はてなキーワード: スタンスとは
単刀直入に言って、R18の同人誌の割れサイトとかは未成年だけが見られるようにしたらいいんじゃないかな
コンピュータには詳しくないから分からないけど、年齢確認のボタンじゃなくて、もっとこう内部的な情報から年齢を判断して、未成年だけが閲覧できるように出来ないのかな 俺だったらそうするけど
架空請求に引っかかって学ぶものもあるだろうし、小学生ならまだしも高校生なんてその辺の認識はほとんど大人と大差ないわけで、ちょっと可哀想というか
正直思うのは、現にそういったサイトの利用者の割合はほとんど未成年なんじゃないかと思う 金払った方が100倍早くて安全なのは明らかだし
「お前は未成年だから今はサービスしたる、でも大人になったら買えよ」っていうスタンスでやってればみんな金落としてくれそうだけどなぁ
https://news.yahoo.co.jp/articles/7ec1d495b848a971128aff7c5fc0dedf1a2c92ee
共同通信社は30日、憲法記念日の5月3日を前に憲法に関する郵送方式の世論調査結果をまとめた。新型コロナウイルスなどの感染症や大規模災害に対応するため、緊急事態条項を新設する憲法改正が「必要だ」とした人が57%、「必要ない」は42%だった。内閣権限強化や私権制限が想定される緊急事態条項新設を容認する声が反対意見を上回った。長引くコロナ禍が影響したとみられる。
改憲なくとも法を生かせば緊急時に行政権限をフル活用できるはず、と思ってきたが、過去の公害の教訓を思い起こしてみると立法・行政の不作為が目立つ。
憲法の制約で権限がないのではなく、あっても使わないのが問題だった。そこにメスを入れるには、行政立法を指導する上位の規律が必要で、「今まさに緊急時だシフトチェンジしろ」
と行政や立法に促す仕組みが必要なのでは。それはひょっとすると憲法の役割なのかもしれない。
という趣旨。
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「内閣権限強化」、これは橋本行革の結果、小泉政権が内閣官房の強化の恩恵を受け、その後、安倍がめちゃくちゃにした経緯から
公害立法の歴史を振り返っても、現行の規制権限は決して弱くはない。立法の余地もある。
実際60年代から70年代にかけて、深刻化した公害に山ほど立法を制定、70年はとりわけ公害国会などと呼ばれた時代もあった。
そうやって公害を克服しようとしてきた歴史の教訓をみても、現在の感染症コントロールの問題が、憲法改正でしか解決しえないとは思えない。
だから、問題はできることをしない、立法不作為・行政権限の不行使のほうで、それを改憲論議にすり替えるのはおかしい、という意見も納得できる。
しかし。
改憲の世論が盛り上がるのは、だからこそ逆に、一理あるのかもしれない、とも思う。
もちろん、行政・立法の性善説に立てば。。という留保はつくが。
というのも、水俣病を例にとって、公害の被害を振り返ってみると。
なぜ今日に至るまで長年、放置されてきたか。長年の放置もさることながら、振り返ると、初期の対応のまずさが際立つ。
漁業法による禁止措置と漁民への補償、食品安全法による有機水銀に汚染された可能性のある魚類の販売禁止、
すべて見送られた。つまりすでに対応可能な法的ツールがあったにも関わらず、被害が拡大した。
こうした行政権限の不行使が最終的に裁判で争われ、最終的に結審したのは2004年。
国は高度経済成長をとめたくないがゆえに、規制権限を行使しなかった、というのが結論。
1970年代、公害の社会問題の深刻化を受けて山のように公害立法が制定されたが、それ以前の問題として
そもそも1950年代、すでにある水質二法等で権限行使できただろが、という。
法の不備ではなく、繰り返すが、すでにある法を使いこなせなかった行政の責任が厳しく断罪されたわけだ。
ここから導き出される本当の教訓というのは、規制権限があったにもかかわらず
なぜ初期の対応がこれほどまでに、被害者をないがしろにしたものになったか、という問題。
そこには、何か異常な事態が発生したときに、立ち止まって物事を考え直す、
シフトチェンジの仕組みが欠落していたともいえるのではないか。
かつて辺見庸は、地下鉄サリン事件の際に、丸ノ内線の駅構内で、人々がバタバタと倒れているなか、
通勤している乗客が枕木でもまたぐかのように出口へ向かった光景について
非日常的なことを目の前にしても、脳が適切に処理できず、
惰性で日常の論理で動こうとする「慣性(イナーシャ)」が働いているといったが、
