はてなキーワード: 海辺のカフカとは
ギャルゲーのオープニングムービーのノリで紹介していきたいと思う。含ネタバレ。
「私なんかね、髪の長い下品な女の子二百五十人くらい知ってるわよ、本当よ」
ノルウェイの森はご存知ダブルヒロインシステムで展開する物語であり、正ヒロインの直子に対する反ヒロインがミドリである。ミドリは深い自己反省を行う直子とは正反対のキャラクターとして描かれているものの、要所で当を得た優れた知性の持ち主でもある。物語の途上、直子との恋愛に疲れ果てていく主人公のワタナベに対して次第に親しみを募らせていき、最終的には恋に落ちる。明るくユーモラスだが苦労人でもあり、「人生はビスケットの缶のようなもの」という独自の哲学を披露する。
「たぶん私たち、世の中に借りを返さなくちゃならなかったからよ」
正ヒロイン。ヤンデレの先駆け。高校時代に亡くなった恋人の記憶を延々引きずり続けており、その代償行為としてワタナベとの関係を求めた結果、人生が取り返しのつかないほどこじれてしまった。曰く「自分自身が二つに分裂して木の周りで追いかけっこしている」。物語の中盤から京都のサナトリウムにて療養生活を送ることになるが、最終的にワタナベの魂を深淵へと引きずりこむこととなる。
「私たちがまともな点は、自分たちがまともじゃないってわかっていることよね」
ダブルヒロインと銘打ちつつも、中盤以降登場するサブヒロイン。
若い頃は有能なピアニストであったが、演奏のストレスにより精神に不調をきたしてしまい、それ以来人生に振り回れされ続ける。挙げ句の果てに、教師としてピアノを指導していた美少女にレズレイプされそうになるなど、人生が取り返しのつかないほどこじれてしまった。主人公とのラストシーンで読者を激しく混乱させる。
「なんかさ、うまく言えないけど、本当の弟みたいな気がしてるんだ」
『海辺のカフカ』はドイツにおける「フランツ・カフカ賞」やイスラエルの文学賞である「エルサレム賞」の獲得への原動力となった作品であり、ギリシャ悲劇の色彩とインスピレーションを帯びたポップな文体が特徴である。主人公は十五歳の少年で、田村カフカという偽名を名乗っており、作中においてその本名は明かされない。
作中一番最初に主人公が邂逅する他者がさくらであり、彼女もまた苦労人。幼少期から両親との折り合いがつかず、一刻も早く自立し一人で生きていくことを人生の方針にしていた。職業は美容師。
主人公はかつて姉と両親の四人暮らしをしていたが、その途上で母と姉は家を去っている。主人公はその、顔もろくに覚えていない姉の姿を、さくらへと重ねるのである。ヒロインというか擬似的な姉とも言うべき存在。
「あなたは誰なの? どうしていろんなことをそんなによく知っているの?」
正ヒロイン。五十代の美しい女性であり一切が知的に洗練されているが、巨大なオブセッション(強迫観念)によって人生を摩耗させている。
彼女の人物設定は『ノルウェイの森』をなぞる形となっており、先に紹介した直子の鏡写しのような存在である。彼女が勤めている私立図書館は、かつての恋人の父親の所有であり、話がややこしくなるのだけれどこの父親は物語中には登場しない。問題はその恋人とのことで、彼女は幼少期から恋人と親密な関係を築くのだけれど、最終的に死別する。それから三十年以上もの間、彼女は自身の空虚な人生に苦しみ続けた結果、主人公と出会う。
「いつそれを言ってくれるか、ずっと待っていたんだ」
ヒロイン欄にこの人物の名前を記すこと自体が既にネタバレなのだけれど、とにかくヒロインの一人。ボーイッシュ枠。
美しい太った娘。村上春樹は1979年にデビューして以来、1987年に至るまで十年近くキャラクターに名前を付けるのが恥ずかしかったとのことで、一部の例外やあだ名を除いてキャラクターは無名である。よって1985年に出版された本作においても、一切の登場人物の名前は明かされない。
幼い頃に家族を全て交通事故で失って以来、祖父である天才科学者の「博士」の元で純粋培養された少女。十七歳。教育方針によって学校には通わず英才教育を受ける傍ら、適度に脂肪を取らされ、適度に太らされている。性欲一般に関してあまり理解しておらず、主人公に何かと性的な質問を向けては困らせる。
「博士」による教育の結果、語学などの現実生活を送るための技術を複数習得している才女。決断力というか胆力があるが、どこかしら世間知らずな面は否めない。
「それが何かはわからないけれど、どこかで昔感じたことのあるもの。空気とか光とか音とか、そういうものよ」
多重世界の表の側である『ハードボイルド・ワンダーランド』に登場する娘。なお裏の世界である『世界の終り』においても、同一存在として主人公の前に現れる実に因縁深い存在でもある。図書館のリファレンス係をしており、主人公が一角獣に関するテキストを請求したことから親しくなる。大食漢であり給料の大半が食費に消えるが、上記の娘とは違い極めて均整の取れたスタイルの持ち主である。
