はてなキーワード: 甲斐とは
幼いころの記憶は、2歳ぐらいから残っている。初めて乗った三輪車、初めていった遊園地でのヒーローショー、流行に乗って買ってもらったローラースケート、ファミリーコンピュータ。皆覚えている。
幼稚園の頃には、既に自分が他者とは異なる存在であることを認識していた。
幼稚園でやることは何もかもが退屈だった。何度同じことを教えてもらっても文字を読めない、たとえひらがなであっても自分の名前を書けない。そんな同い年の園児達に辟易していたし、先生の言うことも最終的に言いたい・結論の読める、そんな通り一辺倒の話しばかりで、毎朝幼稚園に通うバスに乗る時には苦痛を感じていた。
ある日、そんな苦痛の発生源から「近所の公園で落ち葉拾いをして、その落ち葉でちぎり絵を作りましょう!」と言われた。他の園児たちは落ち葉をかなり細かくちぎって、造形でギリギリ判別できるかどうかの「おさかなさん!」「おはな!」「おかあさん!」といったの作品を作って先生に持って行っていたが、俺は「いやいや、落ち葉で作るんだから落ち葉である事を活かせよ」と思い、少し捻くれた形をしたカエデの落ち葉を1枚と、他にも大量の落ち葉を拾って、「人喰いおおかみをやっつけた人が、その証としておおかみの右手をバイクに積んで村に戻っているところ」という作品を作った。
作ったちぎり絵を先生に見せた時、「これは・・・バイク?・・・と・・・手?」という反応をされたので、それは人の手では無く、怖くて悪い人喰い狼だと説明した。その際に俺は「これは他の人間にも説明が必要だな」と何故かひとり勝手に確信し、画用紙に黒のクレヨンで物語を描き始めた。最初は延々と文字だけで説明していたが、文字だけだと寂しいので、余白に挿絵もつけた。
「悪くて怖い人喰い狼が現れて困っている村人たちのところに、腕利きの猟師がやって来て・・・」という、何とも陳腐な筋書きではあるが、画用紙を10枚以上使ったと記憶している。
俺のちぎり絵と物語は幼稚園で話題になり、その年のお遊戯発表会の題材にもなった。先生は「やっぱり主役の猟師役は増田君がやるべき」と言ってくれたが、主役はガキ大将のS君に決まった。かけっこなどの身体を使う類いのことはからっきしだったので、俺はそれで良いと思った。
発表会は結構うまくいったようで、いつの間にか俺の「作品」達は、「画用紙に書いた物語と一緒に区役所に飾ろう」という話まで出て来ていた。
その事で幼稚園側と区役所側の担当者が何度か話し合いを持ったようだが、結局絵だけ飾る事になった。
区役所に絵を飾る事になるまでの一連の話を幼稚園から説明された両親は、たいそう喜んでくれた。
両親は平凡だった。見合いで結婚し、中庸であることを良しとし、毎日を善良に暮らし、一人息子である俺にもしっかりと愛情を注いでくれる。そんな両親だった。
ただ、そんな両親が、幼稚園側が区役所の絵画の話を交えつつ、「増田君は本当に優秀です。才能があります。小学校は是非とも私立を考えられては・・・?」と強く推した途端、「いえ、結構です。ウチは公立の小学校に行かせます」と、頑として譲らなかった。理由はわからない。金銭的な問題だったのかもしれないし、中庸を良しとする生き方に反していると考えたからかも知れない。
俺は単に「人間関係をリセットして、見知らぬ土地でまたイチからやり直すのは苦痛である」などとぼんやり考えており、小学校は地元の公立のほうが良いように思えた。
幼稚園の中に友達と呼べるような存在はいなかったと思うし、毎朝の通園バスも苦痛ではあったが、それでも何とか周囲の人間の為人を把握して対応方法をほぼほぼ確立していた矢先の話だった。小学校とやらに行く事になれば、公立でも私立でも「周囲の人間の数」は増えるのだろうが、私立でゼロから再構築するよりは公立のほうが幾分マシだろうと思っていた俺は、そのように両親に伝えた。
両親と俺の希望が一致していたので、当然小学校は地元の公立小学校に入学することになった。
小学校に入っても、特に俺自身の変化はなかった。小学校に入ると本格的に「勉強」というカリキュラムがはじまったが、先生が言っている事を聞いて、板書をして、家に帰ってから宿題を済ませた後に復習・予習をしていれば、テストの点数は取れた。
