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はてなキーワード: 描写とは

2024-06-14

[] どうしたら受け止めきれるんだ?っていう重たい詞や歌唱(演技)あるよな

でも、そうした表現をする人らは、しばしばガチ上級国民であり、そこまでいかずとも、労働や真の理不尽とは無縁の生活だったおぼっちゃまおじょうさまが多い

 

一方で、どんな出自であれ、多少でも労働や真の理不尽実体験で知る人らは、言葉選びや歌唱(演技)が軽いことが多い。なんだったら軽薄だったりもする

理不尽を乗り越えてきた人、または常に理不尽が隣り合わせの人の頭の中には、

『なんとかなるだろう』とか『ならなかった時はならなかった時』とか『Shikata ga nai』(サンノゼ日本人街にある石碑にも刻まれている) があるからなんだろうな

これはたぶん無視できない要素だ

 

あとは表現の深掘りや練度の問題だが、これも労働理不尽人生の大半を取られたらそれらにまともに取り組めない

取り組む時間お金を持てたとしても、ある一定以上の質を求められる場では、才能の話にもなるのだろう

 

 

まぁ、とにかく、労働理不尽さとは無縁の人々以外の表現は、一般的に軽いことが多い

本来であれば、その逆が望ましいのが、もしそうだったら、理不尽が常に傍らにいる側の人らは生きてはいけないのだろうな 

 

つか、タイトルにあげた詞や歌の話とは違うが、理不尽を扱いつつも、それに圧倒されず、かといって軽薄にならず、ユーモラスで人間性尊重し誇り高い描写をしている作品は、

昔の日本映画ケン・ローチアキ・カウリスマキ作品しかパッとは思い浮かばない

(なお、『東京物語』は少し受け止めきれない。それに敬意を表するジュゼッペ・トルナトーレの『みんな元気』はマイベスト映画だが、やはり受け止めきれない)

 

 

 

ーー・・・前置きが長くなったけど、タイトルの話、 "命に付く名前「心」と呼ぶ"  って受けとめときれる?

 

セルフボースティングで、思うがまま生きるぜ!成り上がるぜ!とかなら、チンピラでも陽キャでもないけどage↑↑↑になるし、

みんな仲良くしようねだったら、そうだねラブ&ピース🕊️だねってなるけど、

これ、

 

 

何かの足しにもなれずに生きて
何にもなれずに消えてゆく
僕がいることを喜ぶ人が
どこかにいてほしい

 

石よ樹よ水よ 僕よりも
誰も傷つけぬ者たちよ

 

 

命に付く名前「心」と呼ぶ

 

 

だぞ、ヒョエエエエエエってなるやろ

しかも、

 

 

あやまちを照らす 灯をかざせ

 

 

だもんな、かざせだからな。『もうお前は照らすもの持ってるだろ』(前提)だから

 

表現能力が高いからただ書けるだけで、犬の話みたいに深刻なやつじゃないのかなぁ、深刻に受けとめていて、果たして生きていけるものなのか?

(とか言いつつ、本人もカバーも聴いてるけど)

 

 

書いてる途中で思い出したけど、重たいテーマ扱ってるけど深刻じゃなくてユーモラスなのあったわ、怖いって意見もそこそこあるけど、

『いつも何度でも』これめっちゃ好きでSkaバージョンめっちゃ聴いてる

ダンジョン飯アニメ原作を知らない方が楽しめた、たぶん二期も

ダンジョン飯アニメ原作を忠実にアニメ化している類の作品だ、こういった作品原作を知っているとストーリーは既知のものだし、視聴中に原作コマとの比較脳内でちらつき、24分の尺のためにあそこは削ったなとか駆け足になったななどの評論家みたいな見方になってしまってどうも良くない、頭の中で常に作品原作からの引き算で見てしまっている、原作を知らなければもっと純粋に楽しめただろう。

一期を通して原作を知ってた方が楽しめたのは11話のレッドドラゴン戦だ。

ライオスたちがレッドドラゴンを引き付けてマルシルが魔法渡り廊下を落とすシーン、アニメだとマルシルは渡り廊下屋根の上で直接爆破の魔法陣を発動させているが、原作だと隣の建物屋根の上から導火線の魔法陣を発動して、それを伝って爆破の魔法陣を発動させている。