「――私の心をみつけて」
多重世界の裏の側である『世界の終り』に登場する娘。リファレンス係の娘の多重存在。「古い夢」と呼ばれる一角獣の頭蓋骨を、図書館で管理している。
『世界の終り』においては心は動き回る影の形で存在しており、影は人が大人に成長する前に特殊な器具によって切り離され、埋葬される。その儀式を経た後は全ての人間は「完全」となり、年を取ることもなく何かに怯えることもない。彼女もまたそのようにして心を喪う中、やがて外の世界からやってきた主人公と出会う。
「俺は君をどうしても外につれだしたかったんだ。君の生きるべき世界はちゃんと外にあるんだ」
おまけ。
『世界の終り』に登場する主人公の影。頭の回転が速く機転が利くが、主人公と切り離されてしまったため大きく体力を奪われており、ほぼスペランカーと化している。
『世界の終り』において門番の男に幽閉され、真綿で締め上げられるような虐待を受け続ける。
俺は『騎士団長殺し』を除いて全ての長編を読破しているんだけれど、まだまだヒロインはたくさんいる。あるいは続編を書くことになるかもしれない。
村上春樹を英語で読む。私はこれでTOEIC900点を突破しました。
小説を読むうえで大きなストレスとなることの一つに、著者が描く情景、主人公の心情、時代風景などがピンとこない、ということがあります。外国の小説の場合は、たとえ日本語に翻訳したものを読むときであっても、日本人である我々は感情移入ができず、結果として、なかなかサクサクと読み進むことができません。英語で読む場合は、これが「英語という言葉がわからない」「書かれてある内容自体がピンとこない」の二重のストレスになってしまい、英語上達のためのポイントである「多読」の障害となってしまいます。対処法は簡単です。日本人の著者が書いたものを英語で読むこと。そして自分が好きなものを読むことです。
私は昔から村上春樹が好きで、ノルウェイの森は特に、これまでにたぶん10回以上読み直しています。話の流れはほぼ完ぺきに頭に入っているので、Vintage版のノルウェイの森は簡単に読み終えることができました。これは、いままで、いろいろな英語の小説(ポール・オースターからハリー・ポッターに至るまで)にトライし断念してきた私にとって大きな自信になりました。
次に、今まで日本語でも読んだことがなかった、海辺のカフカを試してみました。これも多少は日数はかかりましたが、楽しみながら英語で読み終えることができました。同じようにして、これまでに長編・短編を何冊か読んでいます。
村上春樹の小説の主要なものはほとんど英訳されていて、Amazonなどで手軽に手に入ります。村上春樹がかなり好きな人であっても、読んでいない作品というのはあるかと思うのですが、そうしたものであっても英訳で読むことができます。自分が初めて読む小説が、それが英語で書かれているのにもかかわらず情景がすんなりと理解できる、というのはすばらしい快感です。それは、ちょうど、海外の作家の本を英語で読んだ際の、自分が理解できているのかどうかに確信が持てないもどかしさの対極にあります。
村上春樹が好きでない人は、自分の好きな日本人作家を読めばいいと思います。吉本ばななや村上龍も英訳が多く出ているのでいいと思います。三島由紀夫、安部公房、井上靖が好きなので英語で読んでみましたが、これらは私にはダメでした。時代が違う作家の文章は、英語になってしまうと、一発でピンとくる感じがなくなってしまいます。小説ではありませんが、最近のアニメや日本映画を英語吹き替えプラス英語字幕で観るという方法はよいかもしれません。
「本読もう!」
2.すげーっ本っておもしれーー
3.「海辺のカフカ」すげーー!こういう考えがあるんだ!!
4.(その後、「IQ84」、「色彩を持たない多崎つくると、 彼の巡礼の年」読み、ハルキストとして思想を享受し、神格化する)
6.「限りなく透明に近いブルー」読了。えぇと、ふーん。
7.「トパーズ」ああ、えぇと、ふーん。
8.「五分後の世界」おぉおおおおお!すげーー!
9.(あ、でも、暴力とか薬とか、ちょっとついていけんわ・・・)
11.「オーデュボンの祈り」読了。なんか春樹っぽいかも!おもしれー!
13.(その後、「アヒルと鴨のコインロッカー」、「ゴールデンスランバー」読み、映画もことごとく制覇していく)
15.「辻村深月」って話題だな、読もう! ※平積みされている=話題
16.「冷たい校舎の時は止まる」ふーん
18.「スロウハイツの神様」へー。
19.「V.T.R.」うわー!あのチヨダコーキだ!!これってぜってー春樹じゃね?!マジ最高!
21.「森見登美彦」ってツウが読んでるっぽいぞ、よし!
22.「太陽の塔」やべー・・・俺のこと書かれてるみたいだ・・・
23.「夜は短し歩けよ乙女」ふーん
24.(とりあえず読んだ!)
