はてなキーワード: ぬるま湯とは
緊急事態宣言下、スッキリのNiziプロ特集を見ることにハマっていたが、
最初から世界デビューが決まっている大手プロダクションのアイドルオーディションはかくも厳しいものなのだと思った。
この番組を見た上で、アイマスの765プロ所属アイドルが世界デビューするとなったら誰が選抜されるか考えてみた。異論は認める。
アーケードゲームからのメンバーは良くも悪くもASAYAN的でつんく的なチョイスのメンバーなので、グローバルビジネスとしてのガールズグループオーディションで合格するには力不足である。
唯一、JYPからキューブがもらえる可能性があるのは真だろう。真は歌やダンスの実力もあり、体力にも不安がない。そして、チームワークに配慮できる性格がある。また、アニマスの配信を見て、他のアイドルを励ましたり場の雰囲気を盛り上げたりと、春香と同様に周囲に気配りができるタイプであることに気づいた。「人間性」を重視するJYPでは評価につながるかも知れない。
961じゃねーかという話はさておき、やはりこの3人は実力があることとJYPがいうところのアイドルになる「準備」が出来ているメンバーである。素人感が親しみを与える初期のモー娘やAKB的な雰囲気のあった765プロに、アクターズスクール的な養成所でトレーニングをしっかり受けてきたメンバーが追加され、アイドルグループとしての立体感が生まれたのが13人体制のASというイメージが自分にはあったので、美希・響・貴音がアニマスの最初の方で下積み仕事をしている様子は個人的に違和感バリバリだった。
・ミリオン組
この辺は多くの人たちの同意が得られそうだと思うので略。安定したパフォーマンス力と精神的な余裕、物怖じしない性格はどこへ行ってもアイドルとして通用するだろう。
海美はバレエの素地があり体を動かすことが得意なだけでなく、海外で活動するお姉さんもいるので、他のメンバーよりグローバルな舞台で活動することへの理解が深いのではないだろうか。
エレナも同様にブラジルが彼女のバックグラウンドにあり、実力や体力面も悪くない。
そして、この2人の最大の魅力はファンが喜ぶような元気に溢れたパフォーマンスができるところだ。JYPも審査員やお客さんと心を通じ合わせるようなパフォーマンスをオーディション参加者に求めていたが、見ている側まで元気になるようなパフォーマンスができることはアイドルに必要なスキルであり素質である。
・次点、その他
静香や志保のように歌はうまいがストイックすぎる性格のタイプは、ゲームユーザーからの人気は悪くないが、JYP的にはファンの方を向いていない、独りよがりで協調性が弱い、といった評価を受けても仕方がないと思う。
また、アメリカでのダンス留学経験がある歩は、「ダンサーという評価は褒め言葉ではない」と言われてしまいそうなところと、留学経験がある割に英語力がイマイチなところがマイナスだろう。
個人的には翼に期待したいところだが、実力を上げるための厳しい練習を乗り越えられるような精神力に不安があるので、765プロでぬるま湯に浸かっていないでJYPの練習生になることも検討して欲しい。
この場合は「今現在は何らかの都合で性的な関係に至ると不都合があるので行為に及べない」というケースで
その不都合が無くなればすぐにでも性的関係になれるような気がする。相手のパートナーが居なくなったり、ぬるま湯から抜け出す覚悟が出来たりとか。
「性的な事がしたくない」訳では無くて、その欲求を何とか我慢しているような。
「恋愛感情が無い相手にも性的な欲求は普通に湧く」けど、「恋愛感情を持った相手に性欲が湧かない」って事は絶対無いと思う。
生涯プラトニック・ラブを通した恋人達とか、「恋愛的に好きな相手だからこそ絶対に性欲を抱きたくない・性的な行為に至りたくない」って人も結構居るのかは知らない。
とある漫画を読んだ。それを読んで引き摺り出された「努力と普通」に関する自己嫌悪と自己愛を吐き出す。