なぜこうしたか?の理由はすぐに分かる、ライオスが鍋に乗りマルシルの爆破の魔法陣の爆発力を利用してレッドドラゴンに飛び移るシーンで導火線の魔法陣が伝っていく部分を描写しているが、わりとゆっくり目の伝わり方をしている、このシーンを見た時に

「そうか、導火線経由だと爆破までにタイムラグがある。マルシルは少しでも確実性を上げるために渡り廊下用の爆破の魔法陣を直接発動させる用に改変したのか」

アニメ化により生まれ弊害を上手いことマルシルが渡り廊下を落とす事への意気込みが感じられるようにアレンジにしたなあ、と感心した。

ダンジョン飯は間違いなくトリガー原作をとても大切にし、熱意を持って作られている。

だけど忠実過ぎるがゆえに11話のような原作を知っているからこそ楽しめるシーンというのは今後もあるとは限らない、なので原作未読の方たちは二期も原作を未読のままで見た方が楽しめると思います

2024-06-13

歴史修正主義者が多すぎないかコロンブス先住民奴隷として搾取する行為文化的啓蒙であるかのように誇っていたのは事実だろ?

コカ・コーラがそれを通してどんな主張をしたかったのかは分からないけどさ、歴史を変えることは一切不可能だってことは気づいてる?

白人共がズカズカとアメリカ大陸侵略し、病気を持ち込んでインカ帝国を滅ぼしたり、大量の黒人奴隷にしたり、インディアン土地を奪ったり、自分たち文化侵略聖戦の如く美化したり、黒人奴隷を持つ権利を主張したり、そういった歴史は1ミリも変わらないだろ?

もう一度言うけど、起こってしまった歴史は変えられないんだから、それを描写することに何の問題もないと思うけど?

同時に、「これは歴史の正確な再現です」と語っているわけでもないなら、侵略されたインディアンも最高に幸せそうだったぜヒャッホー!!!みたいな描写をしたってそれは別に否定されるようなことじゃないんじゃなの?

そもそもインディアン類人猿の如く描いている時点でこれはアメリカの話ではないのでは?

たとえばセンチネル島のような何処かにまだ類人猿が住んでいる島があったとして、そこに人類史偉人が降り立ちコカ・コーラを広めたのだ!みたいな空想物語なのでは?

そういった空想でさえ駄目ならあらゆる文化を広める行為侵略であり悪となるのでは?

何度でも言うが、起こった事実は変えられないし、あの映像が「これが歴史真実である」と語ってなんていない。

既に起きてしまった歴史材料として、コカ・コーラの素晴らしい文化人類社会侵略してやろうというコーラみたいに真っ黒い情熱を描き出したPVであって、それを利用して何らかの政治的主張をしようって意図は一切ないでしょ?

コーラを飲んだことがまだないだって!?それは君、類人猿と変わらないよ?何世紀も止まっていた時間の針を盛大に動かそうじゃないかMr.ミラクルワールド ブッシュマン!!!

程度の意味しかないだろマジでこのPVなんて。

コレに対して本気で切れるって言うならそれは白砂糖排斥原理主義かなんだよもう

anond:20240613203515

コロンブスナポレオン他所に乗り込んでそこにいた猿を使役したり自分文化を教え込んだりする描写になんとも思わんのかお前はw

絵師ルールは守れよ!規約はなぜ読んで守れないやつが多いわけ?」

It appears that the patreon page has been removed for violating the terms of the agreement.

The email from the operator was not clear, but it seems that it was due to the inclusion of loli content or content depicting non-consensual sexual intercourse.

契約条件に違反したため、パトレオン ページが削除されたようです。

運営からメールは明確ではありませんでしたが、ロリコンテンツや合意のない性交描写したコンテンツが含まれいたことが原因だったようです。

https://x.com/k_cross/status/1800608689642152268

基本的規約とかって読んでもらえなかったり、読んでくれても「まあ大丈夫やろ」の精神スルーされがちなので、

特定ジャンルの閲覧頻度が多かったら通して、特定ジャンルをかじってたらアクセスを弾くみたいなオーバーテクノロジーが欲しくなります

https://x.com/k_cross/status/1801218834910879924

追記2】Mrs.GREEN APPLEMV炎上おかし

差別大事なのは意図」では?