25.「万城目学」って話題なんだ、これも読もう! ※平積みされている=話題
27.「かのこちゃんとマドレーヌ夫人」ふふん。こういうのが良いんだよ。分かってないな、みんな。
28.ったく、、、知らなかったぜ、こんなに本が面白いなんて。
進撃の巨人のPV見て思った。『世界よ、これがアニメだ』とでもキャッチコピーつけとけばいいんじゃないかな。
なんて言うか、映像だけって感じ。凄いのはわかるけど、いまアニメにしちゃうのって思っちゃう。
だって原作何一つとしてナゾ解明されてないじゃん。このままアニメになったら、オリジナル展開確実じゃん。
映像の話に戻るけれど、アニメにはもっと話で盛り上げて欲しいんだよ。
脚本家がいるのは知ってる。それでも、原作ありきの脚本にしかならないじゃない。
オリジナルアニメのいいところは、知らない話であることだと思うんだ。
知らない物語だからわくわくする。もちろん、知っていてもどんな映像になるかわくわくはできるけど、空っぽの器に水を注いだほうが新鮮な気がするんだ。
だからさ、オリジナルやれよ。まどマギみたいのでもいいよ。あるいは京騒戯画みたいのでもいい。もっとオリジナル増やそうよ。
プリキュアは展開が決まってるからあれだけどさ。巌窟王とかハムレットとか、古典をアレンジするのでもいいよ。メディアミックスを謳うなら、もっと幅広い層からネタを拾ってこいよ。
昔のアニメは、アニメと漫画が分断されてて、それ故に知らないアニメが増えていたきらいがある。
イバラの道なんだろうけどさ、冒険してもらいたいよ。海辺のカフカとか、ドグラ・マグラとか、そういうのを映像にしてよ。
アニメーターさんごめんなさい、アニメ会社の皆さんごめんなさい、僕を死刑にしてください。
汚れちまった悲しみに・・・
翻訳は、村上の作品を組み立てる原理だとさえ言えるかもしれない。
彼の作品は翻訳されているだけでなく、翻訳についてのものだと考えられるのである。
村上的ストーリーにおける至上の愉しみは、とても普通の状況(エレベータに乗っている、スパゲッティを茹でている、シャツをアイロンがけしている、など)が
突然非日常(不思議な電話を受ける、魔法の井戸に落ちる、羊男と会話する、など)へ変貌するのを見ることだ。
言い換えるならそれは、登場人物が存在論的に盤石な立場から完全な異世界へと投げ込まれ、
たどたどしくも二つの世界の間をとりもつことを余儀なくされる瞬間だ。
村上作品の登場人物はある意味でいつも、根底から異なるいくつかの世界のあいだで翻訳をしている。
言い換えれば、彼の全作品は翻訳の作業を劇に仕立てたものなのだ。
村上の車の後部座席に戻ろう。
多くの企業の本社や、巨大な船のかたちをしたラブホテルを通り越していく。
およそ1時間後、風景は急峻な山道になり、私たちは村上の家に到着した。
木の生い茂る丘の上、山と海の間にある、こぎれいだが平凡な外観の二階建てだ。
靴をスリッパに履き替え、村上に連れられて彼のオフィスへと入る。
自らデザインした小部屋であり、『1Q84』のほとんどはここで書かれた。
同時にそこは彼の膨大なレコードコレクションの住処でもある。
(10000枚くらいだろうが、怖くて実際に数えてはいない、と彼は言う)
オフィスの幅広い壁二つは、床から天井までアルバムで覆いつくされている。
山々に向けて突き出している窓の下、部屋の端には巨大なステレオスピーカーが君臨している。
室内のもう一つの棚には村上の人生と作品にまつわる思い出の品々がある。
彼が『海辺のカフカ』で殺人者として想像したジョニー・ウォーカーを描いたマグカップ。
はじめてマラソンを完走したときの、くたくたの彼を写した写真(1991年ニューヨーク市にて、3時間31分27秒)。
壁にはレイモンド・カーヴァーの写真、グレン・グードのポスター、ジャズの巨匠の肖像がいくつか。
村上がもっとも好きなミュージシャン、テノールサキソフォンのスタン・ゲッツの写真もある。
私はレコードをかけてもらえないかと頼んでみた。
『1Q84』の始まりを告げ、その物語のなかで繰り返し鳴り響く曲である。
それは速く、アップビートで、劇的──まるで普通の曲が5つ、ペンキの缶のなかで決闘しているかのようだ。
同時にそれは熱狂し、ねちねちとした、暴力的な『1Q84』の冒険の主題曲として、もっともふさわしい。
村上はその奇妙さを買って「シンフォニエッタ」を選んだという。
「オーケストラの後ろにトランペットが15人いた。変だった。すごく変だった……その奇妙さがこの本によく合う。この物語にこれ以上よく合う音楽は思いつかない」
彼は何度も何度もその曲を聴いて、そして開幕のシーンを書いたという。
「シンフォニエッタを選んだのはまったく人気がない音楽だったからだった。でも本を出版してから、日本では人気が出た。小澤征爾さんに感謝されたよ。彼のレコードがよく売れたからね」
「シンフォニエッタ」が終わると、私は最初に買ったレコードは何か覚えているかと尋ねてみた。
彼は立ち上がり、棚をごそごそと探して、一枚のレコードを手渡してくれた。
「The Many Sides of Gene Pitney」。
カバーを飾るのは、華やかな姿の Pitney。60年代前半のアメリカのクルーナー歌手である。はまだらのアスコットタイに艶のある赤いジャケットを着て、髪型は崩れ落ちる波を凍らせたようにみえる。
