面白いのだと気づいてしまうことだ。この罠にはまると、どんな小説も所詮作り事と思われて素直に読めず、何を書いてもむなしくなってしまう。言い換えるなら、創作欲が知識に殺されてしまう。増田には、これに一番気を付けてもらいたい。
それを防ぐには、面白い小説を読み、面白いものを書くこと、これに尽きる。先行作品としての中世ファンタジーを愛し、数多く読み、繰り返し読むこと。
タイトルで強烈な文言を述べたが、私個人は神様を信仰していない。私は神様ではなく自分に幸福をもたらしてくれる縁や尊敬できる偉人を信仰している。
私の家系は日蓮宗であるが、それを意識することはほとんどない。葬式や父の実家の仏壇を拝むときだけだ。クリスマスも初詣もするし、お守りを持つこともある。
このような態度は無宗教と呼ばれ、日本人の多くはこれに分類される。中にはこれを宗教的態度の欠如であると批判する人もいる。私が小学四年生の時の担任教師はこれをおかしいと非難した。
しかし、私はこのような「無宗教」が日本で起こったことや、無宗教の人が宗教の恩恵にあずかれるのはおかしいことではないと思っている。
日本人の宗教観は、この世には沢山の神様がいるという宗教観である。この世のあらゆる事物にはそれぞれの神様が宿り、神様達の動きによりこの世界の因果関係が決定されると考えた。それぞれの神様は人間と同じく感情を持つものとして考えられ、祭祀や信仰はその神様のご機嫌をとることに近かった。この宗教的態度は外国から仏教や儒家思想、キリスト教などが入ってきても変わらなかった。
このような宗教的態度が生まれた背景を和辻哲郎のエセー「風土」は日本(および東アジア)の雑多な生態系と災害の多さに求めた。日本人は古来より抗いがたい災害に見舞われ、それに耐える忍耐力を養った。そしてその気象条件は同時に命の恵みも与え、我が国に植物や動物の息吹があまねく見受けられるのである。
こうした環境が日本人の精神を作り、その精神から人格を持つ沢山の神様を生み出したのである。これは自然環境が変わらぬ現在でも同じであり、欧米や中東のような一神教的な絶対神が日本を征服できないのはこのような理由がある。一神教の神は、多神教の神の国の一部として取り込まれるのだから。
遠藤周作の小説「沈黙」では、日本に伝来したキリスト教の教えが日本に根付かず改変されていることを元宣教師のフェレイラが嘆くシーンがあるが、それは上の風土を考えれば当たり前のことなのである。
一方でキリスト教やイスラム教などの一神教が誕生したのは、砂漠の国の中東からである。そこは日本とは全く異なる生命の息吹が皆無の殺意の大地である。そのような状況から砂漠の民のヒューマニズムへの関心はとりわけ高く、それが人間の味方である絶対唯一神への信仰を生み出した。
それがヨーロッパに入り浸透したのは、ヨーロッパの民族は合理的で従順だったからである。ヨーロッパは生態系が単調で、人間からすれば自然は全部「役に立つ」ものだった。そこから古代ギリシャ・ローマに代表される科学的合理的思考がこの地で起こり、それはヒューマニズムに満ちた一神教を受け入れたのだ。
ここで、あらゆる神や宗教を吸収する多神教の国日本と一神教が人々を統べる欧米や中東の差異が分かる。そして、これが日本の無宗教を受容する態度と非難する態度の違いを生み出すのだ。
一神教的宗教観は日本の無宗教を非難するが、それは無宗教が神様を信仰しないからだ。一神教の神は世界の創造者で裁定者で救済者なのである。それを信仰することが彼らの人間として生きることの証なのだ。故に無宗教は非人間的な態度であり、シリアルキラーと同類の存在なのだ。先の私の小学校の先生も無宗教を人間として無節操な態度と考え、非道徳の理由を無宗教に求めたのだ。
その上で私は一神教的宗教家の方々の私の宗教観への批判に反論したい。私が信仰しているのは神を持たない宗教であると。