セスMVの猿が奴隷に「見える」、先住民への弾圧を「想起させる」。

でもそれって見た側の勝手連想ゲームじゃないですか。

セスにそんな意図はもちろんないです。誤解です。

大森さんの声明によると年代の異なる生命ホームパーティーをする」というコンセプトです。

コロンブス先住民に酷いことをするMV」ではないんです。

なら不問にすべきでは?

差別に見えたか差別って、あなたの好きなものでもあなた自身でも何でも差別ということにして燃やすことのできる恐ろしい理屈だってわかってますか?

被害者はどこ?

MVを見て傷つく人がいるかも!不快に思う人がいるかも!

で、それはどこにいるんですか?

批判した人の中に先住民の子孫がいる可能性を否定しているわけではないですよ。

でも批判してる皆さんは違うでしょう?

被害者がいないのに勝手想像で代弁して怒って燃やしてるだけですよね?

MVは取り下げられ謝罪文が出たからよかったよかった正義が勝ったーって本気で思ってます

人の精魂込めた製作物が実態のない被害の声で潰されたんですよ?

冤罪じゃないですか。

二次元の絵がフェミニスト(を騙る人たち)に叩かれた時「絵には被害者がいない」とよく言うじゃないですか。

それはもっともだと思います

だったらこMVも同じです。

被害者が実際にはいないのに叩かれている。異常です。

これは無意味キャンセルカルチャーしかない

誰かが差別認定する。

騒げば得をするインフルエンサーYouTuberスポーツ新聞週刊誌が乗っかる。

大衆は何も考えず右へ倣えでXやはてなブックマークで叩く。

こんな恥知らずムーブメントにいつまで乗っかるんですか?

コロンブスと猿を出したらNGって、表現の自由はどこへ???

本当に馬鹿げてる。

 

 

 

追記

イジメだってナチスだって杉田水脈だって意図はないと言う」

こういう極端な例を出して「論破」しようとしてくるの呆れる。

それらとコロンブスMVが同列だとまさか本気で思ってないでしょう?

「何を今更?とっくにそういう社会だ」

それがおかしいと言っています

何もないところに火をつけて炎上させられてキャンセルされてしまうのが当たり前みたいに受け入れられてるのがおかしい。

狂ってる。

他の炎上でもそう思っています

差別的な表現だと捉えられてしまったんだからダメ炎上リスク回避できなかったのがダメ

そういう結果論卑怯だし、表現規制に等しいです。

リスク回避であれはやめておこうこれはやめておこうと表現活動が先細りになりますよ。

製作側が取り下げ謝罪したのがすべて、自分たちからキャンセルした」

炎上状態になってしまった以上それしか鎮静化の方法がないからです。

ひどい話だと思う。

MV解釈について

批判する皆さんの中でもそれぞれの要素をどう解釈するか意見バラバラじゃないですか。

まり解釈余地があるんです。

なぜ悪い方に悪い方に想像して決めつけるんですか?

最初から炎上したMV」「差別的な描写がある」という先入観を持って見るからそう見えるんです。

MVを見られる手段があったら改めて冷静になって見てほしい。

そんな問題視するようなものなのか、自分の頭で考えてほしいです。

 

 

追記2】

今晩8時、Mステ生出演です。

自分たち批判した対象ちゃんと見て。

コロンブスの件ってキャンセルカルチャーだよね?

MVみて歌詞も読んだけど、こじつけじゃない?

少なくとも先住民描写はどちらにもなかった気が

敏感なひとが勝手に結びつけてるようにしか思えないかなー

ブコメもいくつか読んだけど、「コロンブス英雄として扱ってはダメなんだよ」的なやつだけ同意できた

しか歌詞でも「コロンブスの高揚」とあった

セスの件

映像全部見た

ボーカル証言からすると、「昔にタイムスリップした偉人がそこにいた類人猿たちと交流を深めてパーティ!」を描いたつもりが、コロンブスは実は歴史的にアレで交流の描き方も啓蒙っぽくなって、いろんな思慮のなさと掛け違いであんなMVに……みたいな話だと思うんだけど、

