はてなキーワード: 人口密度とは
男は働かないといけないという性別規範のせいで長時間労働がまかり通ってて。
それは女は家庭のことをするという性別規範があるからこそ、可能。男は長時間働く、女は家庭のことをする(加えて労働力減少により、家庭のことをしながら男並みに働けと要求されるのが現代)という選択肢以外が許されないの、生きづらいだろう。
女として生きづらさを感じるのは、社会が男目線で作られてるから、男の性欲を満たすコンテンツで溢れてたり、メディアに出てくる女は男の理想を描いたものでしかなかったりすること。芸能人にしろ漫画のキャラにしろ、男目線でウケる「女」が圧倒的大多数。(日本より行き過ぎた韓国は整形ばかり)
男の芸能人はブサイクや太った人もお笑い以外で許されてるのに、女でそれが許されているのはお笑いだけ。
男が女をモノ扱いするから、風俗やAVやグラビアといった性ビジネスも盛んだし。それに加えて、生きづらい社会でコンプレックスを感じやすいからか、大人の男にロリコンが多い。韓国にも多いのかな?
男尊女卑が強い地域ほど、女性をモノ扱いする男目線な社会が強く、そこに暮らす人たちは男女ともに病んでる人が多い。どの都道府県とは言わないけど。(新聞見てたらわかるはず、変な事件が多い都道府県がいくつかあるから。人口密度も関係してるかもしれんが、一番人口密度が高い東京より変な事件が多い地域が数カ所あるのは、人口密度が高いことに加えて東京への劣等感とともに育つから、なのかなぁ。
関東の数カ所と四国の某県と中部の某県と。四国の某県は人口密度の高さも原因かもしれないが
脱線終了。
ということは、男尊女卑だからって男が生きやすいわけじゃない。
男も女も生きづらいのに、得をする人間がいるから、まかり通ってる。
システムを変えられる層は男が圧倒的大多数で、既得権益を得てる層だから、変えようとしないのか?という考えと、最近気付いた仮説としては、そういう高学歴エリートの家庭は専業主婦の母親がいるから、問題だと思わないのでは、と。
高学歴になるためには親の高収入が必要、高収入のためには長時間労働で家庭のことをする人間が必要、そうすると、超エリートの育った家庭は父親が長時間労働で母親が専業主婦で家庭のことを全てする、という家庭が多くなる。
そういう風に、専業主婦の母親を見て育っているから、性別役割分業の考えから抜け出せないのかな?と思うのが、最近。
日本も韓国も、生まれつきどうしようもない性別と、生まれつきどうしようもない家庭環境で決まる社会だから、自殺率が高いのでは。
学歴社会についても一応、少し触れておく。
当たり前とされているけど、これが当たり前でいいのかな?
今の日本では、親の経済力で学歴が決まる。教育が無償ではないため、お金をかけないと良い学校には行けない。
学歴が重視されない社会なら、学歴にこだわる必要はないが、学歴で就ける職が決まって高学歴は高収入の仕事に就けるが、低学歴は低収入の仕事にしか就けないという学歴差別がある社会だと、大学までの受験や大学での就職活動で必要以上に競争する必要が出てくる。
競争すらできず、親と同じ社会階層に落ちる人間と、受験や就活で競争させられる人間と…どっちも不幸。
新卒一括採用という採用する側に都合が良く、終身雇用が崩壊した現代では時代遅れなシステムもあり、そういった、やり直しのきかない社会システム(学歴主義や新卒一括採用)に加え、男尊女卑という性別役割分業を押し付けてくるシステムがあり、他の先進国より高い自殺率になっているんだと思う。
韓国を叩いている人間は心のどこかでは日本が嫌いなんじゃないかな、めちゃくちゃ似てるし(占領してた影響? 日本のせいなの?