この頃になると、自分の状態を客観的に捉えた上で、自身についての考察ができるようになっていた。
俺は結論として、「俺は天才である」と考えた。井の中の蛙どころの騒ぎではない。加えて、空の青さも知らないとなればもはや滑稽を通り越して害悪であるが、俺の周囲には俺より優れた学力を持つ者も、俺を諫めようとする者もいなかった。
言い訳がましいが、物差しが少ない小学生の時分である。「学力」という物差ししか持っていなかった俺は増長し、慢心し、周囲を哄笑した。将来は俺のような人間が、東京大学のような「賢い一流の大学」に入って、「でっかい一流の会社」に入社して、いずれは社長になって世の中を動かしていくと、本気で思っていた。
何より、公立の小学校は毎日がヒマだった。普段から見下している同級生とは、恐ろしいぐらいに会話がかみ合わなかった。俺にコミュニケーションスキルがあれば、「会話をあわせに行く」「自分の会話ができる場を作る」といった芸当も可能だったかも知れないが、ご多分に漏れず俺はコミュ障だったし、そもそも会話を合わせるという発想もなかった。
「名のある企業に入れる」「いずれは社長になる」などと思いこんでいるような人間がコミュ障というのは、その時点でもう既に色々と破綻しているような気がしないでもない。
ともあれ、この頃の俺は毎日退屈な授業とかみ合わない会話をする為だけに、日帰りの監獄に通っていた。全国の小学生がこの地獄を味わっているとするなら、文部省は滅ぼさなければならないと本気で思っていた。その為に文部省に入って俺がこの国を変えてやるんだと、鼻息だけが荒い小学生だったと思う。
─────「良い会社」に入るには「良い大学」に行かないといけないらしい。
─────日本一の大学は東京大学というところらしいが、真の天才であるならば京都大学に行くらしい。
そんな情報を入手したのは、忘れもしない、小学4年生の秋頃である。いかにも小学生が摂取しそうな、狭い世界のテキトーな話である。だが俺は何故か純真無垢にその与太話を信じた。つまり、「将来は絶対に京都大学に入ろう」と思った。
そこから俺は色々と京都大学の情報を収集しはじめた。「学部」など、小学生の俺の辞書には登録されていない概念に触れる度に興奮しつつ、どうやったら京都大学に入れるのか?という情報を求めて方々に聞いて回った。まず一番初めに、俺にとってもっとも身近な「大人」である両親に「どうやったら京大に入れるのか?」と尋ねたところ、「知らん」と言われて会話を打ち切られてしまった。仕方なく学校の先生などに尋ねたりしていたが、小学生の調査能力などたかが知れており、当時はまだインターネットなども普及していなかったので、俺の京都大学情報収集はかなり早い段階で終止符を打たれることになってしまった。
しかし、京都大学に入れたとしても、大学入学までは今からでも約8年かかる。京都大学に入る方法とは別に、一刻も早くこの日帰り監獄から抜け出す方法はないものか・・・と模索していたところ、どうやら「私立中学」というところに通えば俺の退屈な生活におさらばできるようだという情報を得た。
日帰り監獄の看守たる先生も、たいそう熱心に「増田君は灘中学か東大寺学園に行かせるべきです。」と言ってくれた。特に小学6年生時の担当看守だったK先生は熱心で、何度も両親と懇談して、俺を私立に行かせようとしてくれた。
だが、ここでも両親は「ウチはあまり裕福ではなくて・・・。本人は成績も良いので、公立中学から北野高校にでも行ってくれたらいいと思っておりまして・・・。」と、俺を私立中学に進学させることは明確に拒否した。
看守は
「経済的に難しいと思っておられるなら、公立中学以下、なんなら増田君の学力ならおそらく無料で通える」
などと食い下がったが、両親は「もう公立に決めてますので・・・」と固辞した。
