はてなキーワード: 酒鬼薔薇とは
う~ん、酒鬼薔薇くんは本当に人を殺してみたかったタイプだから、ISILとは違う気がする。
切り取った首を飾っている辺りは似ている気がしないでもないが。
前のエントリ知らなくて読んだら、なんか懐かしいものを感じてしまった
テレビで報道されるニュースの、ごく限られた情報から勝手に自己投影して、犯人に共感を抱くというのはごくありふれたことだ
今では中年Aと呼ばれるようになってしまった酒鬼薔薇くんも、当時は「俺も一歩間違えれば酒鬼薔薇だった」とかよく言われてた
まあご本人も自覚しているようだが、自分自身がどう救われたかという物語を絶対視しすぎていて、他人の人生というものを冷静に考える力はなさそう
それはいい
だが引っかかるのは、そのくせ、他人の人生に影響を与えたがっているように見えるところだ
安全な場所から犯人に共感できるのは、犯人が自分にとって都合のいい情報でできあがったコンテンツにすぎないからだ
生身の人間として見ていない
だからお気軽に「ああすれば、こうすれば救えたんじゃないか」とか言えてしまう
「絶歌」のことは知っていたが、興味がなくて読んでない。
今朝スマホ記事で、元少年Aがホームページを立ち上げたというのを読みあぁ、そう…と思いながら一通り目を通してみた。
http://www.sonzainotaerarenaitomeisa.biz/
精神疾患がどうなってるのかは知らないが、なんというか…うん。現代用語辞典の「厨二病」項目には是非このサイトのURLを掲載することを勧めたい。Don't think, feel。
地方の中学生が、ビレバンで触れたサブカルに触発されて勢いで組んだギターロックバンドの公式HP…みたいなビンビンのセンスよ。「実家に帰ったら母親が自分の黒歴史ノートを出してきた」級の恥ずかしさで、読むのも辛い。そうか。30超えてコレか。
もうこの際、社会に大きな影響を及ぼした元・殺人犯が社会復帰後に自身を語ることの是非は横に置く。俺は正直、佐川一政の生き方なら、あれはあれだと思っている。むしろ、語り方、語る内容に一般人のソレとは違うものがあって、なにがしかの感銘や感覚を惹起するならば、汚らわしくとも価値はある。
これを見て思ったのは、酒鬼薔薇というのは徹頭徹尾凡人だということだ。少しばかり発達し過ぎた自己愛と、ユルユルガバガバの社会性と、特殊な性癖に後押しされて、たまたま勢いで若くして殺人者になってしまっただけであって、肥大した自意識の有り様や、ついうっかり「正しくオナニー」なコラージュ「作品」を公開した上でページに「ギャラリー」とか名付けてしまうゲロが出る様な痛々しさまで、この人は少しイタいだけのフツーのセンスの人だ。
ページタイトルが「存在の耐えられない透明さ」だった点、ミラン・クンデラを敬愛する自分は若干イラっときたが、この軽薄さまでもが平凡だと思い始めると、なんとなく可哀想になった。
憐れみは他者への最大の攻撃になり得るが、自分の元・少年Aへの憐憫はそういう当て付けの悪意を表明するためのものではなく、結構本気で言っている。だってこの人は、持て余した自意識と自己愛を解消する為に「元・少年Aである自分」にもうずっと縋り付かざるを得ないのだ。
そして、そうすればするほど社会との折り合いなんて付け様がないのだ。だって、僕らはこんな香ばしい元・犯罪者と関わり合いたくないのだ。
だいたいにおいて少年〜青年期の過剰な自意識は、社会に出た際の軋轢で徐々に削り取られたり、それに対する挑戦を通して昇華されたり、最終的には消化されなくても、その様なプロセスの中で自分とのバランスをとって大人になっていくものだけれど、彼にもうそのチャンスはないんだろうな。
だって、元・少年Aであることにしか、「異常な性癖で人を殺した」ことにしか、彼の社会的な価値はないんだから。もっと言えば、「アタマのおかしい、少し壊れてしまった人」として憐憫と共に、一般とはかけ離れたアウトサイダーアート的な才能への他言できない憧れも集めつつ贖罪に生きる姿が人々の胸を打つ…とか何処のラノベだよ。でも、彼が自意識を支えていくには、そんな世界観で生きていくしかない。
このままこんな生き恥を垂れ流しにしていたら、ほっときゃサイコパスへの憧れを持ってくれたかもしれない多感な10代とかですら「あ、これは結構ッス」てなるよ。。そんで社会から隔絶されて、また謎の敗北感を抱えて再犯に走るとかの悲劇も、ワンチャンある。