村上は13歳の時、このレコードを神戸で買ったという(当初のものは擦り切れたため、何十年か前に買い直している)。
針を下ろすと、流れ出す Pitney の最初のヒット曲「Town Without Pity」。
劇的な、ホルンの即興とともに Piteny の歌声が黙示録的な叫びを歌う。
「若者にはつらいことがある、たくさんある/分かってくれる人がほしい/助けてくれよ/土と石でできたこの星が壊れるまえに」
終わると村上は針を上げ、「バカな歌だ」と言った。
『1Q84』を書いているあいだ、『1984年』を読み直したかと尋ねてみた。
彼は読み直したといい、それは退屈だったという。
(これが悪い評価だとは限らない。野球のどこが好きかと尋ねた際、彼は「退屈だから」と答えた。)
「始まりはいつも暗く、雨で、人々が不幸せそうにしている。コルマック・マッカーシーの『The Road』は好きだし、よく書けているけれど、でも退屈だ。暗いし、人間が人間を食べるし……ジョージ・オーウェルの『1984年』は近未来小説だけど、この本は近過去小説だ」
『1Q84』について「我々は同じ年を反対側から見ている。近過去なら退屈じゃない」
「オーウェルと僕はシステムについて同じ感じを受けていると思う」と村上は言う。
「ジョージ・オーウェルは半分ジャーナリストで半分小説家だ。僕は100パーセント小説家だ……メッセージを書くことはない。よい物語を書きたい。自分は政治好きな人間だと思うけれど、政治的メッセージを誰かに向けることはない。」
とはいえ村上はここ数年、彼にしては珍しく、政治的メッセージを大々的に言明している。
2009年、批判のなか彼はイスラエルでエルサレム賞を受賞しに行き、そこでイスラエルとパレスチナについて語った。
この夏、彼はバルセロナでの受賞式典の機会を利用して日本の原子力行政を批判した。
一度目はまったくの被害者としてだったが。
バルセロナの演説について尋ねると、彼はパーセンテージを少し修正した。
「市民として言いたいことはあるし、求められればはっきりと言う。あのときまで原発について明確に反対する人はいなかった。だから自分がやるべきだと思った。自分にはその責任がある」
演説に対する日本の反応は概ね好意的だったという。
人々は津波の恐怖が改革への媒介となってくれることを、彼と同じように、期待していたのだ、と。
「これは日本にとって転機になると、日本人のほとんどが考えていると思う」
「悪夢だけれど、変化のチャンスでもある。1945年以来、僕たちは豊かになるために働いてきた。けれどそれはもう続かない。価値観を変えなければならない。どうやって幸せになるかを考えなければならない。お金でもなく、効率でもなく、それは人格と目的だ。いま言いたいことは1968年から僕がずっと言っていることなんだけれども、システムを変えなければならないということ。今は、僕たちがまた理想主義者になるべきときなんだと思っている」
その理想主義はどんなものか、アメリカ合衆国をモデルケースとして見ているのか、と尋ねた。
「いま、僕たちにはモデルケースがない。モデルケースを作り上げなければならないんだ」
地下鉄サリン事件、阪神大震災、そして今回の津波……現代日本の数々の災害は、驚くほどにまで村上的だ。
地下での暴力的な衝動、深く隠されたトラウマが大量破壊を引き起こすものとして現れ、地上の日常を襲う。
彼は深さのメタファーを多用することで知られる。
登場人物たちはカラの井戸に降りていき、東京の地下トンネルに生きる闇の生き物に出会う。
(彼は別のインタビューで、井戸のイメージをあまりに何度も使って恥ずかしくなったため、8作目以降、できるだけ使わないように心がけたと話している)。
毎日机に向かい、集中力に満たされたトランス状態の中で、村上は村上的キャラクターになる。
それは、自らの無意識の洞窟たる創造性を探検し、見つけたものを忠実に報告する、普通の人物である。
「僕は東京に住んでいる。ニューヨークやロサンジェルスやロンドンやパリのように文明的といっていい世界だ。
魔法じみた状況、魔法じみた物事に出会いたければ、自分の中に深く潜るしかない。だから僕はそうしている。
魔法的リアリズムとも呼ばれるけれども、自分の魂の深みのなかでは、それは単なるリアリズムだ。魔法ではなく。
書くときには、非常に自然で、論理的で、リアリスティックで、合理的に感じる。」
執筆しないとき、自分はどこまでも普通の人だと村上は強調する。
彼の創造性は「ブラックボックス」であり、意識的にアクセスすることはできないという。
彼はシャイであり、メディアにあまり登場したがらない。道端で読者から握手を求められた時にはいつも驚く。
人が話すのを聞くほうが好みだと彼は言う。
実際に、Studs Terkel の日本版のようなものとして彼は知られている。
1995年サリンガス事件があったとき、村上は被害者65人と被疑者らを1年かけてインタビューし、
その結果を分厚い2冊組の本として出版した。
のちにそれは『Underground』として、大幅な簡略化をしたうえで英語に翻訳された。
この会話が終わったとき、村上はランニングに誘ってくれた。(「僕が書くことについて知っていることのほとんどは、毎日のランニングを通して学んだ」と彼は書いている)
身軽で、安定していて、実践的だ。
