はてなキーワード: 思考パターンとは
ブコメの反応見てると、段々かつての「嫌韓厨」じみてきてるな、これ。
単なる韓国アイドルが好きな人、韓国映画の話をしたい人、昨日の夕飯が韓国料理だった人etcを捕まえて
「お前は韓国人だな!反日氏ね!慰安婦などとでっち上げをするな!」といきり立ってた人たちそっくり。
「韓国人は全員慰安婦問題に関心があると考えるのもおかしい」わけだが、
彼らは「韓国の話をする奴=韓国人=反日であり慰安婦問題を引き起こした元凶」と信じてるから話が通じない。
で、「韓国人は知能が低いから話が通じない」「嘘つきで意見をころころ変える」と言い出す。
前提がそもそも間違ってるから話が通じないだけだし、「韓国人」という共通人格が存在するわけじゃないから人によって意見が違うのも当たり前なのに。
こんな事を繰り返していれば「また頭おかしい嫌韓厨が出た」的な反応する人も出てくるわけだが、
それも「論理で勝てないから人格攻撃wwww」みたいな事を言い出す。
慰安婦問題についての詳細を解説する人も出てくるが、それも「全部でっち上げ。以上」で思考停止しているから理解しようとしない。
そもそも前提となる知識がないから解説を理解できない。「知識がないから理解できない」事も理解できていない。無知の知の逆。
理解できない部分は全て「でっち上げ、詭弁、言い訳」と決めつける。
歴史ってのは複雑な要素が絡み合っているもので、そうそう単純な構図で説明できるものではないのに
それを理解できる(せめて「複雑で難しい構図である」という事だけでも理解できる)だけの知識も知能もないから、それより単純明快なトンデモ論を信じてしまう。
まるでモンスターみたいな「韓国人」像と、それに攻撃され迫害されていく自分たち日本人、という謎の世界観が出来上がる。
その自分たちが作った世界観と現実がずれている事にも気付かない。
いつか日本は「韓国人」に支配されてしまう!このままでは日本は終わりだ!という被害妄想に囚われる。
んでその世界観を元にデモとかやってしまう。あのテレビ局は韓国ドラマを流しているから反日だ、あの芸能人は在日韓国人だから反日だ、と言い出す。
あの犯罪者は韓国人に違いない、何故なら日本人がそんな犯罪をするわけがないから。そんな事を本気で主張する。
傍から見たらありもしない敵相手にシャドウボクシングして外国人差別やってるやばい人たちでしかないから
それも「韓国人とそれに支配されている連中が攻撃してきた!」としか認識しない。
昔の2chはそういうのが沢山いた。
ほんとそっくり。
私はメカ系?に分類される職場なのでいわゆる「理屈っぽい話」をする機会も多い。
マーケティングやプロモーションとか他のジャンルでも会話の構成は共通だとは思う。
(より広く言えば社会問題に対する世間話とかも同じ。原発とか表現規制とかでも噛み合わない事例の何割かはこのパターンな気がしている。)
→3.提案内容について、その数値を何らかの計算式で求めると目標を満たしています。
→4.同意、納得して下さい。(決裁者なら)GO出してください。
的な奴。
私の中の理論武装的なテクニックって主に3(場合によっては2の一部まで)に意思を入れて改変することだと思ってる。
ただ、世の中には会話中に1をコロコロ変える人が結構いるのだと最近気づいた。
(※理屈が全くないところに理屈を付加するのが理論武装で改変を含めるのは定義の拡張な気もするが、拡張したらその2つは同義として扱えそうなので以降はそのニュアンスで感じて欲しい。)
前者の私の定義の例だと
現実では「いつもと違う手法ですけど、この計算なら強度を満たしています」とか
「この理論で計算するとこれだけの広告効果が見込まれます」みたいに
小手先で"頑張る"こともあると思う。それについては全く気にならない。
それは上に書いた流れのスタートである1の内容に影響がないからだと思う。
後者を例えるなら、
儲かる新事業を考えてる場で「これ絶対儲かります」→「いや大損じゃね?」って流れになってから
「この事業は会社的には大損ですが、社会のためにやるべき内容です」なんて急に言い出したら
ドラマ等だとまだカッコいいかもしれないけれど、現実だと単に発言が矛盾してる&提案の場所を間違えている人になってしまう。
「何を目的と捉えているか」なので、要は最初から解釈不一致と言えばそれまでなのだが、
流石にそこは共通認識が欲しいし、(理屈っぽい話をしているなら)明示すべき要素だと思う。
もう少し例えるなら、
鬼ごっこをしているときに「バリアー」とか言い出すタイプ。これだと思う。
即興性で遊びたいなら最初からTRPG的なルールで遊べば良い。(もちろん、そういう雰囲気の時もある。)
