はてなキーワード: パブロフの犬とは
突然キレる人、いるじゃないですか。
さっきまでにこにこしてたのに、突然変わる人。
それ、私なんですよ。
で、「辛いならもっと早く言ってよね」って思うじゃないですか。
私も、思うんですよ。
ただ、分かんないんですよ。
みんな、今私辛いな~とか、これ以上仕事引き受けたら限界来ちゃうな~とか分かるんですか?
私は分かりません。
ああ正確に言うと、怒りが収まって冷静になって、自分を責めて、他人に相談した時です。
「あ、もう自分には無理だったんだな」って。
あれやって、もっとこうして、あなたがすればいいじゃない、とか振られた時に、即断しなきゃいけないじゃないですか。
無理か、無理じゃないのかを。
すごすぎます。
「えーっと…」なんて言ってたら、「頼んだよ」で会話終了か、どんなに私がやるべきなのかを説き伏せたりされます。
なので、何かを演じて「ハイ、分かりました」って答えるしかないですよ。
子供のころはそれでよかったし、仕事を始めて若い頃もそれでなんとか人生が回ってました。
でも人生経験積んでくると、頼まれる→我慢する→限界超える→怒る→他人がびっくりする→私もびっくりする→辛さを自覚→嫌になる、を何度も経験するんです。
だから、最近になるともう、頼まれるというイベントが発生した時、→嫌になる、が先に来ちゃうんですよ。
パブロフの犬みたいに。
なんていうんですかね、屈辱的な気持ちとか、辛い気持ちとか、嫌な気持ちとか、そういうミックス感情が、お腹の底から喉元にぐわーっって上がってくる感じです。
本当は、頼まれたら、この仕事を受けて私は限界を迎えるか?迎えないか?を正しく判断するのがベストなんですが、私の場合、死にたくなるんですよ。
死にたくなること、ありますか?
死にたくなると、冷静に考えられないんですよ。
思考停止っていうか。
異様な様子に変わって空気を悪くさせているって自覚はあるんです。
何か言って安心させないと、って。
でも、さっきまで演じられたけど、もう、無理だなー…って、相手と私の空間をほっぽり出しちゃうんです。
まあそうですね。
突然キレる症状は第一段階じゃないでしょうかね。
第二段階は、突然死にたくなりますね。
それでもね、分からないんですよ。
なんでこんな簡単な事、引き受けられないで死にたくなっちゃうんだろうって、また悩むんですよ。
…って感じです、ハイ。
デカルトといえば有名なのが「われ思う故にわれあり(コギト)」。ここから近代的自我が始まった。
自我というものの存在を確立したデカルトの三段論法は西洋に影響を与えまくったが、特に注意しなくていけないのは神の存在を使わなくても自我の存在を規定できるという点だった。
でも実際のところデカルト自体はコギトから神の存在証明を行っている。神の存在を証明する時代の要請があったのだけれどそれについては後で触れる。
時代は流れてフランス革命が起こり国民国家が誕生する。国民国家が誕生すると神が死ぬ。
どういうことかというと、それまでの王による国の支配がどういう理屈で正当化されてきたのかということを説明する必要がある。
「王権神授説」というやつだ。それまでの王族による支配権は神が王に与えた権利だった。
神がこの世界を作って人間も作ったのだから神には人間を支配する権利がある。王は神に権利を与えられたので国民を支配する権利がある。
中世の神学者たちが大真面目に神の存在証明に邁進した理由がこれでわかるが、
彼らは頭の体操をしていたのではなく、国家の礎として必要な公共事業として神の存在を証明し続ける必要があったのだ。ご苦労さま。
ところが、王が打倒されて国民が自分たちの代表によって自分たちを支配する国民国家が生まれると、神は必要なくなる。
そして神に変わったものは国民の自我と理性のみとなり、国民は唯一絶対なものであるそれらによって自分自身の足のみによって立つことになる。
これにて「近代的自我」いっちょあがりだ。
なぜなら人間が生まれてくるのは神が「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」といったからだし、日本で言えばイザナキ神が妻ともめて「いとしい妻よ。あなたが千人殺すなら、私は、一日に千五百の産屋を建てよう。」といったためだからだ。
なので神がいる前提だと反出生主義は成り立たない。
フロイトといえば精神分析だが、あとで精神分析の手法が全然間違ってたということがわかったせいで、その功績についても一般的には忘れられている気がする。
