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2022-08-22

信長秀吉家康のそれぞれの言い分

ノッブ→ヒッデ 「有能なサルじゃのう。ゆくゆく九州はこやつと明智にまかせる」

ヒッデ→ノッブ 「恐ろしいお方じゃ。だが信長様のおかげで大名になれたのじゃ!この方に一生ついていくぞ!」

ヤッス→ノッブ 「さすがは天下人よ。だが最近は暴虐なふるまいが目立つのう。家臣もこれではついてこぬぞ・・・

ヒッデ→ヤッス 「三河軍団は結束が強く、使えるのう。関東以東の抑えとしてまだまだ働いてもらわねば」

ヤッス→ヒッデ 「百姓上がりのサル・・・今のところは従っておくことにしようぞ」

ノッブ→ヤッス 「義元の言った通り、並みの器ではない。東の守りは松平殿がいる限り安泰であろう」

2022-08-16

信長天下統一統一ってウルサかったけどまさか……ね。

壺にえらい執着してたけどまさか……ね。

2022-08-07

ITの内製化への考察ポエム

昨日のITの内製化というスレを見ての感想

しっぽ切りという魔法の杖

外注流行った理由の一つとして、

企業システム担当者SEでもプログラマでもない人)が、何かあったら外注のせいにして責任を逃れられる」

って書かれてて、なるほどなあと思った。

家康負の遺産

で、これを考察すると、これって江戸時代武士支配をしていたメンタルのものなんだよな。

例えば徳川家の旗を間違えて燃やしちゃったり、雑巾にしちゃったりする。

そしたら領地減らされるとか、最悪は改易(飛ばされる)とか、遠島流刑

こういう「1%ミスを許さない」っていう精神って、徳川家康が設計したものなんだよね。

家康将軍引退してからも実権を握ってたのが13年くらいあって、

息子の秀忠が馬鹿真面目だったってこともあって、「ならぬものはならぬ」みたいな上意下達文化を作ったんだと思う。

大奥とかの文化も非常にクローズドでがんじがらめで、今の日本に近い文化だよね。

それが260年以上続いた。

ベンチャーマインド戦国時代

江戸以前の戦国時代はその逆で、「勇敢な行動の末のミスであれば武士としてあっぱである

みたいな文化だったんだよね。もちろん「勝手な行動は死罪」というのは軍においてはそうであったけど、

基本的スピードと結果が全ての世界だったから、許されることも多かった。

何より信長秀吉が好んだのは「臨機応変さ」「勇敢さ」であって、企業でいうベンチャーマインドに通じると思う。

秀吉朝鮮出兵などで自爆してしまったけど、信長がもし織田政権を長期化させていたら、

日本は非常に面白い国になっていたんじゃないかな、とも思う。

楽市楽座とか、重商主義なところも、石高社会の当時の日本としては画期的だったからね。

日本人を支配する「村八分」への恐怖

まあ、家康は偉大ではあるけれども、日本人を停滞させた側面はあっただろうね。

もちろん江戸の安定政権プラスも大きかったけど、

パーセントかは信長秀吉ベンチャーマインドが許容される国であっても良かったと思う。

とくに商業という意味においてね。

日本人の責任を取りたくない、悪い意味での臆病さが、外注という甘えを生みだして、

そこに反社的な人たちを付け込ませてしまったのではないかな。

で、その臆病さの源泉は何かっていうと、終身雇用にあるんだよね。

アメリカみたいにスキルアップして飽和したら、数年おきにステップアップ転職する、っていう文化がないからね。

一生面倒を見てもらうわけで、ちょっとミスしたら一生居心地が悪くなってしまう。

そんな気持ちが見て取れるよね。

村八分されたくないから、村の外から工事人工を雇うってことなんだろうね。

人間はたった数百年じゃマインドを変えられないってことだね。

多重下請け構造とは江戸時代である

で、話は戻るけど、多重下請けスキームにおけるエンドユーザー企業にいる、

エンジニアでもない「システム担当者」って結局なんなの?とも思う。

イメージ的には、江戸時代の城の中の座敷で座ってる人って感じ。

めっちゃ座り方が型にはまってる感じの。

殿中まかりこしま早漏」とか言ってそうな人(知らんけど)。

何ができるかっつーと何もできないけど、殿中まかりこしま早漏の言い方はうまい(笑)

