はてなキーワード: 多読とは
『映像ミザンセーヌの黄金則 ヒットする映画の作り方』において金子は次のように指摘している。
シナリオは筋書き(プロット)と描写(レンダリング)から成り立っていますが、シナリオからの分析局面では、プロットそのものはあとに残る印象要素ではないということです。複雑なプロットであればあるほど、観る人をひきつけはしますが、覚えることは難しい。したがって他の人にも伝えにくいのです。したがってプロットに関しては「面白い」「いい」だけ。覚えている印象のほとんどは、描写です。つまり、シナリオライティングのミザンセーヌに関していえば、レンダリングが重要だということになります。
ラノベにおいても抽象度の高い「筋書き」を具体的に「描写」していくという作業は多くの作家が認めるところである。映画は「筋書き」である台本と「描写」である映像に明確に分離可能であり、それと比較すればその境界は曖昧でありつつも、基本的な考え方としてラノベにおいても両者を区分することは可能であろう。
様々な作家による小説、ラノベの創作技法において、そこに書かれた技術がどちら寄りかを意識してみると、人物設定はどうあるべきか、世界と主題の関係についてといった「筋書き」寄りの内容に対し、「描写」寄りの内容はその紙幅のほとんどが正しい日本語講座に費やされていたりする。
正しい日本語で書けるようになりました、とは読者に苦痛を与えずに「筋書き」を伝えられるようになりました、というに過ぎず、そして苦痛なく読める文章であることは読者にとっては当然であり、その意味でこうした日本語講座は「マイナスをゼロにする」ものでしかない。実際、ラノベワナビを数年続けているような人であれば読めない文章であることは少ない。しかしそれがなぜつまらないのか、といえば、まさしくそれがゼロでしかないからではないのか。
一方で「ゼロではなくプラス」のラノベは確かに存在する。とすると「ゼロをプラスにする」、すなわち「筋書き」を単に読者に苦痛を与えずに伝える方法ではなく、魅力的に伝えるための方法はあるはずである。
ラノベを含む多くの創作論では「とにかく色々読め」という指摘がなされている。それは直接的な知識の吸収のみならず、そうした多読から無意識に「魅力的に伝えるための方法」を抽出し、そしてそれを自作においても無意識に利用するようになることを期待してのものであると筆者は考えている。
であるならばそれは、システマチックに再利用可能な一定の演出法――いわば「テンプレート」として抽出可能なのではないか。
仮にそうだとすれば、筆者はこの演出法には大きく二段階あると考えている。一つは筋書きを主たる場面に分解したとき、そのそれぞれの場面をより魅力的に見せるための場面展開の組み方、いわば「レイアウトの仕方」であり、もう一つは場面それ自体の品質を直接的に上げるための「描写の仕方」である。
金子が映像に関して指摘するように、ラノベにおいても「描写の仕方」の影響は非常に大きいだろう。しかし一方で「よく出来た話だ」という感覚を覚えるラノベがあるとき、それはこうした「レイアウトの良さ」によって得られる感触であり、それは文体が合わないとか、パロディが不快だといった個人の直接的な好みとは一つ別の次元での評価――「自分の好みではないけれど、でもよく出来た話だと思う」といった、評価の底上げに繋がる効果があるのではないか、と筆者は考えている。
「描写の仕方」については稿を改めるとして、本稿ではまずこの「レイアウトの仕方」についてのいくつかの私見を述べることとしたい。
本稿で抽出したいのはラノベの「筋書き」を魅力的に見せるための展開の仕方であって、あらゆる物語に普遍的に存在する何かではない。ロシアの昔話とギリシャ神話とキャラ萌え特化の現代ラノベに普遍的に存在する要素を抽出したところで、物語構造論的にはさておき「よく出来たラノベ」を書くためという点で言えば糞の役にも立たないと筆者は考える。
と大塚と新城をDisった上で、つまりある特定の様式における「テンプレート」の抽出が必要なのであり、本稿ではボーイミーツガールの様式をもつラノベに限定することとした。
ボーイミーツガールの定義として、例えば伊藤ヒロは「涼宮ハルヒやゼロの使い魔など、メインヒロインとの「出会い」がきっかけで平凡な主人公が非日常に入る、という構造」を持つと述べる。裕時悠示もまた「ヒロインが非日常をつれてくる」としており、まとめると主人公とヒロインの出会いとそれによる非日常の始まり、といったところだろう。
まず本稿では「主人公」は単に語り手もしくは視点人物とする。『涼宮ハルヒの憂鬱(以下ハルヒ)』においてはキョンが主人公であり、涼宮ハルヒはヒロインである。加えて主人公とヒロインの性別は問わない。『マリア様がみてる(以下マリみて)』においては主人公もヒロインも女性であり、『エスケヱプ・スピヰド』においては主人公は女性でヒロインは男性である。表現上の混乱を避けるため、本稿では男性ないし無性であっても「ヒロイン」と呼称する。
次に、では「非日常」とは何か。
例えば『灼眼のシャナ(以下シャナ)』では主人公はヒロインと遭遇する前に外敵に襲われ、これは明らかに「非日常」として描かれる。もっとも襲撃直後にヒロインとの遭遇がある以上、広義にはヒロインが「非日常」を連れてきたと言っていいだろう。ところが例えば『化物語』では主人公はヒロインと出会う随分前から怪異に接する生活に入っており、ヒロインがそれをもたらしたとすることには広義といえどいささか無理がある。
そこで「非日常」とは主人公を取り巻く環境の変化ではなく、主人公のとる「意識と行動の変化」であると筆者は定義した。『ハルヒ』も『シャナ』も『化物語』も、いずれもヒロインと遭遇後、主人公の行動はヒロインを意識したものへと変化し、その意識した行動を軸に物語が展開していくことになる。この点から本稿ではヒロインを「主人公が意識している相手」と定義する。
以上をもとに、本稿では下記の条件を満たすラノベをボーイミーツガールと考える。
なお、本稿におけるボーイミーツガールは排他的なものではない。ゆえに例えばハーレムラノベの代表格と言えるであろう『IS〈インフィニット・ストラトス〉(以下IS)』も、本稿ではボーイミーツガールとして扱う対象である。
これを基本条件として、さらに人気作の方が魅力的な展開が内在する確率が高いだろうという推測から、映像化された作品を中心に絞り込むこととした。