フロイトの偉大な功績は2つあって、1つ目は「精神を科学のまな板の上に載せたこと」それ自体。
フロイトは夢分析の過程で人間が表層意識には浮かんでいない、既に忘却している過去のトラウマに影響されて現在の行動を選択していることに気がついた。
患者自身は自分が理性的に考えて選択した結果だと思っていても実は意識に登ってきていない「無意識」によって人間の行動や症状が変化する。
これはすごい発見だった。それまでは人間の行動は意識、つまり自我がコントロールしているとされていたのだから。
フロイト的無意識の例で言うと、チャップリンの「ライムライト」という映画がある。
あの映画のオチでヒロインは忘れていた過去のトラウマを思い出し、それを乗り越えることで身体的な症状も克服する。
これはフィクションだし、ちょっとフロイト的すぎるので、もっと卑近な例を出すと、
犬が苦手だなあと思っていたら、実は記憶にないくらい小さな頃に犬に噛まれたことがあった、とか
梅干しの写真を見たら、「梅干しをこれから食べよう」と意識しなくてもつばが出るとか(パブロフの犬)。
映画の映像の途中で肉眼では認識できないように一枚だけコーラの写真を入れておくと映画館でコーラの売上がのびるだとか(サブリミナル効果)。
こういう感じで無意識が人間の行動に大きく影響を与えるということは、今では常識にまでなっているけれど、これを言い出した始めの人がフロイトというわけだ。
フロイトは原始的な欲望とかが無意識の正体だと考えてなんでもそれで説明しようとして失敗したわけだが、(夢分析の本とか何でも性欲で説明しようとしていてやばい)。フロイトの後続の研究者たちは無意識の概念をさらに発展させていった。
表層意識に上らないのに人間の行動に影響を与えているもの、といえば「不随意運動」だ。
たとえば、眩しい光みたら瞳孔が小さくなるとか、膝を叩いたら足が上がるとかが有名だけどそれだけじゃない。
心臓が動くのを意識して止めたり動かしたりできる人はいないから鼓動も不随意運動には入る。
呼吸も意識すれば止められるけど意識しなくても止まるわけじゃない。意識しているときは随意運動で意識していないときは不随意運動といえる。
ところで人間の意識は脳の一部である大脳新皮質で起こっている反応であることもわかってくる。
脳のその部分以外で起こっているこのと大半も無意識下で行われている。細胞の代謝とか。
さらにさらに、全ての行動に当てはまるわけじゃんないみたいだけど、「人間がある行動をとろうと表層意識で考える一瞬前に、既にその行動を取るためのニューロンが発火している」なんて話も出てくる。
さてそうすると、どうなるかというと、人間が自分の意識で自分の体をコントロールしているという考えは実は間違いで、人間の活動の大部分は無意識がコントロールしていることになる。
意識が肉体(無意識)をコントロールしているという従来の主従の逆転がここで起こっている。
ここまで来ると「無意識」を拡張しすぎて「無意識」ってなにって話になってしまう。細胞の代謝のことを「無意識」という言葉でまとめるのは違和感があるから。
ここでいいたいのは「表層意識下に上らないすべてのもの」みたいな意味であり、一般的な言葉の「無意識」とはちょっと違うものになってしまうので哲学者はこれに「エス」とかいう名前をつけた。
意識ではなくエスが人間の行動を決めるのである。というか人間が何を考えるのかもエスが決めているといえるのだとするとコギトがおかしなことになってくる。
「われ思う故にわれあり」ではなく、「われ思わされているゆえにエスがある。われはあるかどうかわからない」に修正しなければならない。
「生きるのは苦痛である。苦痛でない場合もあるが生んでみないと分からないのでいわばギャンブルである」
「生まれる際に両親は子に生まれてもいいかという同意を取っていない」
「よって生むのは無責任であり生むべきではない」
しかし人間の9割は無意識下の存在であることを踏まえて見ると、見え方が違ってくる。
第一の登場人物である「子」は産まされるという受動的な立場ということになっているが、同意を取るべきタイミングには意識が存在しない。つまり無意識である。
無意識の相手に無理やり生まれることを強制するのかと反出生主義者はいうのだが、これまでの議論で無意識(エス)こそが人間の大部分であることをこれまで延々と説明してきた。
で、重要なことはその「エス」自体は生まれてこようとする方向性を持っている、ということである。