そういうイメージ人材だと思う。

で、その下に鼻息の荒いヒゲ面の山賊っぽい人とか悪人がつく。

頭領「この工事には1000人必要ですな」

座敷おっさん「うむ!節々のこといっさい任せたぞ!」みたいな。

頭領は、人権とかどうでもいい荒くれものでないと務まらない。

暴力と恐怖心で躊躇なく人を殺し、操れる人材が求められる。

あとは500人で済む工事を1000人で見積もらせる、金への執着、欲望の深さも大事素養である

アメリカの強さは信長の強さ

ちなみに信長二条城の改修を驚くべき短期間と完成度で仕上げたそうだが、

その時には自分も粗末な服を着て、身分の低い人工たちと身分の差なく語り合い、

トップダウンで進めたという記録が、フロイスによって残されている。

よく考えれば城が立派に早く完成すればいいわけで、

工事計画文書、第100版を作りまかりこしもうした」って毎日やるのが目的じゃないものな。

まかりこしもうしたやってる間に城郭を強化したり街道を整備してる。

これは現代でも同じ。最終目的がわかってるのがアメリカの強さ(=信長の強さ)なんだろうな。

から日本Excelポチポチやってる間に、AWSAzureを作ってしまった。

変革の追い風はある

とはいえ公正取引委員会とかIPAデジタル庁が、問題認識して動いているから、風向きは変わっていくかと。

公取委IT業界多重下請けにメス 不当行為調査摘発

https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/mag/nc/18/020800017/072600752/

2022-08-03

奪ったものは奪われる

原因があって結果がある。

これは善行でもそうだが、特に悪行で分かりやすく現れる。

恐ろしい因果の話を身近な例で説明したい。

昔、一度だけ転売ヤーになったことがあった。いまで言うせどりである

ゲーム機おひとり様1名のところを友人の力を借りて2台購入した。

それをヤフオクで売ったところ、3000円*2で6000円くらいの儲けになった。

10年以上経ち、スイッチを買おうとしたら在庫がない。

しょうがないので転売っぽい店(いちおう価格コム店舗から3000円プラスで買った。

その直後に、在庫改善されて標準価格で売られ始めた。

今回、X Box Series Sを買いたくなったのだが、これまた転売ヤーっぽい店でしか買えない。

差は3000円。ぞっとした。

ちょうど自分が昔、若気の至りでもうけた6000円に合計金額で合う。

恐ろしくなって買うのをやめた。

しかし、3000円を不当に儲けたということは、まだ「借り」があるのだと思うとさらに恐ろしい。

ひょっとしたら時間が経っている分、3000円以上の「損」をしないと釣り合いが合わないのかもしれない。

カルマとは積算で増幅するものからである

このように、世の中すべては因果で動いているようである

殺人などをしてしまったらどうなるのだろう。

話は飛ぶが、信長武田家を滅亡させて3か月後に本能寺の変で倒れた。

家康も、武田滅亡後に甲州に視察にいったところ、背中に奇妙なできものができ、危篤状態に陥ったらしい。

壇ノ浦の戦いの戦い、そして義経を滅亡させたあと、頼朝落馬したのも有名である

このように昔話では因果関係を説明する材料に事欠かない。

もし今、不当な手段住居侵入したり、ネット悪用して個人情報を売って金儲けしたりして、

扇動したりして自分利益にしているとしよう。

そのような人は、それに応じたカルマを背負っているということである

もちろん直接人を殺したわけではないので、現れる結果の形は微妙に違うだろうが、行きつく結果は同じである

また、もしも犯罪助長するWeb運用したりして、実際に死人が出るようなことをしていれば、さらに顕著であろう。

人数が多い分、想像のつかない恐ろしい形で現れるであろう。

そのような人は、6000円のカルマどころではないのではないだろうか。

もし、生きている間に返せない場合は、カルマが「持ち越し」になるようである

それについては説明するのも恐ろしいのでやめておく。

「奪ったものは奪われる」

以上が転売因果から学んだことであった。

若いとはいえ転売というプチ犯罪をしてしまったのだから、大いに反省して今後に活かしたいと思う。

合掌。

2022-07-24

想像を絶する家康の苦労

来年大河ドラマになるけど。

家康の苦労はたくさんあるが、最大のもの奥さん長男を斬った話だろう。

築山殿が晴れ着を着て待っていた話などは心苦しいエピソードである

タイミングこそ全て。「阿茶局」との出会い必然だった⁈

天正7(1579)年。失意の中で自分を責め続けた男(38歳)が一人。というのも、これまでの、そしてこれから人生の中で、一番辛い出来事が、彼の身に起こったからだ。それは、子と妻を一気に亡くすという悲劇想像以上の痛手。トラウマさえ残るほどの苦行。これだけでも辛いのに、皮肉にも、その原因を作ったのは自分。自らが「彼らの死」を命じなければならなかった。誰を恨んでいいのか。人生矛盾に答えなどないと気付く。