シリーズ化している場合、本稿での調査は原則としてその第一巻のみを調査対象とした。最初の一巻はそれだけである程度のまとまりを見せる構造を持っているだろうと思われ、またその出来がいいからこそ続刊が決定したと言うことができるだろう、という推測によるものである(細かく言えばボーイミーツガールとしてのひとまずのオチが付いたと筆者が判断したところで区切ったため、『化物語』はひたぎクラブのみ、『星海の紋章』は全三巻と対象範囲に差はある)。
以上からWikipediaのアニメ化されたラノベ一覧からランダムに選び出し、上記の条件に該当する作品50冊を調査した(一部個別判断からアニメ化されていない作品も含めた。また本稿では「ラノベ」の定義については特に踏み込まない)。これらを以下本稿では「ボーイミーツガール」と表記する。
長くなったが、以下やっと本題に入る。
本稿では「ボーイミーツガール」を遭遇と関係構築で成り立つものと考え、それぞれについて「テンプレート」を抽出することを試みた。いずれも個々のラノベからその要素の類型化をまず行い、次にそれらが実際にどう扱われているか、またどのような扱い方がされるとより「よく出来ている」と筆者が思ったか、という恣意的な判断によってまとめたものである。学術的な検討がされたものではないし、類型化の際の用語も筆者が勝手に命名したものでしかない点は注意されたい。
「主人公がヒロインとの出会いののち意識するようになる」とは、主人公のヒロインに対する見方が変わる、と換言してもいいだろう。その意味でヒロインとの物理的な出会いのみならず、「ヒロインに対する主人公の見方が変わる」ことも含めて本稿では「遭遇」と定義する。
さて、「よく出来た遭遇」は印象に残るものであり、そして意外性は印象を残す一つの要素たりえる。実際多くの「ボーイミーツガール」は遭遇時にヒロインの「意外性のある設定」を明らかにする。
問題は、その「意外性のある設定」は凄まじい勢いで陳腐化する、という点である。
突然同じ部活に所属することになったヒロインが毒舌家であることが明かされる『やはり俺の青春ラブコメは間違っている(以下俺ガイル)』、突然同じ寮に入ることになったヒロインが天才画家であることが明かされる『さくら荘のペットな彼女』、突然同居することになったヒロインがサキュバスであることが明かされる『ご愁傷さま二ノ宮くん』などいずれも「意外性のある設定」が明かされるが、それが筆者に十分なインパクトを与える意外性であったかといえば否定せざるをえない。ヒロインが魔王だろうが神様だろうがそれがどうかしたのかと微塵も関心を示せない読者は特に筆者に限ったものではないだろう。
筆者が考えるに、これに対するアプローチは大きく2つに分けられる。ひとつは「設定の極端化」、もう一つが「演出の工夫」である。
「設定」の新規開拓はもはやほとんど絶望的だが、既存の陳腐化した設定を極端化することによって意外性を勝ち得ているものは確かに存在する。例えばヒロインが挨拶代わりに主人公を撲殺する『撲殺天使ドクロちゃん』はその典型例と言える。問題は極端化が進めば進むほど馬鹿げた内容になりがちであること、さらに所詮は既存の内容の延長上にあることから読者の十分な意外性を得ることができず、陳腐で馬鹿げたものとしか認識されないリスクを内包する、という点である。
既存の陳腐化した設定を使い回しつつも、その演出によって読者の興味を喚起することは可能である。そこでまずいくつかの代表的な遭遇における演出の類型を整理したい(以下で全ての類型を網羅しているといった主張ではない。為念)。
クーンツは『ベストセラー小説の書き方』において、物語冒頭で主人公が困難に直面することが読者の興味を喚起する重要な要素である、としている。ヒロインの設定に意外性が乏しく魅力が無くとも、遭遇の場面の魅力はこの「困難さ」で補填することが可能である。ヒロインの奴隷だと告げられる『ゼロの使い魔』、異星人に狙われる立場だと判明する『這いよれ! ニャル子さん』、突如男性主人公が美少女に変わる『俺、ツインテールになります』などが具体例としてあげられる。
とはいえこれらの例において実質的に主人公が困難を自覚しているものは少なく、その解決へ向けて真剣に行動することはほとんどない。いわば形式的な困難さでしかなく、そうした困難さは筆者の興味を喚起するものではなかった。
一方で『シャナ』は主人公が強く困難な状況を自覚し、絶望するところで始まる。トーチ云々の中二病はともかく、ヒロインに命を救われたと思いきや「いやもう死んでるから」と否定され、残りわずかな自分の人生に悩む流れは使い古されたそれでありながら、筆者は悪くない印象を持っている。形式的困難に全く効果が無いわけではないだろうが、より効果的にしたいのであれば実質的困難とした方が無難とは言えるだろう。
偶然からヒロインの秘密を主人公が知ってしまい、ヒロインもまたその漏洩を把握する、という遭遇の類型もまた古典的展開と言っていいだろう。『乃木坂春香の秘密』などはこの典型例と言える。
知ってしまった秘密を主人公はどうするのか、秘密を知られてしまったヒロインはどうするのか、という次に当然起こるであろう緊迫した事態への興味を効果的に喚起させることができる上、それまで互いに無関心であった主人公とヒロインが相互に強烈に意識し始めることが読者に必然的に伝わる、という強力な副次効果を持つ。また秘密の漏洩はヒロインにとってみれば「困難の直面」に他ならず、そこで極限状態に置かれたヒロインがどのような行動をするか、とはそのヒロインの人格であったり本性を端的に表すものと読者に暗黙に理解させる点でも効果的に機能する。
その状況が主人公にとって予期せぬ事態であり、なぜそんなことになったのかという困惑と疑問が生じる遭遇は読者の興味を喚起するという点で効果的である。
例えば『タイム・リープ あしたはきのう(以下タイムリープ)』においては記憶の混乱という謎がまず読者につきつけられ、その解決が物語の主たる軸となる。『のうりん』においては主人公の崇拝するアイドルが電撃引退の上突如転校してくるが、彼女がなぜ転校してきたのかが物語の中心に据えられている。
しかし『タイムリープ』と『のうりん』を比較すると遭遇の出来の良さは(筆者にとっては)圧倒的に前者である。その違いは、おそらく単純に「読者の興味を引く謎か」という一点に尽きると思われる。この類型はヒロインの設定の意外性ではなく謎の意外性で勝負していると言ってよく、ゆえにどれだけ読者の興味を惹起することのできる「謎」を思いつくかがこの類型の要点と言っていいだろう。
例えば『マリみて』における「タイが曲がっていてよ」のように、これまでに見たことが無いような強いインパクトを与える絵面を描くことで読者の興味を喚起することに成功しているものがある。
