はてなキーワード: ベクトルとは
1. 経済主体の集合は E = {1, 2, ..., n} である。
2. 財の集合は G = {1, 2, ..., m} である。
3. 消費集合は Xᵢ ⊆ ℝᵐ₊ for i ∈ E である。
4. 選好関係は ≽ᵢ on Xᵢ for i ∈ E である。
max{xᵢ∈Xᵢ} uᵢ(xᵢ) subject to p · xᵢ ≤ wᵢ
ここで、uᵢ: Xᵢ → ℝ は効用関数、p ∈ ℝᵐ₊ は価格ベクトル、wᵢ は初期賦存量である。
max{y∈Y} p · y
一般均衡は以下の条件を満たす配分 (x*, y*) と価格ベクトル p* の組である。
1. xᵢ* ∈ arg max{xᵢ∈Xᵢ} {uᵢ(xᵢ) : p* · xᵢ ≤ wᵢ} for all i ∈ E
3. Σ{i∈E} xᵢ* = Σ{i∈E} wᵢ + y*
利潤関数を π(p, w) とすると、
∂π(p, w)/∂pⱼ = yⱼ(p, w)
ΔPS = ∫{p₀}^{p₁} y(p, w) dp
max{x,y,t} W(u₁(x₁), ..., uₙ(xₙ))
subject to:
1. Σ{i∈E} xᵢ = Σ{i∈E} wᵢ + y
2. y ∈ Y
3. xᵢ ∈ arg max{xᵢ∈Xᵢ} {uᵢ(xᵢ) : p · xᵢ ≤ wᵢ + tᵢ} for all i ∈ E
4. Σ{i∈E} tᵢ = 0 (予算均衡条件)
構造主義的視点をさほど重んじない実存主義者なので、自己責任論とはまた違うベクトルで苦悩の根源を自分の内面に求めがち。
それはそれとして、どこぞのボンボン生活を送ってた奴が欲は虚しく、果てしなく、苦悩をもたらすばかりとか天空目線で言うのは腹立つ。
おれは満たされた状態を経験してないんだから、その虚しさをこの身体で体験してもいなければそこに納得もない訳。
行き着く先がミニマリズムだったとて、まずは欲しいと思ったもの全てを買い漁る体験をしたい訳。それを続けて最終的には空虚さを感じるにしたって、そこをすっ飛ばして過剰な所有は無駄とか言った所で負け惜しみにしか感じられないの。
やりたい事をやりまくって最終的に飽きて虚しさが残るだけだとしても、その過程には確かな満足と納得があるはずじゃん。そうやって物事の感じ方が揺れ動く中でも瞬間瞬間に感じる喜びこそが人生唯一にして最大の意義だとしか信じられねえの。
欲捨てたら死んでんのと同じ。
身体が死んでる事より心が死んでる事の方が許せねえのおれは。
欲を捨て去った後の価値規範じゃその判断は正当化されねえのかもしれねえ。気の迷いだったと断じられるのかもしれねえ。
でも今この瞬間のおれは決して無欲な生き方なんて許せねえんだっつってんの。
優勝の京都国際、8割が日本国籍 男子9割野球部 韓国語能力試験必須 前身は京都朝鮮中
いま一番人気のぶコメ
ネット民のヘイトを煽る意図を詰め込んだようなタイトル。年端もいかない高校生への脅迫や中傷を助長するどころか全力支援するような記事書いて恥ずかしくないのだろうか。「産経だから」で許される次元を超えてる。
だとさ。
あのね、当然ながらそういう沿革を持つ学校の優勝が許せないという直球の差別者はいるだろう。そういう何言っても無駄な輩にとって産経のこの記事は全くヌケないどうでもいいものでしかないよ。
そして「ちょっとめずらしい事態らしいな、なんだか知らんが、そこに何かけしからん要素があるのか?あったら許さん」という、差別にもどうにでも転びうる層もいる。
そういう人にはこうやってサクッと一通りの事実を食わせるのが何よりの薬だ。
腹減らしたまま置いとくと危ないからな。
「事実のピックアップの仕方でも差別はできる!産経は差別してる!」一般論としてそれは可能だけど、この記事はむしろ逆ベクトルだよ。
どう書いてれば満足なんだ?