今だに現代人は意識がなければ何も決定することはできないと思っているが、むしろ無意識が先にあって意識が後から形付けられたといえる。そして人間の肉体の不随意運動は生き残ろう、という方向で行動を起こす。
精子の蠕動だって不随意運動だし、卵子の排出だって不随意運動なのでこれらはエスである。
胎児は産道を通るとき自分の体をねじって頭蓋骨を変形させながら外に出てくる。生まれてこようとする意志がそこには感じられるが、もちろん意識も自我もない。
だがそれらの反射が自分自身ではない、というのもおかしな話である。
それらが全て生まれてこようという方向に方向付けられているのに、「本当は生まれてきたくなかった」というのはどういうことなのだろうか。
自意識、理性を過大に評価するのが現代人の病巣であってこれは単に、いまだにデカルトの呪いがとけていないのだと思う。
「生まれてこないほうがよかった」という人間だって、それはそれで大変な状況なのは間違いないのだけれど、ひざを叩けば足が上がるし、急に熱いものに触れられたら自分を守るために手を引っ込める。
生きたくないとか言うけど呼吸は止められなければ、心臓は勝手に動いている。
どう見ても肉体は生きようとしている。
やっていることと言っていることが違う。
でも不思議なことは何もない。自意識なんて人間のほんの一部でしかないからである。
自己の定義を自我に狭めるべきではない。それは単にその方が精神衛生上いいというだけの話ではなく間違っている。
エスの定義は自意識に上がらないすべてのものと書いたが、哲学者によるとこれはつまり「自我」以外の「世界全て」のことを指すらしい。
流石にそこまで悟ることは難しいが、自己の定義を自分の不随意運動、や無意識の習慣程度にまで広げておけばデカルトの作った罠にはまらないで済む。
あのさ、
消耗品使うのは良いけど、
減ったら減ったよ!って言って欲しい一手を挙げてー!
もー!
使うのは良いけど、
使ってなくなりそうだったら言ってよねって思うわー。
自分で足りない
他人のやったことをそれこっちが喰らうのは勘弁願いたいものだわ。
以前それ注意したんだけど、
なんで2回目すんのよーって
スン豆腐の由来なんて知らなくて
私も知らないし、
へーこれってスン豆腐って言うんですねー!って
上司を褒める
さしすせそ!を使ったワザよ。
何がどうさしすせそなのかはググってちょうだい!
私そんなスン豆腐を食べてて歯に染みて思い出したの。
歯医者行かなくちゃってね。
スン豆腐が美味しい季節になったら歯医者に行くっていうパブロフの犬的によだれが出ちゃうのよ。
垂涎ものというか、
思い出しちゃったので、
当たり前のことを当たり前のように、
丁寧に生きたいものね。
いや特にこれといったカフェオレが理由あったわけではないんだけど。
あれって全巻映像化されてるわけじゃないぐらい
温活に通ずる、
おしゃれで達成感や充実感のある
物は言い様ってわけね。
私ならドライフルーツはヨーグルトに入れて食べた方がマックスに美味しいわ。
物は言い様って言い様なの。
おあいにくさま、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
格好つけて英語キーボードを買ってみたけど、
円マークがどこにあるか分かりません。
ちょっと前に水戸行くんだ!って言っててこないだ行ってきたんだけど、
水戸ってさ
仙台の伊達政宗さんは牛タンを全国に広めた人で概ね兼々有名なのね。
じゃ水戸は?って思ったら、
あの水戸黄門さまのふるさとというか生まれ育ったというか発祥の地というのか産地なのかしら?
ラーメンを初めて日本で食べた人だってググったら一発で出てくるけど、
でね、
本格的なあのあのよ!
あれがずらーっと一面に吊り下げられて売ってたら迫力あるし
納豆の素敵なスメルがスゴかったわよ!
なんか納豆の香りがする!って香りのもとに導かれるようにリビングデッドでお馴染みのゾンビばりに売り場へ歩いて行ったら、
ゾンビってあんな全速力で走れるものかしら?ってそんな話しは置いておいて
2つ耳のところに当てて卑弥呼様!って言うのと
藁納豆に火を灯してファイヤーダンスしか思い浮かばなかったのが残念でならなかったんだけど、
もっと残念だったのは、
納豆ってお土産で買っても要冷蔵ちゃんみたいな感じで持ち歩かなくちゃいけないので、
いざって言うとき、
いちいちクーラーボックスから出す手間って敵に見られたらダサいじゃない。
懐に隠し持っておいていざってときに出せばいいとも思ってない?
あれもあれで、
そんなこんなで
まだ食べてないけど。
納豆で思い出したけど、
羨ましいでしょ?