余談。
最近知ったのは、男であることで得をしていない層(長時間労働という損ばかりで低収入)が、女叩きをしているらしい、ということ。
田舎はまだ無い。
都会で生まれ都会で学び都会で働いてきた。
私の人生を走馬灯のように振り返った時、田舎の風景が映るのは家族や学校行事で遠出をした時だけである。
それでも私には田舎への懐かしさがある。
広がる田園風景の中に木造家屋がチラホラと見えるだけの人口密度の極めて低い通学路。
そういった光景を見ると懐かしさがこみ上げ、望郷と呼べるような感情が胸の内側からゆらりと吹き出してくる。
何故だろう。
私は田舎を持っていない。
それでも私は田舎に懐かしさを感じる。
テレビや映画の世界で田舎を見ると、自分もそういった何にもない世界から本数の少ない電車を乗り継いでここまでやってきたかのように錯覚する。
不思議だ。
故郷を思う時、心に浮かぶのは、自分が過ごしてきた都会の景色よりむしろ、そうやってメディアによって植え付けられた田舎像なのだ。
県名 | 人口 | 人口密度 | 県庁所在地 | 人口 | 人口密度 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|
石川県 | 1,150,818人 | 275人/km² | 金沢市 | 466,189人 | 995人/km2 | 中核市 | |
富山県 | 1,061,393人 | 250人/km² | 富山市 | 418,142人 | 337人/km2 | 中核市 | |
福井県 | 782,584人 | 187人/km² | 福井市 | 265,357人 | 495人/km2 | 施行時特例市 | |
県名 | 人口 | 人口密度 | 県庁所在地 | 人口 | 人口密度 | ||
大分県 | 1,159,634人 | 183人/km² | 大分市 | 478,586人 | 953人/km2 | 中核市 | |
宮崎県 | 1,095,863人 | 142人/km² | 宮崎市 | 399,979人 | 621人/km2 | 中核市 | |
佐賀県 | 828,803人 | 340人/km² | 佐賀市 | 235,651人 | 546人/km2 | 施行時特例市 |
似てるっちゃ似てる
なんかさー、高齢者の自動車事故が増えていて、自動運転の必要性は高まってると思うんだけど、
問題になってるのは車がないと生活しにくい田舎の状況だと思うんだよね。
都会は公共交通機関が発達しているから自動車は生活必需品じゃないし、人も車も多いから自動運転の実験しようにも危険が多いし。
だから、自動運転タクシー特区を人口密度の低い(若者も少ない)過疎農村地帯あたりに策定して、
そのエリアだけ走行するように設定した自動運転タクシーを無料もしくは安価で(実験だから)投入。
各家庭の玄関にボタン一つで自動運転タクシーが呼べるパネルでも設置して高齢者でも簡単に呼べるようにする(時間予約もできると尚便利かも)。
乗ったら音声認識で「◯◯に行って」の一言で移動。「ここを右に曲がって…」みたいなのにも応えられるようにはしておく。
着いたら降りるだけ。料金はパスカード式にしておいて移動のデータも残しておいて、次回は同じ場所ならすぐ行けるようにする。
農作業用に自動運転軽トラもタクシーとして使えるようにするとか。
エリア外に行きたい時はその地点から有人タクシーか路線バスに乗り換えるとかできるようにして。
最初は「自分の車を自分で運転したい」という人も多いかもしれないけど、自家用車と同じぐらい便利でコストも安いと実感すれば利用者は増えるだろうし
小泉進次郎氏が、
「悲観的な1億2千万人より、自信に満ちた6千万人のほうが良い」
と語ったという。
http://xn--nyqy26a13k.jp/archives/25808
これに対して、切り捨て、虐殺、優生思想と感じた人がいるようです。
日本の人口密度は2005年(平成17年)で343人/km2で、人口1,000万人以上を有する国の中では、バングラデシュ(2005年で985人/km2)、韓国(同493人/km2)、オランダ(同393人/km2)に次いで4番目(注:台湾の627人/km2を含めると5番目)の人口密度をもつ。 ただし近年では日本の人口は減少傾向にあり、また途上国や新興国の人口増加により日本の人口密度を上回る国が増加している(2012年時点では、台湾を含めて9番目になっている)。
平野部への偏在
