はてなキーワード: ももちとは
いわゆる機能不全家族で育った。
男尊女卑、学歴至上主義、DVあり、時々命の危険を感じるなどまあそれなりの家庭だったけど、20代半ばで結婚して、縁を切った。結婚して名乗ったのは、夫の姓だった。
改姓する前の私は心身が非常に不安定で、何よりまともな人間が一人もいない家庭で育ったせいで、もれなくまともでなかった。人との適切な距離感がわからず、様々なハラスメントを繰り返し、沢山の人を傷つけた。今でも毎日思い出して風呂場でウォォォアアー!!ってなってる。
常識的な家庭に育った夫から学び、今ではだいぶマシになったと思う。少なくとも飲み会でネタにされるような「ヤバい人」の域は脱したと思う。
結婚による改姓は、家族と絶縁したい、「ヤバい人」だった自分と決別したい私にとって、最高にプラスに働いた。
職場では、入籍の翌日からすぐに周囲に新姓で呼ぶようお願いした。SNSでの旧姓併記ももちろんなし。
銀行や各種アカウントの手続きも一つ一つ、自分を苦しめた家庭の証拠を消すつもりで、行っていった。
やっと、本当の自分になれた気がした。夫の姓は、「自分で選んだ」姓だから。
日本がもし、結婚しても改姓はできず、「改姓は生家の絆を壊す行為」という論調が溢れている世の中だったら、私は絶望したと思う。
「たまたま制度が自分の選択に合っていた」という立場で、選択的夫婦別姓の実現を願う人たちを眺めている。
今でも古くからの知り合いに偶然会って旧姓で呼ばれようなら、耐え難い違和感に背筋がゾッとする。
生まれ持った姓にアイデンティティを感じる人からすれば、配偶者の姓で呼ばれる方がこの感覚に近いんだろうな、と想像する。
より多くの人が、「自分で選ぶ」ことのできる社会になることを願う。
あ、あと、黒歴史辛い人は改姓おすすめです。何も言わずに旧姓の痕跡なくせば、面白いくらい古い縁が切れる。あ、でも名前が平凡な場合だけかも。
なので、夏が近づくと大半の女性はその影の中で信号待ちをしている
と、ここまではまぁギリいいんだけど
その陰になってる部分が狭い歩道なのね
そこに5~8人ぐらいの女が広がって、歩道を詰まらせるように立っている
まじで後ろから来る人のこと何も考えないのな
横断歩道渡らず角を曲がっていくだけの人ももちろん通る道なのに
その人たちの邪魔になることをまったく気にしない
みんなわざわざ車道に降りて避けて通っていく
夏場は毎朝のようにこの光景を見る
そういうのを見てると
あーそのヒット曲からこのバンド知ったの?俺は違うよ、そのバンド名出すとそのヒット曲の名前出すのやめてくれない?ってやつだね
気持ちはわかるけど、ウマ娘がなければ一生思い出さない記憶を思い出して、それはありがたくて懐かしくもあったな
ずーっと継続的に追いかけてるファンはそうでもないのかもしれないけど、何年かに一度、話題の時に競馬は触れるような感じだった俺からはそうだった
俺はエルコンドルパサー、グラスワンダー、セイウンスカイは知ってたけど、スペシャルウィークは知らなかった
ウマ娘でエルコンドルパサー見て、あー当時、凱旋門の話を兄貴が興奮して親に話してたよなーとか思い出してた
ライトファンだったから、馬名を聞くとレースよりも当時の人を思い出すんだよね
中学の時、高校の文化祭見に行った時に親にタイキシャトルどうだった?って聞いた思い出とか
中学のクラスで、明後日のフェブラリーステークス見ろよ!って言われた思い出とか
タイキシャトルの引退レースで岡部の追いが遅くて、って話してた友人とか
国語の先生が、マチカネフクキタル!こんな面白い名前の馬がいて、マチカネフクキタル!ってなんか授業中に言ってたわ、とか
ディープインパクトがハーツクライに負けた有馬の時当たった馬券を梅田のウィンズで引き換えてデート資金にしたこととか
私は自分に自信がなくて、ちょっとしたことですぐに不安になる。そしてそれを、相手にぶつける。
昔はこんな感じではなくて、きっちり相手にぶつけてはいけないことを理解してぐっと堪えているような子だったと思うのだけれど、いつからかそこがぐるりと変わってしまった。