先ほど私は日本の宗教観ではこの世の事物にはそれぞれ神様がいると述べたが、それはあくまでいるだけであり信仰する神ではない。物事の因果を神の所業と考えているが、それを起こす神が気まぐれでそれが沢山いる以上もうどうしようもないのだ。もしこれが人だったら早々と見限るような神々は沢山いるのだ。神は人を選ぶのだろうが、人間も神を選ぶのである。
私も以前は神は正しいメッセージを授けてくださると思っていたが、いつまでたっても授けてくださらない。それは当たり前のことであり、雑多な風土に宿る神が雑多なメッセージ以上の何かを発信することは出来ないのだ。日本の土地では裁定者たる神はいないのである。「沈黙」でも、主人公の前に裁定者は最後まで表れなかった。裁定者は日本という沼地で溺死したのだ。故に主人公は生きるという決意で生き延びたのだ。
「沈黙」では神を心のなかで生きる存在と最終的に結論付けたが、私はその神の存在意義は最初から否定した方が楽なように思えるし、そちらが神様にとってもありがたいであろうと思う。そうでないと私は神様に対する「たかり」になってしまい申し訳なさで死んでしまいそうだ。
何か危機に陥ったときにかつては祭祀や加持祈祷に頼っていたであろうが、科学の時代においては科学の方が日常生活では「烏合の衆」よりかは帰依出来る。
今のコロナ禍でも、精神的基盤を補強する役割以外では、神頼みよりも衛生的処置や医療措置の方が遥かに大事なことはすぐに分かる。
では私は何を宗教に求めているかというと、私の心と世界とのコミュニケーションである。世の中には理不尽なことは沢山ある。そんなときに世界が沈黙し私を嘲笑しているように錯覚することがある。
だが、それは私が世界とのコンタクトを放棄しているからである。世界は私を嘲笑していない、語りかける励ましの言葉はある。私がそれに気付くとき、私は心を開き癒されるのだ。その回路を開くことが私の宗教的態度である。私が信仰しているのはそうしたものである。
私は長々とここまで語ったが、私は他人の宗教的態度を否定するつもりは毛頭ない。私には私の納得する宗教的態度があり、それを大切にしている。故に他人にはここで語ったことに対抗しうるだけの宗教的態度があると考えられる。私はそれを侵すつもりはないし、相互不干渉を守りたいと思う。自分の守りたいものと同じように他人の守りたいものは守りたいのだ。
私の記事は以上だ。
元旦の初詣に地元の神社へ行ったら、それなりの人出で、チョコレートバナナの屋台なんかも出てた。思ったほどは並ばずにお参りを済ませて、屋台を覗いてから帰ろうかなと思ったら、鳥居の右下に立ってビラを配ってる女性がいた。通り過ぎながらなんとなく受け取ってしまって、ビラを見たらなんだか奇妙な内容だった。
2021年こそは思いなしを捨てて世界を統べる原理に気づこう、唯一神フェニミの光りに満ちた年を過ごそう、詳しくはこちら、みたいなことが書いてあって、その下にホームページのアドレスみたいなものが書いてある。
なんだろうなこれはと思って、ビラを配っている女性の方を振り向いたら、鳥居の左下にもう一人別の人が立って、この人もビラを配っていた。もとからいた女性がその人に近づいていって、なんだか言い争いになっているみたいだった。しまいには、後で来た女性の方がバールを振り回してちょっとした騒ぎになって警察が来た。あれは何だったのだろうか。寒いから最後まで見ていられなくて帰ったけれど、いまだにわけがわからないでいる。
