はてなキーワード: 草刈りとは
二週間、庭の手入れをサボっていた。気候が草にとって過ごし易かったせいもあり、庭がワイルドネイチャーに侵食されてやべえことになっていた。長い棒の草刈り鎌をぶん回し、でかい剪定鋏で広背筋を酷使しまくってがんばったが、庭が無駄に広いせいで全部きれいにするのは無理だった。
こんな世話の焼ける庭だけど……自分の土地でもないのにせっせと面倒見てる私馬鹿かな?
でも放置していても大家さんは庭の手入れに来てはくれないし、そもこの物件管理費0円だから仕方ないし、たまに大家さん来ると大量の除草剤を躊躇せずに撒くので、自分でやろってなった。
それにしても凄いなって思う。草めちゃ生ええる。木の枝は伸びるし……。こいつら草食動物に食われて適度に間引かれるの前提で生きてるだろ。ヤギ飼いたい。できるものならば。ウンコと体臭が臭くなければ。他人の田んぼの端の雑草も食わせていいのならば。そう思うくらい草はぼうぼうに生えて枝を伸ばすが、そうやって密になると半端に自滅しくさるので、草って案外馬鹿なんだなと思う。真剣に馬や鹿とあと私と共生しないと健康的に生きれなさそう。
草をバシバシ刈りながら自然環境がどうとかみたいなでかいことをつい考えてしまうのだが、これからの時代は人と自然の境界線上をなんかこう調整するのが大事な仕事なんだろうなと思って、要は草を頑張ってむしれということなのだ。一文の得にもならないだろうが。自然は人間が油断すれば「いいんですね?」と言わんばかりに版図を拡げてくるので、我々は住める場所が草に埋もれないよう闘い続けなければならないのだ! たぶん。
でも、草むしりやったら時給500円貰えたら嬉しいな♪と思う。
何かソースを出せという人が多かったから出す。あと本旨があまり理解されてないっぽいのでそれも再確認する。
前の文の下に繋げようとしたらできなかった(長すぎたのかな?)ので、トラバの方にぶら下げることにする。
フィンランドの鉄道については、元増田が引用したソースの下の方で
"Most stations are accessible." (ほとんどの駅はアクセシブルです)と書いてある通り。
accessibleとは直訳すれば"アクセスできる"という意味で、バリアフリーの文脈では障害等に関わらず利用可能な状態であることを指す。
ノルウェーの鉄道の場合、ありがたいことにノルウェー国鉄の全駅の情報が見れる。→https://www.banenor.no/en/startpage1/Search-for-stations/
ここにリストアップされている全336駅中、"Wheelchair access to platform"が無いのは34駅(有っても不完全な駅も含む。完全に無い駅に限ると23駅)。
Vakås駅のページにはアクセスできなかったので、23~34/335=約7~10%の駅が車椅子利用者にとって"not accessible"と言える。
これはド田舎まで含めたノルウェー全土の数値なので、ほとんどの駅でアクセシブルと言ってもいいだろう。「90%程度では"ほとんど"なんて言えない」と言う人は、まあ私と感覚が合わなかったということで一つ。
スウェーデンのほぼ全ての駅に関する情報はhttps://www.dinstation.comで提供されている。
掲載されている124駅のうち、アクセシビリティの情報が書いてあるのは97駅、そのうち車椅子でアクセスできないエントランスがあるのは12駅。
約12%の駅(情報なしは除外して12/97)が車椅子ユーザーにとって"not accessible"である。ただし仮に情報が無い駅を全部"not accessible"とカウントした場合、それは約31%(="accessible"な駅は69%だけ)になるため"ほとんどの駅でaccessible"という私の見解が揺らぐことを、公平のために記しておく。
地下鉄はエレベーター完備。列車の乗降口はプラットフォームと無段差。追加の支援が必要な場合は列車やプラットフォームにある呼び出しボタンが使える。→https://dinoffentligetransport.dk/en/customer-service/rules-and-guidelines/disability-access-conditions/
Lokaltog(地方鉄道の総括,123駅)についてはhttps://www.lokaltog.dk/kunde/handicaphjaelp/に書いてある。これは追記前にも言及済み。
曰く"Du kan som kørestolsbruger, spontant rejse med toget på alle Lokaltogs strækninger uden at aftale nærmere med Lokaltog på forhånd. På de stationer, hvor tog og perron ikke er i niveau, vil togets lokomotivfører lægge en rampe ud./車椅子利用者は、すべてのLokaltogで自由に事前連絡なしで旅行出来ます。もしプラットフォームと電車の乗降口に段差がある場合、車掌がスロープを設置します。"
ただし、Østbanen(デンマークの地方鉄道)のLille Syd線ではGadstrup、Havdrup、Lille Skensved、Ølbyの4駅についてはlevel-freeではないため、ここを利用したいなら事前(利用12時間前)にハンディキャップサービスに連絡が必要。そうした場合、最寄りのlevel-freeな駅まで送ってもらえる。
DSB(デンマーク国鉄)の駅に関する情報はhttps://www.dsb.dk/kundeservice/stationer/でみられる。
ここではアクセシビリティとして階段とエレベーターの有無が見られる。
リストされている317駅で"階段はあるがエレベーターが無い"駅は30である。またどちらもある駅が129、どちらもない駅(=平屋建て)が156。
ノルウェーと同様、9割以上の駅が"accessible"である。
「どちらもない駅がバリアフリーとは限らないじゃないか。階段がないだけで段差だらけかもしれないだろう」という意見もあるかもしれない。
このリストにはLokaltogの利用駅も含まれており、それらがlevel-freeと見做されている以上、他の駅もそうだろうと考えるのが自然と私は考えた。
ただGadstrup、Havdrup、Lille Skensvedの3駅はLokaltogのサイトで言ってる通り階段ありエレベーター無しだが、Ølbyは両方あることになってる。同名の別駅か、最近改修されたのか、情報が間違っているのか。