筆者は全く百合趣味が理解できないが、そうであっても「美人が美少女のネクタイを締めてあげる絵」というのはなるほど悪くない絵だという実感が得られ、印象に強く残っている。
『マリみて』ほどの強力さは筆者には感じられなかったが、例えば『とある魔術の禁書目録(以下禁書)』における「帰宅したらヒロインがベランダにひっかかっていた」という絵もこの類と言っていいだろう。
以上、いくつかの類型を述べたが、より効果的に演出する方法としてこれらを多段階構成にする、という手法があると筆者は考えている。
例えば『俺の妹がこんなに可愛いわけがない(以下俺妹)』ではまずヒロインのエロゲ趣味が主人公に漏洩する第一の遭遇(秘密の漏洩)があり、それについての一段落が描かれたのち、夜中ヒロインが主人公の自室に侵入する第二の遭遇が発生する(謎の提示)。
『化物語』の第一の遭遇は階段から落ちたヒロインを抱き留めるという古典的なそれであるが、これは同時に「ヒロインに体重が無い」という「謎の提示」と「秘密の漏洩」として機能する。次にヒロインの病弱さがひとしきり語られたあとで、ヒロインがカッターナイフとホッチキスを主人公の口に突っ込み脅迫するという第二の遭遇が描かれる。攻撃的性格のヒロインに特段の目新しさはないが、文房具を凶器として使うこの絵面は筆者にとって十分インパクトがあった(印象的な絵面)。
『とらドラ!』の第一の遭遇はヒロインが主人公を睨みつけるだけの地味極まりないものである。ところが第二の遭遇はヒロインが机を吹き飛ばし掃除道具入れに隠れるところを目撃するという奇妙なものであり(謎の提示)、ラブレターの入れ間違えの発覚を踏まえ、その「秘密の漏洩」への対抗策として主人公宅へ夜襲をかける第三の遭遇と畳みかける。
興味深いことに、このときいずれも各段階の間に一拍が置かれている。それぞれの遭遇は矢継ぎ早に連続して矢を刺すというより、一本矢が刺さってちょっと痛みに慣れてきたところで二本目を刺す、というテンポと言ってもいい。
例えば『俺妹』ではエロゲをヒロインに返した際、その場でヒロインが主人公へ自室でそのゲームをプレイすることを要求しても物語上何ら影響はない。しかし一旦そこで一区切りさせ、主人公に「これで今まで通り、互いに無視しあう兄妹関係に戻るのだ」と吐露させ、その上でヒロインに夜這いさせることで、単にその場で依頼をするより読者に強いインパクトを与える効果を生んでいると考える。
そうすれば上司の仕事がノウハウ本に書かれている通りには実践できてないことに気づくだろう。
その手の自己啓発本を多読して悦に入っているような連中は、自己啓発本から日々学んでいる意識の高い自分に酔っているだけで行動が伴わないことが多い。
そこを事あるごとにさりげなくちくりちくりとついてやれば、部下がその手のノウハウ本に精通してしまうことは、自分にとって非常にやりづらいことになることがわかってきて、部下に勧めることに消極的になってくる。
たとえば人間力()を高めなさいと書いてある本なら、その上司が人間力()を高めるための多彩な趣味をどれだけもっているのか、仕事以外の取り組みにどれだけ時間を割いているのか突っ込んで尋ねてみるといいだろう。
グローバルな人材になりなさいと書かれてあるならその上司が海外企業に転職しても通用するだけの能力を身につけるために実際どのような研鑽を積んでいるのか聞かせてもらってもいいだろう。
あるいは自分で自分の身を守るために投資や副業を推奨している本であるならば(以下略)
おそらく上司は「いずれやろうと思ってるんだが今は時間がなくてね」みたいな言い訳をごにょごにょとするはずだ。
しかし間違っても「論語読みの論語知らずってやつですね~」みたいな感じで小馬鹿にしてはいけない。
東大生協やその他旧帝の生協でラノベが売れまくってることを知らないんだろうか。ラノベはいまや高学歴のたしなみなんだよ。というのもラノベはおもしろくて多読ができるため、ラノベを大量に読むひとは必然的に速読ができるようになって、そして国語の成績があがるわけ。
ラノベだからといって内容が極端に簡単で幼稚だというわけではなく、ちょっとキャラがアニメちっくなだけでストーリーはそこらの大衆文学と全然変わらない。むしろそこらへんのくだらない一般向けの大衆文学よりも上を行ってるものもたくさんある。アイディアとしてはラノベのネタは結構おもしろいことが多い。
もちろん『重力の虹』とか『失われた時を求めて』とか『アーダ』とか『特性のない男』を原書で楽しむような層から見ればラノベは簡単すぎてつまらないのだろうけれど、それをいってしまえばラノベだけじゃなくそのへんの小説すべてがくだらないわけでね。
ラノベを馬鹿にしてるやつらは自爆してると思うよ。ラノベ馬鹿にしてて東野圭吾が好きだとか、百田尚樹が好きだとか、辻村深月が好きだとか米澤穂信が好きだとか……。いや、そこでさ、クロード・シモンが好きですとか、サミュエル・ベケットが好きですとか、カフカが好きですとか、ブッツァーティが好きですとか、人間喜劇読みまくりましたとか、ヨクナパトーファ・サーガにはまりました、とかそういうのならまあわかるんだけどね、そういうひとは見たことがない。要するにラノベ馬鹿にしてるやつらというのは世界のレベルを知らないんじゃないかなと思う。だからくだらない大衆文学がすばらしい文学のように見えてしまっている。もちろん彼らは日本が誇る天才・大江健三郎だって読んだことがない。読んでほしい。でも受け入れられないかもね。いままでの自分を否定することになるから。やれやれ。
村上春樹を英語で読む。私はこれでTOEIC900点を突破しました。
小説を読むうえで大きなストレスとなることの一つに、著者が描く情景、主人公の心情、時代風景などがピンとこない、ということがあります。外国の小説の場合は、たとえ日本語に翻訳したものを読むときであっても、日本人である我々は感情移入ができず、結果として、なかなかサクサクと読み進むことができません。英語で読む場合は、これが「英語という言葉がわからない」「書かれてある内容自体がピンとこない」の二重のストレスになってしまい、英語上達のためのポイントである「多読」の障害となってしまいます。対処法は簡単です。日本人の著者が書いたものを英語で読むこと。そして自分が好きなものを読むことです。
私は昔から村上春樹が好きで、ノルウェイの森は特に、これまでにたぶん10回以上読み直しています。話の流れはほぼ完ぺきに頭に入っているので、Vintage版のノルウェイの森は簡単に読み終えることができました。これは、いままで、いろいろな英語の小説(ポール・オースターからハリー・ポッターに至るまで)にトライし断念してきた私にとって大きな自信になりました。
