「内向的」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 内向的とは

2023-11-01

anond:20231101003150

最近読んだ漫画非モテ男の思考がまさにこれだった

自分の周りが世界の全て

  

内向的?非社交的?にはよくあることなのか?

2023-10-29

anond:20231029121509

内向的で慎重で慎み深く派手な社交を好まないからではなく、メンヘラからだと思います

 

まぁメンヘラでもメンヘラ好物の人いますけどね

内向的で暗い人間応援されない

まりそれは肥満や近視のように矯正すべき障害であって

個性ではないということですね

2023-10-25

anond:20231025160111

欧米というよりアメリカ合衆国では? イギリス人アメリカ人のそういう所に辟易しているし、ドイツ人アメリカ人のそういう所にそもそも関心ないし(英語圏じゃないから知らん顔してればいい)、他のヨーロッパ諸国も似たようなもん。北欧人はもっと内向的東欧人はもっとイモで、、  

フランス人イタリア人は知らん

anond:20230917084540

欧米向精神薬を飲んでまで明るく躁病的に振る舞うことが1990年代に推奨されており、その後下水下流の魚から向精神薬が検出されたりして濫用問題になった。

一方でインターネットの発達により2000代以降は「内向的」、つまり人付き合いの悪い人が見直されている。

内向的な人は縁の下の力持ち(といっても、ストックオプションなどで大儲けしているのだが)。

家庭持ちパーリーピーポーバーベキューでウェイウェイしている間にしこしこと一人でグーグルamazonをつくっていたのだ。

内向的」が良い特徴としてとらえられるようこういう本を読むと自信がつくかもしれない。

https://www.amazon.co.jp/dp/B019WU2EXO/

あと内向的でも結婚はできる(グーグルamazonをつくった人も結婚している)。

しっかり金をとられるところで婚活して内向的な人、ほっといてほしいタイプの人を探すと意外と成功するかもしれない。

ただし増田内向的な人には向かない。悲観的にさせやす攻撃的極論逆張り巣窟である

他人が怒るかもしれない、いやむしろ必ず怒るだろう、予防しよう(=まわりくどく弱気に生きよう)。

そういう考え方を強く癖づけてしまうのがこの増田だ。

本読むよりさっさと増田はやく卒業してったほうが効くかもよ。

さびしかったらsudohaikuというサイトおすすめ増田とおなじidでつかえます

中学受験をしてない人生経験してみたかった

docomo配信サービス配信されている、とあるアイドルオーディションサバイバル番組にどハマりしてずっと見ている。過去シリーズまで追って、そこからデビューしたアイドルを推すほどハマっている。

そんな番組出会ってしまたことをきっかけに、自分人生について、過去に無いくらい考えて悔やんで分析して、を繰り返している。

両親のことは大好きだ。

奨学金なんて必要いくらいの収入があった父親専業主婦毎日「おかえり」と言ってくれる母親、3食おいしいご飯、たまの家族旅行、何一つ不自由なく育ててもらった。

中学入って以降は、私のやりたいことが私の成長に繋がるのならばと、できる限りを尽くしてやらせてもらった。

ガチャかい言葉だって必要ないほど恵まれ環境で育った。


でも、自分のことはびっくりするほど好きじゃない。

顔とかスタイルとか容姿ではなくて、人としての中身の問題だ。

根暗で、卑屈で、俯瞰してて、ひねくれていて、粘着質で、冷めていて、僻みがちな中身の問題だ。

絶対に生まれた時からこんなんだったわけじゃない。

少なくともまだ年齢の数字が1桁だったときは、明るくてよくしゃべる、放課後毎日遊びに行くような友達の多い子だったと思う。

それなのに変わってしまったのは自分の中で明確なターニングポイントがあって、それが「中学受験」だったと思っている。

身バレしたらしたで仕方ない。

ずっと抱えてきた贅沢な息苦しさを誰かに聞いてほしい。

から話す私の生い立ちがとんでもなく恵まれていることなんてわかってる。今から話す全てがとんでもなく甘いことなんてわかってる。無いものねだりの高望だってことだってわかってる。だから、この長くてまとまりのない文章をもし読んでくれるのであれば、この親不孝ものが、甘ったれが、クズが、って、思う存分バカにして反面教師にして笑ってほしい。


物心ついたときから、歌ったり踊ったり楽器演奏したりするのが大好きだった。

私の通っていた郊外幼稚園にはたしか必須クラブ活動があって、年少さんのときは親の意向で「お作法クラブ」に入れられた。お着物を着てお茶の飲み方を教わったり毛筆書道を並んで書いたり、素敵なことなんだけれど、3歳の私は幼いながらにかなり堅苦しさを感じていた。

クラスで一番仲の良かったおともだちがバレエクラブに入っているのがとても羨ましかった。ことあるごとに私もバレエクラブがいい、来年は変えて!と主張し続け、年中になった時には晴れてバレエクラブに入れてもらえたが、年長に上がった段階ではなぜかもとのお作法クラブに戻されていた。

幼稚園の3年間はクラブ活動とは別で習い事をしていた。英会話教室と、今は無きn田チャイルドアカデミー(n=7)だ。英会話教室は5歳になっても何のために何をやっているのかわからなかったのと、言葉先生に通じないのとでかなりストレスを感じていたと思う。

n田は、英会話教室なんかよりもはるかに何のために何をやっているのかわからなかったのと、毎日課される難解な宿題プリントと、自分習い事をどういうふうにおともだちに説明すれば伝わるのかがわからなさすぎて、何が何だかよくわからないまま終えた。

ピアノバレエを習っているおともだちがそれはそれは羨ましかった。


小学校に上がるタイミング関東の割と都会な地域引っ越した。その地域から無理なく通える範囲に高偏差値私立中高一貫校が2つもあり(以下A中学•B中学、A中学のほうがレベルが高い)、どうやら親はその学区の良さに惹かれてその地域に引っ越すことを決めたようだった。

n田の難解な宿題プリントはなぜか小学生に上がってからも続いた。学校宿題とは別で、毎日ノルマを課されていた。新しい学校で持ち前の明るさを発揮し、近所に友達もたくさんできて、遊びたい盛りだった低学年の私には、異常に難しい問題を怒られながら泣きながらこなすのは相当な苦行だった。

小学2年生になってからは、年に2,3回、大手中学受験塾のオープンテストを受けるようになった。気づいたら申し込まれていて、気づいたら受験票があって、気づいたら当日その塾に連れて行かれて謎のテストを解いている、そんな状態だった。n田の毎日プリントのおかげか、成績は相当良かった。

あなたはこれからA中学を目指すのよ、みんなと同じ隣の中学校にはいけないの。地元中学校に行くのはちょっとばかなのよ。と言われる(刷り込まれる)ようになる。

地域お祭りに行った時にステージで見た、小学生ダンスチームの発表がとてもかっこよく見えて、釘付けになった。家に帰ってから親にそのことを話し、「私もダンスやってみたい、習い事したい」とお願いをしたら、「5年生くらいになったらいいよ」と言われ、私はその言葉を信じて3年待ってみることにした。

風呂オリジナルの歌を歌ってみたり、適当な踊りを作ってみたり、自分カリスマアイドルとしてデビューするような妄想をしていたのもこの時期だったと思う。

小学3年生になってもオープンテストは言われるがままに受け続け、2月には「新4年生」としてついに入塾していた。ちょうどこの頃、近くの高校中高一貫ではない、以下C高校)の合唱部が私の小学校演奏会をしに来てくれて、その演奏の素晴らしさに感動し、ほのかにC高校に行きたい!という思いが芽生えた。