いずれにしろ「校庭や公園でみんなで遊びたい」が根本のはずで、
一人だけ「他者に勝ちたい」駆動の人が混ざってるとやっぱり噛み合わない。
こちらが根本だと思ってる第一条件を二転三転させながら「ロジックを提示しているのだから論理的に話している」という態度を崩さない人は非常に扱いにくい。
こちらからしたら支離滅裂でしかないので当然同意出来ないのだが、
「この理屈のどこがおかしいんだ?」「〇〇さんはこの提案で大丈夫と言うのに反対なの?敵なの?」みたいに硬直化する人がいて、そのときは本当に参った。
誰が言っていることが正しいかは難しい問題なので、一概には言えない。当然私が変な事言ってることも多いとは思う。
でも、結論ありきの人が順当な論理的思考を装うのだけは受け入れられないなぁ。
(こいつ絶対悪い奴だ。絶対に犯罪してる)→「〇〇に違反しているので客観的に見てこの人は悪い奴です」
職業的なペルソナは生身が見えている上で演じるものだから、見る側も演ずる側もその人の容姿の印象に引きずられる。
一方、VRアバターも、ネトゲアバターも、SNSやネット掲示板上も、まったく別の姿かアイコンかあるいはそれすら存在しない状態から個性を一から構築できる。
普通の人はそれほど「自分」からかけ離れた表現をしようとしないから気づかないだけで、この2次元的な性質はものすごく強力で可能性があるもの。
これを従来の「自分」的なものを持たない、そもそも常時オンラインゆえに「自分」が希薄なデジタルネイティブ世代が操るようになると、良くも悪くもめちゃくちゃ面白い世の中になりそうだなって話だよ。
アバターを操ることを半ばビジネスにしている人たちを見ていくと、一般人の想像を絶するほどストイックにやっている人が多いことに気づくだろう。誰に言われるでもなく。それは、それが理想だからなんだよ。俺の理想じゃない。誰かの理想でもない。たぶんミームがそうさせている。でもリアルとバーチャルの間に致命的な歪みは生まれない気がしている。吸収して昇華していけるたくましさがあるに違いないと思うんだよ。SFで描かれる世界に首を突っ込みつつあるね。ホロ外装技術が完成したらますます現実はバーチャルに浸食されるだろう。2045年、キズナアイが1億人くらいに増殖してても不思議はない。今ネットで2ch語やなんJ語をみんなが使うようなノリで、キズナアイの姿と声と思考パターンを借り、ワイに扮するようにアイに扮する人が溢れてもおかしくはない。
「文句つけるのは一部の頭おかしい女だけ、大多数の女は気にしていないか喜んでる」
「ただの楽しい下ネタコミュニケーションじゃないか、何が悪いのか」
「周りの女だってみんな何も言わないし笑ってるぞ(=本当は嫌だけど言えずに愛想笑い、という発想がない)」
「それに文句つける女は自分が相手にされないからと嫉妬してるブス」
「こんなんじゃ女と恋愛も出来ないし関われなくなる、女と会話するなと言うのか!」
昭和から平成になって令和になっても、この手の男の思考パターンは変わらない模様
まともな企業の中なら「セクハラしたら首にすんぞ」で抑えられるけど
そういう抑制が効かないプライベートの場だとどうしようもないんだろうな
精々周りからまともな人が離れていくって程度で
世間一般の同年代に比べて、日常における思考や感情の経験が、自分には圧倒的に足りない気がする。
「ある時、何も持っていないことに気付いた。」
「幸せが詰まっていると思っていたポケットは、実はからっぽだった。」
「でも俺は、そんなことさえわからなかった。」
「そしてある日突然、自分がたくさんの時間を失っていると感じた。」
18歳の夏、初めて読んだこの文章は、自分を見つめ直す時いつも頭に浮かんで来る。
アルバイトによって、人生で初めて得た労働の対価としての給料。
その全額と引き換えに買ったゲームで、一番最初に表示されたこの名文は、常に俺の心に纏わり付いている。
もうすぐ28歳になる今、改めて「俺の人生は、ひどく薄っぺらいものだ」と思う。
好意を寄せた相手が、自分にも好意を抱いていると思っていたら勘違いだったとき。
この時に生まれる感情は、ずっと羞恥だと思っていたけれど、困惑であることを知った。
投げたボールが急に落ちたような、引力がめちゃくちゃになった感じだ。
「知らないことは何でも知りたくなる」なんてのは絶対に噓っぱちだ。
興味を持ったものを深く知ろうとするかどうか、が人生を形作るんじゃないだろうか。
自分は間違っていない、きっと正解に辿り着けると信じているから、本当に救いようがない。
これって、臆病な自尊心と尊大な羞恥心ってヤツなんじゃないか?