その男性とは、のちに天下人となる徳川家康

当時、織田信長同盟関係にあった家康は、窮地に立たされていた。原因は、長男・信康(のぶやす)の妻、徳姫の手紙である。徳姫は信長の娘で、家康正室・築山殿と嫁姑関係がこじれている真っ最中の状況。そのせいもあり、徳姫は父・信長に対して、夫である信康の愚痴や、夫と姑が武田方に内通していると、手紙で訴える。これを受けて信長は即刻、罪状認否を行い、信康の切腹を言い渡す。

徳川家康

織田信長の決定に、徳川家中での反発は大きかった。しかし、当時の家康はまだまだ力不足選択肢などなかったのである。一時の感情で動いて信長敵対するなど、家の存続を考えればできぬこと。已む無く、長男・信康と正室の築山殿を見捨てる決断を下す。

天正7(1579)年8月に築山殿殺害9月幽閉されていた信康は切腹

残された文書に、築山殿が殺害された当時の状況が記されている。「今日岡崎から夫に会える」と築山殿は極上の晴れ着を身に着けていたのだとか。少しでも綺麗な姿で家康会いたかったのだろう。報告を受けた家康は、一説には、なんとか築山殿を逃がせなかったのかと、介錯人を責めたとも。地獄を見たとは、まさに当時の家康のコトなのかもしれない。

そして、同年。

天正7(1579)年のこと。『神尾氏旧記』と『当院古記』の資料によれば、「阿茶局(あちゃのつぼね)」が徳川家康側室として召し出されたのが、この年だとか。人生最悪の時期に、家康阿茶局出会ったのである。どのような経緯で、家康の目に留まったのかは不明。ただ、彼女が心の琴線に触れたのは確かだろう。ある意味家康阿茶局との出会いで、人生を救われたともいえるのだ。

https://intojapanwaraku.com/culture/98681/

2022-07-21

地元の名門企業JR東海に関して

愛知本社をおく名門企業といえば、トヨタJR東海中部電力がおそらく御三家とも呼べる存在であろう。

この中で、トヨタは別格としても、日本の大動脈である東海道新幹線中央リニアを傘下におくJR東海名古屋企業であることは、おそらく名古屋人のプライドのうちの10%程度は占めるのではあるまいか。これは言うなれば、「トヨタ本拠地」「秀吉信長家康出身地」「中日ドラゴンズ存在」が各20-30%程度、彼らのプライド構成するのに次ぐ地位であり、たとえば天下名門名古屋大学や名古屋メシやグランパスエイト大相撲名古屋場所の存在よりも、彼らの精神にとってJR東海重要ものなのである名古屋人以外には想像もつぬことであろうが、東海道新幹線年末年始乗車率だとか、リニアを巡る静岡県とのあれやこれやがニュースになるたびに、名古屋人は自分達が日本を動かしていることを再認識し悦にいるのである

しかし、甚だ都合の悪いことに、JR東海が今の形での企業体でいることには何らの必然性もなく、ただ国鉄民営化の際に分割された一社たまたま名古屋本社とすることが決められ、そしてその一社東海道新幹線を持たせることがナワバリの上で決められたということに過ぎないのである。分割民営化が例えば東西での分割であったりだとか、そもそも分割民営化をしなければJR東海は今のJR東海ではなかったのである。こうして考えると、名古屋人の精神の拠り所というのは案外脆いものだという考えに至るのである

2022-07-15

焼き味噌を食った

家康が好きだったという焼き味噌を食った

当時の庶民食だった理由がわかった 香ばしい

秀吉もまあまあ好きだったようである

信長漬物のほうが好きだったようである

https://www.youtube.com/watch?v=PcjhaSGs5e0

2022-07-12

ウクライナって攻め込むことはできなかったの?

ごめん素人だけど、

ウクライナってロシア方面に逆に攻め込むことはできなかったの?