誰かが刺激され、現代の若年層における現実の味気なさや不安に対抗するためのよりどころの特徴について考察してくれたら嬉しい
結局、誰もがレールをしかれて機械みたいに生産され続けてると、生きている意味を見失うんだろうな
結局、そういう実存とか生の感覚とかリアルさとかを浮き彫りにするための道具なんだろうな
酒やドラッグやセックス、喧嘩やリンチ暴力やいじめ、犯罪や虐待や戦争や人類の危機などなど
全部が全部、真剣に向き合わざるを得ないような事ばかりで
だからこそ人の目を惹くんだろうが
80年代の砂のような時代からは、どの漫画も希薄な現実を打ち消すような作品が多かった気がする
いわゆるヤンキー的な文化がもてはやされたし、現実でもそういうのが多かった
現実の味気なさに耐えきれない若年層のよりどころとして存在していたんだろうと思う
現実にそれを求めた時にヤンキーになり、作品に求めた時にサブカルチャーになるだけで
00年代ではそれがエヴァや最終兵器彼女のようなセカイ系に取って代わられたわけで
10年代はどういうものが現実の空虚さに耐えるためのよりどころとして存在してるんだろうか
全体的には、おそらく00年代を通過した事で「外出すること」が少なくなった気がする
他者とのつながりに、救いを求めるような傾向が減ってきている感覚がある
行動化をしない代わりに、より鬱屈とした集団が出来上がっている
もしかすると、その源流にある薄ら暗さはオウムであるかもしれないし、酒鬼薔薇かもしれない
原型としては、意外と村上春樹なのかも知れないが
ひたすら自己に潜っていくという意味では、村上作品を聖典とする世代が今の若年層のメインなのかもしれない
そういう意味で、いわゆる00年代から萌芽した新ジャンルスレやSSスレが読み解くカギなのかもしれない
また、小説家になろうなどの小説コミュニティもその一端を握るだろうし
ニコニコ動画でのストーリー付き楽曲についても、影響力があるのかも知れない
それらに共通するテーマこそが、今の若年層のよりどころとなっているのだろう
神戸連続児童殺傷事件の加害男性が手記『絶歌』を出版した。ネット上で感想などを見ているのだが、気になっているのは情報サイト「酒鬼薔薇王国」が消えてしまっていることだ。サイト製作者の「くそ餓鬼」氏にいったい何があったのか。
「くそ餓鬼」氏は酒鬼薔薇聖斗に殺害され、廃校の校門に晒し首にされている──これが私の想像だ
「酒鬼薔薇王国」は酒鬼薔薇聖斗を「王」と崇めるサイトだった。サイトを製作した「くそ餓鬼」氏は、犯行声明文の「ボクには国籍がない」という言葉に触発されてサイトを作ったと言っていた。「くそ餓鬼」氏が酒鬼薔薇聖斗を崇拝していたのは間違いない。
しかし、酒鬼薔薇聖斗が「くそ餓鬼」氏をどう思っていたのかは分からない。ファンなら殺しても良いと思っていたかも知れない。むしろ、酒鬼薔薇王国が消えている現在「くそ餓鬼」氏は殺されてしまったと考えたほうがよい。
くそ餓鬼氏は酒鬼薔薇聖斗に殺害され、廃校の校門に晒し首にされている──それは妄想か現実か
酒鬼薔薇王国は、2ch型掲示板「したらば」を使って閲覧者がコミュニケーションを取っていた。小学校のころの友人から少年院の出所者まで幅広い情報が集まっていた。その情報は草薙厚子さんの著作『更正2000日全記録』でも盗用されている。「くそ餓鬼」氏はその膨大な情報を以てファンの第一人者を自任していた。
しかし酒鬼薔薇聖斗自身は『絶歌』で自分にとって都合の悪いことはすべて省略するという姿勢を貫いている。『絶歌』では後輩にカメラを向けられたときに衝動的にカメラを破壊したと書かれているが、実際にはそれ以外にも衝動的な暴力沙汰はあったと言われている。
「くそ餓鬼」氏は酒鬼薔薇聖斗の情報を集めていたがために、こうした情報も耳にしていたはずだ。そう考えてみると、『絶歌』の発売前に酒鬼薔薇聖斗によって殺されたと考えるのが自然である。
これまでも会っていもいない橋下大阪市長を人格障害扱いしたり、原発推進派を病気と断罪したりと、精神科医であることを盾に言い放題で精神医学、心理学の地位を貶めている人物であるが、
