はてなキーワード: 祖先とは
私も小学生のときに車に轢かれて全治2ヶ月の怪我をしたけど、足の骨を折っただけで済んだ。
でも、たまたま同じ日に交通事故で同じ病院に担ぎ込まれた隣の小学校の同い年の子はその日のうちに亡くなったらしい。
もちろん、亡くなった彼女と私には何の面識もない。
だけど、あの夜にお母さんが泣きながらあんたが生きててくれて良かった、と言ったのはよく覚えてて、なんで生き残ったのが私の方だったのかな、とその後の人生で事あるごとに脳裏をかすめてた。
意味なんてない、そんなのは分かってる。その後の私もこうして生きてるのはたまたまだ。
かき集めたベゲAをODしたあのとき運が悪かったら、たまたま津波が来る前に引っ越してなかったら、今こうして増田なんかしてなかったかもしれない。
でも、人生は「たまたま」で済ますにはあまりに過酷な出来事が多すぎるように思えてならない。
人間でなく動物に生まれていれば、動物でなく植物なら、いやいっそはじめから生まれてなんかこなければ…?しかし私が人間に、日本に、こうして生まれてきたのも「たまたま」なのだ。
全ては虚しい。私はやがて死ぬ。私たちの祖先が全て辿ってきたのと全く同じように。あの日、私と同い年の彼女が幼くして亡くなったのと同じように。
http://lab.agr.hokudai.ac.jp/systent/akimoto/lect-ent/lect4.html
昆虫の翅の起源-----有翅昆虫の最大の特徴 鍵形質 新たな生態的地位を獲得
・翅のような形質は、ごく短い段階から少しずつ大きくなったはずである(漸進的進化観)
・しかし、進化の中間段階には、翅は飛翔に利用できなかっただろう(中途半端な構造物)
中間段階の有利性 前適応exaptation 「翅」は別の用途で発達し、後に別の用途
さらに祖先を遡ると、甲殻類の脚の付属物にたどり着く可能性が遺伝子の働きから指摘されている
「翅は昆虫においてエラとして進化し、後に移動のための道具として転用され、滑空の道具を経て、上昇力を生み出す形質に進化した」
[追記あり]
日本語の母音は昔からアイウエオ5段だったわけではなく、時代によって変遷があった
50音図やいろは歌が広まった平安時代以降は概ねアイウエオ5段だったんだけど
万葉仮名の分類を行った結果、かつては
(ア)(イ甲)(イ乙)(ウ)(エ甲)(エ乙)(オ甲)(オ乙)という8段の母音があった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%BB%A3%E7%89%B9%E6%AE%8A%E4%BB%AE%E5%90%8D%E9%81%A3
という話を前提として。
この8音はどの音も平均して使われていたわけではなく、出現頻度の高い音と低い音があることを大野晋という学者が発見した
https://www.dai3gen.net/boin.htm
なぜこのような分布の差ができたかという理由について、大野晋は
出現頻度の低い4つの母音は本来の日本語の母音ではなく、他の2つの母音が融合してできたものだという説を出し、現在概ね受け入れられている
(被覆形・露出形/動詞活用の期限 などで調べるともっと詳しい話がわかると思う)
http://shouyouki.web.fc2.com/sakaya.htm
このなかで、エ段音だけは甲も乙も本来の音ではないので、日本語では連続して出てこない
特に擬声語・擬態語では「デレデレ」など新しく作られた言葉くらいしか現れない
[追記]
これは概ね賛成。露出形・被覆形についてはhttp://nobinyanmikeko.hatenadiary.jp/entry/2019/02/23/011616
この法則は複合名詞の時に一部の母音が交替する現象を説明したものなんだけど
例)
酒 サケ乙 : 酒蔵 サカグラ
爪 ツメ乙 : 爪先 ツマサキ甲
木 キ乙 : 木陰 コカゲ乙
身 ミ乙 : 躯 ムクロ甲
この他にも上二段・下二段活用の未然や連用形で出てくるイ段・エ段音は乙類であるって法則があり、
その場合関連する自動詞・他動詞ペアでは上記被覆-露出の交替と同じような母音が現れることが知られている