古代軍事戦争でも、遊軍が奇襲して相手分散させる、

って基本中の基本だと思うんだけど・・・

防衛一方だと大変、攻める側が有利、ってのは基本で、

武田信玄上杉謙信・生涯一度も自国内を攻めさせなかったことで有名である

信長桶狭間以降は一度も尾張を攻めさせてない

2022-07-11

anond:20220710122458

でも信長天下統一にあたってお寺をまっさきに焼いたし僧兵僧兵!?)ぶっ殺してお寺の求心力解体しないと日本統一なんてできねえなってわかってたみたいよ

2022-07-10

anond:20220710224508

信長が徹底的に一向宗とやりあったのも、

「やつらはもはや仏教組織ではない」みたいに思ってたのかもね

宗教武力となった脅威をもっとも感じていたのは信長だろう

anond:20220710155524

実際は家康の天下への周到な計画と苦労は、それだけで長い物語になる

とにかく総合的に苦労を惜しまない75年だったと思う

秀吉は軍略と調略の天才スピード感がすごく、毛利を4年で落としたのはほぼ秀吉だけの手柄

内政力は朝鮮出兵などで疲弊させたり問題があった

信長は圧倒的なカリスマ恐怖政治をもった将の将であり戦国を終わらせた祖であるのは間違いない

秦の始皇帝のような役割だったとみてよい

2022-07-09

もはや応援演説存在意義が問われている

どこの番組か忘れたが、

選挙勝敗はどれだけ多くの有権者握手たかで決まるといわれます

と当たり前のように言っていて、卒倒しそうになった。

自分知識がないというのもあるが、

「そ、そんな昭和時代みたいなことをしていたのか・・・

というのが率直な意見であった。

ふと思い出したのが田中角栄エピソードである

(注:私は現代政治は詳しくないけど政治史は興味あるおじさんです)

彼は今太閤と呼ばれ、平民から成りあがったということで、

とくに地元新潟から絶大な支持を得ていた。

彼の秘書だった早坂氏の記録が興味深い。

選挙前に農村選挙カーが入るときには、はだしで田んぼに入って、

作業をしている奥さんやおばあさんに、泥だらけになりながら駆け寄って

「おーっ!奥さんよろしく!」握手をしに行くのである

このような平民目線に近い行動は、票集めに絶大な効果があった。

当時はインターネットもなく、すべての情報口コミであった。

「現職総理田んぼに入って握手をしてくれた」

という口コミは、人を介して絶大な効果を生んだろう。

一方対照的なできごとがあった。

今回の安倍氏暗殺事件で、「女子高生2人の状況説明がうますぎる」

と、ツイッターで少しバズったのである。(現在動画は削除されたか

https://twitter.com/search?q=%E5%A5%B3%E5%AD%90%E9%AB%98%E7%94%9F%E3%80%80%E7%8A%B6%E6%B3%81%E8%AA%AC%E6%98%8E&src=typed_query

彼女たちはデジタルネイティブスマホネイティブであり、

学校の教材も多くがデジタル化されているだろう。

まりデータ処理が生まれつきできている世代である

迅速に的確な情報収集して判断する能力が鍛えられている。

先日も、若い世代議論が怖く、多数決を好む、

という興味深い記事があった。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220707/k10013706251000.html

これも、口頭による議論という不確かで一過性のものより、

データ処理に基づく冷静な判断を求めている証左ではないだろうか?