もし仮に半島ルーツの選手が多くいたとしても、そのことにケチつける奴がそんなにいるとも思えないけどね。張本や金本はスターだったし。
実際はただ野球がしたい日本人選手がほとんどだが、韓国が喜ぶのもまた別に変ではない。なんかちょっとでも自分と縁を見つけて感情移入するのは高校野球観る姿勢としてごくスタンダードだし。
論文: https://www.ams.org/notices/199502/saari.pdf
この論文は、経済における価格調整プロセスが数学的にどれほど複雑で予測困難であるかを示す複数の定理を扱っている。以下は、論文に登場する主な定理とその数式の要約である。
内容: SMD定理は、エージェントの数 a ≥ n であれば、価格シンプレックス上のどんな動的挙動も再現できることを示している。これは、どのような複雑な振る舞いが選ばれたとしても、それを再現する過剰需要関数が存在することを意味する。
Fε : [U × ℝ₊ⁿ]ᵃ → Ξε(n)
この結果は、アダム・スミスの「見えざる手」の物語が数学的に保証されないことを示唆している[19:6][19:1]。
内容: 価格シンプレックス上のベクトル場 ξ(p) が価格均衡 p* を持つことを示す。
ξ(p*) = 0
この不動点は、供給と需要が一致する価格である。この定理により、価格均衡の存在が保証されるが、価格が均衡に向かって収束するかどうかは別問題である[19:12]。
内容: 価格動態は次のように表される。
p' = ξ(p)
その離散版では、次の式が使用される。
pₙ₊₁ = pₙ + hξ(pₙ)
このモデルは、価格調整がカオス的な挙動を示す可能性があることを示し、均衡価格への収束が保証されないことを指摘している[19:11]。
内容: n ≥ 2 の場合、次のような一般化された価格メカニズムは存在するが、それが常に収束することは保証されない:
pₙ₊₁ = pₙ + M(ξ(pₙ), ξ'(pₙ), …, ξ⁽ˢ⁾(pₙ))
任意の過剰需要関数や初期条件において、収束しないケースが必然的に存在する。したがって、普遍的な価格調整メカニズムの実現は不可能であるとされている[19:0][19:3]。
作家側の「女の自由・解放」「強い女」に対するだいぶ攻撃的ですらある固定観念や強迫的なこうだろ?感が透けすぎててつらい、という話だったらよくわかる
ハイスペ男になぜか愛される系健気な私スカッと作品とあんまり違いがないくらいもうど定番中のど定番展開になってるから不自由に感じるんだと思う
女性向けのエンパワメント作品にも類型や定型ができてしまって、しかもそれは共感がベースになっているのでその型から外れない、外れてはいけない、女性だったらきっとわかるしわからなくてはならないでしょ?という感じが現実と作中のキャラクタと二重構造になってこちらに迫るのでそこに苦しさをおぼえるのだという気がする
みんなバービーやジェーンスーさんのラジオを聞いているのだろうかしら…みたいな作品に通底した匂いや感触みたいなさ
こういうものも多分話売りとか商業的な媒体であればあるほどある程度はトレンドがあるもので、仕方ない気もするけどね