ちょっと説明が複雑になったんでこれも例で説明すると(わかりやすく現代の上下一段動詞を前に//でつけて説明)
例)
詰める//詰め ツメ乙 : 詰まる//詰ま ツマ
起きる//起き オキ乙 : 起こす//起こ オコ乙
こんな風に、エ乙とアが、イ乙とオ・ウが密接な関係にあることがわかると思う
これがなぜア・オ・ウにイ甲がついたものだと言われているかと言うと
嘆き ナゲ乙キ甲 が 長息 ナガ + イ甲キ甲 が縮まってできたものだったり
日本語の 神 カミ乙 が アイヌ語に kamuy という単語で借用されてたりなどの
"エ段音だけは甲も乙も本来の音ではないので、日本語では連続して出てこない"ってエ段の母音の発生が遅かったから少ないという意味?平安時代には存在して1000年たっててもまだ足りないのだろうか
1000年は結構な時間な気がするけどそれでも足りないみたいだね
例えば撥音「ん」は50音図やいろは歌成立時点では存在せず、今の漢字音が定着した時代に広まった(平安時代末期くらい?)んだけど
それでも「ん」が頭に来る単語はほとんど作られてなくて、それゆえにしりとりのルールが成立する
なお日本語と2000年ほど前に分岐したと言われている琉球方言では「ん」が頭に来る単語がたくさんある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%93
宮古島「んみゃーち」など
ら抜きをすることでエ段音の連続になって言いづらいのにら抜きを強行してる人を見ると、なんでそこまでらを言いたくないのか疑問に思ってる(続ける、見せる、食べるなど
やや話がずれるけど、ら抜き言葉は自発と可能を言い分けるために可能動詞からの類推で派生したといわれていて
発音の制約より意味の使い分けの方が重要だとみんなが思い始めたから広く使われるようになったんだろう
ちなみに「続ける」「見せる」「食べる」自体は特にら抜き言葉でもないんだけど
「続けれる」「見せれる」「食べれる」と言いたかったんだよね?(100文字の制約下で正確にものを言うのは難しいと思うんで)
ただ大野晋自身は後にこの説を放棄し、タミル語の母音に合せて、日本語は初めからa,i,u,e,oの5母音だったと修正している
タミル語説には近づくな
ラ行とパ行も新しいってなんか大学で習ったような習ってないような
ラ行音は特に新しい音でもない。が、日本固有の単語では頭は出てこない
これまたしりとりしたらわかると思うけど、ラ行で始まる音で返そうと思ったら
林檎みたいに漢語由来の言葉を使うかラッパのような外来語を使うか
この原因は色々推測されてるけど、朝鮮~北東アジア一帯に似たような性質を持つ言語がいっぱいあるので
古くはこうした地域に特有の発音方法だったんじゃないかって言われている
(※もっと踏み込んで、直接祖先が一緒だったんじゃないかという説もあるんだけどアルタイ語説には近づくな)
パ行は発音の変化の結果分離した。古くはハ行がパ行の発音だった
北京が「ペキン」なのはホクという読みが昔は「ポク」に近かったことを示してるし
上海が「シャンハイ」なのは昔「ハイ」という音がなく、海の読みに近い音である「カイ」を使っていた証拠
ハ行転呼音で調べると詳しく出てくる
一般的な旭日旗の光線が十六条なのは、菊の御紋(十六葉八重表菊)に由来する。
戦後、軍の解体に伴って「軍旗としての旭日旗」の歴史は途切れたが、
1954年、自衛隊が発足するにあたり、帝国軍旗を受け継ぐ形で自衛隊旗として採用された。
近年、「韓国の旭日旗批判は2011年以降に作られた新しいもの」との風説があるが、
韓国や中国の過去のニュースを見ても、それ以前から「日本の軍国主義を思い起こすもの」として、
ただし韓国における「戦犯旗」という蔑称は2012年頃につけられたものである。
鉤十字。
ヒンズー教や仏教など、古くからさまざまな宗教や民間信仰で「幸運の印」などとして用いられてきた。
1900年頃から、「アーリア人」がヨーロッパ人の共通の祖先であるという思想(アーリアン学説)のもと、
ドイツ国内でハーケンクロイツは「最も優秀なアーリア人であるドイツ人の象徴」とみなされるようになり、