氏の紹介した例は要予約のサービスであり、別に予約しなくとも駅は使える。
車椅子ユーザーにとって"not accessible"でありかつその支援サービスが提供されている駅でのみ発生する事態なのだが、"not accessible"な駅自体が少ないことはこの追記で述べた通り。
なお駅が"not accessible"で支援サービスもない場合は諦めよう。駅員さんが賃金外労働で助けてくれたりはしないぞ。
これには特にソースを出さずに言ったため、疑問に思った人が多かったようだ。なので追記で根拠とソースを出した。私としてはこれで十分と思うが如何に。
(1)と若干被ってるか。事前連絡が必要なケースは北欧の方が日本より少ないのは確かだが、無いわけじゃない。(あと必須じゃないがした方が得なので自発的に連絡する人は多い。)
なので"伊是名女史のケースは北欧でも事前連絡が必要なケースに該当するかもしれない。"と書いた通り、「北欧なら伊是名女史は連絡なしで乗れたのに!日本は遅れてる!」という意見があるとすればあまり正しくない。
仮に伊是名女史がノルウェーのVieren駅(https://www.banenor.no/en/Railway/Search-for-stations/-V-/Vieren/)に行っても列車に乗るのは不可能だっただろう。この駅なら事前連絡しても無理だろうけど。
北欧ではどうやってエレベーターとかきっちりつけてんの?金もつん?という疑問が見受けられた。その疑問に一部答えよう。
バリアフリー化が法律で義務付けられてて、駅や列車の新築/新造や改修時に基準に沿ってないと許可が下りない。
福祉国家故か高い税金分ジャブジャブ注ぎ込む。スウェーデンなんかは何年か前に250億くらい突っ込んでた気がする。
あと平屋建てが多い。エレベーターとかなくともちょっとスロープ付けるだけでなんとかなる。
ぶっちゃけるとド田舎ではプラットフォームが線路の脇を舗装/草刈りしただけとかもままあるため、特になんもしなくても車椅子で行けたり、手作りや既製品のスロープがポンと置いてあるだけなんてことも多い。
一方でそういう駅ではプラットホームと列車の間の段差はそのままだったりする。
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴ふく岩穴もあったのです。
さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光は運動場いっぱいでした。黒い雪袴ゆきばかまをはいた二人の一年生の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかにだれも来ていないのを見て、「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫びながら大よろこびで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ふたりともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合わせてぶるぶるふるえましたが、ひとりはとうとう泣き出してしまいました。というわけは、そのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり、いちばん前の机にちゃんとすわっていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。
もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり目をりんと張って、そっちのほうをにらめていましたら、ちょうどそのとき、川上から、
「ちょうはあ かぐり ちょうはあ かぐり。」と高く叫ぶ声がして、それからまるで大きなからすのように、嘉助かすけがかばんをかかえてわらって運動場へかけて来ました。と思ったらすぐそのあとから佐太郎さたろうだの耕助こうすけだのどやどややってきました。
「なして泣いでら、うなかもたのが。」嘉助が泣かないこどもの肩をつかまえて言いました。するとその子もわあと泣いてしまいました。おかしいとおもってみんながあたりを見ると、教室の中にあの赤毛のおかしな子がすまして、しゃんとすわっているのが目につきました。
みんなはしんとなってしまいました。だんだんみんな女の子たちも集まって来ましたが、だれもなんとも言えませんでした。
赤毛の子どもはいっこうこわがるふうもなくやっぱりちゃんとすわって、じっと黒板を見ています。すると六年生の一郎いちろうが来ました。一郎はまるでおとなのようにゆっくり大またにやってきて、みんなを見て、
「何なにした。」とききました。
みんなははじめてがやがや声をたててその教室の中の変な子を指さしました。一郎はしばらくそっちを見ていましたが、やがて鞄かばんをしっかりかかえて、さっさと窓の下へ行きました。
みんなもすっかり元気になってついて行きました。
「だれだ、時間にならないに教室へはいってるのは。」一郎は窓へはいのぼって教室の中へ顔をつき出して言いました。
「お天気のいい時教室さはいってるづど先生にうんとしからえるぞ。」窓の下の耕助が言いました。
「しからえでもおら知らないよ。」嘉助が言いました。
「早ぐ出はって来こ、出はって来。」一郎が言いました。けれどもそのこどもはきょろきょろ室へやの中やみんなのほうを見るばかりで、やっぱりちゃんとひざに手をおいて腰掛けにすわっていました。
ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革かわの半靴はんぐつをはいていたのです。
それに顔といったらまるで熟したりんごのよう、ことに目はまん丸でまっくろなのでした。いっこう言葉が通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。
「学校さはいるのだな。」みんなはがやがやがやがや言いました。ところが五年生の嘉助がいきなり、
「ああそうだ。」と小さいこどもらは思いましたが、一郎はだまってくびをまげました。
変なこどもはやはりきょろきょろこっちを見るだけ、きちんと腰掛けています。
そのとき風がどうと吹いて来て教室のガラス戸はみんながたがた鳴り、学校のうしろの山の萱かやや栗くりの木はみんな変に青じろくなってゆれ、教室のなかのこどもはなんだかにやっとわらってすこしうごいたようでした。
すると嘉助がすぐ叫びました。
そうだっとみんなもおもったとき、にわかにうしろのほうで五郎が、
「わあ、痛いぢゃあ。」と叫びました。
みんなそっちへ振り向きますと、五郎が耕助に足のゆびをふまれて、まるでおこって耕助をなぐりつけていたのです。すると耕助もおこって、