ここ一年を振り返ってみると、そういう政治的な意思決定がかなりよくみられた気がする。
この問題が解決されない限り、改憲による緊急事態条項の検討など、全く意味をなさない。
日本は、意思決定の仕方、会議の仕方を根本から見直したほうがいい。
いや、だけど一方で、
緊急事態条項のようなシフトチェンジのトリガーがないからこそ、漫然と経済優先で動いてしまうのか?という疑問も頭をもたげる。
どっちなのだろう。
そんなことを思い出したのは、さっき、尾身会長のインタビュー記事を目にしたからだ。
尾身茂氏が語った「マスクを外せる日」「3回目の緊急事態宣言なんて聞く気になれねぇ」への意見 | 文春オンライン
――東京都墨田区や長野県の松本医療圏など、基幹病院と支援に回る地域の病院や医師の連携が回っている地域の取り組みも報じられているが、厚労省は、こうした体制づくりのため各地の医師や民間病院に強い指示が出せないものか。
尾身 医師や病院に対して国が強い指導力を発揮する英国のような仕組みとは違い、日本の厚労省というのは公立や民間などさまざまなステークホルダーの意向を尊重する必要があって、上から目線ではいわない。平時はそれも大切ですが、危機の局面ではどうなのか。この機会に考えてみる必要はあります。
――医療提供体制の拡充やワクチン接種準備で、国民が納得するだけの結果を示せないことに国民は苛立ちを感じている。強権的なイメージが強い菅義偉首相だが、結果を示せない理由は?
尾身 それは政治のことだから、私にはわかりません。ただ、総理大臣は、いろいろなことを今、四方のことを考えなければいけない立場にあるんでしょう。そう思います。
これが明確な意思決定メカニズムとして組み込まれていないことが、水俣病の初期対応の問題ともつながっているように思えた。
それを可能にするのは、規制権限の強化と行使、という既存の立法・行政機構のあり方の、もうひとつ上段の制度として構築する必要があるのかもしれないといえなくもない。
改憲への渇望というのは、案外、そういった視点で考えることも可能ではないかとふと思った。
危機対応専門の省庁を創設する、というのもひとつの方法。非常時のガバナンス体制を整備する。
米国のFEMA(アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)、CDC(アメリカ疾病予防管理センター)のように。
そうすれば、現在の河野太郎のような感染症の素人が新型コロナウイルスワクチン接種推進担当大臣として奮闘する、といった話もなくなるはず。
彼はおそらく、急に任命されて困っただろうが、実質やれることを模索した結果、
ロジ担当となり下がってしまっているように見受けられる。住民の心配に答えるのは基礎自治体の役割だ。
危機管理のプラットフォームができれば、アメリカのファウチ博士のように、
集団免疫獲得に向けた仮説を立て、何%の接種があればOKで、ワクチンの効果が切れる前の接種完了を逆算してスケジューリングする。
目的とロードマップを国民に示したうえで協力を仰ぐという、専門家による意思決定がベースとなったリーダーシップが重要だ。
ガバナンスの基本は、法、規則基準、科学的な予測を明示した意思決定を行うことだ。
これは世界銀行の借用だが、世銀では途上国の行政改革支援の際に、ガバナンスを以下の4要素で因数分解して
説明責任(財政とリソース)、予測可能性(法的枠組み)、透明性(情報公開)、参加(連携)の4つ。
テーマ出しした瞬間、近年の日本がどの分野でもガタガタになっていることがわかる。
いずれにしても、緊急時のガバナンスの訓練を積んでゆくことが大切で、こうした組織を立ち上げることには意義があるだろう。
現在の菅政権は、こうしたガバナナンスの観点から落第点であり、
首相が何を考えているかわからず、結局、リーダーの一挙手一投足に注目が集まる意思決定となっている。
急に決心して、緊急事態宣言を発出したりやめたりする。このように国民から予測可能性を奪うやり方は国民から自由を奪うのも同然だ。
国民からすれば、知らず知らずに国のリーダーシップに注視せざるを得なくなり、いつの間にかリーダーシップの問題に錯覚してしまうが
本当は危機管理はリーダーシップの欠如の問題ではなくて、ガバナンスの問題だ。リーダーが誰であれ、ある程度、やるべきこと、基準が決まっていて
どのように対応するかが決まっていること、この予測可能性が確保されることが大切。
国民にとって予測可能でなければ、国民自身が計画を立てられず、急に決断されても、ついていけいけない。