1919年に設立されたナチスもそれを踏まえて1920年に党旗をハーケンクロイツとした。
1933年にナチスが政権を掌握するとハーケンクロイツは国旗に準ずるものとされ、
終戦後、ハーケンクロイツはナチズムの象徴とみなされ、ドイツでは公の場での使用を禁止された。
1990年の東西ドイツ統一以降、ネオナチの活動が顕在化するにつれて、
ハーケンクロイツへの警戒も強まっている。
イギリスのヘンリー王子がナチス風の軍服を着ていたという2005年の問題をきっかけに、
ハーケンクロイツの使用をEU全域で禁止する法案が提出されたが、
これはヒンズー教徒の反対などにより阻止されている。
こうして見ると旭日旗とハーケンクロイツに大きな差はないように思われる。
特に「元は平和的な図案だったが悪質な政治に利用された」といった話は双方に共通する。
ただ、ハーケンクロイツが直接的に「(悪である)ナチスのシンボル」とみなされるのに対し、
旭日旗は「(悪である)大日本帝国の軍隊のシンボル」であるため、やや間接的な関係に思われる。
このあたりの印象の差があり、ハーケンクロイツほどには規制されなかったのだろう。
また近年のインターネットの普及によって、各国のナショナリズム的行動が可視化されたことで、
より大きく反発が起きるようになった面もあるのではないかと思われる。
旭日旗について言えば、
明治になってから軍旗として採用され、菊の御紋と重ね合わされる「十六条旭日旗」が、
皇国史観や軍国主義と結び付けて見られるのは仕方ないのではないか。
仮に旭日旗の使用を擁護するならば、「元は平和的な〜」や「奇誠庸が〜」などではなく、
「十六条旭日旗のみ」に問題を限定したり(この場合は海上自衛隊の自衛艦旗は変更することになる)、
「思想的なシンボルではなく軍旗にすぎない」ことを強調する(この場合は自衛艦旗としての利用は擁護するが平和的な場では使用を控える)、
といった点を前面に出したほうが良いのではないかと考える。
ウイグルのノートとか、虐待死のアレとかについての意見を読み漁っていて
同情や共感というワンクッションを挟まずに、誰が悪いせいでそうなったか話し始めるから○性は怖いと思った
とはいえ、同情や共感が具体的な解決策になることは殆どなくて、「解決」という一点にのみおいてはクソの役にも立たないので
つべこべ言わずに再発防止策について話し始めるのはとても大事なことで
可哀想だねー、大変だねー、辛かったねよしよし、の一連の動作からのタピオカ一服で悲しい事は全忘れ、とかは全く解決には繋がらない
しかし、実際に被害者の立場に立つと、まず求めるのは「誰が真犯人か」という議論よりも「手を取り共感してくれる相手」だろう
犯人がわかったところで、取り返しのつかないことが戻る事はないが、先の人生自分の味方が少なからずいるという事実は大きな助けになる
結局どちらも重要なことで、どちらがより大事かなどという議論こそ、パンティーの役にも立たないのであるし、
それを取り沙汰して異性叩きに使うことになんの生産性もない(と思ったので伏せ字にしてみた)
男性に「共感」が薄く、女性に「解決」が薄い傾向を、どちらが冷酷でどちらが劣っているというような話に繋げてしまうのは軽率で残念な行為だ。
そんなことよりも、どちらかしか持っていなくとも、我々はそれを補いあえるという素晴らしい事実に注目できると良い。
そうして考えてみると、男性が解決し、女性がケアをするという補い合いの構図はよくみられるものだと気づく。男性医師が病を治し、看護婦が看病する。警察の取り調べでは、男性は事実を聞き出す事、女性は相手の心情に寄り添う事、に長けていると考えられている。「女性弁護士が丁寧にお聞きします」のような広告も根底にこの考えを持つだろう。
女性の社会進出によって、解決脳で作られた世界に「共感」という慰めが増えている。被害者にはカウンセリングと自助会を、という動きはこれだ。一方で男性は今まで通りに頼もしく物事を解決に導いてくれている。
このようなジェンダーロールの再評価こそ、フェミニスト、アンチフェミニスト、ミソジニスト、ミサンドリストに必要な慰めであるのだと思う。
のだが