死にたいけど死ぬための努力もしたくない。なんにもなれないならボタン一つで苦痛なく死にたい。そのための苦労は他人が負ってほしい。この考えはエゴなんだろうか。
ずっと努力していない状態が「普通」で、努力しているのは「がんばっている」だと思っていた。がんばることは辛いからがんばっている人は偉い。偉くなりたくなければ、努力しなくてもいい。
なぜかそんな思考が染み付いている。
でも、成長したら普通になるために努力するのが「普通」だと叩き付けられた。何かにつけて、普通の人との差を見せ付けられるたびに自分の本当の順位を見せられて痛い。
私は現実の見方が、受け入れ方がわからない。「こんなはずじゃなかった」といえばいいのか。そういう処世術を誰も教えてくれなかったじゃないか。
本当は小さいころから努力のやり方を学ばないといけなかったのだ。小学校のときから努力が大嫌いで、適当にやってもテストで平均点取れてるからみんなの言う「普通の学校」に進学できると思っていたんだ。
この普通は100点中、50点だ。本気で私は50点の人間だと信じ込んでいた。競争の真っ只中に放られるまで。
それがどうだ?勉強をすべて投げ、かといって趣味もなく、何にも打ち込まない。コミュニケーション不全を拗らせたぼっちが、どこの世界の50点なんだ?
よく考えてみなくても、友達も実績もどこかからか湧いてくるわけではない。誰かが努力の末に手に入れているものだとという視点は皆無だった。そもそも人への興味を持とうとすらしなかった。
手に入れた人は運が良く才能があって、結果的にそうなった。だから私にも運と才能があれば、他人みたいな普通の幸せがやってくる。
だって、自分が何もしてこなくて平均以下であることを認めたくない。私は普通だ!まだ人生はやり直せる!ああ、努力する才能さえあれば!
なにをいってる。身の程を知れ。20年間何もしてこなかったツケを今払ってるだけだろ。
でも、こんな文章を書いて自己正当化を図るくらいにはプライドは高くなって、自己愛は素晴らしく自分の性分を肯定する。
ようするに自分のことを理解できている人のふりして長文を書き、気持ちよくなりたいだけだ。何かを実際にしたいわけではないし、本質は目を逸らしたいところにあるので自分への理解さえ十分にできない。匿名世界ですら悲劇のヒロインでいたいんだろうとは思うが。
せめて言い訳ぐらいは上手くなってくれればいいのに、それすら「他人のせい」の一点張り。薄っぺらすぎてつまらない。何にもない。
もうだめだ。クズがクズのまま許容される社会を真面目に望むし、評価される社会が嫌だ。それって、努力する全ての人を馬鹿にしているだろうか。
電気街の大通りにあったお店で、むっちゃくちゃ汚くて味噌をぬるま湯で溶いただけみたいなスープのラーメン出してたところ
確か秋葉原のハイテクセガ(当時はクラブセガじゃなかったと思う)にKOF95をやりに行った時だと思うので1995年頃に食べたと思う
激マズラーメンの話になると彦龍とかばっかり出てくるが、あれとも比較にならんほど常軌を逸して不味かったし
20代後半の頃に営業から転職したけど、毎日やりがいあるし給料も1.5倍になって前よりハッピーですよ。
ただし、お前には無理だだのボロクソ言われながら、寝る間も惜しんで時間外でも仕事に取り組んだ時期もあっての今だけど。
もちろん若いうちから一貫して頑張ってきた人が強いのは正しいんだけど、若いうちからやってても途中で壊れてしまう人もいる。
年齢やセンスや向き不向き、顧客の観点など色々ファクターはあるけど、それは文系仕事だって同じ。ぬるま湯もあれば無理ゲーもある。
一番大事なのは、自分がどの仕事(もしくはどんな職場環境)に全力を注げるかどうかで、それに加えて運(そもそも努力しても成果の出ない仕事かどうか等)があると思う。
酷く精神が乱れているのとこういった文章を書くのは初めてであるため、読み辛い点が多々あると思う。
