はてなキーワード: 序列とは
三高(高身長、高収入、高学歴)という言葉がある。元々は女性が結婚相手の男性に求めた基準だが、これらに恵まれた男性は同性間の序列でも有利である。つまり同性間の競争に勝利して社会的に成功している勝者男性はプライベートも充実させやすい一方で弱者男性は結婚するかどうかの選択肢すら与えられない「Winner takes all」というべき状況があり、勝者男性と弱者男性の間には明確な序列に依る身分の差がある。
一方で女性の場合は属性による優劣が比較的つけづらい。女性の高身長と低身長のどちらが上か(男性では人権の有無に関わるらしいが)は完全に好みのレベルの話だし、高収入や高学歴は時に結婚相手を得るうえで足かせとなりえる。人生のモデルケースも多様で学業や仕事で成果を出せなければ家庭に入る選択肢もあるし仕事に専念する生き方もある。女性はそれぞれの武器で立ち回る余地が男性よりも幅広い故に一定の社会的な成功が勝者女性の前提条件とならず、女性の持っている属性から優劣関係や序列が明確には決まらないことが多い。(もちろん全てに恵まれず活かせる武器がなかった弱者女性も存在するだろうけど)
こういうふうに直球で女の容姿を貶すのは美容垢の通常運転なんだけど
何故か「女の敵は女あああ」は一切湧いてこない
涙袋だの中顔面だので女の顔に序列をつけてコンプレックスを植え付けるムーブって服装叩きよりもよっぽど最低だと思うんだけど。
それとも自称弱者男性には言葉の意味が難しすぎて理解出来てないからか?
寿風(じゅふう)
@Jufuu_
この絵に悪意があるかないかはわからないけど、この描かれてる女の子パーツ欠点無し顔で丸めの鼻にえくぼあって涙袋あって眉の形も平行眉に整ってて中顔面短い完全にアイドル顔…これを芋だとか言ってる人達怖すぎる…
Xで見たテーマ
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まずスポーツの定義を、「ルールの伴う身体活動」、そしてこの世を「人間社会」として私見を以下に述べます。
基本的に人間は「競争を本能的に求める生き物であり、それを見届けることを求める生き物」だと考えます。それは人類史において狩猟採取時代が長かったこと、そして人間が社会的な生物であること、その2点が原因として考えられます。
まず、人が集団で生活する中では必ず序列が生まれます。有能な個体が集団を率いることで、その集団の生存が有利になることは現代と変わりません。その有能さを何で測るのか、資格や競技会での成績といった指標がない以上それは個々の狩猟の腕、つまり技術や身体能力で測ることになります。そして集団の中の腕利き達が己の腕を競い合い集団の中で順位を決定します。
競い合うには一定のルールが必要となります。そしてその勝負には名前をつけることが意思統一において便利です。そして名付けられたら勝負を定期的に行い都度トップを決めます。そのサイクルを繰り返すことで個々の技術を磨かれ、より高い技術が生まれます。そして周囲はそれらを見届け自身の集団から最も優れた人間を見つけます。私はこれらがスポーツの始まりであり、本質であると考えます。
では、スポーツがなくなったらこの世はどうなるか。冒頭に述べたように「人は競うことを本能的に求める生き物で、それを見届けることを求める生き物」であると述べました。いくら法整備でそれを規制しても、ただの身体活動では物足りない個体は必ずいます、そしてそれを見届けたい個体も必ずいます。もちろん現代では身体活動を伴わない勝負事はいくらでもあります。しかしながら、身体活動で他者と競うという歴史は他と比較になりません。人類は身体活動を伴う勝負、それを見届ける活動に身を投じている歴史が圧倒的に長いのです。よって、明日スポーツという概念が人類から失われても、その本能が失われることはなく、自然発生的にスポーツは必ず生まれます。