4年生になり、中学受験がはじまった。目標はA中学県内屈指の進学校を目指して塾通いが始まった。事前の数年間のオープンテストの結果、クラスは一番上になり、受験が終わるまでクラスが落ちることは一回も無かった。

自体はとても楽しかった。10数年経った今でも連絡を取り合うような大事な仲間もできたし、なにより当時は小学生にして他校に友達がいるという事実が誇らしかった。


常になにがなんだかわからないままテストを受け続けてついに始まった中学受験生活だったが、私の意識は常に「親に怒られるから仕方なく勉強している」だった。

今までは存在しなかった授業ごとの予習•復習の行程、難しい問題で躓き、とくに算数強敵だった。ほんとうに難しかった。

からなくて、理解できなくて、私の勉強のあまりの進度の遅さに怒られ、毎日のように殴られ、教科書を破られ、ノートを破られ、こっそり楽しんでいたニンテンドーDSliteは見つかって真っ二つに折られ、悔しさと意味のわからなさに泣き叫び、近所から苦情が入り、さらに怒られ、テストの点が悪いとため息をつかれ、そんな日々が3年間続いた。

受験直前にはもう燃え尽きていて、自習と嘘をついてショッピングモールに出かけたりもしていた。当然バレて、さらに怒られた。口も悪くなったし、このあたりから私も何かあるとすぐキレてしまうような難しい性格になった。


学校環境も少し問題だった。

小学4年生ともなるとだんだん人間味を帯びてくる。ヒソヒソ話や悪口友達グループ化が激化する。塾に行くようになってからは遊びに行くことも減り、放課後も付き合いがあるような友達も減った。

塾に行くようになったことで、授業中の発言普段言動に対して「いい子ぶってんじゃねーよ」「頭いいからって偉そうにしないでくれる?」と言われるようになった。

自分問題があるんだと思い、明るかったのが嘘のようにあまりさな子どもになった。実際何かしら偉そうに聞こえるような言動はあったんだと思う。

5,6年生のときクラス3分の1が中学受験をしている子たちだった。

学年の受験生がほぼ固められているにもかかわらず、次の担任中学受験に対する理解がまるで無かったので、日記帳を1日見開き1ページ書くという宿題毎日出た。

大体の日はそれにプラスしてワークなどがあった。当然、学校宿題の量と塾の与復習の両立に苦戦した。家ではそれが原因でさらに怒られた。

周りの受験生も学校宿題が大変と愚痴をこぼしていたので、私だけじゃないと知って安心した。

クラスで私を仲間はずれにした女子のことを陰で女王様揶揄っていたら、誰かにそれを担任にチクられ、授業をひとつ潰してまで説教された。

泣いて謝り許しを乞うまで説教は終わらなかった。世の中には私の味方なんていないんだと思った。

そういえば、2年生だったあのときから待ちに待っていた5年生になったので、めちゃくちゃダメ元で親に「ダンス、習わせてくれるんだよね…?」と聞いたら、何わけわかんないこと言ってんの勉強に集中しなさいと一蹴された。

中学受験中にダンスなんてやってる場合じゃないのはわかってはいたけど、それはそれでつらかった。

頭打ちの成績、勉強に対するやる気の無さ、新しいクラスでできた友達とも遊びたい、そんないろいろな要因が重なって、家庭内でも勉強をしたがらない私に対する怒鳴り声は常に飛んでいた。

怒られない日の方が珍しかった。

自分の気力、体力、学力には到底合わない高いレベルの内容には正直ついていけていなかった。

当然勉強は嫌いになった。少し理解できない問題が続くとなんでそんなにできないのと怒られ顔を引っ叩かれ毎日泣いて、ある日勇気を出して「受験をやめたい」と言ってみた。

親にはA中学B中学に行くとこんなにいいことがあるんだよお前の将来の選択肢が広がっていい大学にもいけるしいいところに就職できるんだよ、それはみんなは高校受験競争率が高い中やることだから中学のうちにやっておいた方がいいんだぞ、それでもお前は受験をやめるのかと言われたが、私はある日にはC高校に行きたいと自分意思で思ったんだから高校受験でそこを目指したいんだと強い意志を持って受験をやめる選択をした。

地元中学に行く奴はバカと言われて育って来たので少しプライドが許せなさそうだったが、それよりもこの受験生活が、「私のため」の名のもとに暴言暴力の飛び交うこの異常な家庭が嫌だったので、受験をやめる決断をできたことにほっとしていた。

後日優しい口調の親に丸めまれ、なぜか受験は続行することとなった。正直どうしてこうなったのか何も覚えていない。

結局中学受験は完遂し、A中学は落ち、B中学そもそも受験せず、家からは少し遠い第3志望のD中学入学することになった。

B中学よりはレベルの高い進学校だったので、A中学に落ちたことによってプライドが傷つくこともそこまでなかった。

中学に上がり、かねてより部活というものに、特に運動部に憧れがあったので、そのまま運動系部活に入った。

チアリーディング部はあったが、正直ヒップホップ系ダンスがやりたかったのと、小学生の時にあてられた記憶女子集団が完全に苦手になってしまったので、チアリーディング部には入らなかった。

これが「初めて自分で何かを選択できた瞬間」だった。

毎日練習が楽しくてヘトヘトになって帰ると、勉強する体力とやる気なんて残っていなかった。

最初地頭で乗り切っていた定期試験だんだん順位が落ちていき、高校に上がってから留年スレスレ彷徨うこととなった。

中学受験で完全に捻くれた性格が災いし、人間関係の構築は部活以外では皆無であった。

内向的になりかけていた自分性格さら内向的になり、何重にも殻に閉じこもるようになった。

順調に過ごす周りの同級生を見て、どうしてこの子達は同じ壮絶な受験経験しているはずなのにこんなに真っ直ぐで明るいのだろうと疑問に思っていた。

中高一貫校性質上、入学早々にやらかすとそこから卒業までは取り返しがつかなかったので、本当に部活の仲間以外の友達はいないに等しかった。

進学校勉強についていけないことと友達のいないストレスが相まって、学校の授業は休んだり遅刻したりすることが多かった。それでも部活時間には必ず練習場に行って、毎日練習には参加した。その甲斐あって、部活の方は最終的には目標だった県の上位層に食い込むことができた。

家庭では大学受験を見据えろとか勉強しろとかは一切言われなくなった。

流石に留年が危ぶまれた時は進級できるくらいにはなってくれとは言われたが、それくらいだった。希望ではないもの進学校に入れることができた満足と、あと妹の中学受験が始まっていたのも一因だったと思う。

結果的に妹は黙々と学習を重ね国内トップレベル中学入学したし、私は大学受験勉強を相当サボりつつも、運良く上位校と呼ばれるような私立大学のよくわからない学部に現役で合格した。

私の中学受験生活が酷すぎたぶん、妹には重い重い期待がかかっていてプレッシャーだったと思う。妹は妹で家庭でもあまり感情を出さずおとなしくして親の言うことを素直に聞いているように見えた。

姉のふり見て我がふり直せ、だったんだろう。

申し訳ないことをしたと思っているし、やはり我が家中学受験なんて向いてない家庭だと思っている。


半年に一回くらい、ボイストレーニング無料体験に申し込んで、無料体験レッスンだけ受講したことが何回かあった。ボーカリストオーディションとか受けてみたいなと思い調べることもあったが、一回も応募したことはなかった。



そして今、私は大学生をしている。

持ち前の勉強嫌いを発揮していくつかの単位を落としながら、中高でやっていた運動は続けながら、アカペラサークルミュージカルサークル所属してステージに立ってみたこともあった。

お金が想定よりかかったり、思ったよりも本気で音楽に向き合う人がいないいわゆる形だけのサークルだったりで、どちらもすぐ辞めてしまった。

そして、とある前世持ち練習生の存在きっかけに、冒頭に書いた某アイドルオーディションサバイバル番組配信に辿りついた。

が、その番組や前シリーズやそこからデビューしたグループを見ていくうちに、自分と同年代の子達がデビューに向けて取り組むのを見ていくうちに、何か動悸がするような、焦るような気持ちが抑えられなくなっていた。

大きいステージに立っているアイドルを見ていると涙が出てくる。

私もそっちに行きたいって。

アイドルを目指していたなんて言えるほどの努力は一切していないけど、ステージ表現して人の心を掴むということに対する強い憧れはずっと持っていて、悔しさがこみ上げてきて。

私の好きなアイドル10年を超えるダンス歴で、とにかくいろんなステージに立っていろんなオーディションを受けて大きな挫折も味わって、そんな長い下積みの末やっとデビューした。

その人が「小学生の時にダンスを習い始めて、そのおかげで内気だったのが明るい性格になった」とたびたび話していて、でもそれを聞くたびにすこし胸が苦しくなる。


中学受験じゃなくて、ダンスだったら?