でもそう思おうとしても、やっぱり「類人猿人力車を引かせる」描写だけで、全部おかしくなってしま

パーティやるような対等な相手にずっと人力車引かせるわけなくない?なんでこんな描写入れたの?やっぱりわざとじゃないの?って思ってしま

セスの人がやったのか制作会社の人がやったのかはわからないけど、単なる無知だけじゃない気がしてきている

陰謀論入口な気もする

まずい

セスがこういうドギツい皮肉をやりそうな人たちなのか知りたい

anond:20240613134443

だったらコロンブス側がタイムスリップしたって描写絶対必要だな、一切無いシーンに妄執するファンでも無いし真意を汲もうともしない自分意見が全てなガソリン売っちゃ駄目なタイプ

anond:20240613134443

明確な描写はないけれど、コロンブスたちはタイムスリップしてきたってことだろう

ここが無理矢理過ぎる

コロンブス悪人とか海外評価が変わった話は一切関係なく

コロンブスを想起させながら未開人を調教して使役する描写がまんま黒人差別の原因になった歴史賛美の文脈から話にならないんだよな。

[][]阿修羅ガール

 舞城王太郎小説を読むのは初めてだった。ブックオフで著書がたくさん並んでいるのだから面白いのだろうと長年思っていた。それで、代表作であろう阿修羅ガールを読むことにしたのだ。

 面白かった。ただしそれは小説全体の中盤、具体的には第一部が終わるまでだったが。主人公アイコ)のキャラクターがしっかりと立っていて、貞操倫理観も欠如した主人公感情のままに刹那的かつ本能的に振る舞うのが一人称でまくしたてられていて、読んでいて心地よかった。

 ストーリーも着々と盛り上がっていき、今後の展開に目が離せなくなる。主人公と肉体関係を持った佐野失踪した理由は何か、アルマゲドン匿名掲示板で呼ばれる青少年暴動主人公が巻き込まれていきどうなっていくのだろうか、といった具合にである

 しかし、第二部が始まり芸能人政治家が何の脈絡もなく突然に登場してストーリーをひっかきまわしていくので、作者はヤケクソになったのではないかストーリー収束させるつもりは無いのだろうかと困惑する。私は、00年代初頭に2ちゃんねる上で流行したガクトスレ(『はっきり言って、ガクト気持ち悪いです。』URLhttp://news4u.blog51.fc2.com/blog-entry-1371.html )を連想した。作中の匿名掲示板2ちゃんねる元ネタなのは明らか)でのスラング再現ぶりからして、舞城王太郎ガクトスレに影響された可能性は高いと思われる。その後の展開でも第一部で描かれた丁寧な描写と打って変わって、リアリティの無い夢や妄想のような世界を大型文字を交えて描かれたり、突如主人公が変わって架空世界でのホラー調ストーリーファンタジー風に展開されたりと、メチャクチャな展開になっていく。例えるなら、リレー小説でそれぞれの作者が我を強く押し通して話を作り、落丁などをほったらかしにしたままに話をそのまま繋げたという感じだ。連載小説なら、設定やストーリーの根幹を軽視してその場の盛り上がりを重視するというのも分かるが、どうやらこの阿修羅ガールはそういう訳ではないらしい。

 そして、第三部では第二部でのハチャメチャな展開を無理やりにまとめるが、それまでの展開を夢オチとするも同然の扱いだった。そうでもしなければ、話を収束させられないから仕方がないけれども。とはいえ失踪した佐野に関するオチが全く無いのもどうかと思ったが。そして最後まで読んで、こんな小説が賞を受賞したのかと愕然としたが、三島由紀夫賞というのを目にして納得した。三島由紀夫の著書はまだ一作も読んだことがないけれども、WikipediaYouTube動画から読み取れる三島由紀夫人格を推測するに、思想の根幹が弱いわりに伊達人生を貫いた人という印象だ。伊達人生に命を懸けたという点で、ある意味では思想が強いとも評せられるけれども。それだけに、この阿修羅ガール三島由紀夫賞に相応しいのだろうと、読了後に感じたものだ。