「わあ、われ悪くてでひと撲はだいだなあ。」と言ってまた五郎をなぐろうとしました。
五郎はまるで顔じゅう涙だらけにして耕助に組み付こうとしました。そこで一郎が間へはいって嘉助が耕助を押えてしまいました。
「わあい、けんかするなったら、先生あちゃんと職員室に来てらぞ。」と一郎が言いながらまた教室のほうを見ましたら、一郎はにわかにまるでぽかんとしてしまいました。
たったいままで教室にいたあの変な子が影もかたちもないのです。みんなもまるでせっかく友だちになった子うまが遠くへやられたよう、せっかく捕とった山雀やまがらに逃げられたように思いました。
風がまたどうと吹いて来て窓ガラスをがたがた言わせ、うしろの山の萱かやをだんだん上流のほうへ青じろく波だてて行きました。
「わあ、うなだけんかしたんだがら又三郎いなぐなったな。」嘉助がおこって言いました。
みんなもほんとうにそう思いました。五郎はじつに申しわけないと思って、足の痛いのも忘れてしょんぼり肩をすぼめて立ったのです。
「二百十日で来たのだな。」
「靴くつはいでだたぞ。」
「服も着でだたぞ。」
「髪赤くておかしやづだったな。」
「ありゃありゃ、又三郎おれの机の上さ石かけ乗せでったぞ。」二年生の子が言いました。見るとその子の机の上にはきたない石かけが乗っていたのです。
「そうだ、ありゃ。あそごのガラスもぶっかしたぞ。」
「わあい。そだないであ。」と言っていたとき、これはまたなんというわけでしょう。先生が玄関から出て来たのです。先生はぴかぴか光る呼び子を右手にもって、もう集まれのしたくをしているのでしたが、そのすぐうしろから、さっきの赤い髪の子が、まるで権現ごんげんさまの尾おっぱ持ちのようにすまし込んで、白いシャッポをかぶって、先生についてすぱすぱとあるいて来たのです。
みんなはしいんとなってしまいました。やっと一郎が「先生お早うございます。」と言いましたのでみんなもついて、
「みなさん。お早う。どなたも元気ですね。では並んで。」先生は呼び子をビルルと吹きました。それはすぐ谷の向こうの山へひびいてまたビルルルと低く戻もどってきました。
すっかりやすみの前のとおりだとみんなが思いながら六年生は一人、五年生は七人、四年生は六人、一二年生は十二人、組ごとに一列に縦にならびました。
二年は八人、一年生は四人前へならえをしてならんだのです。
するとその間あのおかしな子は、何かおかしいのかおもしろいのか奥歯で横っちょに舌をかむようにして、じろじろみんなを見ながら先生のうしろに立っていたのです。すると先生は、高田たかださんこっちへおはいりなさいと言いながら五年生の列のところへ連れて行って、丈たけを嘉助とくらべてから嘉助とそのうしろのきよの間へ立たせました。
みんなはふりかえってじっとそれを見ていました。
「前へならえ。」と号令をかけました。
みんなはもう一ぺん前へならえをしてすっかり列をつくりましたが、じつはあの変な子がどういうふうにしているのか見たくて、かわるがわるそっちをふりむいたり横目でにらんだりしたのでした。するとその子はちゃんと前へならえでもなんでも知ってるらしく平気で両腕を前へ出して、指さきを嘉助のせなかへやっと届くくらいにしていたものですから、嘉助はなんだかせなかがかゆく、くすぐったいというふうにもじもじしていました。
「直れ。」先生がまた号令をかけました。
「一年から順に前へおい。」そこで一年生はあるき出し、まもなく二年生もあるき出してみんなの前をぐるっと通って、右手の下駄箱げたばこのある入り口にはいって行きました。四年生があるき出すとさっきの子も嘉助のあとへついて大威張りであるいて行きました。前へ行った子もときどきふりかえって見、あとの者もじっと見ていたのです。
まもなくみんなははきものを下駄箱げたばこに入れて教室へはいって、ちょうど外へならんだときのように組ごとに一列に机にすわりました。さっきの子もすまし込んで嘉助のうしろにすわりました。ところがもう大さわぎです。
「わあ、おらの机さ石かけはいってるぞ。」
「わあ、おらの机代わってるぞ。」
「キッコ、キッコ、うな通信簿持って来たが。おら忘れで来たぢゃあ。」
「わあがない。ひとの雑記帳とってって。」
そのとき先生がはいって来ましたのでみんなもさわぎながらとにかく立ちあがり、一郎がいちばんうしろで、
「礼。」と言いました。
みんなはおじぎをする間はちょっとしんとなりましたが、それからまたがやがやがやがや言いました。
「しずかに、みなさん。しずかにするのです。」先生が言いました。
「しっ、悦治えつじ、やがましったら、嘉助え、喜きっこう。わあい。」と一郎がいちばんうしろからあまりさわぐものを一人ずつしかりました。
みんなはしんとなりました。
先生が言いました。
「みなさん、長い夏のお休みはおもしろかったですね。みなさんは朝から水泳ぎもできたし、林の中で鷹たかにも負けないくらい高く叫んだり、またにいさんの草刈りについて上うえの野原へ行ったりしたでしょう。けれどももうきのうで休みは終わりました。これからは第二学期で秋です。むかしから秋はいちばんからだもこころもひきしまって、勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんもきょうからまたいっしょにしっかり勉強しましょう。それからこのお休みの間にみなさんのお友だちが一人ふえました。それはそこにいる高田さんです。そのかたのおとうさんはこんど会社のご用で上の野原の入り口へおいでになっていられるのです。高田さんはいままでは北海道の学校におられたのですが、きょうからみなさんのお友だちになるのですから、みなさんは学校で勉強のときも、また栗拾くりひろいや魚さかなとりに行くときも、高田さんをさそうようにしなければなりません。わかりましたか。わかった人は手をあげてごらんなさい。」
すぐみんなは手をあげました。その高田とよばれた子も勢いよく手をあげましたので、ちょっと先生はわらいましたが、すぐ、
「わかりましたね、ではよし。」と言いましたので、みんなは火の消えたように一ぺんに手をおろしました。
ところが嘉助がすぐ、
「先生。」といってまた手をあげました。
「高田さん名はなんて言うべな。」
「わあ、うまい、そりゃ、やっぱり又三郎だな。」嘉助はまるで手をたたいて机の中で踊るようにしましたので、大きなほうの子どもらはどっと笑いましたが、下の子どもらは何かこわいというふうにしいんとして三郎のほうを見ていたのです。
先生はまた言いました。
「きょうはみなさんは通信簿と宿題をもってくるのでしたね。持って来た人は机の上へ出してください。私がいま集めに行きますから。」