以上の結論から、この世からスポーツがなくなっても、人類は自然発生的にスポーツを始めると結論付けます。人が社会的な生物である限り、本質的にスポーツがなくなることはないでしょう。
なんとなく、男性は「肉体関係を持たない存在」に心から執着する人がほとんどいない気がする。
もちろん男性にもラブライブの強い痛バもちとかはいるけど、彼らの中でも女オタクのようなガチ恋で、かなり禍々しい気持ちで痛バを組んでいる人間ははごく僅かで、男同士の仲間意識を確認するネタ的な印象を受ける(男同士の飲み会で謎に女を呼んでくる的なノリ)。
たぶん女オタの禍々しさに近いのは、風俗嬢のガチ恋客とか、ワンチャン肉体関係の可能性が確実にないとか言えない層だと思う。
そもそも男オタクと女オタクのガチ恋単推し系は、結果は同じでも過程が違う場合が多いと感じる。男オタクはあくまでオタクをしていて、その活動の中で一番を見つけるが、女オタクは、もともとオタクではないが、偶然なんらかの事情で推しを見つけて、三次元の同級生に恋するのと同じ感覚で恋に落ちてる、二次元と三次元の区別がないタイプの人間って、もともとオタクではなかった人間が一定数いる。このあたりも違いにあらわれていそう。なんていうか、推しに恋して彼氏を振る女は結構いるが、推しに恋して彼女を振る男はあんまりいない気がするんだよな。
あと他人への興味でいえば、女オタクはオタ活以外の身だしなみとか容姿とか、そういう全然関係ない部分でさえオタとしての序列に関わる謎にさはある。
骨格診断やパーソナルカラーは似合う服を教えてくれるだけってかも無害かのように言うけどさー
その、似合うとされる服が自分の着たい服と違う苦しみ、似合うとされる服が全く好みでない苦しみ、
そして何よりも服の間にも女カーストの序列が厳然として存在する事を無視してるよね
赤毛のアンの主人公が、膨らんだ袖の服やピンクの服に憧れていたのを知らない?
主人公はピンクの服が着たいのに、赤い髪にはピンクの服は似合わないって苦しんでいたのを。
世間で可愛いとされる服、女カースト上位の服が似合わない、着る事を許されない、
その反対のタイプの服を、全然好みじゃないのに押し付けて来られる。
こっちは可愛いものが好きなのに、あなたはクール系だから!大人っぽいからと、善意で!
まさに医者になりたいと言ったら「君は黒人だから医者になるより大工になった方がいいよ」と、教師から『善意で』言われたマルコムXと同じ苦しみだ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240223144855
ここの米欄では何故か、女同士が容姿で序列を付けてマウントを取り合っているというのは男の妄想だとか陰謀論だとか決め付けておるのが多いが…
いや、このまとめを見れば分かるように、実際に女達は骨格や肌の色でマウント取り合ってるじゃん
私、骨格ストレートの描かれ方に泣く「なんでちょっとぽちゃり設定なんだよ!」「周りからはこう見られてんのかなって思ってた」
Xでも「骨格ストレート」や「イエベ秋」なんかの単語で検索してみれば分かる。
あれらが全部ネカマだとでも?そんな訳ないだろ。
男の場合は顔や体格でモテなかったら女を攻撃しに向かうのに、何故か女は男を攻撃せずに同性同士が見下し合い叩き合う
これは私が女だからこそ言ってるんだけどな?
こうも同性同士で見下し合い、序列を付けていじめをしていたのでは、女性差別がなくなる訳がないって。
実際にイエベ秋や骨格ストレートとしてレッテル貼りされる側の女だからこそ分かる苦しみなのに、
なんで男認定されなきゃならないんだ
発達障害の子育てをして10数年。何かを成し遂げたわけではないけど中間報告でも誰かの役に立てばと思い放流。
高IQ(140オーバー)で凹凸持ち(wiskで差が30ぐらいあった)の子供がエリア(関東とか九州とか、それぐらいのエリアにおいて)でトップレベルの中高一貫校に合格。
なんだかんだありながら学校でもそれなりの成績をキープしながら合格してから数年、楽しく通っている様子。
発達障害と言ってもパターンは千差万別なのでみんなにお勧めできる話しではないんだけど。
我が家は一般的療育に加えて「小学校受験」が療育的な意味合いにおいてめちゃくちゃよかったと感じてる。
小学校受験って遊びたい盛りの幼稚園児を机に縛り付けて勉強させる非人道的なイメージがあるかもしれんが、やってみるとそうでもなかった。
むしろ自由に野原を走らせて公立小学校に通ってたらいろんなトラブルに巻き込まれてたと思う。
小学校受験はペーパーも大事だけど、運動や面接も同じぐらい大事。
合格にはこれらの総合力を上げていく必要があるけど、高IQ凹凸児にはわりと向いてるかやっておいた方がいい内容ばかり。
高IQなので理解力が並外れているので受験のペーパー対策の勉強はむしろ楽しんでやってくれる。パズル感覚。
好奇心も旺盛なので科学館、博物館などに連れていったり道端の草花の名前を当てっこしたりで経験値を貯めていく、面接対策
(これで障害児にありがちな"深く狭く"を避け、"広く浅く"いろんなものに興味を持たせる)
合格を目的にして親と一緒にいろんな運動をすることで微細運動~粗大運動の何が苦手かを早期に発見できて、なんなら運動の専門家にも見てもらえる
これらの行動を通して幼少期に濃密な親子関係を構築できる
で、合格できれば教育熱心である程度のお金を持ったご家庭の子供たちと一緒になる。環境は悪くない可能性が高い。
また、各家庭がそれなりに離れたバラバラな場所にあるので子供だけで集まって遊ぶということに制限をかけられる。
※高IQでも同年代よりも幼さが残っており低学年から子供だけで遊んだり友達の家庭に行くのは避けた方がよいので
小学生の間に”普通”に収まっていく子もいると思うが、もし高IQが続いているならぜひ中学受験もお勧めしたい。
凹凸のせいで日常のトラブルで自己肯定感が下がりがちなんだけど、中学受験塾はシンプルに偏差値で序列をつけてくれるので肯定感上がりがち。
で、高偏差値な学校に入ると全員診断済みなんじゃね?ってぐらい変人だらけなので多少の凹凸は目立たないし気にも留められない。
という流れで今の状況がある。
人を選ぶ話だろうけどお金があって、ある程度の都会で、高IQ凹凸児を育てるなら、基点となる小学校受験はチャレンジの価値があるよ、ということで。
その他
・公立小学校がダメなわけではないが(加配がつきやすかったりいろいろ手厚いところもある)、浮きこぼれはせっかくの子供の可能性をつぶしてしまうのでできるだけ避けたかった
・子供の適性に応じた「生きやすさ」を模索して補助していくのが大事
・自分は田舎の公立出身の小金持ち程度なんで子供の学友の話しを通じてエリートの再生産を生々しく聞けるのは面白い。富の偏在。
ネットで言論的な事、ソーシャルメディアでの短文コメントなどでTV局、アパレル、マーケティング、広告、電通などに関する議題で変なマウントじみた上から目線を感じることがないだろうか?例えば広告出稿の実務や電通の業務範囲などの解説に「電通を判ってない」と漠然としたコメントが付いたりする事だ。
亦は例えば脚本家と原作者のトラブルに端を発した自殺に関して「己の近いところに着弾」などと書いて自殺クリエータのナイーブを嗤うような文章だ。
実はこれらには「ギョーカイ」という30年前の知的スノビズムが関係しており、現在のその全ての発言者はただのワナビーだ。故に無視するか嘲笑するのがいい。
だがギョーカイがどういうのか判らない人には判別が出来ないであろうから、ギョーカイに就いてざっと解説したい。