 まあ、文学というのはこういう物なのだろう。「文学」というよりは「文楽」だろうと思ったけれども。つまり文を「学ぶ」のではなく、文を「楽しむ」だ。音楽論理的に作ったり分析したりしている人を見ると、「音楽」というより「音学」という言葉がふさわしいのではと思うことがある。しかし、出版社主導によって商業評価をもってして誉めそやされている「文学」という代物は「文楽」という言葉の方がふさわしいだろう。当作『阿修羅ガール』でも同様だ。

 阿修羅ガールは、作品の根幹を成すストーリー思想価値観よりもその場限りでの文章の修辞的な技巧に重きを置いて、その技巧を楽しむエンタメ作品だ。こうした小説こそが、出版社主導の賞にふさわしいのだろう。そして、こうした小説を生み出せる人が、商業作家として大成していくのだろう。

 なんだかんだと文句を書き連ねたような感想になってしまったが、それも最後まで読み切ってしまう楽しさを持つ小説からこそだ。楽しさの無い小説など、途中で読むのもやめてしま感想を書く気にもなれないのだから

anond:20240612181448

である根拠が女の手しかなく、女の服装とかの描写がないので

男の自分が襲われたことで咄嗟に女だと思ったのかな

2024-06-12

映画「違国日記」は漫画とは別物 anond:20240610112303

削ぎ落されたのは〇〇や△△をめぐる本筋外のエピソードだけじゃなくて映画出演する権利を与えられたメインキャラクター性格描写となる部分も、であって

おかげで一部のマッチョ志向増田琴線に触れた「男性キャラクターは男らしさを降りないと存在を認められない」という特徴は、映画だけを観ている限りではほぼ消臭されている。瀬戸康史演ずるキャラクター普通の優しくかっこいいおじさんだ。

それは新垣結衣演ずる槙生も同じで、最初からやたら「良い人」だ。原作だと変人でとっつきにくいキャラクターが15歳の少女を引き取るという思いきった行動に出てくるというギャップ存在する。

だが、嫌々ながら売り言葉に買い言葉でやむを得ず引き取ってしまった後悔を内に秘めた「キツい」性格ワーキング成年女性である描写映画では存在しない。(執筆中は邪魔をするなと釘をさすくらいのやりとりが最初くらいはあってしかるべきだろうが、意外なくらい主人公二人の間には壁(映像表現では、部屋と部屋の間の扉にあたる)がない)

いきなり両親を亡くした中学生を引き取るのだからどう考えても善人に間違いないのだが、少女に、私を引き取ったのは自己満足のため?(大意)と問われて違うよ、愛しているよ(大意)と答えるのだからこてこての善人である

新垣結衣(槙生)は自宅を汚部屋にしていた。これを「良いのよこれで、私には」と開き直って見せれば傲岸不遜なキャラクター付けになるのだが、なんか申し訳そうな反応(てへぺろ系)を示すので、むしろメシマズキャラクター同様の「欠点のある女性カワイイ描写になっている。

 

そういったわけで観賞していて「ピンチの予感/ストレス→緩和」のふり幅が小さく軽い、低ストレスで見ることのできる映画となっている。去勢された男性や自信満々の女性を観たくない自分と向き合いたくない、という男性にも安心だ。

 

日本映画にはそれほど詳しくないが、例えば吉田恵輔作品を見る時のような圧・いたたまれなさを感じることはないだろう

映画レビュー: 「関心領域

タイトル: 関心領域 (Sphere of Interest)

公開年: 2023年

ジャンル: サイコロジカルドラマ

概要

関心領域」は、街中で淡々駆除される弱者男性たちと、それに見向きもせずに日常生活を送る女性たちの冷酷さを描いたサイコロジカルドラマです。映画は、眼の前で悲劇が起こっているにもかかわらず、全く関心を向けない女性たちの無関心と冷淡さをテーマにしています弱者男性たちが駆除されるシーンは直接描かれず、セリフや背景から暗示的に伝えられます映画ラストには視聴者に対する挑発的なメッセージが込められており、観る者をもその冷酷さに同調しているのではないかと問いかます

ストーリー

物語は、都会の無機質な風景からまります主婦の美奈は、平凡な日常を送っています彼女生活は、家事、買い物、友人とのランチといった普通のことに満ちていますしかし、街中では、弱者男性たちが駆除されているという不穏な噂が流れています

