はてなキーワード: 近代国家とは
「賃金上昇はどういう集票組織でも理念とバッティングしない」ここが嘘だろ。
経済というのは分配のシステムであり、(特に共時的にはゼロサム)財産の奪い合いだ。
労働者の賃金上昇は、市中財産分配における平等性の向上であり、経営者層、富裕者層への直接的な恩恵はマイナスでしかない。生産能力が同じなら、賃金上昇(平等性向上)→市中信用(マネーストック)の向上→適切(緩やか)なインフレ、となって既存通貨の財産価値は減少という形になる。株価はインフレ分は上がるだろうが、それ以上は無関係な変動だろう。
資本家階級に対するプラスになるのは書いてある通り、極めて間接的な効果である。考えられるのは、個々の労働者の生活の向上によって、学習が楽になり、全体の生産能力を将来向上させるという、実際にそのように働くのか怪しく、数理化することもおそらく不可能なあやふやな効果しかない。
資本家階級が賃金上昇に否定的なのは、ゲーム理論から考えても完全に筋が通っている。そうでないならなぜ「理念的に柔軟な自民党」本体とその周辺組織が、ある時期以降(バブル崩壊くらいからだろうか)賃金上昇(≒平等性)を党是に組み込むことが出来なかったのか、トラバ元増田は合理的な説明に欠けている。
無論増田は、生産能力を減少させない程度において、出来得る限り平等性を推し進めるべきだと思っている。近代国家の理念からしても、個々人が平等に楽に生きることが出来ることは重要なことで、西欧諸国はこのような信念が根元にあるので、保守とリベラルが大体拮抗しているのではないだろうか。日本の場合、自民党が柔軟というより、保守も野党系も理念があやふやなのだ。
トラバ元増田は自身の自民党支持という党派性を排除することが出来ないので、自民党は「理念的に柔軟」(これ自体はある程度当たっているとは思うが)という回り道を通った挙句、「自民党を支持しつつ労働者である現実の自分が救える」という、いわゆる弱者男性の避難場所となっている極めてあやしい言説に逃げ込んでいるように見える。
安倍晋三暗殺事件をきっかけに統一教会(世界平和統一家庭連合)に注目が集まっているが、保守系(反リベラル、反ポリコレ、反中韓)に分類できる文化人のなかで、はっきりと統一教会批判を行なっているのが旧2ちゃんねる(5ちゃんねる)関係者のひろゆきと山本一郎なのは興味深い
一説によれば、旧2ちゃんねるは一時期、統一教会に乗っ取られかけたという噂がある。この点を抜きにしても、基本的に1970年代生まれ以下の世代は、保守や愛国を唱えていても頭の中は近代合理主義者で、土着的・伝統的な家族観とか道徳観はちっとも好きではないのだ。
東浩紀(1971年生)は統一教会を「カルトかどうか判断できないだけ」と述べてひんしゅくを買った。ただ、これは統一教会の擁護というより、スターリニズムや連合赤軍のような原理主義的なドグマに陥ることを恐れるあまり、「二項対立に囚われないように判断保留する」というポストモダンの思考を原理主義的なドグマにしてしまった模様。
一方、三浦璃麗(1980年生)は、何やら統一教会と利害関係があるらしい。
https://twitter.com/333_hill/status/1300961546693083137?s=12
http://japanhascomet.cocolog-nifty.com/blog/2020/09/post-e4d640.html
東や三浦はさておいても、高度経済成長期以降に育ち、冷戦体制崩壊後に成人した団塊ジュニア以降の世代は、基本的に統一教会的なものが嫌いだろう。俺もな。
今では忘れ去られているが、2000~2006年ごろの2ちゃんねるでは、韓国、中国、民主党だけでなく、森喜朗に代表される体育会系、マッチョ価値観の自民党重鎮も不人気で、平然と皇室をコケにする書き込みだって多数あった。非合理的な宗教団体は嫌われ、前近代的な家制度の束縛とかブラック企業的な上下関係を肯定する主張は評判が悪かった。
かつて2ちゃんねるに大量にいたネトウヨことネット右翼は、なぜ韓国人や中国人を嫌悪したのか? 戦前戦中の日本に対する非難が自分個人への非難のように思えた点に加えて、韓国人や中国人の振る舞い(声が大きい、言動が粗暴、上下関係がきびしい等)に「前近代」の臭いを感じ取っていたからではないか。