私は音楽が好きで、自分で何かを表現たかったという気持ち絶対にずっとあって、それを無理に抑えてこなかったら?

中学受験の時のあの地獄のような家庭環境が無かったら、ダンスというずっとやりたかたことで自己表現ができていたら、もっとまっすぐな明るい子だったのではないか

小学校からダンスや歌を本格的にやらせてもらっていたら、私もあの番組ステージに立てたのではないか

私の勉強嫌いは完全に中学受験からきているわけで、それが無かったら別に高校受験からでもこの大学に入ることはできたんじゃなかろうか。勉強自発的にできるようになって、もっと良いところに行けてた可能性もあったんじゃなかろうか。逆も然りだけど。

今考えたらあの習い事クラブ活動も全部親の決めたもので、私の意思なんてこれっぽっちもなくて、全てが勉強につながるようなもので、だから今の私は勉強がとてもとでも嫌いだし、大学生になった今でも勉強自分のためではなくて新卒大卒獲得のためにやらされるものだと心の底では思っている。

中学受験の時の生活は今考えたら虐待だったね本当にごめんねと親は言ってくるけれども、明るかった小学3年生以前の私の性格はもう帰ってこない。

元の形の記憶を失うほどにねじれて拗れてズタズタになってしまったあの時の私から変われる気配なんてない。今から明るく優しい子になんてなれない。

家庭内でたまに言い方がきついと怒られそれがきっかけで大きな喧嘩になることもあるけれど、あの多感な時期に毎日怒られ怒鳴られ殴られ続けて親の口調が移らないわけない。私の口調と親の口調はびっくりするほどそっくりだ。


全部、中学受験のせいだと思ってしまう。


私のために全力でサポートしてくれたんだと思う。でも別に中学受験させてくれなんて頼んでなかった。あんな怒鳴り声と泣き叫ぶ声と暴力の絶えない家にしてくれなんて頼んでなかった。あんなんなるなら、地元中学でもよかった。


やりたいことなんて何もできなかったし私の話なんて微塵も聞いてくれなかったなと思ってしまう。


それでも、ここまで育ててくれて、私のことを考えて人生設計の手助けをしてくれて、中高大10年間の私立学費を惜しみなく出してくれた親には本当に感謝している。本当に恵まれた家庭で何ひとつ不自由なく育ったと思う。


それに、本当にダンスや歌がやりたかったなら、中学に上がったタイミング部活に入らずに、今度こそダンスを習わせてほしいボイトレに通いたいと親を説得することだってできたはずだ。そうしなかった段階でそこまで本気じゃなかったんだと思う。このことに気づいて、初めてあ

中学受験をしてない人生経験してみたかった

docomo配信サービス配信されている、とあるアイドルオーディションサバイバル番組にどハマりしてずっと見ている。過去シリーズまで追って、そこからデビューしたアイドルを推すほどハマっている。

そんな番組出会ってしまたことをきっかけに、自分人生について、過去に無いくらい考えて悔やんで分析して、を繰り返している。

両親のことは大好きだ。

奨学金なんて必要いくらいの収入があった父親専業主婦毎日「おかえり」と言ってくれる母親、3食おいしいご飯、たまの家族旅行、何一つ不自由なく育ててもらった。

中学入って以降は、私のやりたいことが私の成長に繋がるのならばと、できる限りを尽くしてやらせてもらった。

ガチャかい言葉だって必要ないほど恵まれ環境で育った。


でも、自分のことはびっくりするほど好きじゃない。

顔とかスタイルとか容姿ではなくて、人としての中身の問題だ。

根暗で、卑屈で、俯瞰してて、ひねくれていて、粘着質で、冷めていて、僻みがちな中身の問題だ。

絶対に生まれた時からこんなんだったわけじゃない。

少なくともまだ年齢の数字が1桁だったときは、明るくてよくしゃべる、放課後毎日遊びに行くような友達の多い子だったと思う。

それなのに変わってしまったのは自分の中で明確なターニングポイントがあって、それが「中学受験」だったと思っている。

身バレしたらしたで仕方ない。

ずっと抱えてきた贅沢な息苦しさを誰かに聞いてほしい。

から話す私の生い立ちがとんでもなく恵まれていることなんてわかってる。今から話す全てがとんでもなく甘いことなんてわかってる。無いものねだりの高望だってことだってわかってる。だから、この長くてまとまりのない文章をもし読んでくれるのであれば、この親不孝ものが、甘ったれが、クズが、って、思う存分バカにして反面教師にして笑ってほしい。


物心ついたときから、歌ったり踊ったり楽器演奏したりするのが大好きだった。

私の通っていた郊外幼稚園にはたしか必須クラブ活動があって、年少さんのときは親の意向で「お作法クラブ」に入れられた。お着物を着てお茶の飲み方を教わったり毛筆書道を並んで書いたり、素敵なことなんだけれど、3歳の私は幼いながらにかなり堅苦しさを感じていた。

クラスで一番仲の良かったおともだちがバレエクラブに入っているのがとても羨ましかった。ことあるごとに私もバレエクラブがいい、来年は変えて!と主張し続け、年中になった時には晴れてバレエクラブに入れてもらえたが、年長に上がった段階ではなぜかもとのお作法クラブに戻されていた。

幼稚園の3年間はクラブ活動とは別で習い事をしていた。英会話教室と、今は無きn田チャイルドアカデミー(n=7)だ。英会話教室は5歳になっても何のために何をやっているのかわからなかったのと、言葉先生に通じないのとでかなりストレスを感じていたと思う。

n田は、英会話教室なんかよりもはるかに何のために何をやっているのかわからなかったのと、毎日課される難解な宿題プリントと、自分習い事をどういうふうにおともだちに説明すれば伝わるのかがわからなさすぎて、何が何だかよくわからないまま終えた。

ピアノバレエを習っているおともだちがそれはそれは羨ましかった。


小学校に上がるタイミング関東の割と都会な地域引っ越した。その地域から無理なく通える範囲に高偏差値私立中高一貫校が2つもあり(以下A中学•B中学、A中学のほうがレベルが高い)、どうやら親はその学区の良さに惹かれてその地域に引っ越すことを決めたようだった。

n田の難解な宿題プリントはなぜか小学生に上がってからも続いた。学校宿題とは別で、毎日ノルマを課されていた。新しい学校で持ち前の明るさを発揮し、近所に友達もたくさんできて、遊びたい盛りだった低学年の私には、異常に難しい問題を怒られながら泣きながらこなすのは相当な苦行だった。