(水木しげるの漫画で、上官が急に玉砕を決心したので部下の大半が付いていけず、結果として敗残兵として生き残った兵士に、すでに全員立派に玉砕したことになっているのだ、として、ラバウルの本部が改めて玉砕を命じる、という話がある。日本人のリーダーシップを象徴する話だと思う。)
緊急時へのシフトというのは、なにかしらリーダーとして発動するトリガーが必要なのではないか。
そこに非常時へのシフトチェンジが記載されることにも意義があるのかもしれない、という考えに傾いてゆく、そういう世論の動きもわかる。
もちろん、そんな非常時に平和ボケして判断の鈍いおっさんが首相だったらなんの意味もなさないが、誰かがシフトチェンジを発動しなければならない、
それが立法や危機管理のプラットフォームづくりだけでうまく機能しないのであれば、ある意味、大統領的な権限を期待する傾向が出てくるのは自然なことのように思う。大統領の権限というと、合衆国建国当時まで振り返ると、当時の議論のなかで、リーダーの聡明さ(アリストクラシー)というのは、欠かせない条件だったように思う。
日本の政治社会にそんなことを期待できるのか、と考え始めた瞬間、改憲には激しく首を横に振らざるを得ないのだが。
そんなことをインタビューの印象として持った。
「性格きつい人はつまり気を遣えない人なのにどうしてこっちが合わせなきゃいけないの」みたいなの見て思った…というか前からずっと思ってるけど
自称気の弱い人、引っ込み思案な人は仕事の場ですら「発言するのが苦手で」で通ると思ってるのはなんでなの?
逆に言わせていただきたいけど、まともに意見の主張もしないくせに「分かってもらおう」というスタンスでいられる方が理解できない
どうしてそこで口出さないって「もめたくないから」なわけだよね
でもこっちはもめるかもしれないってリスク取っても発言してるわけ
②リスクはあるけど主張はできる
どっちかしかないでしょ?お前は①、こっちは②、それだけのこと
ここ数日五輪開催の可否について色々書いてるんだけど、ふと数日前言われたことを思い出した。
一応自分としては開いてもらった方が立場的に助かる(五輪関係者でもなければスポーツやってないけど)ので、できるんだったらやってもらったほうがいいというスタンスなんですね。五輪が開ければ毎日開催してるルミネとかそういうのも対策込みで開ける見込みが出るから。
で、そういう話をツイッターで引用リプして話したら引用で返事が返ってきて「言い分はわかるが、自分も含めて大多数は文化のために死ねと言われるのは納得いかない」といただきました。
もらって直後は「いたし方ないなあ」と議論も平行線になりそうなのでとどめておいたんです。
しかし今、自分が普段から見ているマジョリティと思しき人たちの様子を思い出すと「文化のために死ねっていうのかというのは、まあそうだよ」と思ってるんだなあと感じた。
直接手を下すほど暇ではないけども、ずっと抑圧と蹂躙を繰り返してきたマジョリティが数減るんだったら多少心労はなくなるもんな…と思って、だからマイノリティでも変な立ち回りしてるんだとさみしくなった
友達は絵が上手い。
高校でデジ絵デビューしてからはTwitterでもそこそこフォロワーがいて、友達間ではすごいねって言われてるレベル。
友達が崇拝する神絵師は神絵師なので友達の数倍フォロワーがいる。
フォローは厳選タイプで20人くらい。絡む人はその中から更に数人って感じ。で、友達はその20人の中に入りたくて、神の推しを描いてアピールしたりしている。実際、神もいいねはしてくれるらしい。でもフォローはしてもらえない。
フォローリフォローはタイミングの問題もあるし、タイムラインの居心地がよければ、新しい人をフォローしたいって気持ちには中々ならない。絵は好きでもつぶやきのスタンスが合わないこともある。わりと友達ができることは限られるというか、どうにもならないことだと思う。
ただ、友達はその神にフォローされてる人たちを目の敵にしている。特にフォロワーが友人より少ない人のことは如実に見下していた。
実際神のフォロイーには特別絵がうまくない人もいた(目立った崩れがない程度には上手い)が、正直、神絵師となると描きたいものは自分で具現化できてしまうから、単に絵の上手い人より、アイディアが独創的な人とか、考察でキャラ解釈を深めてくれる人のほうが創作意欲の刺激という意味でフォローしたくなりやすいんだろう。
リア友としか繋がってない無産ROMアカウントからすると、友達も神も神のフォローしてる人も天の上のような世界を生きてるんだけど、友達がぎすぎす消耗してるのはもったいないなと思う。
数年前の話