次に、今まで日本語でも読んだことがなかった、海辺のカフカを試してみました。これも多少は日数はかかりましたが、楽しみながら英語で読み終えることができました。同じようにして、これまでに長編・短編を何冊か読んでいます。
村上春樹の小説の主要なものはほとんど英訳されていて、Amazonなどで手軽に手に入ります。村上春樹がかなり好きな人であっても、読んでいない作品というのはあるかと思うのですが、そうしたものであっても英訳で読むことができます。自分が初めて読む小説が、それが英語で書かれているのにもかかわらず情景がすんなりと理解できる、というのはすばらしい快感です。それは、ちょうど、海外の作家の本を英語で読んだ際の、自分が理解できているのかどうかに確信が持てないもどかしさの対極にあります。
村上春樹が好きでない人は、自分の好きな日本人作家を読めばいいと思います。吉本ばななや村上龍も英訳が多く出ているのでいいと思います。三島由紀夫、安部公房、井上靖が好きなので英語で読んでみましたが、これらは私にはダメでした。時代が違う作家の文章は、英語になってしまうと、一発でピンとくる感じがなくなってしまいます。小説ではありませんが、最近のアニメや日本映画を英語吹き替えプラス英語字幕で観るという方法はよいかもしれません。
思い込みが激しすぎる、もっと自分を疑え、人の話を聞け、と1度でも言われたことのある奴は要注意だ。
一応注意を促しておくが、観念的な思考自体は別に悪いものではないぞ。
むしろ観念的思考を駆使することで初めて新たな発見にたどり着くことすらある。かのスティーブ・ジョブズは観念(コンセプト)から着想を得る達人であった。
問題なのは1つの観念への固執である。要は頭の固い馬鹿。思い込みが激しくて自分の考えをかたくなに曲げようとしない。これを頭でっかちと呼んでいる。
この問題を扱うにあたっては、なぜそんな馬鹿が生まれてしまうのかよく考えてみる必要がある。
そもそも人間の思考ってのは欲によって起動する部分が大なんだよ。それは何もご飯食べたいなって思考に限ったことではなく。
だから思い込みが激しい人ってのは欲への執着が強い。例えば、激しいコンプレックスを抱いている人。
あるいはまた、窮地に立たされている人。そういう人達は、自分を必死で守ろうとするから、特定の考えにしがみついて離れない習性があるのだ。
そう考えて身の周りの人間をながめてみると面白いよ。頭が固いのにはワケがある。
しかしながら馬鹿を面白がってるだけでは建設的じゃない。頭の固い人達は現に集団の足を引っ張っているのだ。
集団のなかに一人でも頭の固い馬鹿がいて、自説を声高にわめき続けていたら、どれだけ被害が甚大かおわかりだろうか?
ずばり答えは漫画の多読。漫画の多読こそがある種の馬鹿への特効薬なのである。
なぜって、文字と絵がセットになったメディアって漫画しかないじゃないか。
そりゃテレビ番組などで文字のテロップが出ることもあるけどさ、文字情報としてはあまりに少ない。あれでは少なすぎる。
漫画はほとんどのコマが文字と絵でセットになっている。ここがポイントなんだ。
文字というのはさしずめ思考、絵というのはさしずめ現実に相当すると思ってほしい。
文字と絵がセットになっていることで、思考と現実が照合されて、思考の歪みが修正される。お分かりだろうか?
このさい、作者の思想の偏りなどはどうでもいいことなのだ。
人間だから思想が偏っていて当たり前。問題なのは思想の偏りではなく、流動性の喪失。変わらなくなったら人間おしまいなんだよ。
変わるためには現実見ないといけないんだよ。思い込みに気付かないといけない。
現実は無限の多様性があるのに対して、人間の考えなんてちっぽけなものだ。我々はもっと現実から学ばねばならぬ。
その最初の一歩として、漫画の多読がこの上なく素晴らしい方法なのだよ。
なにせ全てのコマで文字と絵がセットになっている。しつこいようだがこれがデカい。漫画ってのは読めば読むほど頭が柔らかくなる。
もしそれが分からない人がこの世の中にいるとすれば、それは相当頭が固くなってる証拠だが、大丈夫。たくさん読めばきっと柔らかくなる。
似ているようで全く違うのがアニメだ。アニメも見方しだいでは脳への刺激になるが、あれは文字じゃなく音声だからな。
漫画一冊読むのにアニメ1話見るよりも時間がかからないが、文字数で比較したら漫画のほうが圧倒的だ。それは漫画とそのアニメ化された作品を比較しても歴然としている。
しかし漫画には、行間ならぬ「絵間」というものがあってな。コマとコマの間の出来事や、コマの外にある出来事を想像で補完しながら読む必要がある。
これがまた自分の信念を修正するのに効果的なのよ。時間かけて読む人ほどこの恩恵が得られるのは言うまでもない。
秋くらいからRarejobというオンライン英会話をはじめた。
フィリピンの講師とskypeで話すもの。25分レッスン×週3回受けられて月3000円なので、国内の大手英会話スクールよりずっとお得。
ちなみに英会話については、7年前くらいまではNOVAに通ったりイギリスに1ヶ月ロンドンに語学留学して、日常会話ならなんとか、という中級だけど、その後、ずっと英会話に接してなくて久しぶりに再開した、というところ。
レッスンを受けて半年くらいになって、感じていることを書く。
●レッスンの内容
レッスンの内容は、25分間とりとめもなくフリーで話す「free conversation」か、ニュース記事を読む「Article lesson」。
特に事前にレッスン内容の指定はしていないので、レッスンがはじまった流れにまかせている。
●"Article lesson"
・Article lessonでは、自分がニュース記事を声に出して読んだあと、講師の質問に答えるという形式。Rarejobをはじめたばかりの時、声に出して英語を読むと、発音しづらくて、自分でも聞いていてたどたどしかった。それが、毎週つづけていると、それなりに声を出して読むことに慣れてきて、すらすら読めるようになった(もちろん自分で聞く限り、ということでnativeからしたらいろいろあるだろうけど)。
・レッスンを1週間休んでしまって2週間ぶり・・などのとき、Free Conversationだと英語に慣れてなくて思うように話せずフラストレーションがたまることがあるので、久しぶりのレッスンのとき、英語に慣れるためのレッスンとしてよいなと思う。