最近ラジオで流れてたキンチョーの朗読ドラマ仕立てのCMで、意思も人格もしっかりありそうな女性の描写なのに「男と別れて髪を切る」の類型を結局まだやらせていてうへっとなったものだけど、要するに「女には思いを込めて断ち切るものや変化するステップとしての行為があるのだ」という類型がだいぶ強い思いこみに感じるし押しつけがましくて、変化のスタイルや本人の感情や動機のベクトルがどの向きであれ「キャラクタにこの思想をやらせよう」が隠しきれてない場合にはどれもあんまり根っこが変わんないよな……って嫌さがあるのかな
同一パターン外の物語が見つけづらいだけであるにはあるのだと思う
入江喜和とかわりとそうかな
他トラバの凪のお暇もそうかも
(結局テーマ作りや演出の巧い作品では類型もそのキャラクタの行動の一部として不自然とは感じられず、類型を描くことそのものが目的になっていることがはっきりしている拙い作品では目や鼻についてしまうだけの話かな…とも思う)
漫画じゃないんだけどインド映画「マダムインニューヨーク」はこの「一歩踏み出し、冒険をして自分を認めて、自分が欲しいものはただ敬意なのだと表に出せるようになる」ことへの変化をとてもすっきり美しく清々しくスカッとでもなく描いていてとてもすばらしいと思ったものだった
打ち負かすか逃走か、自己の獲得において常にその二つの道しかないわけではない、という広がりが気持ちを楽にさせてくれた
追記2
ともすれば髪型を「強く」変えることが積極的な自由選択からではない虚勢や逃避に見える場合があることも苦しさの一因かもしれない
そんな小さな変化にしか我々には自由が許されてないのか……みたいな、あるいは増田が書くようにこれまでの自己を捨て去って獲得する自由の道しかないみたいな、そんな現実にも確実にある抑圧の強さをよりわかりやすく感じさせる痛々しい、息苦しい描きかたの漫画もあるしね(読み手としてそれに触れたときつらくて苦しいことがあり、その感情の正体を元増田を足がかりに考えてみたい…というだけのことで、こちらの思うとおり描けとかやめろとか納得できないとはまったく書いていないので、そこを曲解されると非常に困ります)
基本的にそういう作品世界のキャラクタは自分を追い詰める敵と闘争(なのでトーンが攻撃的になるのは当然と言えるかも)してるわけで、その動機から本来理由がなくともカジュアルに、自分の好きにしていいはずの髪型の変化自体が武器化武装化手段化してしまうのを目の当たりにしなきゃならない苦しさもあるかなあ……
そのもがきや闘争はつまりスタイルの獲得のためで、それ以前は自己のスタイルがない状態として物語に規定されている上に、変化後のパターンすら概ね決まってしまっているのならば、結果その一本道しかないその状況や環境に苦しさを見出すのは当然かもな…という気もする
追記3
誰もが菱沼聖子さんのように生きられるといいのに
私は誰かを見下したりせず、敬意を持ち、尊敬する、ということをモットーに生活している
増税メガネなどと揶揄されることもあるが、総理大臣に上り詰めるだけの努力や人望、運否天賦もあったのだろう
例えば土木作業員、熱い、寒い、雨風にも負けずインフラなどの生活環境を整えてくれる
誰でもできる、と笑う人も居るが、その人が歩いている道は誰が作った?
住んでいる家は?着ている服を売っている店を作ったのは?
