はてなキーワード: メンヘラとは
「理解のある彼くん」メカニズムによって美人(ただしメンヘラ)が増えるという適応進化の経路がありそうだよな。そうすると同時にイケメン(ただしメンヘラ)も増えそうだけど、メンヘライケメンは明らかに環境適応的でないので、そっちで淘汰圧が掛かって美人も増えにくいという感じなのか。
親が神真都Q会の構成員になっていたが、まったく悲観していない。オーガニック食品、電磁波除去アイテム……と来れば次は反ワク・反マスクのはずだし、正直慣れてしまっている。
実家にいた頃なら、むしろ喜んで話に付き合っていただろう。「巨大な加害の主体」に敵意が逸れるのは、私にとって利益以外の何ものでもなかった。
自然派・陰謀論のフォロワーに出会う機会は、本業でもボランティアでも何度かあった。1人ひとりの経歴や活動内容もちらと小耳に挟んでいる。
彼ら/彼女らの共通事項として世間が挙げるのは「高齢」「低所得」「低学歴」等だが、私は「被害者意識」に着目したい。
何か社会生活で軋轢が生じた時、特に加害者としてペナルティを受けた時に、その結果だけを見て「自分ひとり理不尽な目に遭った」と考える癖がある。一度被害者意識が芽生えると、予防策あるいは報復の名目で暴力に訴える。その矛先は抵抗される可能性の低い(かつ客観的事実を指摘される恐れのない)近親者に向かい、子や配偶者は慢性的な家庭内暴力に悩まされることになる。
「児童相談所に連れ去られた」なんて話を聞くとうんざりする。筆者はその「連れ去られた子」だ。結局親元に返されたが、おかげさまで心のみならず身体にも後遺症を負うことになった。数年の施設暮らしの後に家に戻ると、産んでくれた人を虐待加害者に仕立て上げる嘘つきと呼ばれた。
あの荒唐無稽なグループが「反西洋医学」「反グローバリズム」の名目で被害者意識を受け止めてくれる間、筆者は殴られずに済む。自宅のベランダから突き落とされることも、押さえつけられて包丁で傷つけられることもない。別居する今でも、金の無心と入通院・服薬拒否を除けば、苦痛を与えられることがない。他の身内が油断してしまい、メンヘラを見捨てるのは可哀そうだからと近親者介護にこだわる弊害はあるのだが……
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あなた達の多くは50歳以上、就労収入はあまりないが時間はいくらでもあり、その余力を使って日本の未来を憂いてくれている。大変有難い。
ここにひとつ、簡単に2019年以前の社会に戻す方法がある。あなた達がもっと労働して税と社会保険料を納める方法だ。死病に罹った時の治療を予め拒んでくれるのも良い。
勝手に若者を代表するのは大変心苦しいが、我々だってこんな窮屈な思いはしたくない。それでも公衆衛生上の危機に対してここまで厳重に対策しなければならないのは、ただ資源を持ち出すだけのあなた達が病気になれば、それぞれに高額な医療費がかかり、財政難どころの話ではなくなるからだ。
コロナが存在しようとするまいと、私たちが支配層の洗脳を受けていようといまいと、その事実だけは動かせない。それでも人命を切り捨てるわけにはいかず、慎重を期す意味で、若者と子どもらは仕方なく現状の対策に耐えている。
あなたらが一言「労働する、あるいは病苦と死を受け入れる」と言ってくれさえすれば、すぐにでもマスクを外せる。ワクチンも打たなくていい。嫌ならせめて、近親者や社会に暴力を振るうのをやめて大人しくしていてね。
黎明期のネットはFacebookみたいに実名が多かったしネナベも何もないと思う
匿名やIDの空間においてもわざわざ女アピール・男アピールしないヤツが多かっただけ
あとわざわざ女アピールするヤツは黎明期からメンヘラ・出会い厨が多かったぞ
メンヘラ垢とか弱者男性と言われるひとがツイートしてる社会への鬱憤だとかそう言うの、結構的は得てるけど気持ち悪いと思っちゃうから認めたくない。子供は気軽に作るべきじゃないとか、障害者のリアルとか。面白いから読み漁るけど、それはそれとして排除したくなる。いじめとかそういうの。口が悪いからなのか、未知なる意見への恐怖なのか。
こう言う色眼鏡ってよくないよね。まじで。
ホリエモンの部下からマエザーンの部下になって両方をリスペクトしている田端信太郎さんの魂に祈りを捧げましょう
まず生命保険に入りましょう。そして洗面器を用意し水を張ります。水に顔をつけて10分もすれば!凄い時給でお金が貰えます!!
