はてなキーワード: LIKEとは
逆にさわいでることで「装置メーカーの米国市民権持ち中国人」は全員スパイですって白状したように聞こえてしまう
Ah, a Chinese national with U.S. citizenship for an equipment manufacturer.
Well, that doesn't sound like it would have much of an impact on the anti-spying side of things.
As far as the spies are concerned, it's a big deal.
But as a country, it seems to me that it's self-defense to go through the process in order.
On the other hand, by cheering, it sounds like they're admitting that they're spying on all "Chinese nationals with US citizenship who are equipment manufacturers.
https://www.nytimes.com/books/best-sellers/business-books/
https://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/466282
サブタイトルとか除いたら大して変わんなくね?
B&N調べ今週のビジネスカテゴリ新刊『100 Stocks That a Young Warren Buffett Might Buy: Proven Methods for Buying Stocks and Building Wealth Like Warren Buffet and Charlie Munger』「せやろか」
『You Negotiate Like a Girl: Reflections on a Career in the National Football League』「せやろか」
『When McKinsey Comes to Town: The Hidden Influence of the World's Most Powerful Consulting Firm』「せやろか」
海外の作品を評価するヤツもご家族の教育が前提だぞ。ネタでもやめて欲しい
日本のコンテンツの倫理観は終わってるんで。せめて下記のような評価の指針を持ってからにしよう
Positive message や Positive Role Model という概念
- Positive message
- Positive Role Models & Representations
- Violence & Scariness
- Sexy Stuff
- Language
- Consumerism
- Drinking, Drugs & Smoking
- WHAT PARENTS NEED TO KNOW
- TALK TO YOUR KIDS ABOUT ...
例えばポケモン ↓
WHAT PARENTS NEED TO KNOW
Parents need to know that the long-running Pokémon series is based on characters from a popular video game, and is part of a giant licensing juggernaut. The Pokémon are kid-appealing, but the series features lots of fantasy violence, and pits the cute, monster-like characters against each other on behalf of their trainers. There are some positive messages (teamwork, sportsmanship, respecting elders), but it may be too intense for younger children.
IS IT ANY GOOD?
Over the years, the energetic, imagination-filled, Japanese-inspired fantasy series has cut across cultural, gender, and age barriers to captivate a global audience of girls, boys, and even adults. But like any product that inspires obsessions, it has received its share of criticism. Folks may also find the franchise's massive commercial appeal disturbing, especially since the show is mainly geared towards kids.
The whole concept of human characters summoning subordinates to battle on their behalf may be troubling to some. This can potentially send iffy messages to children with pets, too. But despite the endless fantasy violence, Pokémon attempts to promote messages about choosing the right path in life and resolving differences peacefully--before the fighting starts.
TALK TO YOUR KIDS ABOUT ...
Families can talk about the popularity of Pokémon in the United States. Why do people of all ages find it appealing? What are the most popular Pokémon? Why?
What are the differences between Pokémon and real-life pets. How do Ash and his friends care for their Pokémon? How do we care for pets differently? Why are the Pokémon loyal to them and fight on their behalf? How about Team Rocket? Can we ever expect animals to fight on our behalf?
いや、
誰も「AI」によるサービスが初めて登場したのはなんでだろってのは聞いてないんだよ。
DALL.EとかMidjorneyみたいなサービスが現れたのはどういうわけ?
って書いてあるよね。
Crypkoの機能として背景までの絵ってのはできるのか?
技術的に可能ならDALL.EとかMidjorney likeなやつが
今までなかったのはなんでだろって聞いてんだよ。(もしくは既にある。けど、それはそれで何で流行らなかったってのは思う)
いつでもできるなら、需要ありそうだしlikeなやつがあっておもかしくないよな?
同じような技術を利用したサービスって意味じゃなくて、同じようなレベルで、同じようなサービスって意味な。
だから、付け足すと
「ボトルネックはなかった、企業では利用されていた」なら転じて、一般にも需要ありそうに思えるけど
「ボトルネックはなかった、あまり有名じゃなかったが〇〇とかがある」
とかかなあ
こんにちは。インターネット上の人間である。このサイトの趣旨から名乗ることはありません。私はproshipper(架空のキャラクターを兄弟、本当に一緒に関係なくペアにするのが好きという意味)です。これって悪いことですか?
Hello. I am a person on the internet. I will not identify myself for the purpose of this site. I am a proshipper (meaning I like to pair fictional characters regardless if it is with their siblings or really together). Is this a bad thing?