例えば私の上司、家族からも信頼され、私では到底取得できそうにない国家資格を持っている
居眠りなども見受けられ仕事ぶりは、まぁ・・・。という感じだったが納期を守り、私の質問にも答えてくれる
原因はくだらないことであるし、私にも悪いところがあるのは重々承知している
これは中立の方の意見を聞かないと判断しようが無いので私は、どちらかが一方的に悪い!と断言できない
だが、こんなくだらないことで言い合いになるなんて・・・。と私自身と上司に対する尊敬度合いみたいなものが下がってしまった
それと同時に私のモットーも崩れ去ったような気がした
Σₖ pₖ S(ρₖ) ≤ S(ρ)
S(ρ) ≤ S(ρ ◦ E)
ここで、S(ρ) は密度行列 ρ のエントロピー、pₖ はそれぞれの観測結果の確率、E はデコヒーレンスを表す行列である。
ρ → ρₖ = (Pₖ ρ Pₖ) / pₖ
pₖ = tr(Pₖ ρ)
ここで、Pₖ は完全直交射影演算子の集合であり、Σₖ Pₖ = I を満たす。また、エントロピーは一般に凹関数 h(x) を用いて次のように定義される:
S(ρ) = tr[h(ρ)]
⟨S⟩ = Σₖ pₖ S(ρₖ) = Σₖ pₖ tr[h(ρₖ)]
この期待値が初期状態のエントロピー S(ρ) よりも小さい、すなわち次の不等式が成り立つことを示す:
Σₖ pₖ S(ρₖ) ≤ S(ρ)
主要化とは、あるベクトル λ が別のベクトル μ を主要化する (λ ≺ μ) とき、次の不等式が成り立つことを意味する:
Σᵢ h(λᵢ) ≤ Σᵢ h(μᵢ)
ここで、λ(ρ) は密度行列 ρ の固有値のベクトルである。もし λ(ρₖ) ≺ λ(ρ) が成立するならば、観測後のエントロピー S(ρₖ) が元のエントロピー S(ρ) よりも小さいことが示される。
ρₖ = (Pₖ ρ Pₖ) / pₖ
pₖ = tr(Pₖ ρ)
Σₖ pₖ S(ρₖ) = Σₖ pₖ tr[h(ρₖ)]
3. 一方で、元のエントロピー S(ρ) は次のように表される:
S(ρ) = tr[h(ρ)]
4. ここで、主要化の結果を利用すると、次の不等式が成り立つ:
λ(ρₖ) ≺ λ(ρ)
5. この不等式に基づき、次のエントロピー不等式が得られる:
Σₖ pₖ S(ρₖ) ≤ S(ρ)
これにより、観測後のエントロピーが元のエントロピーよりも小さいことが証明された。
ρ → ρ ◦ E
ここで、E はデコヒーレンス行列で、その要素は Eᵢⱼ = ⟨εⱼ | εᵢ⟩ である。この操作はSchur積と呼ばれ、行列の対応する要素ごとに積を取る操作である。
デコヒーレンス後のエントロピーが増加することを次の不等式で示す:
S(ρ) ≤ S(ρ ◦ E)
この証明も、主要化の結果に基づいている。具体的には、次のように進める:
1. デコヒーレンス後の密度行列 ρ ◦ E の固有値ベクトル λ(ρ ◦ E) が、元の密度行列 ρ の固有値ベクトル λ(ρ) を主要化する:
λ(ρ ◦ E) ≺ λ(ρ)
2. 主要化に基づき、次のエントロピー不等式が成り立つ:
S(ρ) ≤ S(ρ ◦ E)
これにより、デコヒーレンスがエントロピーを増加させることが証明された。
Σₖ pₖ S(ρₖ) ≤ S(ρ) ≤ S(ρ ◦ E)
多世界解釈を抽象化する。以下では、カテゴリー理論や代数的構造を取り入れた視点からアプローチする。
量子系はカテゴリー 𝐇𝐢𝐥𝐛 の対象であるヒルベルト空間 𝐇 によって記述される。ここで、射はユニタリ作用素であり、状態は対象のベクトルとして扱われる。
観測者を含む系全体はテンソル積 𝐇_𝐭𝐨𝐭𝐚𝐥 = 𝐇 ⊗ 𝐇_𝐨𝐛𝐬𝐞𝐫𝐯𝐞𝐫 によって記述される。このテンソル積は、カテゴリー 𝐇𝐢𝐥𝐛 におけるモノイド構造を形成する。
状態 |Ψ⟩ は、ヒルベルト空間の対象として、直和 ⊕ によって表現される。
|Ψ⟩ = ⊕_i c_i |ϕ_i⟩
観測者の状態 |O⟩ も同様にテンソル積の対象として扱われる。
観測プロセスは、モノイド射としてのテンソル積を用いて次のように表現される。