この頃になると、小学生の俺でもさすがに両親の言動に疑問を覚えるようになった。両親は「経済的に困窮しているから私立は行けない」の一点張りだったが、看守は「困窮していても通えます」という。イヤさすがにそれはちょっとヘンだろ、矛盾してるだろと思っていたが、当時の俺はそこまで頑なな両親を説き伏せてまで日帰り監獄から抜け出したいとまでの強い意志は持ちえなかったし、天才・秀才・英傑達と机を並べて学びたいという願望も希薄だったし、それらの一連の俺の態度が招くであろう結果も、特に深くは考えてはいなかった。
当時の両親の真意が奈辺にあったのか、今となっては分からない。草葉の陰から、声は聞こえない。
そうして地元の公立中学校に入学した俺は、特に変わり映えのしない日帰り監獄生活を送っていた。そんな俺だったが、中学生活の半ばに差し掛かろうという頃・・・具体的に言うと全国模試を受けたあたりで、「んん?あれ?・・・どうも俺って天才じゃないな、これは・・・」と薄々感づき始めた。全国模試の偏差値が出るからである。
そりゃもちろん、俺の偏差値は全国平均より遥か上には位置しているのだが、自分なりに努力をしてみても、偏差値的に灘高校にも東大寺学園高等部にも届かないという事実を突きつけられた。これは結構俺にとってはショックで、小学校の頃は「余裕で入れる」と言われた灘にも東大寺にも入れないという事実は俺に重くのしかかった。「このレベルの高校が無理なら、こりゃ京大や東大なんて夢のまた夢だろ、どうしよう・・・俺の人生、どうなるんだろう」と、本気で思い悩んだ。
悩みぬいた俺は中学2年の夏、両親に「塾に行きたい」と言ってみた。しかし結果はやはりというか順当というか、頑強に拒まれた。曰く
「成績がいいのに何故」
「塾はお金がかかる」
「家でも勉強はできる」
小学生の頃の俺なら諦めていただろうが、中学生になっていた俺は己の目標を達成する為に食い下がった。模試の結果を伝え、行きたい大学がある事、だが自分の今の成績ではそこに至ることができない事、自宅での自己学習には限界がある事などを説明した。
また、塾が無理なら定性的定量的に評価が可能な代替案の提示をせまった。塾の代金は高校に行ったら必ずバイトして返す、なんなら今から新聞配達をして払うと、土下座までして塾に行かせてくれとせがんだ。
半年ほど前に未亡人となった母はなんだかやつれて見えたが、当時の俺は塾に行けることが嬉しくて嬉しくてしょうがなくって、あまり母親のことを注意深く見ることはできなかった。今思えば、当時の母は様々な事に疲れ切って倦んでいたのだと思う。塾に行く許可も、根負けというよりかは思考放棄といったように俺には映った。
そんな母を尻目に意気揚々と進学塾に入った俺は、成績順のクラス分けで上から2番目のクラスに入れられた。正直、体が震えた。自分よりはるかに勉強ができる人間が、天才が、焦がれる存在が、今まさにすぐひとつ上のクラスにいるとリアルに感じられるのである。そして、その人間たちと同じ程度の授業を、自分も受けることができるのである。これがアニメだったら俄然燃えるBGMが聞こえてくるようだった。実際、あの時の俺には、何かが聴こえていたのだろう。俺は一心不乱に机に噛り付いた。机に歯形があるんじゃないのってぐらいには噛り付いていたと思う。
その甲斐あってか、入塾後すぐのクラス替えで、あっさりと一番上のクラスになれた。ここで俺は生まれて初めて、圧倒的な勉学の才能をもった人間、すなわち「天才」と直に出会った。それも一人や二人ではない。そんな輝ける才能がひとつの教室に雨後のタケノコのようにポコポコと存在している、そんな環境で学べるという喜びにも出会った。
毎日がただ楽しかった。自分は天才ではないのかも知れないけど、努力すればちゃんと数字が、成績がついてきてくれた。
幼少の頃、毎朝幼稚園に行くバスの中で感じていた苦痛や、小学生の頃に感じていた疎外感は、もう無かった。
高校は公立の北野高校というところに入った。維新の橋下弁護士とか、日本マクドナルドの創業者の藤田田(ふじたた、ではなく、ふじた・でん)とか、漫画家の岡田あーみんとかが通っていた高校である。