Svelte開発者のRich Harrisクン。どうしようもないポリコレクソ野郎です。
TIL Prettier is considering making tabs the default in 3.0. This is huge — it would make an entire set of programming languages more accessible (if you're somehow still pro-spaces, read this comment to instantly convert), and, more importantly, vindicate my personal preferences
https://twitter.com/Rich_Harris/status/1541761871585464323
i feel bad for the models who innocently signed up for this photoshoot and now look like they're enthusiastic supporters of some incel weirdo's cry for help
俺はThe StrokesのWhy Are Sundays So Depressingって曲のラスト1分20秒くらいから始まる部分がめちゃくちゃ好き
https://m.youtube.com/watch?v=2KSpDNlsVF4
I kind a miss the nine to five…からのところね
正直あんま何言ってんのかよくわかんねーだけど、とにかく声とメロディと伴奏の絡みがサイコー
I scramble, fight just like a child,
Hey,
Nah nah nah nah nah nah nah nah
このナナナがマジで好きなんすよ
その前の、動詞を2個並べる構文がまずかなりよくて、そこにローテンションの「ヘイ」が乗ってさらにテンションが上がったところに、ナナナ…ですよ
ザ・ストロークス、他の曲でナナナって言ってたことない気がする 初ナナナっすよ ナナナどころかラララもそんなに言わねえからさあ
ユニゾン系の動きでピロピロやってるギターもいいし、もう片方の伴奏系のギターもいい
フェードアウトしそうでせず、きっちり終わるのもいい
Måneskin, who played with his upper body naked, and King Gnu, who imitated him, disgraced Summer Sonic. What they did was simply body-exposing pornography.
Måneskin must have decided that yellow monkeys like the Japanese were not culturally literate enough to listen to music.
King Gnu wanted to show that we are conscious people with our eyes on the world.
As a result, the Japanese audience was presented with only two types of pornography: vile foreign pornography and Japanese imitation pornography.
This is what you can do when you don't know what you're doing at Summer Sonny's.
女の子みたいな恋がしたい
男だらけのとこに現れた紅一点で、とりあえず仲良くなりたいという気持ちでガンガン行った
運が良いことに性格の相性とかいろんな条件がうまくハマってて、向こうから惚れてくれて、念願の初彼女となった
手を繋ぐだけで勃つって本当なんだなと思った
彼女はまだ最初の頃のような気持ちを維持していて俺の方はもう失っている
彼女の所作にドキッとするとか、キュンとするとかそういうのが一切ない
彼女のことはまだ好きだ、でもそれはもうloveじゃなくlikeではないかと思うし、そもそも最初からそうだったのかもしれない
今までのドキドキはすべて性欲由来だったかもしれない、それを否定しにくい
そう考えたら悲しくなった
もちろん性的なことに対する興味はとてもあったが、プラトニックな恋愛にも結構興味があったし期待してた
別れようとは思わない、長く付き合って情が湧いてるから
別の子と付き合ってみたいなと思うこともよくある
また最初の楽しい気分が味わえるし、もしかしたらその子には今とは違う感情を持てるかもしれないから
でも付き合った後今と同じようにならない保証はないし、仮に保証があったとしても今の彼女は良い子だしそんなワガママな理由で振りたくないとも思う
つまりは現状詰んでいる
かわいいだとか、愛しいだとか、そんな気持ちを感じられるようになりたいだけ
付き合う前に感じていたあの嫌われたくない、好かれたいという強い気持ちをもう一度感じたいだけ
もちろんいつまでもそんな気持ちを持っていられないだろうてことはわかる
まだ片方には残ってるのに
ただ、悲しい
女の子が羨ましい
これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。
ただ、内田が、
「感情の器」って、あくまでも個人的な身体条件のようなものだから。
というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。
たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミスが道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会の規範を構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。
そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現を内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。
家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。
アレックス・カーが20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。
おりしも建設省に代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代。
アメリカの7倍のコンクリートを使って日本の山河をコンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。
その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。
「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。
A・カーは、フェアプレイの精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者のトップが黒海に豪奢な別荘を保有し、人民は実質的に農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治の開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。
「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司の説教がブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖。
最近、想起するのはやはり旧統一教会。家族の価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族が崩壊している、といった、「おまゆう」問題。崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするときの動機付けのメカニズムなのだ。
内田と永井の議論のテーマのひとつである人権・平等。あたかも普遍的な原理についても、
それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。
アメリカの建国者の一人、トーマスジェファーソンは人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。
これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。
どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者の懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質が人民に備わっていると信じて建国者はデモクラシーを設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法の価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権の矛盾が、南北戦争の北軍の正当性を決定的にする。
内田の議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要なキーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。
「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。
これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係ないかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。
内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。
舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後は憲法そのものがアメリカの経験に基づいたものだ。
しかし、日本の人権教育は、残念なことに、人権の普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説や定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。
戦後、人権を外付け実装してきた日本は、そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。
今現在、旧統一教会問題で話題の、国家と宗教というテーマにしてもそうだ。
政教分離のキーワードとなるのは、恐怖からの解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西の課題だ。宗教といかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴに勝利した古代ローマ。
そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会を構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要が再確認された。それが言論の自由の関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場の比喩が生まれる背景ともなった。
他方、旧世界のフランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会の権威と苛烈な弾圧が恐怖であった。だから公共空間の合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランスの言論の自由は、その意味でカトリックを否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要な意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したことの歴史的な背景は深い。
このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。
それは、実は国によって微妙にコンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的な価値なら、なぜ何千年も克服できなかったかの意味を問うというか。
しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後の日本の裁判所も含めて。
でも、それこそが日本の人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。
その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの、感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。
内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは、自分の国や自分の家族、自分自身の歴史だと俺は思う。
自分や自分の先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理だけが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本のアジアや欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。
歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神を自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。
自分が理想とするものと現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。
自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。
ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要なキーになるし、国家と宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米の経験を教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決は行政が戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料を支出したことを違憲とした歴史的な判決で、戦争の経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法の仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国の精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。
しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通の体験、共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代。
50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。
「あの頃は」という共通の過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣の闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。
つまり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。
それが、失われ、外付けの価値観だけが、カラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。
永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代に
と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。
また、日本国憲法に組み込まれた歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。
それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、
視聴者からは、おしんは私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。
しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ。
しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会、バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争の記憶との関連が薄まった。当然、日本国憲法のリアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教と国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。
しかし、いずれにしても過去の記憶と憲法の規範が直接に結び付かない、その世代の経験、そこに、永井が紛争国の辺境の地を自分のテーマに選んだヒントがあるように思えてならない。
紛争のリアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生のときに知った人権、そして憲法の価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。
しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。
私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこからは自分が母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親も単身赴任でしたし。
といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。
「全然、人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。
動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的なロールモデルとは限らないのだ。
この体験と辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。
読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。
A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.
During my lifetime I've probably drank enough whisky to fill an Olympic size swimming pool, but whisky flavoured foods of any description should be avoided like the plague.
私は一生の間に、おそらくオリンピックサイズのプールを満たすのに十分な量のウィスキーを飲みましたが、どのような種類のウィスキー風味の食べ物もペストのように避けるべきです.
An Olympic-size swimming pool is used as a colloquial unit of volume, to make approximate comparisons to similarly sized objects or volumes. It is not a specific definition, as there is no official limit on the depth of an Olympic pool. The value has an order of magnitude of 1 megaliter (ML).[1]
オリンピック サイズのスイミング プールは、口語的な体積の単位として使用され、同様のサイズのオブジェクトまたは体積とのおおよその比較を行います。 オリンピックプールの深さには公式の制限がないため、これは特定の定義ではありません。 値は 1 メガリットル (ML) の大きさのオーダーを持っています。 [1]
エタノールの比重を約0.8g/cm3とすると、一日の許容量は40度のウィスキー約62.5mL
毎日ウィスキーだけ飲み続けたとして、1MLに達するのは、1,000,000,000(mL)÷62.5(mL/日)=16,000,000(日)。うるう年を考慮せず365で割った結果は、43,835年と225日
期間を50年以上、20,000日と仮定する。1,000,000,000(mL)÷20,000(日)=50,000(mL)。Lに直すと、一日あたり50リットル以上
ウィスキーのダブルは約60mLになる。これを一日3杯ずつ20,000日間飲んだとすると、180(mL/日)×20,000(日)=3,600,000(mL)=3,600(L)
この程度の量を計るのに適切な単位はバレルだろう
バレル - Wikipedia
アメリカでは、用途によらない標準の液量バレル (standard barrel for liquids) は31.5米液量ガロン(正確に119.240 471 196リットル)である。
ただし、税法上、ビール用のバレル (standard beer barrel) は31米液量ガロン(正確に117.347 765 304リットル)となっている。
一方、穀物や野菜などに用いられる標準乾量バレル (standard dry barrel) は、105乾量クォート(約115.6リットル)と定義されている。
イギリスでは、標準のビールバレルは36英ガロン(正確に163.659 24リットル)である。石油用のバレルを英ガロンで表すと約35ガロンとなる。
さらに、用途によっては質量によるバレルの定義が行われている(例:小麦粉=196ポンド、セメント=376ポンド)。
ワインやウイスキーなどの酒類の貯蔵に用いられる樽の種類でバレルと呼ばれるものは、容量42 - 55米ガロン(約208.2リットル)くらいまでのものが用いられる。
「私は一生の間に、おそらく樽2ダースを満たすのに十分な量のウィスキーを飲みました」と言い換えれば大ボラをつかずに済むということになる
i'm so hesitate but I'm begging you please give me answer.
But, at least i have a thorn in my heart.
My doubt right now: Marwan is a person who does not keep own words, does not think that's a bad, does not mind making a friend cry with sadness.
Or Does Marwan like to harass me?
> so i will have time to reply to u
i guess, i misread English, and also your writings were incorrect.
Because we are not native English speaker.
My poor English brain read it like
"I won't be home « only » tmrw. So I « can » have time to reply to u (= My tomorrow is yours)".
But, did you write it with this meaning of ?
"I won't be home « from » tmrw. So I will « might » have time to reply to u."
But in the "tomorrow", you didn't that do.
I was deeply hurt by be broken promise.
I already told you, I cried for real.
CNNの記事なので英語の元記事を見てみよう、どういう表現だろうか
Tonga eruption blasted enough water to fill 58,000 Olympic pools into the Earth's atmosphere, NASA says
The eruption sent a tall plume of water vapor into the stratosphere, which is located between 8 and 33 miles (12 and 53 kilometers) above the Earth's surface. It was enough water to fill 58,000 Olympic-sized swimming pools, according to detections from a NASA satellite.
この噴火により、地表から 12 ~ 53 km (8 ~ 33 マイル) の高さに位置する成層圏に、水蒸気の高いプルームが送り込まれました。 NASA の衛星からの検出によると、オリンピック サイズのプール 58,000 個を満たすのに十分な量の水でした。
英語圏でよく使われるのだろうか?この「プール何杯分」というのは
twitterで「fill pools until:2022-01-01」の検索条件で検索してみる
すると以下のようなニュースがツイートされているのを発見(「The Hustle」という媒体のようだ)
In 2020, US gas stations sold enough gas to fill 187k Olympic-size swimming pools. But most don’t make money from gas. Here’s why.
2020 年、米国のガソリン スタンドは、187,000 個のオリンピック サイズのプールを満たすのに十分な量のガソリンを販売しました。しかし、ほとんどの人はガスからお金を稼ぎません。理由は次のとおりです。
ニュースサイトではない一般ユーザーもこのような表現をしていた
During my lifetime I've probably drank enough whisky to fill an Olympic size swimming pool, but whisky flavoured foods of any description should be avoided like the plague.
私は一生の間に、おそらくオリンピックサイズのプールを満たすのに十分な量のウィスキーを飲みましたが、どのような種類のウィスキー風味の食べ物もペストのように避けるべきです.
英語版wikipediaの「Olympic-size swimming pool」のページを見てみよう
An Olympic-size swimming pool is used as a colloquial unit of volume, to make approximate comparisons to similarly sized objects or volumes. It is not a specific definition, as there is no official limit on the depth of an Olympic pool. The value has an order of magnitude of 1 megaliter (ML).[1]
オリンピック サイズのスイミング プールは、口語的な体積の単位として使用され、同様のサイズのオブジェクトまたは体積とのおおよその比較を行います。 オリンピックプールの深さには公式の制限がないため、これは特定の定義ではありません。 値は 1 メガリットル (ML) の大きさのオーダーを持っています。 [1]
なるほど、この書き方だとニュースの定型句に限らず一般的に使う言い回しに見える
※追記:
編集履歴を確認したところ00:16, 30 May 2003のリビジョン時点で以下の記述がある
少なくとも20年前からこのような言い回しがwikipediaに書かれる程度には一般的だったようだ
An Olympic Size Swimming Pool is the type of pool used in the Olympic Games. The size of the pool is commonly used to define the size of other objects, or to explain how much water is in a particular location.
オリンピック サイズのスイミング プールは、オリンピックで使用されるプールの種類です。 プールのサイズは、通常、他のオブジェクトのサイズを定義したり、特定の場所にある水の量を説明したりするために使用されます。
追記ここまで
英語圏の人はピンと来てるのだろうかこの言い方で
勘だがピンとこない人も結構いる気がする
だって日本人でも「東京ドーム何杯分」がピンとこない人は結構いるからな
調べてみたがなかなか興味深かった、他にもこういう海外のよくわからん単位がありそうだ
「フットボールコート何個分」みたいな面積についての言い回しもあるみたいだったし
その国固有の例えとかありそうで面白い
イタリアなら「コロッセオ何杯分」とかあったりしそう(調べてないけど)
※再追記:
以下の英WikipediaのページのVolumeのCasual unitsの項がズバリだ
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_unusual_units_of_measurement