「共感脳男性」「解決脳女性」も世の中には沢山いるし、ステレオタイプな解決型男性や共感型女性にとってもジェンダーロールの押し付けが負担になる。
傾向としては確かに、どちらがどちらに長けているかという事実はある。それを認め合えればマジョリティにとっては幸せなことだ。
だが、現代では「男性はこれが得意でいいよね」「女性はそれが上手で素敵だね」という認め合いが、「男性なら得意でしょ」「女性のくせにそんなこともできないのか」という殴り合いになる。
難しい。
ジェンダーロールは我々の祖先が長い歴史のうちに身につけた生存戦略である。巣作り、狩り、出産、子育て、という一連の生存を分担しあって生きてきた。ジェンダーロールはこうすれば大体上手くいくという生活の知恵だった。
しかし、「大体」上手くいって「大体」のひとが幸せになれればいい社会は終わってしまった。マイノリティの幸せのために、ジェンダーロールはじきに差別として捨て去られるだろう。その良否はともかく、時代の流れとしてはそうなっている。
これからは男性女性ではなく、個人として補い合わなくてはいけない。
難しい。
でもその内適応できるだろう。今はその過渡期に差し掛かっているのだ。旧来のものを捨て、新しいあり方を模索しなくてはいけない。変化は苦しい。けれど「その場所にとどまるためには、 絶えず全力で走り続けなければならない」
人間も社会のあり方も変わるが、それは必要な変化であり必要な痛みであるように思う。ジェンダーロールを捨てることが人類にとって吉と出るか凶と出るか、今の我々にはわからない(少なくとも少子高齢化という凶は出したが)。ただもう変化は始まってしまっているのだ。
俺はずっとマンガ「キングダム」を歴史スペクタクルマンガだと思っていたが、違った。
地元、都道府県、そして全国の高校のやべーやつらと戦って、全国制覇を目指す。キングダムのフォーマットはそれだ。
だからオリキャラ、史実キャラ問わず量産型なやばいやつが途切れることなく出てくる。「秦六将」とか「三大天」とか「魏火竜」とかは「〇〇高校四天王」みたいな感じだし。
と言うわけで自分の中で整理はついた。
それと同時に、寝る前とかに妄想してた「俺のキングダム」が先日無事始皇帝が死に、次世代の英雄たちが顔見せして終わったので、俺の中のキングダムをここに書いて残しておきたい。
いやー、項燕は強敵でしたね…。
この3つだ。
この3つを経糸に、キャラクターを緯糸にしてストーリーが紡がれていく。歴史スペクタクルとしては標準的な形だ。
そして、主人公の信はこの3つの舞台全てにかかわっているという、まさに主人公らしい立ち位置にいる。
そして、それぞれの舞台で魅力的な人物が多数いるので、何をどうやっても面白くならないわけがないのがキングダムの魅力だ。
それを一つずつ解決して、信と政がどんどん力をつけていく。この3つの舞台を上手く使えば、「有名人=とりあえずめっちゃ強い」というヤンキーマンガ的文法から脱することも容易だ。
ヤンキーマンガを揶揄しているわけではなく、歴史を描くのにヤンキーマンガスタイルは合わない、と言うことだ。
さらに、3つの舞台それぞれにラスボスとなる人物が存在することも非常に大きい。
原版の「キングダム」でもこの宮中編は極めて面白い。特に弟の2度の反乱のストーリーは素晴らしい。弟君には生きてほしかったぞ…!壁さんはそんなに…。
後宮のドロドロとした問題が、回りまわって政治の問題となり、そして戦争に至るという、ある意味で「全ての元凶」であることもポイントだ。
そして、そのど真ん中に秦王・政がいるわけで、のちの始皇帝となる彼の胸中にもスポットライトが当たる。ともすれば闇に飲まれる政を救うのが信であり、テンであり、向ちゃん陽ちゃんである。
特に信は様々な事件で後宮に切り込んだことのある人物なので、後宮と言う閉鎖された環境を大きく振り回す役目も持っている。
そして、政治や戦場という表舞台には出てこない、もう見た目からしてヤバい奴らが出てこれるのもこの宮中編だ。
ベルセルクのバーキラカ編がめっちゃ面白かったように、キングダムの宮中編も面白いのだ。ここぞとばかりに妖術!仙術!奇々怪々!な人外どもの共演が魅力だ。