ネットでは保守愛国を主張して戦前日本を賛美ながら、平然と「中国、韓国は儒教国家だからダメだ」と言う人間が少なくない。お笑い草である。戦前までの日本だって支配階級の基本思想は儒教だった。幕末に尊王攘夷運動が起きたのは江戸時代に朱子学が普及して、「幕府が天皇から権力を奪っているのは忠義に反する」という考え方が広まった結果だ。明治維新後も、明治天皇の教育係の元田永孚は西洋嫌いの儒学者で、名君の教科書として唐代の『貞観政要』を読ませたし、教育勅語は儒教的価値観の産物だ。
だが、どうやら団塊ジュニア世代以下のネトウヨの頭の中にある理想の日本は、最初から西洋的価値観の近代国家だったらしい。彼らには古代中世の日本の伝統的価値観を本気で学ぶ気などなく、和歌や能楽や歌舞伎や浄瑠璃より、漫画やアニメやゲームが好きなのが本音だろう。そういえば橋下徹も、平然と文楽の予算を削減しようとしてたな。
「保守・愛国を唱えながら近代合理主義で何が悪いの?」と言う人もいるだろう。世の中には、何も悪いことをしてない人間にも病や死や不幸が降りかかったり、不合理がいくらでもある。何でも理性で解決できると思い、現代人から見れば非合理な考え方に従っていた古代や中世の人間を愚かとしか見なさないのは、思い上がりだ。そうして過去の時代の人々という他者への想像力を持とうとせず、過去の世代が積み重ねてきた道徳観への敬意がなくなると、経済的な損得ばかりが最優先の価値観になる。「皇室の維持は国費の無駄だから天皇制反対」と言い出す者も出てくるかもしれない。
そうなれば、単に力(財力、権力、情報発信力)がある奴が勝ちだ。日本でもドナルド・トランプのような男が国家元首になるかもしれない、トランプならまだ人物的に面白味があるが、竹中平蔵やワタミが大統領になったら本当にイヤだぞ。
統一教会は2015年に世界平和統一家庭連合と改名した。団体名に「家庭」とつくのがポイントだ。自民党による憲法改正案で、第24条に加筆された「家族は、互いに助け合わなければならない」という一文は、統一教会の主張と同じだといわれる。また、「こども庁」の名称が「こども家庭庁」となったのは統一教会の影響という説もある。
https://twitter.com/izumi_akashi/status/1548537253018103808
つまり、統一教会はとにかく家族の重視を唱える。彼らの教義は、俗流キリスト教と、家父長の権威や先祖供養を重んじる東アジア的な儒教道徳の混合物で、教祖の故・文鮮明をお父様、その妻の韓鶴子をお母様と呼ぶ。このような教団組織という大きな家族への絶対服従を唱える思想が、皮肉にも結果的に山上徹也個人の家庭を破壊した。
『週刊文春』7月21日号では、橘玲が「リベラル化した社会に敗れた男の”絶望”が暴発した」と題して、安倍晋三を暗殺した山上徹也のことを論じている。現代は家制度の束縛などが機能しなくなった「自由」な社会だが、それゆえに自力で自己実現できなかった孤立した人間が増えているといった内容で、その極端な暴発例に2008年の秋葉原通り魔事件や、2019年の京アニ放火事件を挙げている。指摘自体はおおむね間違ってないだろうが、なぜそのような世の中になったかの説明が抜けている。
リベラル思想以前に、社会構造の変化がある。そもそも、伝統的な家族観、家父長の権威とか、早く結婚して何人も子供を産むのが良いことだという考え方は、近代以前の農村社会が前提だ。農家は個人経営で、家父長のもとで妻子が一緒に農作業し、働き手として子供の数は多い方が都合よいから多産が奨励された。そして、農地という生産手段を継承するために血統の存続が重視され、先祖からの連続性が意識されていた。漁村も商家も同様に家族経営が基本で、船や商材を継承するため家制度が重視された。
ところが、産業革命期以降になると、農村の余剰人口は都市に流れて工場労働者となり、先祖代々の土地と家から離れて生きるようになる。労働者はみんな家庭外で雇用され、子供は家族から切り離され、父親も母親も子供も(昔は各国で児童労働が横行していた)ばらばらに働くようになり、自宅の窯でパンを焼いたり時間をかけて食事することもできなくなった(『世界の歴史 第25巻』(中央公論社)270p)
統一教会のような反共主義者は、「左翼リベラル思想が伝統的な家族観を破壊した」と主張するが、この解釈は因果関係が逆転している。共産主義は、工業が発達して伝統的な家庭を成立させる農村社会から切り離された都市労働者が世にあふれた結果から生まれた思想だ。マルクスより先に、経済的利益のために伝統的共同体を解体して蒸気機関と工場労働者を世に広めた資本家がいたのである。
逆に、農村社会に戻れば前近代的な家父長制は復活するだろう。だったら、商工業を全否定して国民を農村に強制移住させたポル・ポトのカンボジアこそが理想かよ?