定期的に吐き出したくなるので
男, 30代前半, まじめに働いている, 運動していて痩せていた
格上はありえない
みんな格上にチャレンジする
試行回数が増えると、一定の確率で格上にマッチしてしまい、自己評価が壊れる
時間は有限で、たくさんの人とは同時に会えない
一度だけ呼ばれた
自分なんかでは申し訳ないと思ったし、相手のスタンスや情報が不明なので、会話の糸口を探すのが面倒くさい
3対3で会話を成立させるなんて不可能
ただ、呼ばれるかどうかでフィルタされるので、それなりに合理的なシステムだとも思う
「いいね的システム」で試行回数を増やして、自己評価を破壊することが目的のように感じた(原理3)
1回だけ行ってみた
若い女性が多く来てしまうと、若い女性とマッチングしやすくなるかもしれないが、女性側は次があるはずと期待するので結局無駄になる(原理1)
パーティに来る人は、たくさんの人に会えることを利点だと勘違いしている(原理4)
一番あり得ない
おとなしい人ばっかり(自分も含めて)
異性に対する押しが弱い人が多い
相手の立ち位置が分かっているので、しゃべりやすい(手探りの合コンとは正反対)
1対1なのでしゃべりやすい
相談所のPCからのみ操作、システムが候補に挙げてくれた人しか申し込めない、というのがとても良いと思った(原理5)
実際は、状況によって変化して、例えば医者だったら年齢は同年代くらいまでokとか、かわいければ職業はあまり気にしないとか。自分が忙しかったら、顔みたいな主観的な評価は厳しめとか。
機械的に足切りをする。一度会ってしまえばみんなかわいいと思えるから。
生身の女の子が一生懸命しゃべっている、しかも異性慣れしていないのに、という状況で心を動かされない男はいないのではないでしょうか。
自分も異性慣れしていないわけで。
最終的には、気が合った方(スペック的には十分)と3回目会ったくらいで結婚しようとなって、そのまま結婚しました。
子供が生まれて、家を買ってとか、パワーカップルなのでライフプランがすごく立てやすいのは、相談所のおかげだと思う。
とても幸せです。
相談所で良かった点
だから相談所には、すごい美人とすごくかかわいい人はいないけれど、総合力のある女性がわりといる。
で、その熱が冷めないうちにYouTubeで顔出しでもお面つけてもどっちでもいいけど、はてなでバズった経緯と一緒に、改めて自分の言葉で人気格闘家YouTuberを告発する動画を投稿して、ずーっと真面目に態度を曲げずに妥協せずに、でも芯の通った紳士的な荘厳なスタンスを守り続ける。
「〇〇が反省しても絶対に許すことは出来ない。ただし、本当に反省したのなら、一生懸命に彼が打ち込んでる格闘家としての成功は願う」とか心にもなくても言い続けて。
そしたらマジで「いじめ評論家」みたいな肩書きでデビューできるぞ。「いじめ評論家」というデタラメな肩書きはある日からそーっと自分で勝手に名乗り始めるんだ。Twitter開設したりして。
YouTubeの告発動画のほうもバズったらまずAbemaプライムあたりには間違いなくゲストで呼んでもらえる。
その後、雑誌なんかでいじめにまつわる評論文掲載の話も出るかもしれない。上手くメディア露出し続ければ大学教授の地位も狙える。一発逆転だ。
1年延期が決まったころは、開催までに全人類がワクチンを打って、コロナに打ち勝った勝利の祭典という位置づけに変わったと思う。
そして今。
コロナが蔓延する中でも、きちんと安全に競技を行えることを証明するのが五輪開催の最大の意義とする流れになってる。
IOCは、日本がやるというならやってもらうしかない。ただし感染者がでたら日本の責任ね。というスタンスで、
古参がウザいのは当然だけど、厄介なのはその連中は自分たちの楽しかった思い出ごと、ゲームを封印しようとしている点だ。
かつてその一斉を風靡したが、現在はアップデートという名のUI改変を受けており、かつてよりだいぶ使用感が異なる。決して悪い面だけではないが、昔から馴染みある人には無駄なエフェクトや退屈なBGMを劣化と捉えている。
確かにかつてのほうがよりゲームの雰囲気にあっている。こういうのもなんだけど、開発を主導した日本人のセンスは非常に悪いと個人的には思う。
古参の多くは引退するかそのゲームの面影に今でもしがみついている。問題はしがみついている方で、碌な活動もしないがかつての栄光を忘れられないらしく、ただただ思い出があればいいというスタンスだ。おかげで「なんとかっていうゲームをやっていたな」と下手くそな匂わせをしている。それが初心者にどれだけ害悪なのかもわかっていない。