そして、この宮中編で出会ったキョウカイと戦場編、そして政治編を共にしていくという、まさに「裏から表舞台に、闇から光にぐいぐい引っ張り上げていく」信というキャラの魅力も存分に楽しめる。
テンは軍師としてではなく、この後宮における諜報活動をメインの舞台にして、趙高と対決しつつ、対外的には山の民との折衝を、内に対しては暗殺者たちの警戒を、そして信が戦場に行っている間の領地経営などをすれば、「テンにしかできないこと」によって信や政をサポートできる。
キングダム世界の最強の暗殺者として描写される荊軻は、政、信、テン、キョウカイと物理的に対決することができる貴重な存在だし、中国史上最も有名な暗殺者(だと思う)で、しかも人格は高潔。また「傍若無人」の語源にもなった男として(語源は結構いい意味)、知名度もエピソード的にも隙がない。
理想のためには己の手を汚す、歴史に汚名を残しても構わないという政に向かって、「そうはいってもお前がやっていることは中華全土の民を苦しめる行為である」と喝破できる暗殺者。荊軻こそ宮中編ラスボス。
ここに至り、政や信はルァァ!ではなく、筋として、現実的な回答としての「善い国」を目指さねばならなくなる。そして、史実では成功したとは言えない始皇帝の各種改革の意義も、きちんと読者に提示することができよう。
荊軻とキョウカイの戦いはワレブシンなどとは格の違う激戦が展開される。
闇を心に宿す聖王である政と、光を心に宿す暗殺者の荊軻という対比もいい。
荊軻がどのような最期を迎えても、読者に強烈な印象を持たせられるはずだ。
また、結局のところ最後の最後まで残る秦国最悪の毒である趙高のヤバさも存分に描くことができる。趙高と荊軻の対比も面白いかもしれない。人格最悪の宦官と、人格最良の暗殺者とかね。ベタかもしれないけど。
主人公がどんどん成り上がっていく、となれば、それはもうアメリカンドリームの世界なので面白くないわけがない。
クッソボロい小屋から始まって、村、町、郡、県、そして国政にもさんかする秦国の重要人物になっていく様は、政の目線から見ても面白いものになる。
政が初めて信に褒美を手渡したシーンは名シーンだ。家で待ってるテンもかわいい。
最初のうちは昌文君の後ろにくっついて国政や外交を見学するわけだが、そこにキョウカイも連れて行ったりしたのは面白かったな。
賓客として訪れる各国の重要人物との縁もできるし、そこから戦場で対峙するギャップもいい。
テンちゃんには後宮での諜報活動の傍ら、こちらに注力していただいて、戦場でストレスを抱えるよりこちらでほのぼのと領地経営をしていただきたい。たまにキョウカイが飯を食いに来るとか。
そのうち王騎の城をもらえることになったりとかね。
秦は法治主義がかなり浸透してるので、その法治主義の利点、欠点(商鞅の件みたいな)をひきつつ、では信はどういう国を理想とするのか、政はそのためにどういう王でなければならないかが描き出される。
領地経営を通じて、信は大きく成長し、その経験が戦場でも生かされることになるだろう。
なぜ法治国家であった秦が強かったのか。他国との違いは何か、かかすことのできないストーリーになるだろう。
ラスボスはいろいろと考えられる。外交面では斉王だろうが、「国家運営」と言うところまで話が広がれば、丞相・李斯とどういう関係になるかが問題になるだろう。
また、後宮編ともリンクするが、政の二人の息子の問題が大きくクローズアップされる。
信は王子にどうかかわるのか。
そしてここでは蒙恬も大きな役目を果たす。
蒙恬は知略、政治にも優れたイケメンで、最終的に政の長男を奉じて最後まで行動(史記では批判されているが)し、悲劇的な最期を遂げることになるのだが、そこに至る伏線を張り巡らすにはちょうどいいだろう。
この政治編のサブ主人公は蒙恬と言える。李斯、趙高に対抗するにはどうするか、王子をどう教育するか。
個人的に、政の長男扶蘇に「おじさん」と呼ばれてめっちゃなつかれる蒙恬が見たい。
むしろ扶蘇は女の子でもいいぞ。女の子だから継承者から廃された、とかね。
蒙恬はテンちゃんとくっついてもいい。むしろそれだけの材料は十分にある。
宮中編がトリガーとすれば、政治編は撃鉄と言うことになるだろうか。
そして、全ての決着をつける弾丸となる戦場編に舞台は移動する。
誰が至強か!?