本当は東大寺学園に行きたかった。学力や模試の偏差値は足りていたと思う。赤本の自己採点でも余裕で合格圏内だった。だが、中学3年時に入塾した際に母親と交わした「高校は絶対に公立高校にする事」という約束を守った。その約束をした時点では「受験までにどうやって説得するか・・・」などと考えたりもしていたが、塾での公立中学では考えられない授業スピードについていけたことや、並み居る才能たちと交わした会話の中で、「公立高校からでも京都大学は狙える」という感触を、俺は確かに掴んでいた。
中学の頃はあまりよく理解していなかった奨学金制度は、高校に入ると同時に申請した。家計を理由に俺の私立進学を拒んだ母親は、中学時代に俺の奨学金を申請していないこともその時に知った。俺はそんな母親を信用せず、奨学金の申請手続きを自分自身で済ませた。
北野高校の授業の質は高いと思った。だが俺は油断せず、予備校にも通うことにした。私立中学入学組の連中は、少なくても俺より3年は早く走り出している。そいつらに追い付くには、そいつらと同等、いやそれ以上の勉強が必要であると思ったからだ。
俺は詐欺師丸出しの口調で「高校の学費が浮いたんだから、もともと払うつもりだった学費は予備校に回してほしい。予備校とバイトを完全両立させるのは時間的に難しい。学力的に、俺は中学までの借金がある状態。プラスに転じるには積み上げるしかない」などと母親に申し入れたところ、すんなりと受け入れられた。
この頃になると、奨学金の申請だけでなく、家の中の一通りの事は全て俺がやっていた。
「自分でできるようになったから」というのももちろん理由としてはあるが、母親が炊事・選択の家事全般を筆頭に、日常生活の様々な事をほぼ全て放棄してしまっている事のほうが、より比重の大きい理由だった。母親が予備校行きを認めたのも、「認めた」というよりは「俺が『予備校に行きますよ』と報告した」といった表現のほうが正しいように思う。
俺が小学生や中学生の頃には確かに存在していた、「理由なぞはよくわからないがとにかく自己の主張を持って論陣を張る頑強な”母”たる人間」は、もういなかった。朝起きて、TVをつけて、ご飯を食べて、夜眠るだけの人間がそこにはいた。
家計はほぼほぼ俺が全部見ていた。入ってくるカネと出ていくカネを計算して大幅なマイナスにならないと言う事だけを気にしていたので、一般的な家計管理よりはラクだった。現に、今つけている家計簿よりは簡単だったように思う。父親の遺した資産が多少あったので、その管理も俺がしていた。
高校生活は楽しかった。学力差のある人間を十把一絡げにして地域ごとに押し込める日帰り監獄では味わえない切磋琢磨がそこにはあった。同程度の学力を持つ者同士が集まった結果としてのシナジーがあった。今までは暗い色で塗りつぶされていた「学校での生活」に色が付き始めた。毎日学校に行く事が楽しかった。対照的に、毎日家に帰るのが億劫になり、やがてそれは苦痛に変わり、それに伴い、家の中が暗い色で塗り潰されていった。
昔、母を名乗っていた人間は炊事もしないので、学校帰りは毎日スーパーに寄り、食材を買い、俺が晩ご飯を作った。予備校のない日は二人で食事をするようにしていたが、食事中に会話のようなものはなく、TVから流れるバラエティー番組の下らないやりとりだけがBGMだった。ご飯の味はしなかった。たぶん、母だった人も、ご飯の味はしていなかったと思う。
もしかすると、家から目を逸らそうとして、無理に高校での生活が輝いていたんだ、良かったんだと自分自身に言い聞かせているだけなのかも知れない。我が事ながら、この頃の記憶は妙に混濁している。
大学入試は当然のように京都大学一本にした。学力も模試結果も問題無いと判断したし、何より俺には京都大学以外の大学に通う価値を見出せなかった。入学できるまでは何浪でもするつもりだったが、幸いにも現役で合格することができた。
ひとり身になったから身軽だったし、しばらく大阪から京都大学に通ってみたものの、さすがに京都の外れまで毎日通うのはちょっと辛いなと思った。何より、暗い色で塗り潰された、大阪のあの家に帰るのは嫌だった。もうTVの音は聞こえなくなったけど、あの家で目をつぶって眠るのが、怖かった。
大阪での様々な残務を片付けると、それらの結果や、これからの事、感謝の気持ちなどを両親の墓前に報告して、俺は京都に移り住んだ。
後編に続く
お互い様といえばそれまでなんだけど