自殺だから一義的に自己責任なのは当たり前でしょうが。上司が屋上から物理的に突き落としたりしたのですか? そんなに追い込まれても、会社なんて辞めて生活保護受ければいいわけです。あなた達、弁護士は訴訟になったほうが儲かるけどね。
https://twitter.com/tabbata/status/1002900777000566784?s=21&t=nePAOjzOckx7WvA_PkrBkA
過労死には本人の責任もある。なぜならば物理的な拘束はなく、使用者側に殺意もないから。使用者の過失責任はあるかもしれないが、本人の責任もゼロではないというのが私の見解です。36協定もない一方的な残業強制が違法ということは同意OKですよね?だとしたら組合や従業員代表の責任もゼロではない。
https://twitter.com/tabbata/status/1293711567503032320?s=20&t=kLwl0eQFwYHKnKdqArQdSw
↓
でも今ごろ、上司の佐俣アンリ氏は頭を抱えておるはずw。いまさらクビにできないが、あんなメンヘラ社員のネガ発信は、VCにとしてマイナスでしかない・・・・。政治的な意見の問題でない。「いかなる反論もご遠慮ください」とかパブリックに書いちゃうのが、PRセンスなさすぎて、無能丸出しなのが問題
https://twitter.com/tabbata/status/1434113973679366144?s=20&t=KVhJSXG63563lnEsd0vgvQ
関連増田:田端信太郎氏の失敗で人生に悩んでしまった(anond:20210912095445)
関連増田:なぜ田端信太郎は情報商材をはじめたのか(anond:20211006214542)
増田にちょっとメンヘラな書き込みをしただけで病院行けっていう人多いけど
その程度では医者も「ああ、よくいる健康だけど思い込みが強い人ね」程度で
ちょっと精神整える系の薬が出るだけで、治療らしい治療とかないよ
フィクションの見すぎだよ。
自己愛性なのかな
その後愛着障害って言われて
今はHSPって言われてる
そのやり方がまるでカツアゲっていう
自分が正しいはずなのになぜ?は思う
あと、とにかく夫に聞いて欲しい
コロナか出産かでおかしくなっちゃったの?って思われるとわかる
夫の価値観も知りたい
完全にバグだと思う
私がバグるのは対夫だけ
確固たる絆ができたからかな
で、今日が正しさを主張するのは夫への加害に他ならず、そのせいで夫が苦しんでるってわかったからこれから改善していきたいと思ってる
冷静になって離婚切りだされたらその時はその時かな
それだけのことをしたんだし
顔はそこそこ整っているが溢れるメンヘラ臭が凄くてみんなめんどくさいと思いつつ取り扱いに気を付けて接していた。
顔はそこそこ整っているが溢れるメンヘラ臭が凄くてみんなめんどくさいと思いつつ取り扱いに気を付けて接していた。
そいつのTwitterも知れ渡っていて(アイドルにリプしていた事がきっかけで)やれ死にたいだの毒親に人生ぶっ壊されただの彼氏死んで欲しいだの、常に他人の批判に溢れていた。
そいつはまともに働くことができないだけなのに就活に狂気を感じるだのなんだのケチをつけて就活せず個人事業主(ほぼニート)になった。
そいつの彼氏(結局付き合い続けてんのかよ)が春から教員になり
部活やらなんやらでまともに休みもないらしく、それに対してまたTwitterで文句を垂れ流し続けている。
中学教員なんて多かれ少なかれキツいことだらけなの分かっててなったんだろって感じなのに、日々彼氏と同棲解消したいだの日本の教育制度はいかれてるだの呟き続けてる。
挙句の果てに「バカと無知が1番人生楽」と言ったりしてる。バカだし無知なのに人生辛そうでかわいそうだね。
そいつは今水を得た魚なんだろうなと思う。20歳超えて自分の人生が自分のせいでうまく行ってないんだと気付かず、いや気付くことが出来ず、叩けるものを見つけて悲劇のヒロインでいることで生きながらえている。
そいつを見て自分は「自分の人生の舵を取るのは自分、自分を幸せにするのも自分」と改めて気を引き締めることができる。自分も実はそいつと似たような環境で育ったが、こうだけはなるまいと思い頑張れる。
アメリカ介入ショック
ウッドショック
円ショック
海産物ショック
キーフ言い換えショック
軍人騙されショック
警告お手紙ショック
コロナ風化ショック
債務不履行ショック
人道街道ショック