でね、
スーパーカップ界のアイスと言えばスーパーカップでお馴染みなんだけど、
その
あのまるでアイスのスーパーカップに入った大盛り納豆が私のお気に入りで、
これってスーパーカップ界に凛として君臨し輝く素晴らしい納豆なのよね。
なんでも1.5倍っていう大盛りさ加減で
スーパーカップ界に一石を投じているのよ。
ってまあラーメン界のスーパーカップのそんな話しは置いておいて
でも欠点なのはその納豆スーパーカップ1つ200円ぐらいするので、
美味しいからいいけど。
そう思ったらいきなり合点がいったのよ!
あの印籠入れに納豆入れたらスマートに敵にかざせるんじゃね!ってスゴい発見したわ。
あの印籠入れには、
さすがに生の納豆がダイレクトに入ってるわけじゃないだろうから
まんまその形の
納豆だけに!ってね。
さすがにその木刀を買うノリで
でもちゃんと普通の瓶入りの乾燥納豆のふりかけは買ってきたわ!
この紋所が目に入らぬかー!ってね。
敵はビックリして驚くはずよ。
だって納豆の匂いもしないから懐にそんなのを持ってるだなんて思いもしないでしょ?
藁納豆で卑弥呼様とファイヤーダンスとジャグリングは思い付いたので、
それら使って良いからね!
水戸って梅も有名なの?
今思ったらそれ梅関係ないじゃん!って
雪山で遭難したときにセントバーナード犬が首からぶら下げているウイスキーをほら飲めって言うぐらいな勢いで
パプロンを咥えてほれ飲めって薬を持ってきてくれる賢いワンちゃんのように条件反射で思っちゃったわ。
自分用に1つ買って食べてみたら、
ほんと、
ぜひ水戸に行ったら美味しいものがたくさんあったからいろいろと試して欲しいわ!
あの大仁田厚さんの有刺鉄線電流爆破デスマッチの有刺鉄線を藁納豆縄のようにしてに置き換えたやつよ!
うふふ。
時間が無かったのでおにぎりにしようかと思って鮭おにぎりを買ってみたものの、
週明けの朝の忙しさ故、
事務所に来たらさっさと朝の作業をしていたら食べるのを忘れていたわ!
私の中の天使と悪魔が戦っていたわよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
創作物で、過ちを犯した人物をビンタもしくは殴ってから説教そして改心、みたいな場面が良くある。
自分はそういう場面で感動してしまいがちなんだけど、ふとこれって体罰だよなと違和感を持つようになった。
ビンタして屈服させてから優しく説くってようするに、受ける側の感情の負から正の振れ幅を大きくして説得力を錯覚させているようで、詐欺師が使いそうなテクニックだなって気持ち悪さがある。
あとは何だろう、過ちと痛みをリンクした形で記憶させることが抑止力になるから?パブロフの犬じゃないんだから、限界まで言葉のみで伝えるべきだろ。
相手が興奮状態にあって、正気に戻すためにビンタしてる場合もあるような。猫騙し(目の前で手を叩くやつ)でも良いのではって想像してみたらシュールだった。
走ってると頭がぼけーっとするから余計なことを考えなくなる
そして余計なことを頭でぐるぐる考え始めても、なんか走ってるとどうでもよくなってくる
なので、「俺はだめなやつだー!」的思考が浮かぶと、やべえ!と立ち上がってそのまま走ってた
正直すげえしんどいのでぜえぜえなって水飲んでると、落ち込む余裕がなくなる
ダメだダメだ、って考えるとそれを脳が覚えてパブロフの犬みたいになるって聞いたことがあったから、ヤバい思考回路になりかけると、「いかん!思考停止!走れ!」ってなって走ってた
走ってたら「なんで余計なこと考えてたんだろ、まあどうでもいいや」になる
増田もとりあえず走れ
11歳の孫がいる。
孫は私の事を金蔓としか思っていない。
幼い頃に私が与えすぎたことが原因だろう。
一般的に上の子に比べると下の子は物質的に冷遇されがちだと思う。
だから寂しい思いはさせまいと、下の孫が欲しいものは出来るだけ与えてきた。
普段会えないからこそ祖父母に出来る限りのことをしてきたつもりだ。
しかしなんだ、育ってみれば私を金蔓としか思わなくなっている。
昨日は敬老の日。孫たちがやってきて、一緒にお出かけをした。
買い物に行くと自分の領域に私を連れて行って、これが欲しいんだと用意周到にプレゼンしてくる。
私を見たら金が出てくるという最早無意識のわざだろう。パブロフの犬だ。
年寄りを敬えなんて説教はしないけれども、祝日の趣旨も理解せずモノをせびる姿に少し悲しくなった。
このような関係になってしまったのは私に原因があろう。だから突然与えるのをストップする訳にもいかない。