理由は漠然としかわかっていないけれど、たぶん、人生で最初に付き合った人の影響かもしれない。
その人は最初はとてもいい人だったのに、付き合って半年も経つと本性があらわになったのか(この言い方が正しいのかは、今でも正直わからない。それくらい豹変の仕方がすごかったから)、立派なDV男に変わってしまっていた。
私はそのとき、まだ15歳。恋愛経験なんてない二次元オタクだったし、こんなものなのかなあと、私はすっかり馬鹿なので信じきってしまっていたのもある。
ちょっとした違和感から気付けば日常的な殴るけるの暴力にまで発展していって、私は処女もその人にレイプで奪われた。大好きなアニメの大好きなキャラクターのステッカーを携帯に貼っていたら、すべて目の前で捨てろと言われて泣きながらはがして捨てたこともある。
私はそれから、何かを犠牲にすること、してもらうことが、愛情表現なんだと思ってしまった。
何をされてもずっと好きだった。2年ほど付き合って、私から別れたけれど。
それからというもの私は誰を好きになってもうまくいかなくって、ありがたいことに好きになった人とは絶対に付き合えたし、出会う男性は大体私に好意を抱いてくれたけれど(すごい自慢みたい)誰一人として続かなかった。
1か月で別れたり、1年近く付き合っても不満もなければ好きの気持ちもない、みたいな感じで別れてしまったり。
今思うと全員、本当に本当にやさしくて私のことを大好きでいてくれたのに、当時の私はなぜかそれがまったくわかっていなくて、心の中で時々思い出しては謝ったりする。私は好きでいてくれるということがどんなことか、本当にわかっていなかった。今もだけれど、今よりももっと。
そんな私は今お付き合いしている彼がいて、もう本当にその人が好きで好きで仕方なくて、人生で一番好きになった人だと言い切れるくらい大好きなのだけれど、私はその人をずっとずっと傷付けている。
私の過去や面倒な性格を全部知ったうえで好きになってくれて、私に寂しい思いをさせないように、不安にさせないように、おくるみに包まれた赤ん坊を抱くみたいに私を大切にしてくれている。
わかっているのに、足りない。自分でも意味が分からない、理解不能なくらい、なぜか足りない。
私のために尽くしてくれていることより、私は私のために何かを犠牲にしてくれているということでしか、愛を実感できない。ずっとそうやってきたから。
言われたものは捨てたり、見ないようにしたり、好きなものを犠牲にしたら「ありがとう」と言ってもらえた。「それくらい好きでいてくれてうれしい」って、一番最初に付き合ったあの人に。
だから私も同じようにその人の大切なものをたくさん捨てさせた。そもそも無趣味な人だったから、捨てさせるものもそんなになかったけれど。
それが染みついてしまって、何か好きなものを大切にしながら、人を愛すということが、私には理解ができない。本当にできない。
すべての欲が、興味が、どんな意味での好意であっても、何もかもが私に向いていないとそれは愛だと思えない。大切な人の好きなものが心底嫌いで、憎悪の対象になってしまう。
普段からずっとそう思っているわけではないのだけれど、なんというかスイッチみたいなものがぴんと入ってしまった瞬間、私は別人になってしまう。自分でも怖いと思うくらい、自分で自分が制御できない。
相手を傷付けるような、追い詰めるような、自尊心を失わせるような最低な言葉がすらすらと出てきて、まるでそのときの私は悪魔みたいだと思う。相手からしたら、心底私のことが怖いのではないだろうか。
そういうときの私は相手からどんな言葉が返ってきてもダメで、解決策は、相手が私のために何かを犠牲にしてくれることだけ。そうならない限りもう怒りも、悲しみも、何もおさまりがつかない。
相手から電話を切られて、そのあとは、普通に生活した。終わらせないといけない仕事も終えたし、ご飯も食べて、家族と談笑もした。