思えば、「朝まで生テレビ」のような議論番組は、

ショーとしては成り立っているものの、

そこでなんらかの「結論」が導かれることはない。

また、テレワークが普及し2年が経ち、

無駄会議が減った」

「事前に資料を共有したり、時間を決めて会議するようになった」

という企業の声を聴く

こうしたことデータ処理の一環であり、

若者最初からこのような「整然とした」プロセスを好む。

いっぽうで、昭和世代、今の50歳以上については、

「顔を交えて議論しないと進まない」と感じる人も多いようだ。

「胸襟を開いて」「心を通わせて」といった表現を好むのも、

比較高齢者に多いのではないだろうか。

ここにあるのは、老人は決定プロセス感情必須としていることである

もちろん、個々人の行動は感情をもとにしているのが当然で、

モノを買うときは皆、感情に基づいて買っているだろう。

しかし、今回は選挙である

服を買うときのような、ジュースを選ぶときのようなものとは違う。

議論ロジックで、冷静に判断すべきものである

そこに、これまでの日本人投票行動の未熟があったのではないだろうか。

国会議員にはアイドルタレント出身者も非常に多いが、

有名人認知度、という「親しみ」という感情をもとに判断やすく、

票を集めたいからという目的なのだろう。

これは個人意見なのだが、

はたしてこれが民主主義なのだろうか、という疑問である

アイドルタレント政策を持っていて、

それを実現するために提言した結果立候補する、というなら歓迎である

しかし、

権力基盤があって、それの広告塔としてタレント採用されるのであれば、

議員とはなにか?とすら思えてしまう。

理想・構想のない人間国会椅子に座る意味とは?という純粋な疑問である

そして彼らを選んできたのも、国民責任である

昭和テレビ時代であった。

ブラウン管を通じて、感情を動かされた人に、親しみを感じたのである

もちろん、長い戦後歴史のなかでは、

真面目に政策議論をした時代もあったろう。

しかし多くの日本人は、それを判断できなかった、ということもあるのではないか

一言でいうと、政策理解できないバカが多かったのである

から国民生活を守ります!」「所得を増やします!」

という、バカ向けの演説を行わざるをえない。

演説する人も、「バカバカしい公約だ」と思う時もあるだろう。

しかしそうしないと票が取れないのだから仕方ない。

このような蒙昧で前時代的なシステム立脚している選挙に、価値はあるのだろうか。

もはや、すべてオンライン投票でいいのではないか?とすら思う。

票を入れる前に、候補者思想政策を何千文字くらいで詳細に読めるようにする。

動画10分くらいの演説も見られるようにする。

経歴だとかは細かくはいらない。

「どんな業種で、長年従事してきた、〇〇のプロである」が分かればいい。

そこで判断すればいいと思う。

これはデジタル学習に長けた若者にとっても歓迎されるのではないか

断っておきたいが、私は田中角栄氏が嫌いではない。

「おーっ!奥さんよろしく!」握手をしに行ったエピソードが好きである

しかし、それは別に私が感情を揺さぶられたわけではない。

「その時代において」「もっとも適切に・合理的に票を獲得する」方法を、

実践していた、氏の能力評価するからゆえである

人たらしと言われた羽柴秀吉に通じるからである

まりその時代にあった方法を、常に探り続ける、というのが重要なのだ

今の選挙方法は、昭和と何が違うだろうか?

違うところを挙げるほうが難しいのではないだろうか。

そういうことである

ダルマに目を入れたり、赤いバラ当確者の名前に張り付けることが悪いわけではない。

「今、この方法が最適なの?」「街頭で無防備に叫んで、握手することが必要なの?」

問うこと重要なのではないだろうか。

外国によっては、その「問うこと」自体禁止されている国もある。

日本は恵まれた国であり、民主主義恩恵を得ている。

民主主義を最大化する、そのためには、

若者意見積極的に取り入れ、

企業や国の意思決定に関与させることだと思う。

歴史を見ても、老人が意思決定すると、独裁・強圧的な国家生まれる。

戦国時代を終わらせるきっかけとなった桶狭間の戦いとき信長20代であった。

天安門に集まり戦車の前に立ちはだかったのも、若者であった。

つの時代も新しいもの若者からまれるのである

企業生存戦略でも同じ。

新しい技術クラウドだとかセキュリティへの投資を怠ると、

もはや取引から選択対象から外れ、成長が困難な時代になっている。

「今までこうだったから」「現状こうだから

という企業は潰れていく。

逆に、若い社員にまかせて企画したり、SNSを通じて発信するような企業は、伸びている。

デジタル世代が急速に育っていて、ポテンシャルの高い人材が生まれている。

彼らを押しつぶすことのないよう、彼らの才能を最大限活かして、

日本繁栄を推進していくことを強く希望する。

それが安倍首相へのはなむけであるようにも思う。

2022-07-01

anond:20220701201452

外なエピソード

おもしろいことに、光秀の性格を窺わせる、菓子関連のエピソードが残っています天正10年(1582)6月2日本能寺の変信長を討った数日後のこと。京の人々が光秀に粽を献上しましたが、光秀は笹の葉の包みもとらずに粽を口にいれてしまったそうです。信長を倒したものの、あてにしていた援軍もえられず、いらだっていたためでしょう。京の人々はその姿を見て、この程度の人物かと、光秀の器を見限ったそうです。(『閑際筆記(かんさいひっき)』より)光秀は和歌連歌を好み、茶湯をたしなむ文化人でもありましたが、この時ばかりは動揺を隠せず、自分を失っていたのでしょう。