半端に非モテを自覚してしまい「どうせ自分なんか」と思いこむときよ
相手の歩み寄りを無視し自分からのアプローチを止めてより非モテのスパイラルに落ち込む
で止まるわけよ
それに同情されたりカワイソウっていわれたいなら書いた甲斐はあるだろうけど
本当にそれでいいの?とは思うよ
40代手前、妻一人、子はいない。世帯収入は1500万ぐらいで、保有資産は2000万ぐらい。
20代前半ぐらいにほぼ素人の状態からWeb業界にはいって死ぬ気とまではいかないけど、プログラミングの勉強をして仕事もがんばって成果を出し、プライベートでも色々作ったりした。大変なこともあったけど思い返せば楽しい10数年だった。できないことがたくさんあり、勉強して自分で作ってみて、できないことができるようになり、それを仕事やプライベートでアウトプットすることでまわりの評価が上がって承認欲求も満たされ、収入もあがる。楽しくないわけがない。その甲斐もあり、会社ではそこそこのポジションにつきチームをリードする役割につき、業界内でもそこそこ名前も売れている。仕事もまあまあ楽しい。
思えばWeb業界でやっていこうと決めてときに、年収1000万ぐらいあれば何不自由なく暮らせるし、それぐらいの給料で好きなことがやれてればいいな、とぼんやり考えていた気がするが、気づいたら今そういう暮らしができている。もはやお金に関する心配はいっさいなく、月一回ぐらい妻とおいしいもの食べに行って、年に2回ぐらい海外に旅行しても貯蓄は増えていく一方。子どもは色々な事情で作るつもりはなく、それでいいと思っているし、特に欲しい物もない。
これまでは収入をあげるために仕事で成果を出すために必死で働き、仕事以外の時間に勉強したり、名前を売るために講演や執筆をやってきたわけだが、これ以上収入が増えても生活が変わることはない。10倍とかになったら生活は変わるだろうが、リスクを取ってまで10倍にしたいとも思わない。そう思った瞬間にこれまで自分を支えてきたモチベーションがなくなっていることに気づいた。
収入に満足していればもうこれ以上できることを増やす必要もない。この業界は流れが速く、止まっていたら置いていかれるだけなので、最低限の勉強は必要だし、収入をキープするためにそれぐらいはやるし、できる自信はある。ただ、昔ほどがっついて勉強したりアウトプットしたい、とは思わない。プログラミングは楽しいし、今の仕事もまあまあ楽しいので、今の仕事のままで不満はないんだけど、こんなモチベーションが薄っぺらの状態であと20年も30年も仕事しないといけないのかと思うとゾッとしてしまう。
もしやこれがエンジニア35歳定年説か。
ほとんどの人がこの16歳の子どもは失敗作、親の子育て失敗という認識なんだね。読んでて驚いてしまったよ。
というかみんなは自身が完成された人間だと思ってるんだね?だってあなたの親は子育てに失敗しなかった、自分は失敗作じゃないと自信をもって言えるわけでしょ?皮肉じゃなくてすごいことだよそれは。
自分はもう40歳にもなるっていうのに3ヶ月に一度は自己嫌悪で落ち込んでしまうよ。意志の弱さだったり、自己中心的な行動、不甲斐なさ、他人を出し抜くような自分の嫌なところに直面してね。
さすがにこの年になって親の財布からお金を盗ることはないけど、自分が完成された人間だとは今まで一度も感じられたことがない。
大学を出て、数年お付き合いした人と20代で結婚して、披露宴で祝われ、子供を産み育てるのが普通の価値観というのなら、私はそれが全て叶わなかった。
病気をして大学を中退し、上京してから見る目ないせいで異性に騙され、30を過ぎてようやく見つけた伴侶と流れるようにスピード婚したら、モラハラ発覚して結婚して1年も経ってないのに離婚することになった。
SNSには同級生が子供と楽しそうに生きている様子が載せられている。表面上はとてもキラキラして楽しそうに見える。私の知らない苦労がたくさんあるのだろうけど、子供といる彼らは傍から見る分にはとても幸せそうだ。
嫉妬とかはないし、友人達が幸せに暮らしてるのはとても悦ばしい。
だけど、自分がそこに至れなかった不甲斐なさや、わたしはずっとしくじり続けるんだという絶望感が大きい。