小学2年生になってからは、年に2,3回、大手中学受験塾のオープンテストを受けるようになった。気づいたら申し込まれていて、気づいたら受験票があって、気づいたら当日その塾に連れて行かれて謎のテストを解いている、そんな状態だった。n田の毎日プリントのおかげか、成績は相当良かった。

あなたはこれからA中学を目指すのよ、みんなと同じ隣の中学校にはいけないの。地元中学校に行くのはちょっとばかなのよ。と言われる(刷り込まれる)ようになる。

地域お祭りに行った時にステージで見た、小学生ダンスチームの発表がとてもかっこよく見えて、釘付けになった。家に帰ってから親にそのことを話し、「私もダンスやってみたい、習い事したい」とお願いをしたら、「5年生くらいになったらいいよ」と言われ、私はその言葉を信じて3年待ってみることにした。

風呂オリジナルの歌を歌ってみたり、適当な踊りを作ってみたり、自分カリスマアイドルとしてデビューするような妄想をしていたのもこの時期だったと思う。

小学3年生になってもオープンテストは言われるがままに受け続け、2月には「新4年生」としてついに入塾していた。ちょうどこの頃、近くの高校中高一貫ではない、以下C高校)の合唱部が私の小学校演奏会をしに来てくれて、その演奏の素晴らしさに感動し、ほのかにC高校に行きたい!という思いが芽生えた。


4年生になり、中学受験がはじまった。目標はA中学県内屈指の進学校を目指して塾通いが始まった。事前の数年間のオープンテストの結果、クラスは一番上になり、受験が終わるまでクラスが落ちることは一回も無かった。

自体はとても楽しかった。10数年経った今でも連絡を取り合うような大事な仲間もできたし、なにより当時は小学生にして他校に友達がいるという事実が誇らしかった。


常になにがなんだかわからないままテストを受け続けてついに始まった中学受験生活だったが、私の意識は常に「親に怒られるから仕方なく勉強している」だった。

今までは存在しなかった授業ごとの予習•復習の行程、難しい問題で躓き、とくに算数強敵だった。ほんとうに難しかった。

からなくて、理解できなくて、私の勉強のあまりの進度の遅さに怒られ、毎日のように殴られ、教科書を破られ、ノートを破られ、こっそり楽しんでいたニンテンドーDSliteは見つかって真っ二つに折られ、悔しさと意味のわからなさに泣き叫び、近所から苦情が入り、さらに怒られ、テストの点が悪いとため息をつかれ、そんな日々が3年間続いた。

受験直前にはもう燃え尽きていて、自習と嘘をついてショッピングモールに出かけたりもしていた。当然バレて、さらに怒られた。口も悪くなったし、このあたりから私も何かあるとすぐキレてしまうような難しい性格になった。


学校環境も少し問題だった。

小学4年生ともなるとだんだん人間味を帯びてくる。ヒソヒソ話や悪口友達グループ化が激化する。塾に行くようになってからは遊びに行くことも減り、放課後も付き合いがあるような友達も減った。

塾に行くようになったことで、授業中の発言普段言動に対して「いい子ぶってんじゃねーよ」「頭いいからって偉そうにしないでくれる?」と言われるようになった。

自分問題があるんだと思い、明るかったのが嘘のようにあまりさな子どもになった。実際何かしら偉そうに聞こえるような言動はあったんだと思う。

5,6年生のときクラス3分の1が中学受験をしている子たちだった。

学年の受験生がほぼ固められているにもかかわらず、次の担任中学受験に対する理解がまるで無かったので、日記帳を1日見開き1ページ書くという宿題毎日出た。

大体の日はそれにプラスしてワークなどがあった。当然、学校宿題の量と塾の与復習の両立に苦戦した。家ではそれが原因でさらに怒られた。

周りの受験生も学校宿題が大変と愚痴をこぼしていたので、私だけじゃないと知って安心した。

クラスで私を仲間はずれにした女子のことを陰で女王様揶揄っていたら、誰かにそれを担任にチクられ、授業をひとつ潰してまで説教された。

泣いて謝り許しを乞うまで説教は終わらなかった。世の中には私の味方なんていないんだと思った。

そういえば、2年生だったあのときから待ちに待っていた5年生になったので、めちゃくちゃダメ元で親に「ダンス、習わせてくれるんだよね…?」と聞いたら、何わけわかんないこと言ってんの勉強に集中しなさいと一蹴された。

中学受験中にダンスなんてやってる場合じゃないのはわかってはいたけど、それはそれでつらかった。

頭打ちの成績、勉強に対するやる気の無さ、新しいクラスでできた友達とも遊びたい、そんないろいろな要因が重なって、家庭内でも勉強をしたがらない私に対する怒鳴り声は常に飛んでいた。

怒られない日の方が珍しかった。

自分の気力、体力、学力には到底合わない高いレベルの内容には正直ついていけていなかった。

当然勉強は嫌いになった。少し理解できない問題が続くとなんでそんなにできないのと怒られ顔を引っ叩かれ毎日泣いて、ある日勇気を出して「受験をやめたい」と言ってみた。

親にはA中学B中学に行くとこんなにいいことがあるんだよお前の将来の選択肢が広がっていい大学にもいけるしいいところに就職できるんだよ、それはみんなは高校受験競争率が高い中やることだから中学のうちにやっておいた方がいいんだぞ、それでもお前は受験をやめるのかと言われたが、私はある日にはC高校に行きたいと自分意思で思ったんだから高校受験でそこを目指したいんだと強い意志を持って受験をやめる選択をした。

地元中学に行く奴はバカと言われて育って来たので少しプライドが許せなさそうだったが、それよりもこの受験生活が、「私のため」の名のもとに暴言暴力の飛び交うこの異常な家庭が嫌だったので、受験をやめる決断をできたことにほっとしていた。

後日優しい口調の親に丸めまれ、なぜか受験は続行することとなった。正直どうしてこうなったのか何も覚えていない。

結局中学受験は完遂し、A中学は落ち、B中学そもそも受験せず、家からは少し遠い第3志望のD中学入学することになった。

B中学よりはレベルの高い進学校だったので、A中学に落ちたことによってプライドが傷つくこともそこまでなかった。

中学に上がり、かねてより部活というものに、特に運動部に憧れがあったので、そのまま運動系部活に入った。

チアリーディング部はあったが、正直ヒップホップ系ダンスがやりたかったのと、小学生の時にあてられた記憶女子集団が完全に苦手になってしまったので、チアリーディング部には入らなかった。

これが「初めて自分で何かを選択できた瞬間」だった。

毎日練習が楽しくてヘトヘトになって帰ると、勉強する体力とやる気なんて残っていなかった。

最初地頭で乗り切っていた定期試験だんだん順位が落ちていき、高校に上がってから留年スレスレ彷徨うこととなった。

中学受験で完全に捻くれた性格が災いし、人間関係の構築は部活以外では皆無であった。

内向的になりかけていた自分性格さら内向的になり、何重にも殻に閉じこもるようになった。

順調に過ごす周りの同級生を見て、どうしてこの子達は同じ壮絶な受験経験しているはずなのにこんなに真っ直ぐで明るいのだろうと疑問に思っていた。

中高一貫校性質上、入学早々にやらかすとそこから卒業までは取り返しがつかなかったので、本当に部活の仲間以外の友達はいないに等しかった。

進学校勉強についていけないことと友達のいないストレスが相まって、学校の授業は休んだり遅刻したりすることが多かった。それでも部活時間には必ず練習場に行って、毎日練習には参加した。その甲斐あって、部活の方は最終的には目標だった県の上位層に食い込むことができた。

家庭では大学受験を見据えろとか勉強しろとかは一切言われなくなった。

流石に留年が危ぶまれた時は進級できるくらいにはなってくれとは言われたが、それくらいだった。希望ではないもの進学校に入れることができた満足と、あと妹の中学受験が始まっていたのも一因だったと思う。