観客は、駆除される男性たちの姿を直接目にすることはありませんが、背後にある会話やテレビニュース、そして女性たちの無関心な態度から、その存在を感じ取ります。美奈とその友人たちは、この問題について全く触れることなく、日常を過ごしていきます

映画の中盤では、美奈が日常の中で幾度となく駆除痕跡を目にするシーンが描かれますが、彼女はその度に意図的無視し、話題を変えます。街の雰囲気は次第に冷酷さを増し、観客はその不気味さに引き込まれていきます

演技

美奈の演技は淡々としており、無関心な主婦を見事に演じています彼女の表情や態度から感じられる冷淡さは、映画全体のテーマを強調しています。友人たちも、それぞれが無関心な態度を自然に演じ、物語リアリティを加えています

演出

監督は、視覚的に直接的な暴力を避けつつも、観客にその不快感を巧妙に伝える手法を用いています。背景のディテール登場人物の何気ない会話を通じて、物語の裏にある冷酷な現実を描き出しています

音楽

音楽は控えめで、むしろ静寂が多くのシーンで支配的です。これにより、日常の中に潜む不安感が強調され、観客の緊張感を高めます

メッセージ

映画は、視聴者に対して強烈なメッセージを投げかけますラストシーンでは、観客自身映画の中の冷酷な女性たちと同じ無関心な立場にいるのではないかと問いかます。この挑発的な結末は、観る者に強い衝撃と反省を促します。

総評

関心領域」は、現代社会における無関心と冷淡さを鋭く描いた作品です。直接的な描写を避けながらも、そのテーマを強く観客に伝える巧妙な手法評価に値します。視聴後に残る不快感自己反省感情は、この映画の最大の特徴であり、サイコロジカルドラマとして非常に成功しています

評価: 4/5

このレビューが参考になれば幸いです。「関心領域」は、視覚的な暴力を避けつつも深いテーマを持つ挑戦的な作品です。観客に強い印象を残すこと間違いありません。

SFとか未来描写ありがちな空中に表示される液晶モニタみたいなの

いつできるのよ?

もうフィクションで見飽きたんだけど

2024-06-11

anond:20240611091431

差別奴の語彙が変わっただけでしかない

差別するつもりはないよ差別じゃないけど同性愛者と黒人ポリコレに媚びてるだけだから出てくると叩くよ。女が強気だったり社会的に高い地位を得るのも差別しないけど描写するのはポリコレに媚びてるに違いないから叩くよ。作品に火付けして燃やす規制をするべきだと騒ぐよ」

正規分布の端に生まれ

アドラーの本を途中まで読んだ.

これによると,精神疾患など生きるのに役立たない道に陥るものには,幼少期から共通感覚コモンセンス)を獲得できていないという特徴があるらしい.

そして共通感覚を獲得できなかった子供いじめられたり問題行動を起こしたりする.

この共通感覚は家庭において保護者から学ぶらしい.つまり保護者共通感覚を有していなければその子供も共通感覚を獲得することが困難で,大人になってから苦しむのだ.


なぜこの世界では誰でも子供を持つことが許されるのだろうか.ペットですらちゃんと育てられないなら飼うなと批判されるのに.

あるいはせめて,誰でも子供を作る自由があるのなら,どんな子供自分で死んでいい自由を認めるべきではないか


ここまで書いて村田沙耶香消滅世界という小説を思い出した.

この物語では,子供は生まれたらすぐに親から引き離されて専門の施設集団的に育てられるというユートピアが描かれている.

作中ではこのユートピアを明示的には否定肯定もしていないが,画一的に育てられた子供個性がなく皆同じような表情をするという描写が描かれている.


個性なくしたら死んでるのと一緒だよ」

偉大なベーシストである山田リョウ氏は言っている.

消滅世界で描かれたシステムは本当にユートピアなのだろうか.


だが,本当に個性必要なのだろうか.

共通感覚を有しない"悪い個性"を持つことは決して本人のためにはならない.

個性を持つことが良いとされるのは,個々の親が独立して子供を育てる現在社会におけるナッシュ均衡にすぎないのではないか

消滅世界システムのように全員が同じ教育を受け,共通感覚を有していることこそがパレート最適なのではないだろうか.


あるいは,個性個体差環境が変化した際に種全体が生き延びるのに有利だと説明される.