|Ψ_𝐭𝐨𝐭𝐚𝐥⟩ = ⊕_i c_i (|ϕ_i⟩ ⊗ |O_0⟩) → ⊕_i c_i (|ϕ_i⟩ ⊗ |O_i⟩)
ここで、|O_i⟩ は観測者が結果 i を観測した後の状態である。
観測者の知識による分岐は、ファイバー束の概念を用いて抽象化できる。各観測結果に対する分岐は、ファイバーとして異なる基底を持つ束のように扱われる。
ボルンの規則に基づく確率は、射の重みとしてカテゴリー内で扱われる。具体的には、射のノルムとして次のように表現される。
P(i) = ‖c_i‖²
この確率は、観測者がどのファイバーを経験するかの確率として解釈される。
この定式化により、多世界解釈はカテゴリー理論と代数的構造を用いて、観測者の知識がどの世界に分岐するかを決定する要因として数学的に表現される。
観測者の状態と系の状態がテンソル積を通じて絡み合うことにより、知識の更新が世界の分岐を引き起こすという視点が強調される。
ヒルベルト空間は無限次元の線形空間だが、射影ヒルベルト空間として有限次元多様体のように扱うことができる。射影ヒルベルト空間 P(H) は、ヒルベルト空間 H の単位球面上のベクトルをスカラー倍による同値類で割った空間であり、量子状態の集合を位相的に解析するための空間だ。局所座標系は、例えば、正規直交基底を用いてチャートとして定義され、局所的にユークリッド空間に似た構造を持つ。この構造により、量子状態の位相的特性を解析することが可能となる。
スキーム理論は代数幾何学の概念であり、ヒルベルト空間においては作用素環を通じて状態空間を解析するために用いる。特に、自己共役作用素のスペクトル分解を考慮し、各点を極大イデアルに対応させる。このアプローチにより、量子状態の観測可能量を代数的にモデル化することができる。例えば、観測可能量としての作用素 A のスペクトルは、A = ∫ λ dE(λ) という形で表され、ここで E(λ) は射影値測度である。これにより、量子状態の代数的特性を解析することが可能となる。
ヒルベルト空間における射は、線形作用素として表現される。特に、ユニタリ作用素 U: H → H は、U*U = UU* = I を満たし、量子力学における対称変換を表す。これにより、系の時間発展や対称性を解析することができる。射影作用素は、量子状態の測定を表現し、観測可能量の期待値や測定結果の確率を計算する際に用いられる。これにより、量子状態の射影的性質を解析することが可能となる。
ヒルベルト空間のコホモロジーは、量子系のトポロジカル不変量を解析するための手段を提供する。例えば、ベリー接続 A = ⟨ψ(R) | ∇ | ψ(R)⟩ やベリー曲率 F = ∇ × A は、量子状態のパラメータ空間における幾何学的位相的性質を記述する。チャーン数は、∫ F により計算され、トポロジカル不変量として系のトポロジカル相を特徴付ける。これにより、量子系のトポロジカル特性を解析することが可能となる。
ヒルベルト空間の基底を用いて、空間を再構築する。直交基底 { |e_i⟩ } は、量子状態の展開に用いられ、|ψ⟩ = Σ_i c_i |e_i⟩ と表現される。これにより、状態の表現を簡素化し、特定の物理的状況に応じた解析を行う際に有用である。例えば、フーリエ変換は、状態を異なる基底で表現するための手法であり、量子状態の解析において重要な役割を果たす。
ヒルベルト空間における構造を保つ変換は、ユニタリ群 U(H) として表現される。これらの群は、量子系の対称性を記述し、保存量や選択則の解析に利用される。例えば、回転対称性は角運動量保存に対応し、ユニタリ変換は系の時間発展や対称性変換を記述する。これにより、量子系の対称性特性を解析することが可能となる。
ヒルベルト空間は、内積により誘導される距離を持つ完備距離空間である。具体的には、任意の状態ベクトル |ψ⟩ と |φ⟩ の間の距離は、||ψ - φ|| = √⟨ψ - φ, ψ - φ⟩ で定義される。この距離は、量子状態の類似性を測る指標として用いられ、状態間の遷移確率やフィデリティの計算に利用される。これにより、量子状態の距離的特性を解析することが可能となる。