結果的に妹は黙々と学習を重ね国内トップレベル中学入学したし、私は大学受験勉強を相当サボりつつも、運良く上位校と呼ばれるような私立大学のよくわからない学部に現役で合格した。

私の中学受験生活が酷すぎたぶん、妹には重い重い期待がかかっていてプレッシャーだったと思う。妹は妹で家庭でもあまり感情を出さずおとなしくして親の言うことを素直に聞いているように見えた。

姉のふり見て我がふり直せ、だったんだろう。

申し訳ないことをしたと思っているし、やはり我が家中学受験なんて向いてない家庭だと思っている。


半年に一回くらい、ボイストレーニング無料体験に申し込んで、無料体験レッスンだけ受講したことが何回かあった。ボーカリストオーディションとか受けてみたいなと思い調べることもあったが、一回も応募したことはなかった。



そして今、私は大学生をしている。

持ち前の勉強嫌いを発揮していくつかの単位を落としながら、中高でやっていた運動は続けながら、アカペラサークルミュージカルサークル所属してステージに立ってみたこともあった。

お金が想定よりかかったり、思ったよりも本気で音楽に向き合う人がいないいわゆる形だけのサークルだったりで、どちらもすぐ辞めてしまった。

そして、とある前世持ち練習生の存在きっかけに、冒頭に書いた某アイドルオーディションサバイバル番組配信に辿りついた。

が、その番組や前シリーズやそこからデビューしたグループを見ていくうちに、自分と同年代の子達がデビューに向けて取り組むのを見ていくうちに、何か動悸がするような、焦るような気持ちが抑えられなくなっていた。

大きいステージに立っているアイドルを見ていると涙が出てくる。

私もそっちに行きたいって。

アイドルを目指していたなんて言えるほどの努力は一切していないけど、ステージ表現して人の心を掴むということに対する強い憧れはずっと持っていて、悔しさがこみ上げてきて。

私の好きなアイドル10年を超えるダンス歴で、とにかくいろんなステージに立っていろんなオーディションを受けて大きな挫折も味わって、そんな長い下積みの末やっとデビューした。

その人が「小学生の時にダンスを習い始めて、そのおかげで内気だったのが明るい性格になった」とたびたび話していて、でもそれを聞くたびにすこし胸が苦しくなる。


中学受験じゃなくて、ダンスだったら?

私は音楽が好きで、自分で何かを表現たかったという気持ち絶対にずっとあって、それを無理に抑えてこなかったら?

中学受験の時のあの地獄のような家庭環境が無かったら、ダンスというずっとやりたかたことで自己表現ができていたら、もっとまっすぐな明るい子だったのではないか

小学校からダンスや歌を本格的にやらせてもらっていたら、私もあの番組ステージに立てたのではないか

私の勉強嫌いは完全に中学受験からきているわけで、それが無かったら別に高校受験からでもこの大学に入ることはできたんじゃなかろうか。勉強自発的にできるようになって、もっと良いところに行けてた可能性もあったんじゃなかろうか。逆も然りだけど。

今考えたらあの習い事クラブ活動も全部親の決めたもので、私の意思なんてこれっぽっちもなくて、全てが勉強につながるようなもので、だから今の私は勉強がとてもとでも嫌いだし、大学生になった今でも勉強自分のためではなくて新卒大卒獲得のためにやらされるものだと心の底では思っている。

中学受験の時の生活は今考えたら虐待だったね本当にごめんねと親は言ってくるけれども、明るかった小学3年生以前の私の性格はもう帰ってこない。

元の形の記憶を失うほどにねじれて拗れてズタズタになってしまったあの時の私から変われる気配なんてない。今から明るく優しい子になんてなれない。

家庭内でたまに言い方がきついと怒られそれがきっかけで大きな喧嘩になることもあるけれど、あの多感な時期に毎日怒られ怒鳴られ殴られ続けて親の口調が移らないわけない。私の口調と親の口調はびっくりするほどそっくりだ。


全部、中学受験のせいだと思ってしまう。


私のために全力でサポートしてくれたんだと思う。でも別に中学受験させてくれなんて頼んでなかった。あんな怒鳴り声と泣き叫ぶ声と暴力の絶えない家にしてくれなんて頼んでなかった。あんなんなるなら、地元中学でもよかった。


やりたいことなんて何もできなかったし私の話なんて微塵も聞いてくれなかったなと思ってしまう。


それでも、ここまで育ててくれて、私のことを考えて人生設計の手助けをしてくれて、中高大10年間の私立学費を惜しみなく出してくれた親には本当に感謝している。本当に恵まれた家庭で何ひとつ不自由なく育ったと思う。


それに、本当にダンスや歌がやりたかったなら、中学に上がったタイミング部活に入らずに、今度こそダンスを習わせてほしいボイトレに通いたいと親を説得することだってできたはずだ。そうしなかった段階でそこまで本気じゃなかったんだと思う。このことに気づいて、初めてあ

2023-10-21

anond:20231021130617

やっぱりこういうの大学経験しておくべきだよな。頭のレベルもおおむね同程度だろうし

元増は内向的なのがネックなんだろうな

2023-10-13

anond:20231013224355

頭いいけど、知識をひけらかす輩もいるしな

この辺は内向的性格かどうかが大きい気がする

2023-09-26

内向的性格に生まれたせいで人生がぐちゃぐちゃになった

2023-09-09

友達と言える人が人生で一人もいたことがない」夫の話

増田32歳、夫33歳。長女3歳。

夫曰く、「友達と言える人が人生で一人もいたことがない」らしい。


夫と出会ったのは婚活サービスで、わりと早いうちからそう漏らしていたんだけど、話半分に流してしまっていた。

だって友達が多い方ではないけれど、友達の支えみたいなのを一切なく生きてきた人がいるなんて信じられなかった。


でも結婚式ときに「家族と親戚以外に呼べる人が一人もいない」と言って、ご両親と祖父母、弟さん、叔父さん夫婦の7名が最大人数だった。

私は地元友達も呼びたかったし、夫も別にいいよと言っていたけど、流石にバランスが悪すぎるので結局うちの方も親戚だけを呼んだ。


私は他県から大学進学を機に定住したけれど、夫は地元まれ地元育ち。結婚してから夫の実家からキロ程度の場所アパート暮らし

地元友達がいてもよさそうなものだけど、少なくとも自分出会ってから以降の6~7年で、夫が友達と出かけたり食事に行ったりすることは一度もなさそうだった。

休みの日に出かけることや家に連れてくることはもちろん、飲みに行ったことも一度もない。

夫曰く「うちは飲み会とかやらない職場から」というが、仕事飲み会すら行ったことがない。


趣味読書映画鑑賞。私が仕事で夫が休みの日は、私の出勤に合わせて起きてから私が帰宅するまで食事も取らずに延々とアマプラ映画を観ていたこともあった。

ただ内向的インドアな人ではあるが、別に人当たりが悪いわけでもコミュニケーションに極端な難があるわけでもない。

飲食店員、宅配業者、不動産屋等々との応対も腰低めに丁寧な対応だけど、質問とかはちゃんとするし言われるがままって感じではない。

商業施設で夫の職場の同僚に出くわしたことが数回あるのだけど、そのときもわりと明るい感じで挨拶と会話を少ししていたので、別に嫌われたり無視されたりしているわけでもなさそうな印象。

たぶん会社でも当たり障りないのない付き合いはしてるんじゃないかな。


しかするとネット上に友達がいるのかも、とも思ったけれど、ソシャゲオンラインゲームSNSもやってる様子はない。(もちろん増田も)