誰が至強か!?
汗 明 !
大体このノリでOKだ。文官だった汗明さんがこんな至強に。それがキングダムの戦場である。
宮中編、政治編とはまたベクトルの違った奇人変人のステージとなるこの戦場編では信には思う存分ルァァしてもらって、キョウカイにはスヒンしてもらえばそれでいいと思う。
ここに関してはさほど言うことはない。みんなが思っているような戦場を思い描いてくれればOKだ。
ただ、ぶっちゃけもうちょっと項翼の格は上げてほしいし、何なら戦国最強の項一族とか捏造して項翼のみならず項翔とか項離とか項飛とか「項+飛翔系」の量産型をそろえてもいいかもしれない。ダメか。
それはともかく、李牧さんには政治編でも活躍してもらえるので、戦場での出番はここ一番まで取っておいてもらって、部下のニンジャマスクには退場していただければそれでいいような気がする。ニンジャマスクはなる早でキョウカイに切り捨ててもらえるとありがたい。
上手く描写すれば王賁とキョウカイがいい雰囲気になる寸前のところくらいまで言っても受け入れられると思うんだよね。
ラスボスは当然のごとく項燕。
カリンさんは政治編でも頑張ってもらえばいいので、やはりラスボスはこのオッサンだろう。
後の覇王・項羽のおじいちゃんなので、ぶっちゃけもう項羽として描いてもいいんじゃないって感じはする。歳の問題はあるが。
というのも、信が楚に20万(だっけ)で攻め入った時、蒙恬も一緒にいるのだ。
蒙恬=知将+イケメンなので、蒙恬がいたのにそんな無様なことにはならんだろと言う予測がつく。
そして、歴史系作品の魅力と言えば、「なぜその人物はそんなことをしたのか」に上手い理由をつけるのが醍醐味。
ならば、簡単に「なぜイキリ散らしたのか」に理由がつけられる。
それは、
でOKだ!
楚は国土がでかい。長江もある。ゆえに他国からあまり侵略を受けていないので、楚の内部の城郭がどうなっているのか、兵士はどれくらいいるのかが全く分からない。
なので、だれかが犠牲になってでも強行偵察&戦力を評価をしなければならない。今秦国が動かせるのは80万しかない。いきなり80万で出て行っても、翻弄されて撃破される可能性がある。
ならば、秦王の最も信頼の厚い将軍である信がその「潰れ役」を買って出て、次なる勝利の布石とする!