あんなに大切な人を傷付けたのに。考えると涙が出るのに。
一緒にいても傷付けるだけだから、離れた方がいいと本当に思った。私のこんなダメな部分を直す努力をするのは当然の話だから開き直りとかそんなものではなくて、ただただ心から、いつこうなってしまうかわからない自分が自分でも怖くて、もう疲れてしまった。
なんで満足できないんだろう。こんなに私のことを考えて大切にしてくれているのに。わかってるし全部伝わってるのに。なんでなのかわからない。つらい。
彼が今日あんなに苦しんだのだって、私から責められたことももちろんだけど、何度も何度も「こんな思い挿せる自分がだめなんだ」って泣いてたから、そういう理由なのに。満足できない私が悪いのに。
そうやって離れた方がいいと思ってそれを伝えたら、またそれが彼を傷付けた。一緒にいるために頑張ってくれないんだって、違うんだよ。また遠ざけられて離れていくんだって、そういうことを言わせたいわけじゃないんだよ。
もう何年も前のこと、前の人を引き摺っているのかこんな自分になってしまって、今の彼に向き合えていないのは私の問題でしかない。
そもそもこんな私だって、一番最初に付き合ったあの人のせいでそうなったのかな。違うかもしれない。もともと私はこういう頭のおかしいやつで、それがあの人と付き合ったことでわかるようになっただけなのかも、と思う。
自分に自信がないから不安になるとか言っておいて、それだけ何かを犠牲にしてもらえる価値があるからきっと相手にそれを求めるんだ。
大切な人の好きなものを否定したり、奪ったりしたくない。私も私の好きなものを大切にして、全部ひっくるめて一緒にいたい。こんな不安定な、何かを捨てたりしなきゃいけないような恋愛なんて長続きしないことは私が一番わかっていて、だからこそ今回は穏やかにただ大切にするだけの恋をしたかった。
冷静なときの私はそういうの全部わかってるのに、私がふたりいるみたいで、自分が怖い。気持ち悪い。
私は優しい彼が私を大切にしてくれるたび、あなたはこんなに人を大切にできる素敵な人だよって思ってほしかった。彼は私なんかよりよっぽどやさしくていい人なのに、自分に自信のない人だから。
だめだって落ち込まないで生きていってほしい。もっと自信をもって、笑って、楽しく生きてほしい。つらいこと、苦しいことがひとつでも少ない人生を送ってほしくて、そのために大切にするねって約束したのに、破ってるのは私。
大切にしたい気持ちも、自信をもって明るく生きてほしい気持ちも本当なのに、私が一番そうさせないようにしてる。
今日でまた私は彼に、自分は人を傷付けるようなダメな人間だって思わせてしまった。違うのに。私がおかしいだけなのに。
どうやったら直るの?考えないようにしたってそれまで楽しく過ごしていたって一瞬で壊れる。私が壊してしまう。
一番怖いのは、彼が怒っているとき、私は安心してた。嬉しかったこと。こんなに怒るほど私が好きで、振り回されてくれるんだって思った。
違うってわかってる。そんなことが好きって証明になるなんて違うのに、もうずっとそれが愛だって思ってきた自分がいなくならない。
傷付いた私を救えだとか、罪悪感を抱けとか、なんでそんなことが思えるんだろう。私って何者?気持ち悪い。
私がひどいことを言って嫌われるのは仕方ないからそんなことはどうでもよくて、今はただ、彼の口から彼を否定する言葉を吐かせるようなことをした自分が許せなくて、もう死ねばいいのにと思う。
比喩でもなんでもなくて、私は人を壊してしまうのかもしれない。そんな人間が誰かと一緒にいていいわけがなかった。
一緒にいたいのに、自分がどれだけ頑張ってももう無理なんじゃないかって自信がなくて、それが本当に怖い。怖いよ、どうしたらいいかわからない。
彼がいない人生がもう考えられなくて、これからも一緒にいるんだろうなって漠然と思えたのは初めてだったから、今回こそ穏やかに過ごしていけるって信じてた。
もっと頑張りたい。変わりたい。本気でそう思っているなら変われるはずなのに、なんで?