人生は有限だ。
人生は有限であるが故に、マイナス思考に割くリソースなんて勿体ないだけだ。
相手が自分に好意を抱いてない状態から、振り向かせることができるほど自分が器量が良くないことを知ってる。
https://web.archive.org/web/20200819061734/https://anond.hatelabo.jp/20200819122604
https://web.archive.org/web/20200819061624/https://anond.hatelabo.jp/20200819151260
この人就活時もこんな感じなのかな?
まあ少しは取り繕うとするんだけど絶対隠しきれないよね
だらだら自分の言いたいことを押しつけるような話し方をする癖があるよこの人
適当に書いたとしても、じゃないとこういう行動とんないよ
そんで自分が常識的で分別があるという自負というか、トラブルが起きた時に認知を歪めてまで自分の正当性を主張する思考パターンの癖がつよい
どうあがいても大学生が、いくらくず相手でも「社会で理不尽なことを学び」だなんて
「どの面下げていってんだ?君も社会の理不尽体感したことない御身分じゃん。なんだかんだ大学にも行かせてもらってるし」って突っ込まれる
もっとも増田の外のリアルな社会では、こんな家庭間のことぐちぐち言われても知らんがな要点まとめろやって突き放されるよ
自分を客観的に見ることができるならまず「社会の理不尽」なんて言葉は出てこないよね
そういうちょっとした傲慢さは普通に話しててもどこからしら表に出ちゃってるから気をつけてほしいわ
同僚が上司が取引相手、提携先、職場の環境、際限なく自分がダメだと思うところを論って、自分自身の中でPDCAを回していこうという気がない
いつまでも同じような感覚で同じようなスタイルで業務に取り組んでる
別に大学生で仕送りそんななくても実家でてる人はいくらでもいるし、増田の交渉次第では人並みぐらいに親御さんやお姉さんから援助を取り付けられる可能性もゼロではない
なんなら緊急策として友だちの家やシェアハウスに短期間でいいから転がり込んでみたら?並の大学生ぐらいの交友網があれば充分実現可能だよそれくらい
結果的に言って今もその家に暮らしているということは、それだけの覚悟も行動力もコミュ力もないってことだよ
まずは現状から自分の身の丈がどんなもんなのか今一度考え直してみたら?
ぶっちゃけ何も考えずに愚痴りたかっただけなんだろうけど、そんでも逃げられず俺みたいな説教おじさんの餌食になるなんてこと世の中では日常茶飯事だからね?言ってしまえばこれも社会の理不尽よ
両親が駅弁フェアで買ってきたやつしか食ったことない。あれはいわば死んだ駅弁・養殖の駅弁で、天然の駅弁・活きた駅弁は車内でしか食えないと俺は思う。調べてみるとわりと駅弁趣味の人なんかもいるみたいで、旅行をしては駅弁を食べ比べてブログに綴るその姿はかなり眩しい。
いつか食いたい。できたら新幹線とかで食いたい。
かつては時々見かけてたけど最近は全然見ないな…と思ってたけど、実はかつてより全然見てないんじゃないか?俺が飛行船を見たと思ってるのはニセ記憶なんじゃないか?という疑惑がある。それほどまでに朧なのが飛行船というもの。「飛行船 (都市名)」なんかで検索をかけても2008年の記事とかしか出てこないあたり、いまの日本で飛行船に乗るのはかなり難しいっぽい。
なんとなく豪華客船並みの広さを持つ船内で優雅に過ごせるイメージを持ってたんだけど調べてみると客室はショボい飛行機程度の広さしかないみたいで、なんというか夢破れた気分。でも憧れは憧れだし、機会があったら乗りたい。
SF映画に出てくるようなゴリゴリのホログラムデバイスを使いたい!「物理画面使いは老害」みたいな世の中にいつかならないかなあ。
羊肉、カレーとかでしか食ったことなくて味が全然わからない。いっぺんガッツリ食ってみたくて、となるとこれもまた味がわからないジンギスカンと組み合わせてエニグマチックな食体験に臨みたい。
ジンギスカンに関しては謎を残しておきたくてあえてあまり調べないようにしてるところがある。中央が出っ張った謎の鍋を使う焼き肉のようなものらしいが、はたして…
一回も受けたことない。姿勢悪いし、絶対すげえ効果があるというか、効果はなくても劇的な体験になるだろうと思う。
そのうちそのうちと思ってるうちにコロナで行きにくくなってしまった、というのは大体の憧れに共通するな。涙、涙、涙!