スペースXショック
戦争勃発ショック
ソ連復活ショック
大本営発表ショック
テーブル長すぎショック
ドローン強すぎショック
北方領土返すきなしショック
よわよわロシア軍ショック
ライブカメラショック
ルーブルショック
レンドリース法ショック
ワリエワショック
Zショック
ほぼ同じこと言ってる二次界隈レジェンドやアニメーターいて頭抱えたくなる
書き出したらキリが無いがここ10年くらいのだと、
現代日本のフェミニズムは、傷ついた人間が慰め合うセラピーの看板のような機能を持っていると言える。
弱者が慰め合える駆け込み寺、いわばフェミニス堂があること自体は良いことだ。
エンパワメントやシスターフッドという自己肯定を重視した精神的な言葉が最近人気なのもその一環かもしれないし、そこまで前向きな気持ちになれないからとにかく苦しみや怒りを吐き出させてくれという層だって駆け込み寺には居場所がある。
だが、「セラピーとしてのフェミニズム」と「学問や言論としてのフェミニズム」が分離されていないために、言論としてのフェミニズムの信頼度が著しく弱まっている。
セラピー面も学問言論面もひと固まりだから、フェミニストはメンヘラだとか、他人の幸せを許せないだとか、ミサンドリストでセックスヘイターのジェンダークレーマーだとかの批判に繋がってしまっているのだろう。
私自身も精神疾患持ちなので、精神が弱っていることを批判する気はないのだが、セラピー的な語り合いと、学問的討論がごっちゃになっている状況は大いに問題視している。
(追記:↑ここで私の精神疾患に言及したのは、私も議論の場で当事者性を武器として使おうという態度でよくなかった。反省する。)
本稿で主張するのは、「冷静な研究者としての立場」と「傷つき怒れる当事者としての立場」は、兼任すると問題が生まれるのでどちらか片方だけの立場に立つべきだ、ということだ。
たとえ学位や免許を持っていても、冷静になれない話題については傷が治っていない当事者だから、理論と議論を使いこなせる研究者ではなくあくまで苦しむ当事者個人として発言した方が良い。
本論前に、何がOKで何がNGかおおざっぱに切り分けておこう。
フェミニズムという看板のもとに、傷ついた人々が集い、辛さや怒りを語り合い共感しあい心を癒そうとする様子は、当事者会に近い。
当事者会自体は、様々な依存症や障害、事故被害者などについて行われており、有用なセラピーと言っていい。
だが「セラピーとしてのフェミニズム」の問題は、当事者会で癒される患者と、当事者会を監督したり理論を語る研究者がかなり重なってしまってるということだ。
要するに、当事者として治療を受けるべき傷を抱えたままの人間が、セラピスト役と教師役もやってしまっているという問題が、「セラピーとしてのフェミニズム」にはある。
だが、SNSのそこら中で行われている「セラピーとしてのフェミニズム」当事者会の多さに比べて、監督できる冷静な研究者は全く足りていない。
普通の当事者会やセラピーは、福祉や医療や心理の専門家によって研究と理論化がされ、社会に対して有用性が主張され、会の時にはその場にいて見守ったりもするはずだ。
傷ついた当事者たちの語りは、しばしば自己中心的だったり理屈が通ってなかったり乱暴だったりするが、それは回復に必要な心の解放だ。
それがそのまま社会への要求として世の中に出されたりはしないので、当事者会で語ったことが間違ってるなんて責任を問われることもない。
客観的な専門家が当事者たちの感情吐露を分析して理論化した上で、必要な部分は社会に訴えるようになっている。
だから、普通の健全な当事者会セラピーは、傷ついている当事者が冷静さを求められたりはしないし、当事者がヤバいことを主張していても研究者の評価が下がることもない。研究者が監督しているから当事者同士の会話が先鋭化するエコーチェンバーも防げる。当事者の要求は研究者が整理したうえで一般社会に伝えるので、外部の一般人が当事者の過激すぎる主張を直に聞かされて悪感情を持つこともない。
全てが完全に徹底されているわけではないが、それでも、当事者会セラピーで語り合う患者とそれを監督する研究者の間に線が引かれていることで、ある程度は弊害の抑制ができている。
しかし、「セラピーとしてのフェミニズム」では、患者、監督者、研究者の区切りが曖昧になりやすいので、普通の当事者会セラピーでは減らせる弊害がモロに発生しているのだろう。
たとえばフェミニストが「トーンポリシングはやめろ」と主張したことに対し、「議論や説得において言い方ってのは大事だろ」と反論されているのをよく見るが、あれも、内輪の癒しセラピー的な感覚と対外交渉議論の感覚がごちゃまぜになっているせいだ。
「私はいま苦しすぎて言葉を選んでいられないのでセラピー患者として気持ちをぶちまけてるんだからトーンポリシング(言い方警察)するな」、という話なら真っ当である。
「私は冷静を保ち、言い方や内容にしっかり気を使うから、議論として発言を真面目に聞いてくれ」、というのも真っ当である。
だがそれを同時にやろうとする、「自分はセラピー的に感情をぶちまけるが聴衆は真面目に聞いてくれ」というのは無法な要求だ。
せめて、セラピーを監督する冷静な研究者に向かってぶちまけて、その研究者が理屈の通らないところを補助し冷静な言い方に直して議論の場に持っていくという形にしなければいけない。
なのにフェミニズム議論では、何もかも一緒くたになりがちである。
臨床心理士やカウンセラーや看護師助産師になりたがる人間はしばしば自分が精神不安定を抱えているというのは、統計はともかく実体験としてはよく聞く話である。
博物学系でも、たとえば動物学者はだいたい動物好きで、心情的には動物を保護したがるだろう。
だが、そこは資格団体ががんばってたり教育だったりで、臨床心理士や精神保健福祉士はある程度の信用をしてもいいだろうとなっているし、動物学者も後先考えない動物愛護活動をする人は目立ってないわけだ。
むしろ、愛護派の過激な主張の角を取って一般社会的に可能な動物保護のやり方を訴えたりしていて、それはまさに、感情的になりがちな当事者の語りを、研究者が自分のところで一度止めて丸めて社会に伝える、当事者会に対する医療や福祉関係者の立場と近い。
だから、臨床心理士や動物学者などの学問的信用はまあ保たれている。
ところがフェミニズムや一部社会学は、理論家や研究者が、傷ついた当事者と同一人物だったり肩入れしすぎたりするせいで、冷静な監督者のいないまま野良セラピー的な語りあいを続け、当事者の悲痛な心情吐露ではあるがそのまま社会に要求するには妥当性に欠ける内容が研究者の学問的立場から主張されてしまっている。
フェミニストはメンヘラだとか他人の幸せを許せないだとかミサンドリストでセックスヘイターだとか言われてしまうのはこのせいだ。
それにもかかわらずフェミニズムの大義名分が世界中で力を持ち、フェミニストの要求の内容を精査して妥当性が十分な時だけ応じますという態度は悪だと指弾されるのが、本当に良くない。
ここで断言しておくが、メンヘラも、他人の幸せを許せない人も、ミサンドリストもミソジニストも、セックスヘイターも、楽しく生きてよいし好きに発言してよい。当事者会で同病相憐れむのだって、傷ついた人間には大切だと思う。
過激な思想やトラウマは緩んだ方がいいとは思うが、それもあまりに大きな加害に繋がらないのであれば自由だ。
ただし、その好き勝手な発言暴言はあくまで傷つき冷静さを欠いた人の胡乱な言動として生暖かく聞き流されている方が、周囲にとっても当人にとってもよいはずだ。
弱者の声は社会から無視されるべきではないが、そのままでは妥当性が低いので、客観的な研究者が集積して適度に理論化と穏健化した上で世の中に訴えるべきだろう。
フェミニズムが、弱者に肩入れしようとするあまり病んだ当事者発言をそのまま重用したり、著名な研究者が「冷静さを保つために私の当事者としての感情を一時的に抑えよう」という努力をおろそかにしているのは、誰にとっても不幸である。
辛すぎて悲鳴を上げざるをえない当事者と、冷静で他者と対話可能な研究者の弁別は、完璧でなくとも努力する価値がある。できたぶんだけ弊害が減るはずだ。
一つ、わかりやすい事例を挙げる。
フェミニズムやジェンダー学周辺で、セラピー的機能と学問・言論的機能が混在することの弊害を私がはっきり感じたのは、朝日新聞運営の『かがみよかがみ』である。
『かがみよかがみ』は読者投稿エッセイをメインコンテンツとするWebサイトだ。
「私のコンプレックスを私のアドバンテージにする」とか「私は変わらない、社会を変える」とかをコンセプトにして、女性の自己肯定感の爆上げを目指すメディアであることを謳い続けている。
18~29歳の女性からのエッセイを募集して、編集部がチェックして載せている。著名人や契約コラムニストの連載もある。
そして投稿者を「かがみすと」と呼び運営ボランティアを「ミラリスト」と呼んで連帯感を出し、若い女性同士で肯定しあえるコミュニティを作ることも意図しているようである。(かがみすとは今もしっかり使われているが、ミラリストはTwitterで検索してもほぼ出てこないので今も使われてるかは外部からは謎)
二年くらい前に数回燃えたが、扱っている内容の割にはてはで話題になる回数は少ない気がする。はてなとは読者層が違うのだろう。
上野千鶴子さんに質問「ベッドの上では男が求める女を演じてしまう」 | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/12881008
フェミニストでも、守られたい。フェミニストだから、守りたい | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/13432941
これの上の記事に関わっていたコラムニスト(かがみすと)が、謝罪をしつつかがみよかがみを批判したnoteを全三回書いていたのだが、その第三回と、そこから辿れる記事類を読み、フェミニズムがセラピーと言論を区切らずやっている弊害はあるな、と強く感じた。
上野千鶴子氏座談会のセックスワーカー差別炎上とかがみよかがみコミュニティの雰囲気について(下)|滝薫
https://note.com/hannnahkuku0819/n/n6514127ed85a
私はこれを読んだ時、伊藤編集長があらゆる批判に応じないのもわかる、といっそ清々しささえ覚える形で納得してしまった。「セーファープレイス」を構築しようとして、内部を守っているのではないかと思った。
(略)
『かがみよかがみ』を必要としている利用者はいる。それはわかっている。私も、エッセイを投稿した後の”共感”と”褒め合い”によって自信がついた一人であることは変えようがない事実である。その価値を認めていても、『かがみよかがみ』の未来に不穏さを感じてしまう。
『かがみよかがみ』が目指すのは、あくまで女性の自己肯定感の爆上げである。正しさではなく、自己肯定感である。
それも、明言はしていないが18~29歳の女性だけを狙っているだろう。
若い女性たちがエッセイで悩みを語り合い、書き手同士のSlackか何かでも褒め合い、お互いが何を言っても原則として批判しないし自虐もしない。まさに当事者会でありセラピーのやり方である。
フェミニズムやジェンダーなどの内容が多く扱われているが、それはあくまで自己肯定感爆上げの道具なので、理論的な正しさを保とうとして心が苦しくなってしまうようなら、正しさを追求しなくてよい。
エッセイ投稿の年齢制限も無い方が「正しい」のはわかってるだろうが、年上の説教エッセイや愚痴エッセイが載ってるサイトは鬱陶しくて気持ちよくなれないという若者の本音を慮って、微妙な理屈をつけて年齢制限をかけていると思われる。
投稿者をかがみすとと呼んで内輪感を作るのも、その繋がりで孤独が癒える人がいるからである。そういう内輪感にウエッとなる人もいるだろうが、そのタイプの人は他のどこかで癒されればよいというスタンスだろう。
伊藤あかり編集長のモットーらしい「全ての人を満足させようと思ったら、一人も熱狂させられない」とも合致する態度だ。
傷ついた若い女性のために、正しさではなく自己肯定感爆上げを目的とした当事者会セラピーの場があること自体は、良いと思う。
だがそれが、朝日新聞運営メディアとして広くネットで広告され、上野千鶴子や石川優実を企画に呼び、ヒコロヒーなどの連載があり、エッセイ投稿者もジェンダー学やフェミニズムで多少の理論武装をして識者っぽい人もたまに言及するとなれば、そこはもう言論の場となってしまう。苦しい内面を安心して吐き出せる、責任を負わなくていいし怒られもしないセラピーの場としては相応しくない。
なのに、そこが曖昧に混ざった立場で『かがみよかがみ』の文章は発表され続けている。
そして、これは、インターネットにおける様々なフェミニズム活動についても近いことが言える。
最後にもう一度まとめる。
傷ついた当事者同士が慰め合うセラピーの看板としてのフェミニズムと、冷静さと客観性を保つ学問や研究としてのフェミニズムは、分割しておく必要がある。
現在の日本では、セラピーの場としてのフェミニズムと、学問としてのフェミニズムが、ごちゃごちゃ混ざっている。
心が乱れてフェミニズムセラピーを求める患者と、冷静であるべきフェミニズム研究者が、ある程度重なってしまっている。
この状況を解消しないと、世の中の幸せにはつながらないだろう。