たがいの走り幅がつかめて1、2分たつと、村上は自分が単に「丘」と呼ぶところに行ってみないかと尋ねてきた。
それは試合の申し込みか警告のように聞こえた。
そんな言い方をした理由はすぐに分かった。
というのもまもなく「丘」を登り始めることになったからだ。
もはや走るというよりは、急な坂にさしかかって足をとられているというほうが近く、
地面が傾いたランニングマシーンのように感じられた。
道の終わりに向けて一足踏み込むと同時に私は村上に向けて「大きい丘でしたね」と言った。
そこで彼は指をさして、先にジグザグ道が続いており、私たちはまだほんのひと曲がり目を終えたにすぎないということを教えてくれた。しばらくして、二人の息が切れ切れになってくると、このジグザグ道には終わりがないのではないかと心配になってきた。
上へ、上へ、上へ。
しかし、やっとのことで、私たちは頂上に着いた。
海ははるか下に見えた。
それは秘められた巨大な水世界、日本とアメリカのあいだの、人が住まない世界だ。
その日見たかぎり、水面は静かだった。
そして私たちは下りを走り始めた。村上は村を通る道に誘ってくれた。
大通りのサーフショップ、漁師の家がならぶ界隈を通り過ぎた(彼はそのあたりの庭に古くからの「漁師神社」があるのを指差して教えてくれた)。
空気は湿っていて塩のにおいがした。
私たちは並んで浜まで走った。
村上がかつて名もない翻訳者だったころセントラルパークでジョギングをともにしたジョン・アーヴィングについて話をした。
セミについても話をした。
何年も土のなかで生き、地表にぽっと出て、わめき、最後の数ヶ月を木の上で過ごすのは、どんなに変だろうかと。
走り終えて家にもどると、私は村上の来客用バスルームで着替えた。階下で彼を待つ間、食堂のエアコンの風を受けて立ち、大きな窓からハーブと低い木のある小さな裏庭を見ていた。
最初それは鳥 – おそらくはその飛び方からして変な毛をしたハチドリのようにみえた。
が、すぐに2羽の鳥がくっついているようにみえだした。
飛ぶというよりはふらついているといった感じで、体の一部がそこかしこから垂れ下がっているようだった。
最終的に、それは大きな黒い蝶だと私は結論づけた。
見たことがないほど変な蝶だった。
浮かびながら、異星の魚のようにひらひらしつづけるその姿に幻惑させられ、
私はそれを既知の何かに分類したくなりかけたが、成功することはなかった。
それはひらひらと、およそ村上と私が走った道を引き返す形で、山から海に向けて飛び去った。
蝶が去ってまもなく、村上は階段を降りてきて、食堂のテーブルに静かに腰を下ろした。
見たこともない奇妙な蝶に遭遇したことを伝えると、彼は自分のボトルから水を飲み、私を見上げて言った。
「日本には色々な蝶がいる。蝶に会うのは変なことじゃない」
どうやら村上は、この本のアメリカ版をそのとき初めて目にしたらしい。
日本では『1Q84』は2年を掛けて3巻に分かれて発表された(村上は2巻目で一度終わりにしたが、一年後にもう数百ページ付け足したのである)。
アメリカでは、一巻のモノリスとして組まれ、秋の読書イベントに発表が設定された。
YouTube ではきらびやかなトレーラームービーを見ることができ、
一部の書店では発売日10月25日に深夜営業が予定されている。
Knopf は英語訳を急がせるため、二人の訳者に手分けして翻訳をさせた。
村上にこれほど長い作品を書くつもりがあったかと尋ねると、なかったという。
これほど長くなることが分かっていれば、書き始めなかったかもしれないともいう。
彼はタイトルや冒頭のイメージ(この作品の場合は両方だった)が浮かんだ時点で、机の前に座り、
毎朝毎朝、終わるまで書きつづけるのである。
といっても、この大作はごく小さな種から生まれた。
村上によれば『1Q84』は、人気を博した彼のショートストーリー『四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』(英語版では5ページ)を増幅させたものに過ぎないという。
「基本的には同じなんだ」と彼は言う。
「少年が少女に出会う。別れてしまった後、二人は互いを探し合う。単純な物語だ。それを長くしただけ」
筋書きを要約することすら、少なくともこの宇宙で人間言語をもって雑誌の1記事で書くとすれば不可能だ。
青豆という少女が、タクシーに乗って東京の周縁に掛かる高架の高速道路を行く。
そこで渋滞に巻き込まれ、身動きがとれなくなる。
チェコスロバキアの作曲家レオシュ・ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」だ。
「渋滞に巻き込まれたタクシーの中で聴くのにうってつけの音楽とは言えないはずだ」と村上は書く。
運転手は青豆に変わった迂回路を提案する。
高架高速道路には非常用脱出口が設置されている、そして、普通の人には知られていない脱出口への階段がある、と彼は言う。
本当に絶望しきっているのであれば、そこから地上に降りることもできる。
青豆が考えていると突然、運転手が村上一流の警告を口にする。
「見かけにだまされないように」と彼は言う。
降りていけば、彼女にとっての世界は根底から変わってしまうかもしれない、と。
そしてわずかではない違いとして、月がふたつあった(ちなみに彼女が遅刻した約束というのは暗殺の約束であったことが明らかになる)。