朝、無印の脚付きマットレスベッドで目覚める。布団も布団カバーも無印。枕も無印だ。
朝食を用意しようと、無印のトースターに無印の食パン(俺の通う無印はパンや生鮮食品も扱っている)をセットする。
無印の冷蔵庫から、無印のルイボスティーを取り出し(昨日無印の冷水筒に無印の水出しルイボスティーのティーバッグをセットしておいた)、それを無印のグラスに注ぐ。
ちょうどパンが焼けたので、無印の皿に食パンを置き、無印で買ったマーガリンといちごジャムを無印のバターナイフとスプーンで塗る。
それらを無印の木製テーブルに置き、人をダメにするソファに座って食べる。美味しい。
音楽はもちろん無印の音楽(Spotifyなどのサブスクでも聞ける)を流す。
食べ終わったら身支度。無印の洗顔で顔を洗い、無印の歯ブラシスタンドから無印の歯ブラシを取り、無印の歯磨き粉をつけて磨く。
そして、無印の下着に無印のシャツ、無印のパンツを着て、無印の靴を履いて出勤。
時計も無印(地味に高い)。リュックは定番の無印の黒リュック。
あと無印のジュートマイバッグに、ステンレスの無印水筒と、「水」と書かれた無印の水筒を2つ入れて持参。
会社につくと、俺のデスクには無印のペンやペン立てやノートやファイルでいっぱいだ。
ランチの時間。昼ごはんは、無印のランチボックスに無印で買った惣菜を詰めたもの。無印のキンパも入っている。
デザートは不揃いバウム。美味しい。
仕事が終わり、家に着く。
無印の炊飯器で無印で買った玄米ごはんを炊き、無印のカレー皿に盛り付ける。
ついでに無印のフライパンで無印の冷凍野菜を無印のシリコンスプーンを使って炒め、付け合せにする。
食事が終わったらお風呂。無印の泡ボディーソープと無印のシャンプーで洗い、無印のタオルで拭き、無印のパジャマに着替える。
そういえば洗濯物を取り入れてなかった。無印のアルミハンガーに吊っておいた無印の服を取り入れる。洗剤ももちろん柔軟剤も無印だから完璧だ。
Yシャツはアイロンがけのいらない無印のシャツなのだが、念のため無印のスチームアイロンでシワを伸ばす。
さあそろそろ寝よう。無印のアロマディフューザーに無印のアロマ(おやすみブレンド)をセットする。いい香り。そろそろ気が狂いそう。
理由は俺が地方民なのと、神の「身内にしか本を売らない」方針による。
俺が神を知ったのは、Twitterのリツイート経由。二次創作のいわゆる擬獣化というやつだが(全年齢だ)、元ネタの特徴を捉えてて、とてもよかった。
俺は神のアカウントを追いかけて、マロで感想を伝えた。新作が出るたびに喜んで、それを伝えて、リクエストの募集があったらそれも送った。神の体調ももちろん気遣った。
そんな神の擬獣化絵もかなりの量になって、まとめ本が出ることになった。俺は地方民だが、買って少しでも神に貢献したかったし、何より今まで描かれてきた絵を、手元で永久保存したかった。だが地方民だから多くは望まず、通販の予定があるかだけをマロで尋ねた。神は、自家通販の予定があると回答してくれた。
ところが、いつまで待っても自家通販の案内はなかった。代わりに、俺が仕事で行けなかった時間に開催されたTwitterのスペースで、自家通販の受付が行われて、そして締め切られていたことを知った。神曰く、擬獣化は身内ネタで特殊ジャンルだから、身内以外に本は売りたくないと。俺以外にも問い合わせた奴がいたらしく「お互い傷つかないために、通販はやめます」という旨のツイートが残ってた。
神の身内に生まれてこられなかったのが、悔しかった。でも同時に、そんなに身内ネタを外に流したくないなら、なんで最初から鍵垢で描いて、マロも作らないでおいてくれなかったんだと神を恨んでしまった。
魅力的な絵なんだよ。他にはないんだ。こっちは完全に受け身で、たまたまリツイートで絵を見たから追いかけたのに、何でこっちがストーカーみたいな言われ方されなきゃいけないんだ。そっちだって、リツイートやいいねやマロの数で承認欲求を満たしてたんだろ。まとめ本が出る量になるまでそれを重ねといて、今さら「お前は客じゃない」なんて、同人活動が趣味にすぎないといっても、あんまりすぎないか。
もうすぐ夏が来る。神が企画絵を始める頃だ。でも、可愛いふわふわの絵も、俺は手元に置かせてもらえない立場なんだと思うと虚しくなる。
推しの同人作家がいる奴。推すときは、ちゃんと名乗って推せ。匿名の感想は、しょせん匿名の重みでしか扱われない。本を売るに値する相手だと思われなくなる前に、ちゃんと自分の存在を知ってもらえ。俺みたいになる前に。
私は必死になる人がとても苦手です。
例えば電車に乗る時なんかに何故かその人のなかではラットレースが始まっていて、