「自転車で海まで行った」という思い出が欲しい。
あまり雪の降らない地域で生まれ育ったので雪をみるとテンションが上がる。雪だるまくらいは作ったことがあるけど、かまくらを作るには至らなかった。
かまくらの中で何か(みかんなど)食べたい。せっかく作ったんだしと思ってできるだけ長居するけどやがて寒くなって家の中に逃げ帰り、こたつに潜り込んだときの安心感!同時に感じる一抹の罪悪感と未練!そういう体験がしたい。
皿に並んだフグ刺しを箸でガッと4〜5枚とか取って食うやつ絶対やりたい。
弦楽器はギターしか触ったことなくて、バイオリンとかの弓つきのやつに憧れる。たぶん才能ないからロクな音は出ないしすぐ飽きるんだけど、それはそれとして一音でいいから出してみたい。
絶対行けるんだけどなんかめんどくさくて行かないままになっている。3時間とか取って入りたい。そして1時間半くらいでグロッキーになって知ってる曲を入れるだけ入れて伴奏だけ聞いたりするんだろうな。それでもいい!
イイって言うしいっぺんくらい試してみたい。幻覚が見えるって感じでもないのか?これまで明確な幻覚とか幻聴を感じたことがないので、もし感じられるんならわりとライフチェンジングなんじゃないかと思う。感じられんくても良い。
ときどき酒を飲んだ時も思うんだけど、化学物質で思考パターンが変わるのって人間の儚さのようなものを感じられてメチャいいよね。脳!脳か〜!脳だよなあ〜(最悪の酔い方)
考えてみると俺はふつうの水の浮力しか知らないわけで、もうちょい強いのを試してみたいという気持ちがかなりある。
怪我をした状態で入ると染みるから気をつけて!なんて注意があるのがまた渋い。
Twitterなんかで知り合った、というかフォローしあった人と現実で会うの一回くらいはやってみたい。でも会いたくなさもかなり強く、難しいところ。一方的に見たりできねえかな。
愛されたいという呪いにかかっていた。
かけたのは自分だ。
自分でかけた呪いに苦しめられてきたなんて本末転倒なのだけれど、一応、きっかけはある。
中学時代に、クラスの男子が「○○(私)のこと好きになるやつなんているの?」とバカにしたような笑い声を上げながら話していたのを聞いた。
どういうきっかけでその話をしていたのかは分からない。ただ彼らは賑やかな休み時間の教室でその話をしていて、同じ教室内にいた私の耳に届いた。
聞いたときはショックで、なんでお前たちにそんなこと言われなきゃいけないんだという悔しさと、容姿のコンプレックスがあったのでやっぱりそうなんだという納得で死にたくなった。
本人たちには何も言えなかった。ただ聞こえない振りをするのが精一杯だった。
絶対にアイツらを見返してやる。
そう呪った。
アイツらに二度と笑われないように、と誓った割に、整形するでもなく、自分に合う化粧の仕方の研究をしたわけでもない。
ただ漠然と、素の私をとても素敵な人に恋愛対象として愛してもらえれば、バカにしてきた奴らを見返せれると思った。
客観的にバカにされたので、もっと上位の人間に認めてもらえれば私が価値があることが証明されるし、満たされるのだと思ったのだ。
書いてて恥ずかしくなるのだが、コンプレックスと自意識を盛大に拗らせている。しかも怠惰だから努力はしない。最悪だ。
まぁ、当たり前なのだが、そんな性格がネジネジに拗れて、見た目もイマイチな人間を好きになってくれる人などいなかった。
一応、好きだと告白されて、交際したこともあるのだが、私が相手のことを好きになれなかった。私のことを好きだなんて、美意識がどうかしてると思って、どうしても引いてしまうのだ。
愛されたいのに好きだと言われると引くという。
自分でもよくわからないが、恋愛的な意味で好意を持たれると相手を気持ち悪く感じてしまうことがその時わかった。
せっかくこんな私を好きだと思ってくれたのに、相手には本当に申し訳ないことをしたと思ってます。すみませんでした。
愛されたい。
それはだいたい落ち込んだときに強く感じて、「誰にも愛されないし、このまま死んでしまいたい」とよく思った。
無意識にかけていた呪いは強烈で、あまりにも思考に深く根付いていた。