小学生の頃から、教員に「賢い」子供として扱われ、旧帝大とはいかないがそこそこ名の知れた大学へ行きそこそこ良い成績を収めた。
これらは田舎から都会の学校へ行かせてくれ、一人暮らしの諸費用も捻出してくれ、塾・習い事・資格習得・留学等、私のやりたいことを全てさせてくれた両親のお陰であった。
「良い企業に入って、両親に恩返しをしたい」と私は強く思っていたし、学歴的にもそれが可能だと思っていた。
しかし、全然ダメだったのだ。就活が。最強の新卒カードを持っていた筈なのに。コロナなんて影も形もなく売り手市場であったのに。履歴書と試験だけの一次には受かる。しかしその先が全然進まない。面白いくらいに落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる!!!!!!!!!!!!!!!!!(この時期はストレスだったのか、週一で40度ぐらいの熱がでていた。今考えてもメンタル弱ってて笑える)
友人も年齢を問わず少なくないし、コミュニケーション能力もまぁ困らない程度にはあると思っていたのだが、「俺って人間的魅力が皆無だったのか」と自分で気がついたのはこの時であった。
仲良くしていた教授達に「お前は人一倍努力もして来たのに…」なんて言っていただき、一丁前に悲しがっていたが努力がみとめられるのは学生のときまでである。
多くの友人は霞ヶ関だ超大手企業だに行って日本の未来を背負っていたが、私は所謂サービス業・販売員になった。それでも両親は喜んでくれた。頑張ってねとたくさん言ってくれた。企業側も幹部候補者!と歓迎してくれた。私もせっかく雇ってもらえたのだからと「置かれた場所で咲こう」とやる気に満ちてはいた。
客からは「どうせ中卒のくせに」と罵られ、地元の知人たちからは「落伍者だ」「せっかく頭が良かったのに無駄だったな」と両親が陰口をたたかれる。
一番キツかったのが、働いてる時に子連れのお客様から「ほら、お勉強しないとあの人みたいになっちゃうよ」なんて言われてるのが聞こえてしまった時である。
(俺は本当はこんなところにいる人間じゃないんだ)
私の言った言葉や言い回しを理解できない同僚に笑いながら易しい言葉で会話して、
(お前と俺は違う)
こんなふうに考えてしまう。
自分の学歴だって努力だけでなく恵まれたものだったから、偏差値が低い人たちのことだって見下すことはしないと自分を信じていた。
私はどうしたら良いのだろう。毎日毎日将来を考えて、毎日毎日死にたい。けど自殺するにもコストがかかるし、まだ両親に恩返しもできてないから死ぬわけにも行かない。かと言ってあんなにダメダメだった就活が、またうまくいくとは思えない。転職するにしてもこんな時間だし、どこにも雇ってもらえなかったら?などと考えて踏み出せないでいる。
散々書いたが、結局何も行動せず、抜け出す努力もせず、こんなところにしかいることしかできないんだから何処に行ってもダメなんだろうな。
追加
混乱させて申し訳ないが、一人称は地の文と分けたつもりだった。人に文章を読まれるなんて体験があまりなくて、わかりにくいものを書いたようで申し訳ない。
また「頭の良い」や「賢い」は履歴書「だけ」が立派で無能な自分への皮肉のつもりだったのでそこも、混乱させてしまって申し訳ない。
(出身大学・今ついてる職業はもしどなたかにご迷惑がかかってしまったら申し訳ないので、言えません)
結局何が言いたいかというと、「今更自分が無能なことに気がついた糞野郎なので人生オワタw」ですかね。
推敲も行わず心のままに書いた読みづらい文章を読み、コメントをくださった方々ありがとうございます。
受けた衝撃や今まで出会ったことのない悪意が、凄まじくて驚愕してしまって、このまま自分は何処にも行けない気持ちになっていました。人から「失敗者」と言われてそのまま言葉の通り受け取っていました。
両親とも相談して、少し頑張ってみようと思います。重ね重ねありがとうございます。
追記2