・ただ、1週間に2回以上Article lessonを受けると、うんざりする。記事を読みあげたり、あらかじめ決められた質問に答えたり、せっかくnativeと1対1で、しかも全然別の文化圏に暮らす人と25分話す機会を無駄にしている気がするからだろう。
●"Free conversation"
・Free Conversationでは、今まで知識として知っていて”なんとなくわかる”単語とかフレーズが、”使える”に変わるな、ということを実感して、これこそ会話形式で学べることの最大のメリットだなと思った。
例えば、"resign"という単語は「辞める」という意味だと知っていたし、文章で読めばわかるし、聞いても意味がわかるけど、自分で話すときに使うことはなかった。これが、講師に「英会話の先生の前は何の仕事をしていたんですか?」と聞いて、「農業関係の仕事をしていたんだけど、体調をくずして辞めて・・・」みたいな中でresignと言っているのを聞いた後から、自然と自分でも使うようになる。
こういう、「知ってる」から「使える」に変わるフレーズが25分のレッスンの中で1フレーズくらい。
単語の辞書的な意味を読み上げたり、その単語が使われた文章を読んでも”使える”ようにならないのに、講師が自然な会話の中で使うと一発で”使える”ようになる、という不思議。それだけ自分のために選択されて発された言葉、というのは威力があるものなんだろうな。
英語の本をたくさん読む”多読”と英語のテレビ番組をたくさん見る”多視聴”も並行してやっているのだが、全然知らなかった単語やフレーズをわかる状況にするには”多読”とか”多視聴”がいいけど、それを”使える”にするには会話がよいのだなと感じている。
・ただ、全然知らない人との"Free Conversation"ってなかなか難しかったりする。私はフィリピンのことを全然知らないからフィリピンの話を少しでも引き出せたら嬉しい、って思うし、講師の人も日本の情報にふれたいから講師をやっているって人も少なくない。でも、なかなか話題がみつからない、何話すか、、、って空気になることもある。
英会話の習得って意味でも、会話の楽しさの面でも"Free Conversation">>"Article lesson"だなあと思う。でも、"Free Conversation"のリクエストってしづらいよなあと感じてた。私はおしゃべりな方ではなく、どちらかといえば静かといわれる方だから、Free Conversationだとなんとなく話題がとぎれることもある。でも、それでポツポツ何か話してるうちに、また盛り上がれる話題につながることもあるし、そういうのも含めて会話でいいんじゃんと思っているのだけど、自分から"Free Conversation"をリクエストすると、なんか自分ですごいばっちり話題を準備していかなきゃいけないような気がして、気がひけてた。
でも、まあいっか。自分が楽しめないのはばかみたいだし、今度からはFree Conversationリクエストでいってみよう。
生物と無生物のあいだ (講談社現代新書) 福岡 伸一
不機嫌な職場 (講談社現代新書) 河合 太介、高橋 克徳、永田 稔、渡部 幹
臆病者のための株入門 (文春新書) 橘 玲
日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか (PHP新書) 竹田 恒泰
わかったつもり (光文社新書) 西林 克彦
いつまでもデブと思うなよ (新潮新書) 岡田 斗司夫
ツイてる! (角川oneテーマ21) 斎藤 一人
日本を貶めた10人の売国政治家 (幻冬舎新書) 小林 よしのり
脳が冴える15の習慣 (生活人新書) 築山 節
「世界征服」は可能か? (ちくまプリマー新書) 岡田 斗司夫
世にも美しい数学入門 (ちくまプリマー新書) 藤原 正彦、 小川 洋子
TPPが日本を壊す (扶桑社新書) 廣宮 孝信、 青木 文鷹
自己啓発に、はまる人というのがいる。
基本的にネガティブ思考な人間あるいは、精神的に弱い人に多く存在する。
例えポジティブ思考であっても、「幸せになりたいがどうしたら良いか分からない」と考える人だろう。
また、ネット上では多少強気な発言をするにも関わらず、リアルでは長いものに巻かれろ的な弱い発言が多かったりする。
だから、実際に会うとそのキャラクターのギャップに驚くだろう。
ただ、実際問題のところ「善人」が多いのだと思う。
いずれにせよ、そういう人は「自分の言動に対して、もの凄く自信がない」。
だから、何かと流されやすくて騙されやすい。道しるべをしてくれる人に対して妄信するのだ。
もの凄く自信がないと、どうなるか?というと、誰か頼れる人を探す。
でも、そういう人は大抵コミュニケーション力が乏しくなかなか言いたいことも言えないので、リアルではなかなか探せない。
だから、自己啓発書を多読したり、善人を演じているみたいな自己啓発ブログを読んで信者になったりする。
この時点で、ただの娯楽レベルで楽しむなら問題はないだろう。
ただ、それから一歩進むと、自己啓発系のセミナーに行ったりして一種の妄信状態になる。
最初は、1000円ぐらいかもしれない。だが、次第に3万、5万、10万と上がっていく。
貯金を崩し、本来なら他に使うべきだったお金を費やす。これは、もはや娯楽レベルを越えているだろう。
そして、そこで仲間を作る。ただそこでも、特出した行動はせず「〇〇〇って凄いね、学べたね」と言い合う、慣れ合う、
だが本質のところでは何も変わらない。当然、あくまで自分と同じような立ち位置やレベルの人ばかりのぬるま湯だからだ。
心地よい代わりに、刺激がない。
だから結局のところ、自信をつけることには到らず、しばらくしたら次の寄生先を探す。
自己啓発教のFacebookのコメントとかを読んでみよう。気持ち悪いぐらい、お互いを褒めあっている。
むしろ、褒めるしか能がないのかと思うこともしばしばだ。それも褒め方が一様だ。
「これいいですね」「この考えはなかったです」みたいな。
いや、お前本当に考えて読んでいるのか?他に言うことはないのか?と感じる。
だが、それを求めているのだろうし、悪くはない。
それが実生活で役に立つか、というのは、参加者にとっては本質ではない。
要は、妄信した上での仲間が欲しいのだ。ファンの集いと言ったほうが分かりやすいかもしれない。
こうして、セミナー主が「右を向けと言えば、右を向き」
「左を向けと言えば、左を向く」従順な教徒が出来上がっていく。仮に誰かがその主催側を叩く発言をしたら、
積極的に擁護するだろう。そう、度が過ぎると、時として信じるという力は攻撃性を生む。