みんなはばたばた鞄かばんをあけたりふろしきをといたりして、通信簿と宿題を机の上に出しました。そして先生が一年生のほうから順にそれを集めはじめました。そのときみんなはぎょっとしました。というわけはみんなのうしろのところにいつか一人の大人おとなが立っていたのです。その人は白いだぶだぶの麻服を着て黒いてかてかしたはんけちをネクタイの代わりに首に巻いて、手には白い扇をもって軽くじぶんの顔を扇あおぎながら少し笑ってみんなを見おろしていたのです。さあみんなはだんだんしいんとなって、まるで堅くなってしまいました。
ところが先生は別にその人を気にかけるふうもなく、順々に通信簿を集めて三郎の席まで行きますと、三郎は通信簿も宿題帳もないかわりに両手をにぎりこぶしにして二つ机の上にのせていたのです。先生はだまってそこを通りすぎ、みんなのを集めてしまうとそれを両手でそろえながらまた教壇に戻りました。
「では宿題帳はこの次の土曜日に直して渡しますから、きょう持って来なかった人は、あしたきっと忘れないで持って来てください。それは悦治さんと勇治ゆうじさんと良作りょうさくさんとですね。ではきょうはここまでです。あしたからちゃんといつものとおりのしたくをしておいでなさい。それから四年生と六年生の人は、先生といっしょに教室のお掃除そうじをしましょう。ではここまで。」
一郎が気をつけ、と言いみんなは一ぺんに立ちました。うしろの大人おとなも扇を下にさげて立ちました。
「礼。」先生もみんなも礼をしました。うしろの大人も軽く頭を下げました。それからずうっと下の組の子どもらは一目散に教室を飛び出しましたが、四年生の子どもらはまだもじもじしていました。
すると三郎はさっきのだぶだぶの白い服の人のところへ行きました。先生も教壇をおりてその人のところへ行きました。
「いやどうもご苦労さまでございます。」その大人はていねいに先生に礼をしました。
「じきみんなとお友だちになりますから。」先生も礼を返しながら言いました。
「何ぶんどうかよろしくおねがいいたします。それでは。」その人はまたていねいに礼をして目で三郎に合図すると、自分は玄関のほうへまわって外へ出て待っていますと、三郎はみんなの見ている中を目をりんとはってだまって昇降口から出て行って追いつき、二人は運動場を通って川下のほうへ歩いて行きました。
運動場を出るときその子はこっちをふりむいて、じっと学校やみんなのほうをにらむようにすると、またすたすた白服の大人おとなについて歩いて行きました。
「先生、あの人は高田さんのとうさんですか。」一郎が箒ほうきをもちながら先生にききました。
「そうです。」
「なんの用で来たべ。」
「上の野原の入り口にモリブデンという鉱石ができるので、それをだんだん掘るようにするためだそうです。」
「どこらあだりだべな。」
「私もまだよくわかりませんが、いつもみなさんが馬をつれて行くみちから、少し川下へ寄ったほうなようです。」
「モリブデン何にするべな。」
「それは鉄とまぜたり、薬をつくったりするのだそうです。」
「そだら又三郎も掘るべが。」嘉助が言いました。
「又三郎だ又三郎だ。」嘉助が顔をまっ赤かにしてがん張りました。
「嘉助、うなも残ってらば掃除そうじしてすけろ。」一郎が言いました。
風がまた吹いて来て窓ガラスはまたがたがた鳴り、ぞうきんを入れたバケツにも小さな黒い波をたてました。
次の日一郎はあのおかしな子供が、きょうからほんとうに学校へ来て本を読んだりするかどうか早く見たいような気がして、いつもより早く嘉助をさそいました。ところが嘉助のほうは一郎よりもっとそう考えていたと見えて、とうにごはんもたべ、ふろしきに包んだ本ももって家の前へ出て一郎を待っていたのでした。二人は途中もいろいろその子のことを話しながら学校へ来ました。すると運動場には小さな子供らがもう七八人集まっていて、棒かくしをしていましたが、その子はまだ来ていませんでした。またきのうのように教室の中にいるのかと思って中をのぞいて見ましたが、教室の中はしいんとしてだれもいず、黒板の上にはきのう掃除のときぞうきんでふいた跡がかわいてぼんやり白い縞しまになっていました。
「きのうのやつまだ来てないな。」一郎が言いました。
「うん。」嘉助も言ってそこらを見まわしました。
一郎はそこで鉄棒の下へ行って、じゃみ上がりというやり方で、無理やりに鉄棒の上にのぼり両腕をだんだん寄せて右の腕木に行くと、そこへ腰掛けてきのう三郎の行ったほうをじっと見おろして待っていました。谷川はそっちのほうへきらきら光ってながれて行き、その下の山の上のほうでは風も吹いているらしく、ときどき萱かやが白く波立っていました。
嘉助もやっぱりその柱の下でじっとそっちを見て待っていました。ところが二人はそんなに長く待つこともありませんでした。それは突然三郎がその下手のみちから灰いろの鞄かばんを右手にかかえて走るようにして出て来たのです。
「来たぞ。」と一郎が思わず下にいる嘉助へ叫ぼうとしていますと、早くも三郎はどてをぐるっとまわって、どんどん正門をはいって来ると、
「お早う。」とはっきり言いました。みんなはいっしょにそっちをふり向きましたが、一人も返事をしたものがありませんでした。
それは返事をしないのではなくて、みんなは先生にはいつでも「お早うございます。」というように習っていたのですが、お互いに「お早う。」なんて言ったことがなかったのに三郎にそう言われても、一郎や嘉助はあんまりにわかで、また勢いがいいのでとうとう臆おくしてしまって一郎も嘉助も口の中でお早うというかわりに、もにゃもにゃっと言ってしまったのでした。
ところが三郎のほうはべつだんそれを苦にするふうもなく、二三歩また前へ進むとじっと立って、そのまっ黒な目でぐるっと運動場じゅうを見まわしました。そしてしばらくだれか遊ぶ相手がないかさがしているようでした。けれどもみんなきょろきょろ三郎のほうはみていても、やはり忙しそうに棒かくしをしたり三郎のほうへ行くものがありませんでした。三郎はちょっと具合が悪いようにそこにつっ立っていましたが、また運動場をもう一度見まわしました。
それからぜんたいこの運動場は何間なんげんあるかというように、正門から玄関まで大またに歩数を数えながら歩きはじめました。一郎は急いで鉄棒をはねおりて嘉助とならんで、息をこらしてそれを見ていました。
そのうち三郎は向こうの玄関の前まで行ってしまうと、こっちへ向いてしばらく暗算をするように少し首をまげて立っていました。
みんなはやはりきろきろそっちを見ています。三郎は少し困ったように両手をうしろへ組むと向こう側の土手のほうへ職員室の前を通って歩きだしました。
その時風がざあっと吹いて来て土手の草はざわざわ波になり、運動場のまん中でさあっと塵ちりがあがり、それが玄関の前まで行くと、きりきりとまわって小さなつむじ風になって、黄いろな塵は瓶びんをさかさまにしたような形になって屋根より高くのぼりました。