そしてその世界にはリトル・ピープルと呼ばれる魔法の種族がいる。
彼らは死んだ盲の羊の口(詳しく書くと長くなる)から生まれ、オタマジャクシの大きさからプレーリードッグの大きさにまで育ち、「ホーホー」と合唱しながら空中から透明な糸を紡ぎだして「空気さなぎ」と呼ばれる巨大なピーナッツ型のまゆを作る。
この本ではなかばあたりまで、このように浮世離れしたした超自然的ガジェット(空中に浮かぶ時計、神秘的なセックス麻痺など)が繰り出されてくるので、
私は行間にエクスクラメーションマークを置きたくなった。
この数十年、村上は自身が「本格小説」と位置づけるものを書こうとしていると言い続けてきた。
一例として彼は『カラマーゾフの兄弟』を挙げて目標にしている。
その試みこそが、三人称の幅広い視点から描かれた巨大小説『1Q84』であるように思われる。
怒り、暴力、惨事、奇妙なセックス、奇妙な新現実を抱えた本であり、
偶然ぶつかることになってしまった悲劇にも関わらず(あるいはその悲劇のなかでこそ)、
ひとりの人間の脳に詰め込まれた不思議を提示して、本書は読者を驚嘆させる。
驚きを覚える本の数々をこれだけ読んだあとでもなお、私は村上の本で驚かせられた。
そのこと自体が驚きだったと村上に伝えると、彼はいつものようにそれを受け流し、
自分の想像力を入れたつまらない花瓶でしかない、と言い張った。
「リトル・ピープルは突然やってきた」という。
僕は物語の虜だった。選択したのは僕ではなかった。彼らが来て、僕はそれを書いた。それが僕の仕事」
明晰夢を見ることがあるかと尋ねると、
覚えていられたことはない、という。
目覚めたときには消えている、と。
ここ数年で覚えていられた夢は一度だけ、それは村上春樹の小説のような繰り返す悪夢だったという。
その夢の中で、影のような未知の人物が「奇妙な食べ物」を料理してくれていた。
食べたいとは思わないが、夢のなかでは彼はそれに興味をひかれていて、まさに一口入れようというとき目が覚めた。
2日目、村上と私は彼の車の後部座席に乗り込み、彼の海辺の家へ向かった。
運転したのはアシスタントの一人である身ぎれいな女性で、青豆よりわずかに若かった。
私たちは東京を横切り、青豆が『1Q84』で運命的な下降をした高架高速道路の本物へと向かった。
カーステレオではブルース・スプリングスティーンがカバーした「Old Dan Tucker」がかけられていた。
車中で、村上は冒頭のシーンを思いついたときに考えていた緊急脱出口のことを持ち出した(青豆と同じように実際に渋滞に巻き込まれていたときにそのアイデアを思いついたという)。
実際の高速道路で、小説中であれば青豆が新世界に向けてくだっていったであろう場所を正確に特定しようとしたのである。
「彼女は用賀から渋谷に行こうとしていた」車窓をのぞきながら彼はいう。
「だから多分このあたりのはずだ」
と言ってこちらを向いて念を押すように
「それは現実じゃないけれど」
と付け加えた。
それでも、彼は窓の方に戻って実際に起こった出来事を話すように続きを語った。
キャロットタワーと呼ばれる、およそ巨大なネジが刺さった高層ビルのような建物の前を通り過ぎた。
村上はそこでこちらを向いて、もう一度思いついたように、
「それは現実じゃないけれど」と言った。
日本に滞在した5日間のあいだ、私は村上の東京にいたときとは違って、実際の東京で落ち着くことができなかった。
村上の東京、それは本物の東京を彼の本というレンズで見たときの姿だ。
客席の上の方で二塁打が打たれるたびに注目した(私がもらった天啓にもっとも近いものは、枝豆を喉につかえさせて窒息しかけたことだった)。
また、私はローリングストーンズの「Sympathy for the Devil」とエリック・クラプトンの2001年のアルバム「Reptile」をかけながら、神宮外苑という村上お気に入りの東京ジョギングルートをゆっくりと走った。
私のホテルは新宿駅に近い。そこは『1Q84』でも重要な役割を果たす、交通機関のハブ的な場所だ。
登場人物たちが好んで使う集合場所、中村屋で私はコーヒーを飲み、カレーを食べた。
そしてフレンチトーストとタピオカティーの向こうで東京人たちが交わす会話に耳をひそめた。
そうしてうろつくあいだに、村上小説が極度に意識しているものごと、すなわち、偶然かかる音楽、上昇と下降、人々の耳の形といったものを、私も極度に意識するようになった。
実際、彼の小説中の説明をもとにして料理本を出版した人もいるし、
登場人物が聞いた音楽のプレイリストをオンラインでまとめている読者もいる。
村上は、明らかに喜んだ様子で韓国のある会社が西日本への『海辺のカフカ』旅行を企画したこと、
ポーランドの翻訳者が『1Q84』をテーマにした東京旅行のガイドブックを編集していることを教えてくれた。
村上は読者から彼が生み出したものを現実世界で「発見」したという便りを受け取ることがよくあるという。
たとえば、彼が作り出したと思っていたレストランや店が東京に実際ある、など。
ドルフィンホテルというのは『羊をめぐる冒険』で村上が生み出したものだが、札幌にはそれが複数ある。
『1Q84』の発表後、ありえない名字として作り出したつもりだった「青豆」という名字の家族から、村上は便りを受け取ったという。
ここでの要点と言えるのは、現実に漏れ出す虚構、虚構に漏れ出す現実というものが、
村上の作品についてはほとんどの場合、作品そのものだということだ。
作家活動の初期には、「日本人という呪い」から逃れようとしているとさえ語った。
その代わり、十代の若者として、西洋の小説家の作品を貪ることによって、文学の感受性を培った。
その中にはヨーロッパの古典(ドストエフスキー、スタンダール、ディケンズ)もあったが、
彼が生涯を通して繰り返し読んだのは、とりわけ20世紀のアメリカのある種の作家たち、
レイモンド・チャンドラー、トルーマン・カポーテ、F. スコット・フィッツジェラルド、リチャード・ブローティガン、カート・ヴォネガットなどだ。
処女作に取りかかったとき、村上は奮闘し、標準的でない解決法に行き当たった。
そうやって自分の声を獲得したと彼は言う。
だからどうというわけではありませんが、村上春樹の「海辺のカフカ」を読めば、あなたにとって強烈な読書体験になるかもしれませんよ。
あと30分で講義がある、だから30分暇なんだ。
今、経営学科で偏差値46?ぐらいのE?F?ランの大学生をやっているんだけど、昔はもうちょっとマシな偏差値の学校、いや、まぁ、どうせチラ裏だしほんとの事言うと偏差値でいったら57くらいのちょっとマシな公立行ってた、もうちょっと昔で言えば中学じゃTOP10くらいにはいて優越感に浸ってたし、小学生に戻れば学年一番で頭がよくて人受けも人生の中で一番良かったな、スクールカースト的にはまぁ全体的に地味目でも普通な感じだった。
あぁ、なんかもう最近となっては慣れたんだか、昔のことを忘れたんだか、わからないけど今と昔の比較なんてあまりしなくなってきた、しても何の意味もなさないのは理解してるつもりだし、でも今日までの遍歴を他人と比べたり考えたり、何の進歩、何の利も生み出さないことを知りながらも繰り返して悶え、鬱になり、躁なり、なんだか最近鏡を見てると鏡の中の自分が自分と感じられない有様だ
後20分か、あーあとこの文章は練ってない、ただの走り書き、読み返したりしてないから・・・嘘です、ちょっと気になって読み返しました。
で、なんだったかな、そうそう高校で弓道部だったんだ、これが以外と県内有数の施設でさぁ、結構強かったんだよ?
あんまり真面目にやってなかったんだけどさ、レギュラーにはギリギリ入ってた、インターハイは進出直前で前年覇者に当たって死んだ、シードにしとけよ前年優勝者くらい。
で、今通ってるFラン大学にも弓道部があってさ、これはもう鳴り物入りって感じで入れば、優遇されるんじゃないかって考えと、少し弓が引きたくなってしまったのが相まって入ってしまった。まぁ、雑用があるとか先輩におびえるとか雑用で休日で潰れるとか、は当たり前だよな一年だし、やってきたことだし。
ただ、弱かった。高校の後輩と今の先輩をぶつけたらきっと惨敗では済まない倍の点数差をつけられるんじゃねえかと思ってしまうくらい、それと自分の実力も一年生に戻ったが如くボロボロだった事とか、良くある先輩への不満なんかで、色々募っていった。
そんなこんなで何とか春学期を終えて、これから夏休みって時だった。
なんだったかな、夏休みも当たり前のように
あーもうだめだ時間が来た、9階から隣の棟の5階とかねぇよ、じゃあ、もし読んでくれた人がいたのなら、また後で
追記
こんなのを読んでくれた物好きな人が居たもので、今度から教室間の移動が億劫になる数だけコメントくれた人のことを思い出すことになりそうです。
さてまた後でとか言いながらもう5日くらい経ったかな。
今日は1コマ空いててあと一時間ちょっと時間があるから、またダラダラ書きますよっと
そうそう夏休みに入るところからだった。
夏休みに入るとほぼ同時に部活の練習が組み込まれていたんだよね、それでさ、練習場所がなんか毛虫が上空から降ってくるという野外練習場で、夏休み前に休日返上して掃除しに行った。まぁーショボイ、暑い、泥だらけ、本当に毛虫が降ってきた。
またこういうところで過去を持ってきてしまうところからして未練タラタラな自分は、あー高校の頃は、大会が自校開催できるくらいの立派な道場で好きなだけ、やりたい放題やっていた頃が懐かしい羨ましい妬ましいとか思いながら、初日の練習を次の日に控えて準備をしていた。ふと次の日の練習時間が何時からだったか知らないことに気づき同期に連絡を取る、俺は始発に乗っても間に合わない時間ということを知り、なんか不満が爆発。
まったく、最近の若者は無気力なくせにすぐキレるから困る、ちなみに松岡修造はキレるって言葉が一番嫌いなんだってよ。
次の日、無断欠席。その次の日無断欠席。その次のつぎの(ry
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめ(ry
とまぁ、入ってくる留守番電話、着信、自宅の呼び鈴にビクビクしながら大学の夏休みは終わった。
この夏休みの事、不満爆発の原因(本題)も事細かに語るのは大変だから、必要に応じて小出しにしますか。
そしてぇ、秋学期の始まり。
あれだ、最初のほうに述べたとおり、そこそこの学校からFランに転落してきたから、未だにこの学校には馴染めていない、金髪のにーちゃんねーちゃん、根暗が沢山だし、タバコも嫌いだ。二人組みを作るのに本格的に苦労はしてないけど友達が居ない(本題)、ほぼぼっちだといっても差し支えない。