今は知らんけど、俺の頃は文系でも高校では数学ⅡBが必修だったから、微分と行列とベクトルはやってたぞ。もちろん旧帝大とかは文系でも入試で数学ⅡBまでが範囲になってた。
https://anond.hatelabo.jp/20240818145106
頼んだ仕事そっちのけで自前の「ゲームエンジン」とか作り始める奴。
専門家でもない人間が即席で作った「ゲームエンジン」なんてもちろん使い物にならないので頼んだ仕事を進めてくれってお願いするんだけど、すると「お前は『本物の』ゲームプログラミングが解ってない!」とか発狂すんの。
その過程で大学レベルの数学がどうとか物理がどうとかコンピューターサイエンスがどうとかも言うんだけど、ご本人は高卒だったり専門卒だったり「電気」とか「通信」とか名前に付く大学の大学院まで行ったけど中退してたりして、よくよく聞いてみるとベクトルとか集合とかの高校レベルの数学も怪しかったりするのが定番。
結果として頼める仕事がなくなって(まともな若手に頼めば2日で上げてくる仕事に2か月かけた上に、ゲームエンジンもどきを上げてきて発狂したりするんだから当たり前)、多くの人が退職(粘った人はリストラ)になって、2010年代には自分のまわりからはこのタイプの「プログラマー」はほぼいなくなったんだけど、あの人たちって今どこで何やってるんだろう。
元増田もいまどこで何やってんの?
コンピュータ・サイエンスで取り組まれている問題の一覧を紹介しよう。
多世界解釈(MWI)における量子力学の波動関数とその幾何学的表現を考慮し、数理モデルを示す。
量子状態はヒルベルト空間 𝓗 のベクトルとして表される。波動関数 |ψ⟩ はこの空間の要素であり、時間発展はシュレーディンガー方程式
iℏ ∂/∂t |ψ(t)⟩ = H |ψ(t)⟩
によって記述される。ここで、H はハミルトニアン演算子である。観測が行われると、MWIでは波動関数が収縮せず、代わりにヒルベルト空間内での分岐が生じる。この分岐は、異なる固有状態への射影として表現される。
観測による分岐は、波動関数の射影演算子 Pᵢ を用いて次のように表される:
|ψ⟩ → Pᵢ |ψ⟩ = cᵢ |ϕᵢ⟩
ここで、|ϕᵢ⟩ は観測の結果に対応する固有状態であり、cᵢ はその確率振幅である。
次に、MWIにおける幾何学的構造を考える。各分岐は、ヒルベルト空間内の異なる方向への射影として捉えられ、これにより多次元のファイバー束のような構造が形成される。ファイバー束 E は基底空間 B 上に定義され、各ファイバー Fᵦ は異なる分岐に対応する:
E = ⋃ (b ∈ B) Fᵦ
観測によるエントロピーの低下は、観測者の視点から情報が特定されるために起こる。量子エントロピーは、フォン・ノイマンエントロピー
S(ρ) = -Tr(ρ log ρ)
によって定義される。ここで、ρ は密度行列である。観測により、観測者が特定の状態を経験することで、情報が増加し、エントロピーが減少するように見える。
このように、MWIにおける時空の分岐とエントロピーの変化は、量子力学の波動関数の幾何学的性質と深く結びついている。各分岐は、ヒルベルト空間内の異なる方向への射影として捉えられ、これにより多次元の幾何学的構造が形成される。観測によるエントロピーの低下は、観測者の主観的な情報増加として理解され、全体のエントロピーは保存されるか増加するという量子力学の基本原則に従う。
今日はええ天気やなぁ。東北は雨ザーザーらしいけど、こっちはええ感じやで。ほんなら、SO(3)っちゅうのが何なんか、ちょっと考えてみよか。
量子力学っちゅうのは、ミクロの世界を説明するための理論で、抽象数学のいろんな分野とガッチリ結びついてんねん。
特に、線形代数や群論、リー代数、微分幾何学なんかが重要な役割を果たしてるんやで。
例えば、空間の回転対称性は特殊直交群 SO(3) で表されるっちゅう話やね。
SO(3) は、三次元空間での回転を記述する群で、回転を合成してもまた回転になるっちゅうことで、群の構造を持ってるんや。