すると嘉助が突然高く言いました。
「そうだ。やっぱりあいづ又三郎だぞ。あいづ何かするときっと風吹いてくるぞ。」
「うん。」一郎はどうだかわからないと思いながらもだまってそっちを見ていました。三郎はそんなことにはかまわず土手のほうへやはりすたすた歩いて行きます。
そのとき先生がいつものように呼び子をもって玄関を出て来たのです。
「お早う。」先生はちらっと運動場を見まわしてから、「ではならんで。」と言いながらビルルッと笛を吹きました。
みんなは集まってきてきのうのとおりきちんとならびました。三郎もきのう言われた所へちゃんと立っています。
先生はお日さまがまっ正面なのですこしまぶしそうにしながら号令をだんだんかけて、とうとうみんなは昇降口から教室へはいりました。そして礼がすむと先生は、
「ではみなさんきょうから勉強をはじめましょう。みなさんはちゃんとお道具をもってきましたね。では一年生(と二年生)の人はお習字のお手本と硯すずりと紙を出して、二年生と四年生の人は算術帳と雑記帳と鉛筆を出して、五年生と六年生の人は国語の本を出してください。」
さあするとあっちでもこっちでも大さわぎがはじまりました。中にも三郎のすぐ横の四年生の机の佐太郎が、いきなり手をのばして二年生のかよの鉛筆をひらりととってしまったのです。かよは佐太郎の妹でした。するとかよは、
「うわあ、兄あいな、木ペン取とてわかんないな。」と言いながら取り返そうとしますと佐太郎が、
「わあ、こいつおれのだなあ。」と言いながら鉛筆をふところの中へ入れて、あとはシナ人がおじぎするときのように両手を袖そでへ入れて、机へぴったり胸をくっつけました。するとかよは立って来て、
「兄あいな、兄なの木ペンはきのう小屋でなくしてしまったけなあ。よこせったら。」と言いながら一生けん命とり返そうとしましたが、どうしてももう佐太郎は机にくっついた大きな蟹かにの化石みたいになっているので、とうとうかよは立ったまま口を大きくまげて泣きだしそうになりました。
すると三郎は国語の本をちゃんと机にのせて困ったようにしてこれを見ていましたが、かよがとうとうぼろぼろ涙をこぼしたのを見ると、だまって右手に持っていた半分ばかりになった鉛筆を佐太郎の目の前の机に置きました。
すると佐太郎はにわかに元気になって、むっくり起き上がりました。そして、
「くれる?」と三郎にききました。三郎はちょっとまごついたようでしたが覚悟したように、「うん。」と言いました。すると佐太郎はいきなりわらい出してふところの鉛筆をかよの小さな赤い手に持たせました。
先生は向こうで一年生の子の硯すずりに水をついでやったりしていましたし、嘉助は三郎の前ですから知りませんでしたが、一郎はこれをいちばんうしろでちゃんと見ていました。そしてまるでなんと言ったらいいかわからない、変な気持ちがして歯をきりきり言わせました。
「では二年生のひとはお休みの前にならった引き算をもう一ぺん習ってみましょう。これを勘定してごらんなさい。」先生は黒板に25-12=の数式と書きました。二年生のこどもらはみんな一生
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴ふく岩穴もあったのです。
さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光は運動場いっぱいでした。黒い雪袴ゆきばかまをはいた二人の一年生の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかにだれも来ていないのを見て、「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫びながら大よろこびで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ふたりともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合わせてぶるぶるふるえましたが、ひとりはとうとう泣き出してしまいました。というわけは、そのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり、いちばん前の机にちゃんとすわっていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。
もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり目をりんと張って、そっちのほうをにらめていましたら、ちょうどそのとき、川上から、
「ちょうはあ かぐり ちょうはあ かぐり。」と高く叫ぶ声がして、それからまるで大きなからすのように、嘉助かすけがかばんをかかえてわらって運動場へかけて来ました。と思ったらすぐそのあとから佐太郎さたろうだの耕助こうすけだのどやどややってきました。
「なして泣いでら、うなかもたのが。」嘉助が泣かないこどもの肩をつかまえて言いました。するとその子もわあと泣いてしまいました。おかしいとおもってみんながあたりを見ると、教室の中にあの赤毛のおかしな子がすまして、しゃんとすわっているのが目につきました。
みんなはしんとなってしまいました。だんだんみんな女の子たちも集まって来ましたが、だれもなんとも言えませんでした。
赤毛の子どもはいっこうこわがるふうもなくやっぱりちゃんとすわって、じっと黒板を見ています。すると六年生の一郎いちろうが来ました。一郎はまるでおとなのようにゆっくり大またにやってきて、みんなを見て、
「何なにした。」とききました。
みんなははじめてがやがや声をたててその教室の中の変な子を指さしました。一郎はしばらくそっちを見ていましたが、やがて鞄かばんをしっかりかかえて、さっさと窓の下へ行きました。
みんなもすっかり元気になってついて行きました。
「だれだ、時間にならないに教室へはいってるのは。」一郎は窓へはいのぼって教室の中へ顔をつき出して言いました。
「お天気のいい時教室さはいってるづど先生にうんとしからえるぞ。」窓の下の耕助が言いました。
「しからえでもおら知らないよ。」嘉助が言いました。
「早ぐ出はって来こ、出はって来。」一郎が言いました。けれどもそのこどもはきょろきょろ室へやの中やみんなのほうを見るばかりで、やっぱりちゃんとひざに手をおいて腰掛けにすわっていました。
ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革かわの半靴はんぐつをはいていたのです。
それに顔といったらまるで熟したりんごのよう、ことに目はまん丸でまっくろなのでした。いっこう言葉が通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。