2段落目から香山リカっぷりが爆発しているのが、酒鬼薔薇に通常の感情がないことを前提に述べたコレ↓
"その原因は、男性の脳の構造や機能の特徴というか、機能不全に由来するものだろう。"
男性の右脳の構造や機能の特徴として『感情がない』なんていう脳科学的、心理学的研究が存在するなら教えて頂きたい。
続いて
"せめて誰か専門家が「なぜ男性はこのような書き方をするのか」と精神医学や脳科学見地から解説を加えたほうがよかった"の述べている。
私から言わせれば、
『せめて誰か専門家が「香山リカはなぜこうも男性を目の敵にしているのか」と精神医学や脳科学的検知から解説を加えて上げた方がいいんじゃないだろうか。』
この私の素朴な疑問に対する答えもまた、香山リカの言葉を借りるなら"何らかの脳の機能不全に基づいている"のだろうか。
香山リカは酒鬼薔薇の脳を画像検査すれば良いといったことを述べているのだが、私からも1つ提案したい。
酒鬼薔薇脳研究と並んで、極左反日香山リカの脳研究も執り行ってほしい。
人の政治思想は様々だが、彼女ほど極端に偏った思想・思考というのは大変興味深い。
『私が香山リカに脳の機能不全がある、と確信している理由はもうひとつある。』
当初香山リカが書いた覚えもないと言った、文章が彼女のツイッターからつぶやかれた事件があった。
後に、書いたのは間違いない。と一部ウソをついたことを認めつつも、つぶやいてはいない。と主張を変えたのである。
自身のウソ、偽り、偽善には目もくれない精神構造は、一般人の目には異常に映る。
最後に、香山リカの文中での"男性"の使い方は後半に行くにつれ、"この男性"という表現に変わっていく。
文頭では"元少年"と書きながら、あたかも男性全般の脳構造がおかしいかのような文章に仕立て、
しかし、この"男性"は「he」として用いているのだという言い訳が通るように文末では"この男性"と表現を変えてきているように思える。
ここに引き合いに出して申し訳ないが田嶋陽子といい、香山リカといい問題の原因を本質と異なるものに投影するのはそろそろ止めていただきたい。
始めに、この文章は「元少年A」や『絶歌』に対する世間の大多数と反応と「真逆の主張」であることを先に示しておく。
馬鹿じゃねえの。
この中川淳一郎っていう奴の『絶歌』の書評( http://biz-journal.jp/2015/06/post_10431.html )を読んで、正直こう思った。
ハッキリ言うけど、お前に元少年Aや太田出版を外道だなんて糾弾する資格なんてないだろ。正義ぶって身勝手な書評を書く前に、我が身を反省してみたらどうなんだ。
おそらく、中川淳一郎はこう思ってるんだろうな。
「元少年A」は叩かれて当然の「極悪人」で、それを一刀両断している中川淳一郎は「正義の告発者」だからな。
世間の感情と同調している中川淳一郎はきっと、どれだけ「元少年A」を扱き下ろしても大丈夫だと、そう思っているんだろう。
フザけんな。
非難してやる。ネット上の他の全員がお前の書評を褒めちぎっても、俺だけは非難してやる。
元少年Aを「外道」だと罵るお前の方がよっぽど「外道」だと、この場で主張してやる。
俺が最も中川淳一郎の書評で怒りが沸いた部分は、元少年Aが「どうして人を殺してはいけないのですか?」という問いに対して答えた箇所に、コイツが吐いた感想だ。
一応、元少年Aの言葉を引用しておく。前述の問いに対して、元少年Aはこう答えた。
(引用)
『「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」』(註:原文では「あなた自身が」の部分に傍点あり)
で、これについて、中川淳一郎はこんな風に言っている。
(引用)
あぁ、何もわかっていない……。どうしてこうも自分本位なのか。「あなた自身が苦しむから殺人はいけない」と言い、まるで自分が悲劇の主人公かのように「重い十字架」というエセ文学的表現を使う。人を殺してはいけない理由は、これである。
「誰もが他人の人権を蹂躙することはできないから」 「殺された人に近しい人が悲しむから」
酒鬼薔薇は被害者とその遺族よりも、自分自身(加害者)の側の論理でいまだに語っている。そしてこれがやっと見つけた唯一の答えとは、非常識かつ幼稚もはなはだしい。
ハッキリ言って、頭にきた。
何も分かってないのはお前の方だろう?
人の「本気の思い」をこんな風に平然と踏みにじる、お前の方がよっぽど外道だ。
確かに、元少年Aの答えは自分本位だよ。凶悪な殺人を犯したくせに、いまだに自意識の中でしかその理由を語れてない非常識で幼稚な答えかもしれない。
だけどな、ここにあるのは『本気の思い』だよ。事件の後の全人生を通じて、元少年Aが自分の頭で考えて言葉にした「人殺しをしてはいけない」ことへの『本気の思い』だ。
どれだけ自分本位で幼稚でも、本人があの事件を起こした後に見つけてきた『自分の答え』だ。
それを、お前は踏みにじった。
「あぁ、何も分かってない・・・・・・。」なんて、さも悲哀ぶった言い方で、お前は元少年Aの言葉から耳を塞いで、「自分の意見」で踏みにじったんだ。
「人殺しをしてはいけない」ことに、お前の考えや正義があるのは分かったよ。客観的に見れば、お前の考えの方に正当性があるんだろう。
でも、だからって踏みにじって良いわけじゃないだろ?
他人が自分の全人生をかけてたどり着いた『本気の答え』を、そんな風に無価値だと切り捨てて良い理由にはならないだろ? お前にとっては「何も分かってない」ような幼稚な意見でも、それが元少年Aにとっては「やっと見つけた正しさ」なんだぞ。
まあ、元少年Aの「答え」なんて、他人から見たらボロ布くらいの意味しかないのは分かってるよ。
ネット上の大多数、「元少年Aや『絶歌』に対する怒りを燃やす人々」はそれでもいいよ。
だけど、中川淳一郎。お前は違う。
お前は、婚約者を亡くしているんだろう?
正直、俺には信じられない。婚約者を鬱病の末の自殺で亡くしているにもかかわらず、あんな身勝手な書評を書くだなんて。
一応、読んでない人のために書く。
中川淳一郎の書評には、その昔、当時の婚約者が自殺で亡くなった件について書かれている。
そして、その際に本人が参考にしたのが『完全自殺マニュアル』・・・・・・『絶歌』の担当編集である落合美砂が、93年に世に送り出したベストセラーとのことだ。
これだけ書くと、まるで中川淳一郎が「『完全自殺マニュアル』のせいで婚約者が自殺した!」って主張してるみたいに誤解しそうだけど、そこまでは思っていないらしい。
ただ、その本が自殺した婚約者の本棚の中にあって、そこに書かれた「最も推奨されている方法」で自殺したという、それだけらしい。
中川淳一郎は言っている。「彼女が死んだのは鬱病のせいである。それは間違いない」と。
これは完全に憶測になるけれど、鬱病みたいな「心の病気」の最たる原因は「孤独」だ。
自分の抱えている問題を誰にも打ち明けられない、誰とも共有できない、そういう風に「一人でどうにかしなきゃ」という状況に追い込まれたときにこそ、「鬱病」みたいな精神病に人は陥る。
もちろん、実際にその婚約者が「孤独」だったかどうかは憶測の域を出ないけれども、誰にも相談できなかったことは間違いないだろう。
そうでなきゃ、『完全自殺マニュアル』なんて買うわけはないからな。
当たり前だけど、この本は自殺の「方法」を書いているだけであって、自殺を「推奨」しているわけではない。中川淳一郎も引用していたけれど、太田出版の紹介文ではこうなっている。
(引用)
「世紀末を生きる僕たちが最後に頼れるのは、生命保険会社でも、破綻している年金制度でもない。その気になればいつでも死ねるという安心感だ! 自殺の方法を克明に記し、さまざまな議論を呼んだ、聖書より役に立つ、言葉による自殺装置。」
この文章で注目すべき点は、二つ。
一つ目は、「世紀末を生きる僕たちが最後に頼れるのは」という部分。この箇所から、この本は「生きる僕ら」が「頼れる」ものを示したものであることが窺える。
二つ目は、「その気になればいつでも死ねるという安心感」という部分。この箇所から、あくまでこの本は「安心感」を提供するためのものであることが窺える。
以上の点から、この『完全自殺マニュアル』はあくまで「生きるための本」であることが分かる。具体的には「自殺という『逃げ道』を示したから、後は安心して生きればいい」という本だということだ。
イメージが掴みにくい人は、『完全自殺マニュアル』を「精神科医」に喩えてみてほしい。「『いつでも安心して、私を訪ねてきて下さい』そう患者に言ったら、二度と患者は訪ねてこなかった」一度くらいこういう話を聞いたことはあるだろう。要するに、「いつでも訪ねられる」という「安心感」が重要なのであって、実際にその選択肢を取るかはさほど重要ではというないのだ。その「安心感」を提供されただけで、患者の心の問題は半分くらい解決しているらしい。
おそらく、『完全自殺マニュアル』も、そういう「安心感」を提供することが目的の書籍なのだろう。事実、前書きや後書きの部分には「いざとなれば自殺してしまってもいいと思えば、苦しい日常も気楽に生きていける」旨が書かれているようだ(https://ja.wikipedia.org/wiki/完全自殺マニュアル)。
というわけで、この『完全自殺マニュアル』はそういう、精神科医的な「安心感」を提供する本だ。
そんなものが本棚にあったということは、そんな「安心感」に頼らなくてはならないほど、その婚約者は精神的に追い詰められていたのだろう。
普通ならば、『完全自殺マニュアル』は買って読まれた時点でその役割を全うする。
「いつでも死ねるという安心感」さえ提供してしまえば、いつでも精神科医に相談できる患者のように、「生きる日常」に帰って行けるからだ。
『完全自殺マニュアル』に書かれている方法を実行して、本当にこの世から「逃げ」てしまったからだ。
その婚約者がいつ亡くなったかは分からないが、おそらく『完全自殺マニュアル』を読んですぐというわけじゃないだろう。
一度読んで、一度「日常」に帰って、そこで何かしらアクションがあったのだと思う。
そして、そこで「上手く行かなかった」からこそ、まるで精神科医に再び相談しに行く患者のように、その婚約者は『完全自殺マニュアル』に頼ってしまったはずだ。
そして『完全自殺マニュアル』に頼ったことからも明らかなように、その婚約者も「誰にも相談できない」状況に陥っていたはずだ。
それが行き着くところまで行き着いて、自殺だ。
何が言いたいかっていうと、その婚約者の死因は「周囲の無理解」だということだ。
中川淳一郎本人が語っている、「(自殺の)予兆に気づけなかった」という話が象徴的だろう。「婚約者」という最も近しい立場の人間ですら、本人の抱えている「問題」に気がつけなかった。
婚約者の男が居てもこの世を去らなくちゃいけないほど、自殺したその女性は「分かられていなかった」のだろう。
以上のことから、俺が言いたいのはこうだ。
「他人の言葉に耳を塞ぐ」ってのは、こんな風に人を鬱病になるまで追い込んで自殺させることもあるってことだ。
それを中川淳一郎は、「予兆」に気がつけず婚約者を自殺させてしまったお前は、知ってるはずじゃないのか?
にもかかわらず、中川淳一郎はよくも平然とあんな風に「人の思い」を踏みにじれるものだ。
自分の婚約者を殺したかも知れない「人の話に耳を貸さない」ことを、あんな風に実行できるものだ。
元少年Aの「問いへの答え」へ呟いた感想もそうだし、『完全自殺マニュアル』の「大義名分」を語ったこともそうだ。
確かこんな風に勝手に決めつけてたな。
(引用)
「自殺する自由はある」 「苦しい時の選択肢として、自殺もあっていいのでは」 「命の大切さを伝えたい」
こういった大義名分は『完全自殺マニュアル』発刊にあたってはあったのだろう。
きちんと紹介文を読めば、この発言が的外れであることが第三者にも明らかだろう。
『完全自殺マニュアル』は、「生きるための安心感」を提供する本なんだよ。本当は自殺のためじゃない。
婚約者が亡くなった後、「本当に後追い自殺をするつもりになり、彼女が愛読した『完全自殺マニュアル』を再度読んだ」ときに目にした前書きと後書きに、ちゃんと書いてあったはずだろうが。
そういう態度にこそ自分の婚約者が殺されたかも知れないことに、どうして気がつかない?
元少年Aは外道だと、いまだに悲劇の主人公ぶる幼稚な男だと、中川淳一郎はそう言った。
だけど、ハッキリ言うぞ。
元少年Aの「なぜ人殺しはいけないか」っていう問いへの答えを、お前は「自分本位」だとか「非常識」だとか「幼稚」だとか非難するけどな、お前の書評だって全く同じだ。
『完全自殺マニュアル』や落合美砂への「自分本位」の勝手な決めつけ、記念パーティでの「非常識」で「幼稚」な不謹慎発言。これらは元少年Aの態度と何が違う?
「酒鬼薔薇は被害者とその遺族よりも、自分自身(加害者)の側の論理でいまだに語っている。」ってお前は非難するけどな、だったら自分はどうなんだ?
自分が婚約者の自殺の予兆に気がつけなかったのを棚に上げて、『完全自殺マニュアル』や落合美砂という「外的要因に」文句をつけるしかないお前の態度はどうなんだ?
「『完全自殺マニュアル』を参考に恋人に自殺された、可哀想な自分」を気取っているお前は、「いまだに『罪の十字架』に苦しんでいる、可哀想な自分」を演出している元少年Aと何が違う?
「悲劇の主人公ぶっている」のはむしろ、今のお前の方じゃないのか。
他人の言葉に一切耳を貸さない、身勝手な「自分本位さ」にまみれているお前の書評は、いまだに被害者遺族の心情に寄り添うことのできない元少年Aの「自分本位さ」と良い勝負だ。
ハッキリ言っておく。
中川淳一郎。そして、元少年Aや『絶歌』を叩きまくっているネット上の大多数の諸君。
お前らがやろうとしていることは、れっきとした人殺しだ。
『絶歌』という本人の言葉を封殺して、元少年Aの人格を否定して悦に浸るその行為は、間違いなく「一人の人間」を社会から抹殺しようとしている殺人行為だ。
かつて、どこかの誰かの婚約者を自殺に追いやった「他者への無理解」を、今度はお前たちがやってるんだ。
かつて、どこかの十四歳が、か弱い十一歳の少年を殺したようなことを、今度はお前たちがやってるんだ。
元少年Aのことをお前らは「殺人犯」だって言って罵るけどな、今ではお前らの方がよっぽど「元少年A」に見えるよ。
正直な話、『絶歌』なんていう「ポエム」を出版「しなくちゃいけない」くらい元少年Aを追い詰めたのは、俺たち社会の方だと思う。
本当にこの書籍の出版を憎んでるなら、こんなものを出さなくて大丈夫なくらい元少年Aを社会の方が受け入れてやれ。
これが、俺の精一杯だ。
絶歌を読んだ。
この本はあの酒鬼薔薇本人が書いただけあって、ぶっ壊れた部分と、理解可能な部分がごちゃまぜに同居して読むのは疲れる。おすすめできない。
ぶっ壊れたままというのは、出所後も基本的に他者への関わり方が分かってない点と、パニックに陥ったときに暴力衝動が抑えらていない点だ。さらっと描写される他者への無関心とあたりまえのように描かれる暴力描写に、とてつもない違和感を覚える。
それでも矯正されたというのは、出所後はそういう自分の弱点を認識して、他者をなんとか理解することで社会に関わっていこうという意思を感じるから。14歳の頃にはそういう姿勢はなかったと思われるので、これは矯正プログラムの成果だろう。ただ彼にとっての社会復帰とは、正解を探す作業なのだ。職場の人にお茶を勧められ休憩しようと言われても「喉乾いてないからいいです」と断るのは「間違い」だと認識して正していく、それが彼の社会復帰の方法だ。その方法はやはり普通の感覚の社会生活とは違うので、更生していると思う反面、そのぶっ壊れ具合に衝撃をうける。
酒鬼薔薇は根本的になぜあのような凶行に自分が及んだか分かっていないようだ。
理性のたがが外れて、性的衝動と殺人衝動に自分の行動が支配されてしまった。なぜそうなってしまったのか、自分のことなのにわからない。だから理解したい。自分で自分を理解したい。
理解したいから、何度も何度も自分の記憶を掘り起こす。何度も思い出すうちに記憶は強化されていく。過去のシーンは安っぽい比喩と装飾にあふれているが、美しく描写されるのは記憶の中の自然であり他者だ。酒鬼薔薇は基本的に自分と関係ないものへは無関心を貫くが、自分を無条件で受け入れてくれる他者や場所には強い愛情を感じる性質がある。そうしてそれを美しいものだと認識している。だから自分を受け入れた美しいものをケレン味たっぷりに飾り立てて描写する。それは記憶の掘り返しが何度も繰り返され強化された証拠だと思われる。だって酒鬼薔薇が美しく描写したタンク山とか池は当時の報道で何度も観たけど、なんてことはない風景だったもの。
逆に自分のことは徹底的に醜く汚いものとして描写される。美しい他者と醜い自分、この断絶が凶行の原因だと認識しているようだ。そんなこと言われて誰が納得するだろう。また文中、他の文学作品からの引用が多数あるがそれも自分を知る手がかりだ。自分の記憶を掘り返し、また文学作品に自分を投影することで、なんとかして自分を理解したいのだ。
自分を理解することで心の安定を図りたい、というのがこの手記を書くモチベーションになってることはたしかだろう。ひどく利己的で、被害者感情を逆撫ですることは確かだけども、もともと自意識しかないぶっ壊れた人間なのだ。今の他者を理解しようという姿勢は矯正プログラムの成果でしかない。
ところで、この本で笑うべきでないのは十分分かっているが、どうしても笑ってしまった箇所がある。
それは彼が捜査員や検察官、カウンセラーといった大人たちに最後まで内緒にしていたという、彼の中で性衝動と殺人衝動が結びついた原体験だ。
小5のとき、最愛のバーチャンを亡くした彼は思い出に浸ろうと入ったバーチャンの部屋で電マをみつける。電源を入れ興味本位で股間に当てた彼は今までにない快感に身を震わせる。小5の彼は電マオナニーで気絶するほどイクという壮絶な精通体験を得たのだ。それはバーチャンの死と深く結びつき、性的快感と「死」が関連付けされてしまったのだ。その後も電マオナのとりこになり、その行為は強く死を意識させる冒涜的な行為であったので、それが猫殺しの時にもイッた原因になったと彼は自己分析してるのだ。
この本から教訓を得られることがあるとすれば、電マは年頃の男の子の手の届かないところに保管しなければいけない、ということだろう。
0.まえがき
おそらく表現規制の最前線にいる人しか分かってないと思うので書く。
自主規制団体が必要とされる理由は大きく分けて3つ存在する。1つには、販売店を安心させるため。2つ目は、条例上あった方が有利だから。3つ目は、世論との妥協のためだ。
1.販売店にとっての意味
(太字強調は筆者による)
わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。
電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。
[児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律 第7条第6項]
児童ポルノを不特定若しくは多数の者に提供し、又は公然と陳列した者は、五年以下の懲役若しくは五百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。
電気通信回線を通じて第二条第三項各号のいずれかに掲げる児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写した情報を記録した電磁的記録その他の記録を不特定又は多数の者に提供した者も、同様とする。
つまり、わいせつな文書・図画や、児童ポルノに関する罪を問われるのは製造者や所持者だけではない。法律上は、販売した者も罪に問われる場合がある。
が、店員にとってみたら『わいせつっぽい物を販売したらある日突然逮捕されるかもしれない』は恐怖である。
そのような販売店の恐怖が『それっぽいものは全部売らない』になるのは商業的にも文化的にもマイナスなので、
ビデオ・映像関係の年齢表示や、成年向けコミックのマークはそのような販売店の声に対し、『自主規制団体が、刑法および児童ポルノ法に違反していないことを確認したと責任を負います』という意味がある。
だからこそ、数年に1度程度の割合で『AV女優が実は18歳未満だった』という事件があるが、そのAVを置いていたツタヤの店員が全て逮捕されるわけではないし、
以前薄消しが流行ってビデ倫の関係者が逮捕されたことがあるが、問題になったビデ倫の作品を扱っていた販売店の関係者は逮捕されていない。
逆に言うと、そういう団体を通していない、いわゆる裏ビデオを分かっていて売ったら店員が逮捕される可能性もあるはずだ。
上で書いたような『わいせつな文書・図画』や『児童ポルノ』は世間で広義で用いられるような意味ではなく、たとえ18歳以上にしか売っていないとしても、売った人は逮捕されるような物の話である。
では、一般的に「18歳未満には販売できません」で書店やアマゾンで売っている商品はどのような法的根拠で売っているか。それが条例上の理由だ。
第九条の二 図書類の発行を業とする者(以下「図書類発行業者」という。)は、図書類の発行、販売若しくは貸付けを業とする者により構成する団体で倫理綱領等により自主規制を行うもの(以下「自主規制団体」という。)又は自らが、次の各号に掲げる基準に照らし、それぞれ当該各号に定める内容に該当すると認める図書類に、青少年が閲覧し、又は観覧することが適当でない旨の表示をするように努めなければならない。
まどろっこしいが、要は『一定の倫理基準に該当する物は、青少年に閲覧・販売できないように努力せねばならない。(そして、成人に販売する分には問題ない)』ということである。
"18禁"などに関する(映像作品やゲームではR-15も一応は存在する)法令上のもっとも重要な(もしかしたら唯一の)根拠はこの条文だ。
この条文があるからリアルでもネットでも、18禁の作品を売る際には専用のゾーンを設けなければならない。その区分が雑だという話(特にネットにおいて)はノーコメント。
そもそもこのような自主規制団体が生まれたのは1950~60年代に『低俗な本・雑誌が溢れた』ことに対する世論の批判とそれを受けての条例(2で書いたのは東京都の条例だが、同様の条例は全ての都道府県に存在する)制定の動きに対してであり、
ビデオやゲームが出た後も法規制の動き(もしくは実際の逮捕事件)を受けてから出版の団体を参考にして自主規制団体が生まれている。
もっとも、出版と映像では少なからず差がある。最大の違いは、出版は成年マークのついていない書籍については一切の表示がないのに対し映像やゲームでは(ほぼ)全ての作品について「審査の結果、年齢区分はこうなりました」という表示があるということだ。
世の中において『私の考えるこれこれの思想・道徳に反する本は全て排除せよ』という日本国憲法ガン無視の全体主義者は少数だが、
「たとえ低俗な出版物であっても、他者の権利を侵害していないならば全て認められるべきだ」というガチの一元的内在制約説原理主義者もまた少数であり、
「低俗な本に対する一定の倫理的歯止めをする制度は必要だよね」という中庸な人がおそらく最大多数だ。
(酒鬼薔薇の本など典型例だ。私の倫理観はあの本が出ることを嫌悪するが、あのような本の出版をどうやって規制するのか、というと非常に難しいよなと思う部分はある)
そういう人たちに対して「いや、一定の倫理的歯止めはかけていますよ」というアピールをして、ひいては条例・法律上の規制をするような世論に持っていかせないという存在としても自主規制団体は役立っており、
民主主義の世の中においてそのような団体の存在意義は一概に否定するものでもない。
当時殺された小学生くらいの年代だったけど、あの事件はよく覚えている。
連日報道されていた通り魔事件の最中の出来事だったのでかなりインパクトがあった。
「校門前に男児の頭部」「さあゲームの始まりです」「不審な車と男性の目撃情報」
そして少年Aが逮捕された夜の記者会見で、子供でもあんな事件を起こすことが出来るのを初めて知った。
ほかに同じころ起こった和歌山カレー事件で同じ年くらいの子供がカレーを食べただけで死んでしまったのが怖かった。
オウム事件もあって、世の中にはたくさん悪い人がいることを知った。