そして、それが正しいと思い込む。だから、周りへの勧誘をし始めたりする。
そして、セミナー主は、恐らく参加者に向かってこう言うだろう。
「学んだことは、アウトプットすることが大切です。
今回、学んだことは必ずブログ記事にしましょう」など。これで上手く販促活動まで出来る。
一度妄信してきた人間を操るのは、こんなに簡単だ。
だから、精神的に弱い人から搾取する方法としては、まずは憧られることが重要だ。
年収、職業、あるいは人間性。特に、人間性というのは、「演じやすい」。
例えば、ブログやTwitterで完璧にキャラクターを演じることも可能だろう。
その後、少しずつ同じようなことを手を替え品を替え、刷り込んで信者を作り、
そしてその本が売れたら雑誌やネットへの露出が増え、それを契機にセミナーや有料のメルマガなどを開設し、
儲かる仕組みを作り上げていく。
だから、セミナー主が大切にしているのは「発言そのもの」というよりは、空気だ。
ここには仲間がいます、安心ですよという空気を作り出す能力に優れている。
実際、発言内容だけとったら、スカスカな内容だろう。
だが、それをあたかも凄いかのように演出で作り出していく。これは、映画などに近いだろう。
「感動させること」は、「笑いを取ること」よりも技術的に簡単であるからだ。
だから、演出力が凄い。参加している人は、1つのエンターテイメントのように感じるだろう。
実際のところ、その辺の本を読んだことと、本質的には変わらないんだけれど。
ちなみに、笑える話だが、信者の中にはそこから自分なりの自己啓発を生み出し稼ごうとする人間もいる。
つまり、自分が成功するには他の自己啓発教を引き入れれば良いと考え、自らが教祖に名乗り出るのだ。
だから、自己啓発教の中でも教祖への道を歩き始めた人間のブログを見ると、
「メルマガ作りました、成功情報満載です!」とか「勉強会を開催しています!」とかの言葉が次第に増えてくる。
あたかもスキルアップするかのような、幻想を抱かせる言葉だもん。
世に仕組みとして多く存在しているだろう。
例えば、健康食品がそうだ。加齢すれば、それなりに人間体が悪くなるのは当然。
でも、そこに付け込んで「これを飲めば」と提示する。
あらかじめ誰もが抱く不安を利用するという意味で、すごく効率が良い。
これが「老人食品」だったら、どうだろう?
「健康食品」という名称にすることで、最初は老人をターゲットにしていたはずの健康食品は、
次第に若年層にまで浸透し始めた。この仕掛けを作った考えた人って、つくづく凄い。
そして、実際、健康食品を購入する層というのは、それっぽいキャッチコピーで騙されているだろう。
実際にどの成分がどのような働きをして、どのように役立つかまで考えている人はそういないはず。
何となく体に良さそう・・と考える人間からいくらでも搾取できるわけである。
パチンコや宝くじも近いかもしれない。確率に関して考えることの出来ない人間が搾取されているだろう。
「宝くじとは、夢を買うことだ」みたいに、言い出したのは誰なんだろうね。上手いことを言う。
妄信状態というのは、一種の麻薬中毒だ。
その間に、本当にリターンがあるのかを冷静に考えてみよう。
一旦、毒が抜けるのを待って見よう。
もし、その結果必要なのであれば、言うことはない。
「お金が欲しい」「成功したい」「健康のままでいたい」と考える人間は、基本的に楽をしたがる。
そして、その楽をしたがる人間というのは、簡単に騙される。
世の中に、そうそう甘い話なんてない。
id:kanoseさんに、ブログ記事のブックマークコメントで
「ふと思ったけどブクマ集めた記事を他の人が自分が書いたと言っても、
元記事にURLを追記する以外、証明する方法ってないよなあ」と、言われたので一応。
///削除///
「脳」から「頭」に表現を変えました。指摘ありがとうございます。
「頭」から「能」に表現を変えました。指摘ありがとうございます。
ぶつくさ言うならその手の中にある貧乏くじを捨てなさい!(←駄目彼氏のことね)と言いたいところだけど、他のレスで既に言われてるからちょっと斜め方向からレスしよう。
彼氏については「頼れない」と思ってるからそうなったんだよ、てこと。
釣った魚に餌をやらないのが男の本質だったりするんだけど、餌を引き出すためには頼ることで男の自尊心を満たしてあげたり、あるいは君が自分の水槽にいる魚だという認識を覆すために離れる振りをしなきゃいけなかったりする。
頼るっていうのもいきなり「あたしを受け止めてッ!」て大きいところからやるんじゃ駄目で、小さいところから頼って感謝して「こいつのためには俺が頑張らないと…」という意識を植えさせないといけない。
奴らは女を勝手に母親代わりにする生き物だからなぁッ!!甘やかしちゃいけねぇんだぜ。
ひとまず恋愛マトリックスっていう本オススメ。恋愛本はビジネスのコミュニケーション論モノも含めて50-60冊多読した喪女だけどこれが一番わかりやすかった。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4797345802/
正味な話、既に関係性が腐っちゃってるんだから、手放して他の人との関係を育てた方がいいと思うけどね。
がんばりなねー
ホットエントリをみていても、新聞の一面記事に対しても、civ4脳がまず先に出て来てしまう。やばい。
例をあげてみよう。
“志向が多読・速読なのだから、スタイルもそれにあわせるよう矯正すべきだ。”
?? コンサルの面接で「74冊読みました」と言ったら「それは何がすごいの?」と返された - ミームの死骸を待ちながら
”志向”というキーフレーズに対して過敏に反応してしまい、文章全体に対しても論理的な納得感を抱いてしまった。
いや、こういうのは中の人への一方的な愛着っていうのかもしれないが。ブログは中の人に片思いすることもあるから困る。
次エントリもがつがつ見てくと、 ”全34の「才能」のなかで自分の上位5つがわかる” 本の紹介をしてて、これは!! っていう。志向ですかそうですか。
まあこれだけだったら特に悲観するほどでもないと思うんだが、今日の日経の一面で”トヨタが社長に創業者一族を登用”っていうのがあったんだけれど、これにざっと目を通して思ったことが
「専制政治で非常時の満足をあげるのもありだよなー」っていう。
もうなんだかね。僕だって「血縁という正統性を持った指導者はその組織の求心力に+に作用することもある」なんてことを思い至るだけのインプットをしてきたつもりだったのにこのざまだ。
どうやったら更正出来るんでしょう?賢い人教えてください!