なので、けっこう最近までそう考えること自体に疑問を感じなかった。無意識って怖い。
呪いに気づいたのは、ある出来事でどん底まで落ち込んだからだ。
と言っても、行きたかったある公演のチケットが取れなかったというだけなのだが……。
他人から見たらそんなことかよと思うだろうが、私は喉から手が出るほどチケットがほしかったし、そのために結構な額の課金をした。それでも取れなかった。
こんなに好きなのに、チケットも取れないぐらい運も悪いし、誰にも愛されない。死にたい。
いつもの思考パターンだが、チケットの先行が複数回あるので、当落発表の度に上記の思考回路に落ちる。
あまりにも短時間に頻繁に考えるし、コロナのせいで軒並み出かける予定が消えて暇だった。気を紛らわせる手段にも限界があるので、すぐにその思考に戻ってしまう。
そのうち、チケットが取れないという現実から目をそらしたくて、そもそも、なんでこんなに愛されたいのかについて考え始めた。
愛されたいという欲求は、おそらく人間に潜在的に備わってるものだけど、私はあまりにもそれが強くないか?なんでだろう。
愛されて認められたい。
けど、認められるってなんだ?どうして愛されることが認められることなんだ?
順を追って考えて、やっと「もしかしなくても中学時代のあの胸糞悪い出来事がきっかけで、思考が捻れてないか?」と思い当たった。
胸糞悪い上に自分で呪いまでかけてる!しかも相手は絶対言ったことすら忘れてるのに!
同窓会も行かないから、もう彼らに会うことないだろうし、あまりにも嫌い過ぎて顔を忘れたので、どこかで会っても気づかない。
そんな相手を見返したいと思っていた。
これで努力して自分が良い風に変わったなら良かったが、特になんの努力もしてないので、ただムダに長い時間、自分で自分にかけた呪いに苦しんでいただけだ。
アホすぎる。
呪いに気づいた今、とりあえず愛されたい欲求は落ち着いている。
愛されなくても生きていけるし、誰からも恋愛対象として愛されず、結婚できなくても、趣味や同性の友達と楽しく過ごせればいい。そうして一生を終えたい。
ただ、あまりにも長く呪いにかかっていたので、いつの間にかまた呪いの思考が戻ってくるのではないかと怯えている。
そうならないよう、愛されなくてもいいんだよ。誰かの悪意に立ち向かわなくていいんだよと、忘れないようここに記しておく。
増田の高3の弟は成績優秀だ。
正確には勉強量がすさまじい。つまり天才というよりは努力家であった結果だ。
弟は早生まれというのもあり、幼少期は割と「知恵遅れ」と評価されてきた人間だった。
そして中学生の頃、テストの悲惨な点数に両親がキレた結果、厳しい塾にぶち込まれることになる。
弟がすごかったのが、その地獄を上手く乗りこなしてしまった所にある。そこで勉強する習慣と楽しさが身についた結果、彼の成績は劇的に上がった。
今までどちらかというと頭が悪い方だったのに、トップレースに参加できるまでになったのだ。
志望校も、最初志望していたA高校から10は偏差値の高いB高校に変わった。
最終的にB高校には落ちてしまったが、今は同レベル帯のC高校で成績優秀な優等生として生きている。
そして今、W大学やKO大学を目指して受験勉強中だ。もはやかつての「知恵遅れ」は見る影もない。
だが私は、そこから生まれようとしている「お勉強だけが出来る奴」の息吹を感じないではいられない。
弟はここまで勉強ができるようにはなったが、勉強以外のスキルは特にない。
難しい数学の式を解けるし、英単語をとてもたくさん覚えている。しかし日常会話レベルの慣用句を知らない。
例えば「味を占める」とか「開いた口が塞がらない」とか「板につく」などを知らないらしい。
「知っといた方がいいよ」と言うと「国語は受験科目ではないから大丈夫」と言う。そういう思考パターンで生きている。
これといった特技がない。パソコンが使えない。情報アンテナが弱い。教科書以外の教養を見つけようとしない。
友達が考えた遊びに付き合うだけなので自分から何かを企画することはない。つまり調べない。
もしかしてこいつは、「お勉強だけが出来る奴」「偏差値だけが高いバカ」……そちらに向かっているのではないだろうか……?