先進国では工業化社会がさらに進むと、世の中は第三次産業中心になり、庶民はみんな勤め人の都市生活者となっていった。これは産業社会の要請によるものだ。以前も書いたが、(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20170522/p1)高度経済成長期に中卒や高卒で都市の工場や商店に就職していった女性は、左翼リベラル思想に影響されて社会進出し勤め人は世襲の家業ではないから、妻子が家に従属する必要はない。リベラル思想に関係なく、前近代的な家制度の束縛が弱くなるのも当然だ。生まれた時からこういう環境に慣れきって育った世代が、家父長の強い権威やきびしい上下関係を嫌うのは必然だろう。
こう書いている自分も、会社員の家の次男坊で、実家に従属する義理はないから上京以来ろくに親元に帰らない。長男の長男だった兄まで、ついに生活のためやむなく父の墓がある土地を離れてしまった。先祖代々の土地や家業を持ってるのではないのだから仕方ない。
統一教会のような保守派は、家族が大事だと主張するけれど、口先の精神論ばかりで上記のような社会構造の問題にまったく踏み込めていない。
困ったことに、農村社会や家制度のような伝統的な中間共同体が力を失うと、その代替物として、一足飛びなナショナリズムかカルト的団体に帰属意識を求める者が増える。
エマニュエル・トッドは、『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(文春新書)で、宗教的伝統が衰退すると代わりに排外的ナショナリズムが台頭すると述べていた。何でも、ドイツでは19世紀末から1930年代に昔ながらの教会を中心とした農村共同体が弱体化した代わりに反ユダヤ主義が台頭し、ナチス支持につながったという。
統一教会をめぐる報道で、山上徹也の母のように財産すべて差し出す信者の気持ちが理解できないという人は多い。しかしながら、外部から見ればいかに狂信的な団体でも、内部の信者には何らかの「魅力」がある。
先に述べたように、世の中にはいくらでも非合理的なことがある。それまで合理主義者だった人間が、病や死のような自分の力に直面していきなりオカルトや宗教に走った例は少なくない。帝国海軍の名参謀だった秋山真之や、アップルのスティーブ・ジョブスのような英才も、最期は近代医学に頼らず怪しげな方法に頼って病を治そうとして、かえって早死にした。こういう極端な思考に走らないためにも、世の中は理性で解決できないこともあると頭の片隅に置いて、非合理的なものへの免疫をつけておくこと必要だ。
そこまで追い詰められなくても、「大きなものにつながりたい願望」を抱く人間は多い。人には何かに帰属することによって得られる充実感というものがある。これは左派陣営の団体も同じだ。
こう書けば左翼リベラル派は激怒するだろうが、世の中には男尊女卑や家父長制に身をゆだねることに安心感を抱く者もいる(俺自身は嫌いだが)。いかに社会制度が近代化しても、誰もが自立した個人になれるわけではないのだ。
あの気持ち悪い集団結婚式にしても、なまじ自由恋愛の時代になると結局誰も選べずに結婚相手が決まらず、いっそ超越的な立場の第三者に一方的に決めてもらう方が安心、という人間も世の中には一定数いるのかもしれない。
これも以前に述べたが、カルト宗教などが行う洗脳とは、命令に従わせることではなく、被洗脳者が自発的に洗脳する側に忖度するように”誘導”することである(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20121101/p1)。
その手段として「場の空気」の力がものを言う。場の空気を使った洗脳はじつに簡単だ。こんな話がある、皆さんはカップ入りアイスクリームを食べるとき、どこから食べるだろうか? たいてい最初はカップの縁にスプーンを入れるだろう。あるとき数人の集団で、1人を除いた全員があらかじめ示し合わせて、みんなカップの真ん中にスプーンを入れて食べ、残った一人を「端っこから食べるなんてセコいなあ」と言ってからかった。仲間外れにされた1人は本気で、自分の方が異常で、アイスクリームは真ん中から食べるのが世間の常識だと錯覚したという。
これと同じように、閉鎖的な教団内では容易に「みんな多額の献金をしてるんだから、そうしない自分の方がおかしい」と思い込むように仕向けられる。宗教団体も、ネットワークビジネスも、会員制オンラインサロン商法も同じだ。
信者は教祖や教団幹部個人の命令に従っているというより、信者集団の「場の空気」によって献金しなければならない気になっている。周囲にいる人間が競い合って同じことをしているのに、自分だけそれをやらないと自分の方が変だと思い込んでしまうのだ。そりゃ「空気を読む」ことが至上の美徳という価値観で育った日本人なら従ってしまうだろう。
2022年現在の状況では、まだまだ自民党に対する統一教会の影響力は強そうだ。しかし、このまま上記に述べたような近代の社会構造が続くのであれば、20~50年ぐらいの長期スパンで見た場合、統一教会的なるもの――家父長制バンザイのカルト宗教は徐々に人気を失っていくだろうと考えられる。
実際、100~200年ぐらいの視野で見れば、左翼リベラル陣営はずっと勝利し続けている。世の中は、近代的な商工業が発達すればするほど、上下関係は緩くなり、男女は平等に近づき、セクハラやパワハラは嫌われ、体罰や理不尽な校則は廃止される方向に進んできた。
ただし、それは必ずしも自由平等人権といったリベラルイデオロギーの魅力による勝利ではない。単に文明の発展によって、人間が図々しくなっただけだ。
近代以前はあらゆる労働が筋力中心だったから、無条件に成人男性が一番偉くて、女子供は成人男性に従うものだった。しかし、そのような価値観は、スマホやコンビニやAIやドローンの普及と引き換えに後退しつつある。あるいは、汗臭い筋肉労働を人件費の安い海外にアウトソーシングしたり国内の視野から消し去っただけだ。外国人技能実習生の世界では、依然として日本人相手なら許されないパワハラが横行している。
いかに自由平等人権といったリベラルイデオロギーの字面が美しくても、思想だけで世の中は動かない。民主主義は古代ギリシャにもあったが、あらゆる労働が人力の時代だったから、ついぞ奴隷制は廃止されなかった。19世紀に入るとイギリスもアメリカも奴隷制を廃止したが、それはリベラルな人道主義者の主張より、奴隷を使うプランテーション農場と比較して工場経営のほうが儲かると判断されるようになった影響が大きい。
統一教会による霊感商法、巨額の献金要求は許しがたい犯罪行為で、自分もこういうカルト宗教は大嫌いだ。ただ、統一教会的なものを嫌悪する自分たちは、たまたま土着的な農村社会が崩壊して家制度の束縛が機能しなくなった時代に生まれ育ったから、統一教会的な家父長制価値観への Permalink | 記事への反応(1) | 23:06
やすかったよ~
https://toyokeizai.net/articles/-/507676
ロシアがウクライナに執着する理由は大きく2つあると考えられる。1つは国家安全保障に関するもので、もう1つはロシアとウクライナの歴史的・文化的親近性に関係するものだ。
国家安全保障に関してロシアは、よく報じられているとおり、ウクライナのNATO加盟阻止が主たる目的である。隣国ウクライナがロシアの抑止を目的とするNATOに加盟することで、ロシアの安全保障が脅かされるのを防ぎたいということであり、シンプルでわかりやすい論理である。安全保障の観点から見れば、ロシアはウクライナにおける影響力を確保し、自らの勢力圏にとどめようとしていると見える。
しかし、ウクライナがNATOに加盟しようがしまいが、この期に及んでロシアの勢力圏にとどまるとは考え難い。さらに、ウクライナが集団防衛の国際組織であるNATOに加盟することがロシアにとってどの程度の脅威になるかといえば、ロシアが侵略の意図を見せない限り、NATOがロシアを攻撃することはありえない。
実際、ロシアはNATO原加盟国であるフランスやドイツとは良好な関係を築いており、特にドイツとの間では、アメリカやヨーロッパ諸国の懸念に抗してガスパイプライン「ノルドストリーム2」を開通させようとしているほどである。また、ヨーロッパ以外の唯一のNATO加盟国であるトルコとの関係も良好であり、トルコにとってのロシアはアメリカと並んで主要な武器の購入国である。
また、軍事力の大きさで比較しても、ウクライナがロシアにとって大きな脅威になるとは考えられない。ウクライナが兵員約25万、戦車2500台、装甲車両1万1435台、自走砲785基であるのに対し、ロシアは兵員約100万、戦車1万3000台、装甲車両2万7100台、自走砲6540基とされる。
NATOが喉元まで迫ってくる?