マスターしてるのは500語程度だけど、旧七帝大卒でTOEIC Aランクでネイティブと普通に話せれてボランティアで翻訳している私が通りますよ。
しかし個人的には単語力より、知らない単語をスルーする力のほうが絶対に重要なんじゃないのと思う。第二言語学習の時には多読が重要、その多読を支えるのはスルー力、、、というのが持論だ。
http://anond.hatelabo.jp/20081101201610
これは全く正しい。
何について書かれている文章で、今どんなことを言わんとしてるかと、その単語の文章での構成要素を考えれば、知らない単語でも十分に意味を類推できる、が持論です。
実際 CNN のウェブサイト程度なら斜め読みで意味を取り違えることなく読めますし。
どうしても意味のわからない単語だったら、「ごめん、オレの知ってる単語で言い直して。」て聞き返せばいいだけの話ですし。
つーか、今、京都の観光案内を英訳してるところだけど、元の日本語の方がよくわからん。
「日本人が英語ができないたった1つの決定的な理由」は、日本人が完ぺき主義者だからだよ。
英語を完璧にマスターしていないと、英語を話しちゃいけないという思い込みがあるから。
これはあちらの本にいくらでも書かれていること。
えーっ、TOEICレベルのReadingはほぼ満点だけど、SVOCとかよくわからないよ。頭に入ってない。
TOEIC満点ごとき何だって話だが、新聞や小説を必要最低限読む位なら、まあ充分じゃないのって思ってる。
っていうか、中学で習うような文型の概念は不要だって言いたいだけじゃないのかな? 翻訳副業の氏は。
文中のどの語が主で、どの語が述で、どの語がそれを補足して、互いの要素が出現するルールは、、、とかいうのが重要(っていうか、それが全て)なのは当然でしょう。それを学校文法の技術で表現する必要はないってだけで。
でも大元の増田氏の、読めるようになるのが先決でアウトプットの能力は後からつくものだっていう部分には同意だな。
しかし個人的には単語力より、知らない単語をスルーする力のほうが絶対に重要なんじゃないのと思う。第二言語学習の時には多読が重要、その多読を支えるのはスルー力、、、というのが持論だ。
「中学生レベルの英語力の奴が4ヶ月でTOEIC「Bクラス」を出す方法」に触発されて、2007年4月から、2008年3月まで1年間英語を勉強してみたら、ギリギリ「Bクラス」を出すことができたので、勉強の過程を記録してみようと思います。
スペック:
英語は一番の苦手科目で、中学の通知簿は3(5段階)、高校は2か3(10段階)。
TOEICは大学の時英語の授業の一環で2度受験。1回目405点、2回目390点。
英語の勉強を始めた理由は「なんとく使えたほうがかっこいいから」。
勉強の方法:
単語&熟語を覚えることを念頭に置いて、ひたすら単語帳ばかりやりました。多読や多聴、ひたすら問題集を解くといったことはしていません(少しはした)。リスニングも、これら単語帳に付属のCDがメインで、映画を見たり音楽を聴いたりということはしませんでした。
月ごとに使った教材は以下。
7、8、9、10月:DUO
11、12月:英単語・熟語ダイアローグ1800、DUO
1月:なし(勉強せず)
2、3月:TOEICテスト730点突破のための英単語と英熟語、TOEIC TEST文法別問題集―200点upを狙う780問
TOEICのテストは10月と3月に1回ずつ受けました。それぞれ、640点、735点。オススメの教材は、当たり前だけどやっぱりDUO。初級レベルからスタートした場合、語彙力がかなり向上します。CDが良く出来ているので、特に通勤時間を勉強に当てる人にオススメです。「英単語・熟語ダイアローグ1800」も解らない部分を繰り返し聴くことで、リスニング力の向上に役立ったと思います。他にも、自分自身がどれだけ英語を理解できるようになっているか、と確認するために、講談社英語文庫やEnglish as a second languageも使っています。
勉強は基本的に平日。通勤時間の往復計1時間と仕事が終わってから1時間、合計2時間を勉強に当てていました。土日は基本的にオフで、予定のない日に2時間ぐらいやる程度。勉強時間は、平均してだいたい月に50時間前後。年末あたりから、仕事終わりの勉強は深夜のマクドナルドでするようになりました。終電の時間をすぎると24時間営業のマクドナルドはかなり静かで勉強に集中できます。
勉強時間はノートに書いて30分単位で記録、グラフ化。その上で、月ごとに目標勉強時間を決めておいて、その時間分だけマス目を作成。実際に勉強した分だけ塗りつぶしていきました。この記録は「モチベーションの維持」のためにつけていました。より「自分が勉強している」ことをより実感出来るよう、手書きのノートにこだわりました。実際、マス目が少しずつ埋まっていくのは結構快感です。また、ノートなら簡単に見返すことが出来るのもいいところです。ハッキリいって、この習慣がなかったら、おそらく勉強が続くことはなかったと思います。
まとめ:
英語が苦手な人でも、1年間勉強すれば本当に「TOEIC「Bクラス」は取れる。
なにから始めたらわからないひとはとりあえずDUOやっとく。
http://anond.hatelabo.jp/20080224010026←これ書いた人です。
うーん、そうかもねえ。時間も足りてないし、教え方も良くないってのが妥当な話かなあ。
論文が読めるレベルの英語力をつける教え方について持論を言えば、中学レベルの文法を完全にマスターしてもらった上で、つぎに、英語だけで書かれた文章を英語の絵本から初めてペーパーバックのレベルまで多読をすることと、速読英単語とか(まだあれ人気あるのかな?)CD付きの英文をシャドーイングで多音読。で、多読・多音読と同時平行で高校文法のマスターにも手をつけてもらうのが良いと思ってる。
この方法で、たとえば、自分が教えてた高校3年生のヤツは、春に中学英文法もまるっきり覚えてない状態で勉強を始めて、夏休みが終わる頃にはセンター試験で7割5分取れるようになったよ。彼はたぶん一日3時間くらい英語に使ってたから、4月から8月の5ヶ月間で、延べ450時間くらいの学習で済んでる。けっこう効率的でしょ?