この群の性質を理解することで、角運動量の保存則やスピンの性質を説明できるんやで。
SO(3) はリー群の一例で、リー代数はその接空間として定義されるんや。
リー代数は、群の局所的な性質を記述し、量子力学における角運動量演算子の交換関係を表すんや。
リー代数の構造定数は、演算子の交換関係を通じて、物理的な対称性を反映してるんやで。
量子力学では、物理系の状態はヒルベルト空間上のベクトルとして表されるんや。
群の表現論は、これらの状態がどんなふうに変換されるかを記述するための数学的な枠組みを提供するんや。
特に、SO(3) の既約表現は、整数または半整数のスピン量子数によって特徴付けられ、スピン j の表現は (2j + 1) 次元の複素ベクトル空間上で作用するんやで。
微分幾何学は、量子場理論におけるゲージ理論の基礎を提供するんや。
ゲージ理論では、場の局所的な対称性が重要で、これが微分幾何学の概念を通じて記述されるんや。
例えば、ファイバー束や接続形式は、ゲージ場の数学的記述において中心的な役割を果たしてるんやで。
量子力学の数学的抽象性は、古典的な直感とはちゃう現象を説明するために必要不可欠や。
観測問題や波動関数の確率解釈、量子もつれなんか、これらの現象は、抽象数学を駆使することで初めて理解できるんや。
特に、ヒルベルト空間の理論や作用素代数は、量子系の解析において重要な役割を果たしてるんやで。
多くの研究者が、脳はおそらく他のもののなかでもベクトル処理装置であると独自に結論付けている。
統合失調症患者によるある論理的課題の処理における既知の異常と照らし合わせて、彼らは常識的な論理ではなく、脳に内在する論理を使わざるを得ず、
この論理は線形的あるいは量子論的であると仮定すると、これらの異常やその他の異常を解決することができるという。
人間の脳は、「古典的」論理やアリストテレス論理ではなく、線形論理の命令に従って内在的な論理演算を行うという考えを支持する。
もしそうだとすれば、常識的な論理は経験や文脈の構築を通じて身につけなければならない。
患者にはこの能力が欠けているようで、その結果、量子論的で特定の作業により効率的な内在論理に頼らざるを得なくなる。
さらに、統合失調症との関連で議論されてきた、人間の思考につきもののフォン・ドマルス型の誤りへの傾向も、これに基づいて説明される。
今日は「幸福の資本論」を数学的に定式化することに挑戦してみたんやけど、これがほんまに奥深いテーマやわ。
この理論は、幸福を「金融資本」「人的資本」「社会資本」の3つの資本で説明してるんやけど、これを数学的に表現するのはなかなかの挑戦や。
まず、幸福を数式で表現するために、3つの資本をそれぞれ F(金融資本)、H(人的資本)、S(社会資本)とするやろ。
ほんで、幸福 U(utility)を求める関数を考えると、次のような多変数関数で表せるんちゃうか?
U(F, H, S) = α ⋅ log(F + ε) + β ⋅ log(H + ε) + γ ⋅ log(S + ε)
ここで、α, β, γ は各資本が幸福に与える影響の重みや。ε は、資本がゼロのときでも対数が定義できるようにするための小さな定数や。
例えば、資本が増えると幸福も増えるけど、その増え方は次第に鈍化する、
これを対数関数で表現することで、現実的なモデルになっとるわけや。
さらに、8つの人生パターンを考慮するためには、各資本の重み α, β, γ をパターンごとに変える必要があるんや。
これを行列で表現すると、人生パターンごとに異なる重みベクトル wᵢ = (αᵢ, βᵢ, γᵢ) を用意して、幸福関数を次のように拡張できるで:
Uᵢ(F, H, S) = wᵢ ⋅ [log(F + ε), log(H + ε), log(S + ε)]ᵀ
ここで、i は人生パターンのインデックスや。このようにして、個々の人生パターンに応じた幸福の計算ができるようになるんや。
さらに、これを最適化問題として考えることもできるで。例えば、限られたリソースをどの資本に配分するかを考えるとき、次の制約付き最適化問題を解くことになるんちゃうか?