日本は山地を多く含む国であり、人口は都市部や平野部に集中している。日本の過疎地域のデータによれば、2006年4月時点で過疎市町村となっている地域の面積は 204,329km2で全国面積に対する割合は54.1%、そこに居住する人口は約1064万人で全人口に対する割合は 8.3%、この地域での人口密度は52人/km2となっている。逆に、残り45.9%(173,506km2)の地域に、総人口の91.7%(約1億1711万人)の人が住み、この地域での平均密度は675人/km2となる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E5%AF%86%E5%BA%A6 より引用
人が少なくなれば、既得権益も薄れていくはずですし、その分日本の経済的なリソースは各個に新たな配分がされるように変化していくはずです。
これまで人類は経済的に行き詰ると、戦争をすることで、新たに破壊と創造をすることを繰り返してきたと思います。
大規模戦争が少なくなった今日では、人口減少が戦争に変わる新たな平和的な破壊と創造の契機となるのではないしょうか。
戦争はやりたくない、でも人類社会は平和が続くと行き詰る、とすれば、人口減少は人類が直面している新たな人類史のページであると言えると思います。
国ごとに社会の段階が異なりますので、国際関係の具体的な問題において異論はあると思います。
ですが、私たちは新しい人類の歴史におけるパイオニアという地点に立っていると、人口減少を肯定的にとらえても、いいのではないでしょうか。
俺は横浜の郊外出身なんだけど、まさかここまで人口密度に差があるとは思わなかった。
平日の電車、ラッシュ時に混雑することは知っていたが、まさかラッシュ時以外でもそこそこ混んでるとは知らなかった。
横浜ではラッシュ外れたら結構閑散としてる。ラッシュ時は乗車率200%近くまでいく田園都市線でも、時間をずらせばスカスカよ。
駅では常にぶつからないよう神経尖らせなきゃいけないし、バスだって座れた試しがない。
豊洲付近に住んでるんだけど、世帯数200以上のマンションがアホみたいに出来てる。
人口が増えたって道が広くなるわけないんだから、当然、道はごちゃごちゃ人だらけ。
人混みを歩くのって想像以上にキツい。
ぶつからないよう神経使うし、ちょっとでもモタつくとイライラする。
東京でカフェに入ってゆっくりしよう…なんて不可能もいいとこ。
カフェの席は常に満席で、座れても人だらけでゆっくり出来ない。
トイレも混んでるし、人が通り過ぎてウザいし、ノマドワークやら勉強やら、こんなとこで出来るわけない。
これだったら、大阪のがマシ…と思っていた。
ず~~っとカフェが満席で道も人でごちゃごちゃの超過密都市を目指してんのか?
人口が減少してるなんて嘘だろ?むしろ毎年、土地が縮小してんじゃないの?って感じる。
このまま移民受け入れとかやって人口密度が更に上がったら、一体どうなるんだろう。
最近の日本のゲームがメチャクチャ品質に優れてると思うのは、表現のリアルさだな。表現の良いものを据置機・携帯機で販売し、その補助としてPCゲームを利用している。1970年代からトンデモ文化だったゲームは今や大衆文化。従来型ゲームを残し、進化させたことが奏功したともいえるよね。リア充の人は、アニメを見て、そこからPCのオンラインゲームなりスマホのゲームをしている人がいると思う。パズドラを深く楽しみたい人は3DSのみならずスマホを買う。ソシャゲとはオンラインゲームに近いスケールのものであって、中毒性質のない古典型とは違う。オタクならよくわかると思う。ゲーオタにとって任天堂やソニーのそれはXBOXとともに本格的にゲームを楽しむための機械。事実上のネトゲであるソシャゲは難易度が低く、リア充の遊びであって敷居が低い。深く味わうにはPCゲーム買うほうがよほど効率的だ。
こうしたゲームを含んだサブカルオタク圏というものがあり乗り物文化・非大衆文化がある。さらにそれと構造を共有する文化があって、それは「サブカル性」の存在が日本文化の繁栄を実現している場所なのだ。問題は、それ以外のもの。そこには深く楽しむのための技術がない。
たとえば中国には据置機ゲーム開発メーカーがないという。PCソフトゲームこそあるが、その品質も据置機にすら負けていることは、マリオを愛する日本の人間にはよくわかっている。ソシャゲ嫌いがほとんどだからね。韓流台流ゲームはアメリカ流のそれと比較するべき水準ではなく、どちらかというと和製オンラインゲームと似ていると思う。サブカルの拡張ために発展した据置機文化と共有できる要素がない。単に特殊アイテムを買うときだけに金を払わせるので収益性がない。ミーハーはともかく硬派からの評価は高いといえない。