ただ、これは「英文を読めるようになる方法」なので、相手に通じる英作文ができるようになるかっていうと、それはきっと、また別の話なんだけどね…
ベストセラーや自己啓発本を多読し、マスメディアに踊らされ、自分自身の問題についての責任転嫁を行っていることに無自覚な人たちを嘲笑した言葉。
そのような人たちがみな、今の自分は本当の自分ではないと考えていることに由来する。
スイーツ(笑)とその対抗馬ライフハック(笑)に付随する概念であり、スイーツ(笑)かつ本当の自分(笑)や、ライフハック(笑)かつ本当の自分(笑)という人も多く存在する。
不思議なくらい前向きになる(笑) きっと!すべてがうまくいく(笑) 小さいことにくよくよするな!(笑) 自分のなかに奇跡を起こす!(笑) あなたの悩みが世界を救う!(笑) なぜか人に好かれる人(笑) この世の悩みがゼロになる(笑) 2日で人生が変わる(笑) 幸せになる法則(笑) 一瞬で自分を変える法(笑) 最高の人生を引き寄せる法(笑) 宇宙に上手にお願いする法(笑) 宇宙を味方にしてお金に愛される法則(笑) 楽しい人生を生きる宇宙法則(笑) 鏡の法則(笑) ツキの法則(笑) 引き寄せの法則(笑) 「原因」と「結果」の法則(笑) コミュニケーション力(笑) 鈍感力(笑) 笑顔力(笑) コメント力(笑) そうじ力(笑) 気の力(笑) 自己プロデュース力(笑) 楽天主義セラピー(笑) トラウマセラピー(笑) 3秒でもっとハッピーになる名言セラピー(笑) 脳内革命(笑) 国家の品格(笑) 女性の品格(笑) 田中宥久子の造顔マッサージ(笑) 人は見た目が9割(笑) 下流社会(笑) 他人を見下す若者たち(笑) 「頭のいい人」はシンプルに生きる(笑) 金持ち父さん貧乏父さん(笑) カルロス・ゴーン経営を語る(笑) 中田イズム(笑) イチロー思考(笑) いつまでもデブと思うなよ(笑) 年収10倍アップ勉強法(笑) がんばらないで成長する(笑) 捨てる生き方(笑) 運命におまかせ(笑) グッとくる「はげまし」言葉(笑) 5秒で好かれる心理術(笑) 「心のブレーキ」の外し方(笑) 自分探しの旅(笑) 愛されるより愛したい(笑) 自分らしくライフバランスを手に入れる(笑) 「プチ・ストレス」にさよなら(笑) さあ、才能(じぶん)に目覚めよう(笑) 願いがかなうクイック自己催眠(笑) 頭がいい人、悪い人の話し方(笑) モテる技術(笑) ワルの恋愛術(笑) なぜ、「頑張っている人」ほど、うまくいかないのか?(笑) きちんと生きてる人がやっぱり強い!(笑) 今、あなたが成功していない10の理由(笑) アダルトチルドレン(笑) セロトニン欠乏脳(笑) ジェンダーフリー(笑) ゲーム脳の恐怖(笑) 水からの伝言(笑) 嫌韓流(笑) 嫌大阪(笑) 萌えるアキバ(笑) 増田(笑) はてな(笑) ホッテントリ(笑) GIGAZINE(笑) 痛いニュース(ノ∀`)(笑)
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Blogを書くのは初めてであり((Mixiは含めない、あちらはなんだかんだいってClosedな世界だと思う))、またHatenaの仕組みも詳しくはわかっていない。記事を書くにしても、私は何かの専門家というわけでもなく、そうそう深い話を書けはしない。やはり、興味深い文章を書く人というのは何かの専門家などの相応の地位の人が多く、もしくは多読家(勉強家)やMania(オタク)だったりするものだ((まれに内容が薄いくせに不思議と面白いものを書ける人もいる))。普段のInputからして常人とは比べられるものではなく、だからこそ質の高いOutputができるのだろう。その点においては自分など相手にならない。
また何かを書く(表現する)というからには、誰かしらにとって面白いものでなければいけない。そうでなければNoteなりTextFileなり(またはMixi)に書けばよく、Blogという形でInternet上にUploadする必要はない((といっても自分で意図したわけでもないのに、他人にとっては面白いこともあるので一概には言えないのだがここでは置いておく))。それでいてBlogをやっている人は多いが、面白いものを書くのははっきり言って難しいのではないだろうか。
そこで「自分に書ける(できる)ことってあるのか?」と思う部分もあるが、私にも趣味はあるしその時々で何かについて書きたくなることもある。また、Inputはかなわないとしても自分の中でそれをうまく増幅(変換)できれば、質の高いOutputもできるかもしれない((そっちの方が難しいという話もある…))。
いや、できるかどうかが問題なのではない。そもそもなぜBlogを書くのか。もちろん人によって理由は様々であろう。さて、私はどうなのか。特に「中身のある人間」でもない自分が、Blogで何をするというのだろうか。それは、今ちょうど出た言葉の逆である。「中身のある人間」になるためにBlogを書くのである。面白い記事を書けるようになるためにやるのである。そしてこれはBlogに限ったことではない。誰もが何かしら趣味を持っているだろうが、それができるからそれを始めたという人は少ないのではないだろうか。大体の場合、単に興味を持ったからである((なぜ興味を持ったかということはここでは問わない、重要なことではあるけれども))。
しかし、なにごとも目的はなくても目標を持って取り組むべきだ。私がBlogを書く理由。それは、質の高いOutputができるようになるためである。そして、「中身のある人間」になるためである((抽象的すぎるのでより具体的に考える必要があるが、まぁそれはBlogを書いていきながらでいい))。
Hatenaでそれがどこまでできるかはわからない。しかし、Hatenaはそれのために向いている環境なのではないだろうか。理由は人との繋がりを作りやすいからだ。「ソーシャルブックマーク」というInputの源があり、またBlogというOutputからも「トラックバック」という形で繋がりやすい。
今さら何を言ってるのかと思う人もいるだろう。Blogの意味について語られたことも無数にあるだろう。しかし、自分はHatenaを使うのもBlogを書くのも初めてである。そこは比べてもどうしようもない。
先輩の方々、これからどうぞよろしくお願いいたします。