maximize Uᵢ(F, H, S)
subject to C(F, H, S) ≤ B
作品が似てるだけで「パクリパクリ!犯罪犯罪!筆折れ筆折れ!」と囲んで叩いてるの。
何も反省してないんだなあ。
青葉という異常者が特別なだけだと思っているんだなあ。
誰もが引き起こしうる「ネタ被りに対して人類が発揮する異常なまでの不寛容さが引き起こす理不尽な暴力の恐怖」について他山の石を持ち帰ってこれた人間がこんなに少ないとは。
自分の頭をゲンコツでぶっ叩かれるまで何も脳みそに詰め込めない間抜けばっかなんだな・・・。
失望するのにもいい加減疲れました。
厚生経済学の基本定理を多様体の言葉で定式化することにより、経済的効率性と市場均衡の概念を幾何学的に表現することができる。以下にその試みを示す。
厚生経済学の第1基本定理は、「完全競争市場において、すべての市場均衡はパレート効率的である」というものである。これを多様体の言葉で表現する。
消費者の選択空間を多様体 𝑀 とする。ここで、各点 𝑥 ∈ 𝑀 は異なる消費バンドルを表す。消費者の効用関数は、𝑈: 𝑀 → ℝ として定義され、多様体上で滑らかな関数とする。
生産者の技術集合を多様体 𝑁 とし、各点 𝑦 ∈ 𝑁 が異なる生産計画を示す。生産技術は、技術制約関数 𝑇: 𝑁 → ℝⁿ により記述される。
市場均衡は、消費者と生産者の選択が整合する点として、多様体 𝑀 × 𝑁 上の点 (𝑥*, 𝑦*) により表される。この点は、需要と供給が一致し、価格ベクトル 𝑝 により支持される。
パレート効率性は、選択空間 𝑀 と技術空間 𝑁 上の接ベクトル場により定義される。具体的には、任意の改善方向が存在しないことを意味し、接ベクトル場がゼロとなる点 (𝑥*, 𝑦*) がパレート最適である。
厚生経済学の第1基本定理を多様体の言葉で表現すると、以下のようになる:
定理: 多様体 𝑀 × 𝑁 上の市場均衡点 (𝑥*, 𝑦*) は、接ベクトル場がゼロとなる点であり、パレート効率的である。
この定式化により、厚生経済学の基本定理を幾何学的に理解することが可能になる。
市場均衡がパレート効率性を持つことは、選択空間と技術空間の接ベクトル場の観点から、改善の余地がないことを示している。
digraph WelfareEconomics { node [shape=ellipse]; // Nodes for main concepts M [label="選択空間 (M)"]; N [label="技術空間 (N)"]; Utility [label="効用関数 (U)"]; TechConstraint [label="技術制約 (T)"]; MarketEquilibrium [label="市場均衡"]; ParetoEfficiency [label="パレート効率性"]; Cohomology [label="コホモロジー条件"]; // Edges to show relationships M -> Utility [label="スカラー場"]; N -> TechConstraint [label="技術写像"]; M -> MarketEquilibrium; N -> MarketEquilibrium; MarketEquilibrium -> ParetoEfficiency [label="接ベクトル場"]; MarketEquilibrium -> Cohomology [label="整合性保証"]; ParetoEfficiency -> Cohomology [label="ホモトピー同値"]; } |<
ベクトルは違うけどくだらんことは考える
正直嫌だけど、でもそれはこれとは別のベクトルで嫌かな