「学校さはいるのだな。」みんなはがやがやがやがや言いました。ところが五年生の嘉助がいきなり、
「ああそうだ。」と小さいこどもらは思いましたが、一郎はだまってくびをまげました。
変なこどもはやはりきょろきょろこっちを見るだけ、きちんと腰掛けています。
そのとき風がどうと吹いて来て教室のガラス戸はみんながたがた鳴り、学校のうしろの山の萱かやや栗くりの木はみんな変に青じろくなってゆれ、教室のなかのこどもはなんだかにやっとわらってすこしうごいたようでした。
すると嘉助がすぐ叫びました。
そうだっとみんなもおもったとき、にわかにうしろのほうで五郎が、
「わあ、痛いぢゃあ。」と叫びました。
みんなそっちへ振り向きますと、五郎が耕助に足のゆびをふまれて、まるでおこって耕助をなぐりつけていたのです。すると耕助もおこって、
「わあ、われ悪くてでひと撲はだいだなあ。」と言ってまた五郎をなぐろうとしました。
五郎はまるで顔じゅう涙だらけにして耕助に組み付こうとしました。そこで一郎が間へはいって嘉助が耕助を押えてしまいました。
「わあい、けんかするなったら、先生あちゃんと職員室に来てらぞ。」と一郎が言いながらまた教室のほうを見ましたら、一郎はにわかにまるでぽかんとしてしまいました。
たったいままで教室にいたあの変な子が影もかたちもないのです。みんなもまるでせっかく友だちになった子うまが遠くへやられたよう、せっかく捕とった山雀やまがらに逃げられたように思いました。
風がまたどうと吹いて来て窓ガラスをがたがた言わせ、うしろの山の萱かやをだんだん上流のほうへ青じろく波だてて行きました。
「わあ、うなだけんかしたんだがら又三郎いなぐなったな。」嘉助がおこって言いました。
みんなもほんとうにそう思いました。五郎はじつに申しわけないと思って、足の痛いのも忘れてしょんぼり肩をすぼめて立ったのです。
「二百十日で来たのだな。」
「靴くつはいでだたぞ。」
「服も着でだたぞ。」
「髪赤くておかしやづだったな。」
「ありゃありゃ、又三郎おれの机の上さ石かけ乗せでったぞ。」二年生の子が言いました。見るとその子の机の上にはきたない石かけが乗っていたのです。
「そうだ、ありゃ。あそごのガラスもぶっかしたぞ。」
「わあい。そだないであ。」と言っていたとき、これはまたなんというわけでしょう。先生が玄関から出て来たのです。先生はぴかぴか光る呼び子を右手にもって、もう集まれのしたくをしているのでしたが、そのすぐうしろから、さっきの赤い髪の子が、まるで権現ごんげんさまの尾おっぱ持ちのようにすまし込んで、白いシャッポをかぶって、先生についてすぱすぱとあるいて来たのです。
みんなはしいんとなってしまいました。やっと一郎が「先生お早うございます。」と言いましたのでみんなもついて、
「みなさん。お早う。どなたも元気ですね。では並んで。」先生は呼び子をビルルと吹きました。それはすぐ谷の向こうの山へひびいてまたビルルルと低く戻もどってきました。
すっかりやすみの前のとおりだとみんなが思いながら六年生は一人、五年生は七人、四年生は六人、一二年生は十二人、組ごとに一列に縦にならびました。
二年は八人、一年生は四人前へならえをしてならんだのです。
するとその間あのおかしな子は、何かおかしいのかおもしろいのか奥歯で横っちょに舌をかむようにして、じろじろみんなを見ながら先生のうしろに立っていたのです。すると先生は、高田たかださんこっちへおはいりなさいと言いながら五年生の列のところへ連れて行って、丈たけを嘉助とくらべてから嘉助とそのうしろのきよの間へ立たせました。
みんなはふりかえってじっとそれを見ていました。
「前へならえ。」と号令をかけました。
みんなはもう一ぺん前へならえをしてすっかり列をつくりましたが、じつはあの変な子がどういうふうにしているのか見たくて、かわるがわるそっちをふりむいたり横目でにらんだりしたのでした。するとその子はちゃんと前へならえでもなんでも知ってるらしく平気で両腕を前へ出して、指さきを嘉助のせなかへやっと届くくらいにしていたものですから、嘉助はなんだかせなかがかゆく、くすぐったいというふうにもじもじしていました。
「直れ。」先生がまた号令をかけました。
「一年から順に前へおい。」そこで一年生はあるき出し、まもなく二年生もあるき出してみんなの前をぐるっと通って、右手の下駄箱げたばこのある入り口にはいって行きました。四年生があるき出すとさっきの子も嘉助のあとへついて大威張りであるいて行きました。前へ行った子もときどきふりかえって見、あとの者もじっと見ていたのです。
まもなくみんなははきものを下駄箱げたばこに入れて教室へはいって、ちょうど外へならんだときのように組ごとに一列に机にすわりました。さっきの子もすまし込んで嘉助のうしろにすわりました。ところがもう大さわぎです。
「わあ、おらの机さ石かけはいってるぞ。」
「わあ、おらの机代わってるぞ。」
「キッコ、キッコ、うな通信簿持って来たが。おら忘れで来たぢゃあ。」
「わあがない。ひとの雑記帳とってって。」
そのとき先生がはいって来ましたのでみんなもさわぎながらとにかく立ちあがり、一郎がいちばんうしろで、
「礼。」と言いました。
みんなはおじぎをする間はちょっとしんとなりましたが、それからまたがやがやがやがや言いました。
「しずかに、みなさん。しずかにするのです。」先生が言いました。
「しっ、悦治えつじ、やがましったら、嘉助え、喜きっこう。わあい。」と一郎がいちばんうしろからあまりさわぐものを一人ずつしかりました。
みんなはしんとなりました。
先生が言いました。
「みなさん、長い夏のお休みはおもしろかったですね。みなさんは朝から水泳ぎもできたし、林の中で鷹たかにも負けないくらい高く叫んだり、またにいさんの草刈りについて上うえの野原へ行ったりしたでしょう。けれどももうきのうで休みは終わりました。これからは第二学期で秋です。むかしから秋はいちばんからだもこころもひきしまって、勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんもきょうからまたいっしょにしっかり勉強しましょう。それからこのお休みの間にみなさんのお友だちが一人ふえました。それはそこにいる高田さんです。そのかたのおとうさんはこんど会社のご用で上の野原の入り口へおいでになっていられるのです。高田さんはいままでは北海道の学校におられたのですが、きょうからみなさんのお友だちになるのですから、みなさんは学校で勉強のときも、また栗拾くりひろいや魚さかなとりに行くときも、高田さんをさそうようにしなければなりません。わかりましたか。わかった人は手をあげてごらんなさい。」