絶対にいないとは言い切れないけれど、そうだとしたら彼の性格上、「友達がいない」じゃなくて「ネットにいる」って言いそうだなとは思う。


きっと、友達ができないんじゃなくて、意図的に人との関わり合いを避けているんだと思う。

結婚式ときだって会社の偉い人や上司に頼み込めば誰かしらは呼ぶことができたんじゃないかな。

でもそうしないのは、他人と関わりを持つことを極力避けているんじゃないか

屋外レジャーとか、食にも興味が薄い。自分の好きなものだけあればいいってタイプだ。


まあそういう人もいると思うけど、不思議なのが婚活サイト登録してまで結婚しようとしてたこと。

どうして結婚したのか、なんだか怖くて聞けないでいる。


娘には「お友達と仲良くね」なんて言っている。

夫も別に自分スタンス強要するつもりはなく、一般的っぽいことを口走っているんだろうけど、空虚に聞こえる。


別に離婚したいとか、いまからでも友達を作ってほしいとかは一切ない。彼の持つ不思議雰囲気も魅力だと思ってる。

ただ繋がりをほとんど持たない人だから、ある日ふっ、といなくなってしまうんじゃないかって無性に怖くなることがある。

10年、20年と時間が経てばこの不安は消えるのだろうか。

これ。

2023-08-17

素人考えだけど

内向的で数年間会話なし引きこもり生活でも平気

人間より物言わぬ動物遊んだりお世話したりの方が好き

動物は無理にモフったりせず観察を楽しむ

みたいな人の方が育児に向いているのでは?

しかしそういう人に限って結婚していないのって人類バグでは

2023-08-11

バービー』の監督グレタ・ガーウィグって『ストーリー・オブ・マイライフ』の監督だったのか…

自分子供の頃に読んだ『若草物語』の続編で、『若草物語』では次女ジョーといい雰囲気だったお隣さんのローリー破局し、ローリーは四女エイミーと結婚するという展開だったので

NTRやんけー!と絶望に陥った映画の。

あれってほんと『若草問題』ではおてんばで頭の良い女の子のジョンと内向的で優しい男の子ローリーという、旧来のジェンダー感の逆をいく先進的で魅力的なカップルだったのに

しかもそれだけならまだしも、ジョーの方は父親ほども年の離れた年上の大学教授結婚し、良かったね跳ねっ返りのお転婆娘も良き妻の座に収まったよ!ってオチ

キモキモキモキモキモすぎるうぅぅ~!!

なにがフェミニズムだよマジふざけんな!宣伝詐欺にも程がある!と映画館で叫びたくなったやつ!

ローリー役のティモシー・シャラメが美しいイケメンで、尚更ジョーとの恋を期待して見に行ったらこんな仕打ちを受けるなんて。

主人公を同世代イケメン破局させて父親のようなジジイ押し付けて家庭に収めるエンディングの、一体何処が女性へのエンパワーメントなの!?

結局女の子は自立して強く生きるんじゃなくて年上の男性庇護されて籠の中の安寧を享受するのが幸せだっていう

時代的な反フェミニズムメッセージを感じる映画だった

……まぁそれは原作小説自体がそういうストーリーなんだけど、敢えてそういう作品原作とした映画監督を引き受けるって時点で

この監督フェミニズムや反家父長制への信念が表面的なおためごかしだってのが感じ取れる

ストーリー・オブ・マイライフ』はtwitterかどこかで、同時期に公開されてた『ハリエット』と比較され、

白人女の子が恋や職業選択に悩む時、黒人女の子は命や尊厳危険に脅かされていると語られていたのが印象に残っている

この監督はまさにその時感じたのと何一つ変わっていないホワイトフェミニストなんだと思う

2023-08-07

妻に数学を教えてみた

数年前に結婚した妻を観察した結果をどこかに殴り書きしたく、結論のない文章を投下してみる。

私の妻は体力がなく、自分に自信がなく、内向的

良い国立大学文系出身なので勉強はできたはずなのだけど、勉強自体コンプレックスがあった様子。

特に数学に苦手意識がある。

まぁお互い30歳を超えているので、いい年の大人高校勉強どうだったのかなんて話すのはアレな気はするが、

思春期記憶は強く人格形成に影響するらしく、数学っぽい話をすると拒否反応みたいなのが起きてしまう。

自分理工学部出身なので結構楽しく数学の話をする時があるが、そういうのを見て自分との差を感じて一人で辛くなってしまうらしい。

思い切って教科書取り扱いのある販売店に行き、数学教科書を買ってみた。

ちなみに高校教科書はすべての書店にあるわけではないが、教科書取り扱いの販売店なら一般の人にも売ってくれる。アマゾンでも買える。

買ったのは数研出版高等学校シリーズで、教科書によって難易度の差があるのは知っていたが、何でもいいかなと思って目についた標準っぽいのを買った。



妻の数学理解度確認してみると、数学1の二次方程式の解き方・不等式の解き方についてはかなり鮮明に覚えていた。

躓きポイント数学2から三角関数指数対数のあたりっぽい。

観察の結果、定義定義として受け入れるときに、なぜそうなっているのか?というのを真っ先に考えてしまい、

まり無味乾燥と感じる状態では理解拒否反応を示してしまう、というのがあった。

例えば指数関数で、 (a^x)^y = a^{xy} なんだよ、というのを理解するのにどうして?というのが真っ先に思い浮かんでしまう。

学者はまず定義を受け入れて、いろいろな練習思考を重ねていくうちにどうしてその定義になっているのか、という順序で考えたほうがいいと思うのだが、

この順序でなかなか物事を考えられない。

定義がどうしてそうなっているのか、はある程度それ自体に親しまないとわからなかったりする。



こういう時は具体的な例を列挙して、これがただしそうだよね?という話をしてあげる。

こういうときは、実験を観察を繰り替えす自然科学のようなアプローチがいいと思っている。数学はもちろん論理的に厳密な学問なので定義の積み重ねの上だけでも議論できると思うのだが、高校の基礎レベル理解だと体で納得できないといけないこともあると思う。

たとえば(a^x)^y = a^{xy} の正しさの確認なら、

(a^2) ^ 3 は a^2 * a^2 * a^2 = a * a * a * a * a * a = a^6 みたいに具体的な数をあてはめて、合っているねというのを見ていく。


なんとなくこの定義でいいんだ、というのがつかめてきたらそれを定着させるべくたくさん練習問題を解いてもらう。

大切なことは、一度挫折している人なので、事あるごとにほめること。

たすき掛け早い!理解が速い!いいね、合ってる、などとにかくポジティブにほめる。

逆にどれだけ学生時代に自信を失わせるようなことがあったんだと想像してしまう。

女子学生は昔から勉強してない自慢したり、集まってヤバイヤバイと言い合って安心する、みたいなことがあったと思う。

出来なければテストで悪い点を取り、親から先生から怒られて、自信を無くすとどんどん数学自体に向き合えなくなっていってしまう。

数学に向き合えないと、勿論数学ができなくなっていき、授業も何言っているのかわからなくなり、ついていけている子から日を追うごとに差をつけられてしまう。

妻の数学を見ていて思うのは、計算ミスが多いということだ。

計算ミスが多いから、本質的問題理解時間を割くことができず、学びもうまくいかない。

最初数学が得意になるかどうかの分かれ目は、少しワーキングメモリーが大きいとか、少し注意深いとか、少し計算が速いとか、そういう差なのかもしれない。

とりあえず数2の範囲については章末問題が全て解けるようになった。

こころしか最初のころは私に「トラウマに向きあえ~~」と言われてイヤイヤやっていた感じがあったけども、自分ができるようになる過程を楽しんでいる感じがある。

別に彼女仕事には今更高校数学を振り返っても役に立つわけではないが、週末には数学をやるのが定着してきた。

そのうちどこかの大学入試問題を一緒に解いてみようか。自信にもなるだろう。

何歳になっても学ぶことは良い。

2023-08-05

人の気持ちがわかるようになる

母親子どものことをよく分かっていて、息子の言い訳から本音を瞬時に見抜き寄り添った一言を発する…みたいなシーンを20代の頃本で読んだ。

母親ってスゲーな、こんなん何で分かるようになるんだと思っていた。しか自分がその年代となった今、確かによく分かる。

これは母親からというより、経験だと思う。

当時、私は人の気持ちが良く理解できないと思っていた。それなのに仕事では信じられないくらいの量の人々に会っていた。特定の界隈ではなく、ノンジャンルだったので本当に色んな人がいた。