それでもロシアがウクライナのNATO加盟を恐れる安全保障上の背景には、ウクライナがロシアとNATO(ポーランドやルーマニア)との間に位置しているという事情がある。
ウクライナが加盟すれば、NATOがロシアの喉元までやってくることになる。ただし、2004年にNATOに加盟したバルトのエストニアやラトビアもまた、ロシアと国境を接しているのである。バルト諸国はロシアにとっての安全保障上の脅威となっているだろうか。必ずしもそうとは言えないだろう。
では、ロシアがウクライナを特別視するもっと重要な理由は何か。それはウクライナとの歴史的・文化的親近性とそれに伴う近親憎悪にあると考えられる。
近代国家としてのウクライナ国家は1991年のソ連崩壊後、初めて国家として成立した非常に若い国であるが、歴史的に見れば、ロシアを含む東スラブ民族の発祥の地である。つまり、ロシア人はウクライナを自分たちの一部と感じている。
一方のウクライナ人はロシアではなくウクライナとしてのアイデンティティを持っており、この双方の認識の違いが問題なのである。ロシアによるウクライナへの執着は大きく、ウクライナのロシアへの思いはほとんどないというわけである。この関係を一方的な片思いに例えてもあながち間違いではないだろう。
もともとは(主に)近代国家を成立させた国が主にキリスト教だった関係で、罪を裁くのは神であって、人間ではないのが基礎。
ただし教会が政治と一体だった頃は「神の代行者」として死刑が行われていた。
が、政教分離の原則が広まり、政府(行政)は神の代行者ではないのだから死刑を執行できる立場ではないし、教会も政治を執行できないのだから死刑を執行する立場ではないというデッドロックが死刑廃止論の基礎となる。政教分離した結果、死刑を執行する立場の正当性を成立させる芯がなくなったわけだね。そんなものを「ある」ことにできるのは、まさに宗教あってのもので、それ抜きで理解の及ぶところではない。
まあ日本の死刑廃止論者は、たんに白人様がそうおっしゃっているのだから、それにのっとって作られた今の政治体制ならば、それが正しいあり方である、みたいな出羽の杜だと思うけどね。
お金は決定打にはならない、というのはもう確定した説です。アフガニスタンなんて、その国のGDPの10倍にあたる額を最強国家アメリカがつぎ込んだのに、結局安定した国家を築くことができてない。アメリカは4年間の大統領の任期中にアフガニスタンをわかりやすく近代国家にしないといけなくて、ひたすらお金をぶち込んだけど、結局全部軍閥に流れた。アフガニスタンの人は別に近代国家を求めてなかったから。時間をかけて人々の意識を変えないといけないのに、アメリカにはその時間がなかった。
最終的には、貧困層が自分で現状を変えようと思わないと変わらない。汚職を減らすとか、教育を広げるとか、女の子にも教育を受けさせるとか、平均寿命を二十代から五十代にするとか、金持ち有利の規制を減らすとか、身近に成功した人を増やすとか、社会を変えて、少なくとも、学校に行ったら自分の子供は自分よりいい生活ができるようになる、努力で貧困から抜け出すことができる、と信じられるようにならないと、貧困はなくなりません。世界的にSDGsを盛り上げるのは、いろいろな国の社会をより良い方向に変える一助になると思います。