すぐみんなは手をあげました。その高田とよばれた子も勢いよく手をあげましたので、ちょっと先生はわらいましたが、すぐ、
「わかりましたね、ではよし。」と言いましたので、みんなは火の消えたように一ぺんに手をおろしました。
ところが嘉助がすぐ、
「先生。」といってまた手をあげました。
「高田さん名はなんて言うべな。」
「わあ、うまい、そりゃ、やっぱり又三郎だな。」嘉助はまるで手をたたいて机の中で踊るようにしましたので、大きなほうの子どもらはどっと笑いましたが、下の子どもらは何かこわいというふうにしいんとして三郎のほうを見ていたのです。
先生はまた言いました。
「きょうはみなさんは通信簿と宿題をもってくるのでしたね。持って来た人は机の上へ出してください。私がいま集めに行きますから。」
みんなはばたばた鞄かばんをあけたりふろしきをといたりして、通信簿と宿題を机の上に出しました。そして先生が一年生のほうから順にそれを集めはじめました。そのときみんなはぎょっとしました。というわけはみんなのうしろのところにいつか一人の大人おとなが立っていたのです。その人は白いだぶだぶの麻服を着て黒いてかてかしたはんけちをネクタイの代わりに首に巻いて、手には白い扇をもって軽くじぶんの顔を扇あおぎながら少し笑ってみんなを見おろしていたのです。さあみんなはだんだんしいんとなって、まるで堅くなってしまいました。
ところが先生は別にその人を気にかけるふうもなく、順々に通信簿を集めて三郎の席まで行きますと、三郎は通信簿も宿題帳もないかわりに両手をにぎりこぶしにして二つ机の上にのせていたのです。先生はだまってそこを通りすぎ、みんなのを集めてしまうとそれを両手でそろえながらまた教壇に戻りました。
「では宿題帳はこの次の土曜日に直して渡しますから、きょう持って来なかった人は、あしたきっと忘れないで持って来てください。それは悦治さんと勇治ゆうじさんと良作りょうさくさんとですね。ではきょうはここまでです。あしたからちゃんといつものとおりのしたくをしておいでなさい。それから四年生と六年生の人は、先生といっしょに教室のお掃除そうじをしましょう。ではここまで。」
一郎が気をつけ、と言いみんなは一ぺんに立ちました。うしろの大人おとなも扇を下にさげて立ちました。
「礼。」先生もみんなも礼をしました。うしろの大人も軽く頭を下げました。それからずうっと下の組の子どもらは一目散に教室を飛び出しましたが、四年生の子どもらはまだもじもじしていました。
すると三郎はさっきのだぶだぶの白い服の人のところへ行きました。先生も教壇をおりてその人のところへ行きました。
「いやどうもご苦労さまでございます。」その大人はていねいに先生に礼をしました。
「じきみんなとお友だちになりますから。」先生も礼を返しながら言いました。
「何ぶんどうかよろしくおねがいいたします。それでは。」その人はまたていねいに礼をして目で三郎に合図すると、自分は玄関のほうへまわって外へ出て待っていますと、三郎はみんなの見ている中を目をりんとはってだまって昇降口から出て行って追いつき、二人は運動場を通って川下のほうへ歩いて行きました。
運動場を出るときその子はこっちをふりむいて、じっと学校やみんなのほうをにらむようにすると、またすたすた白服の大人おとなについて歩いて行きました。
「先生、あの人は高田さんのとうさんですか。」一郎が箒ほうきをもちながら先生にききました。
「そうです。」
「なんの用で来たべ。」
「上の野原の入り口にモリブデンという鉱石ができるので、それをだんだん掘るようにするためだそうです。」
「どこらあだりだべな。」
「私もまだよくわかりませんが、いつもみなさんが馬をつれて行くみちから、少し川下へ寄ったほうなようです。」
「モリブデン何にするべな。」
「それは鉄とまぜたり、薬をつくったりするのだそうです。」
「そだら又三郎も掘るべが。」嘉助が言いました。
「又三郎だ又三郎だ。」嘉助が顔をまっ赤かにしてがん張りました。
「嘉助、うなも残ってらば掃除そうじしてすけろ。」一郎が言いました。
転職失敗例1人目 Oさん
性別:女
年齢:当時20代後半
ここから先は失敗例だ。上の2人に比べて具体的な内容は減らしている。
Oさんは外見からも話し方からも几帳面さが伝わってきた。履歴書も職務経歴書も丁寧な書きぶりだった。誤字も脱字もレイアウトのずれもなく、統一的なデザインを保っている。
資格は持っていなかったが、学歴がよかった。学歴はごく当然に見られるので、いい学校を出ているに越したことはない。
Oさんは転職活動を始めて一か月後に、とある機械メーカーの調達部門に内定し、入社することとなった。
……さて、転職者の評価があまりにも低いと、企業は転職エージェントに対して手数料の返金を求めることができる。
Oさんに関して、そういう旨の連絡が入ったのは返金を請求できる期限ギリギリだったと思う。
相手企業から寄せられた評価は、(良い点も悪い点も)オブラートに包んで言うと以下のようなものだった。
・細かいところに気を配りすぎる。そのうえ同僚にもOさんの基準を強要する
・短気であり、怒り出すと暴言を吐くことがある
手数料の返金の話だが、度重なる交渉の末に請求はされないことになった。
実際に、Oさんは事務方面の仕事であれば何でもできた。サプライヤーとの価格交渉まで含めて。腕前が優れていたのだ。でも、人柄が相手企業にとってマッチしなかった。
メーカーには穏やかな人が多いので、Oさんのように態度が厳しい人は適合しない。当時の私にOさんの人柄を見抜くことはできなかった。
以後、数年。エージェントとして修業を重ねた。そして、私は理解した。
どんなに一流のエージェントだろうと、1回の面談とたまにする電話で相手の人柄を見抜くのは不可能だということを。
できることはといえば――会話をする度に、その人に対して誠実な関心を寄せて、本音で話し合う。ただそれだけしかできることはない。
性別:男
年齢:当時20代後半
前の3人よりは長くなる。
Sさんは寡黙で実直な印象だった。
公営企業で財務会計を担当していた。上で述べたとおり、公務員は2~3年で異動になるのだが、彼の場合は同じ部署に長期在籍していた。
そのおかげか、財務会計以外にも、債権回収、草刈りなどの現場仕事、災害対応など、幅広い業務を身に着けていた。公営企業の決算書を作る仕事をしていたということで、会計の知識を生かせる会社を紹介することになった。
Sさんは苦戦した。私のエージェント人生の中で、彼がダントツで一番に――落ちた会社数が多い。公表は控えるが、百社はゆうに超えていた。転職活動は長期に及んだが、それでも彼は最後まで奮闘し、会計コンサルの名門のひとつに入社を決めた。