だが,これは明らかにほとんどの平均から外れた個性を持つ個体にとっては酷な話だ.当然ながら平均から外れた個体殆ど環境適応できず苦しむからだ.

上のような理論を唱える者は,「お前らのような珍獣が居た方が俺/私の遺伝子が残る可能性が高まるから生きろ.そして苦しめ」と言っているのに他ならない.

現代社会第二次世界大戦前の全体主義反省し,個人幸福を最大化しようとしたのではなかったか所詮それは,正規分布の真ん中あたりにいるマジョリティ自己満足に過ぎなかったのか.

そもそも人類環境変化を生き抜くのに,遺伝子多様性必要なのだろうか.

多数のサイコロをばらまいて確率論的に変化に打ち勝とうとするその他大勢の生き物とは違って,人類は理性を持って変化を予測し,技術環境を変えて乗り越えることができるのではないだろうか.

現に人類技術天然痘という感染症を撲滅させた.


だが,とき個性天才を生み出し,その天才技術を飛躍的に進歩させる.

こういった天才を生むために正規分布の端のほうの人間も,その殆どは苦しむ運命にあるとはいえ大人になるまで生きていなければいけないのかもしれない.これによって,苦しむ未来天才に生きる希望を与えることができるから

本当にそうだろうか.電球発明のように一人の天才の発想が大きな一歩を生み出した時代とは違って,現代科学進歩過去技術を積み重ねて積み重ねて演繹的に導き出された進歩ではないか

いや,そうでもないか.私も理系大学院研究の真似事をしたことがある.今でも科学最先端では天才の発想が不可欠だ.そしてそういう人は共通感覚を有していない人が多い.少なくともそう見える.

まり現代においても正規分布の端にいる,共通感覚を有しない,遺伝子的耐用性を持った人間を生きさせることは必要なのかもしれない.


私は天才ではない.だが,共通感覚を獲得することができず,苦しんでいる.正規分布中央に行けなかった人間の中の,一握りの天才を除くその他多数の中のひとりだ.

この苦しみを終わらせるには死ぬしかない.

私の意識死ぬことがのみが正解だと確信している.だが,私の無意識が生きることを声高に主張している.そのせいで私はまだ生きていてこの文章を書いている.

理性で動く私は,なんとかして自分死ぬことが論理的に正しいのだと結論付けたい.だが,今日も失敗した.

誰か私を助けてくれ.お前はもう開放されて良いのだと背中を押してほしい.

anond:20240611154848

既存小説参考にしてるだろ普通に考えて。実体験なら文章化出来るって訳じゃない。小説の主な購買層はおっさんから描写は消せないしそんなもん。

妻が小説を書いたことにモヤモヤしている

妻が小説を書いていたのを知ったのはつい先日のことだった。

とある賞に応募するために執筆したそうで、以前から小説を書くことはあったのだという。そんなこと全然知らなかったが、一度俺に読んでみてほしいとUSBを渡してくれたのは嬉しかった。

昨日早速読んでみると驚いた。文章は分かり易いし、銀行強盗一人称視点ストーリー面白いジャンルとしてはミステリーで、次々に謎が現れるのも海外ドラマのようで悪くない。ただ一つ、気になったのは話の途中にセックス描写があったことでそこの描写が妙に生々しくリアリティがあった。もしこれを実体験に基づいて書いているのであれば当然俺との体験を基にしているはずだ。しかし順序は俺とは違っていたし、やったことのない体位についても書いてあり正直非常にモヤモヤした。

小説フィクションなんだからセックス描写フィクションであることはもちろん理解している。経験したことのみ書けるってわけじゃないことは重々承知しているし、あくま想像力問題だってことも分かってる。でもセックス描写所謂朝チュンのような誤魔化しではなく官能小説のような具体性が本当にあって妻の吐息が聞こえてきそうだった。正直読んでいて嫌悪感ばかりが募り、そこで読むのを辞めてしまったほどだった。