かなぐり捨てて蛮族のごとく他人のカラダをグイグイと押しやりながら、
いや、まあ気持ちは分からないでもないけど、そんなに必死になってやることか?それ。
わたしがいつも乗る駅の電車は終着駅まで乗っていても18分程度で到着する電車だ。
その間には大きな駅をいくつか通過するので乗客はどんどんと減っていく。
つまり多少、不快な乗車位置だったとしても5分~10分のうちには解消される。
なのにだ。
毎日毎日決まったルーチンを黙々とこなすが如く、必死こいて電車に乗る人達、そういうのがものすごい苦手。
と同時にとんでもなくマイペースにちんたら電車に乗るような人ももちろん嫌(こういう人はあんまりいないけど)。
まあ、私は思想的に全体主義的な傾向を持っているのだとは思う。
私個人のベストポジションよりも集団がトラブルなく、各々にとってベストではなくベターなポジションを見つけている形が一番しっくりくる。
そのために私がやや貧乏くじを引いてもまあそれはそれでいいか、と思えるタイプなのだ。
幸せになりたい。
俺の幸せは、思いを形にすること。別に高尚な思いなんて全く持ってないけれど、漫画なり小説なり音楽なりでそれを形にした時、ようやく普通の人が日常生活で普通に出るであろう脳内物質が分泌される。
つまりは、幸せのハードルがめちゃくちゃに高い。自分が努力した先にしか幸せがないと信じ込んでいる。
美味しいご飯を食べること、楽しい時間を過ごすこと、美しい自然と触れること。それももちろん幸せなのだけど、努力に対してジャンキーと化した脳みそにその幸せを受け止める受容体はない。
自分にとって、努力して何かを成し遂げることと、ドラッグをやることにさして大差はないのだ。どっちもやったからわかる。人間、一度脳汁がドバドバ出るとまた脳汁をドバドバ出すための行動してしまう。そして、一度知った快楽を人間はなかなか忘れられない。
努力をして、何かを成し遂げた。その時の幸せに比べたら、今はなにも幸せじゃない。むしろマイナス。外に出ることも、人と話すことも苦痛。美容院に行くだけで疲弊して寝込んでしまうくらいだ。仕事は別の人間が心を殺してやってるようなもの。
幸せになりたい。
死んではいけないよと他人が言ってどうにかなる問題ではない。自分が生きていてダメだと思えば、それはもう生きていてはダメなのだ。思考回路が勝手に死に向かっているし、死が自分を呼んでいる。土台はしっかりと固まっているので、あとは何かのトリガーさえあればきっと簡単に逝けるんだと思う。
この仄暗い感情は、きっと今に始まったことではない。きっと自分がこの世で自意識を持ち始めた時から、ずっと側にあった。大人になってそいつの正体をいくらか言語で説明できるようになったというだけ。
幼いころから何をやらせても上手くできず、なんの能もなかった自分。やがて努力でしか自分を保てなくなった。
自分には価値がない。人一番努力しなくては人権すらない。幸せは人権のある人間のみ許されるもの。でも努力は疲れるし苦しい、このままでは身が持たなくなる。ではもういっそ逃げてしまおうと、何度も考える。自分の貧弱なメンタルでストイックさを追求するのはきっと間違っていた。何も考えずがむしゃらにやってしまったが、結局疲弊して、死への解像度が高くなっていくだけ。
幸せになりたい。
すぐそばにあるものを可視化できるようになりたい。小さな出来事を噛み締められるようになりたい。何者にもなれないことを受け入れて、諦めればいい。人はいずれ死ぬので、早まらず自然に身を任せればいい。そんなごくごく当たり前のことが、いつか自分の心の奥底に届きますように。
幸せになりたい。
早まらなくていい、頑張らなくていい。いつかトリガーが引かれてしまう前に、小さな幸せに目を向けられるようになりますように。
そう願っていたし、初回放送では番組の中でやりたいことを推しがどんどん挙げていき、私は期待を膨らませた。
第2回にはゲストがきた。
推しが名前を揚げるきっかけになった作品の共演者で、極めて順当なキャスティングだ。
私ももちろん知っているメンツだったし、最初は視聴者を増やすためにそういうことも必要だと思っ。
普通に楽しんで観ていた。
第3回にもゲストがきた。
当たり障りのない企画をやった。
まだまだ知名度を上げていく段階だ。
ボードゲームなどでよく遊んで知る。
第5回も。第6回も。
それはそうだ。
腹が立つ。
私の心は冷えていく。
いいから一向に送られてこない入会キャンペーン特典を送れと思う。
そして、その次にやった企画の特典も送れと思う。
何ヵ月前のおまけ動画をアップロードせずにいるんだ。その回のゲストを観に来た人多分もう退会したぞと思う。