多くの方に「己の価値基準を他人に頼りすぎ」だという指摘をいただきました。
たしかにそうだ、と。
なんというか今私は、「自分の価値は(個人的な情の無い)他者が決めるもの」と思い込んでいるんですね。
学生時代はそんな考えはしてなかったのですが、社会に出てこれまで聞いたことの無いような罵倒や品の無い言葉を浴びてこんな考えに凝り固まった気がします。
公立には小学校までしか行ってないので、これまでの友人達は家庭環境や文化的背景が似たような人たちばかりでした。(皆私には勿体ないような素晴らしい人たちばかりです)そんなぬるま湯に浸り切っていて考えが幼稚なんでしょうか。
それに関しては、「自分は長子である」という考えが自分の中で強くあるからだと思います。
また両親は決して高収入ではないのに、一人暮らしの支援や長期間の留学等、沢山の援助をしてくれました。恩返しをしたいと強く思うのはそれほど特異なことではないと思います。
しかし私の貧弱な思考力では、「恩返し」が目に見えるお金や分かりやすい地位しか思い浮かばないからこのように拗れてしまったのだと思います。
おれも最初は「非正規なのにボーナスが出るなんて!」って喜んだ。確かに出ること自体恵まれてるとは思う。ただしぬるま湯正社員より働かされて半分以下となれば話は別。
それまでは非正規雇用で40万とかだったけど、
正社員になったら一気に跳ね上がった。
すごく嬉しいんだけど、仕事内容はそこまで変わっていない。
単純に雇用形態が変わって増えただけ。
今までそれでこき使われてきた自分、
ふざけるなと言いたい。
査定の時に頑張ったねー感謝してるよとか言われて40万もらって、
その裏では悠々と100万単位でもらってる連中がいたのだ。
そして、今回自分は運よく正規になれたけどなれなかった人もいる。
その人たちはこの先も正社員よりはるかに少ない収入で働かされるのだ。
何が同一労働同一賃金だ。
ぬるま湯につかった正社員様よりよほど優秀なのに収入は天と地ほども差がある。
そんなことを思って、今は嬉しさと理不尽さの怒りでぐちゃぐちゃしている。
ところで世間がオタクに罵詈雑言を浴びせることに一切の躊躇のないのはオタクを下に見ているからなのかもしれない。
おそらく世間はオタクの世界をゆるい馴れ合いの世界だと誤解しているのだ。
「オタクの世界は金さえ払えば誰でも仲間に迎え入れてもらえる」
歪んだ偏見だよ、それは。
オタクの世界ではド素人だろうがベテランだろうが分け隔てなく面白さでジャッジされる。
面白さの戦場では年季の入ったベテランオタクでさえ、足を踏み外すことが日常茶飯事だ
それはちょうど綱渡りとフルマラソンを同時にするようなものだ。
一方で面白さを満たす限り、オタクの世界は万人を受け入れることだろう。
ド素人がベテランに下克上することがオタクの世界の日常風景だ。
オタクの世界は面白さを満たすなら、どんな落伍者でさえ受け入れる懐の深さを持つ。
反対に、たとえどれほど現実社会で成功を収めていようと面白くなければオタクの世界に居場所はない。
正解のない正解を、性癖という名の羅針盤だけを頼りに探し続けているんだ。
オタクがしばしばお気持ちと揶揄をするのは、これと矛盾しているように思えるかもしれない。
オタクからしてみれば世間のお気持ち表明なんてものは、ほんのお遊びに過ぎないからお気持ちと揶揄にされるのだ。
オタクのやっている本当の気持ちの領域での戦いと比べれば、お遊び同然なのだ。
本来であればオタクの世界の外側のことまでかまっている余裕はない。
だが、付け加えるなら本来構う必要のない世間からの謂れなき弾圧に敢えて反論するときにもユーモアの精神を忘れないのはオタクらしいと言えよう。
オタクの世界では面白くないことをすれば一瞬にして居場所を失う。
それならば余計なことは何もしなければいいと考えるかもしれない。
なにもしないのであればマッハで風化し忘れされて過去の人になる。