1980年代の大学生というのはまるで勉強しなかった。これは60年代に反権威主義の全共闘世代が大学の知の権威を攻撃して教授や講義の尊敬を解体してしまった事に由来する。その後反体制という態度も流行らなくなり、更には嘲笑、嫌悪さえされるようになっていった。
だが大学の権威は復活しなかった。この為に80年代になると大学はレジャーランドとなり、特に文系学生は教科書さえ買っていないという風になっていた。
更にここにプラザ合意という政治状況が追い打ちをかける。日本は復興を遂げて70年代には経済規模が異常なほど膨れ上がっていた。アメリカがベトナム戦争で、欧州の旧連合国諸国が植民地独立による経済構造変化で苦しんでいた(除西独)のと対照的だ。
だが国民の生活は然程裕福にはなっていなかった。また戦後の窮乏状態から贅沢を忌避する経済道徳があった。
プラザ合意でこれが一変する。これは円高を誘導し日本の対米貿易黒字を削減する政策なので経済構造がそれまでの輸出産業優先のままだと立ち行かなくなってしまう。
そこでそれまで禁止されていた贅沢がお上のお墨付きで推奨されるようになったのだ。国民の経済道徳なんて政策で左右されるのである。文化は決定因子ではない。
また円高によってそれまで贅沢品だった輸入品の価格が下がる。当然購買意欲は刺激される。
この浮ついた好景気が加熱してストックバブルとなり、やがて弾けて失われた30年になったのは皆の知る通り。
この景気加熱はレジャーランド化していた大学生にも影響を与えた。それまで国内アパレルメーカーが若者向けブランドを展開してそれらが人気を博していたが、海外ブランド志向が進み、遊びの高級化が進んだのだ。有名なのがディスコのマハラジャやジュリアナ東京であろう。マハラジャの運営会社はそれまで「並」のディスコを経営していたが、マハラジャで極端な高級志向とドレスコードチェック(アメカジとかは入場禁止で上から下までブランド服必須)にしたところ大盛況となった。
だが大学生が高級志向になったのは自然な出来事ではなく、当時のファッションカルチャー誌が誘導したのであった。
こういう大学生に影響の大きかった雑誌にマガジンハウス社のPOPEYE(以下ポパイ)と講談社のホットドックプレスが挙げられるが、この二つは性格が違った。ポパイが先行、ホットドックプレスが追走、イノベーター理論で言えばポパイがアーリーアダプター志向、ホットドックプレスがマジョリティ志向という感じだ。
マガジンハウスはファッションカルチャー専業だけあってイノベーター人脈があるから未来への提案という形で誌面が作れる。
一方、ホットドックプレスは大出版社なのでもっと安牌志向だ。あまり冒険すると滑る危険がある。
そして流行に於いてマジョリティを相手にするという事は、アーリーマジョリティになれとけしかける事であり、故に強迫観念的になるのである。大学デビューした若者にファッションや遊びを勉強しろと迫る性格を帯びる。
山田五郎氏はyoutubeの「オトナの教養講座」を運営して大変引き出しが多くて教養がある人物だ。同氏は同誌の80年代の編集長であった。
教養人だが編集長時代はマガジンハウスの後追いで背伸びしたい若者に楽しいライフスタイルの提供というよりも「これぐらいマスターしないとモテないぞ」とオブセッションを刺激して走らせる誌面を作っていた訳で、正直そこについては評価できない。
これはホットドックプレスが悪いというのではなくて、トレンドの後追いする方は強迫観念に訴えるようになるという例だ。
そんな雑誌群でやたらと持ち上げられていたのがTV局、アパレル業、広告代理店という業種だ。
ホイチョイプロはこれらのブームが起きる前から広告代理店漫画を書いていたが、このブームに乗って多角展開するに至った。広告業の業務中で電通だけが特別視されたり、変なマウント取る奴が現れたりするのはこのホイチョイプロの影響である。
またとんねるずはパワハラ芸とTV局の内輪ネタで若者の歓心を得て売れるようになった。
特に初期のパワハラ芸が有名だがこのパワハラは芸人同士のそれではなくてTV局での上下関係に限られるのがポイントだ。TV局内とスポンサーなどの上下関係はギョーカイなので売り物になったのである。