視聴者のために云々いっているグッズも小ロットで争奪戦になるようだ。
予算はあるので任せてくださいというなら十分な数をつくれと思う。
もうその、運営コメントと視聴者の暖かいやりとり()をやめてくれ、と切に思う。
でも観ていると悲しくなる。切なくなってくる。
いい番組になっていく気がしない。
なりたくはない。
そいつは初めて会った時から、神様は人間の顔面をこれほどまでにブサイクに創造できるのかと
神の正気を疑うほどの顔立ちをしていた。
と同時に、こいつは今までこの顔面でどうやって生きてきたのかとただただ不思議に思った。
2週間ほどそいつと仕事をしてみて、私はどうしてもこのブス男と付き合ってみたくなった。
そいつのことが好きになったとかそういうことでは全くない。
とにかく不潔で、デブで、顔が脂ぎっていて、下卑た言動が最悪で、服のセンスも最悪な、どこを探してもここまで
ひどい男はいないだろうという男だからこそ付き合ってみたくなったのだ。
もしこの男に本気になる彼女ができたら、この男は変わるのか。変わるとしたらどう変わるのか。
私の全力をかけて実験してみたくなった。
私の家庭は父の恐怖政治が敷かれており、常に幼少期から父の機嫌を取り続けて生きてきたことが生かされているのだと思う。
私はすぐに思わせぶりな態度と言動で男を落としにかかった。
そいつはすぐに乗ってきて、私と付き合うことになった。
付き合い始めてから、私はより一層彼を観察するようになった。
付き合っている間に服のセンスと体形だけは変えてみたいと思った。
歴代の彼氏たちにも、私は一回も直してほしい部分ややめてほしいところを指摘できなかったので、
結局苦しくなって分かれることになった。
今回は、彼氏に物言える自分になろう。これはひそかに私の成長機会でもあると考えていた。
だが、結論として、それは失敗した。
私の「言えない病」が発動してしまったのももちろん原因なのだが、
おそらく一番の原因はブス男の自己肯定感が想像以上の高さだったからだ。
付き合ってみて思ったのだが、どんなにブスでデブで顔が脂ぎっていて仕事がブラックでも、彼氏は本当に自尊心が高く、自分に自信があった。
その自尊心の高さは、自分は自分のおもうままに生き、好きなことだけやるという彼のモットーは私に一種のすがすがしさと感動を与えるほどだった。
結局、隣を歩くビジュアル的な嫌悪感に耐えられなくなり適当な理由をつけて付き合いをやめたのだが、
人間はビジュアル的に最悪の状態でも自信と誇りを失わずに生きることができるのだという学びを得た。
高すぎる彼の自尊心の前に、女は無力だった。
無害で、不愉快でなく、少しばかりの面白みがあり、精神的・肉体的なメリットを与える人間であると、認められたい。
こういう類の許可をひっくるめて「セックスに同意してもらうこと」を捉えている節がある。
本当のところ性欲なんて言い訳に過ぎなくて私の中で獣のように猛り狂っているのはこういう欲求なのだ。
いや、最初のセックスに同意してもらったくらいでは私の欲求は満たされない。問題はその後だ。
はじめてのセックスが終わり、朝が来てさよならと別れたあと、その後マッチングアプリのメッセージで感謝の言葉と少しの感想を送り、ラインのIDを送る。もしよかったらラインに移動しませんか?相手と別れた後でなければならない。嫌ならそのままブロックしてもらえるから。ああ。許可されたい。ラインを交換できただけでももちろんまだ足りない。次は誘ってもらえるだろうか?誘ったとしたら快く受け入れてくれるだろうか?最初の一回目のセックスは合格点だっただろうか?食事の内容は?お手洗いに行っている間に会計を済ませたことが不愉快だったりしないだろうか?話題は適切なものを提供できたか?彼女の表情は?強張っていなかったか?退屈そうでなかったか?発言量のバランスは良かったか?質問攻めにしてしまっていなかったか?何食わぬ顔で出勤し、仕事をしながらも許可されたい欲求の獣が体の中でのたうち回る。不安だ、不安だ、不安だ。ああ!許可されたい!
また誘ってもらえたら、その時初めて私の欲望は満たされる。それも相手の部屋に誘ってもらえれば、この上ない絶頂を得ることが出来る。
セックスの同意も、もちろん部屋に招くかれることも、本当は私のあらゆる認められたい欲求を肯定するものではないことはわかっている。
そして、3度目、4度目と会うごとに儀式的な食事と会話、セックスが成立してしまう。
すっかり安心した相手からは私を監査してくれる目としての役割は失われる。
あっという間に興味がなくなる。
顔も声色もよく覚えていない、ただ相手の粘液の味だけがいつまでも鼻の下に残っているいるような相手とのトークルームが、スマホの中で地層を成している。