オタクであり続けるには日本刀のように研ぎ覚まされた高度な技が要求される。
見る人が見れば自明だが知識のないものには判断のつかないことはまれによくある。
そう、世間からはオタクであり続けることがいかに困難で賞賛に値することかがまるで見えていないのだ。
オタクであり続けることの価値を知らないからオタクを幼稚だなどとバカにすることができる。
オタクの世界がゆるい馴れ合いの世界だと誤解しているからオタクを馬鹿になどできるのだ。
ビ二ール袋オナ二ーは10年以上前に2chの一部スレッドで話題になった方法だ。雨の日に設置された傘用のビ二ール袋セットマシーンを見て、そういえばそんな方法もあったなと思い出した。
当時はオナホがまだ発展途上だったし大人のおもちゃも密林(死語)から買えるようなものじゃなかった。だから性に貪欲な有志達は、片栗粉や蒟蒻といった身の回りにあるものを加工して使った。加工しなければ使えないから、どれも創意工夫に溢れていた。あれを使うと気持ちいいとかどうやって加工するのかとか有益な情報は全て2chに集まっていた。なかにはそれほど気持ち良くないものや下準備に苦労するものもあった。でもそんな苦労を楽しんでいたように思う。Do It Yourself(激ウマ表現)のスピリッツがそこに確かにあった。
玉石混交な情報の中でもビ二ール袋オナ二ーは極めて優秀だ。筒状に加工したビニール袋に空気やぬるま湯を入れだけで準備が整う。傘用のビニール袋を使った方が手っ取り早い。衛生的にも入手性的にもホームセンターで買った方がよい。正直言葉では表現しづらいからググッて試してもらった方がわかりやすい。幸いビ二ール袋オナ二ーのスレッドはまだ5chに残っている。叡智と歴史が詰まっている。だが、もう2年更新がない。いつかは消えてしまうのだろう。文化が消える。少し寂しい。でもこれでよいのだろう。人間が人の生き死にを自由にしようなんておこがましいは思わんかね、って手塚先生が言ってた。サンキューBJ。
私が本書で語りたいことは、他人はけっしてあなたの孤独を解消してくれないこと、一時あなたの孤独を巧妙に隠蔽するのを手伝ってくれるかもしれないが、あなたの孤独自体を根絶してはくれないことである。このことを心底から自覚するとき、人は孤独から逃れるのではなく、孤独を選ぶようになる。孤独を嘆くのではなく孤独を楽しむようになる・・・。こう書けば簡単であるが、じつは孤独になる技術を学ぶのはなかなか難しいのである。
まず、問うてみよう。どんな人が孤独であろうか? 親も兄弟も友人も恋人もいない人は天涯孤独である。しかし、その人になすべき仕事があれば、孤独はその仕事を育て上げる大切な養分である。その仕事さえない人は? いや、だれでもぎりぎり自分の孤独を直視すれば、何か手応えのあるものを求めるはずなのだ。
それは、哲学かもしれない、宗教かもしれない、芸術かもしれない、ボランティア活動かもしれない・・・。こうした広義の仕事に邁進できる人は、すでに孤独を利用できる技術を体得したことになる。
だが、私に切実な手紙をよこすのは(たぶん)こうした極限的孤独に陥っている人ではない。うめき声とともに自己表現技術を体得した人でもない。彼らには親も兄弟もあり、そこそこの友人なりそこそこの恋人なりいるのだろう。だが、孤独なのだ。彼らにはそこそこの仕事も与えられているのだろう。だが、孤独なのだ。つまり、すべてがぼんやりしており、自分が何をしてよいのか、何をしたいのかわからない。あるいはわかっているとしても、それができない。
人生の折り返し点を過ぎた人の多くは、自分に与えられた小さなものあるいは自分の獲得した小さなものを黙々と守るだけの生活を続けている。そして、まもなくーー高々三十年後にーー死んでゆくのだが、そのことはひたすら考えないようにしている。たしかに時折無性に虚しくなるが、そんな落とし穴に落ち込むほど青くはない。思考をぐっと現実的な対象に向け変え、気持ちを整える。今自分が考えるべきこと、それは息子の大学入試であり、娘の結婚であり、自分の昇進であり、もっと広いマイホームを手に入れることだ。だが、その後はだって? 年金はいくらもらえるのか、老後の世話は誰がしてくれるのか、たしかに心配は残るさ。それは二十一世紀の大きな問題だなあ。地球温暖化という大問題もあるし・・・。