今日明日でないにしろ妻はこの小説感想を俺に聞いてくるはずだ。その時に何て答えればいいのだろうか。小説の男に嫉妬している、なんていえば笑われるかもしれない。

anond:20240611092001

ポルノとまではいかなくても、所詮ファンタジーだなーとは思う。

自分と違う性別描写は難しいのだなと。

2024-06-10

文学における”パクリ”は何故忌避されるのか?についての考察

例えば、”なろう”において著名な作品から文章引用し、

それをそのままの形で己の作品として発表すれば悪評を得るだろう。

それは「パクリであるとして。

ではここでその諸問題、「なぜ文章パクリ忌避」されるのか。

それについて考察しようと思う。

まず仮定として、目の前に富士山があるとしよう。

その富士山光景を巧みに描写した文学作品があるとする。

そこで私がその作品から富士山に対する描写をそのまま引用すればパクリとされる。

それはその「文章」を無断で引用したこと咎められるのであって、「富士山」そのものを流用したこと事態問題は生じない。

ここに一種の奇妙な齟齬存在する。

すなわち「富士山」との表象描写すること自体には、「パクリ」とする概念存在していないのである

ここで述べたいことを平易に、そして換言すればこういうことである


富士山自体描写問題視されないのに対し、

なぜ文学作品文章光景として捉え、その文章描写することは禁止されるのか?


ということである

詭弁的に述べれば、こういうことだ。

「私はその文章をパクったのではない、私はその文章光景として読み取り、私が感じたままにその文章描写しただけである

これが「なるほど一理ある」と成らないのは自明である

その理由こそが、この諸問題としての根源的なものであり、すなわち「パクリ」という行為は、文章を盗む行為ではない。

それは、作者の感性思考を盗むことに他ならず、端的にも形而上学的に述べれば、それは作者の「魂」を盗むことである

まり富士山としての描写自体に「パクリ」としての表象が生じないのは、富士山としてその表象を捕らえた際、そこには個々人において異なる情動思考感性が働くことに由来する。

我々はあるひとつ事象認識し、相手に伝える行為において、

自分認識した事象を正確無比に相手に伝えるのは不可能である

なぜなら知覚した事象言語化する際に、ノイズが生じることは不可欠だからである

仮にこうしたコード化によってもノイズが発生しないのであれば、それは他者自己境界線存在しないことに成り、それは他者存在消失させてしまうことにつながる。

よって、他者としての存在とその存在性の認識こそが自己認識における伝達として生ずるノイズとしての証明であり、故に完璧意思疎通は不可能である

同時に、自身においてもその得た表象としての認識を、

実際に自分認識したものを完全に換言するのもまた不可能である

ここで本題に戻ろう。

まり、なぜ文章パクリが駄目とされるのか。

それはつまり事象描写価値があるからではない。

ノイズの部分にこそ価値があるからだ。

人間はこのノイズのことを評して「独自感性」として賞賛し、

彼らは実際、事象に対する見事な描写評価を与えるのではなく、

ノイズ」に対して評価を与えているのだ。

仮に富士山としての事象光景が、文字として表せるコードとして定義化されたとしよう。

すると橙色をR132・G90・B18として示せるように、富士山も同様に共同認識コードにより共通の形で表記することができるだろう。

その際において、富士山を示すコードを流用しようと、橙色場合と同様、そのコードを”パクリだ!”と批判されることはないだろう。

それは定義化された表象富士山を描いたかである

文章引用パクリとされる行為文章を盗むのではなく、作者としての”ノイズ”を盗むのであり、人は意思の疎通として害となる、その”ノイズ”に価値を置いている。

その事実はつまり文学としての重要性を示しているのであり、

人間は巧みに描写された事象を求めて作品としての文章を読むのではない。

それは正確さに欠ける、個々人として個人的感性と称される”ノイズ”を読む行為に他ならないのだ。

パクリが許されない最大の理由はここに帰結する。

まり、人はノイズを読み得ようとすると同時に、その”ノイズ”の出処を正確に知ろうと欲するためである

それはすなわち、”ノイズ”の正体が判明しておらず、その”ノイズ”としての概念自体アニミズム的にも崇高する謂れを持ち得ているかである

これこそ換言すれば、

「逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ…」

といったこ文章の与える意味としての本質が、

エヴァンゲリオンにおける碇シンジへと自然還元されるように。

anond:20240610102242

島に来たばっかりの頃に案内役として面倒見てくれる女に筆下ろしされる描写も入れてほしい

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