気持ち分からんな、どうしてそんなことをするのか、と悩んでばかりで、良く考え込んでいた。

ずーっと分からないまま過ごし、それが理由ではないがその仕事退職した。

今は新しい場所で違うことをして過ごしている。

また、色んな新しい人と出会っているのだが、その人がどういう人か手に取るように分かるようになってた。

夕飯何にしようと思っているか言い当てるとかそんなことはムリなのだが…

パターンというのだろうか、今まで大量に築いてきた事例がパターン化されたという感じ。

私は内向的性格だったので、就職するまでは大勢が苦手で限られた慣れた人としか話してこなかった。

おそらく社交的な人は、色んな人と付き合うのでパターン化が早いのだろう。私はそれが遅れてやってきたのだと思う。

母親は、うーんまぁその本ちょっと古かったから、おそらく専業主婦だったのだと思う、それで子供を観察する時間父親より長くて、パターン化が進んでいるという事情だと考えられる。

このスキルかに活かせないかなぁ…まぁ、いまのところないんだが…

2023-08-03

一部のアメリカ人が本当に嫌い

ある子供が「アメリカのことを知りたい」と言って、アメリカ人をフォローしていた。

そこでアメリカ人が言ったことを覚えている。

奴らは「あのガキはネズミだ」などといい「ネズミアメリカのことを嗅ぎ回っている」と言い始めた。

アメリカ尊敬して知りたいと思ったのにその仕打ちか?

イーロン・マスクは「マウストラップ、鼠の男の娘!」などと言ったが、面白くはないな。それがアメリカンジョークか?

一方でフォロワーが極めて少ないような、謙虚にやっている内向的オタクアメリカ人は割と好感を持てるので、

当該のアメリカ人が頭に血の登りやすい愚かなタイプなのかどうかは見極めたほうがいい。

ああ、言っとくが俺が中国韓国のことはそれ以上に嫌いであることは言うまでもない。

2023-08-02

anond:20230802173655

MBTIでアメリカ人の一番多いのがISTJだと知って驚いた覚えがある

割と内向的な人が多く、インターネットで有名になっているようなナルシスト発狂インフルエンサーをみて「あれはアメリカ人だ」と言うのはそもそも認識エラーという気はする

2023-07-11

私自

最近調子が悪く、「自分に向き合う」ということをせざるを得なくなった。私はずっと自分直視することから逃げてきた。

幼い頃に両親が離婚し、私は母親と母方の祖母に育てられた。母は父親から慰謝料を受け取ることを拒否し、公務員として働きながら私を大学に進学させてくれた。家は過疎地帯の小さな町にあり、まともな進学が叶う高校へは片道1時間かけて通う必要があった。祖母は60歳で余命半年を宣告されるレベル胃がんを患った。寛解はしたが、体力的には勿論大きなダメージがあっただろう。しか祖母毎日5時に起き、私を起こして朝食を食べさせてくれた。

私は物質的には何不自由なく育てられた。勉強ができることを常に歓迎されたのも、私が女であることや時代地域性を考えればとんでもない僥倖だ。母も祖母も(田舎人間としてはかなり)知的好奇心教養を重んじる気持ちが大きく、そういう家で育てられたことも幸運だった。ただ、嫌なことも山ほどある家だった。

祖母は80歳を過ぎるまで苛烈自意識を悪気なく振りまき続けた。とにかく華やかなものや高級感のあるものに目がなく、目立つことが好きで驚くほどの見栄っ張り。そして私からすると異常に闘争心が強かった。祖母にとって他人は「常に勝つべきであり決して負けてはならないもの」「自分を当然に認めて賛美するもの」「自分のお眼鏡にかなうのはほんの一握りしかいないもの」と認識されていた。そして厄介なことにこのような性質を全く客観視できず、自分の考え方に沿わない人間は「馬鹿」もしくは「おかしい」とジャッジした。孫の私でさえもだ。

物心ついた瞬間から私は常に周囲の子たちと比較され、劣っている点を突きつけられた。ゆきこちゃんのように可愛らしくない。さきちゃんみたいに上手な字を書けない。ようこちゃんと違って美人じゃない。ともかちゃんのように性格が良くない。めぐちゃんみたいに明るく如才なく人と接することができない。みゆきちゃんみたいな勝ち気さがない。かなちゃんみたいに女の子らしくない。話はいつも「おばあちゃんは、ああいう子がよかった」と締め括られた。祖母の考えでは、私が奮起して「よし、頑張ってあの子を超えてやる!」とがむしゃらな努力をするはずだったのだと思う。でも私は祖母じゃない。他人と争うのが何より嫌いな、内向的人間だ。生まれたのは燃えるような向上心などではなく、凍えるような自己否定感と身を焦がすような憎しみだった。憎しみは祖母に向かい名前を挙げられた女の子たちに向かい祖母を止めない母親に向かい自分にも向かった。

はいつも祖母の虚栄心を満たす在り様を求められた。勉強ができるという点は合格、他は総じて不合格容姿趣味人間性も。私が太っていて内気で運動が苦手で片付けができなくて愛想が良くなくて放っておくと黙っている子供であることが「恥ずかしい」と祖母はいつも言っていた。大学時代一時的な過食傾向に陥ったことがある。7キロくらい太って帰省した私に、恥ずかしいから日が高いうちは近所を歩くなと祖母は言った。心配はされず、「どうしたの」「何かあったの」と訊ねられすらしなかった。私は常に祖母の虚栄心を損なう悪者だった。

肝心の学業成績も褒められたことは皆無だった。1位じゃない、満点じゃない、進学先がトップ校じゃない。それを論拠に「私の血縁者だけあって頭が悪くはないが、取り立てて優秀でもない子供」と判断された。何かができるようになると、次の瞬間には「それじゃあ次は」と言われ続けた。ゴールがない。苦しかった。

私の母は、その祖母の娘である。私が1歳に満たない頃に私の父親と別居を始め、実家に出戻った。

土地二束三文で買える田舎町にある実家敷地が広く、母屋と離れがあった。離れは母屋より小さいが、リビングとベッドルームと和室ひとつ風呂台所もあった。母はそこに住んだ。私を母屋に残して。役所勤めから帰ってきて、母は毎晩ひとりでレコードを聴いたり古い映画を観たり純文学を読み耽ったり、妻のいる男の人と長電話をしたりして過ごした。平日に私が母と会話できるのは、彼女が許した1、2時間だけだった。それが限界だったのだろう。

母が娘に求めたのは豊かな感受性、繊細さ、抑制が効いていながら豊かな感情表現、心の優しさと清らかさ、従順さ。母の心情に関心を寄せ、いつも注意深く観察し斟酌し、そこに寄り添い肯定すること。母はそれを「素直」というタームで表現した。私は小さい頃から「素直じゃない」と詰られた。自分を偽ってもいないのに素直じゃないと言われるのは心底不可解だった。4歳か5歳の誕生日、私は母からメッセージカードを貰った。「○○ちゃん、たんじょうびおめでとう。○さいのテーマは、すなおになることです」。そう書かれていた。そこから先は「素直とはどういうことか」が説かれていたが内容は忘れた。心臓が止まるかと思うほど嬉しくなかった。