故にギョーカイというのは単にがTV局、アパレル業、広告代理店という業種を指すのではなくて、当時の風俗上の序列に裏打ちされたそれら業界という事が出来る。広告代理店業務を特別視してマウントするという態度の背景には、輸入ブランド志向、高級ディスコ、VIPルーム、見せる為の彼/彼女、ポストモダン思想という今では時代遅れの事物の文脈がある。
一方、家庭を築いて建売とかと言った一般的な価値観は外部化されていて入っていない。
先に述べたように流行の浸透期には強迫観念に訴える形の言説が商売になる。面白いものがあるよ、じゃなくて時代に遅れるな、だ。
これらはもう時代遅れだが、この強迫観念に訴える扇動の効果は残っていて、広告やTV局に関する事が話題になると、今でも「電通の本質は違う」などという謎マウントが湧き出すという原因になっている。
特に地方在住者に顕著だ。広告への関係の仕方は様々あり、出稿する立場、印刷を受注する立場、看板屋など様々な立場の人間がネットに書き込む。また電通の業務のうち広告ではない部門、人材派遣やイベントプランニングなどに関する議題で書き込む人も居る。
それらに対して謎マウンティングしでいないではいられない人が現れるというのもネットの常だ。
これらの人は自分が参画しえない場所の話だったホイチョイプロなどのギョーカイ話を実業務での経験(他者の含む)で上書き具体化するのに失敗し続け、レイトマジョリティ転落の強迫観念で駆動され続けているのである。
彼等の言い方は、「電通とは」など目前の具体的解説よりなどまるでその評価軸が高級だったり知的であるかのようで、事情を知らない人は騙されてしまうが、その実は時代遅れの流行追っかけの知ったかぶりでしかないので、騙されないようにして貰いたい。
「インターネット下さい」やソーカルにコテンパンにされたポストモダンの亜種である。
この辺の事情を知っていれば、「己の近い場所に着弾」とか原作者の自殺をそのナイーブさ故と揶揄するAI画像を投稿してTV局の事情通風を吹かす者が現れたとしても、その破廉恥さに憤るよりも前に、その者がオピニオンバラエティに数回出ただけでドラマには関係してない事、職域が権利者との折衝と重ならないであろう事、出演回数的に業界風吹かしたい欲が最大化される地点である事、年齢的にギョーカイ特別視のレイトアダプター層である事、とんねるず世代などに着目し、地方のバーで「業界出身の人」ってこういう感じだよなぁなど感慨に耽り、祇園精舎の鐘の音が胸中に去来するはずである。
またマナの力に長ける者であれば、AIに向かって「政権のブレーンとして官邸に出入していた事がある事は履歴的に自慢したくなりますよね?という建前を押し出した笑顔の発言者の前で、現在相手にしている読者層がその政権へのドグマ的批判を共有するので炎上と評価低下を恐れて答えに窮し発言者が善意の天然なのか悪意があるのかはかり兼ねて引きつった笑いを浮かべる男性」という詠唱により画像を得る事が出来る筈である。
「TVに出るようになった切っ掛けってそのブレーン抜擢ですよね」と発言を重ね掛けする画像でもう一枚行けそうである。
いずれにしてもTVや広告業などの話で具体性も無いのにウエメセマウンティングが発生したら、その実は以上のような事情で背伸びしたい「追いかける人」であるので、良く知らんけど高級な知識っぽさに騙されないようにして欲しいものである。
猿は猿なりに群れの中の序列とかきつくて大変そうだなーと思うよ
日本代表の中心選手で所属しているフランスのチームでも序列の高い選手だ
言うまでもなく、刑事告訴されたとしても推定無罪なので選手は犯罪者扱いされるべきではない
進退のかかった代表公式戦で出場機会がなかったのは、自分が記憶する限りではない
芸能界ても性加害疑惑でテレビ出演出来なくなったということがあったが
表舞台に出れなくなるのは有罪判決が出てからでも遅くないはずだ
実際に、スポーツ選手には告発され裁判になった後に無残なって、何の為に出場出来なかったのかと言われることが起き始めている
いい加減法治国家なのだから、ここのルール作りを明確にしなきゃいけないだろう
法律にならうのか、国民感情にならうのか、結論は言うまでもない