https://www.toraya-group.co.jp/toraya/bunko/historical-personage/032/

これどういうことだろうか。

イライラして動揺してる姿が上に立つ器ではない、というエピソードなのだろうか。

説明不足だなあ。

2022-06-27

家康が天下とったのは必然

本能寺の変の直前、

上京する家康にたいする光秀の接待が悪かったといって足蹴にした、

という話があったりするが、

創作臭い話は抜きにしても、信長家康に対して

かなり丁重に扱っていたのは事実であり、

接待が悪くてひどく叱ったため光秀の恨みを買った、

というのはあり得る話である

もちろんそれは働きっぷりもさることながら、

家康名大将の噂を、信長は逐一聞いていたかである

また秀吉政権になってからも、

有力大名が困ったら、まず家康相談してとりなしてもらっていた、

という案件がかなり多い。

伊達政宗加藤清正豊臣秀次といった有名どころはほぼすべて家康の世話になっている。

かい家臣に対することなどまで相談に乗っている。

「内府殿に相談すればまちがいない」

という空気があったに違いない。

やっぱり人の上に立つ人間だったということだろう。

ちなみに家康に近い評価だったのは前田利家だったらしいが、

秀吉の後を追ってすぐ亡くなってしまった。

そういうこともあって天下をとった。

2022-06-22

anond:20220622145532

出生

天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵信安の次男として生まれる。長安祖父春日大社奉仕する猿楽(現能)金春流猿楽師で、父の信安の時代大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。この頃に生まれたのが長安であったという。

武田家臣時代

父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになったという。長安信玄に見出されて、猿楽師ではなく家臣として取り立てられ、譜代家老土屋昌続与力に任じられたという。この時、姓も大蔵から土屋に改めている。長安蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。

武田信玄没後はその子・勝頼に仕えた。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、兄・新之丞や寄親の土屋昌続は出陣して討死しているが、長安は出陣していない。天正10年(1582年)、織田信長徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)によって武田氏は滅亡する。

ただし一説では、武田勝頼からまれたため、武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り、三河国に移り住んでいたとも言われている。

徳川家時代

遠江国佐野郡懸川宿の年寄に対する掟書(『德川家奉行連署傳馬掟書』慶長6年1月個人蔵)[2]。伊奈忠次彦坂元正連署しており、「大久保十兵衛」[3]と記され黒印が押されている

甲斐武田家が滅んだ後、長安徳川家康の家臣として仕えるようになる。家康甲州征伐の際に逗留用の仮館を長安建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。また、一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一を通じて自分信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、家康に仕えるようになったともいわれている。

長安大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。この際に名字を賜り、姓を大久保に改めた。天正106月本能寺の変信長が死去して甲斐家康の所領となる。しかし当時の甲斐は、武田家滅亡後の混乱から乱れていた。そこで家康本多正信伊奈忠次を所務方に任じて、甲斐の内政再建を命じた。ただし、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安釜無川笛吹川堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建したと言われている。

天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康関東に移ることになる。この時、長安青山忠成(江戸町奉行)、伊奈忠次長谷川長綱彦坂元正らと共に奉行代官頭)に任じられ、家康関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。

また、関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安長谷川長綱彦坂元正伊奈忠次と共に関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任されている。

天正19年(1591年)には家康から武蔵国八王子(後に横山)に8,000石の所領を与えられた。ただし、八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石を与えられていたという。長安八王子宿(現・東京都八王子市)に陣屋を置き、八王子十八人代官を置き、宿場建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。石見土手と呼ばれている。

長安はまた、家康に対して武蔵治安維持国境警備重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心誕生した。慶長4年(1599年)には同心を倍に増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。戦後豊臣氏支配下にあった佐渡金山生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月大和代官10月に石見銀山検分役、11月佐渡金山接収役となる。

慶長6年(1601年)春に徳川奉行補佐にて甲斐奉行8月石見奉行9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康長安経理の才能を高く評価していたことがうかがえるものである

慶長8年(1603年)2月12日家康将軍に任命されると、長安特別従五位下石見守に叙任され、家康の六男・松平忠輝の附家老に任じられた。7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。