ごまかすのはやめなさい! あなたはまもなく死んでしまうのだ。あなたをまもなく襲う死をおいてほかにもっと大切な問題があるのだろうか? あなたは死とともにまったく無になってしまうかもしれないのだ。そして何億年たっても二度と生き返らないかもしれないのだ。もうじき終わってしまうこの人生が、あなたに与えられた唯一の生きる機会、考える機会、感じる機会なのかもしれないのだ。もうすぐ死んでしまうあなたが、必死に日常的な問題にかかずらっていること、それはたぶん最も虚しい生き方である。死を目前に控えて震えている死刑囚よりも虚しい生き方である。キルケゴールとともに言えば、日常に絶望していないことこそ絶望的なのだ。
私に手紙をよこす人々は、こうした日常を守りながらも「どうにかしたい」と考えている。彼らは日常生活の虚しさの背後にーーたとえ自覚しないとしてもーー死を見ている。いかなる他人との交際の後でもふうっと虚しさを感ずる。恋人や親友に会っても、一抹の後味の悪さが残る。こうした体験を知っている人は、勇気をもってだらだらした生活をどこかで打ち切り、少しずつ孤独になるように努めよと言いたい。もし、あなたが死を最も大切な問題だと考えているなら、孤独になるしか方法はない。そして、孤独になるには、日常生活を犠牲にするしか方法はない。少しずつ日常生活から遠ざかるしか方法はないのである。健全な日常生活を守りながら、孤独を獲得することはできない。あれかこれかしか得ることはできないのだ。
具体的に、孤独になるとは、他人に時間を分け与えることを抑えることである。自分の生活を整理し、なるべく他人のためではなく自分のために時間を使うことである。多くの読者は「そんなことはできない」と言うであろう。しかし、私が強調したいことは、頭で考えるのではなく少しずつ実際に石を動かしてみることだ。生活を変えるように努力してみることだ。すると、たぶん思わぬ手応えを感ずるであろう。あなたは、次第に孤独であることに喜びを見出すであろう。他人に囲まれていなくとも、寂しくなくなるであろう。そして、自分固有の人生の「かたち」が見えてくるであろう。
そんな曖昧模糊としたことは信じられないという人に答えたい。それなら、あなたは死ぬまであなたのぬるま湯の日常生活を続けるがいい。そして、小さな薄汚い世間体を抱えたまま「これでよかった」と呟いて死ねばいい。
私の理解するフェミニズムは、男女を平等に、同格に扱う思想であった。
人が性別でなく純粋に個人の資質で評価され、誰もが平等に権利を持つ世界を目指すものだと思っていた。
「女性だから」昇進できない世界を否定する。「女性だから」給料が低い世界を否定する。「女性だから」男性から暴力を受ける世界を否定する。
「女性だから」苗字を男性に奪われる世界を否定する。「女性だから」によるすべての不利益を否定する。
素晴らしい世界だ。掛け値なしに最高の世界だ。だが私はこの世界が実現することを望む一方で、それを世に主張するだけの勇気を持たない。だから、
非難を恐れず世に問いかける「フェミニスト」たちの勇気を、私は心底から尊敬していた。
それ故に、この記事の内容が信じられない。
https://mirror.asahi.com/article/13432941
この「フェミニスト」は、「女性だから」による差別を否定するべき彼女は、「女性だから」男性に守られる世界を、肯定しようとしている。
何か読み間違いがないか、目を皿のようにして読んだ。だが、どう解釈しても、彼女はこう言っているのだ。
「私は自分の好きなこと以外はしたくないので、それを実現するために女性であるが故の特権を利用する。社会が暗示的に与えている、男性が『男性だから』