未婚の知人には「結婚できただけマシ」と言われるが、嘔吐するほど辛い結婚生活は本当に独身よりマシなのかなとボーッと思う。
至って普通の生活すら得られない。強く望んでるのに、何故かしくじる。
最近子供を産んだ友人が、新生児や母体の神秘を語っているのを目にする度、自分は泥の中で立ち止まってしまったなぁとしんどさを感じる。
私は何をしているんだろう。
みんな出来ることが昔から何も出来ない。
多分、普通の価値観からいう幸せな生活というのにとことん向いてない人格なのだと思う。
みんなやっぱりできた人なんだなあ。
したくなきゃいいんじゃないの別に。どこまで何を配慮するかだって裁量が求められるんだから。
自分はゲイの同性婚にも養子にも異存はなく、ゲイを病人だ異常者だと指差して石を投げるつもりはなく、それをしている人間を見たらそいつに手斧を投げる程度には配慮をするが、極論を相手の論理で跳ね返す際の装置として用いる程度には配慮をしていないってだけの話だ。
女をブスだババアだ便器だ産廃だと罵ったり性加害を行う人間にしかるべき報いと裁きが与えられる程度の配慮は求めるが、男に「ブスでもババアでも我慢して女を娶り生涯養うのがお前の甲斐性だ」と強要するほどの配慮を求める者がいればそれには容赦しないのと同じだ。
婦人科に行ってきた。
それで「子宮の病気があるかもしれない」と言われて、子宮の状態を調べることになった。
読者のあなたは「31歳で!?」と思うかもしれないが、まあ世の30代の20~30%くらい?は処女らしいし、きっとそういうもんなんだよ。
話を戻そう。
婦人科の先生から「子宮の状態を見るためには、膣から指を入れるか、お尻から指を入れての触診になります」という衝撃の宣告。
は?
(500年後くらいの人から見れば「2020年の技術なんてどれもちっぽけッスよwww」かもしれんが)
そんなアナログな検査が…あるんですか?!?!?!?!?!?まあ結構あるよね……
それで「処女なのに膣に指を入れるか」「あるいは尻に指を入れるか」の2択を迫られたわけなんだが。
私は思った。
尻は物を入れるように出来てはいない。
だけど膣は(一応)ものを入れるように出来ているはず……!!!
なんだけど検査のとき、指が処女膜らしきものに触れただけで「痛い痛い痛い!!!!」と叫んでしまった。
いやあんなに痛いと思わんかったのやけど。裂けるやんな。
それで仕方なしに、尻の方から指を入れることになった。
思いのほか、尻にはあっさり指が入った。
いや、入るんかい。
とはいえ、指が1本入るのは意外とすんなりだったけど、指が尻に入っている間はひたすら苦しくて「アーーーッ!!」て叫んでた。
私には何の病気もなかった。
何が言いたいかって「膣よりも尻の方が簡単に入る」ということです。
個人差もあるだろうけど。知らんけど。
簡単な話で、女側からの理由は、性犯罪しないような「誰にでも優しい男」は生存競争上有利じゃないから。
「自分だけにやさしく、ほかの女は見下す男」が生存競争上有利だから。
頭も悪くて大して運動ができるわけでもない下っ端ヒョロヒョロヤンキーに彼女がいたりするでしょ?
そして男側の理由から言えば、モテる男のほうが「イヤイヤ言ってる女」と性行為をする機会が多いからさ。
そういう女性をリードするのが「甲斐性、いい男」だと思ってるからね。
いままでは「嫌よ嫌よも好きのうち」だった。それで幸せな日々を過ごしてきた。そういう経験が何人も何人も重なる。
それと同じように、またある日も「イヤイヤ言ってる女」と性行為をする。
その女は本気で嫌だった。そして犯罪者になった。
女に甲斐性求める奴初めて見た
女は甲斐性がないので、いつも、親のせい。
祖父母に送った贈答用果物がようやく届いたらしい。敬老の日から遅れてすまぬ。
父方の祖父は「俺たちにこういうの送っちゃもったいないよ。無駄遣いだよ」と照れ隠しをし、母方の祖母は「びっくりするくらい大きな洋梨でね、よく熟れて甘くて美味しかった。"いま食べてね!"と言ってるみたいだった」と謎の食レポをしてくれる。
いやー贈り甲斐があるなーー!!