慶長10年(1605年)、大久保長安普請奉行として武蔵御嶽神社の本社普請

慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安家康から全国の金銀山統轄や、関東における交通網の整備、一里塚建設などの一切を任されていたのである現在知られる里程標、すなわち1里=36町、1町=60間、1間=6尺という間尺を整えたのも長安である

これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。また、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったこから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8,000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的支配を任されていたと言われている。

慶長17年(1612年)7月27日、中風にかかり、家康から烏犀円を与えられている(『駿府記』)[4]。

しか晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さら正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年(1613年)4月25日中風のために死去した[5]。享年69。

長安の死後に生前不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査拒否したため、慶長18年(1613年)7月9日、長安嫡男藤十郎(37歳)、次男外記(36歳)、三男・青山成国(30歳)、四男・達十郎(29歳)、五男・内膳(27歳)、六男・右京長清(23歳)、七男・安寿(15歳)、以上7人は切腹となった。また縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった(大久保長安事件)。

人物逸話

ほとんど外様に近い立場から[6]老中(加判)に就いた唯一の人物であり、その謎めいた生涯は多くのフィクション対象となっている。

無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。

金山奉行などをしていた経緯から派手好きであり、死後、自分遺体黄金の棺に入れて華麗な葬儀を行なうように遺言したという[7]。

一説に長安は、家康より政宗のほうが天下人にふさわしいと考え、政宗幕府転覆計画賛同していたと言われている。

2022-06-20

信長秀吉を可愛がり、家康を信頼してました。

秀吉信長を畏れ敬い、家康をけむたがっていました。

家康信長にへつらい、秀吉を内心馬鹿にしてました。

2022-06-18

本能寺の変について個人的考察

当時信長の頭の中には、東国東北徳川家康に、

中国九州羽柴秀吉に任せる構想があったらしい。

そして柴田勝家上杉の抑えで北陸方面を。

すると秀吉と同勢力もつ光秀はどこに置くかということになるが、

光秀本人は、もし京都近辺の坂本城丹波亀山城を召し上げられるのであれば

四国征伐希望していたらしい。

しかにこの方法であれば4人の有力大名が均等に分散できる。

しか信長は光秀に秀吉の部下となることを命じた。

その時点では中国平定が目前になっており、

中国を光秀、九州をそのまま秀吉に当たらせるつもりだったのだろう。

しかし光秀はすでに60歳を超えていたといわれ、

当時の平均寿命からすれば老人である

そのような人間中央を外れ、百姓出身秀吉の下につけ、

という命令はもはや限界があったのだろう。

実際、本能寺の変の後に自分の味方をするような事前調略は皆無であり、

衝動的な行動だったことがわかる。

もし信長四国方面に「切り取り次第」を命じていたら、

本能寺の変は起きず、長曾我部は光秀が平定し、

数年後には秀吉九州島津を平定していただろう。

あるいは、中国担当を光秀と正式に交代させておけばよかったと思われる。

ちょっとした命令の仕方ですべてがくるってしまったのかもしれない。

anond:20220618101634

自分が弱小な存在なら、善は急げ。

自分の基盤が盤石なら、急いては事を仕損じる。

 

かな。

 

桶狭間信長は善は急げ。

武田家を滅ぼすときには急いては事を仕損じる。

 

PayPayがスタンダードになりつつあるときでも

ドコモauは後追いでもなんとかなるけれど

ベンチャーとかはソフトバンクQRコード支払いに進出してくるまでの

猶予期間に急いで仕事を仕上げておかないといけなかった。

 

とか?あんまいい例え思いつかなかったけどだいたいそんな感じだと思う。

とにかく劣勢勢力スピードが命なのは間違いないのでは。

2022-06-15

なぜ戦国時代は学ぶことが多いのか

織田徳川連合軍天目山武田家を滅ぼした時、

信長は片手千人斬り土屋昌恒の武勇を称賛したり、逆に裏切った小山田信茂を斬るなど、

である相手への敬意があるからである

それは剣道柔道空手といった日本武道全般にも通じるものがある。

このマインドこそが学ぶことではないだろうか。

https://www.youtube.com/watch?v=u0FFoMclLw4

追記

この動画によると、その場しのぎの情勢を見た寝返りを「鍔下の返り忠」というらしい。

https://www.youtube.com/watch?v=sDWxKz7wms4

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