まあ、今は大学受験の事だけ考えるしかないと思うのだが、このままでは大学生になってもこんな調子なのかもしれない。
たしかに学歴があった方が世の中は有利だ。だが使えない高学歴の行き場はどこなのか?
高学歴の就活は、受からなければ会社のレベルを下げればいいというものではない。ある程度まで行くと、必要以上にビビられたり、冷やかしを疑われたりして落ちてしまう。
余計なお世話なのかもしれないが、どうしても先達として心配せざるを得ない。
弟はどこから来るのか。弟は何者か。弟はどこへ行くのか。
一見すると論理的な批判に見えるから、普通の人も繰り返し読まされるうちにその悪意的かつ硬直的な見方に染まっていって、同様の精神類型に該当する極度に猜疑的な思考パターンを持つようになる。
こうして増殖していくという特徴があり、そこが恐ろしい点なんだけど、この増殖こそが目的なのかもしれない。それを無自覚にやっている感じ。
これは漫画アニメとかの娯楽分野に限らず、工業製品や国家・民族といったトピックでも起こるし、時事を扱う軽めのまとめ系サイトなども同じ構造をもっている。もちろんここもそうだ。
ちなみに染まってしまった人は、特定の人名・キャラ名・組織名・集団名などが挙がると反射的にそれを意味する侮蔑的な俗称を好んで使うという特徴がある。
そういう思考パターン、うちの母親に似てるかも。夫の希望や子どもの希望をかなえてやろうということを人生の最優先事項にしているうちに自分が何したいのか分からなくなっちゃってるの。
でも漠然と「こういうのはイヤだ」「こういうものが欲しい」というのはあるらしくて、例えば一緒に旅行に行こうと行き先をいくつか候補に挙げると「ここには興味がない」とか主張してくる。あと、親子だけあって、私と嗜好が似ているところがあるらしく、私が自分用に買ったものを見せると羨ましそうな顔をすることがある。私が買ったものを見て初めて、「あ、こういうものが欲しかったんだ」と気付くらしい。自分でデパートとかに行くと「欲しいものが全然ない」とか言うのだが、欲しいものが漠然としすぎてちゃんとイメージできてないのと、そういうものを売っている店を探すのが下手なように見える。
元増田は友達や家族から持ち物を見せられたり、「○○に旅行に行った」という話を聞いて羨ましいと思うことはないの?あまりお金に困っているようではないので、とりあえず羨ましいと思ったらちょっと真似してみたらどうかな。
人に大切に扱われたこと、自分が誰かを大切にしたことを思い出してみよう、と言われ目を閉じて考えてみた
が、あの人の優しさは言わば営業だよなあ、とか、あの人の優しさはまあ弱者への哀れみだろうな、とか、親の優しさは‥生物としてのものと惰性みたいなもんだな、とか
ろくなことが思い浮かばなかった
じゃあ逆に自分がした他人への優しさは、と思い返すも、相手を思っての優しさというよりは自分の信念でやってることがほとんどのような感じだ
とある自分語りマンガで作者が、優しくしているのに相手から感謝されないことを悩んでいた
作者はなぜ感謝されないのか、ということについて、自分を評価しろという見返りのための優しさだからだ、そういうのが相手に伝わるのだろうと自己分析していた
私も結局自分の信念と自分の中での行動規範に基づいたものなので、たぶん相手はとくに感謝も感じないだろうなと思う
そう思うと人に優しくされ、返ってくる関係には、両者が同じ思考パターンを持っていないと成り立たないよな、…
きっとインストラクターの先生のしてほしかった瞑想は違うんだろうな、もっとこう、人に感謝していこう…とか、人の優しさに気づいていこう…とかいうイメージを持つべきだったんだろうな、と思い、しまったと思った