みたいなことを信の口から言わせれば、信がこれまで経験してきたことで説得力もあるし、王翦ら歴戦の将軍も納得し、一目置かれるだろう。
そうならば、「泥臭い役もこなせる」楽華隊を率い、信の親友である蒙恬がついてきてくれることにも全く違和感がない。
王賁もこのころまでにギスギスをやめて、劇場版ジャイアンみたいな感じで送りだしてくれるだろう。
で、決死の強行偵察であることを悟らせないために(朝廷にもスパイ入ってるだろうし)、公的にも、歴史的にも、「信とかいう若い将軍がイキって20万で楚を攻める」という体にしておく。
「天下の大将軍になる」という目標の信が、「政の目指す国のために、名誉を捨てる」という、劇的な変化を見られるのだ。
そんな内情を、何となく兵士たちは察したとき、キングダム冒頭の「李信将軍!」とついていくのだろう。熱い話である。
歴史を見ると、李信の一族は「優秀だが報われない」一族であることがわかる。
李信の子孫である飛将軍・李広は武勇を誇るも功績を認められる憤死
その李広の孫である李陵は「あいつは寝返った」と勘違いされ、不名誉を着ることになった。
しかし一族は決して衰退することなく繁栄しのちの世にまで子孫を繋いでいる。
つまり、「報われない一族でありながらも、きちんと評価してくれている人がいる」という一族でもある。
その筆頭が、史記を書いた司馬遷だ。先の李陵を弁護したため宮刑を受けてしまった司馬遷は、「自殺よりも歴史書だ!」と熱い情熱を燃やし、史記を書きとおした。
李白が始皇帝について詠んだ詩があるという話は聞いているんだが、それはまだ確認できていないが、ラストシーンは李白に詩を読ませるところでしめてもいいかもしれない。
結局のところ、信が大将軍を目指して走ってきたのは、漂との約束があるからだ。
最初はただの功名心で始まった大将軍の道が、様々な出会いと別れで肉付けされていく。これがキングダムの一番の幹である。
そこで、自分の夢を命を預けられる親友、政にであい、道を同じくする。
そして、「政の目指す国を作るための剣になる」ことに目標がほんの少しスライドするのである。その道の先に、名誉を捨てて理想のために戦うという、信の本来の姿が浮かび上がってくる。
李信の大敗後、だれも責任を追及しないし、処刑もされないし、子孫は漢の時代からそのあとにも反映している。
それは史書には残せずとも、当時の人は本当のことを知っていたということにできる。
王賁あたりに「信、お前がナンバーワンだ」と言ってもらおう。
キングダムがさわやかに終わる可能はどのくらいあるのだろうか。
かなり難しい気はする。
まぁ焚書坑儒については、ある程度行ける。
焚書で焼いたのは、各国の歴史書と、法律の本だ。あと儒教の経典。
これは当時の世相を考えれば、何とか理解できるような気がする。というのも、ぶっちゃけ中華史上初の統一国家を作る、となれば、強引にでも意思は統一しなければならない。
そのために、「俺らの祖先は秦にころされたんだぜ」というような本は廃さねばならなかったろうし、儒教の経典については、はっきり言って法治国家に儒教は邪魔なので、致し方ないといえる。
なんせ、儒教は「徳のある君主が統治するなら、法律など不要」「法律なんてものを作ったら、その法律の穴を利用しようとする小物ばかりになってしまう」というものなので。
その代わり、農業書や実用書は焼かれずに奨励されたというしね。
あくまでも実利、実学、法治思想での近代的な国家運営を目指した、が、それは時代が早すぎた。という感じなのか。
あるいは、「今理解されずともよい。後世に理想を見せるための建国なのだ」と言わせるか。事実、これ以降の中華大陸は「統一しなければならない」という意識がかなり強まった気はする。そして宋の時代に中華思想が完成するわけで。
まず趙高。いうまでもなく裏ボスだ。李斯も裏ボス風味ではある。
そして、裏ボスとしての説得力最高の人物がいる。史上最高の軍師・張良だ。
なんとこの張良、史書にデビューしたのは始皇帝の暗殺だ。始皇帝の乗る車にハンマーを投げ込ませるというエクストリームな暗殺未遂を起こしており、そこで追われる身となってセンプク。その最中に軍学を学び、史上最高の軍師が誕生するわけだが、
割と裏ボスにぴったりなんではないだろうか。
むしろ張良が始皇帝を暗殺しちゃってもいいかもしれん。病気でなくなるよりは劇的だろうし。
後は妖術師徐福だな!
格はだいぶ落ちるが!
まぁいいか!
余命少ない俺には、生きている間にキングダム完結が見られないのでこんなことを書きました。
俺の代わりに最終回まで見届けてほしい。