遠方の祖父母にできることと言ったらそれくらいだもん。
歳の割には若々しいし(実際実年齢に見えないと色々な人から言われる。マネーかけてるからね)、年々美人度が増してる気がする。
結婚生活のおかげで家事の腕もあがったし、他人に対して許す気持ちができた(ま、離婚したけど)
お金もまぁまぁ生きるのに不便しないだけ稼いでる。ここだけの話、去年の源泉徴収票ね、900万ぐらいあったんだ~!頑張ったな~!やっほー!
税金こわーい!あと昇格もしたよ!
あと、全然困らない程度にはモテてると思い込んでるので心がツヤツヤしてる。
素敵な人ですねって言われて、美味しいご飯ご馳走してもらって改札まで送って貰えて、とても幸せだと思う。ありがとう、ご馳走様!こんど私がご馳走するね。
昔はちょっとした批判に傷ついて、立ち止まってぼろぼろ泣いてたけど、いまはそれぐらいなら平気。
嫌な気持ちにはなるけど傷つかない。だって私の事嫌いな人のことまで愛す必要ないもーん。
なんかよくわからんけど、常に誰かが支援してくれる。金銭的な意味じゃなくてね。
どうでもいいぐらい小さい嬉しいことが、ずっと嬉しい。ZOZOのセールで買った靴がめっちゃ履きやすかった。あとパンツもジャストサイズだった。
昨日ろく助の塩買ったら美味しくて感動した!ササミにつけて食べた。あとさっきコンビニでさきいかの大袋買っちゃった。いま全部ひとりで食べてる!
台風来たら会社行かなくて済むし、行っても嬉しい気持ちになるように、先週ドライオレンジを引き出しに入れて置いた私は策士。
嬉しいこと、楽しいことだけ見て、私って美人~!て毎日鏡の前で言ってたらニコニコできるようになった。
よくわかんないけど、なんか幸せだなあ~。
お酒うまーい。
この度は、私が道具を揃えてまで自殺を試みたもののなんと今まで生きてしまってる話を簡潔に書こうと思う。
最初に警告しておくことがある。この記事には人並みなことしか書いていない。あなたにとって気休めになるかもしれないし、余計に腹立たしくなったり、「綺麗事だ」と鼻で笑う記事になるかもしれない。あなたがこの記事を見て、どう思っても私には責任は取れない。それは、私があなたと同じ人間でも、あなたとわたしで人が違うからである。
実際に起きてからそれ程時が経っていないので、もちろんフェイクマシマシである。学校は県内ですらない。
まず、私は度重なる世の中の理不尽や、何をしても上手くいかない自分に絶望している。これは今でも変わらない。
なぜそんな思いをしてるかは、適当に綴っていく。興味が無い人は、何となく記号が羅列しているところまで飛ばすと良い。
やりたくないし、理解も出来ない。
筆記試験対策(SPIと呼ばれているようで、要は計算が速くなるように鍛えなければいけないもの)なんて目も当てられない。
中学も高校もバカなままギリギリラインで卒業した私には苦行以外の何物でもなかった。
実技も酷いもので、文字通り落ちこぼれのまま前期を過ごしてきた。
そんな中、担任教師が考えたチームメンバーで課題をこなし、それを発表する機会があった。
今まで学んできたことを必死に駆使し、元からのサボり癖とも懸命に付き合い、自分なりに本気を出した。
それでも失敗した。私よりもっと大変な立場の他メンバーに私の負担を追わせてしまった。
それが申し訳なくて、自分の不甲斐なさが憎くて、私は発表が終わった途端に泣いてしまった。
そして、この後のことはあまり詳しく語れないが、そんな私に追い打ちがクリーンヒットしたのだ。
読んでくださった方はありがとうございます。
読み飛ばした方もこの先を読んでくれるのですから、ありがとうございます。
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まだまだ未成年の私だが、生きてきた中で一番の絶望だったのではないかと思う。
もう全てが憎かった。教師も、親も、友人も嫌いになった。
通学路にある川に身を投げようかとか、終電まで時間を潰してそこで死のうかとか、とにかく死ぬことを考えた。
しかし、人に迷惑をかけてはいけない。元から人に気を使いすぎる性格である故、ここでも何故かそこだけは脳が働きたすかった。しかしここからの考えが愚かだった。
頑丈な縄やベルトを持って、樹海で死ぬべきである。もしくは自室で死ぬべきである。
そう思った私は、何を思ったかまずは残される人達に少しでも呪いをかけたくて、遺書のようなものを書いた。
好きな曲をランダム再生して、紙の端に「Playing:曲の名前(アーティスト)」なんて書いていた。どこまで風評被害を広めたかったのだろうか。
百均に売ってるルーズリーフに、100円以下の青インクのボールペンで「ありがとう」とか、「大好きだよ」とか「ごめんね」なんて書いたが、用紙を追加するに重ねて
「死にたくない」「でもこれでやっと皆と会わずに済む」「嫌いで嫌いで気が狂いそう」なんて呪詛に早変わりしたのだ。
本当に、書いてるうちに自分が何を思っているのかわかってくる気がするのだ。
そのまま、何も残さずに消えてしまう。
考え直す余地もなく、一直線に死を迎える。
そういう人はもう誰にも救えないのである。例えその人の母でも、好きな人でも、絶対に救えないのだ。もし救えたのなら、その人は「もう遅い」時期には達していないのである。
人間は考えることを辞めると死ぬことを躊躇わなくなるのだと、思う。
あなたが自殺を考えているということは、なにか理由があるのだと思う。
それはもうどうしようもないことかもしれないし、まだ手の打ちようがある事態かもしれない。
それを私に推し量ったり、どうにかしたりすることは出来ない。
だから私が言えることだけを伝えておく。
まず、どんな手を使ってでも1500円貯めよう。
私はダ〇ソーで万年筆を買った。ルーズリーフはもとから学校で使うために買っているものだ。
そして、家に帰ったら遺書を書こう。
まず、とにかく自分に関わった人の名前を書いて、感謝の念を伝えたり、先に死ぬことを詫びよう。
ペットでもいい、数年前に別れた恋人でも、嫌いな担任にも嘘でいいから「ありがとうございます」と書こう。
憎い家族、上辺でしか付き合ってない友人、いいように使ってくるバイト先、話を聞いてくれない担任に呪詛を吐くのだ。
「これがメディアに出た時、痛手を受けるだろうなぁ」と思いながら思いを込めてペンを持つのだ。
次第に、「なぜそんなヤツらのために自分が死ななくてはいけないのか」と考えるようになってきたら、もう少しである。
もしここでそう思えなかったら、非常に悲しいことだが私にはあなたを救えない。時間を無駄にさせてしまい申し訳ない。
「なぜ死ぬのか」を、「死にたくない」に変換出来ないだろうか。
だって、本当に何故あなたが退かなくてはいけないのか、私にはわからない。
あなたがボロボロの身体と心に鞭を打ち戦う義務があるかも私にはわからない。
本当はそんなことはないのではないだろうか。
そう思えたら、もうあとは残りの1000円で近くのコンビニやスーパーで自分の好きな飲み物や食べ物を買おう。上手くいくと、少し贅沢しても7品くらい買える。
帰ってきたら、それを飲み、食べながらもう一度遺書を見よう。
闘志のようなものが湧いてこないだろうか。湧いてこないようなら、もう1000円追加して、ガ〇トの一番高いパフェを食べて見てほしい。決して回し者ではない。
闘志が湧いてきたら、まずは休もう。
学校にしろ、会社にしろ、居なくても良いが、ベストなのはあなたの信頼出来る人と一緒に電話をかけることだ。
それをわかってくれたら、あとはその人の指示に従って適度な休息をとることであなたは救われると思う。
問題なのは、あなたの苦しさを理解できないバカでクソでゴミカスな人種である。
もうそいつらは救いようがないバカである。死ぬべきはそいつらである。
もうこうなってしまった以上、非常に癪だがあなたも同じ土俵に立つと勝負ができる。
学校や会社に遺書を送り付けたり、拠点の前にばらまいたりして、できる限り遠くへ出掛けよう。
帰る頃には大騒ぎになっているはずである。なっていなかったらもうダメだ、それも私には救えない。
長々と書いてしまったが、とにかく贅沢をして闘志を沸かし、それを糧に敵に思い知らせてやることである。
あいつらは人の命をなんだと思っているのであろうか。あなたのたったひとつの命で倒産する恐れもあるのに、何をのほほんとしているのだろうか。
あなたの苦しみをなんだと思っているのだろうか。
それを解らせてやってほしい。
私は、戦う人も戦えない人も、戦う気がない人も全て応援します。
こんな私の長ったらしい文章を最後まで読んでくれたあなたには、まだ生きてほしいと思います。
見てくれてありがとうございます。