得た経済的優位を頼り、それと引き換えのぬるま湯みたいな自由を享受する。だが誤解しないでほしい、それは私が自由意思で選んだものなのだから、フェミ
ニズムの否定ではないのだ」
私には全く信じられない。おかしいではないか。「女性だから」を理由とする不公平な抑圧からの解放をうたう活動家が、なぜ「女性だから」得られる利益を
平然と享受しようとするのか。少なくとも自らをフェミニストと任ずるのであれば、その都合がよい「自由意思」とやらを反フェミニストによる「だから女性は」
「やっぱり女性だから」という反論に利用されないためにも、子供のような我欲の実現に女性の特権を利用していると後ろ指をさされないためにも、範を示す
べきなのではないか。最低限、フェミニストはその対決すべき相手、つまり男性に対して筋を通すべきなのではないか。
フェミニズムとは平等であり、平等とはギブアンドテイクの世界ではないのか。「女性だから」と押し付けられる不平等は否定する一方で「女性だから」得られる
特権へ浅ましく縋ろうとするのではなく、「私はあなたにこれを与える。だからあなたは私にこれを与えよ」ではないのか。利益と同様に不利益に対しても等しく
なぜ、なぜ、本当になぜ、この「フェミニスト」は男性の庇護による片務的な負担を「フェミニズム」の一形態だと言うのか。単なる一個人の怠惰や自己中心的
なわがままではなく、立派な「フェミニズム」だというのか。これではまるで、「フェミニズム」が子供っぽい強欲を通すのに都合のいい屁理屈に成り下がってしまうで
はないか。「私は研究以外のことがしたくない」。結構。だが、フェミニストがそれを実現する手段は、「男性の経済力に頼る(あるいはそう他者に指摘される
余地を残す)」手段以外であるべきではないのか。自由意思かどうかなど関係ない。むしろ、本来フェミニズムとはそういった「自由意思」の裏にあるスティグマ
私はこれがフェミニズムだと信じることができずに、いくつかのリンクをたどった。同じサイトに、「女性の権利を主張するのに、奢られるのってズルい?」という記事
を見つけた(https://mirror.asahi.com/article/13365758)。そこではある論者がこう発言していた。
「奢ることと、対等であることは全く別物だから。お金出すって行為は庇護じゃないから。あなたの貴重な時間をいただいてありがとうっ、てことだから。上とか下
とかじゃないから」。
どういうことだ。本当にどういうことだ。仮にも女性の権利について論ずる場で、いけしゃあしゃあとこれを言うのか。あるいはこの発言者は、世の男性が本当に
「あなたの貴重な時間をいただいてありがとう」という純粋な気持ちで女性に奢っていると心底信じているのか。もしそうなら、発言者は性差別を論ずる人間とし
て不適切なまでに無邪気だが、まだ私にとって救いがある。だが、もしこの発言者が「『女性だから』奢らなくてはいけない」という男性による強烈な性差別を、単
に自らの利益になるからと適当な理論づけで許容しているのであれば、それを肯定するのがフェミニズムなのであれば、フェミニズムとは最悪の差別思想ではないか。
私は、フェミニストという存在を、フェミニズムという思想を否定したくない。これらの記事の主張が、単に「フェミニズム」の名を騙る何か別の存在であると思いたい。
フェミニズムとはもっと高尚なものであって、「女性である」が故に得られなかった権利を得るために、「女性である」が故の権利を喜んで手放せる存在だと、少な
だがもし、フェミニストが何か適当な言い訳を重ねて「女性の特権は手放さない」というのであれば。それがフェミニズムだと言うのであれば。もはや私は、フェミニズムを
信じることができない。
だから、お願いだ。フェミニズムとは何か教えてくれ。本当のフェミニストの名を教えてくれ。私にフェミニズムを、嫌いにさせないでくれ。