母は癇癪持ちで、定期的に不機嫌の発作を起こした。自分不手際が契機となり、怒鳴られ人格否定され「縁を切る」「家から出ていけ」と言われ、数日間まともに話してくれない。そういうことが日常的にあった。ヒステリーを起こすきっかけなど何でもよかったんだと気づいたのは実家を離れて何年も経った後だった。天災のように気まぐれに降りかかる不機嫌の発作を、子供だった私は心を殺して耐えることしかできなかった。

小学校5年から学校いじめの標的になった。担任女性教師から私はすこぶる嫌われていて、ほとんど彼女の主導のもとに王道いじめを受け続けた。中学は町に一つしかなく、選択余地がなかった。その女性教師の夫が進路指導主任を務める公立中学に進学した。いじめの続きは入学初日から始まった。合計で5年間、私は一日も欠かさず死にたい死にたいと思いながら生きた。

家族に言っても碌なことにならないと子供心に判断していたが、耐えきれずに吐露したことが2回だけある。最初祖母に。「そんなのやり返せばいいだろう」と私の弱さを叱責されて終わり。予想どおりだった。絶望はしたがショックではなかった。母に話したのはしばらく後。おそらく苦しくて仕方なかったのだろう、母がいる離れの呼び鈴を夜中に鳴らした。泣きながら「もう何年も学校いじめられている」と話した記憶がある。母は私を離れの中に入れなかった。玄関先で立ち話をした。片親であることを攻撃されていると話した。「それが何だ」と母は言った。わたしなんか学生運動いちばん盛んな頃に短大に進学して、父親警官だって言ったら「お前、『犬』の娘か」って嗤われたんだから。どんなに嫌だったかお前に解るか。腕組みしてまくしたてる母を冷えきった気持ちで見ていた。

それから長い年月が過ぎた。

祖母は80過ぎで二度目の癌を患った。退院した頃から加速度的に穏やかになり、最終的には少し気弱で優しく品のいい老婆として94年の人生を終えた。亡くなる数ヶ月前に実家で倒れて寝たきりになり、帰省した私が「おばあちゃん、私のことわかる?」と問いかけると「わかるに決まってるだろう、たった一人の孫だもの」と必死に笑みを浮かべて私に答えた。帰り際には「そんなに肌が綺麗だったっけ」と言われた。私の見た目を褒めるなんて、おばあちゃん目が悪くなったんじゃないの?と笑って憎まれ口を叩き、来月も来るからねと告げて東京に帰った。それが最後の会話だった。

母は合わない職務鬱病を患い、50歳を前に役所を辞めた。その数年後には妻子持ちの男とも別れた。相変わらず自意識過剰で感情的で面倒な人だ。でも面白い知的好奇心を保っているのも心強いし、化粧っ気は全くなくなってしまったが今でも綺麗だ。私は母の顔と字が無類に好きだし、無類に好きなところは他にもたくさんある。今はそう思う。

私は中年になった。自分と向き合うことから逃げ続けたままで。

この度よくよく自分の内心を見てみたら、あまりに汚く混乱していて自分でも驚いた。段階的に補強してきた自己肯定感は思っていたよりもまだまだ脆い。自分憐れみ庇う気持ちはあるが、これを自分への愛と呼べるだろうか。するべき(と思われる)ことは容易に把握できるのに「したい」ことは分からず、なのに無欲ではない。綺麗になりたい。痩せたい。頭が良くなりたい。お金がほしい。休みがほしい。美味しいものを食べたい。俗な欲求は人並み以上だ。それを捨てることも開き直ることもできない。

脳内には14歳の私が世界万物に向かって「私に謝れ」と怒鳴る声が反響している。それを恥じて隠蔽しようとしている成人の私がいる。隠蔽しようとする私を「卑小でつまらない人間だ」と蔑視する私もいる。世界観のベースに「私は素敵な誰かの下位互換であり欠陥品だ」という根深い諦念がある。刷り込まれ規範は私の血肉となっていて、私はそれを憎悪しながら切除できない。「本当の自分」とは何か、皆目見当がつかない。

ならば、その正体不明の混乱しきった人間を許してやろうかな、と考え始めた。そしてあわよくば愛してやりたいと。

私は凡庸だ。狭量だ。いろいろと不出来だ。根気がなく三日坊主だ。いい歳して自意識過剰だ。かっこわるい。けれど、別にそれでもいい。誰に馬鹿にされても見下されても、私は「なんでよ、別にいいじゃん」とケラケラ笑いながら私自身を全力で抱きしめる。

それは、世界でただひとり私にしかできないことだからだ。

2023-07-10

求人情報を"内向的"で検索すると意外と"内向的な方はNG"が多い

怖くて泣いちゃった

2023-07-09

漫画おやすみプンプン

・噂に違わぬレジェンド作品

・読む前は内向的で卑屈な人種共感させるタイプ作品かと思ったけど

プンプン、イケメンで頭良くてモテるじゃねーか!の感じ、

人間失格と似てるな…って思った

清水君と関君の関係、良質な闇→薄明のBLすぎ

・神作家の描く遺体を捨てに行くカプ描写、流石過ぎる

圧が違う

2023-06-12

性格の不一致だけで離婚は甘いだろうか

夫のいいところ

ギャンブルしない、酒飲まない、女遊びしない

連絡マメ、堅実、大手勤務、モラハラなし

嫌いなところ

セックスレス、互いの友人と交流するのを嫌がる、そもそも友達ほぼいない、内向的受け身、子の扱いが雑、人生向上心がない、他人に興味がない

しかけても私含む他者に興味がないため会話が広がらない

暴力など致命的ななにかがないので決断しきれずずるずる結婚生活続けているが毎日強い孤独感がある

いっそのこと浮気でもしてくれたら別れを決断できるのにと思ってしま

2023-06-10

メンタルおかしいかもしれない

今めちゃくちゃ人生楽しい

今まで散々パワハラしてきた上司にも愛想良く接することができる。

マッチングアプリ積極的に人と会ったりもしている。

連続して夜更かししてから出勤しても全然平気だし、食事をとるよりも何か自分の好きなことをしていたいという気持ちが勝る。

ただ、問題なのは急にこのような状態になったことだ。

2週間前まで私は正反対状態だった。

10時間寝ても異常なほど眠いし、パワハラ上司を許せずに反抗的な態度をとって周囲の雰囲気を最悪にしてた。そしてとにかく内向的でできる限り人と関わりたくなかった。日々に死にたいと思ってたし仕事夏のボーナスが来たら辞めようと思っていた。

1番ひどい時は1日数回吐いていたし、目眩がして立てなかったし、身の回り全てが不安で仕方なかった。何か少しでと気になることがあると「死ぬかもしれない」という恐怖に襲われていた。

だが今は人生ハッピー状態なのである。急な変化が怖い。もしかして躁鬱か?

それとも別の影響でハイになってる可能性もあるのかな。

思い当たるとしたら、鬱状態(仮)から躁状態(仮)に切り替わる時期に筋トレを始めたりマッチングアプリを初めて気になる人ができたりしたんだけどそれも関係あるのか?

私が覚えている限りでは2021年2月から2021年10月頃までも同じようなハイ状態になっている。

ただ、11月に近親者の死や上司パワハラなどがきっかけでどんどん落ちていった。

2年に1度ハイになる性質なのかなあ。

とにもかくにも今は人生楽しいからいいけれど、またメンタルが落ちていく可能性を考えると怖いよ。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん