はてなキーワード: 結婚式とは
昔、2つ上の大嫌いな姉にいじめられ苦しんでいた私の話をさせてください。
もちろん、助けを求められる環境にいる子は今すぐに声をあげるべきだし、状況を改善できる見込みがあるおうちの子は絶対にご両親への相談を優先してくださいね。
でも、親が私の父みたいに「子供同士の喧嘩」「やりあって精神が強くなるから兄弟姉妹に喧嘩はつきもの」で片付けて真剣に取り合ってくれず、一方的にやられて苦しんでいるのに手を差し伸べてもらえない状況の中、それでもどうにか努力して姉を見返したいと考えている子もきっといると思います。そういう昔の私みたいな子に、大切な事を伝えさせてください。
まず、貴女の努力によって見返す方法は沢山あります。勉強で負けない事、美容やおしゃれを頑張ってキレイになる事、将来仕事で成功する事…色々思いつくと思います。当然、どれもとても大切です。
でも、一番有効だったのは「いかに姉を嫌われ者に育てられるか」なんです。
私は幼稚園の頃から姉に手をあげられてきました。理由は自分の意見を通すための手段か、そうでなければ単なる八つ当たりでした。小さい頃は毎日怖くて、殴ったり蹴ったりされないために言う事を聞くしかなくて、恐怖で姉に従っていました。怒鳴ったり暴力を振るえば私が従うから、姉は気に入らない事があればそうして自分の思い通りにしてきました。
けど、小学校4年生の頃、6年生の男の子が姉の悪口を言っているのを偶然聞きました。
その子たちは姉を「ヒス豚」と呼び、意見が通らなかったらすぐ不機嫌になり喚くからうざい、きもいと愚痴っていました。
姉が私に日常的にしてきた事は、いつしか他の人にも同じように攻撃的な態度で接する癖として家の外でも出ていたんだと、私は子供の頭でそう判断しました。
だったら、もし日常的に自分が正しいと思い込み、人から嫌われるような、わがままで自分勝手な振る舞いを当然と思い込んでいたら?さらに、もしそんな自分を魅力的だと思い込んでしまったら?
それでみんなに嫌われて、いつも独りぼっちで、だけど何故自分が嫌われているのかも気付けなくて、悲しくても誰も助けてくれなくなったら、どんなに苦しいでしょう。
私が大嫌いな姉をそんな人間にしてしまおうと決めたのは、その時です。
そう決めてしまえば以降は気が楽でした。どんなわがままを言われても従い、理不尽な仕打ちや自分勝手な言いつけをされてもそれが当然のようにしていればその振る舞いが癖になります。いつか今の私より苦しい思いをする姉の姿を見るための投資と思い、何をされても決して泣かず逆らわずただ従いました。
さらに、私は姉の欠点や短所、特に人から普通は褒められない物や人の嫌がる言動を徹底して肯定しました。そうしたら、傍若無人な行動を人前でとることに躊躇いがなくなると思ったからです。高慢で威圧的な態度は「自分に自信があって羨ましい」と褒めました。人を言い負かさないと気が済まない癖は「頭の回転が速い」、ガサツで攻撃的な性格は「強い女性って素敵」、嫉妬深い性格は「向上心がある」、人の悪口を言ったり人の気持ちを顧みない点は「サバサバしてる」「自分に正直」…「他人がなんて言おうが、それはお姉ちゃんの魅力だよ、私はそれが出来ないから羨ましいんだよ」と頻繁に言えば、外でどれだけ批判されようが自信満々に振る舞うようになるのですから不思議です。
姉の思い込みが強くなって来たのがわかった頃からは容姿も褒めるようにしました。この頃には、褒めることで手をあげられずに済む場合が時々あったのと、学校では徐々に嫌われて孤立し始め、姉にとっては私の褒め言葉だけが自分を肯定してくれる物になりつつあったので、少しずついじめの頻度も減り、コントロールしやすくなっていました。
姉は昔から太っていたので、「ぽっちゃり位の方が可愛いよね」「お姉ちゃんは顔整ってるからダイエットしなくても綺麗」と刷り込みました。ポイントは、ただ褒めるのではなく「羨ましい。私なんて」「アイドルの誰々なんかより〜」という風に、必ず自分または誰かと比較して姉を上げること。これによって姉には自分を良く言う時に他者を下げたり、貶したり、人と比較して自分を良く見せる、要はマウント癖を付けさせることに成功しました。これ、本当に嫌われるし、大人になってもなかなか抜けないから自分で言うのも何ですが一番の大手柄だったんじゃないかな。この段階で「優れている私は周りを振り回してもわがままを言っても許される」という認識まで持たせられれば満点です。
さて、高校、大学進学は今まで嫌われている土壌があっても環境がリセットされてしまうので、どれだけ短期間で嫌われる人間に育てられたかが問われます。品評会みたいですよね。この時期最も意識しなければいけないポイントは「生理的に気持ち悪い」と思われる事です。これ位になると周囲の方々は所謂"大人の対応"をなさるので、ただ性格が悪いだけでは距離を置いた表面上の付き合いをされるだけで、苦痛を感じるほどの孤立はしません。明確に孤立するほど嫌わせる気持ち悪さをつけるには、傍目で見ていて痛すぎるほどの勘違いブスにさせるのが有効でした。
周囲の男子の話題を聞き出し、隙さえあれば「それってお姉ちゃんに気があるんじゃない?」と言ってみたり、もし避けられたり拒まれたと聞けば「お姉ちゃんが魅力的だから近寄り難いんだよ、意識されてるんだよ、照れてるんだよ」など刷り込みます。そんな事で騙されるわけないと思われそうですが、長い間、学校で嫌われ孤立していく中私の褒め言葉で気持ちを安定させてきた姉は面白い程いとも簡単に私の言葉を信じ、どんどん勘違いを加速させてくれました。
自分を美人と思い込んでいる、高校生の時点で80kg超えの巨漢が女性には当然のようにマウントをとり、男性に対しては事あるごとに自分に気があると勘違いを起こし、自分は可愛いと思い込んで他人を全く慮らない言動を繰り返す姿はどんなに痛々しく、失笑ものだったでしょう。私は姉の高校時代の交友関係は知りませんが、卒業アルバムの後ろのページがまっさらだった事や、体育祭や文化祭などの楽しい行事や催しをいつも「頭が悪い子達の馴れ合い」などと揶揄し愚痴っていた事などから成果は十分だったと判断しています。
そして姉が大学生の頃、事件は起きました。きっかけは姉にとって初めての飲み会。そこで初対面だった男性と視線が多く合った事や机の下で偶然足が数回ぶつかった事、グラスを渡してくれた時に手が触れた事で相手は自分に好意を持ったと盛大に勘違いしたそう。おまけに、相手の方は女性に失礼がないように丁寧に接してくれていたのでしょうが、それを「私に気があるから優しくしてくれた」と思い込み、好きになってしまったばかりか「相手も脈ありだし当然嬉しいはず」と疑わずに積極的に迫ったそうです。連絡先交換をはぐらかされても、色々なアピールを躱されても「私が魅力的だから、意識して照れてるから」と決めつけ、飲み会の中で出たどの学部だとか何曜日のどの講義をとっているなんて情報だけを頼りに毎日探し回ったり。やってる事が完全にストーカーですよね。他にも彼に差し入れをすると言って朝からお菓子を焼いているのも見たし、後に姉本人から聞いた話では、ボディタッチなんかも積極的にしていたそう。一度飲み会で同席しただけの巨漢に迫られる恐怖…心中お察しします。
そんな事をしばらく続けた結果、その男性から「本当にこういう事は辞めてほしい、会いにも来ないで欲しい」「以前から何度もやめて欲しいとは伝えていたが、全く伝わっておらずしつこくつきまとわれる事に困惑している」「これ以上続くようなら通報する」…などとはっきりと拒絶された事でメンヘラ化。その男性にどのように自分をアピールしていたのか知りませんが、いつものように他人を貶めてマウントを取りその分自分を良く見せるやり方を半年も披露していたのならさぞ反感を買ったのでしょう。あの飲み会で一緒だった友人たちは、度々止められたり嗜められる度に妬まれていると思い込み聞き入れなかったり邪魔をしないでと食ってかかった事すらあったようで皆離れて行き、この頃にはもう姉の周囲には誰もいなかったそうです。
姉は居づらくなったのか次第に大学に行かなくなり、部屋からも出て来なくなり、最終的に中退しました。
それから9年経ち、姉は何度かアルバイトをしましたがその度に人間関係で揉め事を起こして辞め現在も社会復帰は叶っておらず、コロナの影響による就職難のためか姉の性格のせいかは分かりかねますが面接に落ち続けているようです。
周囲に相談できる友人もおらず、何かあれば時々私に連絡をくれます。この間はSNSで知り合った友人とも深く関わっていくうちに縁を切られる事、結婚に憧れはあるのに未だに彼氏ができない事なんかを嘆いていました。
「巡り合わせが良くなかったのかも」
「お姉ちゃんは素敵な女性だよ。いつか分かってくれる男性が現れるし、結婚だってすぐ出来るよ」
電話口でそう言っても、暗い声でぼそぼそとした反応しかしてくれなくなったので、あれだけ高かったプライドや自信はとっくに崩れているでしょう。現実を見た後も独りぼっちになった理由がまだ分からないまま悲しさ寂しさを抱えて孤独に過ごしているのかも知れません。幼い頃私を何年も殴って蹴って罵って苦しませてきた人間はこんなに情けなくて惨めで弱くて、私はこんなものに毎日怯えていたのかと馬鹿馬鹿しく思えてくる程です。
私の方では同棲中の彼氏と結婚の話が出ているので、結婚式に姉を招待する事であと一度ぐらい姉をぐちゃぐちゃにさせられると思います。もちろん、姉を苦しめる為に彼と交際したり結婚しようとしている訳ではありませんが、私が好きな人と真っ当にお付き合いして結婚して、これからも至って平穏に普段通りの私達の姿を見せる事が今の姉にとっては何よりも効果がある事は理解しています。
「大好きなお姉ちゃんだから絶対にドレス姿を見せたい」とでも言えばきっと来てくれるでしょう。ブーケは姉の方に飛ぶように投げて「次はお姉ちゃんが幸せになる番だね」なんて言えば泣いて喜んでくれるでしょうか。一生忘れられない思い出にしたいですよね。
今、自分を攻撃してくる姉をどうにか見返したい子は、どうかその姉を将来絶対に幸せになれないぐらい良識と人間性に欠陥がある女性に育ててあげてください。
幼い頃からいじめを日常的に、自分より目下のきょうだいに対して繰り返すような人間性の持ち主を調子に乗らせて性格クズにさせたり都合のいい勘違いや思い込みを刷り込む事なんて然程難しくありませんし、可哀想と思う必要性もありません。
孤立させましょう。そうすれば、あなたたちがこれから恋愛、仕事、勉強、趣味、自分磨き…色んなことを好きに頑張って、毎日を普通に楽しく過ごしているだけで勝手に相手が傷ついてくれます。それが、一番の報復です。
ガン告知を受けて2ヶ月で亡くなった。
(※最初に断っておきますが、非常に自己中心的な考えなので不快に思う方がいらっしゃったら大変申し訳ございません。)
のどっちかかと思われる。
新郎新婦やそのご家族がしきたりに厳しいようなら、喪中の出席はやめておいた方が良いかなと勝手に思う。
私の場合は大親友だったので、相手は私の母親が亡くなったことも知っているし、私も「喪中だけど出席して問題ないか」と聞いてOKをもらったから参列することにした。
さすがに忌中だったら友人の許可云々以前に辞退してたけど。
中座のエスコートを頼まれていたくらい、とても仲の良い友人なので私も結婚式にはなるべく参加したかったしとても楽しみにしていた。
母親が死んでからずっと抱いてきた鬱々とした気分も、お祝い事を目の前にすれば吹き飛ぶかもしれないという考えもあった。
結果、「親友の花嫁姿を見られて良かった、でも結婚式の演出がしんどくて出席を後悔した」というのが感想。
「自分で出席すること選んでおいて後悔とか言い出すの常識ねーわ」ってのはわかっている。
でももちろん親友本人にはそんなこと言ってないから見逃してほしい。
挙式、披露宴で随所に差し込まれる、「父親・母親・娘(花嫁)」の3人が揃っていることを大前提とした演出がしんどかった。
調べたらいろんな事情で親が結婚式に参列できない場合の演出方法もあるらしい。
もし親を亡くして数年経っていたなら落ち着いて見ていられたのだろうが、両親がいることを「完璧」として、どちらか一人でもいなかったら「欠陥」とみなされているようでとてもつらかった。
また、母親が生きているうちに結婚できなかった自分も責められているような気になってしまった。
披露宴で泣いたが、感動して泣いたわけではない。
自分の母親は亡くなったということを改めて突きつけられているようでつらくて泣いたのだ。
中座のエスコート役をやると、カメラマンが花嫁とのツーショットを撮ってくれる。
カメラマンに「笑って〜!」と何度も言われた。
笑えたら笑ってるし、笑ってないってことは笑えないということだからなにも言わないでくれと思った。
ただまぁ人の結婚式出て写真撮ってもらうのに笑わない人間は常識がない。
あり出席者側が「今日ちょっと機嫌悪いからムスッとしてる」とかはダメだと思う。(当たり前)
■結婚式後も引きずる痛み
結婚式の最中に感じた悲しみのせいでもあるし、大親友の結婚式に出てもネガティブな感情しか抱けなかった自分への嫌悪のせいでもあった。
家に着いたら、花嫁から「結婚式来てくれて本当にありがとう!!」「大好き!!!!」といったLINEが届いていた。
また悲しくなった。
これに対して私は「めちゃくちゃ良い式だったね!!」とかなんとか、素敵な言葉で返答しなければならない。
今は微塵もそんなこと思えないのに。
喪中なのに参加すると言ったのは私自身だし私がどうしようもないくらい悲しみを感じてしまうのはすべて私に責任がある。
■結論:新婦側の友人の場合、親が死んだばかりなら欠席した方が良い
結婚式からもうしばらく経つが、未だに花嫁である友人とは距離を置こうとしている。
「この友人と会って、結婚式の話になるたびに私はこのとき感じた痛みを思い起こしてしまうのか。」
「そして私はその痛みを隠して友人に当たり障りのないことを言い続けなければならないのか。」
そう思うと会いたくもなくなってくる。
中学生の時からの友人だし、社会人になってからも月1で会っているし、(コロナ前は)年に一回は一緒に海外旅行していた仲なのに、私はもう会いたくない。
結論としては、親が死んで喪中ならやっぱり結婚式への出席は考えた方が良いかもしれない。
また、結婚式を行う側の方々も、もしどうしても出席してほしい大親友が親御さんを亡くされたばかりなら、どうか気を配ってあげて出席辞退しやすいようにしてあげてください。
私は断るべきだったと思うし、もしかしたらこのままこの親友とは交流を断つかもしれない。
彼は自分の思っていることを一切言わなかった。というより何も思っていなかったので、主張して伝えることが一切存在しなかった。
お前の考えていることがわからんと口々に言われた。実際何も考えていなかった。
持ち前の勘の良さと運の良さだけでもって生れてから現在までの時間を流されてきた。
ある時オズの魔法使いの劇を観た。自分も何かが欲しいような気がしたが、何かを記憶するのは彼にとっては大変難しいことだったので、家路を歩いている間に劇を観に行ったことすら忘れていた。
彼は17の時に兄に連れられ風俗街で童貞を捨てた。と言っても、娼婦の思わず賞賛の拍手が巻き起こるほどの意地の力でわずかにそれに使える硬さを得た逸物を強引にねじ込まされ、そしてそのまま引っこ抜くついでに突き飛ばされただけだったが。
彼の仕事はといえば、市長の代理で議会の椅子に座らされ、だれが作ったかわからない台本に書かれたYESやNOやSUREなどのごくごく短い文字を誰だか知らない連中からの質問に対して上から順に読み上げていくことだった。なぜこんな役職についているのか彼自身も周囲の人々も知らなかったが、ただ彼の第六感が粛々とすべての運命を決めていた。
彼の22歳の誕生日の日、その茶番を終わらせるべく怒れる市民たちが議会になだれ込んできたが、その凶兆を10年前から受け取っていた彼だけはその日自宅で妹相手にカメムシの触角を使ってでっちあげた数学を教えることで免れていた。
30歳の春の日、彼は妹の結婚式の最中に、突然走って出て行って、町の西側にある断崖をよじ登り、そのままそこで暮らし始めた。誰にもその行動の意味は分からなかったが、とにかく何かの前触れだということで、町はそっくりそのまま断崖の上に移動した。
その頃ようやく彼の頭の中に記憶を留めておくための文鎮や何かを感じたり思ったりするための風見鶏が置かれ始めた。それをこしらえたのも第六感の仕事だった。
彼は言った。
「この崖は町の重さに耐えきれずもうすぐ崩壊する。皆必要なものだけ持ってできるだけそっと降りるように。」
そうして断崖は乗せていた家々もろとも粉々になった。崩れる土砂からくる風で、彼はオズの魔法使いのことを思い出した。夜になって家を失った人々が肩を寄せ合ってふて寝しているのを横目に、崩れた土砂を登って姿を消した。
二週間後に結婚式を控えている。
家族だけの数人の小さな式を予定していたが、コロナで2回延期をした。
遠方から来る家族が不安を訴えていたし、みんなが少しでも安心して出席してもらえるように考えての延期だった。
コロナの感染人数も減ってきて、少しは安心して結婚式ができるだろうと思っていたら、コロナの出ている都内に行くことはできないから出席できないと親や兄弟から連絡が来た。結果新郎新婦と新郎母の三人だけの式になってしまう。
みんなが喜んでくれるように考え準備してきた結婚式だったが、お金がかかるだけで披露宴までする意味もなくなってしまった。
来れないと伝えてきた家族に嫌な気持ちを抱いている自分が嫌だ。
親すら来れない寂しい式を挙げる自分が恥ずかしい気持ちもある。
誰にも祝われない自分が情けない。
コロナが憎い。
気持ちの浮き沈みのある日々が続いている。
今日はすごく元気だなぁ、もう薬もいらないかもなぁと思って活動的にしていると次の日疲れて起き上がれなくなる。朝起きた時に「あぁ、今日はだめな日だな」というのがわかるようになってきてそんな日は無理して起き上がることはせずそのままベッドで横になっている。もう二度と起き上がれないんじゃないかと不安が襲ってきてシクシクと泣くこともあった。
かと思いきや朝シャッキリ目が覚め、部屋の掃除やストレッチを済ませて散歩へ出かけ、家に帰ってもまだお昼前だということに気づき「無職最高ーーーー!」とバンザイするような日もあった。
ただ、そんな時でも外を歩いていると5秒に1回は「しにたい、生きるの辛い」と頭の中で呟きながら歩いていた。橋の上など高いところに立っているとスーッと吸い寄せられるような感覚があった。電車も怖くてしばらく乗っていなかった。
よせばいいのに会社のメールを見て、自分が残した仕事を後輩がつつがなく完了させているのを見て落ち込み、自分なんてやっぱりいないほうがよかったんだとまたシクシク泣いた。この頃には声をあげて泣き叫ぶことは無くなっていたが、暴力的な衝動は突発的に現れて、壁を殴ったり、カフェで窓際の席に座っていた時に、目の前のガラスを叩き割りたい衝動に駆られた(流石に行動に移してはない)。
小説やドラマなどは見れるようになったが、ニュースやバラエティなど喋っている声がキンキン響くものは相変わらず見れなかった。YouTubeでは焚き火の映像などを見ていた。勉強を頑張っている社会人のvlogが好きで、いつもそれを見てモチベーションを上げていたのだが、病気になってからは見ると動悸、頭痛がして視聴することができなかった。この人たちはこんなに頑張っているのに自分は…という罪悪感で心がやられてしまったのだと思う。
本屋に行ってうつ関連の本を立ち読みしたりした。以前は本屋で時間を潰すのが好きで、自分の仕事関連の専門書のコーナーに行きワクワクしながら本を物色していたのだが、この頃はそのコーナーに近づくと頭痛と動悸がし、涙が出そうになっていた。
適応障害についての本を買って読んだが、頭がぼんやりして内容が入ってこなかった。
全然眠れないと思ったらものすごい眠気に襲われる日もあり、風呂も入らずに眠る日も度々あった。
活動できるときはとにかく歩いていた。2駅隣のTSUTAYAまで歩いて漫画を30冊借りて、また歩いて帰るというようなことをしていた。
病院では「元気な時とダメな時がある」と伝えると、「そうやって波を繰り返して徐々に良くなっていきますからね。元気な時に無理しすぎないようにね」と言われた。なんかそのくらいなら自分でも言えそうだな、などと思った。特にカウンセリングなどをされるでもなく、5分くらいの診察の後処方箋をもらって帰るという繰り返しだった。
この頃、友人の結婚式があり久しぶりに大人数のいる場に出かけていった。電車に乗ることもできてほっとした。
長い間会っていなかった友人たちばかりだが、お互いの近況を話したりするのは楽しかった。自分の病気のことも話したが、全く平気そうに振る舞った。友人の目にどのように映ったかはわからないがみんな気遣ってくれた。
久しぶりに会えて楽しかったが、やはりひどく疲れてしまい家に帰ってすぐに寝た。翌日も疲れは残っていた。コロナのおかげで二次会とかもなくサクッと終わったのでまだ良かった。
薬の服用量も減った。2種類の薬を服薬していたが、1つは不安になった時だけ飲めばいいとなった。
この頃から少しずつ自炊もするようになり、なかやまきんに君のYouTubeで紹介されていた野菜スープなんかを元気な時に作り置きしていた。ただ野菜を切って煮るだけだが、キッチンはぐちゃぐちゃになり、効率的な動きもできなかった。料理はものすごく難しい作業なのだと知った。
転職活動を始めた。休職した瞬間から、もう前の職場には戻らないと決めていたので、とりあえず職務経歴書や履歴書を準備し始めた。ただ、そのテンプレートを埋めるのも一苦労で、リモートワークに使っていた机に座るだけで具合が悪くなった。仕事関連の本を見えないところにしまい、机の位置を変えた。できるだけカフェなどの外で作業するようにした。1日に30分~1時間ほどしか作業することができず職務経歴書を完成させるのに二週間ほどかかった。
転職サイトに登録するとありがたいことに色々な会社やエージェントから声がかかり、面接の予定がどんどん埋まっていった。
転職活動はオンラインでできるので助かった。ただ、1日にいくつもやると流石に疲れるので、午前中に1件やるのみとしていた。転職の選考のスピード感についていけず、働いている体で「現職の都合が…」とスケジュールをできるだけ引き延ばした。
今思うと、こんなに早く転職活動する必要はなかったが、当時はとにかく不安で、焦りがどうしてもあり、早めに始めてしまっていた。傷病手当金がもらえるギリギリまでのんびり休んでいれば良かったと思う。
仕事を始めた時に備え、資格の勉強などを始めた。面接のない日はカフェで参考書を開いて勉強していたが、この頃勉強したことは全く頭に残っていないのでやる必要はないと思う。それよりもゆっくり休んだほうがいい。
この頃は寝られない日が2日続き、翌日はぐっすり眠れるというようなサイクルになっていた。昼寝は相変わらずしていた。
人の多い店などにも行けるようになり、ジムに行くこともできて、回復しているのを感じた。
寝られない日は日中に筋トレやHIITトレーニングをして体を疲れさせるようにした。
だんだん見られるものも増えてきて、アドラー心理学の本なども読んでみた。あとはスマホでゲームなんかも始めてみた。久しぶりにやるとめちゃくちゃ面白くて、没頭できた。ゲームをしている間は他のことを考えずに済むのが良かった。
ついに内定をもらい、入社条件の交渉になった。正直こんなに早く決まると思っていなかったので、もっと休みたい気持ちがあり、現職の都合で~とか、まだ他社の選考が~とか色々言って提示された入社日から1ヶ月延ばそうとしたが受け入れてもらえず、やむなく病気のことを話した。内定取り消しになってもしょうがないと思ったが、意外にもそうはならず(法律上のしばりとかもあるのだろうが)、提示した条件で入社するかを決めて欲しいと言ってもらえた。
とにかく前職を直ちに辞めたかったので、体力的に不安ではあったが(あと、もう少し無職でフラフラしていたかった)内定を受けることにした。
病気がひどかったときは早く働かなくてはと焦っていたので、働きたくない、無職でいたいという欲求が出てくるのはむしろ健康になったのかもなぁなどと考えていた。
次の職が決まったので上司に退職の連絡をした。先日休職延長の連絡をしたばかりなので少し気まずかったが特に何を言われるでもなく、たった9分の電話で退職連絡が完了してしまった。
その後、各種手続き書類が自宅に郵送され、粛々と退職手続きが進められていった。
頭痛も睡眠障害もまだ治っていなかったが、医者に内定をもらったことを告げると「良かったですね、まあ新しい職場でも無理しすぎないようにね。最初は頑張っちゃいますからね」と言われただけで、復帰なんてまず無理、とは言ってくれなかった。
働きたくない働きたくないとひたすらごねていたが、自分でもわかるくらいに体調は回復していた。朝起きてジョギングをしたりもできるようになっていた。昼寝もしなくても大丈夫な日も増えてきていた。
つづく→適応障害と診断されてからの記録⑤
いやただの兄弟
兄弟自体は結婚式したく無いけど嫁さんの長年の夢だったからめちゃくちゃイライラしながらも付き合ってる
式ですごい衣装を着なければいけないらしくそれが恥ずかしくて家族に八つ当たりしまくってる
俺は中立を保っているが欠席するとなれば殺されるかもしれん
具体的にどこのサークルとまでは聞いてないけど同じド田舎の大学で会った。
男性:そのころはニヒルで役者みたいだった父(高卒で就職して企業内留学)。タバコは吸わない。背は高い。読書家だがアウトドアも好き。寡黙(多人数兄弟から養子に出されて一人っ子の育ち、すごく静かな家庭で育った)。麻雀で授業料の足りない分や生活費を稼いでいた。即降りダマテンピンフのみで負けない麻雀(つまらないのでよく呼ばれたなと思う)。
女性:めちゃ頭のいい高校から進学。長女。背は低めでかわいいが気が強い。よくしゃべるし喜怒哀楽が激しい。たぶん女性側から声をかけて付き合った。
男性と女性はド田舎高校の同級生で美男美女カップルで高校のうちに結婚しようという勢いだったらしいがのちにいろんな理由で書類上離婚した事実婚状態。
1,2を身近に知っていたがめちゃくちゃ面食いでダメな異性をひいて2~3回離婚。最終的に年金を分けたくない独占したいという理由で離婚されてもういいや的一人暮らし。
工業高校卒と高校卒が中小企業でであった。男性側が8歳年上(に見えない)小柄な女性に惚れこんだが年の差が気に食わない実家にめっちゃ反対されて半ば駆け落ち状態で結婚し専業主婦へ。営業職で転勤・転職が多く家族で全国を10回ほど引っ越しで渡り歩いたが男性はわりと根っからお祭り男なので引っ越しをあまり手伝わないので呆れられていた。それ以外は喧嘩一つなし、実家とも孫の顔をつかって和解。
上の世代の年の離れた末っ子で20代なら昭和50年代ごろには結婚していたはずだが忙しくてなにもできず。同じ職業の人の娘さんでよくわかってる人とお見合い。結婚してからも忙しくて家庭も育児も全部おまかせ。よくわからないお金の使い方をしている(あれだけ稼いでいて赤字すれすれ)ようにみえるが幸せならそれでよいとおもう
同じ専攻やサークルのコンパやカラオケや試合旅行などで絆を深めた。
おなじ職場で同僚だったりセンパイだったりで絆を深めた。(たまに患者と看護師とかのクライアントとの結婚もあり)
平成:なぞ×3
「お見合い」や「結婚相談所」や「居酒屋ナンパ」だった結婚式は出会いが謎っぽくぼかされる(当人にあまり出会いについてつっこまないでねっていわれた)けど披露宴ではちゃんと「運命の出会い」とさらっと流されて祝われます
そうですね。学生時代の恋愛経験は大切ですね。でもまだ若いので十分に取り返すチャンスはあると思います。
例えば女性なら、他人の幸せを祝ってあげられる心が必要となりますが、これから多くある友人の結婚式に参加して新たな出会いを見つけることも可能でしょう。
また余談ですが、出会ってすぐに肉体関係を求めるのは確実にそう言うのを目的としていると思います。
自分は男ですが、学生時代の恋愛経験もなく、交際した彼女も現在の妻だけで、肉体関係を持った異性も妻だけです。
こんな自分でも結婚する事ができましたし、同じ様な男性も多く居ると思いますので、そう言う人にも目を向けて交際していただけると幸いです。