で、無駄に長い通学時間は読書して潰してる。最近は海辺のカフカ(上)とネガティブハッピーチェンソーエッヂと化物語(上)、グラスホッパーをほぼ同時に読み終わる。最早、本が友達になってきた。
西尾維新はいいよね、言葉遊びが好きです。でも表紙とか見るとあんまり他人には薦められないっていうか、そもそも自分の気に入ったものは他人に見せたくない、自分の中で自己完結させたいから他人には薦めないという心の引き篭もりっぷりを発揮している自分は寂しい奴のような気がしてなりません。
じゃあ本題に入りますか。
部活のことですけど、無断欠席を続けていてもう部内には居なくなった人になったと同期が教えてくれました。
実質退部。その理由
なんで友達を作れない、作らないのか。その理由
そのー、今の自分が大嫌いなんですよ。
予備校通って、受験勉強してきたつもりになって、自分の生活、楽しみを投げ打った結果Fランにしか受からねぇ。
春休みはそんな無力感で何もできませんでした。今までの自分はなんだったのか、過去の自分との対比から始まり、今後の生活、将来、周りへの影響、今までに無い程の自己嫌悪。いろんな物が急に押し寄せてきたような、そんな気がして動けないままに動き方を忘れた。
そして、そのまま学校は始まり、何となく居場所がなくて、部活に何となく入り。
何となく日常の授業をこなし、ノートのために友人らしきものを作り。
ある日、周りの人が自分と通じる、というか同じような、人であるという考えが思い浮かんだまま離れなくなって、自分と同じ場所に来てしまうような、自堕落な、自分と同じカテゴライズにされてしまう人間は嫌いだと、そんな風に思ってしまった。
その考え方が元で、この学校に属する人とは仲良くできる気がしない、自分を認めることができない、部室に居る先輩も、隣で授業受けている人も、教えてる先生も、誰一人、尊敬できない、認められない、居ないほうがマシだ、と思ってしまう。
いやぁー、我ながら酷い文だ、読み返す気にもならない、ちょうど後10分で次が始まる。
英会話が強制的に組み込まれてるのってどうなのよ、まったく。
追記の追記
一ー
というわけで、化物語で検索してこんなものを読ませてしまって申し訳ない。
その1 じゃなくて そのぉ っていったつもりだったんだ。
ブログもmixiもやってないからコメントが付くといちいち嬉しいね。続きが読みたいなんて言ってくれる人が一人でもいれば死なない限り続けると思います。
で、読み返したけど、読みにくいし、全体的にちょっとアレだし、句読点の場所とか漢字おかしいとことか結構あるよね、直さないけど。
現状ね。もうほんと最近さ頭働かしてないんだ。
最近どころじゃねぇ、もう半年くらい何にも考えてないといっても過言じゃないね、現状をどうにかしようとか、彼女つくろうとか、勉強しようとか、資格取ろうとか、オシャレに気を使おうとか(パーカー、ジーパン、シャツで成り立っているよ)、考える事をしなさ過ぎて、行動もしないし、それが続いてて、疑問を感じなくなって悪化している。そんなスパイラルにはまっているんじゃないかと、思ってる、ただ悪いことだとは、思えなくなってる。
どうしたいのか?と聞かれて今これだけの事が頭に浮かんだ、現実じゃそんなこと聞いてくれる人いないから、現状の打開なんていう事からすら無意識に逃げていたっていう事に気が付かされたよ、逃げていたというか、現状に対しての諦め、拒絶、無関心というのが正しいかもしれないかな。
唐突だけどさ、今週休4日なんだ、羨ましいでしょ?
これがまたいけないのかもしれない、今までの人生でこんなにボケッとしていることはなかった。
大学に行くまでにさ、二時間半も掛かってしまうと、授業を固めたくなっちゃうんだよ。
それにそんな、授業自体は難しくないし、宿題もそんなないし、レポートとかまだ2、3回しか作ったことないし、いいのかよこの学校。
あ、やばい、すごいことに気が付いてた。まだ大学に入ってから、自宅での勉強時間4時間行ってねえ。
ここまでくると少し自分に恐怖を感じちゃう。
追記
悪ふざけが過ぎたよ、ごめんなさい。
以前読み終えていた『シャングリ・ラ』を踏襲した上でこの週末に読破。個人的に、この人の小説は文字を読む小説であると思った。
あんまり情景が浮かんでこなかった。浮かんでこなくても読める小説だった。浮かんでしまうと頭が痛くなる小説でもあった。
前に読んだ『シャングリ・ラ』にしてもそうだったけれど、その圧倒的なまでに暴力的なストーリー展開とキャラクターの個性とはかなり人を選ぶような気がする。
悪くはなかったけど。とても疲れたけれど。
話は飛ぶが、最近のあさのあつこ小説はどうしてしまったのだろう。文庫本しか手を出していないから総括を言えるわけではないのだが、徐々に劣化しているような気がする。
たくさん書かねばならないのだろうが、もっとひとつひとつを丁寧に書いてもいいのではないだろうか。大変な時期だ。
あと、どうしてか村上春樹のノルウェイの森を読む気にならない。海辺のカフカとかねじまき鳥とかワンダーランドは読めたのに。どうしてだろう。めんどくさい。
ああ、読み終えてない本もたくさんあるわあ。
山本一力のあかね空、さだまさしの聖霊流し、いしいしんじのプラネタリウムのふたご、機本伸司の僕たちの終末、小川洋子のミーナの行進。
全部途中で読むのを止めてしまっている。読まなきゃなあ。
手をつけてない北村薫の本もあるしなあ。
時間を有効的に使わねば。