アジア諸国の交通が長い間道路に依存していてそれを鉄道が補っているように、韓国や台湾や中国は鉄道オタクに対する理解が遅れている。アジア諸国はマイルドヤンキーが多いから、中韓台より事情は悪いかもしれない。「日本は異常なんだからいいだろ!」とヤンキーに言われそうだけど寛容性は大事よ?大卒の元ギャルにお世話になったことがある。ギャルはいい文化だと言っていた。誇らしげだった。しかし「リア充」という感覚ではなく「元ギャルの人」という意識があるような感じだった。鉄道好きだって「鉄道オタクではなく元変わり者」という感覚が古い世代にはあるはずだ。車・バイク好きのオタクに以前噛みつかれたが、それこそヤンキー文化のソフト版が車・バイクカスタムフェチでしょう。痛車好きは一応オタク文化だが、敷居が低いこと、イメージの悪い時代の存在、極めて似ている。鉄道好きも車・バイク好きもマイルドヤンキー化しているし硬派の存在を無視した大衆化だそう。道での繋がり傾向のサブカルとは違うのだ。
2000年代に不良の衰退でまともになった点や文化的歴史の位置づけにおいて、バイク文化とキモヲタ文化は似ている。どちらもへそがないものだ。しかしこれらはマイルドヤンキーとは違い、縦方向の上下があり、そこでは繋がりが途切れることない。バイクは1970~1990年代世代、キモヲタは1990年代世代が変わり者の集まりになっている。一方、鉄道路線と鉄道趣味の人口密度の関係はどうか。負の相関関係にあることは誰にでもわかる。とにかく地方ほど鉄道好きが多い。おまけに観光地化も進んでいる。足を引っ張る人間もいる。都会にこそアンチがいるどうもバイクよりかは可愛いバッシングに思える。
ソシャゲが生誕10周年を迎えるが普遍的なビデオゲームとの性質の違いがはっきりしているように、将来この溝は埋まらないと思う。そして、2000年代以降の最近に量産された書物にはこういうパターンが多い。物凄い売り上げになるが、誰にも知られない…。この手の似非サブカル文化がよくないのは、サブカルとは消費者の構造の違いがありすぎるのに、内実を伴う本当のオタク文化のようにビジネスの方向性として普遍化してしまうこと。しかし財界の都合はどうであれマイルドヤンキーの割合が高くなり、民度もばらつきが出てしまう。そこに道の繋がりはなく、完全な単細胞になる。
結果的にハイカルチャーでもなければ、サブカルでもない中途半端なサブカルチャーが寂れる。ギャル文化は(業界面で)のイメージが凋落して久しいがその人達の評判もクソッタレてるでしょ?ヤンキーみたいな末路を追うことになるんです。いい加減な文化はみんなどこも。もちろんアニメ好きや鉄道好きに対するバッシングもあって1989年の宮崎勤ショックや2002年の西武鉄道ショックがまさにそうなのだが、低迷期はわずか10年弱だったし、現在ではむしろ好かれている文化ので、私たち鉄道好きはほんとはめちゃ好かれ者なんだよね。「汚い日陰者」から一転して大成功ってすごすぎるよ。
最近の都市部では駐車場や駐輪場料金も安くなっているのに、いざ買うとなるとかなりの金額がかかり、トータル費用が原付バイクだけとっても最大で10万円台はいささか敷居が低いとはいえない。ロードバイクですら5万円以内で始める事等やろうと思えば可能だ。持続的に利用できて、かつ一定の敷居の高さがあればいいわけ。鉄道は厳かな仕来りを残しつつ観光要素があるのは非常に優秀で、バスもその点では平成以降は充実の流れがある。
最近流行っている鉄道不買運動は、田舎や外国から来たよそ者が参加できない、敷居が高い。しかし難易度の面でも非常に中途半端。ひどいと最低限度の駐車場駐輪場はおろかガソリンスタンドが整備されておらず、都会特有の曖昧な道路交通マナーとあって運転もめちゃくちゃ大変なのである。あれは遅かれ早かれにわかに終わる運命にしかないと思う。別に日本の大都会で増え続ける都市鉄道嫌いと車・バイク好きをDISってるわけじゃないが、日本ではロードサイド文化もろとも車社会は終わる運命にあるし、車やバイクは都市部ではスポーツ用具以外もはや意味ないし、アジア諸国を手本にした再開発を実行したらその発展の犠牲で欧米由来の都市文化の居場所が消えうせるのは必然でしかない。したがって現代であれば満員電車も大量の外国人も必要悪なので、日本は本当の意味で観光大国化がしたいなら防災などの予算などで余った分を人口増加対応に充てればいいと思う。歩道と車道を分離して歩道の容量を拡張する。近年では鉄道の整備に努めているようだが、例えば鉄道だけを取って鉄道の女性専用車が役目を終えたら、その跡にグリーン車を設置したらいい。乗客を分散させるのだ。
神奈川県の横浜の郊外はかつて、関東特有の田舎文化があった。昔の相鉄はローカル線同然だった。それが昭和時代の経済成長で都会の仲間入り。どれ程すごいかと言うと、昔は関東の仙台同然だった横浜の郊外が仙台市とは比べ物にならないような高度なニュータウンへと変貌したというのだ。話がそれてしまった。
電車男でサブカル文化が変わり、鉄道に対するイメージすらJR九州の躍進で変わった。縁の下の人を守り続けることが日本文化の持続可能性のポイントであり、もちろんそれを各現場の人が一番わかっていると思うんだよな~
妊娠中、ハローワークに失業保険の申請をしに行こうと思ったら、
「子どもを保育園なりにあずけて就職活動できる状態じゃないと、失業保険は受け取れません」
って言われた。
じゃあ保育園に求職で申し込みしたら、まぁ不承認通知が届いたよ。
私が住んでいる日本で一番人口密度が高いであろう某町は、待機児童のオンパレード。
認可保育園でも定員ギリギリかそれ以上預かってる状態だし、認可外も数えるほどしかないから、利用したい人が少ないパイを争っている状態。
就職活動したければ子どもを保育園に預けろ→保育園に子どもを預けたければ就職しろ→就職活動したければ子どもを保育園に預けろ→保育園に子どもを……
の無限ループじゃん。
じゃあどうしたらいいの?
保育園から溢れた人間は働けないストレスを抱えて過ごせってことなのか。
それとも、この未来予想をできなかった愚かな自分を恨めってことなのか。
いや、両方かな。
今は夜中に子供と旦那を置いて働きに出てるけど、いつまでこんな生活したらいいんだろう。
少子化って世間では(とくにWebでは)絶対悪であり、日本終末論みたいに語られているわけだが、本当にそこまで言うほど絶対悪なのか?
どうもこの件に対する議論は「少子化は絶対悪なのは皆さんもご存知の通りなのですが~」みたいな雰囲気で始まり、議論参加者もそこに同意してるかのように扱われるので、「少子化は絶対悪なのかどうか?」という部分が棚上げされている感がある。
内容の分析もいい加減で、例えば「高齢化社会」というのは「総人口に占めるおおむね65歳以上の老年人口が増大した社会のこと。」なわけなんだけど、これと少子化がイコールで結ばれるのは間違いだ。もちろん少子化が高齢化社会を助長している場合もあるんだけど、平均寿命の延長化なんかも関係している。つまり、「高齢化社会」議論においての別の問題点、たとえば平均寿命とか定年の問題とか老人の定義であるとかのテーマが「少子化が悪い!」という声でかき消されてるんじゃないかと感じる。
介護テーマの議論も一緒で「介護職の給与が低い」という問題点があったとしても、「これから老人が増えるのに介護人口増えないなんて少子化が悪い!」みたいなごまかし方をすれば、介護給与なんて増えなくなるだろう。
消費人口議論も全く同じで、総消費をあげたければ給料を二倍に(実装部分で言えば最低賃金を大幅に上げれば)物価上昇を伴いつつGDPは拡大するはずなのだが、「少子化で国内需要が壊滅!」という終末論ばかり目につくような気がする。
各論レベルで切り分けて考えていくと「少子化は確かに原因のひとつなのだが、別の原因から、あるいは別の解決方法で解決したほうが低コストに解決できる」問題ばかりなんじゃなかろうか? 例えばの話で言えば、介護人員の解決なんて短期的には現場の待遇改善をすべきだろうし、中期的にはロボットの活用のほうが圧倒的に低コストであるように思う(生産人口もおおむね同じだ)。そもそも、少子化問題は解決に非常に大きなコストがかかる問題だと考えられる。
もちろん「少子化は実は善だったのだ!」なんていうわけではなく、当面不都合ではあるんだけれど、「そのほかの問題を放り出して莫大なコストをどぶに捨ててまで解決すべきこと」であるような気がしないし、いろんな記事や本を読んでみても、そこまでしなければならないという納得のいく説明を見つけることが出来なかった。
Web世論的には、「少子化=老人社会=経済沈没=日本壊滅」的な自虐世界観で生きている人々を散見するんだけれど、彼らはどういう洗脳を受けているんだろう? 日本より人口密度の低い国も人口が少ない国もたくさんあるのに。