いつまでこの関係を続けるか。ビシッと言う勇気も無く、情けない年寄りになってしまったものだ。こんな人間敬えなくても仕方ない。くだらない令和爺の嘆き。
「治らない」という病気の語彙を用いることが適当かをさておき、自分の中で「女嫌い」がもはや一つのテーゼとしてあらゆる判断の場面で幅をきかせてくる。どのような言動を取るか、といった直接の状況から、なんらかの創作物に対する評価まで、全てを男性的・女性的に分類し、女性的なものへの称揚があればそれだけで正直ウッとくる。(まあこれ自体は別に珍しい話ではないはずだ。元々性二元論から出てきた価値判断だろう。全てに男性的・女性的という分類がなされるのであれば、男性の中のある性質が女性的であることもあり、逆もまた然りということになるので結構事態は複雑になる)
とりあえず上野千鶴子なんか読んで素直に啓蒙される女が理解できない。「女嫌い」の仕組みを解明されたくらいで、その論理を自分を肯定するために援用できるようなその女性らしい逞しさ。自分の中で女嫌いはもっとパブロフの犬のごとく根底に根ざす反射といって差し支えないもので、例えば最も凡庸な例を挙げれば「あっ感情的になっているぞ、女性的だ、きついきつい」というように。それが馬鹿げていますよと言われたところで矯正不可能な域にある。
そしてこの反射にある一定の信頼を自分でも置いている。結局市民未満のところから出発した性にとって最も困難となるのは、利他を身に付けることなのではないか。「泣いてはいけない」「女の子を泣かせてはいけない」「自立しろ」というように叩き込まれる機会なく甘やかされて幼少期を過ごす女。共同体が温存する性差の特権だけはシレッと享受しながら平等の為に連帯したりする近代の女。
匿名ダイアリーだからこそ自分語り(なる女性的行為)を多少せねばズルいだろう。自分の女嫌いの始まりは、ピンクのもの持ちたくない、男子とサッカーしてたい、女同士のおしゃべりができないだとかしょうもない些末な好みの問題もあったが、決定的だったのは男教師から軽めの体罰をくらった時だった。顔を引っ張られてたまたま元々皮膚が弱かった部分から出血して、女クラスメイト複数人がメチャクチャ自分を庇ってくれた。ありがたくはあったが、その無邪気な連帯に引いた。男子への体罰は問題化されないにも拘らず、私の為だけに教師がタジタジになっているのだ。なんだこの二重三重な屈辱は。勘弁してほしかった(体罰は今程でないにせよそこそこ問題化されていた時代だったが、そこに今回触れるつもりはない。私が男子から嫌がらせを受けたという発端が女子達の擁護点だったが、結局双方ふざけて追いかけっこ状態となり、配膳中だったこともあり両成敗された流れなので、当時の校風と状況から鑑みてある程度公正な処罰だったと思える)。男子とつるんでも平等に扱われることは絶対にない。仮にどんなに「リベラル」な箱庭を作って篭ろうと、文脈は平等を許さない。
アンチフェミ男性とつるんで、いかに女が劣った存在であるか聞かされ続けることにーーそして劣っていることを知っている、マシな劣った存在であるという自意識を育てることにーー抑鬱的な安寧を見出していた時期もあったが、そうやって自虐までも他者に委ねることこそ「メンヘラ」なる女性的性質だと気付きやめた。そもそも女嫌いの男や、男嫌いの女というものは、自分の身体を憎悪から遠い安全圏に置ける時点で信用ならないところがある。やるんなら己に対する加害者としての憎悪から始めるくらいの気概が要るだろう。
マジで、勘弁してくれ。本当はジェンダーの話なんかしたくない(その為に増田に来たのだが)。にも拘らず社会生活を送る上で、例えば酒席で脱げと冗談を言われたり、「女の子には難しかったかな?」と話を振られたりする度に、「女だから不当に損をした!」というなんのひねりもない想念が立ち上がって来てしまうことがある。たまたま「脱げ」という語彙が用いられただけで、下品な冗談は女以外でも全ての固有の身体を持ちうる人間が晒されるものであるし、たまたま「女の子には難しかったかな?」という語彙が用いられただけで、他者から舐められうることは女に限らない。それよりも「女だからフェミニストで当然ですよね?」とすり寄ってくるフェミニスト(男女問わない)をかわすことの方が、いまや困難にして価値があるはずなのだ。少なくとも自分にとっては。
しかしフェミニズムに逆張りした時に、そこに立ち現れてくるイメージは吐き気を催す前近代的女である。なんてことだ。「女」という要素さえあれば私は近代も前近代も全て憎むことができる。では私にとって「女」とは何なのか。おい、お前フェミニストみたいなこと言っとるぞ。やめろやめろ、やめだ。