ひとつ、懸念があった。その会社は、過去に弊社が推薦した転職者の評価が低かったとして、手数料の返金を要求したことがある。飲まざるを得ないのは残念だったが、何より無念だったのは、転職者が試用期間で切られてしまったことだ……せっかく入社できたというのに。また転職活動をしないといけない。
能力が低いことを理由として手数料の返金を求めるのはいい。しかし、採用したのであれば責任を持つべきではないか。採用側には、雇用者の人生の一部に対する責任がある。
「Sさん。この会社は自分で動けるタイプじゃないと厳しいですよ」
と念を押したところ、
「これまで幾つもの業務改善を担当してきました。次の会社でもやってみせます」
という、なにがしかの決意に満ちた答えが返ってきた。
残念ながら、Sさんは通用しなかった。入社してふた月も経たないうちに苦情がきた。こんな内容だったと大まかに記憶している。
①チャレンジをしない。前例踏襲を仕事を進めるうえでの根拠にしている
②経験年数にしては会計の知識レベルが低い。専門卒の子の方がまだましだ
③コミュニケーション能力が低い。言葉のやり取りが受け身すぎて、仲間と良好な関係を築くことができない
といったものだった。
①については、正直こうなるだろうと思っていた。こういう現実をSさん自身が受け入れたうえで変わっていくしかないと考えていた。Sさんが行ったという公務員組織の中での業務改善というのは、裁決のルートを短くする(ハンコの数を減らす)こと、届出書の様式を簡略化すること、棚卸をしやすいように在庫レイアウトを変更するといったものだった。会計コンサルの名門だと、正直厳しい。
②は意外だった。Sさんが公営企業の決算書を作っているという確証は得ていた。だから、安心して推薦したのだ。会計コンサルでのSさんの上司にあたる人が私に伝えたことが真実だとすると、彼がいた公営企業で行われていたやり方というのは単式簿記であって、上場企業の会計基準でいえば問題外だった。私の認識が甘かった。青二才だった。
③についても、私の人を見る目がなかったということだ。こればかりは難しい。Sさんはコミュニケーションができる人だと思っていたけど、あれはおそらく演技だった。人と交流するのが億劫なタイプの人間だったけど、転職活動を成功させるために必死で背伸びをしていたのだ。
Sさんはその後、どうなったかというと……生き残ることに成功した。
財務会計の仕事はお役御免になったけれども、隠れた専門能力があった。
特定の可能性が極めて高いので言わないが、とにかくSさんは路線を変えて生き残った。
因果ではあるが、Sさんのいる会計コンサルというのが、1人目に紹介したMさんのいた自治体が行った「改革的な仕事」をサポートしたところだ。
ここまで来ると隠すのが気持ち悪くなってきたので正直に話す。
全国にある官公庁の中で、最初期に税金をはじめとする公共料金をQRコード決済できるようにしたのが、Mさんの所属していた、とある市町村の、とある税務系部署の、とあるチームだった。
「タスクフォースに入らないかって先輩に誘われたんですよ~!」と、Mさんは何度目かの電話面談の時に、困惑した笑みとともに喋っていた。普段は、もっとクールで淡々とした話し方なのだが……。
最後にまとめる。
私の経験上、いわゆる行政事務の公務員が民間企業に転職するのは難しい。
※キャリア官僚の場合は違う。彼らの場合はエグゼクティブ枠になるので、私のような者ではなく、もっとランクの高い転職エージェントがつくことが多い。
はっきり言おう。転職を希望する公務員というのは、相手の企業からするとウケが悪い。
「問題を起こして免職処分になったのでは?」と邪推する人(気持ちはわかる。実際にそうなんじゃないかという人も来たりする)もいれば、「この人はうちで使えるかもしれない。興味はあるけど、データ不足で戦力かどうかを判断できない……試しに一か月だけ雇用できればいいのに」など、冷静なコメントをくれる人もいる。
転職しやすい公務員というのは、以下のような特徴をもっている。
・専門性。特定の資格や専門知識があり、その業界で直接活かせるものである。この観点だと、やはり国家公務員は強い。その業界内での許認可を扱うので、必然的に事業法関係の専門知識や経験が身に付きやすい。地方公務員の場合だと、ソーシャルワーカーや精神保健福祉士や手話の資格を持った人が、同じく福祉系の会社や公益団体に転職できた事例がある。
・積極性。ルールや慣習が整っていない中でも、常にその場に合った答えを見つけられること。失敗を恐れることなく、本人にとってのベストを出し尽くす習慣があること。
・協調性。誰とでも仲良くできること。私が受け持った公務員の中には、コミュ障な人が何人もいた。残念ながら、そういう人は会社員だろうと公務員だろうと、「現職に留まる」ことを強く勧めている。事実上の登録拒否だ。本人のためになったと信じている。
お目汚しを失礼した。いろいろ書いてしまったけど、後で内容を修正したり、消したりしないように努める。
ここまで読んでくれてありがとう。
田舎にはまともな家が無い。特に、自治体が「空き家バンク」に登録するような家は。
テレビに出てくるような風格ある古民家は家主が手放さないか、すでに誰かが手を付けており、残っているのは単なる安普請の「中古民家」だけだ。
戦後から昭和40年代にかけて作られたそのような家は、貧弱な設計と建材によって断熱性も気密性も低く、夏は暑く冬は寒い。
外壁は一様に茶色いトタン板で、屋根は青いトタン板。大家族での生活がまだあった時代のため、間取りは二間続きの十畳間など、不必要に広いものが多い。
またトイレも問題だ。下水道の無い集落では汲み取り式が標準で、ほんのちょっと改修してあっても簡易水洗式。どちらも外に突き出した臭い抜き煙突(臭突)でそれと分かる。
きちんと合併浄化槽にリフォームしたような家もあるが、そのような家は家主かその縁者が住んでおり、そもそも空き家にはならない。
さらに都会では引っ越しの際、家財道具はすべて運び出し、空っぽの状態で明け渡すのが常識だが、田舎はそうではない。空き家の場合、なぜそこが空き家になったのかといえば、
息子や娘が次々に就職や結婚で家を出て行き、最後に残った高齢者が介護施設に入所したからだ。こうした場合、高齢者は「いつか戻る家」をわざわざ片付けようとはしない。
息子や娘もそう考える。そうこうしているうちに高齢者は施設で死ぬ。空き家となった家には高齢者の家財道具がすべて残ったままだ。年に一回来るか来ないかの息子や娘も、
手間と金のかかる家財の処理を先送りにし続ける。家そのものを解体するにはもっと金がかかるし、更地にすれば固定資産税が上がる。
ただ放置することが合理的な選択となり、中古民家は補修もされず、しだいにおんぼろ中古民家となる。
そんな無価値な住宅を、都会から来るアホな移住希望者に当てがって賃料をとり、あわよくば売却しようというのが「空き家バンク」。