これをあなたが見つけて読んでいる頃、私は遠い、遠いところに行っているでしょう。そうすると決めた後でも、あなたの寝顔を見ていると決心が揺らぎます。それでも私は行かなくてはならないのです。わかってくださいとは言いません。裏切り者と言われても仕方がないと思っています。いままでの月日がすべて嘘だったと考えないでください。ただ忘れてください。私のことなど、どうかはじめからいなかったものと思ってください。結局のところ、私は神の定めに従って生きることを選ぶ運命だったのだと今では思っています。思いなしが解けた後、とりかえしのつかないことをしてきたという恐れと、これからの生きる道を自覚的に選ばなくてはという両方の思いに引き裂かれるようです。このようなことをする私に何が待っているのか、私にもわかりません。地獄に落ちるものと思っていただいても結構です。それに値することを私はしたのですから。ただ、唯一神フェニミに従って生きるしか私にはすべがなかったと、今では思うのです。おいしい食事をありがとうございました。どうか元気で。
フェニミスト協会グローバル本部という宗教法人でバイトをはじめてから2週間くらいたつ。仕事内容はそんなに難しくなくて、書類の整理が多い。PCを使うのは会員名簿を見て発送作業をするときくらいで、あとは古い書類の仕分けをすることが多い。
30年以上経った古い書類は個人情報に気をつけてシュレッダーにかける作業を先週はしていた。埃だらけのドキュメントボックスにはやたらと古い手紙が入っている。昔は団体の会報で人生相談みたいなコーナーがあったらしく、そのときに会員から本部に寄せられた手紙らしい。
ほとんどの便箋にはホッチキスで別の紙がついている。同じ人の筆跡で、かすれた青い文字で書いてある。見たことはないけど、これはたぶんカーボン用紙でとった昔のコピーなのだと思う。相談員か代表(?)が相談に答えた手紙のオリジナルは箱の中に入っていない。たぶん印刷のために写植に回ったのかもしれない。
手紙はたくさんあったので全部は内容を覚えていないけれど、廃棄後もまばらに記憶に残っているやつがある。たとえば、1983年12月付で、20代の女性らしい人から来た手紙だ。80年代っぽい丸文字で書いてある。
親愛なる総長様
いつも陽の光のような愛につらぬかれて生きていきたいと思っているのですが、最近は心に思い悩むことばかりが多く、また、ちょっとビロウなお話ですけれど、おトイレにばかり行きたくなるんです。それで、大きいほうがたくさん出てしまうのです。気にしていると余計、一日に何度も行きたくなってしまいます。まるで私、大きい方を作り出すだけの機械になったような気がして、苦しい思いです。気にせずに過ごす方法はないものかとますます思い悩むばかりです。
別紙で回答(?)がついていた。
迷えるフェニミの子へ
お腹が毎日張って苦しいことでしょう。また、みずからの「思いなし」に囚われていることも同様に苦しいものです。そのようなときにはなによりも、つねに私達とともにある唯一神フェニミの教えを思い出すことをお勧めしたいと思います。すべては太陽の如き神の愛に貫かれ、フェニミの意志によって設計されているのです。種から芽を出し、天に向かって伸びる花は、神の意志に沿って作られた機械なのです。あなたもまたその機械の一部であり、巡り巡る物質を摂取し、産み出すべきものを産み出す機械なのです。あなたは大きいものを産み出す機械であり、子を産む機械であることに気づくでしょう。神の意志に沿って、神の愛を感じて生きるとは、機械の動きのままに生きることなのです。そうすればおのずから心も安らかになってくることでしょう。毎日しっかり食べ、しっかり寝て、どんどん産み出していきましょう。
どんな宗教でも個々人によって解釈や考えは違うから難しい話だと思うのだけど、
まず、自殺は日本語の通り、自分を殺す、つまり自殺も殺人であるという考え方もあるようだ
そして、死とか運命というのは神が司るものであるという考えもあるようだ
人間は意図的にカジノでジャックポットを引き当てることはできない
スロットで次にレバーを引けばジャックポットが出るというならイカサマだろう
運と同様に、死も神様が司るべきという考えがあるようだ
神が人を殺すことは許されるが、
人が人を殺すことは許されない、
予言も神、もしくは唯一神の代行者となるのを許されたイエスのみができるのであり、