「株式会社集英社: ぼくたちは/男子たちは 狼なんかじゃない。 少年ジャンプは「エロ」と「性暴力」の違いを区別してください。」 https://t.co/pkzmYuVeYp
このキャンペーン、男性が発信してる。体験がリアルなので、署名しなくても読んでほしい。
僕と少年ジャンプの話をします。僕は小学四年生の頃から現在社会人3年目の今まで週刊少年ジャンプをほぼ読み続けていました。
当時小中学校の時はToLOVEるなど女子と性的なコミュニケーションを取る漫画をハラハラドキドキしながら読んでいました。しかし大学生も後半の頃に当時ToLOVEるを読んでいなかったという友人(男)に出会いました。その時僕は理解ができなくてしどろもどろ興奮しながら「男なのに!?意味がわからない」と発狂しました。しかし今は「性暴力」と「女性も同じ人間」だという事を知っているので、彼がなぜToLOVEるなど性的な作品を読まなかったのか理解できます。「相手の同意を取らずに性的な行為をするのは性暴力で、相手の心を傷つけること」「女性の体を見境なく性的に見ることは当然のことではないこと」ということを当時の僕が知っていれば僕も彼と同様ToLOVEるなど性暴力を扱う作品を楽しく読むことはなかったでしょう。「性暴力含むエロを豪胆に愛して憚らないのが男らしさ」という少年誌のメッセージを内面化してしまい、性暴力を含む作品を声高に称賛して、男らしくなれてると錯覚してた自分は本当に恥ずかしいし迷惑なことをしていたなと思います。
小学校高学年の頃、東京に住んでいた僕は秋葉原もそこそこ近く、「非実在青少年」の話を皮切りにした漫画の規制の話をよく耳にしてました。少年ジャンプの作者たちも「読者は現実とファンタジーの区別ができる」と言った論調で規制を反対していました。ぼくも「その通りだなー」と思っていました。しかし今思い返してみると当時の僕は区別なんかできていないことに気づきました。今でもすごく心残りの事件があるのですが、僕が小学生の頃公園で遊んでいると同級生の男子が女子に棒アイスを差し入れました。僕は少年漫画でアイスやチョコバナナを男性器に見立てて、それらを普通に食べている女子をエロい目で見るというセクハラの存在を知っていました。しかし女子たちはそれを知らずに暑い夏だったので棒アイスを感謝しながら食べてました、男子たちは僕の予想通りいやらしい笑みを浮かべて彼女たちを見ていました。その時は嫌な奴らだな、でも「男子はそういうものだからな」ということが当たり前だと思い込んでいたので、問題な行動だとして注意をするという発想がありませんでした。男子たちも仲間内で露悪的だけど楽しいことをしているといった雰囲気でした。その男子集団のリーダーだった男子は高校生の時に風呂覗きをして学校を退学になっていました、風呂で盗撮した写メを男子のグループに共有したらしいです。多分いいことをしていると信じての行為だと思います。僕も彼も「男子はそういうものが好き」という少年ジャンプが発信する嘘の常識を信じ込んでしまっていた点は同だと思います。そのために、セクハラをされたらその人の心は傷つくという当たり前のことに気づけなかったのです。
小学生の頃、僕は少年ジャンプを作っている人たちに「子供は現実とファンタジーの区別ができる、倫理観や道徳観を持っている、判断がつく」というような期待をされました、そして今の僕がそれに答えるとしたら「性的な表現に関しては、十分な性教育を受けていなかったので正しい判断はできてなかった」と答えますし、現実とファンタジーという区切りではなく、「社会的責任がついて回る空間と、そうでない空間」での影響を論じるべき内容だと思います。
僕は面白い漫画を読むためにジャンプを買ってきたつもりです。大学の頃に出会った彼もそうだと思います。極論、ジャンプにエロ表現がなくても僕たちは大学生までジャンプを購読し続けてただろうと思います。
ジャンプ作品の性暴力表現は誰のために描かれているのか、僕は今、甚だ疑問です。
個人的に、女体を切り売りして、それを喜ぶ層に商売をする今のジャンプは見ててつらいものがあります。女女でやれば批判されないと思っているのか、この頃女から女にセクハラするという作品が増えています。今一度、同意のない性的な行為は相手が誰であろうと性暴力であり相手は傷つく、という認識をジャンプ編集部は持ってください。
漫画を使って教育しろと言う気はないですが、今のジャンプの作品内での女子の扱い方は、パブロフの犬のように、読者に「女体=エロ」と脊髄反射でつなげてしまう、そういう訓練になってしまうという一面があると思います。
「男は、女性の性的な部分を力づくやラッキーで見たいと思ってる」というような「男=狼」観を決めつけで小さい子供たちに信じ込ませるようなメディアを作るのは大人としてやめて欲しいです。
そもそも作品でよく描かれている高校生以下の女子は、大人が守るべき児童の枠の中にいます。倫理的にそういう枠の子をエロく描くのはいけないのではと思います。
「株式会社集英社: ぼくたちは/男子たちは 狼なんかじゃない。 少年ジャンプは「エロ」と「性暴力」の違いを区別してください。」 https://t.co/pkzmYuVeYp
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僕と少年ジャンプの話をします。僕は小学四年生の頃から現在社会人3年目の今まで週刊少年ジャンプをほぼ読み続けていました。
当時小中学校の時はToLOVEるなど女子と性的なコミュニケーションを取る漫画をハラハラドキドキしながら読んでいました。しかし大学生も後半の頃に当時ToLOVEるを読んでいなかったという友人(男)に出会いました。その時僕は理解ができなくてしどろもどろ興奮しながら「男なのに!?意味がわからない」と発狂しました。しかし今は「性暴力」と「女性も同じ人間」だという事を知っているので、彼がなぜToLOVEるなど性的な作品を読まなかったのか理解できます。「相手の同意を取らずに性的な行為をするのは性暴力で、相手の心を傷つけること」「女性の体を見境なく性的に見ることは当然のことではないこと」ということを当時の僕が知っていれば僕も彼と同様ToLOVEるなど性暴力を扱う作品を楽しく読むことはなかったでしょう。「性暴力含むエロを豪胆に愛して憚らないのが男らしさ」という少年誌のメッセージを内面化してしまい、性暴力を含む作品を声高に称賛して、男らしくなれてると錯覚してた自分は本当に恥ずかしいし迷惑なことをしていたなと思います。
小学校高学年の頃、東京に住んでいた僕は秋葉原もそこそこ近く、「非実在青少年」の話を皮切りにした漫画の規制の話をよく耳にしてました。少年ジャンプの作者たちも「読者は現実とファンタジーの区別ができる」と言った論調で規制を反対していました。ぼくも「その通りだなー」と思っていました。しかし今思い返してみると当時の僕は区別なんかできていないことに気づきました。今でもすごく心残りの事件があるのですが、僕が小学生の頃公園で遊んでいると同級生の男子が女子に棒アイスを差し入れました。僕は少年漫画でアイスやチョコバナナを男性器に見立てて、それらを普通に食べている女子をエロい目で見るというセクハラの存在を知っていました。しかし女子たちはそれを知らずに暑い夏だったので棒アイスを感謝しながら食べてました、男子たちは僕の予想通りいやらしい笑みを浮かべて彼女たちを見ていました。その時は嫌な奴らだな、でも「男子はそういうものだからな」ということが当たり前だと思い込んでいたので、問題な行動だとして注意をするという発想がありませんでした。男子たちも仲間内で露悪的だけど楽しいことをしているといった雰囲気でした。その男子集団のリーダーだった男子は高校生の時に風呂覗きをして学校を退学になっていました、風呂で盗撮した写メを男子のグループに共有したらしいです。多分いいことをしていると信じての行為だと思います。僕も彼も「男子はそういうものが好き」という少年ジャンプが発信する嘘の常識を信じ込んでしまっていた点は同だと思います。そのために、セクハラをされたらその人の心は傷つくという当たり前のことに気づけなかったのです。
小学生の頃、僕は少年ジャンプを作っている人たちに「子供は現実とファンタジーの区別ができる、倫理観や道徳観を持っている、判断がつく」というような期待をされました、そして今の僕がそれに答えるとしたら「性的な表現に関しては、十分な性教育を受けていなかったので正しい判断はできてなかった」と答えますし、現実とファンタジーという区切りではなく、「社会的責任がついて回る空間と、そうでない空間」での影響を論じるべき内容だと思います。
僕は面白い漫画を読むためにジャンプを買ってきたつもりです。大学の頃に出会った彼もそうだと思います。極論、ジャンプにエロ表現がなくても僕たちは大学生までジャンプを購読し続けてただろうと思います。
ジャンプ作品の性暴力表現は誰のために描かれているのか、僕は今、甚だ疑問です。
個人的に、女体を切り売りして、それを喜ぶ層に商売をする今のジャンプは見ててつらいものがあります。女女でやれば批判されないと思っているのか、この頃女から女にセクハラするという作品が増えています。今一度、同意のない性的な行為は相手が誰であろうと性暴力であり相手は傷つく、という認識をジャンプ編集部は持ってください。
漫画を使って教育しろと言う気はないですが、今のジャンプの作品内での女子の扱い方は、パブロフの犬のように、読者に「女体=エロ」と脊髄反射でつなげてしまう、そういう訓練になってしまうという一面があると思います。
「男は、女性の性的な部分を力づくやラッキーで見たいと思ってる」というような「男=狼」観を決めつけで小さい子供たちに信じ込ませるようなメディアを作るのは大人としてやめて欲しいです。
そもそも作品でよく描かれている高校生以下の女子は、大人が守るべき児童の枠の中にいます。倫理的にそういう枠の子をエロく描くのはいけないのではと思います。
5年間タバコ吸い続けた俺がタバコをきっぱり辞めた秘訣でも共有しておこうと思う。
たった5年かよと思われるかもしれないが、しっかり肺に入れる吸い方だったし、なんならニコチン切れでイライラして授業抜け出して吸いに行くくらいには毒されていたよ。
じゃあ早速。
まずタバコの煙りを吸う→喉を閉める→そのまま煙りを吐く
この煙りを吐く時にうまく煙りを吐けずにオエッっとえずくと思う。
パブロフの犬と一緒でたばこを吸うとえずくってのを脳に学習させる。いささか荒療治だが、このくらいインパクトのあるやり方でないと辞められないくらいタバコの中毒性ってのは恐ろしく高い。
だから無理して辞めなくてもいいと思う。早く辞めるに越したことは無いと思うけど、辞めなきゃいけない理由があるほうが成功率は高いと思うし、やめられなかった経験を積んでしまっては自己肯定感も下がる一方だから。
本当に辞めたい、、、と切に願うのであれば是非試して見てください。
ちなみに俺は服が好きになってからタバコのニオイが付くのがめっちゃ嫌だった。特に高い服を着てる時はなおさら。
人間にとって最も言われて傷つく言葉はキモいやブスじゃなくてクサイだと思う。
風呂に入る時に浴室に入ったらおしっこをしたくなる人って少なくないと思う。
だが、絶対に風呂場でおしっこをしてはいけない。特にシャワーなどを浴びながらは絶対にいけない。
パブロフの犬は知っているだろうか?
シャワーを浴びながらのおしっこをしてしまったり、浴室内の室温で繰り返しおしっこをしてしまうと体は覚えてしまう。
そうなるとどうなるかというと、同じ室温で過ごしている時におしっこをしたくなってくる。人によっては無意識に漏らすらしいのだが、おしっこをしたいと思うだけならば我慢はできるだろうが漏らすレベルまで進行すると治すのが非常に困難になる。
これは子供も大人も改善するのが大変だ。特に子供がおねしょをしやすいのは、こういう条件がついて発生しやすくなっている。
とはいえ…大人も条件さえクリアすれば、あっさりと漏らす。シャワーを浴びている時の暖かさと同じ室温で就寝しているとトイレの夢をみつつ漏らすという人もいる。私だ。
自律神経がおかしくなっている時だったので、それも原因だったのだろうがトイレの夢を見ながらタオルケットの程よい暖かさによって漏らした。すぐ起きたので布団まではいかなかったが、ショックは大きい。
話は戻して、これらを治すのはどうすればいいか?というと…お風呂に入っておしっこがしたくなっても我慢する。とにかく我慢だ。それと事前に必ずトイレに行っておく事。
我慢することでそこでおしっこは出来ないと体に教え込む事になる。そしてトイレという場所を強く印象づける。印象づけしても夢で見たら同じだろって話なんだが、我慢と連動させることで改善に繋がるらしい。
最後に就寝中にトイレに行きたいと感じ覚醒したら、さっさと行く事。面倒とか寒いから嫌だ暑いから嫌だというのではなく、もうすでに我慢しまくっているのださっさとトイレに行く。
就寝中にあんまり我慢し続けると頭の中で想像のトイレを作り出し、そこでおしっこをしようとして現実と夢の区別が曖昧になる。
そうならないように行きたいと思ったら、さっさと行くほうが良い。
ほんと、マジな話変な条件反射を付けると大変なことになる。
自宅ならまだいいが運が悪ければ誰かと泊まっている時に発生したりして危険だ。そんな行為で大事なことを棒に振らないように気をつけて欲しい。